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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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  それぞれの東京


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川本三郎さんに『それぞれの東京』という本があります。昨年(2011年)の1月に出た本。もともとは月刊誌『なごみ』に連載されたもののようです。『それぞれの東京』は、僕が今年最も多く手にとっている本かも知れません。
川本さんのあとがきの言葉を使えば、この本は東京に関係のある人たちの生き方を通して、それぞれの東京を浮かび上がらせています。
取りあげている人は全部で23人。写真も含めて一人につき、ちょうど10ページ。
この本に取りあげられている人たちの名前(本に取りあげられている順序通り)と、その人の肩書き(本に書かれているまま)を載せておきます。

芝木好子(小説家)
池波正太郎(小説家)
植草甚一(評論家・エッセイスト)
加太こうじ(紙芝居作家・評論家)
沢村貞子(女優・随筆家)
桑原甲子雄(写真家・写真評論家)
石田波郷(俳人)
永井龍男(小説家)
松本竣介(画家)
奥野信太郎(中国文学者・随筆家)
大岡昇平(小説家)
石井桃子(児童文学者)
鈴木信太郎(画家)
山口瞳(小説家)
向田邦子(脚本家・小説家)
清岡卓行(詩人・小説家)
木山捷平(小説家)
田村隆一(詩人)
水上勉(小説家)
野口冨士男(小説家)
成瀬巳喜男(映画監督)
高田敏子(詩人)
鈴木真砂女(詩人)

よく知っている人から、全然知らない人までさまざま。でも、この本をきっかけにして、よく知ることになった人も何人かいます。はじめ一通り読んだときにはそれ程頭に残らなかったのに、あとで何かで再び出会って、どこかでこの人の名前見たなと思ってこの本を開いたら取りあげられていたということが何度もありました。で、そういう場合、たいていその人のことをとても好きになってしまいます。その代表はなんといっても木山捷平でした。

昨日もそういうことがありました。
名前は松本竣介。
きっかけは岡山の万歩書店平井の店長さんのツイートでした。実は昨日お店にうかがっていたのですが、店に行く前に流れてきたツイートで「松本竣介」の名前をちらっと見てたんです。今、島根県立美術館で「生誕100年 松本竣介展」が開かれていて、店長さんはそれに行かれてたんですね。
僕は車の中で「松本竣介」あるいは彼の描いた「ニコライ堂」をどこかで見たなと思いつつお店に行ったのですが、結局、松本竣介の話はせず、もっぱら竹久夢二の「福島夜曲」の絵を収めた本がどこかにないか一緒に探してもらっていました(残念ながら見つかりませんでした。果たして今、この絵、現在も存在しているんでしょうか)。

さて、万歩さんでは池波正太郎の『日曜日の万年筆』というのを買って、確か川本さんが池波正太郎のことどこかで書いていたなと思って、家に帰って『それぞれの東京』を開いたら予想通り池波正太郎が載っていて(幸運なことに僕が買った本に収められているエッセイがいくつか川本さんの本で引用されていました)、で、後ろの方のページを見たら、あったんですね。松本竣介の名が。おお、って思いました。

この続きはまた明日にでも。

ところで万歩書店の店長さんから、もうすぐ木山捷平の本が出ますよ、との情報をいただきました。例の『木山捷平全詩集』を出している講談社文芸文庫から12月に出るんですね。タイトルは『落葉・回転窓~木山捷平純情小説選』。どんな作品が収められているのかまだわかりませんが、これはよさそうです。文芸文庫からは絶版になっている岩阪恵子(川本さんの『それぞれの東京』で取りあげられている清岡卓行の奥さん。文芸文庫から出ている木山さんのほとんどの本の解説を書いています。岩阪さんに清岡卓行を紹介したのが今年亡くなられた吉本隆明ですね)の『木山さん、捷平さん』も同時に出るみたいです。
木山捷平、再評価の動きが再び出始めているようです。
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# by hinaseno | 2012-10-29 11:08 | 文学 | Comments(0)

