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by hinaseno
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Shuffle Off、そして終わりの始まりと、終わったことで始まったこと_a0285828_15041372.jpg


今日は書いておきたいことがあったのがけど、今朝、朝イチでこれが届いたので予定変更。ペットサウンズ・レコードさん、いつも本当にありがとうございます。


午前中、いくつか用事があるので聴きたい気持ちをぐっと抑え、午後のコーヒータイムまで我慢しようかと思っていたけど、我慢しきれず2枚組レコードのSideAの1曲目に流れてきた曲を聴いたら、思考がすべてストップ。予想通りではあったけど。

読みかけの本、聴きかけのアルバム&ラジオ音源、そして書きかけの話、書こうと思っている話、調べたいと思っていること(おもに木山さん関係)、すべてを中断させてしまう。

ということで3月21日のナイアガラ・デイがやってくるまで、とりあえず聴くのは2枚組レコードのA面だけにしておくことに決める。ブックレットや『大滝詠一レコーディング・ダイアリー VOL.3』をちょこっと開いただけでおおっ!と思ったものもあるけど、それも閉じて。少なくとも読みかけの本の一冊は読了することにしよう。


そのSideAの1曲目に収録されていたのは、1984年1月8日に放送された渋谷陽一さんのFMホットラインでかかった”あの”曲でした。”わが”『EACH TIME』の最初に耳にした曲。まさに始まりの曲でした。

大瀧さんの訃報を知った2013年12月31日のブログで、当時大瀧さんが作業をしていた『EACH TIME』30周年盤のいくつかの希望としてその曲についてこんなことを書いています。


『EACH TIME』の音として最初に耳にして心がこれ以上なくときめいた、この渋谷陽一さんの番組の最初にかかった未発表曲も入れて。


このときに貼った音源は渋谷さんの番組でかかった大瀧さんと渋谷さんの声入りのものでしたが、今それを音楽だけで綺麗な音でレコードで聴いているわけです。感動しないはずがないですね。

ここからいろんなものが始まる、と思っていたのに、結局この曲は『EACH TIME』に収録されることなくオクラ入り(大瀧さんのオクラ入りした曲の中ではこれ以上のものは存在しません)。そして『EACH TIME』は大瀧さんの最後のオリジナルアルバムとなり、以後、音楽制作のほうからは離れていってしまうんですね。

でも、あれが終わりだったとは亡くなった後になって言えることで、いつか新しいアルバムを出してくれるのではないかという、次第に淡くなっていった期待をずっとずっと持ち続けていたわけです。

ただ、アルバム制作をしなくなったからといって大瀧さんが何もしなくなったわけではなく、今にして思えばアルバム制作と同じくらい、いやそれ以上の時間と労力をかけたものを作り始めます。日本ポップス伝、アメリカン・ポップス伝、さらには未公開のままになっている小津安二郎と成瀬巳喜男の映画研究。

大瀧さんが亡くなった翌日に書いた文章はこのブログを始めて1年数ヶ月後のことでしたが、こんなことも書いていました。


ここに書いてきたすべてのことは(小津のことはいうまでもなく、荷風や木山捷平のことであっても)、大瀧さんなくしては開くことのなかった扉のむこうにあったことばかり。


そうなんです。木山捷平展が始まってから、自分が木山捷平研究を始めたきっかけを辿り直しているんですが、結局行き着いたのは大瀧さんだったなと気がついたんですね。大瀧さんの映画研究の全貌を知るという僥倖なくしては木山研究もなかったわけです。いつかそれを書いてみたい(話してみたい)と思っています。いったいだれが読むんだって話ですが。


# by hinaseno | 2024-03-19 15:05 | ナイアガラ | Comments(0)

ずいぶん前に予約注文したこのCDがようやく届きました。

ウィチタ・ラインマンを聴くと桃郎のことを思い出す_a0285828_13370590.jpeg


イギリスのACEから出たグレン・キャンベルの『I Am A Lineman For The County: Glen Campbell Sings Jimmy Webb』。久しぶりに買ったACEのCDです。去年はなにも買わなかったかも。

