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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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  いやはやなんとも


今日はちょっと予定を変更して昨日予告していたのとは別の話を。でも荷風がらみの話ではあるのですが。昨日のブログを書いたあとにとても大きな発見をひとつ、そして寝る前に読んでいた本でびっくりするような発見をひとつしてしまって、個人的には一日中興奮してしまいました。前者の方は日を改めて書きたいと思いますが、後者の方はぜひ今日書いておかねばと思いました。

僕がこのブログを書くようになって、何となく書いてきた全然別のことが、実はつながっていたというのがいくつも出てきています。それぞれが近いジャンルのことであるならば、まだ驚きも少ないのですが、昨日の発見は2つとも、あまり関係なさそうに思えるものどうしのこと。いずれも荷風がらみですが。まあ、僕がこんなに荷風にはまってしまっているのも、荷風にはそういうのが多すぎるからなのですが。

ここ最近、ずっと荷風の岡山での日々を書いています。実はまったく触れなかったのですが、偏奇館を焼かれて後、岡山で暮らすようになるまで、荷風とずっと行動を共にしていた人がいました。最初は自分たちの住んでいたアパートに荷風を住まわせ、それ以降、荷風が滞在することになる場所は、すべてその人が世話したものでした。一昨日書いたように荷風が三門に行ったのは、そこに池田優子さんという人が住んでいたからなのですが、岡山に来て池田さんを紹介したのもその人でした。
『断腸亭日乗』にも偏奇館焼失以後、再々、その人の名前は出てきます。でも、基本的には名字だけ。ときどきは名前が全て書かれているのですが。その人の名は菅原明朗。奥さんである永井智子さんも同行されていました。

前に岡山の町を散策する荷風のことを書きましたが、実は菅原さんといっしょに歩いていることが多いんですね。岡山にやってきた2日後の6月13日には「午前菅原氏と共に其知人池田優子なる婦人を厳井下伊福の家に訪ひ昼飯を恵まる」、6月20日には「午前暑さ甚しからざる中菅原君と共に市中を散歩す」、6月23日には「菅原君に案内されて旧藩校の堂宇を見る」とあります。で、岡山で空襲をうけて三門近くの下伊福の池田優子さんの家に行ったときに、たまたま岡山空襲のときには岡山にいなかった菅原さんと再会します。

さて、その菅原明朗という人と荷風の関係、川本さんの『荷風と東京』にも書かれてはいるのですが、読んでいるときはあまり気に留めることもないままにしていました。びっくりするような発見とか自分で言いながら、実はただただぼんやりしているだけなのですね。
で、昨夜寝る前に、川本三郎さんの『荷風好日』(『荷風と東京』の後に刊行された本ですが、僕はこちらを先に読んでいました)を読んでいたら(再読です)、その菅原明朗という人と荷風との関係が書かれている箇所にぶつかりました。
菅原明朗は作曲家。荷風が作詞した「葛飾情話」というオペラの作曲をしているんですね。『濹東綺譚』を発表して間もなく、昭和13年に荷風はクラシックの作曲家である菅原明朗と知り合い、銀座の喫茶店でいろんな話をする中でオペラを作ろうということになったようです。で、そのオペラはその昭和13年の5月にオペラ座で上演され、連日満員の興行になったとのこと。で、この初演のときに、主人公の女性を演じた美貌のオペラ歌手が、菅原明朗の私生活の伴侶である永井智子だったんですね。
川本さんの本ではこの永井智子さんが歌った「葛飾情話」のSPが永井智子さんの遺品の中から発見されて1998年にCDになったということも。

ここまで読んで、クラシックの作曲家である菅原明朗という名前をどこかで見たことがあるなと思って、もしやと思って、去年買ったある音楽家の全集のブックレットを見たんですね。やはりありました。「菅原明朗に師事」との言葉が。
その音楽家とは、このブログでも何度も書いてきた古関裕而。福島から上京してきたときに2年間ほど菅原明朗のところで学んでいたんですね。あの古関裕而さんが、間接的にではあれ荷風、そして岡山につながったことになったわけです。

