Nearest Faraway Place nearestfar.exblog.jp

好きなリンク先を入れてください

Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
プロフィールを見る
画像一覧

<   2017年 06月 ( 24 )   > この月の画像一覧



東京に行った日の夜、関口直人さんとお別れする間際にこんなやりとりをしたことを思い出しました。


「そういえば、あの曲の作曲者、わかりましたか?」

「ああ、あれはヒグチ・ヤスオです」

「ヒグチ・ヤスオ?」

どこかで聞いたことがあったような気がするけれどもぴんとこない。で、とりあえず携帯のメモに「樋口やすお」と入力。

「ONのCM関係のCD、まだ手に入ると思いますよ」

「帰って調べてみます」


*  *  *


さて、前回の「2017年10月22日の人生」に書いた翌日10月23日に70歳の誕生日を迎えられるというのは、ナイアガラの原節子といってもいいシリア・ポール。大瀧さんがらみでは「夢で逢えたら」のシングルを1枚と、それを収録したアルバム1枚を残しただけなんですが、まちがいなくナイアガラの女神(ミューズ)ともいうべき人。原節子さん同様、大変に美しい人です。

これは大瀧さんとレコードを作っていた当時のシリア・ポール。

a0285828_14281153.jpg


先日、久しぶりに「ゴー!ゴー!ナイアガラ」のシリア・ポール・ストーリーを聞き返しました。シリア・ポールさんをゲストに招いて1977年6月14日と21日の2回に渡って放送されたもの。僕にとっては運命的とも言えるものだったので、何度も聞き返しています。

いきなりおっと思ったのは番組の冒頭で告知されたシリア・ポールのアルバム『夢で逢えたら』の発売日。1977年6月25日。ちょうど聞いたのが今週の日曜日だったのでまさにぴったり40周年の日でした。もし大瀧さんがご存命ならば、40周年記念盤を出していたかもしれないなと思って、2011年に行われたインタビューを読んでいたらちょっとおもしろいことが。出ていればきっと…、もしかしたら冒頭で触れた曲が収録されていたかもしれないと思ったり。これについてはまた後で。


「ゴー!ゴー!ナイアガラ」のシリア・ポール・ストーリーではシリアの芸能生活のスタートから語られます。彼女の芸能界デビューは映画。子役を募集していたのを知って応募したら合格したんですね。『亡命記』という映画。

1955年の松竹の映画で主演は佐田啓二と岸恵子。監督は野村芳太郎。このときシリアは小学校1年生。佐田啓二と岸恵子(『早春』の前年!)が共演していて、しかもシリア(このときの芸名はシリヤ・ポールとなっていたみたいです)が出ていたとなるとぜひ見てみたいけど、残念ながらDVDにはなっていないようです。

ただ、この映画、今年の3月に大阪で上映されたようで(第12回大阪アジアン映画祭特集企画<アジアの失職、求職、労働現場>上映作品のひとつ)、こちらに映画を見た人のレポートが載っていました。

シリア・ポールについてはこんなことが。


「募集子役の日印ハーフのシリア・パールさん。どうみても主演二人の子どもに見えず、彼女には悪いのですが違和感を覚えてしまい、何故彼女なのかと思いました。今なら大人顔負けの演技をする子どもタレントがワンサカいますが、当時は少なかったのでしょうか」

「シリア・パール」となっているのはなぜでしょう。これを書いた人はこの少女が”あの”シリア・ポールだとは全くご存知ないんですね。

そのページに貼られていたのがこの写真。


佐田啓二の膝の上に乗って汽車の窓から外を眺めているのが当時、6~7歳のシリアのはず。

a0285828_14274093.png


[PR]
by hinaseno | 2017-06-30 14:30 | ナイアガラ | Comments(0)

ずっと東京の話を書いていたために紹介できなかったことがいくつかありました。そのうちのひとつ。益田ミリさんの『今日の人生』の話です。


朝日新聞に連載されている鷲田清一先生の「折々のことば」のことはこのブログでも何度も書いていますが、今月のはじめの6月7日の「折々のことば」はなんと益田ミリさんの『今日の人生』からのことばだったんですね。

うれしいやら、びっくりやら。

鷲田先生が選び取った言葉は、マンガではないページに書かれたこの言葉でした。

a0285828_15014281.jpg



生きている時間のほうが長い
どんなに短い人生だったとしても
生きていた時間のほうが長い

この本に載っているマンガには吹き出すくらいに笑わされたり、くすっと笑わされたり、そうそうと頷かされたり、ちょっと考えさせられたり、あるいはほろっとさせられたりと、いろんな感情を呼び起こさせられたのですが、でも、ところどころに挿入されたエッセイには別の空気が流れていました。そこに通底音としてあったのは「死」というもの。