  動くアル・カイオラ


久しぶりにアル・カイオラの話。
動くアル・カイオラです。動くと言ってももちろんアル・カイオラさんですからギターを弾いているところです。

と言いつつYouTubeにはアル・カイオラが演奏しているライブの様子を映したものがいくつかあることは知っていました。でも、それらはわりと最近のもの。しかも演奏している音楽はジャズ。僕としてはロックンロールやポップスを演奏している1950年代後半から60年代初頭のものがずっと見たかったんです。
と言っても彼はあくまでスタジオ・ミュージシャン。そんなに表に出る人ではありません。ましてやテレビなど。もうひとつ、アル・カイオラの顔はネット上を見ても限られたものしかないので、顔を見て判断できるというわけではありません。
ですから、今回見つけたものは(といってもたった2つですが)、いずれも"たぶん"アル・カイオラだろうということで、確証はないです。でも、95%くらいはアル・カイオラだろうと思っています。
ちなみに、ネット上にいちばんよく見られるのがこの赤い服を着て独特のギターを抱えてあごに手をあてたこの写真。今、入手できるCDのジャケットに使われています。もともとは1963年(アル・カイオラ43歳のとき)に出たLPのジャケットに写っているものですね。他のLPでも、あごに手をあてたものがありました。あごに手をあてるのが好きだったのかカメラマンの要望なのかはわかりませんが(あごに手をあてている姿のジャケットと言えば、すぐにジョアン・ジルベルトを思い出させます)。
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それからもう1枚。1955年(アル・カイオラ35歳のとき)の『Deep In A Dream』というジャズ・アルバムのジャケットに写っているギターを弾いているアル・カイオラ。ちょっと雰囲気が違います。8年前なので髪の量が少しだけ多そうですが、髪の生え際に特徴がありますね。
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さて、まずはこのボビー・ダーリンの「Dream Lover」。例の「ドンドコランカンランタンタンタン」が聴けるものです。このバックで演奏している3人のギタリストの真ん中で「ドンドコランカンランタンタンタン」と弾いているのがアル・カイオラではないかと思います。ギターも最初に貼った画像の、あの特徴的なギターではないかと思います。拡大して見て下さい。


もう一つはジョニー・キャッシュの「Bonanza」。「Bonanza」はもともとテレビで放送された西部劇の主題歌として作られたもので、アル・カイオラ自身も1961年に録音しています。1961年には例の「落日のシャイアン」も録音しています。
「Bonanza」は、もともと歌詞はなかったようですが、それに歌詞がつけられて最初に歌ったのがジョニー・キャッシュのようです。録音したのは1962年。ただ、レコードに収められているものをちょっとだけ聴いたのですが、同じようなフレーズがギターで弾かれているけれども、どうもそちらはアル・カイオラではないような気がします。
でも、この映像のギターの音色は明らかにアル・カイオラ。間奏の部分で彼のソロが聴かれます。演奏している姿も大きく映ります。


この映像で弾いているギターは、彼のLPのジャケットによく写っているものではありませんが、低音弦を奏でていることやその響き、そして髪の生え際の感じは間違いなくアル・カイオラだと思います。
それにしてもアル・カイオラさん。リズムは軽快なのに、演奏している表情はいたって生真面目。隣のドラマーが途中でちょっかいを出してもニコリともしません。カメラマンが近づいてきてるので、ちらっとカメラを見上げますが、やはり笑顔を見せることもありません。ジャームス・バートンとは違いますね。あくまでプロフェッショナルなミュージシャンとして演奏に徹しています。改めて好感を持ってしまいました。

と言いつつ、これが本当に、本当にアル・カイオラさんなのかは定かではないままなのですが。
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# by hinaseno | 2012-10-27 10:17 | 音楽 | Comments(0)

今日から松たか子さんによる村上春樹の小説の朗読は、再び『神の子どもたちはみな踊る』に収められた作品にもどりました。取りあげられた作品は、その本の最後に収められた「蜂蜜パイ」。
主人公の名前は淳平。
今日読まれたのはその最初の部分。淳平が即席でつくった物語(童話)を、彼がつきあっている女性の、幼稚園に通っている子供、沙羅ちゃんに聴かせてあげるところから始まります。沙羅ちゃんは物語を黙って聴くのではなく、ちょっとでも疑問に思ったことがあったら淳平にたずねます。結構鋭い質問もする。でも、淳平はそれに対してひとつひとつ丁寧に説明します。松さんの朗読もいい感じでした。