このことがわかってずいぶん興奮して中々寝付けなかったのですが、目が覚めて石川さんのブロブを見たら(いつも枕元に置いているiPhoneで朝いちばんに見るのですが)、なんとその古関裕而さんのことが書かれていて、びっくりのびっくり。寝間にいながら腰が抜けそうになりました。昨日、古関裕而さんの息子さん、正裕さんがアゲインにいらっしゃっていたんですね。いやはやなんとも(「ゴー!ゴー!ナイアガラ」での大瀧さんの口癖です)。

ところで、永井智子さんが「葛飾情話」を歌ったCDを収めたものは、ネット上では見当たらないですね。すでに廃盤になっているようです。いつか聴いてみたいですね。
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# by hinaseno | 2013-03-25 10:00 | 雑記 | Comments(0)

武南さんの家を外から眺めてすぐにわかったのは、本に載っていた写真で見ていた荷風が暮らしていた部分がなくなっていて、新しい建物が増築されていたことでした。『新潮日本文学アルバム 永井荷風』(1985年)のこのページの左上の写真の、左のほうにせり出した形になっている二階の部分に荷風は暮らしていました。ちなみにその横がその部屋の中の写真。
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さて、家の外から何の了解も得ないで勝手に写真を撮るだけにするのもどうかと思い、かといって突然訪ねるのも失礼な気もして、しばらく家の前に佇んでいました。でも結局、訪いを入れることに。するとすぐに女性が出てきました。で、川本さんにならって「実は永井荷風の研究をしておりまして」と告げると、川本さんのときと同様に、その女性は急に笑顔になりました。
でも、その女性は川本さんが14年前に訪ねられたときに対応された”老婦人”ではないことはすぐにわかりました。

昨日引用した川本さんの『旅先でビール』の、「どうぞお上がりなさい」ということばの続きを引用します。

思わずこちらも笑顔になる。79歳になるその武南登喜子さんは、いまでもよく荷風のことは憶えているという。二階の一部屋を貸した、裏山からたき木を拾ってきて七輪で米を炊いていた、人付き合いの悪い変わりものだった。そのころはそんな偉い方だと知らなかったんですよ、ただ変わった方だなあって。
家は当時のまま。大正はじめの建物だという。なんだかいまにも二階から荷風が降りてきそうだ。突然の訪問にもかかわらず快く応対してくれた武南さんに感謝して夕暮れの迫ってきた町に出た。

川本さんが訪問されたときに対応された武南登喜子さんは、現在は93歳で、今もご存命とのことでしたが、残念ながら立ち歩いたり、人と話したりすることは出来ない状態とのことでした。僕が伺ったときに対応していただいた方は登喜子さんの息子さんの奥さんでした。それでも突然の訪問にもかかわらず快く応対していただき、途中で息子さんにあたるご主人も帰宅されて、お二人からいろんな話を聞かせていただくことができました。写真も快く撮らせていただきました。母屋の部分は昔のままです。
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荷風が七輪を使って米などを炊いていたのは、母屋の向こう側にある裏庭。「お見せしてもいいですよ」とのことでしたが、ちょっとずうずうしい気がして結局やめておいたのですが、あとで、やっぱり見ておけばよかったと少し後悔。
荷風がその庭で過ごした風景を少し引用しておきます。『断腸亭日乗』昭和20年8月2日の日記。ブログのタイトルは「7月の荷風」なのですが、まあいいですね。荷風は実際には8月の末までは岡山に滞在していました。

