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by hinaseno
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一昨日、古関裕而の「福島夜曲(セレナーデ)」と「福島行進曲」のことを最後に書きましたが、昨夜、仕事から戻ると一通の見覚えのある小包が届いていました。もちろんアゲインの石川さんからのもの。
中に数枚のCD。すべて石川さんの店、アゲインで行なわれたSP講座で使われた音源(講師は郡修彦さん)。
その中に古関裕而のものが2枚。
一つはスポーツや軍歌関係、もう一つが歌謡曲を収めたもの。

どきどきしながらその歌謡曲篇の曲目を見る。
1曲目が「福島行進曲」。
そして2曲目が「福島夜曲」(「ふくしませれなーで」と読むんでしょうね。「福島小夜曲」と表記されることもあるようです)。

「福島夜曲」は、昭和6年に阿部秀子が歌ってレコーディングされたオリジナルのもの。現在発売されている『古関裕而全集』にも収められていないもの。それを確認しただけで感激で涙があふれそうに。
それをぐっと抑えてCDをセットして2曲目を。
大きな音ではかけられないので、小さな音で聴く。
スポーツ関係の勇ましい曲とは全く違う、弦楽器を使った静かなメロディが流れてくる。思った通りの美しい歌。胸がいっぱいになる。

「福島夜曲」は昭和6年にレコーディングされていますが、曲が作られたのは昭和4年に福島で竹久夢二展が開かれたときのこと。福島に来ていた夢二が滞在中に即興でかいた「福島夜曲」と題した詩画(詩のついた絵)を見て深く感動した古関裕而が詩をノートに書き写して家に戻って曲をつけたそうです。古関裕而はできあがった曲を楽譜に書いて夢二が滞在していたホテルに持っていって手渡し、その場で曲を歌ったとのこと。古関裕而と夢二との交流はその後も続いたそうです。

夢二が書いた詩は全部で12篇(「福島夜曲」の詩画は夢二の何かの画集に載っているんでしょうか?)。そのうちの3篇が選ばれて曲にされています。 今日、『全集』が届いたので聴き比べていたら、オリジナルの阿部秀子が歌っているものと昭和50年に島田祐子に歌われたものと3番の歌詞が違っていました。

まずはオリジナルの歌詞。

遠い山河(やまかわ)
たずねて来たに
吾妻しぐれて 見えもせず

奥の細道
とぼとぼ ゆきゃる
芭蕉様かよ 日の暮に

信夫(しのぶ)お山に 
おびとき かけりゃ
松葉ちらしの 伊達模様


昭和50年に島田祐子に歌われたものは3番がこうなっています。

会津磐梯山が
ほのぼの 身ゆる
心細さに 立つ煙か


a0285828_2135064.jpgどうやらもともとの夢二の詩はすべて「七・七・七・五」の定型詩のようです。同じメロディでどの詩も歌えるということで、昭和50年のときには別の一篇が選ばれたようですね。でも、昨日貼った古関裕而の直筆色紙の音符の下に書かれている歌詞はオリジナルの3番の歌詞。そしてその下に書かれている絵は信夫山のはず。信夫山という名前がついていますが実際には3つの山のようです。標高275mですからそんなには高くないですね。でも、福島の市街地からは目立つ山のようです。

メロディを伝えるのは難しいですが、古関裕而はもともとクラシックを学んだ人ですので、全体的にはクラシック、あるいはオペラの要素が強いようです。ただ、1番の歌詞でいえば「たずねて来たに」の「来たに」の部分は日本的な、個人的にはぐっとくる旋律。
で、次の「松葉ちらしの」のところでいきなり1オクターブ上がります。大丈夫かなと思うほどの高い声。でも、阿部さんはきっちり声が出ています。もともと声楽をされていた人なのかもしれません。 島田祐子は古関裕而の指名ということらしいので、当然歌はうまいです。