本のタイトルの「人生」はミリさんも含めて様々な人(ときには動物)の生を描いているわけですが、村上春樹の言葉ではないけど「死」は一部として存在していることをそのエッセイによってサブリミナル的に意識させられるんですね。ミシマガジンのサイト上に載っていたマンガだけを読んでいたときとは全く違った印象を受けたのはそのせいでした。


さて、鷲田先生のコメント。


電車の中でじっと伏せている盲導犬を見て、自分はこれほど誰かの役に立ったことがあるかとふり返る。行列の中にいても、人はなぜかいつも自分の前を横切ると首を捻る。隣席から漏れ聞こえる会話に心を寒くする。そんな人生のかけらを一つずつ、体温を測るかのように描くイラストレーターのコミックエッセー「今日の人生」から。

「人生のかけらを一つずつ、体温を測るかのように描く」という表現が素晴らしいですね。そろそろまた読み直してみようと思います。きっと新たな発見があるはず。


ところで、益田ミリさんの『今日の人生』といえば最後のページに掲載されたこの吹き出し部分が空白のマンガ。

a0285828_15021257.jpg


最後の「2017年10月22日の人生」だけ書いていなかったのですが、昨日、ある人の生年月日を調べていたら、オッと思ったんで、僕ではなくその人の2017年10月22日の人生を書くことにしました。

その人のことについてはまた次回。

a0285828_18423182.png




[PR]
by hinaseno | 2017-06-28 15:04 | 雑記 | Comments(0)

縁側ってのは縁


相変わらず暇を見つけて(見つけなくても)、大瀧さんが出演したラジオ番組をいろいろと聞いています。車の中ではずっと「ゴー!ゴー!ナイアガラ」。家ではいろいろ。

昨日から聞いていたのは1997年1月5日放送の新春放談。この新春放談でおっと思ったのは「築地の路地裏」という言葉がたとえ話として出てきたこと。大瀧さんが1996年6月に始めたインターネットのサイト「アミーゴ・ガレージ(Ami-go Gara-ge)」のあり方について達郎さんが「築地の路地裏」というたとえを使ったんですね。こんなやりとり。


山下:いいじゃないですか。築地の路地裏の、なんか一杯飯屋みたいで。
大瀧:(笑)だからそれを目指したわけ。そういうのってさぁ、私の得意のパターンだけど“聖地はスラム化する”というナイアガラ語録があってね。そういう路地裏のようなものを守るってのは、もう今や意図的にやるのは非常に難しい。

大瀧さんはこの「築地の路地裏」のたとえがいたく気に入ったようで、このあとご自身も何度も使っているのですが、このまさに10年後にその「築地の路地裏」を実際にしらみつぶしに歩かれたことを考えると、なんとも面白いですね。大瀧さんにとってはこういう達郎さんの口からぽっと出たような言葉も「縁」のひとつになっていたんだろうと思います。

「縁」といえば、「路地裏」の例えの流れで、「最近”縁側文化”ということを言ってるんだ」と話されたんで、何のことだろうと思って調べたら『インターネット・マニア』という雑誌の1996年11月号のインタビューでそれを語っていました。タイトルは「アミーゴ・ガレージは”縁側文化”を目指す」。『大瀧詠一 Writing & Talking』に収録されていました。


「縁ていうのが好きでね、昔から。縁があるかないかで全部決めてるんですよ、世の中。縁てのはなかなかに面白い言葉で。”アミーゴ・ガレージ”やってて最近気に入ってるのは、“縁側”という言葉。縁の側。そのぉ、中に入らないんですよ、お客さんは。庭を通るときに、縁側に寄ってお茶を出される。旅人ならばまあその縁側へいったん座って、お茶を出されて何時間かの話をして通り過ぎていくと。縁側ってのは縁なんですね」


「縁を作る、契りを結ぶ場なんだろうね。縁があるかないかを、縁側で判断する。そこで家の中に入る人もいれば、縁側に座るだけの人もいる、縁側を見ながらそのまま素通りする人もいれば、庭先のはるか遠くを通って行く人もいる……。これがなかなかに人生かな、と思う。で、まさに、この”アミーゴ・ガレージ”は縁側だな、と思うんだよ」


