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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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 1973年に中野区大和町に住んでいて、伊藤銀次さんが達郎さんたちのつくった『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を耳にした高円寺のムーヴィンに、当時足しげく通っていた少年の話。その時期、少年は銀次さんには会うことはなかったようですが、1980年に発売される彼のデビュー・アルバムの製作中に銀次さんに出会うことになり、それがやがて...。

 さて、1973年当時、その少年は17歳。ということは、彼が生まれたのは1956年。大瀧さんのアメリカン・ポップス伝でも語られたように、まさにロックンロールが生まれた年に生を受けているんですね。
 彼の誕生日については有名な逸話があります。あくまで彼の母から伝えられた話。彼が生まれたその日に母はエルヴィス・プレスリーの「監獄ロック」を耳にしたと。母は彼にある時、こう告げます。

「今、お前がロックンロールに夢中なのは私にはよくわかる。お前は、生まれた時、エルヴィス・プレスリーの洗礼を受けたんだから」


 ちなみに「監獄ロック」は1957年に作られた曲。でも、それが彼と彼の母が共有している真実。素敵ですね。

 少年はかなり反抗的な子供として成長したようです。特に欺瞞に満ちた大人たちには我慢がならなかったみたいです。で、停学をくらったりもしていた。
 当時、彼が最も読んでいたのがサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。主人公のホールデン・コールフィールドに自分を重ねていたようです(でも、後に彼はその本の中でホールデン君がなりたいといっていたライ麦畑のキャッチャーのような存在になっていくのですが)。
 ほかに彼が17歳頃に読んでいたのはボードレール、ランボー、プレヴェールといったフランスの詩人たちの詩。すごいですね、ただの反抗するだけの少年ではなかったことがわかります。
 そして彼は当然音楽、特にロックンロールに夢中になりました。言うまでもなくビートルズ(特にジョン・レノン)、ボブ・ディラン、バディ・ホリーなど。同時にナット・キング・コールなどのジャズも聴いていたみたいですね。そして当然のことながらバンドを作って演奏するようになります。高校に入った頃ですね。最初はロックンロールのカバーをしていたようですが、次第にオリジナルの曲を作るようになります。高1のときには大瀧さんのいた「はっぴいえんど」のライブを生で観てるんですね。「はっぴいえんど」は日本語でロックを始めた最初のグループ。彼は新鮮な印象を受けつつも「ですます調」の言葉遣いに戸惑いを感じます。自分だったらもっと違う言葉を使って歌うことができると。

 彼が最初に作った曲のほとんどは"攻撃的"な曲ばかりだったようです。彼の言葉を引用すれば「インチキな連中のことを歌ったり、偽善について歌ったり、社会的な歌を歌ったり、政治的な歌を歌ったり」と。でも、そんな攻撃的な曲を7つくらい作る一方で3つくらいはラブ・ソングを作っていたようです。

 で、1973年、彼が高2になったとき、新たなロック・グループを結成します。なんと10人編成。普通であれば5人前後ですね。その倍の人数。どうやらビートルズの『サージェント・ペパーズ』のサウンドをステージで具現したかったからのようです。
 そのバンドの名前は「バックレーン元春セクション」。
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# by hinaseno | 2013-02-07 09:56 | 音楽 | Comments(0)

 中野区大和町。
 この地名を見ても、1年前であれば何の反応もしなかった町。でも、この1年間、いろんな人たちを通じていくつもの東京の小さな町のことを知りました。

 中野区大和町は木山捷平がかつて住んでいた町なんですね。調べたら昭和11年から昭和12年にかけてのほんの1年間ちょっと。木山さんが32歳の時。それにしても木山さんは、まるで後に僕が関心を持つ人やもののことを予期しているかのように、いろんな場所に、いろんなものに足跡を残しています。
 木山さんはこの年の4月に杉並区馬橋から中野区大和町261番地に引っ越します。でも、駅から遠いということで10月には同じ大和町の駅に近い場所、中野区大和町36番地に引っ越しています。で、翌昭和12年の9月に高円寺に移っています。本当に高円寺周辺を転々としています。

