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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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昨日、もうひとつあるラジオ番組を聴きました。そちらはパソコンのPodcastでいつでも聴けるもの。本当に便利ですね。

何度も語っている「ラジオデイズ」も、「ラジオの街で会いましょう」というPodcastでの番組を持っています。ここには平川克美さんをはじめとして僕の敬愛する人たちの対談がいくつも載っています。僕にとってはびっくりするような人がゲストに並んでいます。立松和平、福岡新一、小池昌代、柴田元幸、高橋源一郎、伊藤銀次...。もちろん内田先生や石川さんとの対談もあります。

この中で特にうれしかったのは中沢新一さんと平川さんとの対談「グリーンアクティブと経済」でした。これは幸運にもPodcastにアップされる前にリアルタイムで聴くことができたのですが、岡山人にとってはうれしい話が続きます。

中沢さんは以前から岡山県北部の林業をされている人との関わりをもたれていて、それから平川さんはこの対談の少し前に岡山(備前市伊部と西大寺)を訪ねられているんですね(そこで伊部に行かれたときの備前焼作家の川端文男さんとの対談もラジオデイズで聴くことができます。「小商い列伝」というシリーズの一つです)。

で、中沢さんとの対談で岡山の話が出てくるんです。「岡山っていうのは素晴らしいところで」って平川さんがおっしゃったときには、本当にうれしかったですね。もしこのブログを岡山の人が読まれていたら、ぜひ聴いてみてください。岡山の人でなくて、岡山のことを知らなくてもきっと面白いと思います。

さて、そのPodcastでは「ラジオの街で会いましょう」ともう一つ登録している番組があります。これも岡山がらみのものです。

その前に、僕が最初に定期的に聴くようになったラジオ番組の話をしておきます。それは「ヤングタウン(略してヤンタン)」という番組。時間は確か夜10時から。ちょうどいい時間ですね。聴き始めたのはたぶん中学時代。特に最高に面白くて欠かさずに聴いていたのは木曜日でした。

木曜日のパーソナリティは笑福亭鶴光、途中からあのねのねの原田伸郎が加わったような気がします。そして司会が角淳一。

話はその角さんのことからはじまるのですが、それはまた明日以降。
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# by hinaseno | 2013-01-07 08:57 | 雑記 | Comments(0)

今これを書いているのは日曜日の午後2時過ぎ。午前中出かけていましたが、この時間には戻ってきました。

現在ラジオからは山下達郎の「サンデー・ソングブック」がON AIR中。さっきは大好きなフォー・シーズンズの「RONNIE」という曲がかかりました。曲がかかったあと、達郎さんが一言、「いい曲」。僕もかかっているときにそう思っていました。

そういえば「RONNIE」を初めて聴いたのも達郎さんのラジオ番組。調べてみたら1985年に放送された、当時達郎さんがDJをしていた「サウンドストリート」という番組の「フォー・シーズンズ特集」でかかっています。ここで、初めてフォーシーズンズという素晴らしいグループのことを知ったんですね。今でも録音したものを持っています。

その特集を聴いて以降、フォー・シーズンズのレコードやCDを何枚も買って、「RONNIE」も何度も何度も聴いてきたはずなのですが、こんなふうに突然ラジオで聴くと全然違った響き方をして耳に入ってきます。小さなスピーカーからの音なのにどこか違う。決定的に。やはりラジオには魔法があります。

このブログではラジオに関することをいくつも書いてきましたが、僕がリアルタイムで最も聴き続けてきたのが、達郎さんの「サンデー・ソングブック」(その前に「サタデー」だった時期が少しありました)。

達郎さんがラジオの番組を持っている間(数年の空白期間がありました)、新年の最初は大瀧詠一さんとの「新春放談」という特集が行なわれていました。「新春放談」のことはここでも何度も書いてきました。第1回目が1984年1月12日。もう30年前です。僕はその第1回目からほぼすべて聴いてきて、録音してきました(ときどきは録音の失敗をしました)。