「来る旅人の心構えで出口も違うと、ね。その”縁側”で縁が結べるかどうかというようなまさに”縁側文化”みたいなところまでインターネットも進んで、使えたらね、これはもう人間の勝利だと思うけど」

その大瀧さんのアミーゴ・ガレージも熱心に更新されていたのは2、3年だったでしょうか。で、ある日、ばっさりと全て消されたんですね。

ちなみに僕がインターネットを始めたのは1998年7月。”アミーゴ・ガレージ”は後追いで見ていましたがあまりにも情報が膨大で全部を消化できない状態でいたら、ある日突然消えていたんです。

泣きました。

縁がなかったんだと言われれば、それまでなんだけど。


[PR]
by hinaseno | 2017-06-27 12:15 | ナイアガラ | Comments(0)

昨日、木山さんの名前が載っているこの名簿を見て思い出したことがありました。

a0285828_12562087.jpg


3年ほど前のことになりますが、木山さんが荒川小学校にいた時期に職員だった人のことをいろいろと調べたんですね。基本的にはネットでの検索。名前と「姫路」で入力したら何人かはヒットしました。ただし同姓同名の可能性もあって、結論的に言えばこれっていう人は見つかりませんでした。

でも、ただ一人、気になった人がいたんですね。木山捷平の2つ右に名前が載っている中村治三という人。木山さんと同期で荒川小学校に来ていますが、木山さんとは違って10年間荒川小学校に勤務しています。

ということもあってか『荒川小学校百年誌』を見ると、昭和初期の卒業生の何人かは中村先生の思い出を書いています。かなり個性的な先生だったようです。


さて、「中村治三」「姫路」で検索したときにヒットしたのがこの『国宝 姫路城』という本でした。

a0285828_15000246.jpg


姫路城のガイドブックで、姫路城のいろいろな場所を撮った写真が掲載されていて、最後に「姫路城物語」という文章を中村治三という人が書いているんですね。

そして本の編者も中村治三。

a0285828_15001045.jpg


とりあえず中村さんのプロフィールのようなものが載っていればと思って本を取り寄せたんですが、残念ながらプロフィールどころか、中村さんの肩書きもありません。本の出版年すらわからない。発行所に電話したらつながったんですが、この本を出版した当時の人はだれもおらず、本に関して詳しいことは何もわからないとのことでした。


というわけで、本に関しても中村治三という人についてもそれっきりになっていたのですが、昨日、久しぶりにこの人の名前を見て、もしやと思って木山捷平の『酔いざめ日記』を調べたら、なんとこの中村治三という名前があったんですね。しかも姫路の話の中に。

書かれていたのは昭和36年5月14日の日記。


 昨夜八時四五分東京発急行安芸、寝台にのり今朝八時四十六分姫路着。
 白鷺中学校体育館に行く。(バス坂本下車)元三九連隊旧四六部隊跡に出来た校舎という。
 大正十二年生の会。元賀陽宮あとが市民寮となっていた。二十人ばかり集まった。
 御幸通り伊沢旅館に五人で泊った。翌日、中村治三君の案内で姫路城見学。書写山、手柄山にのぼった。富士製鉄見学した。この夜、福田旅館泊り。会計1500円。

白鷺中学校というのはおひさまゆうびん舎のすぐ近くですね。「坂本」で下車となっていますが、これは「坂元」の間違い。

「大正十二年生の会」ということなので、どうやら姫路師範学校のときの同窓会があったようです。

で、「翌日、中村治三君の案内で姫路城見学」。「氏」ではなく「君」となっていることから、この中村治三はきっと荒川小学校のときの同期の人のはず。何らかの形で連絡を取り合っていたんでしょうか。

で、その中村さんの案内で姫路城見学。とすると、中村さんは姫路城に詳しいことが考えられます。つまり、『国宝 姫路城』の編者と同一人物の可能性が極めて高い。つながりましたね。


それはさておき「御幸通り」とか「手柄山」とか、馴染み深い場所が出てきてなんともうれしいですね。


[PR]
by hinaseno | 2017-06-26 15:00 | 木山捷平 | Comments(0)

『荒川小学校百年史』


東京旅行と、それに関連した話もようやく終わり。長い話を書き終えて、そういえば、とつい先日思い出したことを。


東京はゴールデン・ウィークの最終日に行ったんですが、ゴールデン・ウィークの最初に行ったのが姫路のおひさまゆうびん舎でした。そこで益田ミリさんの『今日の人生』と山高登さんの『東京の編集者』を買って、それから『今日の人生』について語り合う会をしたんですね。