ところで、「淳平」と言えば「捷平」です。強引ですね。また、木山さんの話です。

姫路時代の木山さんに、また一人親しい関係にある人間の名前が先日わかりました。
木坂俊平。
実はこれはペンネーム。本名は市場周久(いちばあきひさ)。兵庫県神崎郡の生まれ。
1910年生まれですから、木山捷平よりは6歳年下。2歳のときに姫路に転居して昭和5年に大津市に転居するまで姫路に住んでいました。

木山さんと木坂俊平が出会い、交流をもっていたのは、木山さんが姫路で小学校の教師をしていた昭和2、3年頃。木山さんが23〜4歳、木坂俊平が17〜8歳のときですね。
木坂俊平は昭和2年に詩を書き始めます。その頃流行っていた民謡や童謡が中心ですね。で、おそらく姫路で詩を書いていた人のつてで2人は知り合ったのだと思います。
a0285828_1118713.jpg2人の年齢の差が示すように、木坂は木山さんを兄のように慕います。昭和5年に出版された木坂の最初の民謡集『生きる唄』のあとがきにはこんな言葉が書かれています。

木山捷平氏は有難い僕の先輩だ。何かにつけてよく相談に乗つてくれ、世話をやいてくれる。僕は何時も木山目懸けて突貫する。木山はよき僕の兄であり、よき詩敵である。







ひとりぼっちで、ほんの一握りしか友人のいなかったと思っていた姫路時代の木山さんに、こんなにも心を寄せていた年下の人間がいたなんて。

たぶんうすうすとは気づかれていると思いますが、木坂俊平という名前は木山捷平にちなんでつけられているんですね。最初の「木」と最後の「平」をそのままとっています。よっぽど木山さんのことが好きだったんでしょう。同時に心から信頼し尊敬していたことがわかります。

その木坂俊平は『関西の童謡運動史』という本を出していることがわかりました。昭和62年発行。実は木坂俊平はその前年に亡くなっていて、彼の書いてきた文章をまとめたものを身近な人たちが出版したようです。幸いなことに、この本は姫路文学館にありましたので、先日うかがってみてきました。

最も期待していたのは大西重利の名前が何らかの形で載っていること。木山さんとの関係、童謡というキーワードはきっと大西重利につながっているはずだと思っていましたから。でも、文章中に出てきた人物の名前が載っている巻末の索引には残念ながら大西重利の名前はありませんでした。かなり分厚い本で、関西で童謡に何らかの形で関わっていた人たちを、雑誌に投稿した小学生の名前まで書いたものでしたから、ここに大西重利の名前が出てこなかったというのは意外でした。

木山さんが姫路を離れて上京したのは昭和4年(1929年)。木坂俊平は上京はしなかったけれどもその翌年に姫路を離れます。もう少し、この木坂俊平、あるいは彼の周辺にいた人たちのことを調べてみたいと思います。

ちなみに木坂俊平が住んでいたのは姫路城のすぐ北の坊主町。そこから船場川に沿って1キロほど南に下れば木山さんの住んでいた千代田町に行けます。
先日、その途中の船場川沿いの道をちょっと歩いてきました。
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# by hinaseno | 2012-10-26 11:23 | 木山捷平 | Comments(0)

一昨日、古関裕而の「福島夜曲(セレナーデ)」と「福島行進曲」のことを最後に書きましたが、昨夜、仕事から戻ると一通の見覚えのある小包が届いていました。もちろんアゲインの石川さんからのもの。
中に数枚のCD。すべて石川さんの店、アゲインで行なわれたSP講座で使われた音源(講師は郡修彦さん)。
その中に古関裕而のものが2枚。
一つはスポーツや軍歌関係、もう一つが歌謡曲を収めたもの。

どきどきしながらその歌謡曲篇の曲目を見る。
1曲目が「福島行進曲」。
そして2曲目が「福島夜曲」(「ふくしませれなーで」と読むんでしょうね。「福島小夜曲」と表記されることもあるようです)。

