今まで何度か『木山捷平 父の手紙』という本のことに触れました。一昨日は「鰆」のことについて。この本の装幀をしているのが山高登という人です。実は一昨日、美しい晩秋のいなかの風景を見ながら、山高登さんの絵のことをずっと思い浮かべていました。
山高登という人を知ったきっかけは、夏葉社から出た関口良雄(関口直人さんのお父さんですね)著『昔日の客』でした。ここの口絵と裏表紙に、山高さんの絵が収められています。版画絵ですね。色のついたものと、ついていないもの。
直人さんの書かれたあとがきを読むと、最初、三茶書房から出たものは、その装幀とともにかなりの数の版画絵が収められていたようです。ぜひ見てみたいと思って、以前アマゾンを覗いてみたら、うっ、でした。
僕が持っている山高さんが装幀された本は、調べてみると小沼丹の『藁屋根』と『緑色のバス』の2冊がありました。『藁屋根』の方の函の表の絵はいかにも山高さんらしい農家の風景を描いたもの。もう一つ、口絵も描かれています。
で、先日、日曜日に岡山に戻った時、いつも立ち寄る万歩書店に行って、山高さんの装幀された本を探してきました(実際には店長の中川さんに探してもらいました)。小一時間で十冊の本を見つけてもらいました。いろんなタイプの絵がありますが、やはりこんな版画絵が素敵ですね。
そういえば、先日、関口直人さんから、山高さんの版画絵展が神奈川県の藤沢市で開催されていることを知らせていただきました。先日の日曜日はその最終日でした。残念ながら行くことはできませんでしたが、版画展の開かれているときに山高さんの装幀された本を買っておきたいと思い立ったんですね。でも、実はこの本は知り合いの人に頼まれてのものではあったのですが(その方が山高さんご本人からいただいていた山高さんの装幀された本のリストがあったから探すことができたわけです)。ですから、これらの本は間もなく僕の手からは離れていくことになります。ちょっと悲しいです。
さて、その万歩さんで購入した本で最も素晴らしかったのは新美南吉の『百姓の足、坊さんの足』という童話集でした。万歩の中川さんがこれを見つけてきてくれたときに、「これはすごいですよ」って言われたのですが、まさにそのとおり。山高さんの版画絵が満載なんですね。山高さんの顔写真も載っています。
新美南吉といえば教科書に載り続けている「ごんぎつね」が有名ですが、僕は同じくきつねの物語である「手ぶくろを買いに」が好きです。小川洋子さんがエッセイでこの童話のことを書かれていたのがきっかけです。子狐が手袋屋さんの扉を少しだけ開けて、そっと手を差し出す瞬間は何とも言えないですね。
ところで、前に僕は川本三郎さんの『小説を、映画を、鉄道が走る』という本をずっと読み続けているってことを書きました。もう読んでいる僕の方が脱線に次ぐ脱線、というか途中下車をし続けていてちっとも前に進まないのですが、また脱線、いや途中下車をしてしまいました。
ちょうど木山捷平の「斜里の白雪」のあとに新美南吉の「おじいさんのランプ」の話が少し出てきたんです。そこを読んだのが一昨日の晩でしたから、すぐに万歩さんで買ってきたばかりの新美南吉の童話集を見たら載っていました。もちろん山高さんの絵もいっぱい。口絵にも素敵な絵がありました。小説の中で最も印象的な場面を描いたものですね。
で、昨夜これを読みました。とってもいい話。でも、少し切なくなる話。
最後におじいさんの孫に向けたこんなことばがあります。電気というものができてランプ屋をやめて本屋をするようになったおじいさんのことば。
「わしの、しょうばいのやめかたは、じぶんでいうのもなんだが、なかなかりっぱだったと思うよ。わしのいいたいのはこうさ。日本が進んで、じぶんの古いしょうばいがお役にたたなくなったら、すっぽりとそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく、古いしょうばいにかじりついていたり、じぶんのしょうばいがはやっていたむかしのほうがよかったといったり、世の中の進んだことをうらんだり、そんな意気地のねえことは、けっしてしないということだ」
ちょっとぐっと来ます。この小説が世に出たのは昭和17年(1942年)。まさに戦争中ですね。
でも、新美さんはこれを書いたときに、電気を作るためのダムを造るために自然が破壊されたりとか、石油がたくさん燃やされて二酸化炭素がどんどん空気中にまかれてさまざまな自然破壊が起きたりとか、あるいはいうまでもなくもっとも電気を効率よく作る原発事故が起きたりしたことも知りません。確か原発事故の後、ランプが見直されるようになったんですね。
