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by hinaseno
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雪ケ谷?

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画面に映った手紙の宛先の住所に記された地名を見て、ちょっと首をひねる。「ゆきがたに」? 

大森区、現在の大田区の地図は何度も見ていたけれどもピンとこない。どこだろう。実際に存在する地名なんだろうか。堀江敏幸さんの小説に出てくる架空の町「雪沼」を思い浮かべてしまう。いつもだったらここでストップして地図で場所を調べるけれど、もう少しドラマを見続ける。


見ていたのは小泉今日子さんが出演している久世光彦演出の向田邦子新春ドラマシリーズの一つ『終わりのない童話』。小泉さんが出ていることもありましたが、タイトルに惹かれるものがあって、ずっと見たいと思っていましたがようやく。

舞台はやはり東京・池上。例によって池上本門寺の大坊坂の石段を登ったところに家があるという設定。長女はいつものように田中裕子さん。ただこのドラマではこの家に住むのは3姉妹ではなく、姉と妹のほかに男の兄弟がひとり。妹役を演じているのは小泉今日子さんではありません。

主人公の田中裕子さんがある日、お寺の境内のはずれで不思議な老人に出会います。「転向」という過去を持っている人ですが、童話を書いている。その人の住所が雪ケ谷。そしてその家の一人娘が小泉今日子さんでした。


池上に住んでいる田中裕子さんはある日お見合いをすることになります。偶然にもその相手の男性も雪ケ谷の人。こんな会話がなされます。


「お宅が池上だとすると、同じ電車に乗り合わせているかもしれませんね」
「どちらですか」
「雪ケ谷(ゆきがや)です」

この電車はもちろん池上線ですね。とすると雪ケ谷は池上線の駅。地図を調べたら雪が谷大塚駅というのを発見。そうかここだったか。

で、先ほどの手紙の住所を確認。

「大森區雪ケ谷廿八」

例によって戦前の地図を見たらその番地が載っていました。この地図の青丸で示した場所。

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すぐそばに池上線が走っています。そこには笹丸橋との文字。ネットで調べたらその笹丸橋の下を池上線の電車が走る写真(1957年ごろ)がありました。このあたりは谷になっているんですね。

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ところで地図をよく見たら「雪ケ谷廿八」の最寄りの駅は石川台。石川台といったら、なんといっても小津安二郎の『秋刀魚の味』のこのシーンですね。

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岩下志麻さんが立っているのは石川台駅のホーム。ホームの表示を見ると隣が「雪が谷大塚」と「洗足池」。で、「雪が谷大塚」の方から電車が入ってきます。

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この電車は洗足池、長原、そして平川克美さんの隣町珈琲のある荏原中延を通って五反田に向かいます。


さて、田中裕子さんはある日思い切って雪ケ谷に住む老人に会いに行きます。こんな番地が書かれたものが取り付けられた電柱が映りますが、もちろん全てセット。

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ただし線路に近いことを示すためか電車が走る音が聞こえます。玄関を入るとそこに小泉さんが現れます。『風を聴く日』で演じた次女とは違って不思議な役柄。でもとても魅力的。

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ドラマで見たのはここまで。このあと一体どんな物語が展開するんでしょうか。

ところで雪ケ谷に住む老人から田中裕子さんのところに手紙が届きます。その手紙に書かれていた住所は『風を聴く日』の住所「東京市大森區池上本町十九番地」とは番地が違っていました。

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「東京市大森區池上本町一三八」。

地図の青丸をつけた場所にありました(赤丸で囲んでいるのは唯一ロケがされている大坊坂の石段)。

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近くに流れているのは呑川ですね。そこに長栄橋という橋がかかっています。現在もあるようですね。

それにしても住所がはっきりと示されているのは小泉さんが出演するドラマだけ。実際にはそこでロケをされていないにしても、それぞれの場所がとても身近に感じられます。


(追記)雪ケ谷大塚駅は昭和18年までは雪ケ谷駅という名前だったようです。つまりこのドラマで設定されている時代には雪ケ谷駅でした。


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by hinaseno | 2017-02-28 13:27 | 雑記 | Comments(0)

画面に表札が大きく映し出される。例によって静止画像に。そこには番地まで詳しく書かれています。

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この家に住んでいる3人姉妹の次女役を演じていたのが小泉今日子さんでした。ドラマのタイトルは『風を聴く日』(1995年放送)。ドラマの原案は向田邦子。演出はもちろん久世光彦。久世さんは高校に行かなかった小泉さんにいろんなことを教えて、小泉さんにとっては「恩師と言える唯一の存在」でした。小泉さんが浜田真理子さんと続けている「マイ・ラスト・ソング」は恩師の久世光彦に捧げたもの。


小泉さんが向田邦子原作(原案)、久世光彦演出のドラマに出ていたことを知ったのは最近のこと。これはシリーズとしてTBSで毎年新春にスペシャルとして放送されていたようですが、もちろんリアルタイムでは見ていません。配役は母親が加藤治子、姉妹(ほとんどは3姉妹)の長女は田中裕子というのは決まっていてあとはいろいろ。小林薫はいろんな役でよく出ています。

小泉さんが出演していたのは1995年放送の「風を聴く日」と1998年放送の「終わりのない童話」の2本と、TBSではなくNHKで1990年に放送された「振りむけば春」。このうち「風を聴く日」と「終わりのない童話」が先日TBSチャンネルで再放送されてようやく観ることができました。

このシリーズ、「風を聴く日」が放送される前に何本か観ましたが、舞台はいずれも東京、池上。そう、例の池上線の池上駅があるあたり。このシリーズが池上を舞台にしていることは川本三郎さんが書かれていたエッセイで知っていましたが、いったいそれが池上のどのあたりなのか、実際にロケが行われているのかとずっと気になっていました。それがようやく。

まず、ロケが行われている場所はどのドラマも同じ。この階段だけで他はほぼ全てセット。

これは「風を聴く日」の冒頭のシーン。女学生の3女が階段を駆け上がっています。テロップには「東京・池上」。

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このシーンが写るときに必ず流れるのがこのナレーション。語っているのは黒柳徹子。


「その頃、私たちのうちは池上本門寺裏の石段の上がったところにありました」


さて、この石段、例によってストリートビューを使って探しましたが、残念ながらストリートビューで石段を見れた場所は一箇所だけ。それは一番大きな石段で、ドラマに映るものとは違っていました。こんなとき、近くに住んでいれば歩いて探すのですが、それができないので仕方なく本を当たることに。運のいいことにたまたま立ち寄った書店に置かれていた久世光彦の『嘘つき鳥』に書かれていました。