日輪裏山の薮陰より登らざる中、蚊帳を出で井戸端に行き口そゝぎ顔洗ひ米どき、裏庭に置きし焜炉に枯枝を焚きて炊事をなす、去年麻布の家にても夏より初冬の頃まで裏庭に出であたりに咲く花をながめ飯かしぐ事を楽しみぬ、今年は思ひもあけぬ土地に来り見知らぬ人の情にすがり其人の畠に植ゑし蔬菜をめぐまれて命をつなぐ、人間の運命ほど図り知るべからざるはなし、(中略)晡下井戸の水にて冷水磨擦をなす、感冒予防のためなり


七輪でご飯を炊いたりするのは、前年の夏に偏奇館にいたころからやっていたんですね。

さて、武南さんから聞いた最も興味深かった話。お母さんである登喜子さんから聞いた話ですね。登喜子さんが、突然家にやって来た変な老人だと思っていた荷風が、もしかしたら偉い人かもしれないと思った出来事。

ある日、風呂を沸かすために薪を燃やしていた登喜子さんのところに荷風がこれもいっしょに燃やしておいて、と言って一通の封筒を差し出します。荷風はそのまますぐに立ち去ります。で、登喜子さんは言われた通り、その封筒を燃やそうとしますが、見るとその封筒の宛名のところには「永井荷風先生」と書かれてある。当時どうやら登喜子さんも含めて武南さん家族は永井荷風という名前は知らなかったみたいですが、「先生」という言葉に目が留まったようです。で、手紙の差出人の名前を見ると谷崎潤一郎。谷崎潤一郎という名を登喜子さんがご存知だったかどうかはわかりませんが、いずれにしても登喜子さんは、この人はもしかしたらとても偉い人かもしれないと思い、それを燃やさずにとっておくことにしておいたということでした。

この話を武南さんご夫婦からうかがって、その手紙、どこかで見た記憶があるなと思ったのですが、それが最初に貼った『新潮日本文学アルバム 永井荷風』の、武南さんの家の下に写っている手紙ですね。おそらく、この本を出すときに武南さんの家に取材に見えられた人に登喜子さんがお見せしたんだと思います。
この7月21日に書かれた手紙の内容は読み取れない部分も多いのですが、どうやらこの頃同じ岡山の勝山にいた谷崎が荷風にいろんなものを送って、岡山駅に預けてあるとのことのようです。『日乗』を見ると7月27日の日記のこんな記述が。

午前岡山繹に赴き谷崎君勝山より送られし小包を受取る、帰り来りて開き見るに、鋏、小刀、朱肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、其他あり、感涙禁じがたし


この荷物を受け取ったので手紙はいらなくなったということなんでしょうね。初めはもらった手紙を燃やすというのはちょっとどうかと思ったのですが、この岡山に滞在していた時期の荷風の『日乗』を読むと、荷風のもとには次から次に手紙が届いています。全部をとっておくわけにはいかなかったんでしょう。

さて、武南さんご夫婦のお話をおうかがいしつつ、あっ、それは『日乗』のここに書いてあります、なんて答えていたのですが、実は武南さんは荷風の『断腸亭日乗』をお持ちでもなければ、読まれたこともないとのこと。ちょっと笑ってしまいました。僕が持参していた『日乗』や川本さんの『旅先でビール』をお見せしたら、へえ〜って感じでご覧になっていました。

そういえば今、気がついたのですが、先程引用した『日乗』の7月27日の日記の最後にはこんな言葉が。

「晩間理髪」

自分でしたということでなければ、もしかしたら、川本さんが武南さんの家を尋ねられた「古い理髪店」で散髪したのかもしれません。荷風の髪を切ったのが川本さんが尋ねられた人という可能性は少ないにしても、その息子さんだったかもしれません。

次回は荷風が何度も足を運んだ、武南さんの家の近くにある妙林寺のことを。
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# by hinaseno | 2013-03-24 10:39 | 文学 | Comments(0)

ひと月ほど前に、昭和20年7月の荷風の日々を描いた「旭東綺譚」という文章を書きました。もちろんそれはあくまで空想の物語。荷風の『放水路』という随筆の中の言葉を使えば、「自分から造出す果敢い空想に身を打沈めた」ものでした。でも、本当の荷風の7月から8月の終戦を迎えるまでの日々のことに触れておかなければなりません。荷風は6月29日の未明に岡山の弓之町で空襲を受けた後も、終戦を迎えるまで岡山に住んでいました。住んでいたのは市内の西のはずれ。

