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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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「早春」の映画に出てくる、三石での池部良の生活をとらえた場面の2つ目。前日の事務所で働く場面の後、そこから自宅の下宿に戻る場面です。映画ではほんの数秒のシーン。
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手前の道のつきあたりには家が建っていますが、道はそこで左右に枝分かれしています。その画面右側の道から仕事を終えた池部良が現れます。
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池部良はまっすぐこちら側に向かってきます。このとき、池部良の背後には労働者風の男が画面左側の道に入って行くのが見えます。
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で、池部良は左に曲がって、画面右にある家の中に入ります。つまり、ここが池部良の下宿なんですね。
この後、画面は家の中へと切り替わっていきます。

この間カメラは固定されたまま。背後には2本の煙突が見えます。右側のおそらく手前にあるはずの煙突はかなり太いですね、ところどころに入っている筋の様子から見ると、おそらく方形。それから左側の、おそらく後方にあると考えられる煙突は遠近感の関係があるとはいえ少し細い。画面上では太さが右の煙突の半分以下です。煙突の形状も右側のものとは違っておそらくは円形のはず。昨日載せた煙突が何本もあるカットでも、やはり横に筋の入った方形の煙突と、円形の煙突の2種類が見えます。この場面の背後にある煙突はまぎれもなく三石にあった煙突のはず。つまり、この場面は三石で撮影されたことは確かでした。

僕が「早春」と三石の研究を始めたとき、何よりもまず最初に、この場面の池部良の下宿を探さなければと考えました。手がかりは背後の2本の煙突と突き当たりで枝分かれしている道。
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でも、三石の町を通っていてわかっていたことなのですが、現在、三石には煙突がほとんど残っていません。最初に町中に入って確認することができた大きな煙突はたった1本。現在も操業を続けているこの煉瓦会社の背後に見える煙突だけでした。
実際はもう1本、かなり小さな煙突が山の中腹にあったのですが、まったくかけ離れた場所にあって、あの映画の場面に出てくる煙突ではないことは確かでした。この状況を目の当たりにして、映画のあの場面に見える煙突は2本とももうすでになくなってしまっているだろうという気持ちになりました。
ただ、道に手がかりはないかと思い、町中をあちこち歩き回り、途中で出会った郵便配達の人に訊いたりしましたが、見当がつかないということでした。道も整備されてなくなってしまっているのだろうかと諦めかけていたところ、そきほどの工場の関係者に、事務所の背後に見える煙突の隣に、もう1本、昨年、上部をかなり切りおとした煙突があることを聞きました。震災の影響で、倒壊の危険性を考慮して切ったのではないかと推測されるのですが、いずれにしても、その切られた煙突が見えそうな高台(山陽本線の土手のある側)をあちこち歩いていたら、なんと映画のまさにその場所に突然出ました。
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煙突は2本ともかなり短くなっていますが、その2本の太さも形も間違いなく、池部良の下宿の背後に映っていたあの2本の煙突です。ここを見つけたときは本当にうれしかったですね。心のなかで思わず「川本さん(川本三郎さん)、見つけました!」って叫びましたから。
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ただ残念ながら、問題の下宿のあった場所はこのように空き地になっていました。ブルーシートの下に木材が残っていますので、わりと最近まで建物が残されていたのかなと思い、後日伺ったら、ほんの数年前に取り壊されたとのことでした。一歩遅かった。
この場所にあった家は、津村さんという方の家だったとのこと。津村さんのご子息は確か三石の別の場所に住まわれているとのことでしたので、いつか機会があればお会いできたらと思っています。映画に関する、何かびっくりするようなものを持っていらっしゃるかもしれません。
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さて、あの場所にあった津村さんの家。なんとその写真が先日紹介した「瀬戸内シネマ散歩」に載っていました。右の写真です。手前の方形の煙突も切られる前で、まだ高くそびえています。
著者がここを取材されたのは4年前の2008年の夏。著者は人に聞いてこの場所に来たとのこと。ちょっとずるいですね。でも、やはりこういうのは人に聞くのではなく自分の足で探し歩いた方が楽しいことを知りました。
ちなみに、本の著者がこの家を訪ねて来たとき、家はすでに空き家になっていたとのことでした。
この家のことについては明日にでも。
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# by hinaseno | 2012-09-12 10:13 | 映画 | Comments(0)

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57年前の今日、つまり1955年(昭和30年)の9月11日(日)の小津の日記にはこう書かれています。

