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by hinaseno
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縁側ってのは縁


相変わらず暇を見つけて(見つけなくても)、大瀧さんが出演したラジオ番組をいろいろと聞いています。車の中ではずっと「ゴー!ゴー!ナイアガラ」。家ではいろいろ。

昨日から聞いていたのは1997年1月5日放送の新春放談。この新春放談でおっと思ったのは「築地の路地裏」という言葉がたとえ話として出てきたこと。大瀧さんが1996年6月に始めたインターネットのサイト「アミーゴ・ガレージ(Ami-go Gara-ge)」のあり方について達郎さんが「築地の路地裏」というたとえを使ったんですね。こんなやりとり。


山下:いいじゃないですか。築地の路地裏の、なんか一杯飯屋みたいで。
大瀧:(笑)だからそれを目指したわけ。そういうのってさぁ、私の得意のパターンだけど“聖地はスラム化する”というナイアガラ語録があってね。そういう路地裏のようなものを守るってのは、もう今や意図的にやるのは非常に難しい。

大瀧さんはこの「築地の路地裏」のたとえがいたく気に入ったようで、このあとご自身も何度も使っているのですが、このまさに10年後にその「築地の路地裏」を実際にしらみつぶしに歩かれたことを考えると、なんとも面白いですね。大瀧さんにとってはこういう達郎さんの口からぽっと出たような言葉も「縁」のひとつになっていたんだろうと思います。

「縁」といえば、「路地裏」の例えの流れで、「最近”縁側文化”ということを言ってるんだ」と話されたんで、何のことだろうと思って調べたら『インターネット・マニア』という雑誌の1996年11月号のインタビューでそれを語っていました。タイトルは「アミーゴ・ガレージは”縁側文化”を目指す」。『大瀧詠一 Writing & Talking』に収録されていました。


「縁ていうのが好きでね、昔から。縁があるかないかで全部決めてるんですよ、世の中。縁てのはなかなかに面白い言葉で。”アミーゴ・ガレージ”やってて最近気に入ってるのは、“縁側”という言葉。縁の側。そのぉ、中に入らないんですよ、お客さんは。庭を通るときに、縁側に寄ってお茶を出される。旅人ならばまあその縁側へいったん座って、お茶を出されて何時間かの話をして通り過ぎていくと。縁側ってのは縁なんですね」


「縁を作る、契りを結ぶ場なんだろうね。縁があるかないかを、縁側で判断する。そこで家の中に入る人もいれば、縁側に座るだけの人もいる、縁側を見ながらそのまま素通りする人もいれば、庭先のはるか遠くを通って行く人もいる……。これがなかなかに人生かな、と思う。で、まさに、この”アミーゴ・ガレージ”は縁側だな、と思うんだよ」


「来る旅人の心構えで出口も違うと、ね。その”縁側”で縁が結べるかどうかというようなまさに”縁側文化”みたいなところまでインターネットも進んで、使えたらね、これはもう人間の勝利だと思うけど」

その大瀧さんのアミーゴ・ガレージも熱心に更新されていたのは2、3年だったでしょうか。で、ある日、ばっさりと全て消されたんですね。

ちなみに僕がインターネットを始めたのは1998年7月。”アミーゴ・ガレージ”は後追いで見ていましたがあまりにも情報が膨大で全部を消化できない状態でいたら、ある日突然消えていたんです。

泣きました。

縁がなかったんだと言われれば、それまでなんだけど。


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# by hinaseno | 2017-06-27 12:15 | ナイアガラ | Comments(0)

昨日、木山さんの名前が載っているこの名簿を見て思い出したことがありました。

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3年ほど前のことになりますが、木山さんが荒川小学校にいた時期に職員だった人のことをいろいろと調べたんですね。基本的にはネットでの検索。名前と「姫路」で入力したら何人かはヒットしました。ただし同姓同名の可能性もあって、結論的に言えばこれっていう人は見つかりませんでした。

でも、ただ一人、気になった人がいたんですね。木山捷平の2つ右に名前が載っている中村治三という人。木山さんと同期で荒川小学校に来ていますが、木山さんとは違って10年間荒川小学校に勤務しています。