その日買ったりもらったりしたものを入れたかばんが『今日の人生』と『東京の編集者』だけ取り出してそのままになっていることについ先日気がついて取り出してみたら、あっと思うものが。

a0285828_12502371.jpg


『荒川小学校百年史』。

おひさまに行く前にいつもちょこっと立ち寄る、おひさまのすぐ近くにある古書店で見つけたもの。すっかり忘れていました。

この本には木山捷平の名前が載っているんですね。もちろん「旧職員」のページ。おひさまにいた人にも見せてあげればよかった。

a0285828_12562087.jpg


「木山捷平 昭和2・4~3・3」と記されています。

これを図書館で初めて見つけたときの感動はいまだに忘れない。ただ「木山捷平」の名前が載っていたからではなく、”あの”荒川小学校のものだったから。

大瀧さんにとっての成瀬研究にはいくつもの「たまたま」があったように、僕の木山捷平研究にもいくつもの「たまたま」があったわけですが、とりわけ大きな「たまたま」が荒川小学校でした。

改めて『荒川小学校百年史』をじっくりと見ていたら知っている名前が数十名。

気がつかなかった。彼らのうちでだれかひとりでも、人生のどこかで「木山捷平」に気づく日がやってくるんだろうかと考えてしまいました。


さて、昨夜はかなり強い雨が降っていましたが、今朝は雨があがっています。でも、日は差してこないかな。しばらくは梅雨らしい鬱陶しい日が続きそう。というわけで久しぶりに木山捷平の詩を。タイトルは「雨あがりの朝」。


 雨あがりの朝――
 しめりのいい校庭に朝日がさして
 ひろびろと広い校庭よ
 女の子がひとり
 はや学校にやつて来て
 ひとりでまりをけつて遊んでゐる。
 白い新しいまりを追ひかけ
 追ひかけてはけつて
 ひとりでかけまはつて遊んでゐる。
 さくらの若葉がきらきらと朝の微風にかがやいて――
 ひろびろと広い校庭の朝よ。


姫路の荒川小学校にやってくる2年前の大正14年、東京の雑司が谷に住んでいたときに書いたもの。下宿していた家の目の前には小学校があったので、その風景を描いたんでしょうね。

木山さんの詩に出てくる子供は集団よりも個(ひとり)の場合がほとんど。ただ、「個」といっても、木山さんはそこにさびしさではなく自由や希望を見ているんですね。こんなちょっとした詩の中にも木山さんの教育観が出ています。でも、その教育観は当時の(今もそうなりつつあるけど)教育の現場には合わないことはいうまでもありません。悩み、苦しんでいたでしょうね。


ところで益田ミリさんの『今日の人生』の予約特典としていただいたミリさん撮影のこの写真。

a0285828_12512568.jpg


船場川のはるか向こうに見える山の麓の赤丸のあたりに木山さんがいた荒川小学校があります。


[PR]
by hinaseno | 2017-06-25 12:51 | 木山捷平 | Comments(0)

高峰秀子、三吉橋を渡る


先日、日本映画専門チャンネルで放送された成瀬巳喜男の『女が階段を上る時』、主演が大好きな高峰秀子さんでDVDも出ているんですが、見るのはこれが初めてでした。高峰さんが演じるのは銀座のバーの雇われマダム。というわけで銀座近辺と思われる風景がいくつも出てきます。ただ、路地が多くてほとんどわからないけど。

でも、少し前にこのブログで紹介した佃の渡しはすぐにわかりました。『東京の編集者』(夏葉社)の表紙に使われた山高登さんの写真と同じ風景だったので。

a0285828_14552826.jpg


実はその前にこんなシーンがありました。高峰秀子と仲代達矢がどこかの橋の上を歩いています。

a0285828_14555098.jpg


昔の映画に出てくる東京の風景の中で、とりわけ気になるのが橋と川。というわけで、映画を見終えた後で調べてみたらびっくり。なんと、あの三吉橋の上を歩いていたんですね。大瀧さんが通っていた音響ハウスのすぐそばの橋。で、驚いたことに…。

その前に戦前の三吉橋周辺の地図を。

a0285828_14562355.png


以前、三吉橋の絵葉書を紹介しましたが、実は三吉橋の絵葉書は同じ時期に撮影されたものが3枚あります。三又の橋を3方向からとらえているんですね。

まず、これ。

a0285828_14563865.png


地図の癌研究会付属病院と書かれている建物のあたりから緑の矢印の方向をとらえています。三吉橋の向こうにはいろんな映画によく出てくる築地橋が見えます。左端に映画のシーンに映っている建物がありますね。

