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by hinaseno
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ときどき無性にナット・キング・コールが聴きたくなるときがあります。
ということで、今、久しぶりにナット・キング・コールを聴きながらこれを書いています。

ノーベル文学賞、ちょっとだけ残念でした。
「国境の西」の莫言さんがとられたというのは、正直皮肉な結果になってしまったなと思いましたが、でも莫言さんには心から敬意を表したいと思います。

莫言さんは中国の貧しい農村を描いた小説が多いとのこと。
チャン・イーモウが監督したという『紅いコーリャン』は見たことはありませんが、チャン・イーモウが監督した農村を舞台にした映画は一時期よく見ていました。
一番有名なのは『初恋のきた道』かもしれませんが、僕が最も好きなのは『あの子を探して』という映画です。
ノーベル文学賞が莫言さんに決まって、中国の貧しい農村を描いた小説を書いていること、チャン・イーモウによって映画化された作品があるというネット上で流れてきた情報を見て、もしかしたら『あの子を探して』の原作者かもしれないと思ったのですが、それは違っていました。

『あの子を探して』は、例によって川本三郎さんの映画評論で知ったのですが(『美しい映画になら微笑むがよい』所収)、その文章を読んですぐにDVDを買いました。で、本当に素晴らしい映画で何度も繰り返してみました。メイキングのDVDも出ていたので、そちらも買って見ました。
今考えれば、中国の貧しい農村の風景に、昭和の風景を重ねて見ていたのかもしれません。中国という国に対してはいろいろと思うこともありますが、少なくとも農村に暮らす人々に関しては深いシンパシーを覚えるものがありましたし、何より子供たちの純真さには心を打たれました。残念ながら、今の日本には、もうそんな子供はいないのかもしれません。
ということなので、莫言さんの小説、特に『中国の村から―莫言短篇集』は是非読んでみたいと思っています。もしかしたら木山さんの農村を描いた作品とも重なるものがあるかもしれません。

さて、「国境の西」という言葉を使いましたが、もちろんこれはきのう少し触れた村上春樹の『国境の南、太陽の西』につなげたものです。僕の大好きな作品。
a0285828_10402852.jpg好きな理由はいろいろあるのですが、一番好きなのはレコードを扱う場面が出てくるところです。単行本の表紙にもレコードの扱い方の注意書きと絵が添えられています。似たような絵と注意書きが古いLPレコードの内袋に描かれていたような気がします。たぶん、春樹さんの持っているレコードからとったのではないでしょうか。

『国境の南、太陽の西』の主人公の僕(ハジメ)は1951年1月4日生まれ。ちなみに村上さんの生年月日は1949年1月12日なので、2歳年下の設定ですね。
小5の終わり頃にひとりの女の子がハジメくんの近所に引っ越してくる。島本さんという脚の悪い女の子。2人ともその時代にはめずらしく一人っ子だったので、少しずつ親しくなる。
島本さんの家の居間には新型のステレオ装置があって、ハジメくんはそれを聴くために島本さんの家に行くようになる。でも、島本さんの父親は熱心な音楽ファンではなかったみたいで、家にあったLPレコードはせいぜい15枚くらい。初心者向けのライト・クラシックがほとんどで、その中にナット・キング・コールとビング・クロスビーのレコードが混じっていた。ビング・クロスビーはクリスマスのレコード。2人はいっしょにそれらのレコードを何度も何度も繰り返し聴く。中学生になって島本さんが別の中学校に行ってしまうまで。
ハジメくんの家にはステレオ装置がなかったので、彼はAMラジオにかじりついて当時はやっていたロックンロールを聴いていたとのこと。ハジメくんの小5、6年頃というと1962〜63年ってことになります。きっとリッキー・ネルソンやビーチ・ボーイズを聴いていたんですね。そんなハジメくんにとってクラシックもジャズも、レコードで音楽を聴くということも初めてのこと。そしてレコードというものの扱い方を目にするのも。

レコードを扱うのは島本さんの役だった。レコードをジャケットから取り出し、溝に指を触れないように両手でターンテーブルに載せ、小さな刷毛でカートリッジのごみを払ってから、レコード盤にゆっくりと針をおろした。レコードが終わると、そこにはほこり取りのスプレーをかけ、フェルトの布で拭いた。そしてレコードをジャケットにしまい、棚のもとあった場所に戻した。彼女の父親に教えこまれたそんな一連の作業を、ひとつひとつおそろしく真剣な顔つきで実行した。目を細め、息さへひそめていた。僕はいつもソファーに腰掛けて、彼女のそのような仕草をじっと眺めていた。レコードを棚に戻してしまうと。島本さんはやっと僕の方を向いていつものように小さく微笑んだ。そのたびに僕は思ったものだった。彼女が扱っていたのはただのレコード盤ではなく、ガラス瓶の中に入れられた誰かの脆い塊のようなものではなかったのだろうか。

