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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno

三里×100〜木山さんと音楽


最初に、昨日書いたことについて少しだけ。
姫路市北部の山間の菅生小学校へ移ることになった木山さんへ、父、静太が送った手紙に引用された二つの句について。まず1つ目の、

鶯やようあきらめた籠の声

これはどうやら小林一茶の次の句から来ているようです。

鶯やあきらめのよい籠の声

静太が少しだけ言葉を変えて記憶していたのだと思います。
それからもう一つの句、

畑打ちや余所の祭りの人通り

この句はパソコンでいろいろ検索してみたのですがそれらしいものが見つかりませんでした。
無名の俳人の句なのかもしれませんが、もしかしたら静太の創作であったかもしれません。
他の地域の祭りの行列に目もくれず畑を耕す農夫の姿。「余所」とは、捷平が憧れてやまない東京を想定していたはず。そんなものに心を奪われることなく、自分の目の前の仕事を黙々とこなしていけとの父のメッセージ。

さて、三里という距離のことについてしばらく話をしてきました。
先日『木山捷平全詩集』をぱらぱらと読み返していたら、「三里」の百倍の距離、「三百里」という言葉が含まれた詩があることに気づきました。詩集の一番最後に収められています。題名は「大久保から見る富士」。

大久保から見る富士は美しい

はるか西のかた三百里に
君がゐる――。

昭和6年に書かれた詩。大久保というのは当時木山さんが下宿していた場所。そこから西に「三百里(約1200km)」離れた場所とは、そしてそこにいる「君」とは。

東京から西に「三百里(約1200km)」の場所とはどこだろうと思って調べてみました。最初に思い浮かんだのは郷里の岡山の笠岡、でももしかしたら姫路かもしれないと考えてみる。でも違いました。
東海道本線、山陽本線で辿り着く場所は九州の福岡あたり。
福岡? 木山さんと何の関係が?
ちなみに木山さんの郷里までは汽車を使ったとすれば東京からちょうど200里、姫路は150〜160里。

その前に、菅生小学校以降の木山さんのことを少し。木山さんは昭和3年の4月から翌4年の3月まで菅生小学校で勤務して上京します。これ以降は東京に暮らし続けます。
菅生小学校にいたのはたったの1年間。何となく自主退職した、あるいは何か問題を起こして首になったということを想像してしまいますが、違います。
菅生小学校には当時の木山さんの「履歴書写し」が今も残っているのですが、そこには次のような、ちょっとびっくりする言葉が書かれています。

昭和四年三月三十一日 東京府へ出向を命ズ

なんと、木山さんは兵庫県から出向という正式な形で東京に行ったのです。赴任したのは小松川第2小学校。
ということで、木山さんは昭和4年に上京して5月から小松川町に下宿します。
そして2年後の昭和6年に大久保に移ります。調べてみると中央線沿いの新宿に近い場所。木山さんはこの後、中央線の沿線を転々と移り住んでいきます。

上京した昭和4年には『野』を出版、昭和6年には第二詩集の『メクラとチンバ』を出版します。
その詩集の題名にもなっている「メクラとチンバ」という詩。今は使ってはいけない言葉になっていますが、この詩に曲がつけられているんですね。作曲したのは清瀬保二という人。『メクラとチンバ』を出版した翌年に作られています。
三里×100〜木山さんと音楽_a0285828_10562056.jpg『木山捷平全詩集』にはその楽譜が少し載っています。こういうのを見てメロディが浮かべばいいのですが、残念ながらそういう能力はありません。
この曲、きっと言葉上の問題もあって今では歌われていないのでしょう。清瀬保二の「歌曲集」という本が出ているようですが、どうやら「お咲」と題名を変えて収められているようです。「お咲」は「メクラとチンバ」の詩に出てくる「チンバ」の女性のこと。

清瀬保二という人を調べてみると、弟子にはなんとあの武満徹がいるんですね。清瀬さんのいくつかの曲はネット上で聴くことができましたが、基本的にはクラシック、あるいはオペラが基調になっているようです。曲の善し悪しは別として、木山さんの市井に生きる人々を題材にした素朴な詩には似合わないのではないかと思いました。

さて、その清瀬保二作曲の「メクラとチンバ」の作品発表会が昭和7年の4月20日に日本青年館で開かれます。そこには当然木山さんも。そして木山さんのそばには一人の女性が。前年の11月に結婚された奥さんのみさをさん。
最初に引用した詩の「はるか西のかた三百里」にいる「君」とはみさをさんのことだったんですね。みさをさんは山口県の萩の人。そこにみさをさんがいたときに木山さんが書いた手紙に収められた詩なんですね。ちょっとロマンティックです。
ちなみに萩へ行くには山陽本線ではなく山陰本線を使わないといけなかったかもしれません。距離にすると東京から1100km足らずで少し1200kmに届きません。でも、姫路で三里を歩き続けてまだそんなに年月の経っていない木山さんにとって、その百倍という切りのいい数字で三百里を使ったのかもしれません。姫路での「三里」も遠かったはずですが、東京からの「三百里」は、まさに「はるか」かなたの場所(少しだけ話を付け足せば、その数年後に生まれた息子さん名前は「萬里」。「三里」と「三百里」と「萬里」、文章には何も書かれていなくても、姫路での記憶が受け継がれているような気がします)。