ということもあってか『荒川小学校百年誌』を見ると、昭和初期の卒業生の何人かは中村先生の思い出を書いています。かなり個性的な先生だったようです。


さて、「中村治三」「姫路」で検索したときにヒットしたのがこの『国宝 姫路城』という本でした。

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姫路城のガイドブックで、姫路城のいろいろな場所を撮った写真が掲載されていて、最後に「姫路城物語」という文章を中村治三という人が書いているんですね。

そして本の編者も中村治三。

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とりあえず中村さんのプロフィールのようなものが載っていればと思って本を取り寄せたんですが、残念ながらプロフィールどころか、中村さんの肩書きもありません。本の出版年すらわからない。発行所に電話したらつながったんですが、この本を出版した当時の人はだれもおらず、本に関して詳しいことは何もわからないとのことでした。


というわけで、本に関しても中村治三という人についてもそれっきりになっていたのですが、昨日、久しぶりにこの人の名前を見て、もしやと思って木山捷平の『酔いざめ日記』を調べたら、なんとこの中村治三という名前があったんですね。しかも姫路の話の中に。

書かれていたのは昭和36年5月14日の日記。


 昨夜八時四五分東京発急行安芸、寝台にのり今朝八時四十六分姫路着。
 白鷺中学校体育館に行く。(バス坂本下車)元三九連隊旧四六部隊跡に出来た校舎という。
 大正十二年生の会。元賀陽宮あとが市民寮となっていた。二十人ばかり集まった。
 御幸通り伊沢旅館に五人で泊った。翌日、中村治三君の案内で姫路城見学。書写山、手柄山にのぼった。富士製鉄見学した。この夜、福田旅館泊り。会計1500円。

白鷺中学校というのはおひさまゆうびん舎のすぐ近くですね。「坂本」で下車となっていますが、これは「坂元」の間違い。

「大正十二年生の会」ということなので、どうやら姫路師範学校のときの同窓会があったようです。

で、「翌日、中村治三君の案内で姫路城見学」。「氏」ではなく「君」となっていることから、この中村治三はきっと荒川小学校のときの同期の人のはず。何らかの形で連絡を取り合っていたんでしょうか。

で、その中村さんの案内で姫路城見学。とすると、中村さんは姫路城に詳しいことが考えられます。つまり、『国宝 姫路城』の編者と同一人物の可能性が極めて高い。つながりましたね。


それはさておき「御幸通り」とか「手柄山」とか、馴染み深い場所が出てきてなんともうれしいですね。


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# by hinaseno | 2017-06-26 15:00 | 木山捷平 | Comments(0)

『荒川小学校百年史』


東京旅行と、それに関連した話もようやく終わり。長い話を書き終えて、そういえば、とつい先日思い出したことを。


東京はゴールデン・ウィークの最終日に行ったんですが、ゴールデン・ウィークの最初に行ったのが姫路のおひさまゆうびん舎でした。そこで益田ミリさんの『今日の人生』と山高登さんの『東京の編集者』を買って、それから『今日の人生』について語り合う会をしたんですね。

その日買ったりもらったりしたものを入れたかばんが『今日の人生』と『東京の編集者』だけ取り出してそのままになっていることについ先日気がついて取り出してみたら、あっと思うものが。

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『荒川小学校百年史』。

おひさまに行く前にいつもちょこっと立ち寄る、おひさまのすぐ近くにある古書店で見つけたもの。すっかり忘れていました。

この本には木山捷平の名前が載っているんですね。もちろん「旧職員」のページ。おひさまにいた人にも見せてあげればよかった。

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「木山捷平 昭和2・4~3・3」と記されています。

これを図書館で初めて見つけたときの感動はいまだに忘れない。ただ「木山捷平」の名前が載っていたからではなく、”あの”荒川小学校のものだったから。

大瀧さんにとっての成瀬研究にはいくつもの「たまたま」があったように、僕の木山捷平研究にもいくつもの「たまたま」があったわけですが、とりわけ大きな「たまたま」が荒川小学校でした。

