荷風が間借りして住んでいた三門の家のすぐ裏の小高い山の上にあったのが妙林寺。法華宗のお寺りっぱな仁王門のある、かなり大きなお寺です。そしてそのお寺の背後の山には墓地が広がっています。荷風は三門に移り住んでから、ここを何度も散策しています。
昨日引用した7月9日の日記の続き。
それから7月18日の日記。
8月12日の日記。
8月19日の日記。
ただ散策しただけでなく、墓地に生えている樹の影で昼寝までしています。
さて、その妙林寺、川本三郎さんも当然訪れています。
この川本さんの文章にも出てくる荷風の描いたスケッチ、これが先日触れた『断腸亭日乗』の昭和20年7月19日の絵ですね。本物の絵を見ると、うっすらと彩色されているのがわかります。ただ、この『新潮日本文学アルバム 永井荷風』に載っている方はちょっと画像が小さいので、僕の持っている1981年版『断腸亭日乗』の画像も貼っておきます(残念ながら白黒)。ちなみに僕は2002年版『断腸亭日乗』も持っているのですが、それに掲載された絵はおそらく1981年版のコピーなので、うっすらと彩色された部分はとんでしまって、単なる線画のようになっています。
さて、そのスケッチ。右下に「岡山 三門町 後丘眺望」と書かれています。絵の中にもいくつか文字が書かれています。「妙林寺」「三門町」「児島湾」「水田」「用水」「畠」。
川本さんは「同じ場所に立っ」た、と書かれてありますが、 この絵を手にしていろいろ辺りを歩いたのですが、正直この場所、というところを見つけることができませんでした。川本さんがここに来られてからも10年以上が立っていて、おそらくその間、背後の山の部分まで新しい墓地がたくさんできていて、おそらくは景観が変わっているように思いました。
ただ、この浄書された『日乗』に描かれたスケッチ。おそらくは荷風が持っていたというメモ帳にさらさらと描いたスケッチをもとにして、かなりあとになって描き直したはず。風景を見ながら丁寧に描いたものではありません。記憶をもとにしていくつか描き足したりした可能性もあります。特に 妙林寺の右横にある「用水」は、かなり違う辺りに流れています。たぶん、「ここ」という場所はないように思いました。ただ、最初にメモ帳にスケッチしたのはおそらくこの辺りではないかと思っています。荷風のスケッチでは大きく描かれている遠くに見える山は、実際にはかなり小さく見えます。
荷風のスケッチで、ずっと気になっていたのは妙林寺のそばに整然と立ち並んだものでした。最初は「墓」かなとは思ったのですが、細長すぎるし、整然と並びすぎています。で、行って見てわかりました。高さ1mくらいの石柱だったんですね。おそらくその後新しい墓地を作るために道の部分が整備されてこの石柱も取り除かれたように思いますが、昔の道がそのまま残っているところにはこの石柱がきれいに並んで残っていました。そしてその近くには大きな木も。
荷風はもしかしたらこの辺りで昼寝をしたのかもしれません。
ところで、この石柱、おそらくは御影石(花崗岩)。実はこの付近は有名な御影石の産地だったんですね。これについて、とても面白いことがわかりました。それはまた後日。
昨日引用した7月9日の日記の続き。
墓石の間を歩みて山の山頂に至れば眼下に岡山の全市を眺むべし。去月二十八日夜半に焼かれたる市街の跡は立続く民家の屋根に隠れ今は東方に聳ゆる連山の青きを見るのみ。墓地より小径を下ればわが寓居の裏手に出る道路なり。
それから7月18日の日記。
日暮妙林寺後丘の墓地を繞る山径を徜徉す。
8月12日の日記。
晩間裏山に登り見るに妙林寺林間の墓地に線香のたなびき草花携えて往来する村人多し、
8月19日の日記。
午後寓居の裏庭より松林の間の小径を登り妙林寺の墓地に入り樹陰に午睡す、
ただ散策しただけでなく、墓地に生えている樹の影で昼寝までしています。
さて、その妙林寺、川本三郎さんも当然訪れています。
まず山腹にある妙林寺という日蓮宗の古刹に行ってみる。『断腸亭日乗』を読むと荷風は三門に移ったあと、折りを見てこのお寺を歩き、墓地からの眺めをスケッチしている。その同じ場所に立って岡山市のほうを見ると、岡山駅がすぐ近くに見える。空襲のあと、この静かな寺を歩くことで荷風は旅愁を慰めたのだろう。
この川本さんの文章にも出てくる荷風の描いたスケッチ、これが先日触れた『断腸亭日乗』の昭和20年7月19日の絵ですね。本物の絵を見ると、うっすらと彩色されているのがわかります。ただ、この『新潮日本文学アルバム 永井荷風』に載っている方はちょっと画像が小さいので、僕の持っている1981年版『断腸亭日乗』の画像も貼っておきます(残念ながら白黒)。ちなみに僕は2002年版『断腸亭日乗』も持っているのですが、それに掲載された絵はおそらく1981年版のコピーなので、うっすらと彩色された部分はとんでしまって、単なる線画のようになっています。
さて、そのスケッチ。右下に「岡山 三門町 後丘眺望」と書かれています。絵の中にもいくつか文字が書かれています。「妙林寺」「三門町」「児島湾」「水田」「用水」「畠」。
川本さんは「同じ場所に立っ」た、と書かれてありますが、 この絵を手にしていろいろ辺りを歩いたのですが、正直この場所、というところを見つけることができませんでした。川本さんがここに来られてからも10年以上が立っていて、おそらくその間、背後の山の部分まで新しい墓地がたくさんできていて、おそらくは景観が変わっているように思いました。
ただ、この浄書された『日乗』に描かれたスケッチ。おそらくは荷風が持っていたというメモ帳にさらさらと描いたスケッチをもとにして、かなりあとになって描き直したはず。風景を見ながら丁寧に描いたものではありません。記憶をもとにしていくつか描き足したりした可能性もあります。特に 妙林寺の右横にある「用水」は、かなり違う辺りに流れています。たぶん、「ここ」という場所はないように思いました。ただ、最初にメモ帳にスケッチしたのはおそらくこの辺りではないかと思っています。荷風のスケッチでは大きく描かれている遠くに見える山は、実際にはかなり小さく見えます。
荷風のスケッチで、ずっと気になっていたのは妙林寺のそばに整然と立ち並んだものでした。最初は「墓」かなとは思ったのですが、細長すぎるし、整然と並びすぎています。で、行って見てわかりました。高さ1mくらいの石柱だったんですね。おそらくその後新しい墓地を作るために道の部分が整備されてこの石柱も取り除かれたように思いますが、昔の道がそのまま残っているところにはこの石柱がきれいに並んで残っていました。そしてその近くには大きな木も。
荷風はもしかしたらこの辺りで昼寝をしたのかもしれません。
ところで、この石柱、おそらくは御影石(花崗岩)。実はこの付近は有名な御影石の産地だったんですね。これについて、とても面白いことがわかりました。それはまた後日。