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by hinaseno
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  荷風と柳北(その1)


荷風がいかに成島柳北という人を敬愛していたか。
例えば荷風の父親の墓は雑司ヶ谷の墓地(木山捷平が一時期その近くに住んでいて何度も散策していた場所ですね)にあるのですが、そこに成島柳北の墓があることを昭和2年に知り、それ以降、荷風は正月になると必ず雑司ヶ谷に行き、父親とともに柳北の墓に手を合わせています。書けば切りがないのですが、例えば昭和3年1月2日の『日乗』。

自動車を倩ひて雑司ヶ谷墓地に往き、先考の墓を拝して後柳北先生の墓前にも香華を手向け...


柳北の墓が雑司ヶ谷墓地にあることを知って荷風が始めてそこに行ったのは昭和2年1月2日のことですが、興味深いのはその前日の元日の日記。こんなことが書かれています。

燈下柳北の硯北日録蔓延元年の巻を写して深更に及べり


実は荷風は大正15年(12月から昭和元年)の暮れから昭和2年の1月にかけて柳北のいろんな日誌を、まさに写経のように筆写していました。このとき『航薇日記』を写したかどうかはわかりませんが、川本さんの『荷風と東京』によれば、丸谷才一は荷風の『断腸亭日乗』の文体は柳北の文体に倣っていると喝破したとのこと。柳北なくして『断腸亭日乗』はありえなかったんですね。

荷風が成島柳北の『航薇日記』を写したことが『断腸亭日乗』に書かれているのは、実は岡山にやってくる前年の昭和19年の暮れ。写したばかりだったんですね。残念ながら荷風が写したものは翌昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失してしまうのですが。

十一月十六日
成嶋柳北の航薇日誌を写す。この紀行は花月新誌に連載されしことあれど柳北当時の手澤本とを校合するに異同甚多し。もと今戸に住みたりし医師磐瀬氏の家には柳北が手澤本より筆写せし良本あり。過日この良本を借り得たればまた一部を写し置かむと思へるなり。


十一月廿一日
柳北の航薇日誌三巻を写し終りぬ。余が始てこの遊紀をよみしは明治三十年比岸上質軒の編輯せし柳北全集の出でし時なり。今その原本を筆写するに臨み新に感じたることは、全文にみなぎりし哀調しみじみと人の心を動かすものあり。又紀中に現来る人物奴僕婦女に至るまで温厚篤実なりしことなり。過去の日本人の情愛に富みたりし事はアルコツクの著書にも見えたる事なり。今日戦乱の世にあたりて偶然明治初年の人情を追想すればその変遷の甚しき唯驚くのほかはなし。明治以降日本人の悪るくなりし原因は、権謀に富みし薩長人の天下を取りし為なること、今更のやうに痛歎せらるゝなり


この時期、荷風は運良く『航薇日記』の原本から写した本を手に入れたんですね。これを写しているときに、まさかその8か月後にこの『航薇日記』の舞台となっている場所に来ることになるなんて夢想だにしなかったでしょう。
11月20日の『日乗』には荷風のこんな感想が書かれています。

全文にみなぎりし哀調しみじみと人の心を動かすものあり。又紀中に現来る人物奴僕婦女に至るまで温厚篤実なりしことなり。


荷風は、柳北が岡山の地で接した「温厚篤実」な人々に実際に触れることになったわけです。

ちなみに、『航薇日記』の「薇」は岡山の昔の地名である吉備、あるいは備前、備中。備後の「備」のことなのですが、柳北は「薇」の方を好んで使い、このあたりの別の地域名である「山陽」と合わせて「薇陽」と表現しています。荷風が『日乗』の中で岡山を「薇陽(ときどきは黄薇)」と表現しているのは柳北にならっているのですね。

このあたりのことは荷風が隅田川のことを「濹」という字を使って表現したことにもつながります。荷風の『濹東綺譚』の「作後贅言」にはこんなことが書かれています。

幕府瓦解の際、成島柳北が下谷泉橋通の賜邸を引払ひ、向島須崎村の別荘を家となしてから其詩文に多く濹の字が用い出された。それからあまねく濹字が再び汎く文人墨客の間に用いられるやうにんつたが、柳北の死後に至つて、いつともなく見馴れぬ字となった。

で、荷風はその字を借りて、隅田川の東の地域を「濹東」と表現したんですね。

荷風の『濹東綺譚』といえば、もう一つ印象的な場面があります。小説の冒頭で、主人公である「わたくし」が「土手下の裏町」で、ある古本屋に立ち寄ります。そこで古本屋の主人が「わたくし」にこう問いかけます。

「檀那、花月新誌はお持合せでいらっしゃいますか。」

これに対して「わたくし」は即座にこう答えます。

「持っています。」

「花月新誌」は成島柳北が創刊した雑誌。『航薇日記』はそこに5年間連載されていたんですね。「わたくし」に即座に「(花月新誌を)持っています」と答えさせていることで、「わたくし」が成島柳北のファンであることを示しているんですね。わかる人にはわかるでしょ、って感じでしょうか。
この冒頭の部分、あるいはその題名の「濹」の字のことを考えると、『濹東綺譚』は明らかに成島柳北に捧げられたものになっています。

その柳北と荷風が、二人だけのキーワードのように使った「薇陽」という岡山を表す言葉。個人的には心から大切にしたい言葉になりました。実は数年前、始めて『断腸亭日乗』のこの部分を読んだときには、この「薇陽」という言葉が岡山の地を表す言葉だなんて、全く気づきませんでした。

ちなみに成島柳北が『航薇日記』で最初に「薇陽」という言葉を使っているのは、なんと姫路から舟で岡山に入り、ちょうど牛窓の港に着いた日でした。「薇陽」という言葉は牛窓で生まれていたんです。

薇陽ハ風景播州よりも勝りたるところ多し

by hinaseno | 2013-04-08 11:43 | 文学 | Comments(0)