第1回目の記念すべき最初の曲は大瀧さんの『ナイアガラ・カレンダー』に収められた「Rock’n’Roll お年玉」。


作詞・作曲大瀧詠一です。いかにもエルヴィス・プレスリー好きの大瀧さんならではの曲です。その後、「新春放談」の1曲目はだいたいこの曲がかかるのが通例になりました。ですから新春の曲といえばこれになっています。

この「新春放談」でかかった曲、語られた言葉でこれまでどれだけ多くのことを学んできたかわかりません。何といっても「言っていることがわからなくても面白い」ということが経験ができたのはとても大きかったように思います。いくら感謝しても切りがありません。

その「新春放談」が今年から正式に終わることになりました。実際には昨年も震災のことで中止されていたのですが(大瀧さんの出身地である岩手県も大きな被害と被災者が出ました)、再開はしないということになったようです。それは数日前に知っていたのですが、やはりショックでした。

本当は「新春放談」が終了したことについては、何も触れないでおこうかと思ったのですが、でもいろいろ考えて書くことにしました。

僕は大瀧さんや達郎さんに関することしか知らないのですが、何かあるとつまらない憶測がとびかって、おそらくはご本人の耳にも届くんでしょうね。昨年の中断にしても、大瀧さんの出身地のことを知っていれば、つまらない言葉は出ないはずなのですが、心ない人はいるんですね。僕も日頃からネット上でもそういうことを言う人は避けているのですが、それでも目に入ってくることがあります。残念としか言いようがないのですが。

つまらない「憶測」っていうのは、単なる呪いの言葉にしかすぎないんですね。ああいう番組が何十年も続いてきたというのは奇跡としかいいようがない。それに対する敬意のかけらもない言葉を平気で口にできる人たちって、一体なんなのだろうと考えてしまいます。

結局は、そのようなつまらない「憶測」という名の呪いの言葉が、かけがえのないものが続くことを、あるいは次に新たに生まれる機会を奪ってしまっている気がします。

やめたら、つまらないことをいろいろ言われるから、だから続けるなんて、ちっとも楽しくないですからね。

でも、「ゴー!ゴー!ナイアガラ」ってある日突然、唐突に終ってるんですね。告知も何もなし。その日の放送の最後の最後で「それではまた、いつの日か、ばいば〜い」って。

大瀧さんの最新の声はラジオデイズのサイトから聴くことができます。2日前に今回の3回分がすべてリリースされました。もちろん大瀧さんだけでなく、石川さん、平川さん、内田先生の声も聴けます。というかほとんど笑い声ばかりなのですが。

エルヴィス・プレスリーに関してのとっても興味深い話が大瀧さんから語られます。そのあとの石川さんから大瀧さんへの小さなツッコミ、さらにはそれを受けての平川さんの恐るべきツッコミがめちゃくちゃ笑えます。もちろんわからない人には何が何だかわからないかもしれませんが、それでも面白い。

人に呪いの言葉を吐くことは一切せず、楽しいことが大好きな人たちの話を聞くのは本当に幸せな気持ちになれます。僕にとって最も「かけがえのないもの」になっています。

達郎さんの番組に、また違った形で大瀧さんが登場する日がくるのも楽しみですね。
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# by hinaseno | 2013-01-06 16:23 | 雑記 | Comments(0)

外出先から家に戻って来たときには夕食の用意ができていたので、だるまストーブに火を入れるのは新年になってからということにする。

元日、遅い朝食をとったあと、父親に工場のストーブに火を入れるよと言ったら、
「元日には火を入れたりせんもんじゃ」
という言葉が返ってくる。
「明日は朝、帰らんといけんから、今日ぐらいしかできんけど」
と言っても、元日はだめの一点張り。大工の仕事は辞めて、機械も全て売り払ったというのに、昔からの慣習だけは守ろうとする。頑固さも昔のまま。しょうがないなと思いつつ、一度言い出したことを変えるような父親でもないので結局諦めて次の日に少し早く起きて火を入れることにする。