 この中野区大和町に住んでいた昭和11年には木山さんにとってとても大きな出来事が起こっています。長男である萬里さんがそこで生まれているんですね。7月7日。
 この年の木山さんの日記(『酔いざめ日記』)を読んでみると、結構興味深いことが書かれています。まず、この年の2月26日に、例の「二・二六事件」が起こっています。「今晩二時半、帝都に戒厳令」と日記に記されています。ちなみに荷風の『断腸亭日乗』のこの日の日記にはこう書かれています。「余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラツパの聲のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒氣とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す」 こんな日にも関わらず、何ともいえない詩情あふれる文章。荷風はこのとき58歳。昭和11年といえば荷風は例の玉の井通いが始まっています。4月に始めて歩いて、9月からは足しげく通うようになります。お気に入りの年の頃24、5歳の美しい私娼となじみになって、彼女のもとを何度も訪ねるようになっていたんですね。その「玉の井の女」をモデルとして『濹東綺譚』が書かれる。
 
 川本三郎さんは『荷風と東京』で、この時期の荷風についてこう書いています。

 身をやつし、匿名の日陰者となって玉の井の陋巷で、女と親しくなっていったとき、やがて六十歳となろうとする荷風は、他では得がたい安らぎを感じた筈である。色恋は無論あっただろうが、女の家で荷風は、それ以上に隠居のような気分になった。世間的な窮屈な衣裳を瞬時脱ぎ捨てて若い女といっしょに白玉を食べる。その市井のくつろぎが荷風にとっては、夢の中の出来事に思われたに違いない。
 

 さて、木山さんの日記に戻ると、この年、木山さんは郷里の笠岡に何度か戻っています。その2年前に父親静太がなくなって母親を心配して何度も戻っているんですね。
 12月8日の日記では母親と口論したことが書かれています。母に「お前は東京でようやって行っとらんように思うが、わしは千里眼じゃ....」と言われて、かちんときたんでしょうね。

 面白いのは4月4日の日記。笠岡から終列車(井笠線)にのって上京しようとしたのですが岡山駅で予定の特急に乗れずに、時間が余ったので深夜の岡山市内を探ろうとします。するとたまたま乗った人力車の車夫に連れて行かれたのは、当時、岡山市のはずれにあった中島の遊廓。渥美清主演の『拝啓天皇陛下様』にも出てきます。映画の設定は昭和6年。木山さんが来た時と結構近いですね。その日の木山さんの日記。

車夫のつれて行った家は中島の廓、ひっぱりあげられ、逃げられぬ体となる。酒をのみ三味をひく約束で金は渡したが、金を渡したら三味は明日ひくという。やむなく一時間ばかり無為にすごし急行にのる。余はピューリタンなり。このへん駄目なる所以かも知れず。


 最後が笑ってしまいますね。もちろん初めての子供が生まれる直前ですから、馬鹿なこともできないわけですが。「余はピューリタンなり」って書いているけど、本当だっけ?

a0285828_1056163.jpg ところで遊廓のあった中島のあたりの現在の風景も昨日の『瀬戸内シネマ散歩』に載っていました。いい感じですね。このあたりは一度も行ったことがないので、また今度行ってみようと思います。昔の建物もいくつかは残っているみたいです。

 1973年に中野区大和町に住んでいた少年の話には全然なりませんでした。
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# by hinaseno | 2013-02-06 11:00 | 木山捷平 | Comments(0)

 伊藤銀次さんと駒沢裕城さんが店の人のところに行って確かめたレコードのタイトルは『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』。ビーチ・ボーイズの『SUNFLOWER』に収められた曲のタイトルと同じ。アーティスト名はなし。ということはグループ名も「ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」。
 ジャケットの裏にはメンバーの名前と、「御用の方は連絡を」という言葉とともに連絡先が書いてある。で、銀次さんたちは連絡をとって、そのメンバーの中心人物である人に会いに行く。その人がまさに、四谷のディスクチャートというロック喫茶で、深夜に大貫妙子さんがデモテープ作りをしていたのを見つめていた人だったんですね。山下達郎さんです。