三石 快晴 撮影おハる
池部 岡山にゆく

「早春」はモノクロの映画で、映画の中では、東京駅前にある丸ビルの中にある東亜耐火煉瓦という会社の東京本社から地方の山間の小さな町である三石にやってくることになった池部良の憂鬱な心境を含めて考えれば、前日の曇り空の方が、沈んだ雰囲気を出せるように勝手に考えてしまうのですが、小津はやはり快晴の日を撮影に選んでいるんですね。

「早春」が三石を舞台にしていることを知るきっかけになった本は川本三郎さんの「銀幕の東京」(1999年)です。この本をきっかけに大瀧さんは成瀬研究をされたんですね。僕も結果的にはこの本をきっかけに「早春」、三石研究(研究と言うには遠く及びませんが)を始めることになりました。
それから2005年に出た川本さんの「旅先でビール」という本には、2004年の7月に川本さんが三石を訪ねたときのエッセイがあり、とても参考になりました。

つい先日、三石を訪れたとき、公民館の館長の方から鷹取洋二という岡山在住の人が書いた「瀬戸内シネマ散歩」(吉備人出版)という本があることを教えていただきました。これは岡山周辺で撮られた映画のロケ地を訪ね歩いた本なのですが、この中に「早春」を扱った章がありました。3年前(2009年)に出た本ですが、そこには後で触れることになる貴重な写真と、撮影当時三石の工場で働いていてロケの世話をしたという人のインタビューが載っていました。

そのインタビューに答えられた馬場さんという方の話によれば、撮影の日、小津からは三石にある煙突(20本くらいはあったはず)から一斉に煙を出してほしいとの注文があったとのこと、しかも”モクモクと立ち上る黒煙”を出すようにということだったようです。
今では三石には耐火煉瓦の会社は2社しか残っていないそうですが、当時は数十社も会社があって、その工場すべてに調整して、石炭の代わりに屋根葺きの下地に使われる黒色のルーフィングを一斉に燃やしたとのことです。つまり、日常の操業では出ないような黒い煙を出していたんですね。さぞかし町の人、あるいは周辺の町の人はびっくりされたんではないかと思います。
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さて、「早春」の映画では、そのモクモクと黒煙が上がる風景とともに、三石での池部良の生活を描いた3つの場面が出てきます。

まずは、池部良が三石の工場の事務所で働いているシーン。
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古くからそこに勤めている、おそらくは地元の人間と想定される少し年配の社員との会話も少しあります。同じ事務所内には作業をしている人が何人か映っています。

当初、僕はこの場面は三石で撮られた可能性もあるのかなと思い、三石の工場内に残っていて今も事務所として使われている古い木造の建物がありましたので、その中を拝見させてもらえればと思ったのですが、それはかないませんでした。
後日、私の書いた文章を見ていただいた大瀧さんから(アゲインの石川さんを経由して)、三石の事務所シーンは東京の撮影所でのセットであるとのご指摘をいただきました。あのような場面で、実際に三石の事務所で働いている人を使うようなことは決してしないとのこと。
「シロートは緊張して、その緊張は画面に出るものなのです。ですからあの社員は全員が仕出しです。1つ2つのシーンのために、仕出しを岡山まで連れては行けませんからね」
という大瀧さんの説明。
映画の中の、ほんのささやかなワン・シーンではありますが、プロの人たちの制作というものに対する意識の一端に触れることができ、心から感激しました。(続く)
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# by hinaseno | 2012-09-11 08:37 | 映画 | Comments(0)

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僕はライフワークの1つとして小津安二郎の「早春」という映画のことを調べています。といっても、具体的に行動を始めたのは今年になってのことですが。
なぜ、小津の、特に「早春」という映画に興味を抱いたかと言えば理由は単純です。その映画の最後に、実家のある岡山の、三石という小さな町が舞台となっていることを知ったからです。
三石は岡山県と兵庫県の県境にある本当に小さな山あいの町。かつては蝋石と耐火煉瓦で栄えましたが、現在は急速に過疎が進んでいます。僕は姫路に住むようになって20年余りになるのですが、ある時期からは実家に戻るときはいつもこの三石の町を通っていました。少し前までは三石の脇をすり抜ける形で通っていたのですが最近は町中を通るようになりました。
昭和31年(1956年)公開の小津の「早春」は、三石の町が耐火煉瓦の生産で最も栄えていた頃の様子を捉えています。映画の撮影は前年の昭和30年の夏から秋にかけて行なわれています。