6月29日の夜2時過ぎに空襲が始まり、岡山市の弓之町に住んでいた荷風は旭川沿いの土手を北に走り、山陽本線の鉄橋近くにの河原まで逃げてどうにか助かった荷風は、おそらく滞在していた松月という旅館が焼失していることを確認して、岡山に来たときに世話になった市内の下伊福の池田さんの家を目指します。6月11日に岡山にやって来て、その2日後の6月13日に一度だけ下伊福の池田さんの家を訪ねているのですが、全く見知らぬ町の、しかも荷風の住んでいた所からは3kmくらい離れている場所に行くことができるのですから、荷風の頭の中のマッピング能力がいかに優れたものであるかがわかります。目印はおそらく岡山市の北西部にある京山という小高い山だったと思います。

6月29日はずっと雨が降り続いていたようですが、荷風はどうにか下伊福の池田家に辿り着きますが、そこも焼かれていることを目にします。おそらく荷風は途方に暮れたはず。でも運良く、近くの、畑が広がっている山間の家に避難していた池田さん一家に出会うことができます。

で、翌日荷風はその近くの三門(みかど)の佐々木さんという方の家に間借りします。さらにその3日後の7月3日に、同じ三門の武南(たけなみ)さんという方の家に移り住み、終戦を迎えるまで、ほぼひと月半、この武南さんの家に滞在します。

というわけで、この武南さんの家に伺ってみることにしました。満を持して、ですね。目印はやはり京山、そしてその近くにある妙林寺というお寺。妙林寺は、たぶん大学時代に一度だけ行った記憶があります。
武南さんの家は本に写真も載っていて、家の形もだいたい覚えていたのですぐに見つかるだろうと思っていたのですが、思った以上に家も多くなかなかそれらしき家が見つかりませんでした。実はネット上を調べれば武南さんの家はピンポイントでわかるのですが、そういうのは全然面白くないので、あくまで自分の目と足で探すことに決めていました。

実はこの武南さんの家、今から14年前の1999年に川本三郎さんが訪ねられています(『旅先でビール』所収)。川本さんは荷風が避難した旭川にかかるの山陽本線の鉄橋下にも行かれているんですね。そこから弓之町に行かれて、それから三門まで歩かれています。おそらくは昭和20年の6月29日に荷風が歩いたであろう場所を辿られているんですね。弓之町から三門までは小一時間だったとのこと。かなりの健脚です。

僕にとって川本さんは、先日引用した「ゴー!ゴー!ナイアガラ」での大瀧さんの言葉を使えば、「不連続」として存在していたものをつなげてくれるかけがえのない人。荷風が暮らしていた場所、荷風が歩いていた場所を辿るのもうれしいことですが、さらにその同じ場所を川本さんが歩かれているのを確認しながら辿るのは、何ものにも代えがたい悦びを感じてしまいます。『早春』の「三石」がそうであったように。

さて、三門にやって来た川本さんはまず妙林寺に行き、それから武南さんの家に向かいます。ちょっと引用します。

寺の近くを歩くと古い町並みが残っている。このあたりも戦災にあわなかったらしい。もしやと思って、荷風が部屋を借りた家を探してみる。武南という珍しい名前だからもしいまもあればわかるかもしれない。古い理髪店の主人に聞いてみると、武南さんの家はすぐそこの路地の奥だという。
いわれたとおり角を曲がると隠れ里のように戦前からの家が並ぶ一画があり、そこに板塀で囲まれた大きな二階家があった。表札に「武南」とある。いきなり訪れるのは失礼かと思ったが、こういう機会はめったにない。訪(おとな)いを入れると老婦人が出てくる。実は永井荷風の研究をしておりまして、といっただけでその女性は急に笑顔になる、ときどきそういう方がお見えになるんですよ、ええ荷風先生は家にいらしたんです、どうぞお上がりなさい。