 達郎さんが『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』という自主制作のアルバムを作ったのはその前の1972年の8月から9月にかけて。高校を卒業した記念に、仲の良かった音楽仲間と記念に作ったもの。作った枚数は100枚。
 アルバムに収められた曲はすべて洋楽のカバー。A面の6曲はすべてビーチ・ボーイズ。そしてB面はマンフレッド・マン、ムーングロウズ、フランキー・ライモン&ティーネージャーズ、バディー・ホリー、エヴァリー・ブラザーズ、そしてジャグ・バンドの曲。高校を卒業したばかりの少年たちなのに、なんとマニアックなこと。しかも時代は1970年代の初め。信じられないですね。

 さて、最初は大貫妙子さんのデモテープ作りを黙って見つめていた達郎さんは、徐々にその作業に加わるようになります。こんなふうにギターを弾いたらどうかとか、こんなふうに歌ったら、とか。で、当然ながら周囲の人たちはその歌のうまさに驚くことになります。大貫妙子さんのソロ・デビューの話は結局立ち消えになるのですが、達郎さんと大貫さんと新しいグループを作ることになり、1973年5月にライヴ・デビューを果します。グループ名はシュガー・ベイブ。大貫さんのCDの解説を書かれていた長門芳郎さんは達郎さんに頼まれてシュガー・ベイブのマネージャーになります。銀次さんたちが達郎さんに連絡をとったときには、すでに達郎さんが大貫妙子さんらとシュガー・ベイブを始めていた頃ですね。
 銀次さんと達郎さんは会ってすぐに意気投合。おそらく銀次さんは達郎さんから『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』のアルバムを譲り受けたはず。で、それが大瀧さんの手に渡ることになる。おそらくは1973年の7月くらいでしょうか。で、大瀧さんはそのアルバムを聴き、9月のコンサートに向けてコーラスの弱さをずっと感じていたので、渡りに船ということで、達郎さんを福生に呼ぶ。で、1973年の8月18日に達郎さんは福生にやってきます。で、達郎さんのシュガー・ベイブは、翌年に作られた大瀧さんのレーベル、「ナイアガラ」の第一号アーティストとして2年後の1975年にレコード・デビュー。
 達郎さんにとっても1973年は運命の年だったんですね。

 達郎さんは『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』というアルバムを作ったことに関して、のちにCDで出た解説でこう述べています。

 私がプロのミュージシャンになる全てのきっかけは、このアルバムを作った事によって生まれたといえます。はっきりと目に見える形にしなければ、他人は自分に対して注意をはらってはくれない、という教訓を、私はこの経験から学びました。


 さまざまな偶然のつながりがあったとはいえ、自分なりに納得のできるものを作り上げていたからこその話。耳の肥えた銀次さんや駒沢さんに論争を起こさせ、大瀧さんにコーラスで使おうと思わせるものがそこになくては、やはり話はそこで終わっていたわけです。

a0285828_10535523.jpg ところで、話は少しそれてしまうのですが、この『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』のオリジナルのアルバムのレーベルはこんなデザインになっています。「サーフィン・ラビット」というレーベル名から来ているデザイン。メンバーではありませんでしたがレコーディングに協力した金子さんが考えたデザインなんですね。金子さんはジャケットのデザインも描かれています。
 この「サーフィン・ラビット」のことで最近おもしろいものを発見しました。もともとこのデザインは金子さんが日本の古い家紋からとったとのことなのですが、それはいわゆる「波兎」という縁起物の絵のことなんですね。

a0285828_10542278.jpg 実はこの「波兎」の鏝絵(こてえ)が、先日行った牛窓の古い家にあるということを、牛窓から戻って牛窓に関する本を読んでいたら知りました。三石の『早春』や牛窓の『カンゾー先生』のことが書かれている『瀬戸内シネマ散歩』という本に載っていました。その本に載っている写真を貼っておきますが、ちょっとわかりにくいですね。今度行ったときには是非きちんと見なくてはいけないですね。ちなみにこの「波兎」の鏝絵のある二階建ての建物は映画『カンゾー先生』で遊郭シーンとして使われているようです。この映画も絶対に見なければ。