昭和50年にレコーディングされたものはかなり多くの楽器が使われて演奏されていますが、オリジナルは楽器は弦楽器(おそらくバイオリンとチェロ)とピアノのシンプルな演奏。個人的にはやはりオリジナルのシンプルな演奏の方が好みです。
いずれにしても本当にきれいな曲。同じ年に作曲された早稲田大学の応援歌とは全然違います。
この「福島夜曲」にスポットがあたる日がくればいいですね。原発事故のあった今こそという気がしないでもありませんが。

今年は思い出に残るいろんな曲に出会うことができましたが、この「福島夜曲」も大切な1曲になりました。

何の縁もなかった福島に、夢二と古関裕而を通じてつながりを持つことができました。

下は信夫山(しのぶやま)の写真。ふと思って調べてみたら、昔、信夫山という力士がいたんですね。きっといるだろうと思いました。
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# by hinaseno | 2012-10-25 21:48 | 音楽 | Comments(1)

秋をふらふら


今朝はぐっと寒くなりました。
久しぶりに木山捷平の話です。

今日は昭和2年、木山さんが姫路の千代田町にいたときに書かれた詩を紹介します。
木山さんの若いときに書かれた詩の中で、特に好きなものの一つです。
この詩は『野人』に収められたものと、後に昭和4年に抒情詩社から出版された『野』(現在出ている『木山捷平全詩集』に収録)に収められたものと、少しだけ違っています。ここでは『野人』の第三輯に収められた方を。謎の「姫路市南畝町288」にあった野人社から発行されたものですね。
タイトルは「ふらふらと」。

たつた一つしかない猿股を
洗つてほしておいたら
ぬすまれた。
仕方はない
なんにもはかないで
ふらふらと
職をさがしてあるいた。
十月ももう末の頃
秋風が股からひやひやと
ひとへものでは寒かつた。

「職をさがしてあるいた」とありますね。詩の主人公が木山さん自身とは限りませんし、詩の題材とされたことがそれを書いたときに起こった出来事とは限りませんが、この時期木山さんは荒川小学校に勤務しています。でも、この詩誌の発行や知人に送ったりするのにお金が必要だったんで、いろいろとちょっとしたアルバイトを探していたのかもしれません。

この詩のポイントは何といっても「仕方はない」というところですね。
『野』に収められたものとの違いは、この部分。『野』の方には感嘆符が付けられています。
「仕方はない!」と。
でも、僕は『野人』の頃の、強がろうとしても元気のない木山さんを愛します。

『野人』は第五輯まで出ていますが、この第三輯には他の4輯にない特徴があります。第三輯にだけ「後記」がないのです。で、毎月発行していたものが、次の第四輯が出るまでにひと月空きます。そして第三輯まで発行してきた「野人社」の住所は「姫路市南畝町288」から「姫路市千代田町800(吉川方)」、つまり自分の下宿先に移ります。

何かがあったんですね。第三輯を発行する時期に。
第四輯にはひと月空いたことについて「事情はお察しのとほり」とだけ書いている。それからそのあと「暫く理窟は云はぬ約束になつてゐる」とも。
そう、『野人』の第一輯の後記で、彼はこう書いているんです。
「私はどうも理窟が言へない。だから當分理窟は言はぬつもりだ」

「理窟」、今の言葉で言えば「言い訳」でしょうね。あるいは人のせいにするような言葉も含まれているのかもしれません。そういうのを口にしたり書いたりするのが好きではないんですね。というか、もともとそういうことができない人だったのかもしれません。僕のイメージする「東北人」の気質に似ているように思います。

でも、おそらく「第三輯」を発行するときには、その「理窟」を言いたくて仕方がないような出来事があったんだと思います。「後記」を書くと、どうしてもそれを書かずにはいられないような気がする。で、結局、彼は「後記」を一切書かないことにしたんですね。

