そこにあったのは百間川。江戸時代につくられた、旭川の放水路。内田百閒の名前のもとになっている川でもあります。
西大寺駅を出てから西大寺鉄道はほぼまっすぐ西に向かい、大多羅駅の辺りで角度を北寄りに変えて最初に西大寺鉄道がつくられたときの終点駅である財田駅に向かいます。ここで山陽本線の東岡山駅(百閒の「西大寺駅」です。ややこしいですが)と接続するようになっていたんですね。後に路線を延ばして後楽園まで結ばれるのですが。
西大寺鉄道の大多羅駅の駅舎を探しあぐねていたとき、その西の方角に見えたのが百間川の土手でした。百間川はもちろん何度も渡ったことがありますが、この辺りの風景は見たことがありませんでした。結構歩き疲れていたのと、寒い中を歩いていて体が冷えていてどうしようかとは思ったのですが、次の機会にといってもいつになるかわかりませんでしたから、百間川の土手に向かいました。そして土手の上から見た冬枯れた放水路の風景を見てはっと思いました。
つい先日読み終えたばかりの川本三郎さんの『荷風と東京』に添えられていた、『断腸亭日乗』の中の荷風の描いた荒川放水路の二つの絵の風景にあまりにも似ていると。といっても、そのときに『荷風と東京』も『断腸亭日乗』ももっていませんでしたので、あくまで記憶にとどめていた荷風の描いた絵の風景と比べただけなのですが。荒川放水路の二つの絵は『断腸亭日乗』では別の日に描かれた絵なのですが、川本さんの『荷風と東京』では同じページに載っています。
もう少し下流まで足を伸ばせば、もっと似た風景に出会いそうな気もしたのですが、さすがにその元気はなくて引き返しました。
ついさっきこれを書きながら知ったことですが、僕が行った土手の2kmくらい下流にある古い清内橋は、もしかしたらかつて一時期岡山に来ていた夏目漱石がその橋を渡って西大寺のあたりに行ったときに人力車で通った可能性があるみたいですね。まだ西大寺鉄道がつくられるずっと前の明治25年7月16日の話。あの漱石も、百間川のそのあたりの風景をちらっと目に入れていたんですね。
夏目漱石は西大寺の近くに数日滞在しているようですので、おそらく西大寺観音院には行っているはず。おもしろいですね。 また調べてみることが増えました。
話が少しそれました。大多羅に近い百間川の土手の風景を見ながら、いろんな想念が次々に湧いてきました。それは僕にとってあまりにも甘美な想念でした。そのことについてはまた後で書くことにします。
自宅に戻ってから『荷風と東京』や『断腸亭日乗』の「放水路」を描いた絵や、そこを歩いていた日々の日記を読みました。冬が多いんですね。上に貼った『荷風と東京』に載っている右の絵は昭和7年1月22日、左の絵は同年1月29日の日記に描かれていたものです。まさに真冬の放水路の風景。
もし僕が百間川のあの風景を、春か、あるいは夏に見ていたら、荷風によって描かれた風景に重なることはなかったかもしれません。
荷風は荒川放水路のあたりを足しげく通ったあとで「放水路」という素晴らしい随筆を書きます。そこにはこんな言葉が書かれています。
「自分から造出す果敢い空想に身を打沈めたいためである。平生胸底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいためである」という言葉は、今、まさに日々自分がしていることと重なっていて、胸が締めつけられるくらいに深く共感を覚えてしまいます。
「その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない」の最後の「答えたくない」という言葉に少し驚いてしまいます。「答えられない」ではなくて「答えたくない」。答えはもっているのですね。そこには僕なんかにはわかりえない荷風の哀しみの風景が隠されているのかもしれません。
というわけで次回は僕自身から造出する、はかない空想を書くことになるだろうと思います。
西大寺駅を出てから西大寺鉄道はほぼまっすぐ西に向かい、大多羅駅の辺りで角度を北寄りに変えて最初に西大寺鉄道がつくられたときの終点駅である財田駅に向かいます。ここで山陽本線の東岡山駅(百閒の「西大寺駅」です。ややこしいですが)と接続するようになっていたんですね。後に路線を延ばして後楽園まで結ばれるのですが。
西大寺鉄道の大多羅駅の駅舎を探しあぐねていたとき、その西の方角に見えたのが百間川の土手でした。百間川はもちろん何度も渡ったことがありますが、この辺りの風景は見たことがありませんでした。結構歩き疲れていたのと、寒い中を歩いていて体が冷えていてどうしようかとは思ったのですが、次の機会にといってもいつになるかわかりませんでしたから、百間川の土手に向かいました。そして土手の上から見た冬枯れた放水路の風景を見てはっと思いました。