次がこれ。

a0285828_14565254.png


地図の水色の矢印の方向をとらえています。正面にある建物は京橋区役所。

で、その京橋区役所から撮影したはずの絵葉書がこれ。

a0285828_14570519.jpg


地図の赤色の矢印の方向を写しています。向こうに見えるのはあの新富橋。

年代を知りたかったのでこの絵葉書だけ手に入れました。でも残念ながらどこにも年代の記載はありませんでした。


さて、『女が階段を上る時』に戻ると、高峰さんは地図の紫の方向を歩きます。そして橋の途中で立ち止まって振り返ります。

a0285828_14571506.jpg


なんと向こうに見えるのは新富橋、そして(たぶん)鈴木ビル。

で、次のカット。

a0285828_14572923.jpg


高峰さんのバックにはっきりと新富橋が映っています。橋の上を車も走っていました。


ところで『女が階段を上る時』が公開されたのは昭和35年(1960)1月。『秋立ちぬ』と同じ年に公開されていたんですね。『秋立ちぬ』の公開は10月。ちなみにこの年、成瀬は4本も映画を撮っていて『秋立ちぬ』が4本目。

成瀬が『秋立ちぬ』の構想をいつ立てたかはわかりませんが、その最も重要な場所である新富橋をちらっと写しこんでいるのは意図的なものなのか、それともたまたまなんでしょうか。


[PR]
by hinaseno | 2017-06-24 14:59 | 映画 | Comments(0)

古関裕而はタイトルに「福島」とついている曲をいくつか書いています。まずは昭和6年(1931)に発表された「福島行進曲」。作詞は古関裕而と同じ福島出身の野村俊夫。

そのレコードの裏面に収録されたのが「福島夜曲(セレナーデ)」。作詞は福島ではなく、わが岡山出身の、僕にとってはあまりにも身近な存在である竹久夢二。


夢二が詩を書いた「福島夜曲」の話はこのブログで何度か書きましたが改めて。

夢二は早稲田の同窓生である福島出身の助川啓四郎(後に衆議院議員)と親交していた関係で福島に何度も行っていました。昭和4年に福島で夢二展が開催され、それを聞きつけたの当時20歳の古関裕而が会場に出かけます。古関裕而はコロンビアに入社したばかり。

彼が会場で目にしたのが巻紙に描かれた「福島夜曲」と題された詩画。その作品に強く心を打たれた古関裕而はそこに書かれた詩を全てノートに写し、帰宅してすぐに曲作りを始めます。で、出来上がった曲を持って夢二の宿泊先に行き、曲を献上したんですね。


このエピソードを知って「福島夜曲」の話をこのブログに書いたら翌日アゲインの石川さんから超速攻でこの「福島夜曲」の音源を送ってくれたんですね。例のSP講座の古関裕而特集のときのもの。

で、それからしばらくしてある方から『夢二と福島』という本にその絵が載っているというメッセージをいただいて本を手にいれてこの日のブログに貼りました。

ただ、本に掲載された絵は白黒で、しかもとても小さなもの(ブログには拡大して貼りましたがかなり見づらいものになっています)。さらにこの絵が現存しているのか、現存しているのであればどこにあるかなどは書かれていませんでした。

というわけでそれ以降も夢二の画集が目に入れば手にとってパラパラとめくって、この「福島夜曲」の絵を探す日々が続いていました。


そんなある日、って実はつい先日なんですが、思わぬところでこの絵がカラーで収録された画集に出会ったんですね。

それは毎月、夢二関係のお菓子を買いに行っている店。行くと必ずお茶とお菓子を出してもらえるんですが、先日、テーブルに座ったら目の前に1冊の本が飾られていました。見ると夢二の画集。15年ほど前に開かれた展覧会用に作られたものでした。どこかで目にしたかもしれないなと思いながらペラペラとめくっていたらなんと「福島夜曲」の絵が。しかも絵の下の解説には古関裕而のことも。

びっくりして店の人にその本のことを聞いたら、少し前に店のお客さんがお店に置いてくださいと持ってこられとのこと。もちろん売り物ではありませんでした。

タイトルは『漂白する心 竹久夢二 追想展』。市販されているものではなく、しかもちょっと古いものなのでしたが運良く見つけられてゲットしました。

a0285828_12290907.jpg


これがそのページ。

a0285828_12292295.jpg


『夢二と福島』に掲載されたものとはこんなにサイズが違います。

a0285828_12292913.jpg


比べてみて驚いたのは『夢二と福島』の2枚目に掲載されたものは実は上下逆さまになっていたんですね。何の絵が描かれていたかわからなかったはず。小川に架かる橋の絵だったとは。