グレン・キャンベルがジミー・ウェッブの作った曲を歌った作品集は2つほど持っているし、ジミー・ウェッブの作品を歌った曲を収めたCDも何枚もあるし、今回のCDに特に真新しい曲があるわけでもなさそうでしたが、やはりACEってことで買ってみることにしました。音は信頼できるし18ページもあるブックレットも魅力的だし。もう一つ、この作品集の副題にも惹かれました。


I Am A Lineman For The County


ACEが独自編集のCDを出すときに、副題には収録した曲の歌詞の一部を使うことが多いんですね。他のレーベルだとよく知られている曲のタイトルをそのまま使ったりするんですが(だから同じタイトルのCDがいくつも)、そこはACEのセンスのすごいところです。今まで一番素敵だと思ったのはローラ・ニーロの作品集の副題”Sassafras & Moonshine”。一体なんだろうと思って調べたら「Stoned Soul Picnic」の歌詞の印象的なフレーズだったんですね。気づけなかったのが悔しい。

で、今回の”I Am A Lineman For The County”という歌詞ですが、これは調べるまでもありません。大好きな「ウィチタ・ラインマン(Wichita Lineman)」の冒頭に出てくる言葉。このブログでも何回か紹介していますね。こことか。

ブックレットを読むと「『ウィチタ・ラインマン』は曲と歌とアレンジの完璧な融合」との言葉。まさしく。ちなみに曲のアレンジはアル・デ・ロリー。たまらないです。



で、いつからか「ウィチタ・ラインマン」を聴くと木山さんが姫路に来る前年の大正15年に書いた「桃郎」という詩を思い出すようになりました。詩に電信工夫という言葉が出てくるんですが、それが英語ではラインマン(lineman)なんですね。


 桃郎は大きくなつたら
 電信工夫になるんだといふ。
 電信柱のてつぺんに上ると
 いつまでも汽車が見えるといふ。
 あつちの方から吹いてくる
 風の音がきけるといふ。
 そして学校から帰る子供らに
 上から面白い話をしてやるといふ。


これも大好きな詩。新山の風景が浮かんできます。

ところで桃郎(ももお)というのは木山さんの歳の離れた弟のこと。桃農家だった父親がその桃を男の子の名前として付けたのがいいですね、まるで桃太郎みたいで。長男の木山さんが日露戦争が始まったばかりのときに生まれたってことで捷平という木山さんには似ても似つかぬ勇ましい名前を付けられたのとは対照的です。


そういえば姫路文学館の南館の水屋珈琲さんでのコラボメニュー「木山さんの〈桃と柚子のおもひで〉プレート」には「しょうへいさんの栞」というのが付いているんですね。この2種類。

ウィチタ・ラインマンを聴くと桃郎のことを思い出す_a0285828_13370777.jpeg

柚子の方には「柚子」の詩が添えられているんですが、桃の方には詩がなかったということで第一詩集『野』の跋文の一節が使われていいます。ふと「桃郎」の詩でもよかったかなと思っちゃいました。

でも、いい栞です。柚子のシフォンケーキも桃のパイもどちらもめちゃくちゃ美味しい上にこのおまけ。たまらないです。今度行ったときにまたもらおう。


# by hinaseno | 2024-03-18 13:38 | 木山捷平 | Comments(0)

昨日3月16日、サンテレビの土曜日朝の情報番組「はりまサタデー9」で姫路文学館で開催中の木山捷平展が紹介されました。期待した以上に充実した内容だったので、ここでも前もって告知しておけばよかったです。とはいえサンテレビというのは兵庫県姫路市を中心としたエリアでしか放送されていないので他県で見るのは難しい。でも岡山でも西の方にあるわが家では観ることができました。木山さんの郷里の笠岡は無理だろうと思いますが総社あたりではもしかしたら観ることができたかもしれません。