結局その後、母親と近所の神社に初詣に行く。その神社は母親が行きたいと言ったら行ってたけど、母親の足が悪くなってしばらくきちんと歩けない時期が続いていので、その神社に初詣に行くのは久しぶりのこと。神社の拝殿の何カ所かの扉やいくつかの備品は数年前に父親が作り直したものである。おみくじやお守りなどを並べた台も父親が作ったものだ。お金を入れる部分を作るのに苦労したと言っていた。だれもいない小さな神社で参拝者が自分でお金を入れておみくじやお守りなどを買う仕組みになっている。だから簡単に壊されないようにしておかなくてはならなかったんだろう。

せっかくだからおみくじをひく。
「中吉」。
「古きをすて、新しきにつくがよい」と書かれていて、いろんなところに「変えよ」とか「改めよ」なんて言葉が目につく。
どちらかと言えば、「古き」ものばかりに目がいくので、大きなお世話だと思う。自分はあくまで「古きを温めて新しきを知る」主義。「古き」ものの中に、いくつもの再発見を繰り返している。もちろん「新しき」を手にとらないわけではないけど、「古き」ものの価値を知っていて、それに対する敬意を感じさせるような「新しき」を手にとっている。

なんてことをとりとめもなく考えていたら、かたわらで母親が「中吉ぐらいが一番ええんじゃ」と言っている。ちなみに、あとで引いた母親は「大吉」だった。

拝殿の横には小さな石造りの鳥居がある。小学生のときには村の祭りでこの神社に来ては、その鳥居に石を乗せるために、何度も何度も石を投げたことを思い出すが、今ではジャンプしなくても手が届く。鳥居に石はいくつも乗っかっていた。昔、小学校低学年の頃、人の乗っけた石を何度も当てて落としながら、ようやく乗せることのできた石は今でも乗っているだろうかと、ふと思う。だれかの石にぶつけられてすぐに落とされているにはちがいないけど、また別の子がその石を手にとって乗っける、落とされる、を繰り返して今も乗っかっていたらいいなと思う。

次の日、まだ父親が起きてないときに工場に行ってだるまストーブに火を入れる。といっても、実は燃えている中に紙や本などを入れて燃やしたことはあるけど、最初から火を熾したことは一度もないことに気づく。最初で最後の火入れになるわけだ。

子どもの頃から勝手に工場に入ることは堅く禁じられていた。もちろんけがを考えてのこと。機械で指がとんでいた職人さんもいた。工場に呼ばれるのは職人さんが休憩のときとか、ちょっと大きくなって何かの手伝いを必要としたときくらい。だから、ましてや工場で火を扱うようなことは絶対に許されないことだった。 建具屋にとって火災は最も恐ろしいことだったから。

そんなふうに工場から遠ざけられて育ったせいか、高校生になった頃からはほとんど工場に行く気持ちすら起きなくなっていた。せいぜい工場に足を踏み入れるのは年末の大掃除の手伝いをするときくらいで、実家を離れて暮らすようになると工場に入ることすらなくなってしまった。つまり、大人になってまともに工場に入ったことがないまま今に至っているわけだ。

そんな工場だけど、さすがに機械がなくなった風景はさびしい。ぽつんと残っているだるまストーブのある風景はさらにさびしさを増している。見れば見るほどいろんな記憶が蘇ってくる。どれも子どもの頃の記憶ばかり。まだ、工場ができる前の、自宅の中の作業場にもだるまストーブはあった。つまり、物心ついたときにはだるまストーブがすぐぞばにあったわけだ。でも、火を入れたことは一度もなかった。

というわけで、火を入れると決めたわりには手順に悩んでしまう。焚火の小説は好きなくせに焚火をしたことがない。新聞でもあれば火を熾しやすいんだろうけど見当たらない。取りに行くのも面倒なので、あたりにちらばっているかんなくずに火をつけてみる。でも、木切れに燃え移る前にすぐに火が消える。難しいもんだなと思う。

a0285828_8391846.jpga0285828_840193.jpg木切れの配置替えをして、できるだけ細い木にかんなくずをまぶせるようにして火をつけたらようやく木切れに火が移る。で、少しずつ太い木切れを入れていく。火が次第に勢いを増していって、ようやく暖かくなる。