「福島夜曲」は、昭和6年に阿部秀子が歌ってレコーディングされたオリジナルのもの。現在発売されている『古関裕而全集』にも収められていないもの。それを確認しただけで感激で涙があふれそうに。
それをぐっと抑えてCDをセットして2曲目を。
大きな音ではかけられないので、小さな音で聴く。
スポーツ関係の勇ましい曲とは全く違う、弦楽器を使った静かなメロディが流れてくる。思った通りの美しい歌。胸がいっぱいになる。

「福島夜曲」は昭和6年にレコーディングされていますが、曲が作られたのは昭和4年に福島で竹久夢二展が開かれたときのこと。福島に来ていた夢二が滞在中に即興でかいた「福島夜曲」と題した詩画(詩のついた絵)を見て深く感動した古関裕而が詩をノートに書き写して家に戻って曲をつけたそうです。古関裕而はできあがった曲を楽譜に書いて夢二が滞在していたホテルに持っていって手渡し、その場で曲を歌ったとのこと。古関裕而と夢二との交流はその後も続いたそうです。

夢二が書いた詩は全部で12篇(「福島夜曲」の詩画は夢二の何かの画集に載っているんでしょうか?)。そのうちの3篇が選ばれて曲にされています。 今日、『全集』が届いたので聴き比べていたら、オリジナルの阿部秀子が歌っているものと昭和50年に島田祐子に歌われたものと3番の歌詞が違っていました。

まずはオリジナルの歌詞。

遠い山河(やまかわ)
たずねて来たに
吾妻しぐれて 見えもせず

奥の細道
とぼとぼ ゆきゃる
芭蕉様かよ 日の暮に

信夫(しのぶ)お山に 
おびとき かけりゃ
松葉ちらしの 伊達模様


昭和50年に島田祐子に歌われたものは3番がこうなっています。

会津磐梯山が
ほのぼの 身ゆる
心細さに 立つ煙か


a0285828_2135064.jpgどうやらもともとの夢二の詩はすべて「七・七・七・五」の定型詩のようです。同じメロディでどの詩も歌えるということで、昭和50年のときには別の一篇が選ばれたようですね。でも、昨日貼った古関裕而の直筆色紙の音符の下に書かれている歌詞はオリジナルの3番の歌詞。そしてその下に書かれている絵は信夫山のはず。信夫山という名前がついていますが実際には3つの山のようです。標高275mですからそんなには高くないですね。でも、福島の市街地からは目立つ山のようです。

メロディを伝えるのは難しいですが、古関裕而はもともとクラシックを学んだ人ですので、全体的にはクラシック、あるいはオペラの要素が強いようです。ただ、1番の歌詞でいえば「たずねて来たに」の「来たに」の部分は日本的な、個人的にはぐっとくる旋律。
で、次の「松葉ちらしの」のところでいきなり1オクターブ上がります。大丈夫かなと思うほどの高い声。でも、阿部さんはきっちり声が出ています。もともと声楽をされていた人なのかもしれません。 島田祐子は古関裕而の指名ということらしいので、当然歌はうまいです。

昭和50年にレコーディングされたものはかなり多くの楽器が使われて演奏されていますが、オリジナルは楽器は弦楽器(おそらくバイオリンとチェロ)とピアノのシンプルな演奏。個人的にはやはりオリジナルのシンプルな演奏の方が好みです。
いずれにしても本当にきれいな曲。同じ年に作曲された早稲田大学の応援歌とは全然違います。
この「福島夜曲」にスポットがあたる日がくればいいですね。原発事故のあった今こそという気がしないでもありませんが。

今年は思い出に残るいろんな曲に出会うことができましたが、この「福島夜曲」も大切な1曲になりました。

何の縁もなかった福島に、夢二と古関裕而を通じてつながりを持つことができました。

下は信夫山(しのぶやま)の写真。ふと思って調べてみたら、昔、信夫山という力士がいたんですね。きっといるだろうと思いました。
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# by hinaseno | 2012-10-25 21:48 | 音楽 | Comments(1)

