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by hinaseno
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  昭和20年7月の荷風(その13)


平松さんの果樹園(晴耕園)のある丘の麓に到着した荷風。三門の家からは2時間くらいかかったとのこと。朝10時過ぎに出発したとのことですから、着いたのは昼過ぎくらいですね。で、ここから丘に登ります。

こゝより羊腸たる石径を登ること三四丁。平松氏の家に達す。石径に沿ひ其果実を紙に包みし果樹林をなしたり。


くねくねとした石の道。石段とかがあったんでしょうか。歩いた道のりが「三四丁」ということなので数百メートル。おそらく丘の高さは数十メートルだったはず。でも、そこから荷風はこんな風景を眺めています。

階除の花壇に立つに渺茫たたる水田を隔てゝ左方に岡山の市街を望み、右方に児島湾口の連山、...


岡山市の市街が見えるのはわかります。それから児島湾口の連山、これはおそらく金甲山などの山でしょう。でも、びっくりするのはそのあと。

牛窓の人家を見る。


いくらなんでもこの場所から直線距離で30km以上ある、いくつもの山の陰に隠れているはずの牛窓の、しかも人家が見えるなんてちょっと考えられません。仮に1000メートルくらいの高さの山があっても無理なはず。荷風の行った日は秋のように爽やかに澄んだ青空が広がっていたにしても、その手前の西大寺のあたりを望むこともできなかったはず。
でも、荷風が僕の(そして川本三郎さんの)好きな町である牛窓のことを『断腸亭日乗』に書いていることが何よりもうれしかったです。荷風は牛窓という町のことを知っていたんですね。そして、荷風には牛窓が見えていたと思いたいですね。

それから荷風は平松さんから望遠鏡を借りてぼんやりとかすんだ小豆島を見ます。

園主旧式の遠目鏡を出し連山の彼方に烟の如く小豆嶋を見るべしとて、審に地理を説く。


その小豆島を見たとき(もしかしたら寒霞渓のことを平松さんから聞いたのかもしれません)、荷風はある人物のことを思い浮かべます。それはあとで。

さて、僕が辿り着いた妹尾の春辺山に、果たしてそのような風景が望める場所があるのか、で、できればそこには果樹を植えた畑があり、道は石段であれば間違いないのですが。

春辺山に登る道として教えられたのは、北の方から登って行く道でした。車でも通れそうでしたが歩いて登ることにしました。道は舗装されてはいましたが昔ながらの道。道の両脇には新しい家、古い家が混在していました。果樹を植えた畑もあちこちに見られました。晴れた日であれば本当に気持ちのいい丘。まさにその名前の通り、春のような野辺が拡がっていました。でも、遠くの風景が望めるような場所にはなかなか行きつきません。
とりあえず、ひたすら高い方を目指して登っていたら、驚いたことに山の頂上の手前で道がなくなってしまいました。目の前にあるのは家を建てるために削られた高さ5メートルくらいの崖。近くに登れそうな道も見当たらず、どうしようかと思いましたが、ここまで来て引き返すわけにもいかないので、その崖をよじ上りました。
  昭和20年7月の荷風(その13)_a0285828_14412888.jpgで、登った場所はちょっと広い平地になっていました。遠くを望めそうな場所も見えてきました。その平地を歩いていると何かを発掘したような跡が。で、そこにはこんな案内板が。この山は地元に人からは「稲荷山」と呼ばれているとのこと。そして山の上には妹尾太郎兼安という人が築いた洲浜城という城があったんですね。後で調べたら妹尾太郎兼安は平家とのつながりが深く、源平の合戦にも平氏側の武将として登場しているのですが、倶利伽羅峠の戦いで敗れて木曽義仲に捕らえられています。その倶利伽羅峠の戦いで平氏を率いていたのが平維盛、荷風の書いた戯曲の主人公ですね。僕が白石橋のたもとの古本屋さんでたまたま手にとった荷風全集に載っていたものでした。

さて、看板のある遺構のわきには道が2つありました。南に向かう道と東に向かう道。南に向かうとどこまで行くかわかりませんでしたので、車の置いてある方向である東の道に向かいました。するとその道は途中から石段となり、突然、こんな風景が開けました。
  昭和20年7月の荷風(その13)_a0285828_14415786.jpg

「左方に岡山の市街を望み、右方に児島湾口の連山」と荷風が書いているような風景。そばには果樹園もある。ここだって思いました。

でも、違ってたんですね。後で家に戻って確認したら荷風が行ったのは「妹尾」ではなく「妹尾崎」という場所。ここからは2kmほど北の場所にある丘でした(ここから見えた風景は荷風が見たものとほぼ同じだとは思います)。なんというミスをしてしまったんだろうと思ったのですが、あとでいろいろ調べてみて、これはあまりにも幸福な間違いでした。もし、7月のあの日、荷風がこの場所のことを誰かに聞いていたならば、あるいは荷風が書写したはず"あの本"を岡山まで持ってきてそれを読み直していたならば(実際にはそれは東京大空襲で偏奇館とともに焼失したのですが)、きっとこの場所まで足を延ばしたにちがいありませんでしたから。

その本とは、荷風が最も敬愛していた幕末の人物、成島柳北が著した『航薇日記』。
荷風は7月13日の日記にこう書いています。平松さんに望遠鏡を貸してもらい、遠くに小豆島を見たときのこと。

余小豆島の名を聞き成嶋柳北が明治二年にものせし航薇日記中の風景を想起して却て一段旅愁の切なるを覚えたり


でも、このとき、荷風は自分がいた妹尾崎の丘のわずか半里(2キロメートル)ほど南の所に成島柳北が滞在していたことを知る由もありませんでした。

旧幕臣である成島柳北は今から144年前(荷風がやってきたときの76年前ですね)の明治2年の秋に、この妹尾の地にやってきました。柳北が滞在した戸川成斎の陣屋があったのは、まさにこの丘のすぐ南の麓。丘の上の洲浜城はその戸川氏の城でもあったんですね。そのあたりの歴史的なことはこちらの方のブログをご覧下さい。で、柳北はもちろんこの丘に何度か登り、その周辺を歩いています。僕はそんな場所に行っていたんですね。

荷風も自分が敬愛する成島柳北が滞在していた地のすぐ近くまで行っていたことを、この2月後に、やはり運命的としか言いようのない形で知ることになります。でも、それらの話は「昭和20年7月の荷風」の物語からははずれてしまいますね。それについてはまた後日改めて。もしかしたらいきなり「明治2年10月、11月の柳北」というタイトルで始めるかもしれません。どれだけの人が興味を持ってくださるのか...。でも、荷風にとって運命的であったように、僕自身にとってもあまりにも運命的なことのように思えてならないことが続きました。

ところで先日示した7月13日のこの地図には、平松さんの果樹園のあった場所から、自分の歩いていない南に道を延ばして(でも赤い線が引かれています)「妹尾町」と書き、そのそばにこう記しています。

「柳北人生曽逝の地」

これはおそらく後でこのことを知って地図に書き足したんでしょう。もしかしたらそのときに彩色したのかもしれません。荷風の喜びが伝わってきます。
  昭和20年7月の荷風(その13)_a0285828_1453851.jpg

by hinaseno | 2013-04-07 14:57 | 文学 | Comments(0)