改めて『荒川小学校百年史』をじっくりと見ていたら知っている名前が数十名。

気がつかなかった。彼らのうちでだれかひとりでも、人生のどこかで「木山捷平」に気づく日がやってくるんだろうかと考えてしまいました。


さて、昨夜はかなり強い雨が降っていましたが、今朝は雨があがっています。でも、日は差してこないかな。しばらくは梅雨らしい鬱陶しい日が続きそう。というわけで久しぶりに木山捷平の詩を。タイトルは「雨あがりの朝」。


 雨あがりの朝――
 しめりのいい校庭に朝日がさして
 ひろびろと広い校庭よ
 女の子がひとり
 はや学校にやつて来て
 ひとりでまりをけつて遊んでゐる。
 白い新しいまりを追ひかけ
 追ひかけてはけつて
 ひとりでかけまはつて遊んでゐる。
 さくらの若葉がきらきらと朝の微風にかがやいて――
 ひろびろと広い校庭の朝よ。


姫路の荒川小学校にやってくる2年前の大正14年、東京の雑司が谷に住んでいたときに書いたもの。下宿していた家の目の前には小学校があったので、その風景を描いたんでしょうね。

木山さんの詩に出てくる子供は集団よりも個(ひとり)の場合がほとんど。ただ、「個」といっても、木山さんはそこにさびしさではなく自由や希望を見ているんですね。こんなちょっとした詩の中にも木山さんの教育観が出ています。でも、その教育観は当時の(今もそうなりつつあるけど)教育の現場には合わないことはいうまでもありません。悩み、苦しんでいたでしょうね。


ところで益田ミリさんの『今日の人生』の予約特典としていただいたミリさん撮影のこの写真。

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船場川のはるか向こうに見える山の麓の赤丸のあたりに木山さんがいた荒川小学校があります。


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# by hinaseno | 2017-06-25 12:51 | 木山捷平 | Comments(0)

高峰秀子、三吉橋を渡る


先日、日本映画専門チャンネルで放送された成瀬巳喜男の『女が階段を上る時』、主演が大好きな高峰秀子さんでDVDも出ているんですが、見るのはこれが初めてでした。高峰さんが演じるのは銀座のバーの雇われマダム。というわけで銀座近辺と思われる風景がいくつも出てきます。ただ、路地が多くてほとんどわからないけど。

でも、少し前にこのブログで紹介した佃の渡しはすぐにわかりました。『東京の編集者』(夏葉社)の表紙に使われた山高登さんの写真と同じ風景だったので。

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実はその前にこんなシーンがありました。高峰秀子と仲代達矢がどこかの橋の上を歩いています。

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昔の映画に出てくる東京の風景の中で、とりわけ気になるのが橋と川。というわけで、映画を見終えた後で調べてみたらびっくり。なんと、あの三吉橋の上を歩いていたんですね。大瀧さんが通っていた音響ハウスのすぐそばの橋。で、驚いたことに…。

その前に戦前の三吉橋周辺の地図を。

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以前、三吉橋の絵葉書を紹介しましたが、実は三吉橋の絵葉書は同じ時期に撮影されたものが3枚あります。三又の橋を3方向からとらえているんですね。

まず、これ。

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地図の癌研究会付属病院と書かれている建物のあたりから緑の矢印の方向をとらえています。三吉橋の向こうにはいろんな映画によく出てくる築地橋が見えます。左端に映画のシーンに映っている建物がありますね。

次がこれ。

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地図の水色の矢印の方向をとらえています。正面にある建物は京橋区役所。

で、その京橋区役所から撮影したはずの絵葉書がこれ。

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地図の赤色の矢印の方向を写しています。向こうに見えるのはあの新富橋。

年代を知りたかったのでこの絵葉書だけ手に入れました。でも残念ながらどこにも年代の記載はありませんでした。


さて、『女が階段を上る時』に戻ると、高峰さんは地図の紫の方向を歩きます。そして橋の途中で立ち止まって振り返ります。

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なんと向こうに見えるのは新富橋、そして(たぶん)鈴木ビル。

で、次のカット。

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高峰さんのバックにはっきりと新富橋が映っています。橋の上を車も走っていました。


