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by hinaseno
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  昭和20年7月の荷風(その3)


普通の人の家に間借りしているとなると、かりに相応の間借り料を支払っていたにしても、その家、あるいはその地域の手伝い(空襲直後だったので、いろんな意味で大変な状況だったはず)などをせずにはいられないようには思うのですが、『日乗』を読む限り、荷風にそのような姿を見ることができません。そればかりか、命からがら三門に避難してきて数日後には荷風なりの日常を取り戻します。近所の散策ですね(こんなことをしてると、「変わった人」と思われても仕方ないですね)。そして、それにはうってつけの場所が近くにありました。墓地とお寺。

荷風は若いころから墓、そして墓のあるお寺を訪ね歩く習慣を持っていました。これに関しては川本三郎さんの『荷風と東京』で「探墓の興―墓地を歩く」という一章をもうけて、詳しく説明されています。あるいは『荷風と東京』以後に書かれた「荷風の愛した寺」(『きのふの東京 けふの東京』所収)という文章でも、荷風の寺好きについて書かれています。こんな書き出し。

荷風は寺を歩くことを好んだ。
荷風の身近にはつねに寺があった。(中略)荷風の生活のなかには寺が最も大事なものとしてあった。


そして最後の方にはこんな言葉もあります。

寺は荒廃しているからこそ美しい。いうまでもなく明治になっての廃仏毀釈によって寺は荒廃した。
だからこそ荷風は寺を歩いた。薩長権力による性急な近代化に世捨人として背を向けようとする荷風にとっては、古い江戸文化の名残りを感じさせる寺こそが大事な場所だった。寺は近代文明に対する抵抗の拠りどころだった。
現在を忘れさせてくれる場所としての寺。良き過去とつながる場所としての寺。実利主義の明治に対し、江戸という「閒事業」がありえた時代を思わせてくれる場所としての寺。


ここに「閒事業」という言葉が出てきます(「閒」は内田百閒の「閒」ですね)。荷風の『礫川徜徉記』という随筆の中で使われている言葉です。こんな文章。

掃墓の閒事業は江戸風雅の遺習なり。英米の如き実業功利の国にこの趣味存せず。


川本さんは「閒事業」という言葉についてこう説明されています。

「閒事業」、つまり、およそ「実業功利」とは縁のない閑人のすること。


僕は百閒の「閒」が使われていることを含めて、この「閒事業」というおそらく辞書にも載っていないはずの言葉を気に入ってしまいました。考えてみると、このブログを書くこと、あるいは書いている中身もまさに「閒事業」そのものですね。だれの、何の役にも立ちません。

ところで『礫川徜徉記』はこんな書き出しになっています。荷風がなぜ寺や墓を訪ね歩くのが好きなのかがよくわかります。ちなみに書かれたのは大正13年、荷風46歳のとき。

何事にも倦果(あきは)てたりしわが身の、なほ折節にいささかの興を催すことあるは、町中の寺を過る折からふと思出でて、その庭に入り、古墳の苔を掃つて、見ざりし世の人を憶ふ時なり。
見ざりし世の人をその墳墓に訪ふは、生ける人をその家に訪ふとは異りて、寒暄(かんけん)の辞を陳るにも及ばず、手土産たづさへ行くわづらひもなし。此方より訪はまく思立つ時にのみ訪ひ行き、わが心のままなる思に耽りて、去りたき時に立去るも強て袖引きとどめらるる虞(おそれ)なく、幾年月打捨てて顧ざることあるも、軽薄不実の譏(そしり)を受けむ心づかひもなし。雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思ひ、風静なる日その墳墓をたづねて更にその為人を憶ふ。この心何事にも喩へがたし。


さて、昭和20年7月の荷風。7月3日に三門の武南さんの家に移り住むようになって、その6日後に近所を散策し始めます。『断腸亭日乗』の7月9日の日記。

午後寓居の後丘に登る。一古刹あり。山門古雅。また仁王門ありて大乗山といふ額をかゝぐ。老松多し。本堂の軒にかけたる額を仰ぐに妙林寺とあり。

  昭和20年7月の荷風(その3)_a0285828_1001833.jpg
by hinaseno | 2013-03-26 10:00 | 文学 | Comments(0)