果たしておじいさんの判断は正しかったんでしょうか。
おじいさんがランプ屋をやめるきっかけとなった出来事があります。電気をおじいさんの村にもひくことが決まったので、おじいさんは村長のことを恨んで村長の家を燃やそうとします。普段ならマッチを持っていくのに、そのときには火打ち道具を持っていきます。そしていざ火をつけようとすると、なかなか火がつきません。カチカチと大きな音もして寝ている人を起こしてしまう気がする。そのときにふと気づきます。
「古くせえもなァ、いざというときにはまにあわねえ」
そしておじいさんは店にあったランプを全部捨てようと決心して、池のところまでもっていって全部のランプに灯をともします。これがその場面を描いた山高さんの絵です。
でも、おじいさん、ちょっと待って、ですね。
そのとき、もしおじいさんがマッチを持っていってたらどうなったか。言うまでもなくおじいさんは放火殺人犯で捕まってしまって、一生牢屋に入れられるどころか、その時代であればすぐに死刑になってしまっていたように思います。
本当はおじいさんは「古くさいもの」に、つまり、いろいろと手間がかかって時間がかかるものに助けられたんですよね。
と、この文章を書きながら、CDという便利なものを処分して買ったナット・キング・コールの古いレコードを聞いています。CDが出て多くのレコードを処分したのですが、最近はその逆のことをしています。手間がかかったっていいんです。いや、その手間があるからこそ音楽は何倍も素敵に聴こえるんです。
山高登という人を知ったきっかけは、夏葉社から出た関口良雄(関口直人さんのお父さんですね)著『昔日の客』でした。ここの口絵と裏表紙に、山高さんの絵が収められています。版画絵ですね。色のついたものと、ついていないもの。
直人さんの書かれたあとがきを読むと、最初、三茶書房から出たものは、その装幀とともにかなりの数の版画絵が収められていたようです。ぜひ見てみたいと思って、以前アマゾンを覗いてみたら、うっ、でした。
僕が持っている山高さんが装幀された本は、調べてみると小沼丹の『藁屋根』と『緑色のバス』の2冊がありました。『藁屋根』の方の函の表の絵はいかにも山高さんらしい農家の風景を描いたもの。もう一つ、口絵も描かれています。
で、先日、日曜日に岡山に戻った時、いつも立ち寄る万歩書店に行って、山高さんの装幀された本を探してきました(実際には店長の中川さんに探してもらいました)。小一時間で十冊の本を見つけてもらいました。いろんなタイプの絵がありますが、やはりこんな版画絵が素敵ですね。
そういえば、先日、関口直人さんから、山高さんの版画絵展が神奈川県の藤沢市で開催されていることを知らせていただきました。先日の日曜日はその最終日でした。残念ながら行くことはできませんでしたが、版画展の開かれているときに山高さんの装幀された本を買っておきたいと思い立ったんですね。でも、実はこの本は知り合いの人に頼まれてのものではあったのですが(その方が山高さんご本人からいただいていた山高さんの装幀された本のリストがあったから探すことができたわけです)。ですから、これらの本は間もなく僕の手からは離れていくことになります。ちょっと悲しいです。
さて、その万歩さんで購入した本で最も素晴らしかったのは新美南吉の『百姓の足、坊さんの足』という童話集でした。万歩の中川さんがこれを見つけてきてくれたときに、「これはすごいですよ」って言われたのですが、まさにそのとおり。山高さんの版画絵が満載なんですね。山高さんの顔写真も載っています。
新美南吉といえば教科書に載り続けている「ごんぎつね」が有名ですが、僕は同じくきつねの物語である「手ぶくろを買いに」が好きです。小川洋子さんがエッセイでこの童話のことを書かれていたのがきっかけです。子狐が手袋屋さんの扉を少しだけ開けて、そっと手を差し出す瞬間は何とも言えないですね。
ところで、前に僕は川本三郎さんの『小説を、映画を、鉄道が走る』という本をずっと読み続けているってことを書きました。もう読んでいる僕の方が脱線に次ぐ脱線、というか途中下車をし続けていてちっとも前に進まないのですが、また脱線、いや途中下車をしてしまいました。
ちょうど木山捷平の「斜里の白雪」のあとに新美南吉の「おじいさんのランプ」の話が少し出てきたんです。そこを読んだのが一昨日の晩でしたから、すぐに万歩さんで買ってきたばかりの新美南吉の童話集を見たら載っていました。もちろん山高さんの絵もいっぱい。口絵にも素敵な絵がありました。小説の中で最も印象的な場面を描いたものですね。
で、昨夜これを読みました。とってもいい話。でも、少し切なくなる話。