『国境の南、太陽の西』が出版されたのは1992年の秋。今見ると、ちょうど20年前の今日10月12日の発行となっています。たぶん書店で発売されたのはその数日前だと思いますが、これを読んでいたときの澄んだ秋の空気は今でも覚えています。
この本の影響が直接あっかどうかはわかりませんが、この頃から僕はジャズを聴き始め、同時にレコードというものを聴き返すようになりました。

CDが最初に発売されたのは1982年。その10年前ですね。CDになった日本人アーティストの第1号はなんと大瀧さんです。大瀧詠一『ロングバケイション』ですね。
僕が最初に買ったCDももちろん『ロングバケイション』。当時3500円。高かったですね。ただし、CDプレーヤーを買ったのは86年くらいで、聴けないCDを持ってただけの時期がありました。
で、そのノイズのない音と便利さを知って、もうレコードはいらないやと思って友人に『ロングバケイション』のLPを安く譲りました。何年か後にすごく後悔しましたが。その後の『ナイアガラ・トリアングルVOL.2』と『イーチ・タイム』はCDを買ってもLPを手放すことをしませんでした。もちろんそれぞれに手放せない理由もあったのですが。それはまた後日。
いずれにしてもCDプレーヤーを買ってからはLPを買うことはなくなりました(当初はまだ両方発売されていました)。
で、1990年代始め頃にジャズに目覚めて聴くようになるのですが、ジャズはまだ当時レコードだけで発売されるということがあったので、レコードというものを何年かぶりかで聴くことになります。そのときに思ったのは音の違いでした。CDに耳が慣れていたので、違いにすぐに気づきました。音の深み、ふくよかさ、全然違う(出始めの頃のCDはノイズがないというだけの薄っぺらい音が多かったんですね)。
そんなときに読んだのが『国境の南、太陽の西』でした。ですからこの本には小説の中身以上に思い入れがあるんです。

さて、『国境の南、太陽の西』ではナット・キング・コールの曲がいくつか出てきます。
1つは「プリテンド」。
「辛いときは幸せなふりをしよう。それはそんなにむずかしいことではないよ」と歌われる、とてもロマンティックなバラード。


もう1曲が小説のタイトルにもなっている「国境の南」。
ナット・キング・コールの歌う「国境の南」は春樹さんのお気に入りのようで『羊をめぐる冒険』にも出てきます。でも、ナット・キング・コールの歌う「国境の南」はYouTubeにはありません。YouTubeにないどころか、ナット・キング・コールのどのアルバムにも「国境の南」は入っていません。
いつか春樹さんがこのことについて何かで答えていた気がします。春樹さんはあると思っていたんですね。でも実際にはなかった。
春樹さんはこういう場合にはときどき事実に合わせて文章を変えることがあります。例えばナット・キング・コールではなくフランク・シナトラにするとか。でも、そうなると「プリテンド」は…。
結局『国境の南、太陽の西』でも『羊をめぐる冒険』でも、ナット・キング・コールの歌う「国境の南」がそのまま載っています。YouTubeなどで検索しようとすると、世界中の春樹ファンがナット・キング・コールの歌う「国境の南」を検索した「痕」が伺えます。

でも、もしかしたらナット・キング・コールの歌う「国境の南」はどこかにあるかもしれない。そういうことってジャズの世界ではよくあること。少なくとも春樹さんの頭の中では「国境の南」はいつもナット・キング・コールの温かく優しい声で歌われ続けているんですね。

僕も頭の中の再生装置を使ってそれを試みてみる。
それはそんなにむずかしいことではない。


〈追記〉チャン・イーモウが監督した『至福のとき』という映画の原作が莫言さんであることがわかりました。『初恋のきた道』の次に作られた映画で、僕も何年か前に見ました。なかなか素敵な映画でした。
莫言さんと少しつながりができました。
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# by hinaseno | 2012-10-12 10:45 | 全体 | Comments(0)

  焚き火のある風景


今日はいよいよ今年度のノーベル文学賞の発表の日。
落ち着かない一日になりそうです。

今日の話に入る前に、昨日の高田渡さんに関して書いたことで、訂正すべきことががいくつもありました。訂正内容は昨日の文章に赤字で入れましたのでお読みいただけたらと思います。自分がきちんと調べずに書いたのがそもそも悪いのですが、それにしてもウィキペディアは全く信頼のおけないものであることを改めて痛感しました。
本当に申し訳ありませんでした。


さて、しばらくずっと木山捷平という作家のことを書いてきましたが、今日で一旦は話をおくことにします(と言いつつ、また明日何か書くことになるかもしれませんが)。
きっかけは村上春樹の『サラダ好きのライオン』に収められている「秋をけりけり」というエッセイでした。