まあ今となっては遅いですね。だれかがYouTubeにでもあげてくれればありがたいけど(僕はもちろん録画しましたがYouTubeへのあげ方はわかりません)。

「はりまサタデー9」という番組は一度も観たことがなかったので(というか姫路にいたときもサンテレビはほとんど観なかったな。ときどきすごくマイナーな西部劇が放送されていてそれを録画した程度)、どれだけの時間を使って紹介されるか全然分からず、せいぜい3分か5分くらいのことかなと思っていたら実際には30分番組の後半の10数分を使って木山展を紹介していました。テレビで「野人」どころか「大西重利」とか「たつた一人の友」とか「南畝町二八八番地」とか、さらには「野長瀬正夫」とかの言葉が出てきたのですからめちゃくちゃ興奮しました。

ということで観れなかった方のために放送内容を少し紹介。おおっ!と思ったところだけを。案内されたのはこのブログでも何度も紹介している姫路文学館の竹廣裕子さん。リポーターとしてやってこられたのは新開祥子さん。新開さん、木山さんのこと好きになってくれたかな。

まずは姫路の木山捷平を紹介したこのコーナーから。

「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13323301.jpeg

そして姫路の木山さんの活動を支えた「たつた一人の友」の話になります。昭和2年の「秋」という詩と大西重利のことも。

「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13323197.jpeg

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「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13322778.jpeg

さらに木山さんが姫路で発行した個人詩誌『野人』と、それが発行された南畝町二八八の話に。知っているとはいえ最初観たときにはどきどきでした。すごいなと。 テロップの入れ方も見事。

「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13322438.jpeg

「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13322249.jpeg

で、昔の地図でそのあたりを確認。

「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13322181.jpeg

「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13321975.jpeg

Aは木山さんが住んでいた千代田町の下宿があった場所。そしてBが南畝町二八八。実はこの地図を使って竹廣さんが説明するシーンは冒頭にちょこっと使われていたのに本編では出てこなかったんですね。いいシーンだったんだけど。これですね。

「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13321608.jpeg

このシーンでリポーターの新開さんが言われたのがこの言葉でした。咄嗟に出たのかな。


「この住所が友情の証なんですね」


うん、いい言葉。

そう、288は僕にとってはとても大事な友愛数となっていて、あまり言えないけど、その数字をいくつかのものに使っています。

このあと野長瀬正夫さんの話に。

「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13321491.jpeg


このあたりもすごくおもしろく、もう一つの友情の話にもなっていて、ぜひ観てもらいたいところ。

そして村上春樹の好きな昭和8年の「秋」(秋をけりけり)の詩が紹介されます。

「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13321265.jpeg

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ふふ。

このあとも太宰の話とか「駄目も目である」の言葉とか出てきて、たっぷりの内容でした。


展示会場の紹介の後は水屋珈琲さんでのコラボメニューの紹介。めっちゃ美味しいですよ、これ。

「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13395282.jpeg


そして最後に来週の日曜日(3月24日)に行われる世田谷ピンポンズさんのライブの告知も。

「この住所が友情の証なんですね」_a0285828_13395589.jpeg


「世田谷ピンポンズ」って言葉がテレビで流れたのもうれしかったです。いくつか新曲も披露される予定とか。楽しみですね。みなさん、ぜひぜひ。


# by hinaseno | 2024-03-17 13:40 | 木山捷平 | Comments(4)

それまで椅子に座って話をしていた島田さんがぱっと立ち上がって、後ろの黒板に文字を書き始める。「岡山のラーメン店」と。

「『岡山のラーメン店』という本が出たとします。A社は1000ページの本、B社は500ページ、C社は300ページ、そしてD社は160ページ。もし、みなさんが本を買うとしたら、どれを買いますか? 自分ならこれを買うというものに手を挙げてください」

160ページくらいの『秋の友達』を作ってもらえたら_a0285828_15130972.jpg


これは先日、岡山の旧内山下小学校で開かれた「おかやま文学フェスティバル」でのイベントのひとつ、「心に残る本の作り方」と題されたブックトークでの一コマ。講師は夏葉社の島田潤一郎さん。

この「岡山のラーメン店」の話になる前に島田さんは自分がどういう本を作ってきたか、どういう本が売れて、どういう本が売れなかったかの話をしていました。

さて、教室に30人くらいいた人の挙手の結果は?