改めて「ふらふらと」の詩を見てみます。
「 十月ももう末の頃」と書かれていますが、実は第三輯が発行されたのは9月1日。印刷が8月20日。つまり真夏に書かれています。詩では猿股が盗まれたとなっていますが、実際には木山さんにとって、何かもっと大きな、大切なものがこの時期に失われたような気がします。その気持ちを10月の終わり頃の風景に重ねた。でも「理窟」は言いたくない。だから結局、出てくる言葉はただ一つ。
「仕方はない」

僕がこの詩を最初、『全詩集』で読んだときはちょっと吹いてしまいました。おもしろい、いかにも木山さんらしい詩だなと。
でも、『野人』でこの詩を読み返したとき、この詩に漂っている何とも言えない喪失感にたまらない気持ちになりました。「感嘆符」がついていないこともすぐに気づきました。
「ふらふらと」は『野人』第三輯の最後のページに収められています。その隣の最後のページには、他の号であれば、下の発行人の名前などが書かれた枠の上に書かれているはずの「後記」の部分が空白となっています。『野人』の中でもっともさびしい風景です。
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# by hinaseno | 2012-10-24 09:25 | 木山捷平 | Comments(0)

大瀧さんが古関裕而の”ある曲”に関する話をされていたことを思い出したのは、東日本大震災からかなりの月日、おそらくは半年以上もたってのことでした。
いったい、いつ、どこでしゃべっていたんだろうと記憶を辿りました。
可能性のあるものは2つしかない。1つは1984年から毎年続いている山下達郎さんとの「新春放談」、もう1つはラジオデイズというダウンロードサイトで2007年から始まって毎年続けられている「大瀧詠一的」という対談番組。大瀧さんがその話をしたときの”相手”の反応の記憶をよびおこすとおそらく後者の方だろうと判断しました。

2010年のものを聴いてみる。出てこない。
次に2009年のものを聴いてみる。トータル2時間にも及ぶ対談。なかなか出てこない。
でも、番組もかなり後半に近づいたところで、その話が出てきました。正確にいえば6回に分けられている「大瀧詠一的2009」の5回目(5/6)の15分あたりから”その話”が出てきます(現在でもこの放送はダウンロード可能です。ぜひ聴いてみて下さい)。

話は(また、いつものように)少しそれますが、古関裕而の誕生日は明治42年(1909年)8月11日。僕に大瀧さんに関するいろんな音源を送って下さっているアゲインの石川さんと誕生日が同じなんですね。ラジオデイズというサイトは石川さんの同級生である平川克美さん(現在、朝日新聞で毎週「路地裏人生論」という連載をされています)が始められたものです。「大瀧詠一的」で大瀧さんと対談されているのは、その石川さん、平川さんともう一人の同級生である内田樹さん(神戸女学院で昨年まで教鞭をふるわれていたので僕の意識では内田先生です)。ご三人とも心から尊敬している方々です。この三人の方を知ったきっかけなどを話し出すと、ものすごく長い話になりますので今日はやめておきます。でも、その三人の方が大瀧さんと対談されるまでに至る”過程”をずっと見てきていましたので、対談が実現したときは自分のことのようにうれしく思いました。

さて、その「大瀧詠一的2009」での大瀧さんの話。こんな言葉で語られ始めます。
「僕が全部灰に帰するというイメージをしたときに、ほっとしたいというときに流れてくるメロディがあるんだよ」
「全部を失ったときに、それでもほんわかするっていう」

大瀧さんの長年のファンとして、この言葉の後にどんな曲が語られることになるのか、この言葉を初めて聴いたときに息をのみました。
そして大瀧さんの口から語られたのがこの曲。古関裕而の「ひるのいこい」という曲でした。