いい場面ですね。「訪い」という言葉にも思わず微笑んでしまいます。
とりあえず、僕は川本さんが武南さんの家の場所を尋ねられた「古い理髪店」を探したのですが、見当たりません。よわったなと思ったら、ちょうど郵便配達の人が自転車で通りがかったので聞いてみました。一瞬考えられて、そこの路地を入ってすぐです、と教えられました。そこは歩いていなかった路地でした。川本さんが書かれているように、路地には昔ながらの家が並んでいます。新しい家やアパートも建っていはいるのですが、「隠れ里」という雰囲気は今も残っていました。
で、その路地に入って100m足らずの場所に「武南」と書かれた表札のある家を見つけました。
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# by hinaseno | 2013-03-23 11:10 | 文学 | Comments(0)

ここに書きたいことはいろいろあるのですが(書きたいことをどうまとめていいやら思案中)、今日は時間の関係で短い話を。
でも、もちろんとってつけた話というわけではありません。

昨日は久しぶりにゆっくりできたので、いろいろなものを読んだり聴いたりの一日でした。

まずは先日買った『レイモンド・スコット・ソングブック』を聴きつつ、その長大なブックレットを読み進めました。
知らないことばかりですが、少しずつレイモンド・スコットという人の像が出来上がって来て、ぐっと身近な存在になってくるのがわかりました。

興味深かったのは、彼のバンド、「レイモンド・スコット・クインテット」の名前に関してのこと。「クインテット」というのは"5人組"のことなのですが、レイモンド・スコットのバンドは実は"6人組"。
で、"6人組"であるならば本当は「セクステット」なんですが、「セクステット」という言葉の響きが嫌で(かといってメンバーを一人減らして、正確に「クインテット」にするわけでもなく)、"6人組"のままバンド名に「クインテット」ということばを付け続けたとのこと。

「理屈」よりも身体的な感覚を優先するということに、ひどく好感を持ってしまいました。

それから、ブックレットでいちばん面白かったのは、制作者である岡田崇さんが書かれた「レイスコ珍道中」ですね。僕みたいな人間は、このタイトルを見ると、ついつい大瀧さんが昔ラジオで放送した「ひばり島珍道中」を思い浮かべてしまいます。僕からは「断絶」していると思っていた美空ひばりという人のイメージが根底から覆されてしまった番組です。
さて、「レイスコ珍道中」は、岡田さんがレイモンド・スコット(略してレイスコ)の音楽に出会った日から、『レイモンド・スコット・ソングブック』ができあがるまでを日記風に書いたものなのですが、完成までの長い年月の間に、思いがけない出会いがあったり、あるいは当てが外れたりするのを繰り返されているんですね。岡田さんといっしょに、レイスコ島を旅している気分になりました。

これを読みながら改めて僕は「メイキング・オブ」が好きなんだなと思ってしまいました。もちろん他人事だからいえることで、実際には大変なご苦労の連続だったはず。でも、その苦労の部分も笑わせてもらいました。岡田さんのキャラクターでしょうか。

そういえば、ひばりさんといえば、レイモンド・スコットの「Manhattan Minuet」という曲が春っぽくてとても気に入ったのですが、何度か聴いていたらひばりさんの「春のサンバ」(大瀧さんの「ひばり島珍道中」で知りました)に似ている部分があるように思いました。
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# by hinaseno | 2013-03-21 08:56 | 音楽 | Comments(0)

