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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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僕はライフワークの1つとして小津安二郎の「早春」という映画のことを調べています。といっても、具体的に行動を始めたのは今年になってのことですが。
なぜ、小津の、特に「早春」という映画に興味を抱いたかと言えば理由は単純です。その映画の最後に、実家のある岡山の、三石という小さな町が舞台となっていることを知ったからです。
三石は岡山県と兵庫県の県境にある本当に小さな山あいの町。かつては蝋石と耐火煉瓦で栄えましたが、現在は急速に過疎が進んでいます。僕は姫路に住むようになって20年余りになるのですが、ある時期からは実家に戻るときはいつもこの三石の町を通っていました。少し前までは三石の脇をすり抜ける形で通っていたのですが最近は町中を通るようになりました。
昭和31年(1956年)公開の小津の「早春」は、三石の町が耐火煉瓦の生産で最も栄えていた頃の様子を捉えています。映画の撮影は前年の昭和30年の夏から秋にかけて行なわれています。

実は、今日、9月10日は、57年前に小津が三石にやって来てロケが行われた最初の日なのです。そのとき僕はまだ生まれていませんが、57年前のこの日に、あの小津監督や主演の池部良らが実家のある岡山の、僕が何度も眺めていた町にやってきてロケをしていたということを考えるのは、やはり感慨深いものがあります。
『全日記 小津安二郎』を見ますと、小津一行は9月9日の朝の11時に岡山に来ています。当時、新幹線はまだありませんでしたから、おそらくは飛行機で来たはず。それから市内のホテルで小憩(おそらくは昼食をとったのでしょう)したのち、車で三石に向かっています。
岡山市内から国道2号線を通れば三石までは小1時間くらいで着いたと思います。着いたのは午後2時過ぎぐらいでしょうか。日記を見る限り、この日はどうやら撮影は行われなかったようですが、いくつかの場面を撮影するためのロケハンが行なわれたと思われます。

『松竹編 小津安二郎新発見』には何枚か三石でのロケ、あるいはロケハンの様子を捉えた写真があります。まずはこの写真。

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「『早春』岡山県三石ロケ」との説明書きのあるものですが、1ページを使って大きく載っています。櫓の上でカメラを覗いているのはもちろん小津。背後で腰に手を当てて見守っている眼鏡の人はおそらくカメラマンの厚田雄春。で、手前でカメラを支えているのが、後ろ向きでよくわかりませんが当時撮影助手だった川又昂ではないかと思われます。
大瀧さん経由でお伺いした川又さんの話によれば、小津は三石に着くなりこの櫓を建てたそうです。


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『松竹編 小津安二郎新発見』に載ってる別の写真。
これには「『早春』岡山県三石にて」との説明書きがあります。これは『早春』の最後の場面、つまり上りの東京方面に向かう汽車をとらえる場所を小津(厚田カメラマンかもしれない)が探しているところですね。この写真に見える煙突のある辺りの風景がまさに最後の場面に使われていますので、場所はこのあたりに決定したのだと思います。

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小津がいるのは山陽本線の線路の北側にある山を少し登ったどこかの場所だと思います(実はこの場所がまだ見つかりません)。で、おそらくこの場所に先程の櫓を建てて最後の場面を撮影したはずです。
映画で見ればほんの数秒ほどの上りの汽車が走る場面をとらえるだけなのに、かなり綿密なロケハンをし、しかもそこに櫓を建ててまで撮影するというのは驚かざるをえません。

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さて、『松竹編 小津安二郎新発見』にはもう1枚三石で撮った写真が載っています。でも写真の説明書きには「『早春』ロケ・ハン」と書かれているだけ。『早春』はいろんな場所でロケされていますので、この本の編者はこの写真がどこで撮影されたものなのか確認できなかったようです。でも、この写真の背後に写っている煉瓦造りのアーチ状の橋、これはまぎれもなく三石にあるものなのです。三石に住んでいる人であればだれでも知っている三石のシンボルでもある「四列穴門」と呼ばれるものです。
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小津はこの橋を映画で使おうとしたのでしょうか、それともただ見に来ただけなのでしょうか。もしかしたら映画には結局使われることはなかったけれども、ここの風景をとらえたフィルムがあるかもしれません。