「大坊坂」

ネットで写真を見たら間違いありません。

では、姉妹たちが住んでいた家は。ナレーションでは「私たちのうちは池上本門寺裏の石段の上がったところにありました」となっていますが、この石段の上は本門寺の境内。普通の民家はありません。

ちなみにドラマに登場する家はどれもセット。門につけられた表札も名前しか書かれていないものばかりでした。ところが小泉さんが出演した「風を聴く日」に映った表札に住所が詳しく書かれていたんですね。

「東京市大森區池上本町十九番地」

もしかしたらと思って番地まで書かれた戦前の地図を見たら、なんと19番地がありました。地図の青丸で示した場所。ちなみに赤丸で囲んでいる石段が大坊坂。

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ナレーションとは違って石段の下、というか石段を上がって右に曲がって坂を降りたところにありますね。この十九番地の家に帰るためにわざわざあの石段を上る必要はなさそうです。


これが現在の地図。

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右上の本門寺近くの青丸が池上本町十九番地。そして赤い線が石段のある大坊坂。例の武蔵新田からは(ティール・グリーンからも)そんなに離れていません。そもそも武蔵新田のことを調べたきっかけも、元をたどれば小泉今日子さんの「快盗ルビイ」。その小泉さんがドラマの上とはいえ池上のあの辺りに住んでいたとなっているのも不思議な縁です。

ところでこのシリーズは向田邦子さんが脚本を書いているのではなく、彼女のエッセイなどをもとにして別の人が脚本を書いているんですね。小泉さんはこのシリーズのドラマについてこんなことを語っていました。


向田さんが書いた作品に出ることが、私の夢だったんです。だから、一度もお会いできなかったことは、すごく残念でしたね。久世さん演出の向田邦子シリーズには何本か出させていただいたので、夢の半分は叶ったんだけど、やっぱり、向田さんにあて書きで書いていただきたかったなあって。
昔のドラマは放送時間も長かったし、キャラクターや俳優さんのいい部分を伸ばしていくために、よくあて書きをしたんです。向田さんのドラマを見ていても、この台詞は向田さんがこの役者さんに言わせたかったんだろうなとわかるんですね。私もそういう経験をしてみたかったなあと。「下手くそ」っておっしゃって、使われなかったかもしれないけど。(笑)

これはドラマのワンシーン。

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小泉さんが手にしているのはビング・クロスビーのレコード。このドラマは昭和14年の暮れから翌15年の正月までを描いているのですが、数年後にはこんなレコードを聴いてはいけない時代がやってきます。

蛇足ですが「風を聴く日」の小泉さんの役名は原澤晶子(あきこ)。ウィキペディアは長沢晶子と間違って表記しています。


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by hinaseno | 2017-02-26 15:09 | 雑記 | Comments(0)

Town Girl Blue


心待ちにしていた浜田真理子さんの新作『Town Girl Blue』が発売されました。

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1曲目のイントロのピアノを聴いただけで、もうたまらない気持ちに。ここでちょっと聴けますね。




最初に流れてくるのが1曲目に収録された「彼方へ」という曲。個人的にはこれがアルバムのベストテイクだと思っています。詞も素晴らしい。


この1曲目に限らず、浜田さんの作った曲は初めて聴くのに懐かしい気持ちになってしまう。浜田さんの歌い方を含めて、まるで大人のための童謡のよう。ジャケットや、インナースリーブに(たぶん)浜田さん自身の少女自身の写真が添えられていることから、やはりこの作品のテーマは大人のための童謡なのかもしれません。でも、タイトルに「Blue」という言葉が添えられているように、このアルバムは悲しみの成分の方が多い。いや、考えてみたら童謡というのは悲しい曲が多いですね。

曲は全部で11曲。そのうち浜田さんのオリジナルが6曲(うち2曲はピアノによる演奏だけ)。カバーされた5曲のうちで知っているのはレニー・ウェルチが歌って大ヒットした「Since I Fell For You」だけ。この曲は1989年にジョニー・マティスが出した『In the Still of the Night』で知って大好きになった曲。これですね。




浜田さんはこの曲をアルバムの中では最もハードな調子で歌っています。本当にいろんな歌い方ができる人。だからこそ、例の小泉今日子さんと行なっている『マイ・ラスト・ソング』で様々なタイプの昭和の曲を歌うことができているんですね。

そういえばこの曲のジャケットには小泉今日子さんの紹介文が書かれたシールが貼られています。こんなコメント。


久保田さんが連れてきた夕焼けを
真理子さんの声が青い夜の色に染めてゆく。
このアルバムを聴くことは大人の嗜みのような気がした。
小泉今日子

久保田さんというのはこのアルバムを全編プロデュースした久保田麻琴さんのこと。夕焼け楽団の人ですね。小泉さんの言葉の中に「夕焼け」が出てくるのはそれもあってのこと。でも、短い言葉でうまく表現されますね、小泉さん。久世光彦さんが彼女の文才を認めたのも頷けます。

この小泉さんのコメントが書かれているシール、CDを保護するためのビニールに貼られているので、いつものようにビニールを剥ぎ取って捨てるわけにはいきません。ってことで、最初はCDを取り出す部分だけ破りました。

でも、それだとジャケットの裏のクレジットが見えないので、結局ビニールを全部剥ぎ取った後で、同じ位置にシールを貼ることにしました。

で、クレジットを見たら一つ気になったことがありました。それは2曲目の「You don’t know me」でギターを弾いている徳竹博文という名前。これって徳武弘文さんのことでしょうか。誤植なのか、あるいは徳武さんがこういう表記をされるようになったのか。あるいは全くの別人?


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by hinaseno | 2017-02-23 13:09 | 音楽 | Comments(0)

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『Don Kirshner: The Man with the Golden Ear』の筆者のリッチ・ポドルスキーがジャック・ケラーの葬儀に行った時に、その会場に「Beats There A Heart So True」が流れていきたというのはなんともたまらない話でした。その曲を耳に留めることができたのは、筆者のジャック・ケラーがその曲を愛していたことをリッチさんが知っていたからこそ。

ところでその会場で流されていたというジャック・ケラーが作って全部で80曲が収録されていたという4枚組のCD、気になりますね。知人に配るためにあくまで個人的に作ったもののはずなので、僕が手にすることなんてまず不可能。ただ、なんとかその80曲の曲目がわからないだろうかといろいろと調べていたらわかりました。

このリスト

タイトルは「Jack Keller's CD Set。こんな言葉が添えられています。


This CD contains 80 songs recorded by the biggest artists in the music business.