昨日は以前ここで触れた加山雄三の「若大将のゆうゆう散歩」の放送があった日。でも、残念ながら関西では見れないんですね。さて、どんな放送になったんでしょうか。

加山さんといえば、石川さんが作られた加山さんの曲を集めたCDとともに送っていただいていた、「ゴー!ゴー!ナイアガラ」の加山さんの曲がかかった日の放送のもの。その日はリスナーからのリクエストに応える「お便り」の日なのですが、例の加山さんの「ブーメラン・ベイビー」がかかってしばらくして、その数週間前の放送で大瀧さんが紹介した、"ある方からの手紙"に対する反響のことが語られていました。何人ものリスナーが、その"ある方からの手紙"に深く心を揺さぶられたということを葉書を書いていたんですね。

一体どんな手紙なんだろうと気になっていたら、数日後、まるで僕の声が届いたみたいに石川さんがブログで、その"ある方からの手紙"が大瀧さんによって読まれる部分だけの音源をアップしたんです。手紙にも感動しましたが、その手紙を読んだあとの大瀧さんの言葉にもやられました。

で、先日、石川さんからその日の放送を全て収めたコピーを送っていただいて、例によって車の中で一人で聴いていたら、内容を知っているのに胸がいっぱいになってしまいました。その時は僕の好きな川沿いを走っていたのですが、少しだけ風景がゆがんで見えました。

石川さんのブログでの音源アップはたった1日だけのものでしたから(あの部分だけ切り取って音源をアップする作業は相当に手間のかかるものだったと思いますが、たった1日だけのものであるのにもかかわらず、あえて石川さんはそれをされたんですね。音楽とはまた別の形で何かが伝わるのではと考えられたんだと思います)、今はもう聴くこともできません。でも、やはりこの手紙は紹介しておきたいと思ったので、ここにその手紙の全文と、その手紙を紹介する前後の大瀧さんの言葉を書いておきたいと思います。残念ながらこのときの大瀧さんの語り口は想像していただくしかありません。

番組の流れ的には、その前の別のリスナーの葉書で大瀧さんは結構大受けしてたんですが、突然声のトーンが変わってこんな言葉が発せられます。

さて、今日の最後になったんですけども、是非ともこのお手紙を紹介させていただきたいと思います。


手紙を書かれたのは大瀧さんのリスナーの中では何度も大瀧さんの番組に葉書を出されている人の母親。昭和初期のお生まれということですので、当時で50歳に近い方ではないかと思います。そういう年代の人からお手紙をもらったのは初めてとのことでした。「ゴー!ゴー!ナイアガラ」をまだ全部聴いたわけではありませんが、大瀧さんはたぶん湿っぽい(まではいかなくても、しんみりした)内容の葉書や手紙は番組では極力紹介しないようにしているんだと思います。そういうのを嫌われているというのではなく、そのような手紙を読んだときに大瀧さんご自身の受ける影響を避けられているようにも思いました。