ですが、それは後ほどということで、今日も姫路文学館で開かれている木山捷平展の話を。本の話です。


展示会場となっている北館の1階入口のエントランスには木山捷平の現在販売されている本が並んでいます。でも、その中に今回の木山展のポイントである詩集はないんですね。

講談社文芸文庫から出ていた『木山捷平全詩集』が絶版になっていることを知ったのは今年になってのことでした。それどころか講談社文芸文庫からあれほどにたくさん出ていたものはたったの2冊になっていて(『氏神さま・春雨・耳学問』と『落葉・回転窓 木山捷平純情小説選』)、文学館で売っていたのはその2冊と、あとはデザイン的にもなんだかな~って感じの小学館のP+D BOOKSの2冊(『大陸の細道』と『耳学問・尋三の春』)、それから、出してくれたのはうれしかったけど最初に読む本としてはあまりお勧めできないなという幻戯書房の2冊(『暢気な電報』と『行列の尻っ尾』)の計6冊(だったはず)。この中で最初に読む本としてお勧めするとすれば文句なく講談社文芸文庫の『氏神さま・春雨・耳学問』となりますが、『木山捷平全詩集』が置かれていないことに愕然としてしまいました。

ちなみに同じ場所で販売されている『図録』には今回の木山展での重要な詩を含めて全部で14の詩と、さらにノートや原稿に書かれた貴重な詩の写真も数多く掲載されており、値段も1000円なのでぜひそちらを購入してくれたらと思います。

それにしても講談社文芸文庫から『木山捷平全詩集』を再版されることはもうないのでしょうか。山高登さんが装幀した素晴らしきこの愛蔵版『木山捷平全詩集』(三茶書房)なんかももう二度と作られることはないでしょう。


ただ、もしもそれに近い形で木山捷平の詩集を出してくれるところがあるとすればそれは夏葉社以外に考えられません。

ちなみに三茶書房の『木山捷平全詩集』は330ページ。そこから最後に付録として収められた短歌・俳句を省けば300ページ。さらに最初に詩集で出た時の序文やあとがきなどを省けばもう20ページくらい少なくなります。さらにさらに未発表詩篇にあるいくつかの詩を省き、『野』や『メクラとチンバ』や『木山捷平詩集』に掲載されたものでも、まあこれはいいかなと思えるものを省いていって、詩を年代順に並べて配置などを考えていけば200ページを切ることもできるかもしれません。そう、160ページの詩集。


さて、最初の話に。

岡山のイベントのブックトークで島田さんが教室にいた人たちに出した「『岡山のラーメン店』という本を出すとすれば1000ページ、500ページ、300ページ、160ページのどの本を買いますか」という問い。圧倒的に160ページの本でした(1000ページも500ページもゼロ、300ページが数人、残りが160ページという結果)。僕ももちろん160ページに手を挙げました。

この前に話した島田さんの話、たとえば「何かを省いたときに本というものは充実する」とかといった言葉が効いていたことは確かでしょうけど、でも仮にその言葉を聞いていなくても半数以上は160ページに手を挙げたんじゃないかと思います。

それはさておき、この160ページというのは島田さんが本を作るときのある程度の目安にしている数字じゃないかなと思いました。選択肢の数字の流れでいけば200ページでも100ページでもよかったわけですが、あえて160ページという数字が出たのにはそれなりの経験に基づいた背景があったはず。