その村上さんの「秋をけりけり」のエッセイでは、木山さんの詩を引用したあと、次のような村上春樹の高校時代の思い出が書かれています。神戸高校のときのことですね。

高校生の頃、深夜机に向かって勉強(だかなんだか)をしていると、窓ガラスにこつんと小石があたって、ふと外を見ると、友達が手を振っていた。「海岸に行ってたき火でもしないか」というので、一緒に海岸まで歩いて行った。そして流木をいっぱい集めて火をつけ、とくに何を話すともなく、砂浜で何時間もその炎を二人で眺めていた。その頃にはまだ兵庫県芦屋市にもきれいな自然の砂浜があったし、たき火は何時間眺めても飽きなかった。

芦屋。
木山捷平が「ひょこひょこ」と訪ねていった「たった一人の友」である大西重利が、大正の末に何らかの教育活動をしていた可能性のある場所ですね。もちろん大西が教えていた頃、村上さんはまだ生まれていません。でも、何かがつながっているような気がします。

つながっているといえば、木山さんも矢掛中学時代、冬場に二里の道を歩いて学校に行っているときに何度も焚き火をしていました。
『わが半生記』にはこんなことが書かれています。

かちかちに霜のおりた道を歩いて行くと、足の先がちぎれるほど冷たいのが閉口だった。冷たさを解消するには焚火をして当たるのが一等早い解決策だった。
焚火は田んぼに積んである藁を抜いて来て、道のまんなかでもした。二回ほどして一里ほど行くと、連中があちこちからあらわれて、またそれから三回ほどして学校にたどり付くのが毎日のおきまりだった。
連中が多くなればなるほど、焚火の時間は長びいた。自転車通勤の先生も自転車からおりて、
「今日は特別寒いのう。どう、わしにもちょっと当たらしてくれ」
とかじかんだ手をこすりながら火に手をかざして当たることも度々であった。
先生は先発する時、
「お前たち、今日は燃え出した火だから仕様がないが、明日からは決して焚火などするんじゃないぞ」
と、一言訓戒をたれて行くのがおきまりだった。
「はい、明日からは決して致しません」
と生徒はいさぎよく答えるが、明日になると生徒も先生も同じことをくりかえして、…。

木山捷平と村上春樹、それぞれに学生時代に焚き火の思い出をもっているんですね。そして焚き火の話は、それぞれの書いた小説にも出てきます。いずれも僕が大好きな短編小説。

木山さんは前に一度触れた「軽石」で、焚き火のことを書いています。調べてみたら『わが半生記』の文章とほぼ同じ頃に書かれていますね。こんな書き出し。

十年あまり前、正介は焚火に凝ったことがある。はじめ庭に出て紙屑を燃やしたのが病みつきになったのだが、そのころは家を建てて、まだ日が浅かったので、焚くものに不自由はしなかった。家と行ってもわずか十三坪の小屋みたいなものだが、大工の残して行った脚立や梯子の類が雨ざらしになって腐りかけているのを整理するという意味においても、趣味と実益を兼ねそなえた一石二鳥の焚火だった。
ところが何カ月かたつうちに、焚火の材料が不足して来た。…

で、しだいに蜜柑箱などを燃やすようになる。すると、その燃えかすの中に釘があるのを発見し、しだいにその釘を集めるようになる。その釘がのりの缶いっぱいにたまったので、それを売ったらたったの3円しかならなかった。で、その3円で何が買えるかあちこち歩き回ったという話。ここからは前に書きました。

a0285828_10382783.jpg村上春樹の焚き火の話は、やはりこれも前に少し触れた『神の子どもたちはみな踊る』に収められた「アイロンのある風景」。村上春樹の短編で最も好きです。でも、このあらすじは書きません。あらすじでは何も伝えられませんから。
この小説の中にはジャック・ロンドンという小説家の書いた『たき火』の話も出てきます。それも本当に素敵な小説。僕は焚き火の話が好きなんですね。
「アイロンのある風景」には、三宅さんという神戸出身の年配の男性と順子という若い女性のこんな会話があります。

「三宅さん、火のかたちを見ているとき、ときどき不思議な気持ちになることない?」
「どういうことや?」
「私たちがふだんの生活ではとくに感じてないことが、変なふうにありありと感じられるとか。なんていうのか……、アタマ悪いからうまく言えないんだけど、こうして火を見ていると、わけもなくひっそりとした気持ちになる」
三宅さんは考えていた。「火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから、見ているほうの心次第で何にでも見える。順ちゃんが火を見てひっそりとした気持ちになるとしたら、それは自分の中にあるひっそりとした気持ちがそこに映るからなんや。そういうの、わかるか?」
「うん」
「でも、どんな火でもそういうことが起こるかというと、そんなことはない。そういうことが起こるためには、火のほうも自由やないとあかん。ガスストーブの火ではそんなことは起こらん。ライターの火でも起こらん。普通の焚き火でもまずあかん。火が自由になるには、自由になる場所をうまいことこっちでこしらえたらなあかんねん。そしてそれは誰にでも簡単にできることやない」