 ところで昨日は山下達郎さんの60歳の誕生日でした。達郎さんから受けた影響も数限りないです。心から感謝しています。でも、達郎さんが60歳なんて信じられないですね。
 で、考えてみると今年はシュガー・ベイブも結成40周年。
 先日、大貫さんの一番好きな曲として「午后の休息」という曲を紹介しましたが、もう1曲、やはり死ぬほど好きな曲があります。シュガー・ベイブ時代に作られた「いつも通り」。達郎さんや大瀧さんとの出会いが会ったからこそ生まれた曲。


 話はここで終わろうかと思ったのですが、銀次さんたちが達郎さんの『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を聴いた高円寺のムーヴィンに、まさにその頃よくやって来ていた「少年」の話も書いておきたくなったので次回はその話を。彼が住んでいたのは高円寺の隣町の中野区大和町。
 
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# by hinaseno | 2013-02-05 11:11 | 音楽 | Comments(0)

 伊藤銀次さんと駒沢裕城さんが高円寺のムーヴィンで聴いた曲というのはこれです。
 と、音源の準備をするためにいろいろと読み返していたら、ちょっと証言のくい違いがあってどうしようかと思ったのですが、結局こちらの曲を用意しました。昨日、最初にブログをアップしたときには「A面の1曲目」としていましたが「A面の2曲目」に変更しました。曲のタイトルは「Don't Worry Baby」。
 実は僕はこのときかかった曲をずっと「A面の1曲目」の「Wendy」と記憶していたのですが(『All About Niagara』に収められた「三人よればカンカンガクガク」という対談での銀次さんの証言)、その後、いくつかの雑誌に収められた大瀧さんの証言ではいずれも「A面の2曲目」の「Don't Worry Baby」となっていたのでそちらにしました。


 この曲を聴いて銀次さんと駒沢さんとの間で「論争」が起こります。どんな論争かというと、この曲を歌っているのはだれかという論争。駒沢さんはその曲を歌っているのが「ビーチ・ボーイズじゃない?」と言い、銀次さんは「これは、ビーチ・ボーイズとは違う」と言う。考えてみれば、仮に「Wendy」を聴いてなんだこれはと思って始まった「論争」は、まちがいなく次の曲である「Don't Worry Baby」がかかっているときでも続いたでしょうから、どっちの曲でもかまわないですね。ちなみに大瀧さんが最も驚いたのは、そのアルバムのB面の1曲目に収められたマンフレッド・マンをカバーした「Semi-Detached, Suburban Mr.James」だそうです。

 ところで、昨日、いくつかの「たまたま」を書きましたが、もう一つの「たまたま」をあげるならば、ここで銀次さんと駒沢さんの間で「論争」が起こったことも重要な「たまたま」であったといえるかもしれません。大瀧さんは後にある雑誌のインタビューでこんなふうに話されています。

そこで「ドント・ウォーリー・ベイビー」がかかったときに、論争にならなければそこで終わってるんだよ(笑)。論争したというのが一番のポイントだな。銀次が一人で行ったとかコマコ(駒沢さん)が一人とかだったらなんともなんなかったんじゃないの?