『全日記 小津安二郎』によれば、57年前の今日、9月10日は天気があまりよくなかったらしく、いくつかの三石の風景をとらえたカットを撮っただけのようです。
その日の日記には「三石町長始め町有志のレセプションに出席」と書かれています。この写真がおそらくそのときの様子をとらえたものだと思います。
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この写真は現在、備前市役所三石出張所の2階に飾られています。三石の歴史を写真にとらえたものを部屋いっぱいに展示しているのですが(数年前に始めたとのこと)、残念ながら『早春』に関する写真は、この写真を含めてたったの3枚でした。写真の下に書かれているコメントには小津監督の名前はありますが、どれが小津だかきっとわかる人はいないんでしょうね。池部良も写っていますが、池部良のことは全く書かれていませんでした。

あとの2枚のうちの1枚はこれです。
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これは三石駅で撮られたもののようです。小津一行は三石に三泊したのち、9月12日に京都に向かっています。おそらく三石駅から汽車に乗って向かったのでしょう。この写真は三石を発つ前に地元の何人かの人(真ん中の女性は泊まっていた旅館の人でしょうか)と撮ったものだと思います。池部良はその前日の9月11日に、三石での大事な場面(この場面についてはまた後日)を撮影して、すぐに岡山に向かったようなので、この写真には写っていません。

もう1枚はこれです。
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おそらくは9月11日に池部良が煙突のある工場近くの撮影現場に向かっているところをとらえたものだと思います。57年前の9月11日は日曜日。撮影現場周辺には、子供たちも含めてものすごい人が集まっていたとのことです。ちなみに、市役所の出張所の2階に飾られているこの写真にも何のコメントもありませんでした。この顔を見て池部良とわかる人は今はほとんどいないんでしょうね。ちなみに、この池部良のそばを、ファンからかばうように歩いているのは撮影助手だった川又さんでしょうか。(続く)
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# by hinaseno | 2012-09-10 11:34 | 映画 | Comments(0)

1973年に公開された、1962年夏のカリフォルニアの町を舞台にした映画『アメリカン・グラフィティ』にとても印象的な場面があります。
走り屋のジョンの黄色い車(32年型フォード・デュース・クーペ)にたまたま乗り込むことになった女の子(たぶん中学生)、キャロル(マッケンジー・フィリップス)と交わす会話。

カー・ラジオでビーチ・ボーイズのデビュー・シングル「Surfin' Safari」がかかる。


「Surfin' Safari」は1962年6月発売、8月にはポップチャートで14位になっている。まさにリアルタイムでヒットしていた頃の町の様子を描いているわけですね。

さて、その「Surfin' Safari」を聴いたジョンは"Oh,shit!"と吐き捨てるように言ってラジオのスイッチを切る。
こんな会話が続く。
Carol: Why did you do that?(なんでそんなことするのよ?)
John: I don't like that surfin' shit.(サーフィンなんてくそくらえだ)
そしてこの後ジョンの口から次の言葉が語られる。

Rock and roll's been going downhill ever since Buddy Holly died.
(バディ・ホリーが死んで、ロックンロールは終わってしまったんだよ)
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二人の音楽についての会話はもう少し続く。
Carol: Don't you think the Beach Boys are boss?(ビーチ・ボーイズは最高だって思わない?)
John: You would, you grungy little twerp.(おまえみたいな薄汚いバカなガキがそう思うだけさ)
Carol: Grungy!(薄汚いって!)