せっかくだからストーブのそばで何か読もうと思って持ってきた佐藤泰志の『海炭市叙景』を読む。ずっと前に川本三郎さんの本で紹介されていて買ったままにしていた本。最近出た夏葉社の『冬の本』を読んでいたら、村上春樹とも共著がある吉本由美さんがこの本のことを書いていたので、いいきっかけだと思って実家に持って帰っていたのだ。

『海炭市叙景』の最初の話に出てくるエピソードは元日に起こっている。一日ずれたけど、いいタイミングだなと思って読み進めていたら父親がやってくる。そばに座るかと思ったけど、ストーブの下にたまった灰を少し取り除いて、「めしができとるから、もう木はくべるなよ」とだけ言って工場から出て行く。「くべる」という言葉が懐かしく響く。

『海炭市叙景』の最初の一篇「まだ若い廃墟」を読み終えた頃には火はすっかりなくなっていた。木切れはずいぶんたくさん入れたつもりだったけど、一時間足らずでほとんど燃え尽きてしまう。火がなくなってくるとストーブのすぐそばにいても急激に寒くなる。いや、火が勢いよく燃えているときでもストーブから2mくらい離れただけで温もりはなくなる。そんな寒い場所で父親たちは何十年も作業をし続けたんだということを今更のように思い知る。

次に戻ったときには、このだるまストーブはなくなっている。
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# by hinaseno | 2013-01-05 08:44 | 雑記 | Comments(0)

大晦日に実家に戻って、一息ついたときに父親が、
「工場を見てみぃ」と一言。
「どないしたん?」と訊くと、
「機械、全部売ったわ。何ものおなっとる(なくなってる)で」と微妙な笑いを浮かべて答えた。
どう言葉を返したらいいのかわからなかったので、
「また、後で見とくわ」とだけ言った。

実家は建具店をしていて、子どもの頃の最初の記憶としては小さな機械が2台くらいしかなかったけど、小5のときに工場をつくって(それまでは作業場は家の中にあった)、次第に機械は増えていき、最終的には大きな機械が10数台置かれていた。あとを継ぐものもなかったので建具業は数年前にやめていたけど、機械は処分しないで、ときどき小さな頼まれ仕事を、ほとんどお金をとらない形でちょこちょことはしていた。

去年頃から、父親なりに心残りのないよう、いろんな整理を始めていた。誰に相談することもなく。「〜をするから」の一言もなく、いつもあとになって「〜をした」と聞くだけ。今回の機械の処分も突然のこと。ひと月ほど前に帰ったときには、それらしいことは何も言われなかった。まあ、何かを言ってきてそれに反対しても、聞くような父親ではないのだけど。

父親と言葉を交わして1時間くらいたって、ひとりで仕事場に行ってみた。父親と職人さんの作業台と、のこぎりや鉋などの作業道具はそのまま置かれていたけど、それまで場所を占有していた大きな機械は全てなくなっていた。機械につないでいたはずの線が、切り取られた形で床の小さな穴から何本かのぞいていた。

見ると工場の真ん中にだるまストーブが。
何台目かのストーブだけど、ストーブにはいろんな思い出がある。ほとんどが子どもの頃の思い出。職人さんたちと一緒に、もちを焼いて食べながら、いろんな話をしたこと。あるいは、だれもいないときをみはからって、見られてはいけないものをこっそり燃やしたこともあった。

そのストーブもここ数年、あまり使っていなかったためか、かなりさびついて、ところどころひび割れがきている。

ストーブを眺めていたら、父親がやって来て、
「そのストーブももうすぐ○○さんにあげるんじゃ」と言う。ちょっとしたゴミを燃やすために庭に置くらしい。きっとそんなに長くもたないだろうと思う。

火をつけてみたくなったけど、出かける用事があったので、また戻ってからにしようと考え直す。
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# by hinaseno | 2013-01-04 11:00 | 雑記 | Comments(1)