僕は大瀧さんのこの言葉を聴いて(「大瀧詠一的2009」が録音されたのは2009年の暮れで、ダウンロードが可能になったのは年が明けてのことでしたでしょうか)、すぐにYouTubeで、おそらくはこれと同じ音源を聴いたと思います。で、正直な感想をいえば、えっ、というものでした。たぶん2、3度聴いてそれっきりだったと思います。古関裕而については、たぶんそのときにいくつか調べて、へ〜え、こんな曲も作っているんだと確認した程度でそれ以上入り込むことはありませんでした。

でも、震災があって、全てが失われた風景を見続けたある日、大瀧さんのこの言葉をおぼろげに思い出し、放送されたものを聴き返し、改めて古関裕而の「ひるのいこい」を聴いたときは、まさに大瀧さんのおっしゃられた通り、心からほっとした、ほんわかした気持ちになることができました。でも、こんなことを言ったら申し訳ないかもしれませんが、しかも実際には震災の被害を全く受けることのなかった人間が言うのもいい気なものですが、震災がなければ、この音楽も、古関裕而という音楽家とも出会うことはできなかったように思います。

2009年というのは古関裕而さんの生誕100年で、古関裕而さんに関するいろんなイベントがあったり全集の CDが発売されたりと、古関裕而さんに関してのいろんな動きがあったみたいですね。大瀧さんはもちろんご存知だったんだろうと思いますが、僕は全然知りませんでした。
生誕100年を記念した「古関裕而 うた物語」というサイトがあるのも昨日見つけました。そこには「ひるのいこい」についてこう書かれています。
昼すぎのひと時、NHKラジオから流れる田園の風景を思わせるメロディーは、戦後まもなくから続いている長寿番組です。番組は当初、「農家のいこい」といい、後に「ひるのいこい」と名称を変え、もう半世紀以上も国民に親しまれています。
 作曲した古関は、「当時は農家の昼休みを想定して作曲した」(自伝『鐘よ 鳴り響け』)と言っていますが、「日本人は日本人だという意気で作曲したため、時代の変わった現在でも曲の価値は減ることはなく、かえって倍加している」(自伝)と高く評価しています。
私たちは「ひるのいこい」の音楽を聴くと、なぜか心が癒やされます。それは音楽の良さだけではなく、番組の話題そのものにもありそうです。作物の生育状況やそこから漂う土の臭(にお)い、懐かしい故郷からの便り。また自然の息吹や、素朴な日本の姿があったりと、私たちの心を慰めてくれるのです。

今年のある日、たまたま車のラジオをつけたらちょうど「ひるのいこい」が流れてきたことがありました。まだ続いていたんだと本当にうれしく思いました。

大瀧さんは「大瀧詠一的2009」で「ひるのいこい」のフレーズを少し歌われた後、改めてこう言われます。
「あの人、会津(福島)の人なんだけど、全部が灰燼に帰したときに、何にもなくなったときに日本人の心を救ってくれるメロディなんだと僕は考えているんだ」

正直、驚きますね。未来を予見していたとか、そんなオカルト的な意味合いではなくて。
でも、大瀧さんは同じ東北人である古関裕而が作ったメロディから、そういうものを感知してたんですね。そのことに対して僕は深い畏怖の気持ちを抱きました。

ところで、古関裕而が最初にレコーディングした曲に「福島行進曲」と「福島夜曲(セレナーデ)」というものがあることを、さきほどの「古関裕而 うた物語」というサイトで知りました。昭和6年にレコーディングされています。
前者の「福島行進曲」は例の西條八十作詞、中山晋平作曲の「東京行進曲」のヒットを受けて作られているようです。「○○行進曲」が次々に作られたんで主ね。
後者の「福島夜曲(セレナーデ)」は古関裕而の実質的なデビュー曲。なんと作詞が竹久夢二です。
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僕の母の生まれた場所が夢路の生家のすぐ近くで、先日、墓参りに行ったとき、今までは素通りしてたのに、その日、なぜかその近くの売店に立ち寄ってこんな絵はがきを買ってきたばかりでした。古関裕而は夢路を尊敬していたんですね。
夢二と古関裕而がつながるなんて、本当にびっくりしました。

