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by hinaseno
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  昭和20年7月の荷風(その2)


武南さんの家を外から眺めてすぐにわかったのは、本に載っていた写真で見ていた荷風が暮らしていた部分がなくなっていて、新しい建物が増築されていたことでした。『新潮日本文学アルバム 永井荷風』(1985年)のこのページの左上の写真の、左のほうにせり出した形になっている二階の部分に荷風は暮らしていました。ちなみにその横がその部屋の中の写真。
  昭和20年7月の荷風(その2)_a0285828_10354263.jpg


さて、家の外から何の了解も得ないで勝手に写真を撮るだけにするのもどうかと思い、かといって突然訪ねるのも失礼な気もして、しばらく家の前に佇んでいました。でも結局、訪いを入れることに。するとすぐに女性が出てきました。で、川本さんにならって「実は永井荷風の研究をしておりまして」と告げると、川本さんのときと同様に、その女性は急に笑顔になりました。
でも、その女性は川本さんが14年前に訪ねられたときに対応された”老婦人”ではないことはすぐにわかりました。

昨日引用した川本さんの『旅先でビール』の、「どうぞお上がりなさい」ということばの続きを引用します。

思わずこちらも笑顔になる。79歳になるその武南登喜子さんは、いまでもよく荷風のことは憶えているという。二階の一部屋を貸した、裏山からたき木を拾ってきて七輪で米を炊いていた、人付き合いの悪い変わりものだった。そのころはそんな偉い方だと知らなかったんですよ、ただ変わった方だなあって。
家は当時のまま。大正はじめの建物だという。なんだかいまにも二階から荷風が降りてきそうだ。突然の訪問にもかかわらず快く応対してくれた武南さんに感謝して夕暮れの迫ってきた町に出た。

川本さんが訪問されたときに対応された武南登喜子さんは、現在は93歳で、今もご存命とのことでしたが、残念ながら立ち歩いたり、人と話したりすることは出来ない状態とのことでした。僕が伺ったときに対応していただいた方は登喜子さんの息子さんの奥さんでした。それでも突然の訪問にもかかわらず快く応対していただき、途中で息子さんにあたるご主人も帰宅されて、お二人からいろんな話を聞かせていただくことができました。写真も快く撮らせていただきました。母屋の部分は昔のままです。
  昭和20年7月の荷風(その2)_a0285828_10362681.jpg
荷風が七輪を使って米などを炊いていたのは、母屋の向こう側にある裏庭。「お見せしてもいいですよ」とのことでしたが、ちょっとずうずうしい気がして結局やめておいたのですが、あとで、やっぱり見ておけばよかったと少し後悔。
荷風がその庭で過ごした風景を少し引用しておきます。『断腸亭日乗』昭和20年8月2日の日記。ブログのタイトルは「7月の荷風」なのですが、まあいいですね。荷風は実際には8月の末までは岡山に滞在していました。

日輪裏山の薮陰より登らざる中、蚊帳を出で井戸端に行き口そゝぎ顔洗ひ米どき、裏庭に置きし焜炉に枯枝を焚きて炊事をなす、去年麻布の家にても夏より初冬の頃まで裏庭に出であたりに咲く花をながめ飯かしぐ事を楽しみぬ、今年は思ひもあけぬ土地に来り見知らぬ人の情にすがり其人の畠に植ゑし蔬菜をめぐまれて命をつなぐ、人間の運命ほど図り知るべからざるはなし、(中略)晡下井戸の水にて冷水磨擦をなす、感冒予防のためなり


七輪でご飯を炊いたりするのは、前年の夏に偏奇館にいたころからやっていたんですね。

さて、武南さんから聞いた最も興味深かった話。お母さんである登喜子さんから聞いた話ですね。登喜子さんが、突然家にやって来た変な老人だと思っていた荷風が、もしかしたら偉い人かもしれないと思った出来事。

ある日、風呂を沸かすために薪を燃やしていた登喜子さんのところに荷風がこれもいっしょに燃やしておいて、と言って一通の封筒を差し出します。荷風はそのまますぐに立ち去ります。で、登喜子さんは言われた通り、その封筒を燃やそうとしますが、見るとその封筒の宛名のところには「永井荷風先生」と書かれてある。当時どうやら登喜子さんも含めて武南さん家族は永井荷風という名前は知らなかったみたいですが、「先生」という言葉に目が留まったようです。で、手紙の差出人の名前を見ると谷崎潤一郎。谷崎潤一郎という名を登喜子さんがご存知だったかどうかはわかりませんが、いずれにしても登喜子さんは、この人はもしかしたらとても偉い人かもしれないと思い、それを燃やさずにとっておくことにしておいたということでした。

この話を武南さんご夫婦からうかがって、その手紙、どこかで見た記憶があるなと思ったのですが、それが最初に貼った『新潮日本文学アルバム 永井荷風』の、武南さんの家の下に写っている手紙ですね。おそらく、この本を出すときに武南さんの家に取材に見えられた人に登喜子さんがお見せしたんだと思います。
この7月21日に書かれた手紙の内容は読み取れない部分も多いのですが、どうやらこの頃同じ岡山の勝山にいた谷崎が荷風にいろんなものを送って、岡山駅に預けてあるとのことのようです。『日乗』を見ると7月27日の日記のこんな記述が。

午前岡山繹に赴き谷崎君勝山より送られし小包を受取る、帰り来りて開き見るに、鋏、小刀、朱肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、其他あり、感涙禁じがたし


この荷物を受け取ったので手紙はいらなくなったということなんでしょうね。初めはもらった手紙を燃やすというのはちょっとどうかと思ったのですが、この岡山に滞在していた時期の荷風の『日乗』を読むと、荷風のもとには次から次に手紙が届いています。全部をとっておくわけにはいかなかったんでしょう。

さて、武南さんご夫婦のお話をおうかがいしつつ、あっ、それは『日乗』のここに書いてあります、なんて答えていたのですが、実は武南さんは荷風の『断腸亭日乗』をお持ちでもなければ、読まれたこともないとのこと。ちょっと笑ってしまいました。僕が持参していた『日乗』や川本さんの『旅先でビール』をお見せしたら、へえ〜って感じでご覧になっていました。

そういえば今、気がついたのですが、先程引用した『日乗』の7月27日の日記の最後にはこんな言葉が。

「晩間理髪」

自分でしたということでなければ、もしかしたら、川本さんが武南さんの家を尋ねられた「古い理髪店」で散髪したのかもしれません。荷風の髪を切ったのが川本さんが尋ねられた人という可能性は少ないにしても、その息子さんだったかもしれません。

次回は荷風が何度も足を運んだ、武南さんの家の近くにある妙林寺のことを。
by hinaseno | 2013-03-24 10:39 | 文学 | Comments(0)