もしあの日、岡山に空襲がなければ、あるいはもう何日か空襲があとになっていれば、荷風はあの百間川の土手に行っていたかもしれない。
でも、この「もし」は、場合によっては荷風や僕の父に(つまりは僕自身に)全く違う運命をもたらすことになったかもしれない「もし」でもあるのですが。
昨日の話に少しだけ戻ります。
百間が阿房列車を書いた旅をした昭和26年には西大寺鉄道はまだ通っていました。西大寺から旭川の東岸の後楽園駅(現在、その場所は夢二記念館になっているとのこと)まで。ですから百閒が山系君といっしょに山陽本線で百間川を渡っていたときに、その南方1.5kmくらいの場所を西大寺鉄道の車両が百間川の中をトボトボと走っていたかもしれません。ただ百閒はそのときちょっと違う場所をずっと見つめていたのですが。
今、西大寺鉄道は百間川の中を走っていたと書きました。そうなんです。山陽本線のように百間川の上に鉄橋をつくってそこを走っていたんではないんですね。線路は水のない百間川の中に引かれていてそこを走っていたんです。こんな感じに。これも西大寺鉄道をとらえたものでは大好きな写真です(背後の山の連なりは、昨日貼った一條さんの絵とほぼ同じです。一條さんはきっとあの辺りの場所行かれたか、だれかが行って撮ってきた写真をもとにして、あの絵を描いたんでしょうね)。
土手にはこのような場所があったんですね。陸閘(りっこう)というそうです。増水時にはここの両側の溝に板をはめこんだようです。もちろんそうなるとこの区間は西大寺鉄道はストップすることになったんでしょうね。
さて、岡山での荷風の日々。
昨日書いたように荷風が岡山市に到着したのは昭和20年6月11日の正午。その日は市内の知人の家に泊まり13日にはやはり市内の岡山ホテルに泊まります。13日は近くの銀行に行ってお金を引き出したりしています。14日はほぼ一日ホテルに滞在。15日には知人を頼りに借家借間を探したけれども見つからず、結局岡山ホテルにとどまることに。この日は午前中空襲警報が鳴っています。
戦時中で、いつ空襲が始まるかわからない日々の中でも、さすがにホテルの中でじっとしているのは荷風にとって耐えられなかったようで、翌6月16日から荷風はホテル近くを歩き始めます。後でいろいろ考えてみると、この日はあまりにも多くの偶然が重なる一日になっています。そのことはまた改めて書いてみたいと思います。まず、駅近くまでいってそこにたくさんいた靴直しに靴を直させています。それから古本屋に立ち寄って菊池三渓の『虞初新誌』という漢文の本を買っています。で、その日、知人のすすめで弓之町の松月という旅館に宿替えします。弓之町はまさに僕の父が家族と住んでいた場所です。父は荷風と目と鼻の先に暮らしていたんです。数年前にこのことを知って、それまでは川本さんの本で知ってはいても特に関心をもつことのなかった荷風が一気に自分にとって身近な存在になりました。
さて、とりあえずは弓之町の松月という旅館に腰を落ち着けることができた荷風は、翌6月17日から市内のあちこちを散歩し始めます。基本的には旭川周辺。もちろんそのほとりには空襲で焼ける前の岡山城がそびえ立っていて、岡山城のことは荷風の日記に何度も出てきます。
で、その次の6月18日。昼食後、ひとりで市内の散策をします。やはり昨日歩いた旭川周辺。昨日よりはもう少し足をのばします。この日の日記を引用します。
なんと荷風は西大寺鉄道の発着駅である後楽園駅に来ていたんですね。この一文を見つけたときは、ちょっと体が震えました。
これは昭和30年代の西大寺鉄道の後楽園駅を写したものです。手前に欄干が見えている橋はまちがいなく蓬莱橋。
でも、この「もし」は、場合によっては荷風や僕の父に(つまりは僕自身に)全く違う運命をもたらすことになったかもしれない「もし」でもあるのですが。
