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by hinaseno
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  昭和20年7月の荷風(その10)


荷風が昭和20年7月13日に向かったのは岡山市の西の庭瀬という場所の近くに住む平松という人の家でした。この日の日記の最後に小さな字で(昨日の引用では括弧をつけた部分)その住所が記されています。
「備前国都窪郡福田村妹尾崎晴耕園」。
現在の岡山市南区妹尾崎。平松さんはここに果樹園をもっていたんですね。
果樹園の名前が「晴耕園」。晴耕雨読の「晴耕」です。
こんな時代にこんな田舎に住む一人の老人のおそらくは小さな果樹園にこんな名前が本当についていたのでしょうか。なんとなく僕は荷風が平松さんの暮らしぶりを見て、果樹園の名前をあとで勝手に作ったのではないかと思っています。

荷風がなぜ平松さんの家を訪ねたかは日記に書かれている通り。
平松さんは荷風が空襲を受けたときに滞在していたあの弓之町の松月を営んでいた人だったんですね。おそらくは荷風に松月を紹介した池田優子さんに平松さんが妹尾崎に住んでいることを聞いて、宿が焼けて払っていないままになっていた宿代を払いに行こうと思ったんですね。空襲で焼けてしまったことや、その後の混乱状態のことを考えれば、別にあえて支払いに行く必要はなかったような気もします。平松さんが、荷風の生存を知り、そんなに遠くない所に住んでいることを知って宿代を催促してきたようにも思えません。きっと、まるで秋のようにさわやかに晴れ渡った青空を見て、散策のついでに行ってみようと思いついたんだと思います。

考えてみると、荷風が父も当時住んでいた岡山市弓之町にあった松月に滞在することになったのはいろんな意味で運命的な気がします。きっかけはその前に泊まっていた岡山ホテル(名前は一流っぽいのですが)の「食膳あまりに粗悪」だっために、耐えられずに池田優子さんに相談して松月を紹介してもらったんですね。
その松月を営んでいた平松さんがたまたま妹尾崎に住んでいた。荷風も平松さんも空襲で命を落とすことがなかった。空襲後、荷風が住むようになった三門も平松さんの住んでいた場所からそんなに遠くはなかった。もちろん荷風は散策することが好きだった。いろんな条件が荷風を運命の場所に運んで行くことになります。

ところで、荷風はこの平松さんに歌(俳句)を捧げています。
荷風が平松さんの家を訪ねて行ってからひと月あまり後の8月20日に(この間に終戦を迎えています)平松さんが荷風の滞在していた家にやって来て荷風と会っています。この日の日記の最後にこんな言葉が添えられています。

  果樹園の主人平松氏に贈る
 桃つくる翁めでたき齢かな  荷風


妹尾崎に住んでいた平松さん、あるいはその子孫の方々は、荷風によってこんな歌が贈られていたことを果して知っているのでしょうか。
by hinaseno | 2013-04-03 10:51 | 文学 | Comments(0)