ちなみに夏葉社の本で言えば1冊目の『レンブラントの帽子』がぴったり160ページ。その前に集英社から出ていた『レンブラントの帽子』から数編省いて160ページにしているんですね。それから『いちべついらい』もぴったり160ページ。詩集でいえば尾形亀之助の『美しい街』が松本俊介の絵をいくつか入れて176ページ。

そう、木山捷平の詩集が出るとすれば、まさにその尾形亀之助の『美しい街』が理想。本の色は三茶書房から出た愛蔵版の『木山捷平全詩集』と似たブルーで。

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タイトルは今回発見された詩稿のひとつの題名にもなっている「秋の友達」がいいかな。きっと僕だけでなく2000人くらいの人にとっての「心に残る本」になるはず。今年の秋に出たら最高です。


# by hinaseno | 2024-03-14 15:15 | 木山捷平 | Comments(0)

たまたま人から教えてもらって読んだ話の端っこの方で思わぬ発見や出会いをすることほど愉しいことはありません。それがまたしても続いたというのが今日の話。きっかけを与えてくれたのはやはりUさんでした。


その前に。

相変わらず”ほたるぶくろ”探しの日々が続いています。近所の草花を売っている店には種とかも売っていないし、ネットで買うのもな~と思いながら、どこかに咲いているところはないかと調べていたら姫路城のそばの好古園で6月から7月にかけてほたるぶくろが咲くとの情報を発見、これは行ってみなければ。でもほんとうはそんなに遠くない野に咲いているほたるぶくろを見つけたいし、できれば庭にも咲かせてみたい。

で、ほたるぶくろとともにいろいろと探っているのが木山捷平の奥さんのみさをさんに”ほたるぶくろ”とのニックネームを付けられた野長瀬正夫のこと。

まず前回、野長瀬正夫が坪田譲治の『びわの実学校』に童話を書いていたということだったので探したら、その創刊1号に「老人と子ども」と題された野長瀬さんの童話が掲載されていて、そのコピーを持っていました。

ほたるぶくろをめぐる話、そして”私の一人の愛人”_a0285828_14275692.jpg

ほたるぶくろをめぐる話、そして”私の一人の愛人”_a0285828_14280388.jpg


表紙と「老人と子ども」の題字に添えられた絵を描いたのはもちろん山高登さん。特に表紙の絵、そのデザインといい色使いといい、たまらないですね。これを見た当時の子供達はきっとわくわくしたはず。手元には野長瀬正夫の「古いアルバム」という詩が掲載された25号のコピーもありました。

さて、今回の発見の話。おそらくその佇まいとか人柄から”ほたるぶくろ”というニックネームをつかられたんだろうと思っていたら、彼が住んでいたのがホタルアパートだったからとったんだろうというのが前回までの話でした。

一昨日、Uさんから木山捷平の『自画像』に収められた「坂」というエッセイについてメッセージをくれたので、久しぶりに読んだんですね。『自画像』は前回紹介した『群島』と同じ永田書房から出ていて、それまでの未発表作品を集めたものなんですが、木山さんが詩から小説に移りだした頃の作品を収めた貴重な本。きっかけをくれたのはまたまたUさん。とりわけ「坂」は木山さんのいくつかの詩のもとになった出来事をエッセイに取り入れた素敵な作品で僕も大好きでした。たぶんブログのどこかに書いたはず。久しぶりに読んだけどやっぱりいい話。改めて今度きちんとブログに書いてみようと思います。

で「坂」を読み終えたあと、そのちょっと後のページに付箋を貼っているのに目が留まったのでなんだろうと思って見たらそれが「野長瀬正夫と私」(「詩人時代」昭和7年4月)というエッセイでした。このエッセイについては以前もブログで紹介していますが、いかに木山さんが野長瀬さんのことを好きだったかよ~くわかります。木山さんは結婚したばかりで、野長瀬さんにも奥さんがいるのに「彼は私の一人(いちにん)の愛人なのである」とか書いてます。「たった一人の友」どころか、たった「一人の愛人」なわけですからすごいですね。野長瀬さんのそばにいると木山さんの”女性性”が出てくるのかもしれません。