ところで『漂白する心 竹久夢二 追想展』には「福島夜曲」の絵が収蔵されている場所も書かれていました。

竹久夢二伊香保記念館。

群馬県でしたね。ちょっと行くのは大変そう。でもきっといつか見る機会があるはず。その会場に古関裕而の曲が流れていれば言うことはありません。そのとき”あの”古関裕而の曲だと思う人がはたしてどれだけいるんでしょうか。



[PR]
by hinaseno | 2017-06-23 12:29 | 音楽 | Comments(0)

今、少しずつ読んでいるのが川本三郎さんの新刊『「男はつらいよ」を旅する』。川本さん、北は北海道から南は沖縄まで日本全国、「男はつらいよ」のロケ地を訪ね歩いたんですね。岡山にもやってきて勝山をはじめいろんなロケ地に行っています。ロケ地ではないけどいつも(つい先日も)貴重なものをたくさん送っていただいている清音読書会のNさんがお住いの清音(きよね)も出てきます。そらからもちろんYさんがお住いの兵庫県のたつの市も。


そういえば大瀧さんが成瀬の映画のロケ地を確認するために、突然、家を訪ねたりする場合のやり方として、平川さんから「下から出て行くんですか? でも、相手にとっては”あの”大瀧詠一ですよね」と言われて大瀧さんは困っていましたが、川本さんはいきなり見知らぬ家を訪ねても「寅さんのことで」と口に出した途端、相手の人はほぼすべて嬉しそうな顔になっていろんな話をしてくれたようです。やっぱり寅さんはすごいですね。


さて、その川本さんの『「男はつらいよ」を旅する』を昨夜読んでいたら、かつて福島県を走っていた日本硫黄沼尻鉄道という軽便鉄道の話が出てきました。これは『日本の軽便鉄道』に載っている写真。

a0285828_14370797.jpg


なんともかわいらしいですね。色も愛らしい。川本さんが書いているようにまさに「玩具」のよう。

で、この軽便鉄道についてこんな話が。


「磐梯山の麓を走る高原列車でもあった。岡本太郎が歌ってヒットした〽︎汽車の窓からハンケチ振れば……の「高原列車は行く」(昭和29年)はこの鉄道をモデルにしている」

川本さんは書かれていませんが、この「高原列車は行く」の作曲者が福島出身の古関裕而。作詞者の丘灯至夫も福島の人。どうやら曲先だったようです。

「高原列車は行く」は古関裕而の数ある曲の中で一番好きな曲。大瀧さん作詞作曲の布谷文夫の「深南部牛追唄」にもこの曲の歌詞が一部引用されています。

この日本硫黄沼尻鉄道の軽便鉄道は昭和30年公開の映画『続 警察日記』に出てくるようで、こんなシーンが映るそうです。


「牛が線路に入ってしまうと、どくまで待っている。のんびりしている」

この日のブログで「深南部牛追唄」の歌詞がどんなふうにして作られていったかを書いていますが、たまたま適当に歌詞に取り入れた曲のもとになっている鉄道で”牛追い”をやっていたとは。

映画、見てみたいですね。


ということで「高原列車は行く」を貼っておきます。当時の修学旅行の愛唱歌NO. 1だったそうです。




[PR]
by hinaseno | 2017-06-22 14:39 | 音楽 | Comments(0)

暇を見つけて(見つけなくても)、大瀧さんが出演したラジオ番組をいろいろと聞いていました。改めていうまでもなく聞くたびに新たな発見があります。

一番よく聞いたのは成瀬巳喜男の映画研究のことが語られた「大瀧詠一的2009」(収録はたぶん2009年12月)。内容は多岐にわたっていて聞きどころ満載。大瀧さんの名言、至言も随所に出てきますが、この年の放送で最も衝撃を受けたのはなんといっても古関裕而の(「ひるのいこいのテーマ」曲の)話でした。

この放送で古関裕而という作曲家のことを初めて知り、自分の中で古関裕而という存在が大きくなり始めていたときに起こったのが東日本大震災と福島での原発事故。福島は古関裕而の故郷。