昨日の話に少しだけ戻ります。
百間が阿房列車を書いた旅をした昭和26年には西大寺鉄道はまだ通っていました。西大寺から旭川の東岸の後楽園駅(現在、その場所は夢二記念館になっているとのこと)まで。ですから百閒が山系君といっしょに山陽本線で百間川を渡っていたときに、その南方1.5kmくらいの場所を西大寺鉄道の車両が百間川の中をトボトボと走っていたかもしれません。ただ百閒はそのときちょっと違う場所をずっと見つめていたのですが。
今、西大寺鉄道は百間川の中を走っていたと書きました。そうなんです。山陽本線のように百間川の上に鉄橋をつくってそこを走っていたんではないんですね。線路は水のない百間川の中に引かれていてそこを走っていたんです。こんな感じに。これも西大寺鉄道をとらえたものでは大好きな写真です(背後の山の連なりは、昨日貼った一條さんの絵とほぼ同じです。一條さんはきっとあの辺りの場所行かれたか、だれかが行って撮ってきた写真をもとにして、あの絵を描いたんでしょうね)。
土手にはこのような場所があったんですね。陸閘(りっこう)というそうです。増水時にはここの両側の溝に板をはめこんだようです。もちろんそうなるとこの区間は西大寺鉄道はストップすることになったんでしょうね。
さて、岡山での荷風の日々。
昨日書いたように荷風が岡山市に到着したのは昭和20年6月11日の正午。その日は市内の知人の家に泊まり13日にはやはり市内の岡山ホテルに泊まります。13日は近くの銀行に行ってお金を引き出したりしています。14日はほぼ一日ホテルに滞在。15日には知人を頼りに借家借間を探したけれども見つからず、結局岡山ホテルにとどまることに。この日は午前中空襲警報が鳴っています。
戦時中で、いつ空襲が始まるかわからない日々の中でも、さすがにホテルの中でじっとしているのは荷風にとって耐えられなかったようで、翌6月16日から荷風はホテル近くを歩き始めます。後でいろいろ考えてみると、この日はあまりにも多くの偶然が重なる一日になっています。そのことはまた改めて書いてみたいと思います。まず、駅近くまでいってそこにたくさんいた靴直しに靴を直させています。それから古本屋に立ち寄って菊池三渓の『虞初新誌』という漢文の本を買っています。で、その日、知人のすすめで弓之町の松月という旅館に宿替えします。弓之町はまさに僕の父が家族と住んでいた場所です。父は荷風と目と鼻の先に暮らしていたんです。数年前にこのことを知って、それまでは川本さんの本で知ってはいても特に関心をもつことのなかった荷風が一気に自分にとって身近な存在になりました。
さて、とりあえずは弓之町の松月という旅館に腰を落ち着けることができた荷風は、翌6月17日から市内のあちこちを散歩し始めます。基本的には旭川周辺。もちろんそのほとりには空襲で焼ける前の岡山城がそびえ立っていて、岡山城のことは荷風の日記に何度も出てきます。
で、その次の6月18日。昼食後、ひとりで市内の散策をします。やはり昨日歩いた旭川周辺。昨日よりはもう少し足をのばします。この日の日記を引用します。
独昼飯を喫して後昨朝散策せしあたりを歩む、県庁裁判所などの立てる坂道を登り行くにおのづから後楽園外の橋に出づ、道の両端に備前焼の陶器を並べたる店舗軒を連ねたり、されど店内人なく半ば戸を閉したり、橋を渡れば公園の入口なり、別に亦一小橋あり、蓬莱橋の名を掲ぐ、郊外西大寺に到る汽車の発着所あり
なんと荷風は西大寺鉄道の発着駅である後楽園駅に来ていたんですね。この一文を見つけたときは、ちょっと体が震えました。
これは昭和30年代の西大寺鉄道の後楽園駅を写したものです。手前に欄干が見えている橋はまちがいなく蓬莱橋。