この場面でジョンが語った言葉、実は英語の字幕で確認したのは今回が初めて。"going downhill"という表現が使われていたんですね。
普通は「バディ・ホリーが死んで、ロックンロールは終わったんだ」とか、「バディ・ホリーが死んで、ロックンロールは死んだんだ」と訳されていますが、この言葉はロックンロールの歴史の1つの真実として後々ずっと語られるようになったようです。

今回、大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝パート2」がどうやら1959年で終わりそうだとわかったとき、僕は最終日のどこかで必ずこの言葉のことが語られることになるだろうと思っていました。なぜならば1959年はまさにバディ・ホリーの亡くなった年だったからです。
もしかしたら最後の最後にこの「バディ・ホリーが死んで...」が語られて、彼の屈指のバラード「True Love Ways」が今回の特集の締めの曲に使われるという展開になるのかな、と、いろいろと想像をめぐらせていました。

そして1週間待たされた最終日、番組の中ほどで、バディ・ホリーの1958年10月に録音されたこの「It Doesn't Matter Anymore」という曲をかけたあとに「バディ・ホリーが死んで、...」の話が出てきます。


バディ・ホリーの「It Doesn't Matter Anymore」がかかった後に語られた大瀧さんの言葉をそのまま引用します。
「言っときますが、これ、悪くないんですね。これはこれでバディ・ホリーの特徴が出ていますよね。作曲は『ダイアナ』のポール・アンカでした。よく『バディ・ホリーが死んで、ロックンロールは死んだ』と言われますけど、もう58年暮れにホリー自身も多少の路線変更のきざしがあったんですね。ただ、59年に音楽キャリアを閉じなければいけなかったので、ジョニー・バーネット、ジーン・ビンセント、エディ・コクランのように如実な変化が感じられる曲が存在していないというわけですね。これが神話として存在できる要因なのではないかというふうに皮肉屋である私は見ております」
大瀧さんは、一般に通説として流布している言葉を否定するために、あえてご自分を「皮肉屋である私」と自嘲的に語られます。でも、この大瀧さんの見方は皮肉でも何でもないですね。「神話」はあくまで「神話」であって、もし仮にバディ・ホリーが生き続けていれば、彼は間違いなくポップスの道を歩んでいただろうと思います。

大瀧さんはもう少し言葉を続けます。
「1956年に始まったロックンロール時代は、59年に幕を閉じたというわけです。どうしてこうなったかは諸説あるのですが、私はエルヴィスの徴兵が一番大きかったと考えています。1957年の12月20日にエルヴィスに徴兵命令が届きます。で、翌58年の3月に入隊しました。(中略)キングの不在でロックンロール・シーンにぽっかりと穴が空いたということは否めない事実だと思うんですね。で、その証拠といえるかどうかはわかりませんが、58年の夏以降、それまで日常茶飯事のように続いていた3部門制覇、この記録が突然に途絶えるんです。で、59年にはゼロになりました。エルヴィス入隊だけがロックの退潮の全ての原因だとは言いませんが、ただエルヴィスの入隊とポップス系アーティストが大挙して登場したのは、同じ1958年であったわけです」

このあと、おそらく僕のように生半可で偏見に満ちた知識しか持っていない音楽ファンにとってあっと驚くアーティストが出てきます。パット・ブーン。でも、それについて語り始めると話が長くなりすぎるのでまた後日。

そういえば、大瀧さんが「多少の路線変更のきざしがあった」としてかけられたバディ・ホリーの「It Doesn't Matter Anymore」と同じ日(1958年10月21日)にニュー・ヨークで録音された曲を調べてみると、ちょっと驚いてしまう。
「True Love Ways」、「Raining In My Heart」、「Moondreams」。「It Doesn't Matter Anymore」とともに好きな曲ばかり。バックのストリングスを交えたサウンドも含めて、「きざし」どころか、もうポップスそのもの。

そしてもう一つの驚きは、この日のギターを弾いているのが、なんとアル・カイオラ。バディ・ホリーに関しては「Rave On」以来の再登場。「True Love Ways」、「It Doesn't Matter Anymore」、「Raining In My Heart」、「Moondreams」で、バイオリンのピチカートとともにロマンティックなギターの音色を奏でていたのはアル・カイオラだったんですね。
バディ・ホリーの「神話」よりも、その神話の影で60年代ポップスへのつなぎをしていたアル・カイオラというギタリストにたまらなく魅力を感じてしまう。


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# by hinaseno | 2012-09-09 12:31 | 音楽 | Comments(0)