残念ながらYouTubeには「福島夜曲(セレナーデ)」も「福島行進曲」もありませんでした。でも、ぜひ聴いてみたいと思います。
そして、できれば今だからこそ、それらの曲が日本全体に広まってもらいたいと心から願います。

下の絵は「福島夜曲」の直筆色紙。
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# by hinaseno | 2012-10-23 09:13 | 音楽 | Comments(1)

大瀧詠一さんによって知った東北出身の音楽家がもう一人います。
古関裕而(こせきゆうじ)。

これを読まれた方は、もしかしたら名前を聞くのは初めてかも知れません。でも、古関裕而の作った曲はいろいろなところで耳にしているはずの曲ばかり。今日はそんなかなり有名な曲を紹介します。ほとんどがスポーツに関係するマーチや応援歌です。特にスポーツに興味を持たれていなくとも知っている曲だろうと思います。
ただ、先に言っておけば、僕が大瀧さんによって古関裕而の名前を知ったのは、それらのマーチや応援歌とは全く違うタイプの曲。大瀧さんの言葉を使えば、心からほっとしたいときに聴きたくなるような曲。その曲を紹介するとき、大瀧さんは同時に古関裕而という人が東北の人であることを告げます。「会津(福島)の人」だと。2009年の末に語られた言葉でした。

では、今日は古関裕而のマーチや応援歌を、といってもたくさんありすぎますので、やはり1995年の日本ポップス伝でかけられたものを貼っておきます。ちなみに、前にも言ったように1995年に放送された日本ポップス伝をきちんと聴いたのは今年になってのこと。
考えてみたら、1995年は阪神大震災とオウム事件のあった年。数日前に僕は、この2つの事件の間にはさまれた月の物語である村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』のことに触れて、今こそ読まれるべき物語だと書きましたが、今、ちょうどNHKラジオで松たか子さんの朗読で村上春樹の短編が順番に3つ読まれていて、『神の子どもたちはみな踊る』から2作取りあげられています。先週が「かえるくん、東京を救う」、来週が「蜂蜜パイ」です。残念ながら僕の好きな「アイロンのある風景」、あるいはこれも先日少し触れた「UFOが釧路に降りる」ではありませんでしたが。
ちなみに今週は「七番目の男」。これは『レキシントンの幽霊』に収められた作品。個人的なことを言えばこの短編に収められた「沈黙」と「七番目の男」を読んだとき、村上春樹の変化を感じました。そのあたりで村上春樹から離れていった人は多くいるみたいですが、僕は逆にそこから彼に深く傾倒することになった思い入れの強い作品です。
『レキシントンの幽霊』には「トニー滝谷」という、大瀧さんファンならタイトルだけでピッと反応してしまう作品もあります。それについてはまた後日。

話がそれてしまいました。では、古関裕而の曲を。
まず1曲目は昭和6年に作られた「紺碧の空」という曲。早稲田大学の応援歌ですね。古関さんの作った最初期の曲の一つ。ちなみに早稲田は大瀧さんや村上さんの出身校です。村上さんはこの曲を口にされたことがあるんでしょうか。


2曲目は昭和11年に作られた「大阪タイガース(現阪神タイガース)の歌」。現在は「六甲おろし」として有名な曲。


阪神といえば巨人ですね。というわけで「巨人軍の歌」。「巨人軍の歌」は何度か作られているようですが、現在耳にする通称「闘魂こめて」は昭和38年に作られています。


古関裕而さんは昭和25年に中日ドラゴンズの応援歌である「ドラゴンズの歌」も作っていますが、日本ポップス伝ではかかりませんでした。中日ドラゴンズの応援歌はその後昭和49年に山本正之という人が作って板東英二が歌った「燃えよドラゴンズ」が有名になって、古関さんの歌は現在では歌われなくなったみたいですね。