きっと、僕が焚き火のことを描いた小説を好きなのは、焚き火を目の前にしているように、ひっそりとした気持ちになれるからだろうと思います。
いや、別に焚き火のことが描かれていなくても、村上春樹の小説を読むとひっそりとした気持ちになります。
もちろんそれは僕だけではなく、日本中に、いや世界中にたくさんいるんだと思います。

村上春樹が作り出した、彼でしか作り出せない自由な火の中に、自分の中にあるひっそりとした気持ちを映し出している人々が世界中にいる。

そして、僕は木山捷平の詩や小説を読んでも、やはり同じようにひっそりとした気持ちになることができます。
昨日触れた「メクラとチンバ」もやはりそう。
現在では不適切だとされる言葉が使われているということで、埋もれてしまうのはあまりにも残念ですね。ここに引用しておきます。

お咲はチンバだった。
チンバでも
尻をはしよつて桑の葉を摘んだり
泥だらけになって田の草を取ったりした。

二十七の秋
ひょつくり嫁入先が見つかつた。

お咲はチンバをひきひき
但馬から丹波へ……
岩屋峠を越えてお嫁に行つた。

丹後の宮津では
メクラの男が待つてゐた。
男は三十八だつた。

どちらも貧乏な生い立ちだつた。
二人がかたく抱き合つてねた。


村上春樹の小説にも、体の不自由な人が数多く出てきます。
ぱっと思い浮かぶのは『国境の南、太陽の西』の島本さん。足のひきずって歩く、とても魅力的な女性。
『国境の南、太陽の西』は僕が村上春樹の小説の中で最も好きなものです。
村上春樹も木山さんと同じように、体の不自由な人を差別的にも軽蔑的にも見ていません。
共感とユーモアを含んだ温かい目線。

村上春樹がノーベル賞を受賞して、木山捷平にも「知る人ぞ知る」という存在ではない形で新たな光が当たることを心から願っています。
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# by hinaseno | 2012-10-11 11:01 | 文学 | Comments(0)

最初に、昨日書いたことについて少しだけ。
姫路市北部の山間の菅生小学校へ移ることになった木山さんへ、父、静太が送った手紙に引用された二つの句について。まず1つ目の、

鶯やようあきらめた籠の声

これはどうやら小林一茶の次の句から来ているようです。

鶯やあきらめのよい籠の声

静太が少しだけ言葉を変えて記憶していたのだと思います。
それからもう一つの句、

畑打ちや余所の祭りの人通り

この句はパソコンでいろいろ検索してみたのですがそれらしいものが見つかりませんでした。
無名の俳人の句なのかもしれませんが、もしかしたら静太の創作であったかもしれません。
他の地域の祭りの行列に目もくれず畑を耕す農夫の姿。「余所」とは、捷平が憧れてやまない東京を想定していたはず。そんなものに心を奪われることなく、自分の目の前の仕事を黙々とこなしていけとの父のメッセージ。

さて、三里という距離のことについてしばらく話をしてきました。
先日『木山捷平全詩集』をぱらぱらと読み返していたら、「三里」の百倍の距離、「三百里」という言葉が含まれた詩があることに気づきました。詩集の一番最後に収められています。題名は「大久保から見る富士」。

大久保から見る富士は美しい

はるか西のかた三百里に
君がゐる――。

昭和6年に書かれた詩。大久保というのは当時木山さんが下宿していた場所。そこから西に「三百里(約1200km)」離れた場所とは、そしてそこにいる「君」とは。

東京から西に「三百里(約1200km)」の場所とはどこだろうと思って調べてみました。最初に思い浮かんだのは郷里の岡山の笠岡、でももしかしたら姫路かもしれないと考えてみる。でも違いました。
東海道本線、山陽本線で辿り着く場所は九州の福岡あたり。
福岡? 木山さんと何の関係が?
ちなみに木山さんの郷里までは汽車を使ったとすれば東京からちょうど200里、姫路は150〜160里。

その前に、菅生小学校以降の木山さんのことを少し。木山さんは昭和3年の4月から翌4年の3月まで菅生小学校で勤務して上京します。これ以降は東京に暮らし続けます。
菅生小学校にいたのはたったの1年間。何となく自主退職した、あるいは何か問題を起こして首になったということを想像してしまいますが、違います。
菅生小学校には当時の木山さんの「履歴書写し」が今も残っているのですが、そこには次のような、ちょっとびっくりする言葉が書かれています。

昭和四年三月三十一日 東京府へ出向を命ズ

なんと、木山さんは兵庫県から出向という正式な形で東京に行ったのです。赴任したのは小松川第2小学校。
ということで、木山さんは昭和4年に上京して5月から小松川町に下宿します。
そして2年後の昭和6年に大久保に移ります。調べてみると中央線沿いの新宿に近い場所。木山さんはこの後、中央線の沿線を転々と移り住んでいきます。