リストを作成したのはジャック・ケラー本人。このリストが載っているサイトもジャック・ケラー自身が作成したもの(ちなみにウィキペディアに貼られている、おそらくコンプリートのリストを作っているのもジャック・ケラー)。

このリストは80曲がアルファベット順に並んでいるので、4枚組のCDにどのように振り分けられていたのかはわかりませんが、単純に考えれば1枚20曲。ジャック・ケラーが作ったCDのカバーには「TV Themes-Golden Oldies-Jazz-Swing-Disco-Bubblegum-Novelty and Motion Picture Title Songs」と書かれていたということですが、ジャンルごとに分けられていたのか、あるいは単純にあのリストの通りアルファベット順に20曲収録されていたのかもしれません。

ちなみに今僕の手元にある音源はそのうちの70曲ほど。ジミー・クラントンの「 Venusu In Blue Jeans」やボビー・ヴィーの「Run To Him」なんかはもちろん収録。でも、コニー・フランシスの「Standing In The Ruins (Of Our Old Love Affair)」や「Call Me Crazy」という曲はどこに存在するんだろう。録音したけどボツになったんでしょうか。他にも公になっていないはずの曲がいくつか。

意外な曲も収録されています。たとえば日本で一番有名なジャック・ケラーの曲である「恋の片道切符(One Way Ticket)」はニール・セダカの歌ったものではなくEruptionというグループの歌ったディスコヴァージョン。知りませんでした。


ジャック・ケラーのこのサイト、例のトニー・オーランドや(僕の最愛の女性ソングライターのひとりである)トニ・ワインと再会した例のオールディーズのクルーズがリンクされているので、おそらく2004年頃に作り始めたのではないかと思います。でも入院のために中断。ちょっと回復して家に戻れた時に書き加えていたかもしれませんが、結局、不完全な形のままになっています。

興味深いのは自分の歴史を語った部分。Chapter Twoまで書かれていて、”I Met Neil Sedaka”と題されたChapter Threeは項目を作っただけ。2010年に放送された達郎さんの「サンデーソングブック」のジャック・ケラー特集で語られたことの多くはここのChapter One とTwoに書かれたものからの引用されていたはず。

「Beats There A Heart So True」の話は彼の最初期の音楽活動に触れたChapter Twoに書かれています。この曲に対する彼の思い入れの深さを感じることができます。彼自身、亡くなる前に最も思いを馳せ、聴いていたのは「Beats There A Heart So True」だったと言えるかもしれません。

そのページには雑誌に掲載されたこんな広告が貼られています。

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この広告を見ると「Beats There A Heart So True」の方が「Moon Talk」よりも先に書かれていますね。で、その下に貼られているのが1958年8月16日付のチャート。3曲に印をつけていますね。

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カップリングの「Moon Talk」が最高位の29位、同じ時に「Beats There A Heart So True」も44位にランクされていますね。かなりのヒットと言えますが、ペリー・コモのなかではこの程度のヒットはざら、というかこの程度ではヒットとは言えないので彼のベストもののCDにはなかなか曲が収録されることがないんですね。

ところでもうひとつ5位のところに丸が付いています。Kalin Twinsの「When」という曲。実はこのシングルのB面の「Three O' Clock Thrill」という曲がジャック・ケラーとノエル・シャーマンの書いた曲でした。


このChapter Three、もう少し下の方に興味深いことが書かれていました。彼がフランキー・アヴァロンに書いた「I'm Broke」という曲のこと。




大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝」でも語られていましたが、フランキー・アヴァロンはデビュー当時はとにかく歌

が下手で、しかもその下手さを隠すためなのか鼻にかけたような声でおかしな歌い方をしていました。正直、とても聴くには耐えないものなんですが、でも、それなりにヒットしていたんですね。で、ジャック・ケラーに依頼が来たときに、彼は同じような路線の曲を作ろうとして、鼻にかけたような声で歌ったデモを作ったみたいで、それがこのページに貼られていたようです。聴きたかったな。

ところがある日、車でラジオを聴いていた時にDJが「さあ、フランキー・アヴァロンの新曲です」と言って、流れてきたのがこれだったんですね。




そう、あの「ヴィーナス」。このサウンドが大瀧さんの「風立ちぬ」にいかに影響を与えたかについてはこのブログで何度も書いてきました。

ジャック・ケラーは曲を信じれない思いで「ヴィーナス」を聴いたようです。まるで若いシナトラのような声。あの鼻にかけた変な声はどこにいったんだって感じですね。で、「自分の書いた『I’m Broke』は『Venus』のB面にまわされていた」と。

確かにフランキー・アヴァロンの曲をデビュー当時から順番に聴いてみるとちょっと信じられないんですね。ジャック・ケラーの気持ちもよくわかります。こんな歌い方ができると知っていれば彼もそれなりの曲を書いただろうから。ただ、この「ヴィーナス」の大ヒットでかなりの額のお金が入ったみたいですが。

でも、きっと「ヴィーナス」という曲に対しては少し恨みがましい気持ちを持っていたに違いないはずの彼が、タイトルに「ヴィーナス」と入ったこの曲で大ヒットを出すんですから、なんともおもしろいですね。




ジャック・ケラーがもう少し長生きしていばきっとそのあたりのことも書いたんでしょうね。あるいは大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝」が続いていれば語られたはず。

いうまでもありませんがそのあたりの事情、つながりを熟知した上で大瀧さんはあの「風立ちぬ」を作っているわけです。「Venus In Blue Jeans」だけで「風立ちぬ」を語るのは片手落ち。大瀧さんは何かを引用するにしても、つねにその前史を見ている人ですから。

ところで「ヴィーナス」と比べたらあまりにも安っぽくて適当に作ったとしか思えないような「I'm Broke」もアレンジは「ヴィーナス」と同じピーター・デ・アンジェリスですね。


いずれにしても、これほど数々の名曲を作っている偉大な作曲家でありながら、ドン・カーシュナーが語っていたようにジャック・ケラーほど過小評価されている人はいないですね。同じアルドン系のスタッフライターの作品を集めたコンピレーションが山ほど出ているのに、彼の作品集は1つもない。宮治さん、やってくれないかな。日本独自編集で。ジャック・ケラーが選曲したあの80曲に、そこからもれた素敵な曲を20曲集めたCDをもう1枚プラスして5枚組計100曲で。お金いくらでも出します(上限はあるけど)。

それから野口久和さんにはビッグバンド with BREEZEで「Beats There A Heart So True」を演奏し続けてほしいですね。一度生で聴いてみたいけど、願わくば次に出されるCDに収録してもらえたらと。


願いといえばジャック・ケラーのそのままになっているサイトにはContact Meというのがあってそこをクリックしたら、今もメールが出せるようになっていました。

で、ふと、思いついて彼にメールを出してみました。岩井俊二の映画『LOVE LETTER』のように。もう1週間くらいになるけど、返事はまだ来ません。でも、いつか天国にいる彼から返事が来るのではと密かに願っています。


最後に「Beats There A Heart So True」の歌詞を載せておきます。本当は訳も載せようと思っていたのですが、どうしてもうまく訳せませんでした。日本語に訳すとこぼれおちてしまうものがたくさんありすぎて。それにしても作詞家のノエル・シャーマンもこのとき28歳くらい。すごいですね。あの6つの音符に「Beats There A Heart So True」という6つの単語を入れたことも。


 Someone who would try to understand
 Someone who'd be thrilled to touch my hand
 And through all eternity
 She'd be good for only me
 Beats there a heart so true?