「大瀧詠一的2009」の中での大瀧さんの予言めいた言葉に畏れすら抱いたものでした。これについては以前書きましたね。


「大瀧詠一的2009」を何度か聞いたあと、今度は大瀧さんが成瀬研究を始めた2007年あたりからの新春放談を聞いていたら、2008年1月6日放送(収録はたぶん2007年の12月)の新春放談で、『ナイアガラ・カレンダー』の30周年記念盤について達郎さんといろいろと話していたときに古関裕而の話が出てきてびっくり。「五月雨」の弦アレンジを聞いていたときに古関裕而の「ひるのいこいのテーマ」に通じるものを感じたと。

「大瀧詠一的2009」を収録した2年も前から大瀧さんの中で古関裕而の「ひるのいこいのテーマ」が重要な位置を占めるようになっていたようです。


で、次に聞いたのは1995年の夏に放送された「日本ポップス伝」。その第一回目に古関裕而の曲が4曲続けてかかっています。いずれも超有名なマーチばかり。

1曲目は早稲田大学応援歌「紺碧の空」。この曲がきっかけで古関裕而の元に依頼が殺到。野球を中心とした応援歌をいっぱい作るんですね。で、かかるのが「六甲おろし」という俗称で有名な「阪神タイガースの歌」(もともとは「大阪タイガースの歌」)。次が阪神のライバルチームである「巨人軍の歌」、俗称は「闘魂こめて」。

そして4曲目にかかったのがこれ。




「オリンピック・マーチ」。作られたのはもちろん東京オリンピックの年、1964年。

ちなみにこの次にかかるのが翌65年に作られたクレージー・キャッツの「ホンダラ行進曲」。いかにも大瀧さんらしい流れ。


さて、少し前のこと、古関裕而についてちょっと調べようと思って検索しかけたら、トップに「古関裕而 朝ドラ」なんて項目が出てきて何だろう?と思ったら、2020年の東京オリンピック・パラリンピックを盛り上げるために、古関裕而の出身地の福島市と妻の金子の出身地の豊橋市が朝の連続テレビ小説放映の実現に向けて、「古関裕而・金子夫妻NHK朝の連続テレビ小説実現協議会」を設立して署名活動を開始したとのことが。

福島市のサイトによると「「長崎の鐘」「栄冠は君に輝く」など生涯約5,000曲を作曲した本市名誉市民・古関裕而氏の作曲活動を支えた妻・金子氏の個性豊かな姿、そして1964年東京オリンピックに沸き立つ日本の姿と古関裕而氏による「オリンピック・マーチ」作曲までを描く」ドラマを考えているようです。


いや、びっくりでした。でも、なんとなく実現する可能性は高そう。

でも、朝ドラの主人公(といっても朝ドラの主人公は女性なのでヒロインは妻の金子になるようですが)なんかになると、関連する本やらCDやらがどどっと出るんでしょうね。個人的には東京オリンピックなんて今からでもやめるべきだと心の底から強く思っている人間ですが(先日作られたとんでもない法律のように、オリンピックのためにとか、オリンピックに向けてということの中で行われることはろくなものがないので)、古関裕而がドラマになるというのはちょっと期待する部分もあります。さて、どうなるんでしょう。

ただ、あまり悪いことは考えたくありませんが、日本という国は、あるいは東京は、オリンピックまで大丈夫なんでしょうか。かりにオリンピックができたとしてもその後にかなり悲惨な反動が来ることは十分予想されることだけど。


「大瀧詠一的2009」で、大瀧さんはこんなことを言っていました。


「一回廃墟になったときに古関裕而のあの(「ひるのいこいのテーマ」の)メロディーを流して、みんながどんな反応をするのか俺は見てみたい」

と。

さらにこんなことも。


「そんなときは、これは誰が作ったとか考える余裕がないわけ」

大瀧さんは自分の曲についても「”あの”大瀧詠一が作った」とかではなく、匿名性の中で聴かれるのを理想と考えているところがあって、その意味では古関裕而という人はあまりにも有名な曲がありながら、ほとんど名前は知られていなくて、「”あの”古関裕而が作った」なんて語られることがないので、その意味でも古関裕而の曲こそが音楽としての理想の形と考えていたのかもしれません。

でも、朝ドラの主人公になったりすると、当然、「”あの”古関裕而」という形で語られることが多くなりますね。


[PR]
by hinaseno | 2017-06-21 14:43 | 音楽 | Comments(0)