少し遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

3日ほど実家に帰省していました。毎年のことですが、ほとんど動くことなく、食べて飲むだけの日々を過ごしていましたので、かなり太ってしまいました。これを書いたら久しぶりに走ろうかと思っています。

31日には帰省したらいつも伺う万歩書店平井店へ。欲しい本はいくつもあるのですが、ぐっと我慢して(というか、お金と本を置く場所の問題なのですが)。

a0285828_11697.jpg一番の収穫は永井荷風の『断腸亭日乗』全七冊の函入りのもの。ちょうど全集もの50%オフのセールをしてたんで、びっくりするような値段で手に入れることができました。中を見たら、読まれたような形跡もなく、売上カードも入ったまま。おそらくは新品ですね。荷風の『断腸亭日乗』は文庫本や2002年発行のものを数冊持っていて、いつか全部集めてじっくり読みたいと思っていたんで、本当にうれしかったです。元日に、お正月に書かれたものだけをざっと読みました。日記って、いろんな読み方ができるので一生楽しめそうです。

興味深いのは荷風はお正月に、前に木山捷平で触れた雑司ヶ谷にある墓地に行ってるんですね。木山さんは墓参趣味があったのですが、荷風も墓参りが趣味であちこちの墓に行っています。でもなぜお正月に、と思って川本三郎さんの『荷風と東京』を読んでみたら、理由がわかりました。荷風の父が大正2年の1月2日に亡くなっていて、雑司ヶ谷に荷風の父の墓があるんですね(のちに、荷風の墓もその隣に作られています)。川本さんの言葉を借りれば「1年のはじまりの儀式」として荷風は墓参に出かけています。

大正7年1月2日。「蠟梅の花を裁り、雑司谷に往き、先考の墓前に供ふ」
大正11年1月2日。「タキシ自動車を雑司ヶ谷墓地に走らせ先考の墓を拜す」
大正15年1月1日。「晝餔の後、靈南阪下より自動車を買ひ雑司ヶ谷墓地に往きて先考の墓を拜す」


漢字の多くが旧字体でこれだけ引用するのも大変でしたので(画面上にきちんと表示されないかもしれません)、昭和以降に書かれたものは省略します。亡くなった父のことを「先考」というのははじめて知りました。

毎年墓参に行っているわけではなく、用事があったり体調が悪かったりして、行こうと思ったけど行けなかったと書かれている年もあります。大正15年の墓参の時には帰りに池袋から電車で乗っていますね。

木山さんは雑司ヶ谷に住んでいた大正14年に何度も雑司ヶ谷の墓地に行っています。もちろんそこに木山さんの親族の墓があったわけではなく、かといって著名な人の墓を探し歩いたわけでもなさそうです。荷風のように「1年のはじまりの儀式」として墓参したのではなく、近所だったので気が向いたら行ってたみたいですね。

大正14年に書かれた詩に次のようなものがあります。タイトルは「妙な墓参」。

十八で死んだ処女の墓に参つた。
話したこともなく
したしかつたのでもなく
恋してゐたのでもないけれど――
山からの帰るさ
つい墓に出て
そつと野菊をそなへた。
そしたらその女が妙に
愛人のやうに思はれて来た。
秋の陽はやはらかに照つて
へんにたのしく
へんにさびしかつた。


素敵な詩ですね。 「恋してゐたのでもないけれど」の後の「――」の部分に込められた思い、あるいは「へんにたのしく へんにさびしかつた」という気持ち。なんとなくわかるような気もしもします。

先日触れた『角帯兵児帯』にはこんな文章が書かれています。大正14年の木山さんの過ごした風景の一つです。

雑司ヶ谷墓地の一番はずれのような所に、草のしげった原っぱがあった。私はその原っぱが気に入ってねそべって本をよんだり青空を見ているのが好きだった...


帰省していたときのことで、もう少し書きたいことがあったのですが、例によって長くなってしまいそうなので今日はこれくらいで。続きはまた明日以降。さあ、走ってこよう。
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# by hinaseno | 2013-01-03 11:08 | 木山捷平 | Comments(1)