次は昭和39年に作られた曲。昭和39年といえば、あれです。東京オリンピック。ということで、古関裕而さんは「オリンピック・マーチ」を作っています。


時代は前後しますが、昭和22年には一昨日に触れた「東京ラプソディ」を継承したような「夢淡き東京」という曲を作っています。歌っているのは「東京ラプソディ」と同じ藤山一郎。


他にも大瀧さんのポップス伝ではかからなかった有名な曲は数知れずですね。例えばこの高校野球のテーマソング。「栄冠は君に輝く」なんか聴いたことのない人はいないですね。


勇ましい曲ならば古関さんということだったのか、古関さんは軍歌もたくさん作られています。その一方で有名な映画のテーマ曲もたくさん作られています。「君の名は」とか「ひめゆりの塔」とか。
美空ひばりにも曲を作っていました。「花売馬車」という曲。昭和30年の曲。作詞は西條八十ですね。初めて聴く曲でした。


今日の最後は、森繁久彌の「荷物片手に」という曲。昭和32年に作られています。やはりはじめて聴く曲です。作詞は野口雨情。調べてみたらその年公開の映画『雨情物語』の主題歌でした。そんな映画があったんですね。森繁久彌は同じ年に野口雨情作詞、中山晋平作曲の「船頭小唄」を歌っています。映画の挿入歌で使われたんでしょうか。


「船頭」つながりでいえば昭和10年に「船頭可愛や」という曲をヒットさせていますね。「船頭小唄」の14年後。こっちも貼っておきます。


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# by hinaseno | 2012-10-22 08:21 | 音楽 | Comments(0)

野口雨情作詞、中山晋平作曲の「船頭小唄」の話がもう少し続きます。
今日は中山晋平がかいた曲のメロディと話、知ったようなことを語っていますが、僕はこの「船頭小唄」をこれまでまともに聴いたことがありませんでした。森繁久彌が歌っているのを何かでちらっと聴いた記憶がある程度。ですから、正直、僕にはまだ「船頭小唄」のメロディがきちんと身に付いていません。昨日、貼った音源を何度か聴いて馴染ませている段階です。その意味ではブログはもう一つのプレイリストの役目を果たしています。音源をたくさん貼るのも、自分が後で何度も聴き返すため。ということで、今日も何曲か貼ることになります。

昨日は「船頭小唄」の詞の影響をもろにうけて作られた「昭和枯れすすき」という曲のことに触れましたが、メロディのことでいえば似ているわけではありません。
でも、「船頭小唄」のメロディを受け継いだ曲が出てくるんですね。
その1つ目が藤山一郎が歌った「影を慕いて」という曲。昭和7年に作られています。曲を作ったのは古賀政男。この曲では作詞もしています。ギターも古賀さんですね。


この「影を慕いて」に影響を受けた曲は山のように作られるのですが、古賀さん自身も、この曲の根本と構造を使って、もう一度違う形で作り直した曲を昭和41年に発表します。日本の流行歌の中で、最高の曲といわれるものが生まれることになります。 それが美空ひばりの歌った「悲しい酒」。この曲のギターも古賀政男が弾いています(YouTubeの音源はオリジナルと書かれていますが、大瀧さんのポップス伝でかかったものとは違う気がします)。


この曲は、僕もテレビで何度も聴きました。ただ、おそらくは後年、もう少し暗さや影を増した歌い方がなされたものでしたが。

昨日も言いましたが、1955年に放送された「日本ポップス伝」の白眉はここからです。この古賀政男の作った「影を慕いて」や「悲しい酒」と、「船頭小唄」のメロディの聴き比べがなされます。調とテンポを同じにしてメロディだけを録音したものを左右のスピーカーから流しながら。するとメロディの根幹が見事なほど同じであることがわかります。大瀧さんは古賀政男は中山晋平の後継者であるとの指摘をします。
何年か前、服部克久さんの作った曲が〇〇さんの作った曲のメロディに似ているということで裁判になり、結局メロディのかなりの割合が類似しているという判断で、盗作という判決が出ましたが、それでいえば、これらの曲は盗作どころか同じ歌にすら聴こえます。でも、大瀧さんはそういうことを示そうとされているわけではありません。これらの曲に見られる旋律には、日本人の琴線に触れる普遍的なものがあると言うことなんだと思います。

