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by hinaseno
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  ゆかりの百間土手を今この汽車が横切るのだから


 百間川の土手で想い描いた、はかない空想というのは、もしかしたら荷風がこの場所にやって来たかもしれないという、僕にとってあまりにも甘美なものでした。実際にはそこに来ていないことは知っています。でも、来ていないのがわかっていながら、荷風がその場所を発見するという、過去と現在と未来と、そして事実をひっくりかえしてしまうような空想です。荷風はどこまでこの場所に近づいていたんだろうかと。

 荷風は昭和20年3月10日の東京大空襲で自宅の偏奇館を焼かれ、その後各地を転々とします。そしてその年の6月に知人を頼って岡山にやってきます。ちょっとその足どりを辿ってみます。
 岡山にやって来たのは昭和20年6月11日。その前に滞在していた兵庫県の明石から列車に乗ってきます。その日の『日乗』にはこう書かれています。

初発博多行の列車は雑踏して乗るべからず、次の列車にて姫路に至りこゝにて乗つぎをなし正午に岡山に着す


 当時の時刻表などを探せば正確な時間を確認できるのかもしれませんが、おそらく姫路に9時くらいに到着して、10時くらい発の列車に乗って岡山に向かったんでしょうね。で、11時前後に三石の辺りを通って、あの煙突の立ち並ぶ風景を見ていたでしょう。そしておそらく11時半の少し前くらいに僕の実家のある町の駅に一旦停車しているはず。荷風が少なくとも僕の生まれ育った町を列車で通っていたわけです。ただ、その時には父も母もまだその町には住んではいないのですが。
 それから11時40分くらいには現在の東岡山駅に停車、当時の西大寺駅ですね。それからすぐに水の流れていない百間川の鉄橋を渡ったはず。僕が先日行った場所よりは5kmほど北西に行った、旭川から分岐してすぐのあたりの百間川です。川や土手に惹かれる荷風ならばちらっと目に入れたのではないかと思います。そしてすぐに旭川の鉄橋を渡って(この鉄橋の下に荷風はあとでやってくることになるとは思ってもみなかったはず)まもなく岡山駅に入ります。

 残念ながら荷風は列車からの風景をまったく書いていません。列車の中も相当に混雑していて風景などゆっくり見る余裕はなかったのでしょうけど。ただ荷風にとって風景というのは、やはり歩いてみてはじめてとらえられるものなんでしょうね。

 ここで、百間川に縁のある内田百閒が、荷風がそこを通った6年後の昭和26年の夏に、同じ山陽本線の列車からとらえた風景を引用しておきます。『阿房列車』に収められた「鹿児島阿房列車」の「古里の夏霞」というエッセイ。同行した山系君とのやりとりが笑えます。漫画版の一條裕子さんのこの場面の絵も貼っておきます。

 砂塵をあげて西大寺駅を通過した。ぢきに百間川の鉄橋である。自分でそんな事を云ひたくないけれど、山系は昔から私の愛読者である。ゆかりの百間土手を今この汽車が横切るのだから、一寸一言教へて置かうと思う。
 百間川には水が流れてゐない。川底は肥沃な田地であつて両側の土手に仕切られた儘、蜿蜿何里の間を同じ百間の川幅で、児嶋湾の入口の九蟠に達している。中学生の時分、煦煦たる春光を浴びて鉄橋に近い百間土手の若草の上に腹這ひになり、持つて来た詩集を読んだと云ふなら平仄が合ふけれど、私は朱色の表紙の国文集を一生懸命に読んだ。今すぐその土手に掛かる。
「おい山系君」と呼んだが、曖昧な返事しかしない。少しくゴヤの巨人に似た目が上がりかけてゐる。
「眠くて駄目かな」
「何です。眠かありませんよ」
「すぐ百間川の鉄橋なんだけどね」
「はあ」
「そら、ここなんだよ」
「はあ」
 解つたのか、解らないのか解らない内に、百間川の鉄橋を渡つて、次の旭川の鉄橋に近づいた。

  ゆかりの百間土手を今この汽車が横切るのだから_a0285828_2228269.jpg

 このあと、僕にとっては興味深い記述が続くのですが、それはちょっと省略してその後の場面。

 汽車が旭川鉄橋に掛かつて、轟轟と響きを立てる。川下の空に烏城(岡山城のこと)の天守閣を探したが無い。ないのは承知してゐるが、つい見る気になつて、矢つ張り無いのが淋しい。空に締め括りがなくなつてゐる。昭和二十年六月晦日の空襲に焼かれたのであつて、三万三千戸あつた町家が、ぐるりの、町外れの三千戸を残して、みんな焼き払はれた晩に、子供の時から見馴れたお城も焼けてしまつた。

 ここに岡山城が空襲で焼けた昭和二十年六月晦日のことが少し書かれています。その日、荷風は岡山城からそんなに離れていない場所にいて、空襲から逃げて旭川の鉄橋の下に逃げて、まちがいなく岡山城が焼け落ちるのを見ていたのです。
 その焼け落ちる岡山城を背後にちらちらと見ながら、さらには荷風が避難していた旭川の鉄橋を横目で見ながら、家族とはぐれてひとりで土手を北に向かって走って逃げていた一人の少年がいました。それが僕の父でした。
by hinaseno | 2013-02-21 11:04 | 文学 | Comments(0)