上京した昭和4年には『野』を出版、昭和6年には第二詩集の『メクラとチンバ』を出版します。
その詩集の題名にもなっている「メクラとチンバ」という詩。今は使ってはいけない言葉になっていますが、この詩に曲がつけられているんですね。作曲したのは清瀬保二という人。『メクラとチンバ』を出版した翌年に作られています。
a0285828_10562056.jpg『木山捷平全詩集』にはその楽譜が少し載っています。こういうのを見てメロディが浮かべばいいのですが、残念ながらそういう能力はありません。
この曲、きっと言葉上の問題もあって今では歌われていないのでしょう。清瀬保二の「歌曲集」という本が出ているようですが、どうやら「お咲」と題名を変えて収められているようです。「お咲」は「メクラとチンバ」の詩に出てくる「チンバ」の女性のこと。

清瀬保二という人を調べてみると、弟子にはなんとあの武満徹がいるんですね。清瀬さんのいくつかの曲はネット上で聴くことができましたが、基本的にはクラシック、あるいはオペラが基調になっているようです。曲の善し悪しは別として、木山さんの市井に生きる人々を題材にした素朴な詩には似合わないのではないかと思いました。

さて、その清瀬保二作曲の「メクラとチンバ」の作品発表会が昭和7年の4月20日に日本青年館で開かれます。そこには当然木山さんも。そして木山さんのそばには一人の女性が。前年の11月に結婚された奥さんのみさをさん。
最初に引用した詩の「はるか西のかた三百里」にいる「君」とはみさをさんのことだったんですね。みさをさんは山口県の萩の人。そこにみさをさんがいたときに木山さんが書いた手紙に収められた詩なんですね。ちょっとロマンティックです。
ちなみに萩へ行くには山陽本線ではなく山陰本線を使わないといけなかったかもしれません。距離にすると東京から1100km足らずで少し1200kmに届きません。でも、姫路で三里を歩き続けてまだそんなに年月の経っていない木山さんにとって、その百倍という切りのいい数字で三百里を使ったのかもしれません。姫路での「三里」も遠かったはずですが、東京からの「三百里」は、まさに「はるか」かなたの場所(少しだけ話を付け足せば、その数年後に生まれた息子さん名前は「萬里」。「三里」と「三百里」と「萬里」、文章には何も書かれていなくても、姫路での記憶が受け継がれているような気がします)。

さて、発表会のあった日の木山さんの日記にはこう書かれています。

清瀬保二氏作曲発表会。於日本青年会館。午後七時より。「メクラとチンバ」発表。照井詠三バリトン歌手、アンコール三回、あとで清瀬氏と作歌者、歌手と記念写真をとる。みさをは一人で帰宅した。

感想らしきものは一言もありません。自分の書いた詩が曲にされるのはうれしかったにはちがいないとは思いますが、やはり木山さんの望むような曲ではなかったのかもしれません。
この日のことをみさをさんも『木山捷平全詩集』のあとがきにこう書いています。

私は捷平と二人で後方の席にいたが、いつの間にか捷平はいなくなった。上京後初めて一人で大久保に帰った。

二人で曲の感想を語り合うこともなかったんですね。
「メクラとチンバ」は散文詩なので、曲にするのは大変そうですが、楽譜を見るとそのままの詩にメロディが付けられています。
この数年前に起こった童謡運動の中で作られた童謡の多くは五七調を基本にした定型詩です。西條八十も北原白秋も。野口雨情はちょっと違うのもありますが。
木山さんはほとんどが散文詩なのですが『メクラとチンバ』には1つ、定型詩が収められています。「分の悪い交換」という詩。こんな詩です。

からり ころり と
あさのみち
やさいをつんだ
にぐるまが
東京へ 東京へ 行きました。

がたり ごとり と
あさのみち
うんこをつんだ
にぐるまが
ゐなかへ ゐなかへ 帰ります。

昭和4年、木山さんが上京した年に書かれた詩。
こちらの方は歌にしやすそうです。というよりも、もしかしたらこの詩は曲にされることを期待して書かれたのかもしれません。でも、実際には、この昭和4年には童謡運動は下火になっていました。有名な童謡のほとんどは大正末期に作られていて、大瀧さんの「日本ポップス伝」で紹介されている昭和になって作られた童謡は昭和2年の三木露風作詞の「赤蜻蛉」と昭和3年の北原白秋作詞の「あわて床屋」くらい。ちょっとおそかったんですね。
でも「分の悪い交換」はいい曲が作れそう。作ってみようかな。

さて、つい先日知ったのですが、高田渡というフォーク歌手がこの『メクラとチンバ』の中の詩に曲を付けていることがわかりました。詩の題名は「赤い着物を着た親子」。高田渡はこの詩を少しだけ変えて「長屋の路地に」というタイトルにして曲を書いています。1972年に出た『系図 』というアルバムに収められているとのことです。