昨日は原節子さんの誕生日、でしたね。

本当は昨日、「今日は原節子さんの誕生日」と書き始める予定でしたが、書くための時間を十分とることができませんでした。


原節子さんの誕生日といえば、え~っといろいろありましたね。まずは東京のシネマヴェーラ渋谷という映画館(名画座です)でミュージカル映画特集の初日。今日はフレッド・アステア主演の『有頂天時代』が上映されます。野口久和 THE BIG BAND with “BREEZE”のライブで、BREEZEの新曲として歌われた「Pick Yourself Up」をはじめ石川さんの大好きなジュローム・カーンとドロシー・フィールズの曲がいくつも使われている映画。DVD買おうかなと思いつつ、やっぱり映画館で見たいですね。石川さんは行かれるんでしょうか。うらやましいな~。こんな名画座が近くにあればと思いつつ、名画座の経営は大変なんでしょうね。

「名画座」といえば世田谷ピンポンズさんに「名画座」という曲があります。本当に素晴らしい曲で大好きな1曲。そのピンポンズさんのライブをはじめ最近では益田ミリさんの『今日の人生』について語り合う会など、姫路のおひさまゆうびん舎で行われたいくつものイベントでご一緒させていただいてすっかり顔なじみになったKさん(星くずさんと呼んだ方がいいのかな)のご友人のいとこの方がなんとシネマヴェーラ渋谷のオーナーなんだそうです。名前は内藤篤さん。内藤さんは『円山町瀬戸際日誌』という本を出されているとのこと。

Kさんのご友人は世田谷ピンポンズさんの「名画座」が気に入って、「名画座」が収録された『天井の染みを数えている間に』を買われたそうです。ピンポンズさんの歌に出てくる名画座はとり壊されてしまうのですが、シネマヴェーラ渋谷はずっと続いてほしいですね。

それにしても縁というのは不思議なもの。


縁といえば、僕が東京に行った日に、アゲインのイベントにいらっしゃっていたのが作家で翻訳家の松本侑子さん。その松本さんも昨日が誕生日。つまり原節子さんと誕生日が同じなんですね。

その松本さんがアゲインのイベントでも紹介されていた『みすゞと雅輔』(石川さんからいただきました)をちょっとずつ読み進めています。たぶん今日か明日くらいに読了するはず。この本、僕がよく行っている大きな書店の棚に表紙が見えるような形で5冊くらい置かれていました。よく売れているみたいですね。

昨日読んだところでちょっと驚いたのは金子みすゞの弟である上山雅輔が上京して住むようになったのがなんと大田区の矢口。そこって、あの未来門や新田神社のある場所の地名。彼はその矢口から金子みすゞに何度も手紙を出していたんです。住所がどこだったんだろう。手紙は残っているようなので、松本さんはきっと住所をご存知のはず。

ということで改めて武蔵新田周辺の戦前の地図を。

a0285828_11452567.png


僕は池上線の千鳥町駅から慶應大学のグラウンドの野球場の端の方を通って武蔵新田駅に行き、そして石川さんと高橋さんといっしょに新田神社まで歩いたわけです。

で、その新田神社近くの喫茶店で三人で話していたときに石川さんが口にしたのが「古関裕而は誕生日が僕と同じ8月11日で、人に言うとたいてい『へえ~』で終わっちゃうんだけど、これは僕にとってすごいことなんだ」という言葉。

もちろん僕はそれはすごいことだと思っています。あの古関裕而と誕生日が同じなんですから。話のきっかけは、前日、僕がアゲインに行ったときに最初にかかったのが古関裕而の「長崎の鐘」だったんで驚いたという話をしたこと。この日ニコライ堂に行っていたので「ニコライの鐘」だったらもっとよかったんだけど、と。

考えてみたら、石川さんの実家のある慶大グラウンドの野球場ではもちろん早稲田との試合が何度もあったはず。で、早稲田といえば昭和5年に作られたこの応援歌。タイトルは「紺碧の空」。この曲を作ったのも古関裕而。




ちなみに古関裕而は慶応の応援歌も作っていますが、それが作られたのは武蔵新田のグラウンドがなくなった後のこと。でも、古関裕而の作った歌が何度もこの辺りにこだましていたはず。


そういえば「こだま」といえば東日本大震災の後、テレビのCMで流れ続けていたのが金子みすゞのこの「こだまでしょうか」という詩でした。あまりにも何度も流され続けていたので、逆にある時期からはもう聞きたくないって感じになっていましたが、改めて読むといい詩です。


「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。 

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

その東日本大震災が起こったとき、ある人の心に流れ続けていたのはこの曲でした。NHKのラジオ番組「ひるのいこい」のテーマソング。作ったのは古関裕而。ある人というのは大瀧さんでした。




[PR]
by hinaseno | 2017-06-18 11:47 | 音楽 | Comments(0)