 Someone who could make her lips so warm
 That my lonely heart could brave each storm
 Someone who'd be miles away
 Still within her heart I'd stay
 Beats there a heart so true?

 Or, did I ask too much, when I met you?
 Or, was the task too much to just be a little true?
 I've been told it only hurts a while
 But my broken heart won't crack a smile
 Till that someone comes along
 With a love that proves me wrong
 Beats there a heart so true?

 I've been told it only hurts a while
 But my broken heart won't crack a smile
 Till that someone comes along
 With a love that proves me wrong
 Beats there a heart so true?
 So true



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by hinaseno | 2017-02-21 14:58 | 音楽 | Comments(0)

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Rich Podolsky 著『Don Kirshner: The Man with the Golden Ear』より


葬儀はナッシュビルの郊外のブレントウッド市にあるCongregation Micahという場所で行われた。アーティー・カプランと長年の友人であるボブ・フェルドマンが南フロリダから車でやって来た。トニー・オーランドとトニ・ワインは飛行機でやって来て、ほかの数多くの親しい友人や親戚が到着した。

式は4月4日の月曜日に行われた。式が始まる前、参列者は教会に入るときにスピーカーから流れてくるジャック・ケラーのヒット曲のテープを聴くことができた。その時に流れていた曲の1つが美しいバラード、「Beats There A Heart So True」だった。それは彼が1958年にノエル・シャーマンと書いた曲だった。そしてそれは43人編成のオーケストラとレイ・チャールズ・シンガーズの助けを借りてペリー・コモによって録音された。ジャック・ケラーが書いた最も美しいメロディといえるかもしれない。その曲は深い愛を見事に歌っていた。


 Someone who'd be miles away

 Still within her heart I'd stay

 Beats there a heart so true?


その曲は心臓の鼓動の音で始まり、終わっていた。彼が自分の友人たちのために作ったCD4枚組のボックスセットのライナーノーツで、ケラーは「Beats There A Heart So True」について「これはこれまでで僕が最も気に入っているレコーディングの1つだ」と書いていた。ジャックはその曲が大好きだったので、それを特別なものとしてボックスセットの1枚目のCDに収録していた。その4枚組のCDボックスのパッケージのタイトルはバンドリーダーだった彼の父親が宣伝のときに使っていた「Music for All Occasions(あらゆる機会のための音楽)」という言葉だった。

そのボックスセットの派手な赤色のカバーにはこう書いてあった。「Music for All Occasions Written by Jack Keller-TV Themes-Golden Oldies-Jazz-Swing-Disco-Bubblegum-Novelty and Motion Picture Title Songs-4 CDs-80 Songs-80 Recordings -With personal memories from the composer」。


(このあと何人かの参列者のスピーチが紹介されますがその部分は省略)


葬儀を終えて家族が家に戻ったとき、彼らはものすごい量のごちそうが配達されているのを発見した。そしてそこにはドン・カーシュナーからの手書きの短い手紙が添えられていた。なぜ葬儀に行けなかったかを説明した後で、彼はこんなことを書いていた。


ジャック・ケラーは私が一緒に仕事をし、彼を知り、彼を愛するという幸運に恵まれた友人でした。それに加えて、彼は私たちの世代の中で最も優れた、最も過小評価された作曲家の一人でもありました。彼のすぐれた音楽的才能のおかげで、彼はレコード、映画、テレビで世界中に永遠の遺産を残しています。私たちはみんな、いろんな形で私たちの人生に関わっていたジャックを知ったことで大いに豊かになりました。


*  *  *


ケラーが亡くなる数ヶ月前、彼は自宅に戻ってジェリー・ゴフィンと連絡を取っていた。彼らはいっしょに最後の曲を書こうとしていた。ケラーはゴフィンにまだ未完成のメロディーを送った。ゴフィンはそれに取りかかり始めていたものの、仕上げることができなかった。ジャックが亡くなった後、ゴフィンはそれをアーティ・カプランに送った。カプランはそれに手を加えてメロディーと歌詞を完成させた。ゴフィンはその曲を「HIts In Heaven」と呼ぶことに決めた。


 And when I reach that very sad

 I knew we’ll be together my old friend,

 So say a prayer for me and ask heaven to be kind,

 And we’ll have hits in heaven, yes we’ll have hits in heaven,

   one more time


*  *  *


Jack Keller; November 11, 1936-April 1, 2005. Beats there a heart so true.



(「Beats There a Heart So True」の章の翻訳は以上です。次回、「Beats There a Heart So True」についてもう少し触れて、この長い話を終わろうと思います)


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by hinaseno | 2017-02-20 12:36 | 音楽 | Comments(0)

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Rich Podolsky 著『Don Kirshner: The Man with the Golden Ear』より


少年の頃、ジャック・ケラーは父方の祖父を知らなかった。ジャックの父、マル・ケラーはジャックが14歳の時に亡くなった。孫が生まれるのを見るまで長生きできないというのがケラー家の男に4世代も続いていた。

彼の家系に引き継がれている心臓の問題をよくわかっていたので、ケラーは自分自身を絶えず監視していた。適切なダイエットと運動、それから医者の用心深い目を通して、ケラーは長生きして、いつか自分の孫と遊ぶことを願っていた。彼と彼の妻のロビは4人の子供をもうけたが、そのうちの最初の2人は養子だった。

1998年、ケラーは胸に締め付けられるような痛みを覚えた。何が起こっているのかわかったので、5分もかからないうちに自分で車を運転して病院に向かった。3つのバイパスが施されて、文字通り人生に新たなリースを提供することになった。数年後、3人の孫のうちの一人目が生まれた。

2004年3月に、ケラーが演奏者として参加したオールディーズのクルーズのおかげで、彼はトニー・オーランド、トニ・ワイン、そしてロン・ダンテとの素晴らしい再会を果たした。