なかなか素敵な曲ですね。調べてみると、木山さんの母校の新山小学校の講堂の落成式の時に、高田渡を招いて「長屋の路地に」を歌ってもらったとのこと。

高田渡という人の名前はもちろん知っていて、彼の作った「コーヒーブルース」は大好きなのですが、レコードもCDも持っていません。さっき調べたら、ちょっと皮肉なことがわかりました。
『系図』と同じ年に出された高田渡の『ごあいさつ』というアルバムには、なんと大瀧さんを除いたはっぴいえんどのメンバー(細野晴臣、鈴木茂、松本隆)が参加していたんですね。

(訂正)
高田渡に関しては、ちょっと変だとは思いつつウィキペディアに書かれてることをそのまま書いてしまったのですが、あとで確認してかなり事実と異なっていることがわかりました。
まず、アルバムの発売された年代について。ウィキペディアに載っていたのは何度目かの再発された年代。正しくは『系図』が発売されたのは1972年、『ごあいさつ』が発売されたのはその前年1971年のこと。
それから『ごあいさつ』について、「大瀧を除くはっぴいえんど(細野晴臣、鈴木茂、松本隆)を従えた」と書かれていますが、大瀧さんもきちんと参加されています。曲によっては普段は演奏されないベースを弾かれているとのこと。本当に申し訳ありませんでした。
僕の大好きな「コーヒーブルース」も『ごあいさつ』に入っていました。全然、知りませんでした。
ただ、大瀧詠一さんと木山捷平が高田渡という人を通じてつながったような気がして、とてもうれしかったです。


最後に、さっきも言ったように、木山さんが上京した昭和4年には、ほとんど童謡運動は終わっていました。
その年、映画の主題歌として作られたこの曲が大ヒットします。タイトルは『東京行進曲』。作詞は西條八十。流行歌の第1号と呼ばれることになるのですが、この曲がヒットしたことで逆に西條八十は詩人たちから批判されることにもなります。
作曲は中山晋平。中山晋平はその数年前まで、野口雨情とともにたくさんの童謡を書いていました。

木山さんも東京に来てこの曲をどこかで耳にしたはず。そしてその詩を西條八十が書いていることもすぐに知ったはず。いったい木山さんはこの曲をどんな思いで聴いていたのでしょうか。


〈追記〉先日『南方詩人』という雑誌のことを書きましたが、その中に収められた木山さんの「たうきびのひげ」という詩、これはおそらく『メクラとチンバ』に収められた「たうもろこしのひげ」と同じものだろうと思います。
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# by hinaseno | 2012-10-10 11:12 | 木山捷平 | Comments(0)

何度も言いましたが、姫路時代のことについて木山さんが書き残したものは何もありません。
わずかに推測出来るものがこれまで引用してきました姫路時代に書かれたはずのいくつかの詩、姫路で5部自費出版した『野人』のあとがき、そして第一詩集『野』の坂本遼の序文。
それにもう一つ、姫路時代の木山さんの暮らしぶりをうかがい知ることのできる貴重な資料が木山さんの父、静太から木山さんにあてた手紙です。これは木山さんの奥さんのみさをさんによって『木山捷平 父の手紙』という本にまとめられています。

a0285828_939641.jpgこの三茶書房から出ている『木山捷平 父の手紙』という本、内容も素晴らしいし、山高登の装幀も素晴らしい。
村上春樹が古本屋で買った箱入りの『木山捷平全詩集』も、山高登の装幀で三茶書房から同時に出されているものですね。ぜひ手に入れたいと思っているのですが、なかなか見つかりません(本年度のノーベル文学賞の発表もあと数日…)。

さて、木山さんが市内の荒川小学校から、遠く三里も離れた菅生小学校への赴任が決まった頃の父、静太の手紙。昭和3年3月31日に書かれています。勤める学校が変わることとその事情を書いた木山さんの手紙を受けてすぐに出されたものだと思います。

任地はムヤミに変るものではない。
校長と喧嘩するものでない。そのやうな性質のそなたとは思はねど、どうせ他界のよりあふどころであるから、何処へ行つても他役所へ行つても皆他人同士の角突合ひ、暗闇ばかりだ。これが普通の世相である。あたりまへであるのだ。