今朝、時間がなくて確認できなかった、昨日の「大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝パート2」第5夜でかかったアル・カイオラというギタリストが独特のギター・フレーズを弾いている曲がすべてわかりましたので改めて紹介を。

ただ、その前にアル・カイオラがギターを弾いている曲がかかる前の段階から少しくわしく説明する必要があります。

まず、ドゥー・ワップにラテン・フレーヴァーを取り入れた曲としてターバンズの「When You Dance」(1955)がかかります。


これが大ヒットしたので、このタイプのサウンドが流行したということで、次のような同タイプのドゥーワップがかかかります。

フォー・ラヴァーズ「You're The Apple Of My Eye 」(1956)


グラジオラス「Little Darlin'」(1957)


同じ「Little Darlin'」をカナダ出身のダイヤモンズがカバー(1957)


そして、このサウンドのラインを受け継いで、ダイヤモンズと同じカナダ出身の14歳のポール・アンカが1957年7月に自作の曲でデビュー。それが「ダイアナ」。


この「ダイアナ」という曲のユニークなところとして、それまで打楽器がやっていたリズムの部分をギターが担当してメロディーをつけていたということを大瀧さんは指摘します。ドンドコランカンランタンタンタンというフレーズですね。
このフレーズを弾いていたのがアル・カイオラ。

で、彼は他のシンガーのセッションでもこのフレーズをじゃんじゃん弾くことに。
こんな曲が次々とかかります。
ボビー・ダーリンの「Dream Lover」(1959)


ニール・セダカの「Oh! Carol」(1959)


キャロル・キングの「Under the Stars」(1958)


ジャッキー・ウィルソンの「Lonely Teardrops」(1959)


クレスツの「The Angels Listened In」(1959)


ジミー・ジョーンズの「ステキなタイミング(Good Timin')」(1960)


ブライアン・ハイランドの「Four Little Heels (The Clickety Clack Song)」(1960)


そして最後に「極めつけは」という大瀧さんの紹介でアル・カイオラ自身の「峠の幌馬車(Wheels)」がかかります。


全部並べて聴いてみるとすごいですね。感動します。よくぞここまで、という感じです。
そして何より興味深かったのは、ロックンロールからポップスという移行期を、陰で、ユニークな形で支えていたアル・カイオラというギタリストの存在。こういう人、どこか惹かれてしまいます。

ドンドコランカンランタンタンタンというギター・フレーズ、他にもきっとあるはずだと思うので、またどこかで出会えたら楽しいですね。
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# by hinaseno | 2012-09-08 22:07 | 音楽 | Comments(0)

アル・カイオラ


アル・カイオラ。
この不思議な名前を初めて耳にしたのは今年になってからのことでした(初めて耳にしたときは、アルとカイオラの間で名前の切れ目があることすら知りませんでした)。
きっかけは、いつものことですが大瀧詠一さん。今年の春に放送された「スピーチ・バルーン」の小林旭特集の中でのこと。西部劇の音楽が日本の歌謡曲シーンに与えた影響を語られる中でかかったのが「落日のシャイアン」という曲でした。これがとにかく素晴らしかった。この曲のギターを弾いていたのがアル・カイオラだでした。



ジョン・フォードが作った最後の西部劇「シャイアン」の挿入歌。僕は西部劇の(遅れてきた)大ファンなのですが、まだ「シャイアン」は見たことがなかったので、この曲を聴いたのは初めてでした。

それから、しばらくしてアゲインの石川さんに「ゴー!ゴー!ナイアガラ」のリーバー=ストーラー特集を送っていただいて、リーバー=ストーラーの曲をいろいろと聴く日々が続いていたとき、大瀧さんの「ゴー!ゴー!ナイアガラ」ではかかっていませんでしたが、山下達郎さんの「サンデー・ソング・ブック」のリーバー=ストーラー特集でもかかったこのジョニー・マティスの歌う「An Open Fire」という曲のことを思い出しました。達郎さんと同じように、イギリスのエースから出たリーバー=ストーラーの作品集に入っていて、初めて聴いてあまりにも素晴らしくてびっくりした曲でした。そのギターを弾いていたのがアル・カイオラだと気づいたのでした。