クルーズ船での温かな再会はケラー家をナッシュヴィルから車で行ける距離の中で行われるオーランドのショーへ連れ出すことになった。2005年2月10日に彼らは車に荷物を詰め込んで4時間も運転してエヴァンスヴィルやインディアナに行ってトニー・オーランドとトニ・ワインのショーを見た。このときオーランドはジャックを聴衆に紹介するだけでなく彼にステージに上がって何か演奏するように頼んだ。彼が演奏に選んだのはただ1曲、『奥さまは魔女(Bewitched)』だった。観衆から盛大な拍手喝さいをあびた。

そのショーの後、ケラーは彼が持参していたあるものでオーランドを驚かせた。それは何年も前の記憶を呼び起こすものだった。

「僕が最初にジャックに会ってから44年も経って、僕が16歳だった時に彼に書いた手紙を彼は自分のスーツケースから取り出したんだ」とオーランドは言った。「手紙は汚れもなくまっさらだった。しわひとつなかった。彼が完璧な形でこの手紙を保管していた場所にはさらに僕を驚かせるものが入っていた。それは僕の最初のナイトクラブから僕が歌ったプログラムだった。彼が僕にその手紙を見せてくれた時、とりわけ強く印象に残っているのは、彼のことをいかに大切に思っているかということと、彼が44年間も当時のものを汚れもなくまっさら形で保管していたということがだった。それから彼は1枚の写真をひっぱり出して僕に尋ねたんだ。『これは君のおじさんのジョニーじゃないのかい?』って。僕は22年間もおじのジョニーに会ってはいなかった。しかもその写真はまるでポラロイドから出てきたばかりのように色あせていなかった。

2005年のその週、ケラーはナッシュビルに戻った後微熱を出して、それはなかなか下がらないように思われた。その週には3日間のセッションをプロデュースすることになっていたので、彼はAdvilという薬を使ってなんとか熱を抑えようとした。でも、薬を飲むのをやめるとすぐに熱が出た。

2月18日までに、ほとんど恢復の糸口をもたらすことのない何度かの血液検査のあと、ケラーは「僕の血液の血小板は低いんだ。私が知っているのはそれだけだ。癌だとは思わない」と言った。

「僕は彼のことを心配している」とアーティー・カプランは言った。「その音が好きではない」と。

3月2日に、ケラーはさらなる検査を受けに行った。このとき彼は入院させられた。3月7日の月曜日までに彼は悪い知らせを受け取り、それを披露してくれた。彼はNK T細胞白血病と診断されていた。”NK”とは”ナチュラル・キラー”を表している。この状態の白血病と診断された平均的な患者はたった55日間しか生きられなかった。でもジャックはよくなると確信していた。

「医師たちは熱を抑えて僕が家に戻ることができると自信を持っているよ」と彼は僕に話してくれた。「もしそうなったら、いろんなこと[彼の仕事]を順番にこなすよ。僕は何年も自分の心臓のことを心配していたのでそのようなことが起きただけだよ」と。

ケラーはできるだけ聞き手にわかりやすく教えてくれた。彼はそうするほどに強かった。その日彼の少年時代からの友人であるアーティー・カプランとの話を終えた時、彼はこう締めくくった。「愛してるよ」と。カプランはナッシュヴィルへ飛行機で飛んで行く計画を立てた。

次の2週間はジャック・ケラーにとっては良好だった。熱がひいて彼は本当に自宅に戻って物事を順番にこなすことができた。その間、彼は昔の仲間みんなから電話を受け始めた。ジェリー・ゴフィンが最初に電話をかけ、それからジェリー・リーバー。ドン・カーシュナーも何度も彼に電話をかけた。ケラーの子供のころからの友人であるブルックス・アーサーも電話してきて昔の喧嘩の収拾をした。トニ・ワインは彼に会うためにナッシュビルに飛んできて1週間滞在した。


この本を執筆する過程で、私たちが行なった数多くの会話を通してジャックと私は親密な間柄になることができた。彼は私にナッシュビルに来て、本のために彼が持っている写真や記念のものなどを集めるようにすすめてくれた。私は彼の健康のことを心配していたので、言われた通りにきちんと飛行機のチケットを予約した。


時はあっという間に過ぎ去り、友人たちもそれを知っていた。「だれが電話してくれたか君は絶対にあてることはできないはずさ。信じられなかったよ」とケラーが私に話してくれたのは3月19日のことだった。「僕が電話に出たら、こんなことを言う声が聞こえたんだ。『ジャック、キャロル・キングよ』。僕たちは1963年に戻ったみたいに話をしたよ。素晴らしいことだった。気になっていたことがようやく解決したんだ」

その電話の前、ケラーとキャロル・キングはほぼ30年間連絡を取り合っていなかった。2002年にキングがセミナーのためにナッシュヴィルにやってきたので、ジャックは彼女に会うためにそのセミナーの終わり頃に立ち寄った。彼は二人でコーヒーを一杯飲むことができないかと頼んだが、彼女のマネージャーが彼女を振り払うように行かせたので、二人は結局話をすることができなかった。ケラーは昔の友達を失ってしまったのではと気にしていた。でも、彼女の電話がすべてを変えた。「今、私たちについてはすべてがうまくいっているとわかったよ」と彼は言った。

「それから君に教えるけど、他に誰が電話してくれたと思う? バリー・マンとシンシア・ワイルだよ。キャロルがきっと彼らをまきこんだにちがいないけどね。それからジェリー・リーバーが電話してきたんだ。彼は僕のことを偉大な作曲家だと言ってくれたんだ。想像できる? あの偉大なジェリー・リーバーがそんなことを話してくれたなんて」

3月20日に、そんな人たちすべてをまとめあげていた人物のドン・カーシュナーが電話でジャックと話をした。「僕は彼にジェリー・リーバーが言ってくれたことを話したよ」ジャックはそのときのことを思い出す。「ねえ、ドニー(ドン・カーシュナー)が僕に何と言ったと思う? 彼はこう言ったんだよ。『私は君が偉大な作曲家であるということを君に話した最初の人間だよ』と。君は彼を大好きになるよ」と。

死が差し迫っている人間として、彼はきっとみんなにさよならを告げることを楽しんでいた。それから熱が再びぶり返して彼は病院に戻った。


2005年3月31日木曜日の夜、午後11時30分、ケラーは病院のベッドから私に電話をかけてきた。彼がそんなに遅く電話をかけるなんて以前にはないことだった。


「たぶん、僕たちが予定していたときよりも少し早くここに来たほうがいいよ」と彼は言った。「僕にはそんなに時間は残されていないと思う」と。翌朝、2005年4月1日金曜日の8時30分、ベッドサイドに彼の家族全員がいる中でジャック・ケラーは「少し休むよ」と言って、それを最後に目を閉じた。白血病と診断されてからたった27日後に彼は帰らぬ人となった。

皮肉にも彼の子供の頃からの友人で、ケラーがはじめての曲をいっしょに書いたポール・カウフマンも34日前に癌で亡くなっていた。一人とも行年68歳だった。

(つづく)


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by hinaseno | 2017-02-19 13:38 | 音楽 | Comments(0)

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Rich Podolsky著『Don Kirshner: The Man with the Golden Ear』より


. . . And through all eternity

She'd be good for only me

Beats there a heart so true?