というわけでニコニコしながらエッセイを読み進めていたら、最後の方にこんな話が。


 私は始終彼と顔を合わせてゐるが、つい二三日前もふらりと彼の翠洋荘を訪ねた。それが現在(1932年1月9日)の私にとっては、最後に逢ったわが野長瀬正夫である。
「翠洋荘といへば植木屋ですか。」と誰かが訊いたといふが、さういふアパートの一室の古雑誌の中で、彼は火鉢を抱いて坐ってゐた。
「やあ」
「よう。よう。」


この部分、この日のブログにも引用していましたね。目を留めたのは野長瀬さんの住んでいるアパートの名前。

翠洋荘。

ん? 野長瀬さんの住んでいたのはホタルアパートではないの? でした。


木山さんが野長瀬正夫のアパートを訪ねたのは1932年(昭和7年)1月9日の「二三日前」。残念ながら日記にはそれにふれた記述はありませんでした。

昭和7年1月1日から始まる木山さんの『酔いざめ日記』に野長瀬正夫の名が最初に出てくるのは昭和7年3月1日の日記。「野長瀬を訪問」とだけ書かれていてアパートの名前はなし。

次に野長瀬正夫を訪問した話が出てくるのが先日紹介した昭和7年11月20日の日記、「村井武生来訪。共に野長瀬君をホタルアパートに訪う、留守」ですね。

さて、これをどう考えるべきか。

可能性の一つめは、この間に野長瀬正夫が翠洋荘からホタルアパートに引っ越したと。

ちなみに木山さんはこの昭和7年の3月にそれまで住んでいた大久保のアパートからから阿佐ヶ谷の「サクラアパート」に引っ越し、さらにひと月あまりでそこを引き払って杉並町馬橋に移っています。まあ、木山さんと野長瀬さんをいっしょにはできないけれど。

ただ、野長瀬さんが昭和7年のいつからかホタルアパートに住むようになって、以後はどこにも引っ越しをせずにホタルアパートに住み続けていたとしても、そこに木山さんが訪ねていった期間は長くて10年ほど。木山さんは昭和19年末に満州に行き、野長瀬さんは昭和20年に郷里の奈良県十津川村に疎開したので。ホタルアパートが空襲を受けずに残って、そこに野長瀬さんが戻ることもなかったはず。

木山みさをさんの『生きとしあれば』(1994年)の野長瀬さんについての話は野長瀬さんが1984年に亡くなって以降に書かれたものなので、ホタルアパートに住んでいた時代からは50年以上も経っていたはず。僕なんか自分が以前住んでいたアパートの名前すら覚えていないのに、そんなの覚えていないはず、と考えます。

で、僕が思うのはいつ頃からか木山さんとみさをさんの間で野長瀬さんはほたるぶくろに似ているなと言ってたんじゃないかと。で、正式には翠洋荘とついていた彼のアパートを二人でホタルアパートと呼ぶようになったと。ホタルアパートに住んでいたからほたるぶくろというニックネームを思いつくにはイメージの飛躍がありすぎるし、なんていったってほたるぶくろの写真を見ても、木山さんやみさをさんが野長瀬さんについて書いた文章を読んでいても、野長瀬正夫はほとるぶくろにしか思えなくなってしまうのだから。

と、書きつつ、いずれにしても木山さん宛の手紙に添えられた野長瀬さんの住所は一応確認したいですね。


訂正:木山みさを『生きてしあれば』の「寂聴氏の花」によれば、「長男出産の産褥にある時」に記した「紙片」に「野長瀬正夫(ほたるぶくろ)」と書いていたということなので、ニックネームを考えたのは長男の萬里さんが生まれた昭和11年以前ということになりますね。お詫びして訂正します。


# by hinaseno | 2024-03-13 14:30 | 木山捷平 | Comments(4)