 だれかとの運命的な出会い、何かの運命的な発見があるときにはいくつもの偶然がからんでいて、ここではたまたま起こった「論争」が一つの重要なポイントになっていたんですね。「たまたま」でつながり始めた運命の糸は、「たまたま」起こった二人の「論争」がなければ、ここで切れてしまってなにもかも終わっていたのですから。
 話は少しそれてしまいますが、昨年暮れに収録された『大滝詠一的2012』でも、「たまたま」起こった「イエスタディ論争」から、いろんな人たちの思わぬ発見につながることになったようです。ここにその「イエスタディ論争」とその後での発見の興味深い話が書かれています。

 さて、「論争」が起こったからには、当然、二人はそのかかっているレコードを確かめるためにお店の人のところに向かいます。
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# by hinaseno | 2013-02-04 10:06 | 音楽 | Comments(0)

 とにかく遠く離れた街の話を聞くのが好きだ。そういった街を、僕は冬眠前の熊のように幾つも貯めこんでいる。目を閉じると通りが浮かび、家並みが出来上がり。人々の声が聞こえる。遠くの、そして永遠に交わることのないであろう人々の生のゆるやかな、そして確かなうねりを感じることもできる。


 まるで、僕の気持ちをそのまま写し取ったような文章。でも、書いたのは僕ではありません。あたりまえですね。僕が書けるわけがありません。書いたのは村上春樹。『1973年のピンボール』の中の一節。そう、また『1973年のピンボール』です。この小説は物語としては不完全なものなのかもしれませんが、何かちょっと気になることがあって、あれが書かれていたのは何だっけ、と思って探してみると、たいていこの本の中に書かれているという、僕にとっては本当に不思議な一冊。

 そう、今日は1973年の話。
 『1973年のピンボール』には、こんな文章があります。

 1973年9月、この小説はそこから始まる。それが入り口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。


 今日、僕が書く文章は1973年1月から始まります。考えてみるとまさにそこが僕にとっての「入り口」でした。僕にとってあまりにも「遠く離れた街」、でも、とても身近に「人々の声」を聞き取ることができます。
 そしてこの話の「出口」は、たぶん1973年8月。阪神の江夏豊が史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成した月。その延長戦を終わらせたのは自ら放ったサヨナラホームラン。なんてかっこいいんだろうと思った。日本ハムに入った大谷君がそんなことをやってのける日が来るといいですね。

 さて、1973年1月。話の主人公はやはり大瀧詠一さんです。前の年の12月に大瀧さんや細野さんがいたはっぴいえんどが解散し、大瀧さんは1973年1月に、ある場所へ引っ越します。そこが福生(ふっさ)ですね。それにしても大瀧さんはなぜこの場所を選ばれたんでしょうか。「風水」とかも関係しているんでしょうか。でも、ここがまさに「福が生まれる町」になっていくんですね。

 大瀧さんが福生に引っ越して間もなく、「大瀧史的には大事件」が起こります。サイダーのCMの話が来るんですね。CM制作会社はONアソシエイツ、そう関口さんがいらっしゃった会社です。大貫妙子さんが徳武さんのギターで深夜のデモテープ作りをしていたころ、大瀧さんは初のCM制作に取りかかっていたんですね。

 そんな大瀧さんのもとへ、その前の年にデビューしていたグループが、ファースト・アルバムのプロデュースをお願いするために、3月にやってきます。ごまのはえというグループ。リーダーは伊藤銀次さん。で、ごまのはえは大瀧さんの福生の自宅に寝泊まりして、特訓に次ぐ特訓の日々を送ることになります。そしてその年の9月21日に元はっぴいえんどのメンバーが集まってコンサートをやることが決まり、そこでごまのはえ改めココナツ・バンクをデビューさせることにします。メンバーも何人か変更して、さたに特訓に次ぐ特訓の日々。

 そんなある日、おそらくは6月のはじめ頃、たまたまできた、たった一日だけの休日を利用して、銀次さんはメンバーの駒沢裕城さんと高円寺のムーヴィンという喫茶店に行きます。そう木山捷平がかつて住んでいた高円寺、村上春樹の『1Q84』にも出てくる高円寺。
 その店で運命的な出来事が起こります。
 たまたまできたたった一日の休日を利用してたまたま立ち寄った高円寺の喫茶店で、たまたまかかったこのアルバムのA面の2曲目に収められた曲を聴いて2人は驚愕することになります。
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# by hinaseno | 2013-02-03 10:37 | 音楽 | Comments(0)