ところで『女が階段を上る時』が公開されたのは昭和35年(1960)1月。『秋立ちぬ』と同じ年に公開されていたんですね。『秋立ちぬ』の公開は10月。ちなみにこの年、成瀬は4本も映画を撮っていて『秋立ちぬ』が4本目。

成瀬が『秋立ちぬ』の構想をいつ立てたかはわかりませんが、その最も重要な場所である新富橋をちらっと写しこんでいるのは意図的なものなのか、それともたまたまなんでしょうか。


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# by hinaseno | 2017-06-24 14:59 | 映画 | Comments(0)

古関裕而はタイトルに「福島」とついている曲をいくつか書いています。まずは昭和6年(1931)に発表された「福島行進曲」。作詞は古関裕而と同じ福島出身の野村俊夫。

そのレコードの裏面に収録されたのが「福島夜曲(セレナーデ)」。作詞は福島ではなく、わが岡山出身の、僕にとってはあまりにも身近な存在である竹久夢二。


夢二が詩を書いた「福島夜曲」の話はこのブログで何度か書きましたが改めて。

夢二は早稲田の同窓生である福島出身の助川啓四郎(後に衆議院議員)と親交していた関係で福島に何度も行っていました。昭和4年に福島で夢二展が開催され、それを聞きつけたの当時20歳の古関裕而が会場に出かけます。古関裕而はコロンビアに入社したばかり。

彼が会場で目にしたのが巻紙に描かれた「福島夜曲」と題された詩画。その作品に強く心を打たれた古関裕而はそこに書かれた詩を全てノートに写し、帰宅してすぐに曲作りを始めます。で、出来上がった曲を持って夢二の宿泊先に行き、曲を献上したんですね。


このエピソードを知って「福島夜曲」の話をこのブログに書いたら翌日アゲインの石川さんから超速攻でこの「福島夜曲」の音源を送ってくれたんですね。例のSP講座の古関裕而特集のときのもの。

で、それからしばらくしてある方から『夢二と福島』という本にその絵が載っているというメッセージをいただいて本を手にいれてこの日のブログに貼りました。

ただ、本に掲載された絵は白黒で、しかもとても小さなもの(ブログには拡大して貼りましたがかなり見づらいものになっています)。さらにこの絵が現存しているのか、現存しているのであればどこにあるかなどは書かれていませんでした。

というわけでそれ以降も夢二の画集が目に入れば手にとってパラパラとめくって、この「福島夜曲」の絵を探す日々が続いていました。


そんなある日、って実はつい先日なんですが、思わぬところでこの絵がカラーで収録された画集に出会ったんですね。

それは毎月、夢二関係のお菓子を買いに行っている店。行くと必ずお茶とお菓子を出してもらえるんですが、先日、テーブルに座ったら目の前に1冊の本が飾られていました。見ると夢二の画集。15年ほど前に開かれた展覧会用に作られたものでした。どこかで目にしたかもしれないなと思いながらペラペラとめくっていたらなんと「福島夜曲」の絵が。しかも絵の下の解説には古関裕而のことも。

びっくりして店の人にその本のことを聞いたら、少し前に店のお客さんがお店に置いてくださいと持ってこられとのこと。もちろん売り物ではありませんでした。

タイトルは『漂白する心 竹久夢二 追想展』。市販されているものではなく、しかもちょっと古いものなのでしたが運良く見つけられてゲットしました。

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これがそのページ。

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『夢二と福島』に掲載されたものとはこんなにサイズが違います。

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比べてみて驚いたのは『夢二と福島』の2枚目に掲載されたものは実は上下逆さまになっていたんですね。何の絵が描かれていたかわからなかったはず。小川に架かる橋の絵だったとは。


ところで『漂白する心 竹久夢二 追想展』には「福島夜曲」の絵が収蔵されている場所も書かれていました。

竹久夢二伊香保記念館。

群馬県でしたね。ちょっと行くのは大変そう。でもきっといつか見る機会があるはず。その会場に古関裕而の曲が流れていれば言うことはありません。そのとき”あの”古関裕而の曲だと思う人がはたしてどれだけいるんでしょうか。



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# by hinaseno | 2017-06-23 12:29 | 音楽 | Comments(0)