「任地はムヤミに変るものではない。校長と喧嘩するものでない」いう言葉を見ると、どうやら別の学校に変わりたいという希望を言い出したのは木山さんの方のようです。荒川小学校で何らかの問題を起こして別の学校に変えられたというわけではなさそうです。
その後のいくつかの静太の手紙を見ると、木山さんはどうやら東京の学校に移りたいという希望を校長に言い続けていたようです。
でも、多くの希望というものがそうであるようにその希望は裏目に出ます。希望が通らないどころか、姫路の北の線路も通っていない山間の小学校に行かされることになります。何かきっかけがあれば、東京やあるいは故郷の笠岡へ戻ることのできる姫路駅まで歩いて数分のところにいた千代田町からは遠く離れています。
きっと木山さんは悩んだだろうと思います。菅生小学校の近くに下宿する場所を見つけるか、それとも千代田町の下宿から菅生小学校まで通うか。もちろん学校を辞めて三たび上京することも。
結局、木山さんは千代田町の下宿から通うことにします。夢前川にかかる夢前橋を渡って、夢前川、菅生川沿いの道をただひたすら北上して三里の道を歩き続けます。
でも、遅刻することなく行くには、早朝の5時くらいには家を出なければなりません。中学校の時のように「走らないから遅れた」と言いわけするわけにもいきません。
ということで、どうやらある段階で自転車に乗って通うことにしたようです。
昭和3年4月17日に書かれた父、静太の手紙。

どうして居るのか案じて居たが、昨日の手紙で安心した。
自転車で三里も通ふのは辛抱出来にくい事だ身体を損してはいけぬ。
 鶯やようあきらめた籠の声
という句がある。
 畑打ちや余所の祭りの人通り
という句がある。
自身にその時その時の成行に辛抱して居るのが処世の第一肝要なことであって、前任地が便利なれば菅生へかはつたら、その気になつて辛抱せねばならぬことだ。東京へ出るなどは身を壊
(やぶ)るもとであつて好ましくは思はぬ。

木山さんは手紙で学校までの距離が三里であることを伝えたんでしょうね。
それにしてもこの日の静太の手紙。
辛抱することの大切さを切々と説いていますが、そこで引用された2つの句、どちらも聞いたこともありませんでした。自身も文学で身を立てようとした人ならではと言えます。と同時に、昔はこのような辛抱の大切さを説く言葉がいくつもあったことを思い知らされます。

さて、自転車で三里の道を通い始めた木山さん。でも、それもやはり限界がありました。自転車の故障という予期せぬことも何度もあったと思います。そしてやはり体力的な限界。2度目の上京の時に体をこわしたのがまだ十分に治っていなかったはずでしたから。
昭和3年5月14日に書かれた父、静太の手紙にはこうあります。

先日は定居の通知ありがとう。


木山さんは5月くらいになって姫路市内の千代田町の下宿から通うのをあきらめ、菅生小学校近くの家に下宿することにします。

前に引用した『野』の序文に書かれた坂本遼の文章に「木山さんは分の厚いマントに顔をうづめて、三里もあるところへ寒そうにして帰つていつたが、今頃は家へついたかしら」とあるのは、この菅生小学校近くの家に下宿するようになった頃のことですね。
自転車は手放したのでしょう。

ところで、木山さんが下宿していた家は現在も残っていて、下宿は今はやめられているようですが、家には今もその家のご家族が住んでいます。田圃の中にあるかなり大きな家でした。この写真の手前に見える昔からあった建物の2階のどこかの部屋に木山さんは下宿していたはずです。菅生小学校へは歩いて5分とかからない距離。
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木山さんが姫路市内で住んでいた姫路市町坪と姫路市千代田町にあった2つの下宿はおそらくは戦災で焼けて今は残っていません。場所はだいたい特定出来ましたが、その周辺の道は戦後整備されたものが多く、木山さんがどの道を通って学校に通っていたかはわかりません。
でも、少なくとも菅生小学校で木山さんが通い続けていた道だけは木山さんが下宿していた家とともに当時のまま残っていますので、はっきりと確認することができました。木山さんが下宿していた家のすぐ北を通っている道から菅生川にかかる菅生寺橋を通って菅生小学校に向かう100m足らずの道。
現在の姫路市で、木山さんが何度も通り続けていたことが確認できる唯一の道ですね。

この菅生寺橋は何度も渡ったんでしょうね。すぐ向こうに菅生小学校があります。
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学校側から菅生寺橋を見た写真。木山さんの下宿していた家も見えます。
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菅生寺橋から眺めた風景。とても美しい風景です。川好きの木山さんのことなので、この風景は木山さんの心を慰めたように思うのですが。
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菅生小学校周辺に広がる田園と美しい流れの菅生川。これらは木山さんの郷里の風景に重なるものがあったのではないかと思いますが、だからこそここにはいたくないという思いを抱かせていたかもしれません。
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菅生小学校時代の木山さんの写真が残っています。前列右端が木山さんです。俺は何でこんなところにいるんだろうという気持ちが態度にも表情にも現れていますね。

もう一つ、木山さんが間違いなく何度も何度も通ったのが菅生小学校から夢前橋に向かうまでの道。この夢前橋の袂に『夢前川』に出てくる箱を受け取った老婆がいたんですね。
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菅生小学校に勤務していた頃に書かれたと思われる詩にこんなものがあります。
『野』に収められた「夜道を三里」という詩。