最後におじいさんの孫に向けたこんなことばがあります。電気というものができてランプ屋をやめて本屋をするようになったおじいさんのことば。
「わしの、しょうばいのやめかたは、じぶんでいうのもなんだが、なかなかりっぱだったと思うよ。わしのいいたいのはこうさ。日本が進んで、じぶんの古いしょうばいがお役にたたなくなったら、すっぽりとそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく、古いしょうばいにかじりついていたり、じぶんのしょうばいがはやっていたむかしのほうがよかったといったり、世の中の進んだことをうらんだり、そんな意気地のねえことは、けっしてしないということだ」
ちょっとぐっと来ます。この小説が世に出たのは昭和17年(1942年)。まさに戦争中ですね。
でも、新美さんはこれを書いたときに、電気を作るためのダムを造るために自然が破壊されたりとか、石油がたくさん燃やされて二酸化炭素がどんどん空気中にまかれてさまざまな自然破壊が起きたりとか、あるいはいうまでもなくもっとも電気を効率よく作る原発事故が起きたりしたことも知りません。確か原発事故の後、ランプが見直されるようになったんですね。
果たしておじいさんの判断は正しかったんでしょうか。
おじいさんがランプ屋をやめるきっかけとなった出来事があります。電気をおじいさんの村にもひくことが決まったので、おじいさんは村長のことを恨んで村長の家を燃やそうとします。普段ならマッチを持っていくのに、そのときには火打ち道具を持っていきます。そしていざ火をつけようとすると、なかなか火がつきません。カチカチと大きな音もして寝ている人を起こしてしまう気がする。そのときにふと気づきます。
「古くせえもなァ、いざというときにはまにあわねえ」
そしておじいさんは店にあったランプを全部捨てようと決心して、池のところまでもっていって全部のランプに灯をともします。これがその場面を描いた山高さんの絵です。
でも、おじいさん、ちょっと待って、ですね。
そのとき、もしおじいさんがマッチを持っていってたらどうなったか。言うまでもなくおじいさんは放火殺人犯で捕まってしまって、一生牢屋に入れられるどころか、その時代であればすぐに死刑になってしまっていたように思います。
本当はおじいさんは「古くさいもの」に、つまり、いろいろと手間がかかって時間がかかるものに助けられたんですよね。
と、この文章を書きながら、CDという便利なものを処分して買ったナット・キング・コールの古いレコードを聞いています。CDが出て多くのレコードを処分したのですが、最近はその逆のことをしています。手間がかかったっていいんです。いや、その手間があるからこそ音楽は何倍も素敵に聴こえるんです。
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39nemon
at 2012-11-22 01:59
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この山高登という版画家の名も初めて聞き、例の如く検索などしていたら、かつての児童雑誌『びわの実学校』の表紙を担当されていたことを知り、たまたまこの雑誌のことは知っていたので(手にしたことはありませんが)親近感が湧きました。画面で見るのもなんなのですが他の版画も見てみたら、風情ある景色が彩色刷りで有り有りとそこに在り、とてもすばらしいですね。やはり何かが繋がるとうれしいものです!
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39nemon
at 2012-11-22 02:01
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無理やりですがランプの話でしたので、ガス灯の話をひとつ。昔読んだ本の中で、少女が父親とガス灯を見に行くんです。その町ではじめてガス灯が灯る日、"進歩"を見に行くと勇ましく出かけるんです。その場面がとってもすきで、父親のコンパスに追い付こうと必死に追いかけて行こうとする姿なんかも。手間で言えばガス灯は、毎日点灯夫が来て灯さなくてはならない大変な仕事ですけど、町に灯が灯ることの方が夢のようなことで、そんなの比じゃなかったのだと思います。ただ慣れが手間として、新たな刺激を欲して"進歩"という活動を生むんだと思います。だけに"進歩"が"効率"(なんか言い方違うかも、時短とか一元的な良さとか)寄りに代替されると、それが本当に"進歩"なのかと疑問に感じてしまいますね。