他のだれもがそうであったように、ブリティッシュ・インヴェイジョンが起こると、ジャック・ケラーはなかなかヒット曲を書けない状況におかれた。彼はコニー・フランシスのために一連のNo.1ソングを書いていたけれども、彼の最大のヒットはまさにそんな厳しい時期に作った、あるテレビ番組の主題歌である。

1964年、スクリーンジェムズはエリザベス・モンゴメリーが主役を演じた『奥さまは魔女(Bewitched)』という新たなテレビ・ドラマの制作に乗り出した。その放送局の幹部がドン・カーシュナーに頼んだことは、彼の会社と契約している作家たちにその番組のためのテーマソングを作らせることだった。カーシュナーは作家全員に『奥さまは魔女(Bewitched)』のパイロット版の一編を見るように言った。そのパイロット版ではプロデューサーはフランク・シナトラの歌う「ウィッチクラフト」を使っていて、それをオープニングのクレジットのところで流していた。しかしその幹部は独自のテーマ曲を欲しがった。

他のあらゆることと同様に、カーシュナーはこれをコンペティションにした。そして全てのソングライター・チームが全力を尽くした作品を集めた。その中で他を圧倒して選びとられたのがジャック・ケラーとハワード・グリーンフィールドが作ったヴァージョンだった。カーシュナーは、『Hazel』や『ギジェット(Gidget)』のようなテレビ番組のために、ジャック・ケラーとハワードのところに直接行ってテーマソングを作るよう頼んだ。テレビ番組のテーマソングに自分の曲が使われるのはあまり好きではなかったキャロル・キングとジェリー・ゴフィンやバリー・マンとシンシア・ワイルを通り越す形で。ケラーはまた後に『Here Come the Brides』という番組のテーマソングとして「Seattle」という曲を書くことになる。その曲は1969年にペリー・コモにも歌われてヒットした。

『奥さまは魔女(Bewitched)』が完成したとき、まず最初にフランキー・ランデルがRCAのためにそれを録音した。インストルメンタルのヴァージョンも録音された。スクリーンジェムズはジャック・ケラーのメロディーだけのヴァージョンでやっていくことにしたがグリーンフィールドの書いた詞も一応残された。ドン・コスタがスティーヴ・ローレンスの歌ったすばらしいバージョンをプロデュースしたが(それは最近リメイクされた『奥様は魔女』の映画で使われた)、そのときにはすでにスクリーンジェムズはインストルメンタル・ヴァージョンを使うことを決めていた。

40年以上、『奥様は魔女』のインストルメンタル・ヴァージョンが視聴者を楽しませていた。2005年にジャック・ケラーはヒップホップのビートを使って『奥様は魔女』を再録音し、もう一度ヒットすることを願った。彼はそれを電話機に入れることさえしていた。

60年代後半も70年代もジャック・ケラーはずっと曲を書き続け、プロデュースをし続けて、1970年にはボビー・シャーマンによって歌われてトップ10ヒットとなった「Easy Come, Easy Go」を作曲した。「私は最初はそれをモンキーズのデイヴィ・ジョーンズに見せたんだ。で、彼は検討しますと言ったよ」とジャック・ケラーは回想している。「彼が検討している間にボビー・シャーマンがそれをシングルカットして発売したんだ」と。

1956年にジャック・ベナンティ(Jack Benanti)が最初にケラーのことを気に入って、彼を事務所に自由に出入りできるようにし、ベナンティのクライアントであるフランク・シナトラのための選曲を手伝うようになってからずっと、ケラーはいつかOl’ Blue Eyes(シナトラのニックネーム)のために曲を書くことを夢見ていた。1968年になって、その夢は「When Somebody Loves You」と呼ばれる曲で実現した。それはシナトラにとって申し分のない曲だとケラーは考えていたが、いろんな事情でハワード・グリーンフィールドに曲を仕上げさせることができなかった。そこでキーリー・スミス(ルイ・プリマとコンビを組んでいた)が手伝って曲を仕上げた。ネルソン・リドルがそのバラードにアレンジを施した。シナトラはその曲を大いに気に入って次のアルバムのタイトル・ソングにそれを選んだ。ケラーは一切プロデュースすることはできなかった。それでも、彼は自分の履歴がようやく完全なものになったと感じた。

ロサンゼルスに移ってからケラーはモンキーズのアルバムをいくつもプロデュースして大成功を収めた。そのうちのひとつには彼自身が書いた「Your Auntie Grizelda」という曲も収められていた。1984年、ジャック・ケラーはさらなる変化を求めてナッシュヴィルに移り、そこの集まりの一員となって改めて曲を書くことを楽しむようになった。彼が最初に到着したとき、「The Tennessean」という新聞の記者が彼にナッシュヴィルのソングライターと競い合うのはどんな感じがするか尋ねた。それに対してケラーはこう答えた。「私は列の最後尾に並んで、自分の順番がやってくるのを待つことをいやだとは思わないよ」と。

(つづく)


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by hinaseno | 2017-02-18 14:21 | Comments(0)

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今、手元に置いている一冊の洋書。

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タイトルは『Don Kirshner: The Man with the Golden Ear』。日本語に直したら「ドン・カーシュナー:黄金の耳を持つ男」。ドン・カーシュナーというのはアメリカン・ポップスのアイドル歌謡の作品を一手に引き受けて大成功を収めたアルドン・ミュージックを設立したアルさんとドンさんの2人のうちのドンさんのほう。その評伝ですね。彼は「黄金の耳を持つ男」と呼ばれていました。本の筆者はRich Podolskyという人。出版されたのは2012年。「アメリカン・ポップス伝」の資料として大瀧さんは間違いなくこの本を読んでいただろうと思います。

この本、できあがるまでにかなり長い年月をかけて関係者にインタビューをしたようなのですが、中でもとりわけ多いのがジャック・ケラーでした。ジャック・ケラーは「Beats There A Heart So True」を出した翌年の1959年にアルドン・ミュージックと契約。ドン・カーシュナーは会社のオーナーとはいえ年が近かったので結構親しい関係にあったんですね。