さて、ポップス伝では、この後「船頭小唄」の元になっている曲が紹介されます。それが「天然の美」という曲。 作曲は田中穂積。もともとは「美しき天然」というタイトルで佐世保女学校の愛唱歌として作られたもの。今でも、両方のタイトルが使われています。その原曲が徐々にアレンジされ、のちのちにはサーカスやチンドン屋で聴かれるものになっていきます。で、この「天然の美」と「船頭小唄」のメロディの聴き比べがなされます。びっくりするくらいすごく似ているんですね。

詞がついたものはこれです。


ポップス伝では最後に、「天然の美」と「船頭小唄」と「影を慕いて」と「悲しい酒」を全部まとめてかけます。これすごいですね。微妙にメロディは違うけれども根幹は同じ曲がポリフォリック的に聴こえてきます。

a0285828_1415439.jpgちょっと話がそれますが、古賀政男が作って藤山一郎が歌った歌では何といっても「東京ラプソディー」が有名です。山下達郎さんはこの曲へのオマージュとして「新(ネオ)・東京ラプソディー」という素晴らしい曲を作っています。個人的には達郎さんのアルバムの中で最も好きな1枚である『僕の中の少年』の1曲目に収められています。


1988年、昭和の最後の年に作られた『僕の中の少年』は達郎さんのアルバムで、はじめて日本語のタイトルがついたものです(考えてみたらあとにもありませんね)。達郎さんの中で市井に生きる日本人への意識が強まっていたんでしょう。このアルバムに収められた「蒼氓」という曲にはその意識が色濃く反映しています。特に曲の最後に出てくる桑田佳祐さんの乾いた声は「枯れた」感じが出ています。


でも、やはり「蒼氓」も「新(ネオ)・東京ラプソディー」も都市生活者の歌という感じが拭えません。田舎者の僕にとっては都会的すぎます。達郎さんも桑田さんも都会に生まれた人。

さて、最後に昨日の話に戻ります。「平成枯れすすき」ですね。
大瀧さんの言われるように、日本のすすきは枯れないはず。でも、平成になって「船頭小唄」の野口雨情の書いた土着的でモノクロームな風景を描いた詞を受け継いだ曲も、「船頭小唄」(あるいは「天然の美」)のメロディを受け継いだ曲も生まれていないように思います。
「天然」といえば、僕のような大瀧さんのファンは反射的にこの曲が浮かんできます。『ロング・バケイション』の1曲目に収められた「君は天然色」。今でもCMで使われ続けています。なぜか、いつもイントロと曲のサワリの部分だけですが。


今だからこそ、大瀧さんに「平成枯れすすき」というべき曲を作ってほしいですね。中山晋平と古賀政男のメロディを理解し、それを踏襲した曲のかけるのは東北人である大瀧さんしかいない。

タイトルは「君は天然の美」。

詞はやはり松本隆さんに書いてもらいたいですね。松本さんは都会生まれの人だけど。今、「天然」という言葉にはあまりいいイメージがついていませんが、時代の変な手あかのついた言葉を洗い直して使うのが松本さんですから。
でも、歌は誰が歌えばいいんだろう。「ポップス”不動説”」の中では「平成枯れすすき」は吉幾三に歌われるべきだと言っていますが、今はもう無理ですね。個人的には、はっぴいえんどがもう一度だけ再結成して歌ってもらえたら最高です。

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# by hinaseno | 2012-10-20 14:16 | 音楽 | Comments(3)