で、昨日、フィリピン近海の地震のために放送が流れてしまったため1週間待たされることになった(結果的には幸せな1週間でしたが)大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝パート2」の最終日を聴いてびっくりしました。自分にとって耳に馴染んだこの曲もあの曲も、ギターを弾いていたのはアル・カイオラだったんですね。

まずはボビー・ダーリンの「Queen of The Hop」。ボビー・ダーリンをロックン・ローラーとして決定づけた曲として。それからバディ・ホリーの「Rave On」のギターもアル・カイオラだと知ってさらにびっくり。大瀧さんはここでアル・カイオラはニューヨークにおける最初のロックンロール・ギタリストだと説明されます。

でも、驚きはその後に更に大きくなります。かかったのはポール・アンカの「Diana」。ここで印象的なギター・フレーズを弾いているのがアル・カイオラ。ちなみにこの曲のプロデューサーはドン・コスタ。
ここから、そのギター・フレーズの使われた曲が次から次にかかります。これがもうすごすぎて言葉になりませんでした。そういえば同じようなフレーズだったなと後でわかったことばかり。
ボビー・ダーリンの「Dream Lover」、そしてニール・セダカの「Oh! Carol」。
実は僕は今回のポップス伝パート2の最後の曲は、このニール・セダカの「Oh! Carol」だと、勝手に予想していたのですが、こんな形で出てくるとは思ってもいませんでした。
それからキャロル・キングの「Under the Stars」、クレスツの「The Angels Listened In」、九ちゃんのカバーでも有名なジミー・ジョーンズの「ステキなタイミング」、ブライアン・ハイランドの「Four Little Heels (The Clickety Clack Song)」などが続けさまにかかります。もう本当に言葉を失いました。(ベリー・ゴーディーが作った曲と、「極めつけは」という大瀧さんの言葉とともにかかった曲はわかりませんでしたので、あとで調べます)

大瀧さんはここで改めて「このサウンドが60年代ポップスということになったんですね、で、原点が『ダイアナ』でドン・コスタでアル・カイオラだったと」と語られます。なんとなくアル・カイオラは地味に映画音楽やジャズの分野でギターを弾いているだけの人かと思っていましたが、全然そんなことなかったんですね。
60年代ポップスというと、どうしてもスペクターのレッキング・クルーの方に目がいってしまいがちですが、アル・カイオラというギタリストの存在は驚きの"再"発見でした(今回は結局、スペクターの「ス」の字も出ませんでした。出てきそうなところはいくつもあったのですが)。

改めてアル・カイオラがギターを弾いている60年代ポップスをネットでチェックしてみたら、めくるめくような素晴らしい曲のオンパレード。
どうやら今年の残りは、音楽の分野ではアル・カイオラを探索する日々が続きそうです。
とっても楽しみですね。

大瀧さんに心から感謝します。

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# by hinaseno | 2012-09-08 08:47 | 音楽 | Comments(0)

秋をひょこひょこ


村上春樹が木山捷平の「秋」という詩を引用した「秋をけりけり」と題されたエッセイについて、改めて少しくわしく触れておきます。

前にも書いたように、これは村上春樹の最新のエッセイ集『サラダ好きのライオン』に載っているものなのですが、もともとは雑誌『an・an』に「村上ラヂオ」というタイトルで、大橋歩さんのイラストをつけて連載されていたものです。
「秋をけりけり」の話が大好きでしたので、雑誌ではどのような形で載っていたのだろうか、それから村上さんは雑誌掲載時と単行本になったときと微妙に、場合によってはかなり、言葉が変わることもあるので、気になって『an・an』を取り寄せてみました。
『an・an』なんて、もちろん立ち読みする勇気なんてないですから、見るのははじめてです。
こんな感じです。

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目次の次のページに出てきます。とってもいい感じですね。でも、どれだけの人がこれを読んでいたんでしょうか。文章を読んでみると、やはりというか単行本になったときと言葉が変わっています。大きく、というわけではないですが。そのままどうぞ、という形にしないのが村上さんらしいですね。