秋をふらふら


今朝はぐっと寒くなりました。
久しぶりに木山捷平の話です。

今日は昭和2年、木山さんが姫路の千代田町にいたときに書かれた詩を紹介します。
木山さんの若いときに書かれた詩の中で、特に好きなものの一つです。
この詩は『野人』に収められたものと、後に昭和4年に抒情詩社から出版された『野』(現在出ている『木山捷平全詩集』に収録)に収められたものと、少しだけ違っています。ここでは『野人』の第三輯に収められた方を。謎の「姫路市南畝町288」にあった野人社から発行されたものですね。
タイトルは「ふらふらと」。

たつた一つしかない猿股を
洗つてほしておいたら
ぬすまれた。
仕方はない
なんにもはかないで
ふらふらと
職をさがしてあるいた。
十月ももう末の頃
秋風が股からひやひやと
ひとへものでは寒かつた。

「職をさがしてあるいた」とありますね。詩の主人公が木山さん自身とは限りませんし、詩の題材とされたことがそれを書いたときに起こった出来事とは限りませんが、この時期木山さんは荒川小学校に勤務しています。でも、この詩誌の発行や知人に送ったりするのにお金が必要だったんで、いろいろとちょっとしたアルバイトを探していたのかもしれません。

この詩のポイントは何といっても「仕方はない」というところですね。
『野』に収められたものとの違いは、この部分。『野』の方には感嘆符が付けられています。
「仕方はない!」と。
でも、僕は『野人』の頃の、強がろうとしても元気のない木山さんを愛します。

『野人』は第五輯まで出ていますが、この第三輯には他の4輯にない特徴があります。第三輯にだけ「後記」がないのです。で、毎月発行していたものが、次の第四輯が出るまでにひと月空きます。そして第三輯まで発行してきた「野人社」の住所は「姫路市南畝町288」から「姫路市千代田町800(吉川方)」、つまり自分の下宿先に移ります。

何かがあったんですね。第三輯を発行する時期に。
第四輯にはひと月空いたことについて「事情はお察しのとほり」とだけ書いている。それからそのあと「暫く理窟は云はぬ約束になつてゐる」とも。
そう、『野人』の第一輯の後記で、彼はこう書いているんです。
「私はどうも理窟が言へない。だから當分理窟は言はぬつもりだ」

「理窟」、今の言葉で言えば「言い訳」でしょうね。あるいは人のせいにするような言葉も含まれているのかもしれません。そういうのを口にしたり書いたりするのが好きではないんですね。というか、もともとそういうことができない人だったのかもしれません。僕のイメージする「東北人」の気質に似ているように思います。

でも、おそらく「第三輯」を発行するときには、その「理窟」を言いたくて仕方がないような出来事があったんだと思います。「後記」を書くと、どうしてもそれを書かずにはいられないような気がする。で、結局、彼は「後記」を一切書かないことにしたんですね。

改めて「ふらふらと」の詩を見てみます。
「 十月ももう末の頃」と書かれていますが、実は第三輯が発行されたのは9月1日。印刷が8月20日。つまり真夏に書かれています。詩では猿股が盗まれたとなっていますが、実際には木山さんにとって、何かもっと大きな、大切なものがこの時期に失われたような気がします。その気持ちを10月の終わり頃の風景に重ねた。でも「理窟」は言いたくない。だから結局、出てくる言葉はただ一つ。
「仕方はない」

僕がこの詩を最初、『全詩集』で読んだときはちょっと吹いてしまいました。おもしろい、いかにも木山さんらしい詩だなと。
でも、『野人』でこの詩を読み返したとき、この詩に漂っている何とも言えない喪失感にたまらない気持ちになりました。「感嘆符」がついていないこともすぐに気づきました。
「ふらふらと」は『野人』第三輯の最後のページに収められています。その隣の最後のページには、他の号であれば、下の発行人の名前などが書かれた枠の上に書かれているはずの「後記」の部分が空白となっています。『野人』の中でもっともさびしい風景です。
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# by hinaseno | 2012-10-24 09:25 | 木山捷平 | Comments(0)