で、その手紙です。これはあくまで聴き取りしたもので(何カ所か聴き取りづらい言葉がありました)、正確ではない部分もあるように思います。

「親子揃って恥をかくことないよ」と、迫ってくる息子の手を払いのけながらも書こうとしている私は昭和初期の生まれ、いくらかクレージーかもしれません。大瀧さんの名を耳にしてからもう久しい日数が流れています。すっかり傾倒している息子を通して大瀧さんの持つすべての、ではないかもしれませんが魅力を感じることができます。もちろん専門的な音楽評などできるはずもありませんが、理屈抜きに楽しく素晴らしく、あるときには心に滲みいるような、またあるときは弾む鞠のような気持ちになります。
今までの数十年の間、耳にした音楽は数限りなくありました。そして感動したり、雀躍したりして、音の持つ妙に人生の旨味を感じてきました。そのいろいろの音楽を聞き慣れた耳に、実に斬新な感覚のメロディが飛び込んできました。それが大瀧さんたちとの出会いでした。その後、せっせと息子の勧めによりレコードなりテープなりを鑑賞する時間をもちました。
息子と私は共通性のあるものなら何でもそれを通して話し合い、教え合い、また言い争ってみたりしています。というよりも共通性を持つように歩み寄った結果という方が、あるいは正確かもしれません。
スポーツにしろ音楽にしろ、世代の差なんて全く意識しないで夢中になれるなんて最高の幸せと思っております。けれど、大瀧さんに関する限り、私自身直接お目にかかったこともありませんし、何の知識も持ち合わせてはおりませんので、息子から詳しく話してもらいました。
レコードにサインしてもらったこと、福生行きの切符を買って贈ったこと、池袋の映画館にオールナイトの映画、クレージーキャッツを観に行ってみなさんに会ったこと、つい先日の渋谷でのパーティのこと、大瀧さんのパネルのことなどなど。
何にでも好奇心、というか興味を示す私が「大瀧さんに手紙を書くわ」と言い出して、「まさか本気ではないでしょう」なんて、息子に言われてますのに、その「まさか」が実現してしまいました。何に対してでも興味を持ったら、即すぐぶつかってみたいという幼さというか情熱というか、そんなものが私の中にはまだまだうごめいているのです。何かをしたいと思って実行せずに後悔を残すより、やってみて、たとえ失敗に終っても、その方が私には素晴らしいことだなと思っているからです。
そんな私の考え方は、当然子供たちにも浸透して、やりたいことをやっている息子と娘に自分を見る思いであります。「今年の夏は『ナイアガラ音頭』できめよう」なんて、「何をきめるのか?」 そんな可笑しいやりとりをしている可笑しい家庭をご想像下さい。是非、今後も素晴らしい、楽しい音楽を与えてください。心からの拍手をお送りします。


この手紙を読み終えられてから、普通はあまり言い淀んだりすることのない大瀧さんが、ちょっと言葉をつまらされます。で、つまりながら紡ぎ出される大瀧さんの言葉、これが手紙と変わらないくらいに素晴らしいんですね。こんな言葉です。

ふつう世代の断続とかよく言われますけど、断続っていうのは完全にぷつんと切れていることを言うんですけど、断絶ではないと思うんですよね、ただ不連続なだけだったと思うんですよね。戦前、戦中、戦後っていうのはね。だから、どっかにそういったようなところを見つけられれば、共通性というのはわりと、共通項みたいな部分ていうのは探せると思うんですね。


「断絶ではなく、ただ不連続なだけ。共通項みたいな部分は探せば必ず見つけられるはず」
この言葉はものすごく深い意味を持っているように思いました。当時大瀧さんは27歳。すごいですね。人生が変わりそうな言葉でした。

このあと最後に大瀧さんは、声のトーンを通常のものに戻しつつ、こう語られます。

今、なんて言ったらいいか言葉が思い起こせませんので、これから作る音楽とか、そういったものでご返事に代えさせていただきたいと。あんまりかっこ良すぎたかな、これ。


最後は照れくさそうに、ちょっと茶化した感じで語られていますが、まさに実行されてこられたんですね。大瀧さんがその後作られた音楽やそれ以外のいろんなもので。僕自身、大瀧さんのおかげで、断絶しているとしか思えなかったような様々なものに、どれだけつながりを作っていただいたかと思います。それだけでなく知らず知らずのうちに、つながりを見つける方法(と、その喜び)を教わっていたようにも思います。

大瀧さん、そしてこの放送のコピーを送っていただいた石川さんに心から感謝します。

少しだけ余談になりますが、先日、石川さんとお話しさせていただいたとき、世代間の「断絶」を嘆かれていた方々を6時間くらいかけて強く注意したと伺いました。で、ご自分は今、10代の人たちとのつながりを作ろうとしているんだとおっしゃられてました(僕なんかの世代はもういいと言われてしまいました。しくしく)。
「断絶」なんて意識はかけらもありません。素晴らしいですね。今日もきっとその努力(努力っていったら叱られそうですが)をされていることだと思います。今日はアゲインでナイアガラのイベントがあるんですね。近くであれば絶対に伺うのですが。
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# by hinaseno | 2013-03-20 09:36 | ナイアガラ | Comments(0)