実は、今日、9月10日は、57年前に小津が三石にやって来てロケが行われた最初の日なのです。そのとき僕はまだ生まれていませんが、57年前のこの日に、あの小津監督や主演の池部良らが実家のある岡山の、僕が何度も眺めていた町にやってきてロケをしていたということを考えるのは、やはり感慨深いものがあります。
『全日記 小津安二郎』を見ますと、小津一行は9月9日の朝の11時に岡山に来ています。当時、新幹線はまだありませんでしたから、おそらくは飛行機で来たはず。それから市内のホテルで小憩(おそらくは昼食をとったのでしょう)したのち、車で三石に向かっています。
岡山市内から国道2号線を通れば三石までは小1時間くらいで着いたと思います。着いたのは午後2時過ぎぐらいでしょうか。日記を見る限り、この日はどうやら撮影は行われなかったようですが、いくつかの場面を撮影するためのロケハンが行なわれたと思われます。

『松竹編 小津安二郎新発見』には何枚か三石でのロケ、あるいはロケハンの様子を捉えた写真があります。まずはこの写真。

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「『早春』岡山県三石ロケ」との説明書きのあるものですが、1ページを使って大きく載っています。櫓の上でカメラを覗いているのはもちろん小津。背後で腰に手を当てて見守っている眼鏡の人はおそらくカメラマンの厚田雄春。で、手前でカメラを支えているのが、後ろ向きでよくわかりませんが当時撮影助手だった川又昂ではないかと思われます。
大瀧さん経由でお伺いした川又さんの話によれば、小津は三石に着くなりこの櫓を建てたそうです。


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『松竹編 小津安二郎新発見』に載ってる別の写真。
これには「『早春』岡山県三石にて」との説明書きがあります。これは『早春』の最後の場面、つまり上りの東京方面に向かう汽車をとらえる場所を小津(厚田カメラマンかもしれない)が探しているところですね。この写真に見える煙突のある辺りの風景がまさに最後の場面に使われていますので、場所はこのあたりに決定したのだと思います。

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小津がいるのは山陽本線の線路の北側にある山を少し登ったどこかの場所だと思います(実はこの場所がまだ見つかりません)。で、おそらくこの場所に先程の櫓を建てて最後の場面を撮影したはずです。
映画で見ればほんの数秒ほどの上りの汽車が走る場面をとらえるだけなのに、かなり綿密なロケハンをし、しかもそこに櫓を建ててまで撮影するというのは驚かざるをえません。

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さて、『松竹編 小津安二郎新発見』にはもう1枚三石で撮った写真が載っています。でも写真の説明書きには「『早春』ロケ・ハン」と書かれているだけ。『早春』はいろんな場所でロケされていますので、この本の編者はこの写真がどこで撮影されたものなのか確認できなかったようです。でも、この写真の背後に写っている煉瓦造りのアーチ状の橋、これはまぎれもなく三石にあるものなのです。三石に住んでいる人であればだれでも知っている三石のシンボルでもある「四列穴門」と呼ばれるものです。
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小津はこの橋を映画で使おうとしたのでしょうか、それともただ見に来ただけなのでしょうか。もしかしたら映画には結局使われることはなかったけれども、ここの風景をとらえたフィルムがあるかもしれません。

『全日記 小津安二郎』によれば、57年前の今日、9月10日は天気があまりよくなかったらしく、いくつかの三石の風景をとらえたカットを撮っただけのようです。
その日の日記には「三石町長始め町有志のレセプションに出席」と書かれています。この写真がおそらくそのときの様子をとらえたものだと思います。
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この写真は現在、備前市役所三石出張所の2階に飾られています。三石の歴史を写真にとらえたものを部屋いっぱいに展示しているのですが(数年前に始めたとのこと)、残念ながら『早春』に関する写真は、この写真を含めてたったの3枚でした。写真の下に書かれているコメントには小津監督の名前はありますが、どれが小津だかきっとわかる人はいないんでしょうね。池部良も写っていますが、池部良のことは全く書かれていませんでした。

あとの2枚のうちの1枚はこれです。
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これは三石駅で撮られたもののようです。小津一行は三石に三泊したのち、9月12日に京都に向かっています。おそらく三石駅から汽車に乗って向かったのでしょう。この写真は三石を発つ前に地元の何人かの人(真ん中の女性は泊まっていた旅館の人でしょうか)と撮ったものだと思います。池部良はその前日の9月11日に、三石での大事な場面(この場面についてはまた後日)を撮影して、すぐに岡山に向かったようなので、この写真には写っていません。