さて、発表会のあった日の木山さんの日記にはこう書かれています。

清瀬保二氏作曲発表会。於日本青年会館。午後七時より。「メクラとチンバ」発表。照井詠三バリトン歌手、アンコール三回、あとで清瀬氏と作歌者、歌手と記念写真をとる。みさをは一人で帰宅した。

感想らしきものは一言もありません。自分の書いた詩が曲にされるのはうれしかったにはちがいないとは思いますが、やはり木山さんの望むような曲ではなかったのかもしれません。
この日のことをみさをさんも『木山捷平全詩集』のあとがきにこう書いています。

私は捷平と二人で後方の席にいたが、いつの間にか捷平はいなくなった。上京後初めて一人で大久保に帰った。

二人で曲の感想を語り合うこともなかったんですね。
「メクラとチンバ」は散文詩なので、曲にするのは大変そうですが、楽譜を見るとそのままの詩にメロディが付けられています。
この数年前に起こった童謡運動の中で作られた童謡の多くは五七調を基本にした定型詩です。西條八十も北原白秋も。野口雨情はちょっと違うのもありますが。
木山さんはほとんどが散文詩なのですが『メクラとチンバ』には1つ、定型詩が収められています。「分の悪い交換」という詩。こんな詩です。

からり ころり と
あさのみち
やさいをつんだ
にぐるまが
東京へ 東京へ 行きました。

がたり ごとり と
あさのみち
うんこをつんだ
にぐるまが
ゐなかへ ゐなかへ 帰ります。

昭和4年、木山さんが上京した年に書かれた詩。
こちらの方は歌にしやすそうです。というよりも、もしかしたらこの詩は曲にされることを期待して書かれたのかもしれません。でも、実際には、この昭和4年には童謡運動は下火になっていました。有名な童謡のほとんどは大正末期に作られていて、大瀧さんの「日本ポップス伝」で紹介されている昭和になって作られた童謡は昭和2年の三木露風作詞の「赤蜻蛉」と昭和3年の北原白秋作詞の「あわて床屋」くらい。ちょっとおそかったんですね。
でも「分の悪い交換」はいい曲が作れそう。作ってみようかな。

さて、つい先日知ったのですが、高田渡というフォーク歌手がこの『メクラとチンバ』の中の詩に曲を付けていることがわかりました。詩の題名は「赤い着物を着た親子」。高田渡はこの詩を少しだけ変えて「長屋の路地に」というタイトルにして曲を書いています。1972年に出た『系図 』というアルバムに収められているとのことです。


なかなか素敵な曲ですね。調べてみると、木山さんの母校の新山小学校の講堂の落成式の時に、高田渡を招いて「長屋の路地に」を歌ってもらったとのこと。

高田渡という人の名前はもちろん知っていて、彼の作った「コーヒーブルース」は大好きなのですが、レコードもCDも持っていません。さっき調べたら、ちょっと皮肉なことがわかりました。
『系図』と同じ年に出された高田渡の『ごあいさつ』というアルバムには、なんと大瀧さんを除いたはっぴいえんどのメンバー(細野晴臣、鈴木茂、松本隆)が参加していたんですね。

(訂正)
高田渡に関しては、ちょっと変だとは思いつつウィキペディアに書かれてることをそのまま書いてしまったのですが、あとで確認してかなり事実と異なっていることがわかりました。
まず、アルバムの発売された年代について。ウィキペディアに載っていたのは何度目かの再発された年代。正しくは『系図』が発売されたのは1972年、『ごあいさつ』が発売されたのはその前年1971年のこと。
それから『ごあいさつ』について、「大瀧を除くはっぴいえんど(細野晴臣、鈴木茂、松本隆)を従えた」と書かれていますが、大瀧さんもきちんと参加されています。曲によっては普段は演奏されないベースを弾かれているとのこと。本当に申し訳ありませんでした。
僕の大好きな「コーヒーブルース」も『ごあいさつ』に入っていました。全然、知りませんでした。
ただ、大瀧詠一さんと木山捷平が高田渡という人を通じてつながったような気がして、とてもうれしかったです。


最後に、さっきも言ったように、木山さんが上京した昭和4年には、ほとんど童謡運動は終わっていました。
その年、映画の主題歌として作られたこの曲が大ヒットします。タイトルは『東京行進曲』。作詞は西條八十。流行歌の第1号と呼ばれることになるのですが、この曲がヒットしたことで逆に西條八十は詩人たちから批判されることにもなります。
作曲は中山晋平。中山晋平はその数年前まで、野口雨情とともにたくさんの童謡を書いていました。

木山さんも東京に来てこの曲をどこかで耳にしたはず。そしてその詩を西條八十が書いていることもすぐに知ったはず。いったい木山さんはこの曲をどんな思いで聴いていたのでしょうか。


〈追記〉先日『南方詩人』という雑誌のことを書きましたが、その中に収められた木山さんの「たうきびのひげ」という詩、これはおそらく『メクラとチンバ』に収められた「たうもろこしのひげ」と同じものだろうと思います。
by hinaseno | 2012-10-10 11:12 | 木山捷平 | Comments(0)