村上さんは木山捷平の「秋」という詩がとっても好きみたいで、「秋がやってくると、どこかの時点で、この詩をふと思い出す」と書いています。

それだけではなく木山捷平のことも好きみたいで、次のようなエピソードが書かれています。

ある日、村上さんは散歩ついでに立ち寄った古本屋で『木山捷平全詩集』という箱入りの本を見つけます。値段は3000円。村上さんは同じ内容の文庫本(おそらくは講談社文芸文庫から出ているものでしょう)を持っていたので少し悩みます。でも、しばらく迷った末、結局、その箱入りの詩集を買うことにします。

文庫本を持っているのに、箱入りの詩集を買うなんて、相当木山捷平のことが気に入っている証拠ですね。それについて村上さんはこんなことを書いています。
「詩集って、箱入りみたいなかたちで持っていると、なかなかいいものです。たまにしか読まなくても、人生で少し得をした気持ちになれる」

村上春樹が引用した「秋」もそうですが、木山捷平の、特に若い頃の詩には、だれかがふらっと訪ねて来たり、あるいは逆にだれかの家をふらっと訪ねて行ったりする詩が多いです。
村上さんはエッセイの最後にこう書いています。
「木山捷平の詩を読んでいると、そういう(20代の、暇をもてあましている頃の)時代の気持ちの所在感みたいなのが蘇ってきて、なんとなくいいものです。親しい誰かと一緒に『秋をけりけり』郊外を散歩できたら楽しいだろうなと思う」

さて、東京にいるときの木山さんは、そんなふうにふらっと訪ねて来たり、ふらっと訪ねて行ったりする友達がたくさんいたようですが、その6年前の昭和2年、姫路にいた頃、彼には友達というべき存在はほとんどいませんでした。

その年に彼が「姫路市南畝町288」という謎の場所から出した「野人」の第1輯の最後の「手記」には、当時23歳だった木山捷平のこんな言葉があります。

「私はひとりぼっちだ。だから『野人』も当分ひとりで出す。経済のゆるすかぎり—。」

前に昭和2年に書かれた「船場川」という詩を引用しましたが、同じ年に書かれた詩に「秋」というタイトルの詩があります。村上さんが引用したものと同じ題名ですね。実は木山捷平には「秋」と題された詩がいくつもあります。僕の持っている講談社文芸文庫の『木山捷平全詩集』には「秋」と題された詩が6つもあります。4つの季節の中では飛び抜けて多い。「秋」が好きだったんでしょうね。

その、昭和2年に書かれた「秋」という詩。
実は、『全詩集』に載っているのは2年後の昭和4年に出た木山の第1詩集『野』に収められているもので、昭和2年の『野人』に書かれた詩と、少し言葉が変えられている。たとえば「〜してくれる」が「〜してくれた」と過去形になっていたりとか。
昭和4年の段階で、早くも木山さんは姫路を過去のものにしてしまっている。
『野』における「秋」に書き加えられたこととして、もう一つ、とても気になることがあるのですが、それはまた後日。

さて、ここでは『全詩集』に載っているものではない、まさに昭和2年の姫路にいるときに書かれたままの「秋」という詩を引用しておきます。

僕等にとつて
秋はしづかなよろこびだ。


僕が五銭が煎餅を買つて
ひよこ ひよこ と
この土地でのたつた一人の友を訪ねると
友は
口のこはれた湯呑で
あつい番茶をのませてくれる。

あゝ さびしくも
貧しいなりはいのなつかしさ。

「五銭で」ではなくて「五銭が」となっているところがおもしろいですね。最初は間違いかと思っていましたが『全詩集』でも同じです。
「たった一人の友」を訪ねて行くときの「ひょこ ひょこ」という言葉も印象的です。このときは木山さんはまだ下駄を履いていなかったのでしょうか。

この詩に出てくる友は「船場川」の詩で会うことのできなかった人なのかもしれません。
23歳の木山捷平がこのとき訪ねて行った「たった一人の友」を今、探しています。
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# by hinaseno | 2012-09-07 10:46 | 木山捷平 | Comments(0)