もう1枚はこれです。
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おそらくは9月11日に池部良が煙突のある工場近くの撮影現場に向かっているところをとらえたものだと思います。57年前の9月11日は日曜日。撮影現場周辺には、子供たちも含めてものすごい人が集まっていたとのことです。ちなみに、市役所の出張所の2階に飾られているこの写真にも何のコメントもありませんでした。この顔を見て池部良とわかる人は今はほとんどいないんでしょうね。ちなみに、この池部良のそばを、ファンからかばうように歩いているのは撮影助手だった川又さんでしょうか。(続く)
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# by hinaseno | 2012-09-10 11:34 | 映画 | Comments(0)

1973年に公開された、1962年夏のカリフォルニアの町を舞台にした映画『アメリカン・グラフィティ』にとても印象的な場面があります。
走り屋のジョンの黄色い車(32年型フォード・デュース・クーペ)にたまたま乗り込むことになった女の子(たぶん中学生)、キャロル(マッケンジー・フィリップス)と交わす会話。

カー・ラジオでビーチ・ボーイズのデビュー・シングル「Surfin' Safari」がかかる。


「Surfin' Safari」は1962年6月発売、8月にはポップチャートで14位になっている。まさにリアルタイムでヒットしていた頃の町の様子を描いているわけですね。

さて、その「Surfin' Safari」を聴いたジョンは"Oh,shit!"と吐き捨てるように言ってラジオのスイッチを切る。
こんな会話が続く。
Carol: Why did you do that?(なんでそんなことするのよ?)
John: I don't like that surfin' shit.(サーフィンなんてくそくらえだ)
そしてこの後ジョンの口から次の言葉が語られる。

Rock and roll's been going downhill ever since Buddy Holly died.
(バディ・ホリーが死んで、ロックンロールは終わってしまったんだよ)
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二人の音楽についての会話はもう少し続く。
Carol: Don't you think the Beach Boys are boss?(ビーチ・ボーイズは最高だって思わない?)
John: You would, you grungy little twerp.(おまえみたいな薄汚いバカなガキがそう思うだけさ)
Carol: Grungy!(薄汚いって!)

この場面でジョンが語った言葉、実は英語の字幕で確認したのは今回が初めて。"going downhill"という表現が使われていたんですね。
普通は「バディ・ホリーが死んで、ロックンロールは終わったんだ」とか、「バディ・ホリーが死んで、ロックンロールは死んだんだ」と訳されていますが、この言葉はロックンロールの歴史の1つの真実として後々ずっと語られるようになったようです。

今回、大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝パート2」がどうやら1959年で終わりそうだとわかったとき、僕は最終日のどこかで必ずこの言葉のことが語られることになるだろうと思っていました。なぜならば1959年はまさにバディ・ホリーの亡くなった年だったからです。
もしかしたら最後の最後にこの「バディ・ホリーが死んで...」が語られて、彼の屈指のバラード「True Love Ways」が今回の特集の締めの曲に使われるという展開になるのかな、と、いろいろと想像をめぐらせていました。

そして1週間待たされた最終日、番組の中ほどで、バディ・ホリーの1958年10月に録音されたこの「It Doesn't Matter Anymore」という曲をかけたあとに「バディ・ホリーが死んで、...」の話が出てきます。


バディ・ホリーの「It Doesn't Matter Anymore」がかかった後に語られた大瀧さんの言葉をそのまま引用します。
「言っときますが、これ、悪くないんですね。これはこれでバディ・ホリーの特徴が出ていますよね。作曲は『ダイアナ』のポール・アンカでした。よく『バディ・ホリーが死んで、ロックンロールは死んだ』と言われますけど、もう58年暮れにホリー自身も多少の路線変更のきざしがあったんですね。ただ、59年に音楽キャリアを閉じなければいけなかったので、ジョニー・バーネット、ジーン・ビンセント、エディ・コクランのように如実な変化が感じられる曲が存在していないというわけですね。これが神話として存在できる要因なのではないかというふうに皮肉屋である私は見ております」
大瀧さんは、一般に通説として流布している言葉を否定するために、あえてご自分を「皮肉屋である私」と自嘲的に語られます。でも、この大瀧さんの見方は皮肉でも何でもないですね。「神話」はあくまで「神話」であって、もし仮にバディ・ホリーが生き続けていれば、彼は間違いなくポップスの道を歩んでいただろうと思います。