夜道を三里
俺あ、おしのに逢ひに行つた。

おしの、蚕に桑やつてゐたが
口笛吹いたら裏から出て来た。

空豆ぽりぽり食べながら
俺あ、久し振りにおしのと話した。

夜道を又三里
俺あ、おしのと別れてかへつた。

帰るさ、峠で一ぷくしてゐたら
首のあたりで何かごそごそした。

さはつて見たらおしのの着物にゐた蚕
何時の間にか俺について帰つてゐた。


この詩に出てくる「おしの」という名前の女性は、木山さんの初期の詩にはいくつも登場します。最初はそういう実在の人がいるのかと思っていたのですが、どうやら木山さんの心の中の最も大切な部分にある親しい人の集合体のような存在に「おしの」という名前が与えられているようです。
この「夜道を三里」の詩に出てくる「おしの」は、坂本遼、あるいは大西重利であったかもしれません。姫路と菅生までの道にはこの詩に出て来る「峠」はありませんが、「三里」という距離がこの時期の木山さんの頭に常にあり続けていたことだけは確かなようです。


♫James Taylor: Walking Man

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# by hinaseno | 2012-10-09 10:38 | 木山捷平 | Comments(0)

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三里を道のりを歩くと、一体どれくらいの時間がかかるのでしょうか。

今朝、たまたま見た能楽師の安田登さんは、時速一里(4km)で歩くことをすすめられていました。調べてみたら、これが平均的な速度のようです。この速度で三里を歩き続けるのは過酷なような気もしますが(というよりもどんな速度であれ三里を歩くのは相当過酷なこと)、単純に計算してみれば三里を歩くのに3時間かかります。往復で6時間。ちょっと気が遠くなります。

木山さんの人生の中で、後にも先にもこんな長い距離を歩いたのはこの時期だけだったはず。それはやはりつらい思い出だっただろうと思います。でも、彼は何度も人に会うためにその距離を歩きました。

彼は歩きながらいろんなことを考えていただろうと思います。
もちろんこれから会う人のこと。
でも、暗くなってからの帰り道は人と会った喜びが残っていたにせよ、つらかったでしょうね。そんな彼を慰めていたものが何かあったのでしょうか。
考えられるのは「歌」しかありません。生まれ始めていた「童謡」です。

これは僕の勝手な推測に過ぎないのですが、木山さんは当時生まれ始めていた童謡のいくつかを覚えていたのではないかと思っています。もちろん小学校の先生をしていたので唱歌はいくつも知っていたはず。でも、木山さんにとっては唱歌の歌詞は耐えられないほどつまらなかったにちがいありません。では、どうやって木山さんは童謡を知ったのでしょうか。

それを知る可能性のある人物が木山さんには2人いました。一人は木山さんが姫路の師範学校にいたときに抜け出して会いにいき、のちに木山さんの最初の詩集を出版する抒情詩社の内藤鋠策、そしてもう一人が「新教育」にも関わっていた大西重利。

内藤鋠策は、「かなりや」で脚光をあびることになった西條八十や、同じくいくつもの童謡を書いていた野口雨情とともに、その名も『かなりや』という雑誌を抒情詩社から出版します。そして多数の詩人を網羅して「かなりやの会」というものを結成し、かなりやの会編『芸術唱歌集』というものを発行します。この芸術唱歌というのはいわゆる文部省唱歌に対して童謡の詩をもとにした新しい歌のことだと思います。内藤鋠策がこの一連の動きをしたのが大正10年。木山さんが初めて内藤に会いにいったのはその翌年の大正11年。

木山さんが初めての上京で、なぜ内藤鋠策という人物に会いにいったかは不明です。でも、だれかからこの一連の動きを聞いていた可能性があります。それが大西重利。大西は何らかの形で内藤鋠策とのつながりをもっていたのではないかと。

木山さんはおそらく姫路の師範学校にいるときに大西重利と知り合ったと思います。その彼を通じて、東京で起こっている新しい詩の運動のことを知る。おそらくはいくつかの童謡を大西に教えてもらって一緒に歌っていたかもしれません。で、木山さんは内藤鋠策が作ったグループに入りたくて上京した。でも、結局は父親に説得されて姫路に戻って来る。

前にも書きましたが、戻って来た頃に郷里の先輩、米山千秋に手紙を送ります。差出人の住所が姫路市南畝町228。師範学校ではない謎の場所。5年後に再び姫路に戻って来て『野人』を出版する野人社のあった姫路市南畝町288と、深く重なる場所。
やはりここに大西重利が住んでいたのではないでしょうか。そして彼の家に行っては新しい童謡を教わっていた。それを口ずさみながら三里の道を歩いた。

大正13年に作られた童謡「兎のダンス」。作詞は野口雨情、作曲は中山晋平。昨日触れた『日本ポップス伝』では、この曲も大瀧さんは少し歌います。

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# by hinaseno | 2012-10-08 10:40 | 木山捷平 | Comments(0)