つい先日読み終えたばかりの川本三郎さんの『荷風と東京』に添えられていた、『断腸亭日乗』の中の荷風の描いた荒川放水路の二つの絵の風景にあまりにも似ていると。といっても、そのときに『荷風と東京』も『断腸亭日乗』ももっていませんでしたので、あくまで記憶にとどめていた荷風の描いた絵の風景と比べただけなのですが。荒川放水路の二つの絵は『断腸亭日乗』では別の日に描かれた絵なのですが、川本さんの『荷風と東京』では同じページに載っています。
もう少し下流まで足を伸ばせば、もっと似た風景に出会いそうな気もしたのですが、さすがにその元気はなくて引き返しました。
ついさっきこれを書きながら知ったことですが、僕が行った土手の2kmくらい下流にある古い清内橋は、もしかしたらかつて一時期岡山に来ていた夏目漱石がその橋を渡って西大寺のあたりに行ったときに人力車で通った可能性があるみたいですね。まだ西大寺鉄道がつくられるずっと前の明治25年7月16日の話。あの漱石も、百間川のそのあたりの風景をちらっと目に入れていたんですね。
夏目漱石は西大寺の近くに数日滞在しているようですので、おそらく西大寺観音院には行っているはず。おもしろいですね。 また調べてみることが増えました。
話が少しそれました。大多羅に近い百間川の土手の風景を見ながら、いろんな想念が次々に湧いてきました。それは僕にとってあまりにも甘美な想念でした。そのことについてはまた後で書くことにします。
自宅に戻ってから『荷風と東京』や『断腸亭日乗』の「放水路」を描いた絵や、そこを歩いていた日々の日記を読みました。冬が多いんですね。上に貼った『荷風と東京』に載っている右の絵は昭和7年1月22日、左の絵は同年1月29日の日記に描かれていたものです。まさに真冬の放水路の風景。
もし僕が百間川のあの風景を、春か、あるいは夏に見ていたら、荷風によって描かれた風景に重なることはなかったかもしれません。
荷風は荒川放水路のあたりを足しげく通ったあとで「放水路」という素晴らしい随筆を書きます。そこにはこんな言葉が書かれています。
放水路の眺望が限りもなくわたくしを喜ばせるのは、蘆荻と雑草と空との外、何物をも見ぬことである。殆ど人に逢わぬことである。平素市中の百貨店の停車場などで、疲れもせず我先にと先を争っている喧噪な優越人種に逢わぬことである。
四、五年来、わたくしが郊外を散行するのは、かつて『日和下駄』の一書を著した時のように、市街河川の美観を論述するのでもなく、また寺社墳墓を尋ねるためでもない。自分から造出す果敢(はかな)い空想に身を打沈めたいためである。平生胸底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいためである。その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない。唯おりおり寂寞を追求して止まない一種の慾情を禁じえないのだという外はない。
この目的のためには市中において放水路の無人境ほど適当した処はない。
「自分から造出す果敢い空想に身を打沈めたいためである。平生胸底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいためである」という言葉は、今、まさに日々自分がしていることと重なっていて、胸が締めつけられるくらいに深く共感を覚えてしまいます。
「その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない」の最後の「答えたくない」という言葉に少し驚いてしまいます。「答えられない」ではなくて「答えたくない」。答えはもっているのですね。そこには僕なんかにはわかりえない荷風の哀しみの風景が隠されているのかもしれません。
というわけで次回は僕自身から造出する、はかない空想を書くことになるだろうと思います。
Commented
by
39nemon
at 2013-02-21 00:59
x
百間川ということは、みなさんご推察されてますね。私は知りませんた。(お恥ずかし)
下の写真は日の暮れ方といい、土手の眺めといい、よくある風景といったらそれまでなのだけど、なんかとても懐かしい気がする。(濁し)でもホント。
下の写真は日の暮れ方といい、土手の眺めといい、よくある風景といったらそれまでなのだけど、なんかとても懐かしい気がする。(濁し)でもホント。
0