大瀧さんはもう少し言葉を続けます。
「1956年に始まったロックンロール時代は、59年に幕を閉じたというわけです。どうしてこうなったかは諸説あるのですが、私はエルヴィスの徴兵が一番大きかったと考えています。1957年の12月20日にエルヴィスに徴兵命令が届きます。で、翌58年の3月に入隊しました。(中略)キングの不在でロックンロール・シーンにぽっかりと穴が空いたということは否めない事実だと思うんですね。で、その証拠といえるかどうかはわかりませんが、58年の夏以降、それまで日常茶飯事のように続いていた3部門制覇、この記録が突然に途絶えるんです。で、59年にはゼロになりました。エルヴィス入隊だけがロックの退潮の全ての原因だとは言いませんが、ただエルヴィスの入隊とポップス系アーティストが大挙して登場したのは、同じ1958年であったわけです」

このあと、おそらく僕のように生半可で偏見に満ちた知識しか持っていない音楽ファンにとってあっと驚くアーティストが出てきます。パット・ブーン。でも、それについて語り始めると話が長くなりすぎるのでまた後日。

そういえば、大瀧さんが「多少の路線変更のきざしがあった」としてかけられたバディ・ホリーの「It Doesn't Matter Anymore」と同じ日(1958年10月21日)にニュー・ヨークで録音された曲を調べてみると、ちょっと驚いてしまう。
「True Love Ways」、「Raining In My Heart」、「Moondreams」。「It Doesn't Matter Anymore」とともに好きな曲ばかり。バックのストリングスを交えたサウンドも含めて、「きざし」どころか、もうポップスそのもの。

そしてもう一つの驚きは、この日のギターを弾いているのが、なんとアル・カイオラ。バディ・ホリーに関しては「Rave On」以来の再登場。「True Love Ways」、「It Doesn't Matter Anymore」、「Raining In My Heart」、「Moondreams」で、バイオリンのピチカートとともにロマンティックなギターの音色を奏でていたのはアル・カイオラだったんですね。
バディ・ホリーの「神話」よりも、その神話の影で60年代ポップスへのつなぎをしていたアル・カイオラというギタリストにたまらなく魅力を感じてしまう。


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# by hinaseno | 2012-09-09 12:31 | 音楽 | Comments(0)

今朝、時間がなくて確認できなかった、昨日の「大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝パート2」第5夜でかかったアル・カイオラというギタリストが独特のギター・フレーズを弾いている曲がすべてわかりましたので改めて紹介を。

ただ、その前にアル・カイオラがギターを弾いている曲がかかる前の段階から少しくわしく説明する必要があります。

まず、ドゥー・ワップにラテン・フレーヴァーを取り入れた曲としてターバンズの「When You Dance」(1955)がかかります。


これが大ヒットしたので、このタイプのサウンドが流行したということで、次のような同タイプのドゥーワップがかかかります。

フォー・ラヴァーズ「You're The Apple Of My Eye 」(1956)


グラジオラス「Little Darlin'」(1957)


同じ「Little Darlin'」をカナダ出身のダイヤモンズがカバー(1957)


そして、このサウンドのラインを受け継いで、ダイヤモンズと同じカナダ出身の14歳のポール・アンカが1957年7月に自作の曲でデビュー。それが「ダイアナ」。


この「ダイアナ」という曲のユニークなところとして、それまで打楽器がやっていたリズムの部分をギターが担当してメロディーをつけていたということを大瀧さんは指摘します。ドンドコランカンランタンタンタンというフレーズですね。
このフレーズを弾いていたのがアル・カイオラ。

で、彼は他のシンガーのセッションでもこのフレーズをじゃんじゃん弾くことに。
こんな曲が次々とかかります。
ボビー・ダーリンの「Dream Lover」(1959)


ニール・セダカの「Oh! Carol」(1959)


キャロル・キングの「Under the Stars」(1958)


ジャッキー・ウィルソンの「Lonely Teardrops」(1959)


クレスツの「The Angels Listened In」(1959)


ジミー・ジョーンズの「ステキなタイミング(Good Timin')」(1960)


ブライアン・ハイランドの「Four Little Heels (The Clickety Clack Song)」(1960)


そして最後に「極めつけは」という大瀧さんの紹介でアル・カイオラ自身の「峠の幌馬車(Wheels)」がかかります。


全部並べて聴いてみるとすごいですね。感動します。よくぞここまで、という感じです。
そして何より興味深かったのは、ロックンロールからポップスという移行期を、陰で、ユニークな形で支えていたアル・カイオラというギタリストの存在。こういう人、どこか惹かれてしまいます。

ドンドコランカンランタンタンタンというギター・フレーズ、他にもきっとあるはずだと思うので、またどこかで出会えたら楽しいですね。
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# by hinaseno | 2012-09-08 22:07 | 音楽 | Comments(0)