ドン・カーシュナーと親しい関係があったとはいえ、これだけ多く彼のインタビューがなされているということは筆者がジャック・ケラーのことを信頼していた証ですね。インタビュイーとして信頼する条件をあげるならば、まず第一に記憶が正確であること。嘘や大げさなことを言わないことでしょうか。あるいはある種の成功を収めた人にありがちな自慢話、手柄話のようなことも言わない。

そういえば山下達郎さんがジャック・ケラー特集のときに、いろいろとジャック・ケラーに関する資料を読んで知った彼の人柄をこんな風に語っていました。


「ジャック・ケラーという人はあまり欲がないといいますか、ガツガツしたところもなく、自分がヒットソングライターであるということをそれほど声高にアピールもしていない」

さらにこんなことも。


「自分の成功とか、身の丈に満足していた感じがします」

実際に会ったことはないけれども、なんとなくそんな感じがします。で、もう一つ、彼が積極的にインタビューに応じていたのは、何かを伝えようとする気持ちが人一倍強かったからにちがいありません。

でも、彼はこの本が出版される前の2005年に彼は亡くなります。筆者はまだ本の出版に向けてのインタビューを重ねている中での死だったようです。

この本は全部で28の章から成り立っています。面白いのは章のタイトルがすべて曲のタイトルからとられているんですね。作曲家別に見てみると28章のうち最も多いのがキャロル・キングの9曲。ヒット曲の多さからいって当然ですね。一応挙げておくと「Will You Love Me Tomorrow」「Halfway To Paradise」「Take Good Care Of My Baby」「Some Kind Of Wonderful」「The Loco-Motion」「Go Away Little Girl」「Up On The Roof」「It Might As Well Rain Until September」「One Fine Day」。

次がニール・セダカの7曲。「The Hungry Years」「Stupid Cupid」「Oh Carol」「Where The Boys Are」「Next Door To An Angel」「Breaking Up Is Hard To Do」「Love Will Keep Us Together」。

その次がジャック・ケラーの4曲なんですね。で、それに続いてバリー・マンの3曲となっています。あのバリー・マンよりも多いというところに筆者の思いが感じられます。ちなみにバリー・マンは「On Broadway」「Who Put The Bomp」「I Love How You Love Me」。


さて、ジャック・ケラーの書いた曲から取られたタイトルはまず「Everybody's Somebody's Fool」。コニー・フランシスが歌ったナンバー・ワン・ソングですね。で、ボビー・ヴィーの「Run To Him」。次はちょっと意外な曲ですが、ロビン・ルークという歌手が歌った「The Part Of A Fool」。この曲、なぜかよくバリー・マンの曲と間違えられていて、バリー・マンの作品集に収められたりしています。どうもバリー・マンと間違ってクレジットされているレコードがあるみたいですね。

そして最後が、そうペリー・コモの「Beats There A Heart So True」。本では最後から2つめの27章。

この章はジャック・ケラーが亡くなった後に書かれているんですね。ジャック・ケラーを追悼するために書かれた文章で、この本の主役であるドン・カーシュナーとはほとんど関係のない内容になっています。そのタイトルとしてとられたのが「Beats There A Heart So True」なんですね。

実は今回、ずっと「Beats There A Heart So True」という曲の話をしてきたのはこれを紹介したかったためでもありました。


ところでつい最近気がついたのですが、この本の扉にこんな言葉が記されていました。

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本の献辞として二人の名前が記されています。一人は筆者の奥さんのダイアナさん。そして、もう一人がジャック・ケラーなんですね。「この本を作ることができたのは、ジャック・ケラーの精神と音楽への深い愛情のおかげだった」と。


この本、とにかく素晴らしい本で、できればだれかが訳してくれないかなと思っているのですが、誰も訳してくれそうもないので、ではということでその「Beats There A Heart So True」の章を少しずつ訳していこうと思います。「Beats There A Heart So True」にまつわる話はさらに長くなりますが、ジャック・ケラーと、ジャック・ケラーにも負けないくらいの音楽に対する深い愛情をお持ちの石川さんに捧げます。アゲイン10周年おめでとうございますという気持ちをこめて。


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by hinaseno | 2017-02-16 12:17 | 音楽 | Comments(0)

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2010年9月12日から3週にわたって放送された山下達郎の「サンデー・ソングブック」のジャック・ケラー特集では知らない曲が何曲もかかりました。僕なりにいろいろと準備していましたが驚きました。さすが達郎さんだなと。もちろん「Beats There A Heart So True」も初めて聴いた曲。曲をかける前に達郎さんはこんな紹介をします。


(ノエル・シャーマンとジャック・ケラーが共作した曲の中で)今日は私がジャック・ケラーの初期の最高傑作だと思います、ほんとにいい曲です。ペリー・コモの1958年、シングル「Moon Talk」のカップリングとして発売されました「Beats There A Heart So True」という、まだロックンロール以前の香りが残っておりますが、ほんとに素晴らしい作品です。

こんな達郎さんの大絶賛の言葉がありながら、僕はこの曲を印象にとどめてはいませんでした。むしろ心に強く残ったのは第3週目にかかったアネットの「Crystal Ball」からナット・キング・コールの「My First and Only Lover」、ジュリー・ロンドンの「We Proved Them Wrong」、ルイ・アームストロングの「I Like This Kind of Party」と続く4曲の曲。全部初めて聴く曲でした。その前の、この日の1曲目にかかったリトル・エヴァの「The Trouble With Boys」(これはA面ですね)も大好きな曲だったので、ラジオを聴きながら最高にハッピーな気持ちになったことを覚えています。で、そのあともしばらくはこればっかり聴いていました。でも、これを録音したMDはいつのまにか紛失(2週目のものも)。だれかください。

一応この5曲並べて貼っておきます。作曲はすべてジャック・ケラー。

リトル・エヴァの「The Trouble With Boys」。




アネットの「Crystal Ball」。




ナット・キング・コールの「My First and Only Lover」。




ジュリー・ロンドンの「We Proved Them Wrong」。




ルイ・アームストロングの「I Like This Kind of Party」は残念ながらYouTubeにありませんでした。


というわけで1週目の最初の方でかかったペリー・コモの「Beats There A Heart So True」は達郎さんの大賛辞があったものの僕の中ではすっかり影が薄くなってしまいました。いや、僕だけでなくこの曲を心に留めた人はどれだけいたでしょうか。

