人気ブログランキング | 話題のタグを見る

Nearest Faraway Place nearestfar.exblog.jp

好きなリンク先を入れてください

Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

  昭和20年7月の荷風(その7)


今週一週間、荷風の話をここに書きつつ、心は大瀧詠一さんの「アメリカン・ポップス伝パート3」に奪われていました。それも昨夜で終わり。また、ポップス伝のことは改めて書いてみようと思いますが、今回の放送を聴きながら思ったのは、昨日引用した大瀧さんの言葉を使えば、大瀧さんによって完璧に「Google Map化」された1950年代から1960年代初頭にかけてのアメリカン・ポップスの世界に入り込んでいるような気にさせられたことでした。ある時代のある場所にピンポイントで降りて行っては、その細部を広げていき、これまで見れなかったようなつながりを明らかにしてくれています。どうやったらそこまで調べられるんだろうと驚くことばかり。知らない人、知らない曲だらけ(でも、ときどき、あっ、この曲は大瀧さんのあの曲のルーツになっているのでは、と思わせるものがいくつもありました)。僕なんかが単純に理解している歴史がいかに浅薄なものかを思い知らされます。で、それが一つの大きな物語となっていて、とにかく面白い。すごいとしか言いようがありません。この続きはおそらくは夏休みの時期になるんでしょうね。

さて、もう一つ、残念ながら今日、終わってしまったものがあります。毎週土曜日、朝日新聞beに連載されていた平川克美さんの「路地裏人生論」。
今日書かれたエッセイの言葉を使えば、平川さんは「田園調布の外れ、多摩川にほど近いところに」住んでいました。「路地裏人生論」は基本的には平川さん率いる隣町探偵団がその近辺を歩かれて目にしたもの、耳にしたものをもとにして書かれたものでした。新しいものが出てくることはほとんどなく、失われてしまった痕跡、あるいは失われずに今もなお残っているものを題材にしながら、過去を回想する文章が続いていたのではないかと思います。でも、今日の文章ではこんな言葉が書かれてありました。

爺が旧懐に耽っていると思われるかもしれないが、わたしの気持ちは遣る瀬ない抗議に近いものである。


今までずっとそれを読んでこられた人は、もしかしたらこの言葉を見てびっくりされたのかもしれませんが、僕はずっと平川さんのこの「遣る瀬ない抗議」の気持ちを受け取っていました。
平川さんの「路地裏人生論」は今日で終わりのようですが(また、復活するような気もします)、どうやら「隣町探偵団」の探偵報告は別のメディアでなされることが決まったようです。

さて、平川さん率いる隣町探偵団は現在、小津安二郎の「生まれてはみたけれど」の舞台になっている場所の探索をされています。そこはまさに平川さんにとって生まれ育った町、あるいはその隣町のようです。
その探索をされているときに、大瀧さんから平川さんに指令が入ります。『銀座二十四帖』について調べよ、と(もちろん、実際には『銀座二十四帖』の○○について調べてください、というものだったとは思いますが)。それがぽろっと漏れてきてました。そうか、大瀧さんは今、『銀座二十四帖』について研究を進められているんだなと。で、 『銀座二十四帖』は映画をまだ見ていないので、そういうときには必ず読む川本さんの『銀幕の東京』を開きました。『銀幕の東京』は見た映画のところは何度か読んでいますが、『銀座二十四帖』の章は以前さらっと読んだだけでした。
で、今回じっくり読んでみたらこんな記述が。

映画は服部時計店の時計台のアップから始まる。この時代、銀座といえば四丁目交差点の服部の時計台(昭和7年完成)である。これを大写ししてから始まる映画は、成瀬巳喜男監督の『銀座化粧』(昭和26年)や...(中略)。
銀座といえば、”服部の時計台”である。震災後の昭和7年6月に竣工。設計は横浜のニューグランドホテル(昭和2年)や、戦後GHQの最高司令本部が置かれたお堀端の第一生命保険相互会社ビル(昭和13年)を手がけた渡辺仁。岡山産の白色の万成石を使った近代ルネッサンス様式。時計台と、交差点に面してゆるやかにカーヴした曲線が柔らかい印象を与えた。戦災には焼け残ったため、現在もなお健在で、銀座の美しいランドマークになっている。


僕はほぼ毎日のように荷風が過ごしていたあたりの地図を眺めていましたから、「岡山」「万成」を見たときに、ピピッとつながったんですね。本当にびっくりしました。
もちろん大瀧さんが平川さんに調べて欲しいと依頼されたことというのは、隣町探偵団の探索範囲の中にあるもののことだったと思いますが、まるで大瀧さんが僕に気づけないでいたものに、気づくようにメッセージを送ってくれたのではないかと思いました(勝手なファン心理です)。

それにしても、大瀧さんが研究されている『銀座化粧』と『銀座二十四帖』の二つの映画に共通して最初に映される建物である服部時計店が岡山の石で作られていたなんて、本当にうれしくなってしまいます。

それからもう一つ思ったのは、川本さんの服部時計店の説明がかなり詳しいことでした。設計者の名前、万成石という名前、さらにはそれが岡山産であること。どうやら川本さんは、東京の中でこの建物がいちばんお好きらしいようです。ということなのでいろいろ調べられたみたいですね。

昨年出た川本さんの『いまむかし 東京町歩き』にも、やはりこの服部時計店の建物(現在は和光)が取りあげられています。こんな書き出し。

銀座4丁目の交差点に建つ七階建ての和光(昔の服部時計店)の建物は本当に素晴らしい。
屋上の時計塔、ゆるやかな弧を描く正面の曲面、天然石(万成石という御影石の一種)を使った外観。
ショウウインドウのディスプレイもきれいだし、デパートによく見られる広告幕を垂らしていないのも品がいい。銀座での待ち合わせの場所は「和光の前」にしている。


ちなみに川本さんも書かれていますが、小津安二郎の日記の中にも服部時計店のことがいくつか出てきます。そしてもちろん小津の映画にも。『晩春』そして『お茶漬の味』。また、見直してみようと思います。

  昭和20年7月の荷風(その7)_a0285828_10401814.jpgところで、服部時計店の設計者である渡辺仁について少し調べたら、天満屋岡山店も設計していることがわかりました。服部時計店も東京空襲で奇跡的に焼け残った建物のようですが、天満屋岡山店も荷風が経験した岡山空襲で焼け残っているんですね。この焼け残った天満屋の写真は岡山人的には有名なものだと思います。渡辺仁、すごいですね。ちなみに僕の子供の頃の最高の休日は「天満屋に連れて行ってもらう」ことでした。週1回しかない休みをゆっくりしたがっている父親に「天満屋に連れて行って」と、何度駄々をこねたことか。

さて、話は荷風に。
荷風は、服部時計店の建物が、昭和20年7月18日に目にした石材でできているなんて終生知ることはなかったと思いますが、その5日前の7月13日にたまたま行った場所が、荷風にとってびっくりするようなつながりを持った場所であったことを岡山を去った後に発見することになります。その発見によって、荷風にとって岡山は心から大切に思う土地になったに違いありません。
by hinaseno | 2013-03-30 10:41 | 文学 | Comments(0)