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by hinaseno
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  昭和20年7月の荷風(その1)


ひと月ほど前に、昭和20年7月の荷風の日々を描いた「旭東綺譚」という文章を書きました。もちろんそれはあくまで空想の物語。荷風の『放水路』という随筆の中の言葉を使えば、「自分から造出す果敢い空想に身を打沈めた」ものでした。でも、本当の荷風の7月から8月の終戦を迎えるまでの日々のことに触れておかなければなりません。荷風は6月29日の未明に岡山の弓之町で空襲を受けた後も、終戦を迎えるまで岡山に住んでいました。住んでいたのは市内の西のはずれ。

6月29日の夜2時過ぎに空襲が始まり、岡山市の弓之町に住んでいた荷風は旭川沿いの土手を北に走り、山陽本線の鉄橋近くにの河原まで逃げてどうにか助かった荷風は、おそらく滞在していた松月という旅館が焼失していることを確認して、岡山に来たときに世話になった市内の下伊福の池田さんの家を目指します。6月11日に岡山にやって来て、その2日後の6月13日に一度だけ下伊福の池田さんの家を訪ねているのですが、全く見知らぬ町の、しかも荷風の住んでいた所からは3kmくらい離れている場所に行くことができるのですから、荷風の頭の中のマッピング能力がいかに優れたものであるかがわかります。目印はおそらく岡山市の北西部にある京山という小高い山だったと思います。

6月29日はずっと雨が降り続いていたようですが、荷風はどうにか下伊福の池田家に辿り着きますが、そこも焼かれていることを目にします。おそらく荷風は途方に暮れたはず。でも運良く、近くの、畑が広がっている山間の家に避難していた池田さん一家に出会うことができます。

で、翌日荷風はその近くの三門(みかど)の佐々木さんという方の家に間借りします。さらにその3日後の7月3日に、同じ三門の武南(たけなみ)さんという方の家に移り住み、終戦を迎えるまで、ほぼひと月半、この武南さんの家に滞在します。

というわけで、この武南さんの家に伺ってみることにしました。満を持して、ですね。目印はやはり京山、そしてその近くにある妙林寺というお寺。妙林寺は、たぶん大学時代に一度だけ行った記憶があります。
武南さんの家は本に写真も載っていて、家の形もだいたい覚えていたのですぐに見つかるだろうと思っていたのですが、思った以上に家も多くなかなかそれらしき家が見つかりませんでした。実はネット上を調べれば武南さんの家はピンポイントでわかるのですが、そういうのは全然面白くないので、あくまで自分の目と足で探すことに決めていました。

実はこの武南さんの家、今から14年前の1999年に川本三郎さんが訪ねられています(『旅先でビール』所収)。川本さんは荷風が避難した旭川にかかるの山陽本線の鉄橋下にも行かれているんですね。そこから弓之町に行かれて、それから三門まで歩かれています。おそらくは昭和20年の6月29日に荷風が歩いたであろう場所を辿られているんですね。弓之町から三門までは小一時間だったとのこと。かなりの健脚です。

僕にとって川本さんは、先日引用した「ゴー!ゴー!ナイアガラ」での大瀧さんの言葉を使えば、「不連続」として存在していたものをつなげてくれるかけがえのない人。荷風が暮らしていた場所、荷風が歩いていた場所を辿るのもうれしいことですが、さらにその同じ場所を川本さんが歩かれているのを確認しながら辿るのは、何ものにも代えがたい悦びを感じてしまいます。『早春』の「三石」がそうであったように。

さて、三門にやって来た川本さんはまず妙林寺に行き、それから武南さんの家に向かいます。ちょっと引用します。

寺の近くを歩くと古い町並みが残っている。このあたりも戦災にあわなかったらしい。もしやと思って、荷風が部屋を借りた家を探してみる。武南という珍しい名前だからもしいまもあればわかるかもしれない。古い理髪店の主人に聞いてみると、武南さんの家はすぐそこの路地の奥だという。
いわれたとおり角を曲がると隠れ里のように戦前からの家が並ぶ一画があり、そこに板塀で囲まれた大きな二階家があった。表札に「武南」とある。いきなり訪れるのは失礼かと思ったが、こういう機会はめったにない。訪(おとな)いを入れると老婦人が出てくる。実は永井荷風の研究をしておりまして、といっただけでその女性は急に笑顔になる、ときどきそういう方がお見えになるんですよ、ええ荷風先生は家にいらしたんです、どうぞお上がりなさい。


いい場面ですね。「訪い」という言葉にも思わず微笑んでしまいます。
とりあえず、僕は川本さんが武南さんの家の場所を尋ねられた「古い理髪店」を探したのですが、見当たりません。よわったなと思ったら、ちょうど郵便配達の人が自転車で通りがかったので聞いてみました。一瞬考えられて、そこの路地を入ってすぐです、と教えられました。そこは歩いていなかった路地でした。川本さんが書かれているように、路地には昔ながらの家が並んでいます。新しい家やアパートも建っていはいるのですが、「隠れ里」という雰囲気は今も残っていました。
で、その路地に入って100m足らずの場所に「武南」と書かれた表札のある家を見つけました。
by hinaseno | 2013-03-23 11:10 | 文学 | Comments(0)