でも、一人いたんですね。それが石川さんでした。ブログで何度も語られ続け、おそらく店に来られた人にも曲の魅力を伝え続けられたんだろうと思います。

「Beats There A Heart So True」という曲は「Moon Talk」のカップリングということで、A面、B面ははっきりしないんですが、チャートに入ったのは「Moon Talk」(最高位29位)のほうでこちらが実質的にはA面だったようです。ということなので「Moon Talk」はペリー・コモのベストもののCDにはよく入っているのですが(僕の持っている50曲入りのCDにも入っています)、「Beats There A Heart So True」が収録されたCDはほとんどありません。でも、石川さんはそれが収録されたものを見つけて、できるだけ多くの人に聴いてもらおうと思って、当時YouTubeにアップされたんですね。それがこれです。


現在では「Beats There A Heart So True」の音源はほかに2つほどアップされていているのですが、2年くらい前までは石川さんがアップされていたものだけでした。

石川さんがアップされた音は、権利上の問題も考えられてのことだとは思いますが、たぶんスピーカーを通して収録されたものになっています。でも、だからこそというか、これ、アゲインの音がしていますね。野口さんも多分これを聴かれてこの曲の魅力を知られたはず。


ところで石川さんが「Beats There A Heart So True」をYouTubeに公開されたのは2012年6月14日。この同じ日か翌日くらいに石川さんから送っていただいたのが「ゴー!ゴー!ナイアガラ」のジャック・ケラー特集を録音したCD-ROMでした。

それを聴いて何よりも驚いたのは大瀧さんが時間の関係で曲はかけなかったけどジャック・ケラーが書いた曲として「Beats There A Heart So True」を紹介していたことでした。こんな言葉。


58年にはペリー・コモに1曲書いているんですね。「Beats There A Heart So True」という曲で、共作がノエル・シャーマンなんですよ。あのジョー・シャーマン、ノエル・シャーマンのシャーマン兄弟のですね、...と共作したんですよ。すごいもんですね。

いや本当にびっくりでした。「Beats There A Heart So True」の第一発見者は大瀧さんだったんだなと。なんだか「Beats There A Heart So True」という曲を通していろんなものがつながったような気がして、で、そのつながりの中に僕も入れたような気がしてなんともうれしい気持ちになりました。ちなみにそれが確認できた日は僕の誕生日でもありました。最高の誕生日プレゼント。さらに数日後に人生で最高なことが起こることになるのですがそれは内緒。もちろん石川さんのおかげです。


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by hinaseno | 2017-02-15 12:53 | 音楽 | Comments(0)

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僕も石川さんも、全国の達郎さんファンも、(たぶんほとんどいないと思われる)ジャック・ケラー・ファンも初めてペリー・コモの「Beats There A Heart So True」を耳にしたのが2010年9月12日に放送された山下達郎さんの「サンデー・ソングブック」でした。3週にわたって放送されたジャック・ケラー特集の第1回目。その3曲目にかかります。僕はとにかくこの特集を楽しみにしていました。かなり前から達郎さんはジャック・ケラー特集をすると言っていたので。

ちなみに僕がジャック・ケラーという作曲家に興味を持ったのは、やっぱり大瀧さんでした。大瀧さんが「おれはジャック・ケラーなんだ」と言ったのが全てのきっかけ。

この発言をされたのは2009年の新春放談。久しぶりに聞き返したらこの年の新春放談の最初の方でこんなこと言ってました。達郎さんが例によって、今、何をされているんですかという問いかけをしたあと。


大瀧「ネタとしてはタモリさんとかぶるんですね。最近『タモリ倶楽部』をよく見てんだけど。去年、スタジオで偶然バッタリお会いして、かぶったネタについてちょっとお話ししましたけど。あの人、鉄道マニアと古地図をやっていて。そのところでちょっとクロスするんですけどね」
山下「大瀧さんって鉄道マニアですか?」
大瀧「いやいや、古地図の方」

ちょうど大瀧さんは成瀬の映画研究をされていたころ。タモリさんと情報交換していたというのがすごいですね。

それはさておき、ジャック・ケラーの話。こんな会話が交わされます。


山下「僕はよ~くわかったけど、大瀧さんはヘレン・ミラーとジャック・ケラーなんだなって」
大瀧「ジャック・ケラーだよ。言わなかったっけか?」
山下「いいえ」
大瀧「ああ、そう? これ言おうと思って来たの。おれはジャック・ケラーなんだ。ヘレン・ミラーでもあるんだ」
山下「それはよ~くわかった」
大瀧「わかったね。いや、さすがだな~、って言ったって、だれがわかるんだ、こんな話(爆笑)」
山下「だから次はジャック・ケラーをやろうと思うんですよ」
大瀧「(笑いが止まらず)日本中のだれもわからない。こんな話...」
山下「いいんですよ、わからなくても」
大瀧「ああ、おかしい。で、つくづくジェフとエリーだと言われて、いや、実はず~っと内心、だれかがジャック・ケラーだって言ってくれるかなっと思ってたら、君だったね」
山下「よ~く、わかりました。この歳になって」
大瀧「ほんとにね。産湯はね、ジャック・ケラーなんだよ」
山下「そうなんですね」
大瀧「で、体質にも合うんだね」
山下「わかります」

さらにこんな会話。


大瀧「ジャック・ケラーはちゃんと集めてんの? 結構意外なものがあるんだよね。で、みんな小品なんだよ。これって大作は一個もなし」
山下「B面が多いですね」
大瀧「B面が多い。B面好きなんだよ。ほんとにB面好き」
山下「だけどジャック・ケラーは大変」
大瀧「大変だね~」
山下「もう4年ぐらいやったんですけどね」
大瀧「何があるのかも、僕も全貌つかんでないし。聴いてみなきゃ、わかんないしね」
山下「今度、一揃い揃ったら全部あれしますから。DVDかなんかにデータ入れて」
大瀧「今時ジャック・ケラーという人なんていないよな~」

このときの放送で達郎さんは次はジャック・ケラー特集をすると言ったんですね。実現したのはそれから1年9ヶ月後のこと。その日まで僕は自分なりにジャック・ケラーの音源をいろいろと集めました。今はウィキペディアにこんなリストが掲載されているので、それに基づいて集められますが、当時は持っていたCDやレコードのクレジットを一つずつ確認する作業。J. Kellerと記載されていてもジェリー・ケラー(Jerry Keller)というシンガーソングライターもいて大変。大瀧さんが言われる通り「聴いてみなきゃ、わかんない」。でも、50曲くらいは集めたように思います。もちろんそのときにはまだ「ゴー!ゴー!ナイアガラ」のジャック・ケラー特集なんて聴いていません。

で、僕にとっては待ちに待ったジャック・ケラー特集の日がやってきます。


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by hinaseno | 2017-02-14 12:42 | 音楽 | Comments(0)