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つい先日もかなり有名なミュージシャンが亡くなりましたが、今年も数多くのアーティストが亡くなりました。とりわけショックが大きかったのは村田和人さん。彼の歌をアゲインで聴きたかった。石川さんからは何度も村田さんのライブほど素晴らしいものはないから一度は見ておいて欲しいと言われていたのに。


そしてボビー・ヴィー。

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60年代のアメリカン・ポップスで、僕の最も好きな男性シンガーがボビー・ヴィー。永遠に中断することになってしまった大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝」で、いちばん聴いてみたかったのも必ずやってくれたはずのボビー・ヴィー・ストーリーでした。


1977年7月に放送された「(スナッフ・ギャレットの)リバティ・サウンド特集」でボビー・ヴィーの「Rubber Ball」と「The Night Has A Thousand Eyes」の2曲をかけたあと大瀧さんはこう語っています。


(プロデューサーの)スナッフ・ギャレットとボビー・ヴィーというこのコンビはたくさん大ヒット曲がありますけどもね。この頃ボビー・ヴィーは、まあ、郷ひろみみたいな感じだったですね。いわゆるティーンのアイドルでしたね。超、超アイドルでしたけれどね。非常に曲がいいのと、それから作家に恵まれたというか、いい作家を起用したというか、その辺もいわゆるプロデューサーの才能なんですね。その辺はボビー・ヴィーの特集のときにまた詳しくお話ししたいと思います。

大瀧さんは近いうちに必ずボビー・ヴィー特集をすることを考えていたことがわかります。でも、このあと60回ほど放送がありましたが、結局ボビー・ヴィー特集は実現しなかったんですね。


さて、大瀧さんはかつて、もしだれかミュージシャンが亡くなってその人を追悼するのであれば、その人の曲をかけるんじゃなくて、その人が好きだった曲をかけてあげるべきだと語られていました。

というわけなので、昨日は大瀧さんが死ぬほど好きだったはずの曲を何曲か集めて聴いていました。大瀧さんが死ぬほど好きだという曲ですぐに浮かぶのはやはりこの2曲。

一つはスティーヴ・ローレンスが歌った「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」。




もう一つが、今年ようやく日本盤のシングルを手に入れることのできたジミー・クラントンの「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」。




この2曲、実は少なからずボビー・ヴィーが関係しているというか、もしボビー・ヴィーというシンガーがいなければは生まれなかったと言ってもいいかもしれません。そんなたまらないストーリーがもしかしたら「アメリカン・ポップス伝パート5」で語られていた可能性もあります。


61年の大ヒットとなったボビー・ヴィーの「Take Good Care Of My Baby」を書いたのはキャロル・キングとジェリー・ゴフィンのコンビ。彼らは次に書く曲もボビー・ヴィーに歌ってもらえるだろうと考えて新しい曲作りにとりかかります。それが「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」。

ジェリー・ゴフィンはこんなことを語っています。


「僕が『ゴー・アウェイ・リトル・ガール』を書いていたときに、僕の心にあったのはボビー・ヴィーだった。キャロルと僕はそれを10分くらいで書き上げたんだ。僕はきっとその曲をボビーのプロデューサーであるスナッフ・ギャレットも大好きになってくれるだろうと思っていたんだけど、彼はそれを気に入ってくれなかった」

あの曲を詞も含めてたった10分で書き上げたというのには驚いてしまうけど(でも、アメリカン・ポップスの名曲はたいていそれくらいの時間で作られていることが多いですね)、たとえば松田聖子のために優れたアーティストが競うようにして優れた曲を書いていたのと同じようなことが当時のボビー・ヴィーにもあったんですね。彼に、正確に言えばスナッフ・ギャレットがプロデュースしたボビー・ヴィーに、できればシングルとして歌ってもらえるような曲を作ろうとしていたわけです。彼の歌った曲に素晴らしい曲が多いのはそのためですね。

ただし、スナッフ・ギャレットはどんなに前作で大ヒットを飛ばした曲の作家でも、曲がアーティストに合わないと判断すれば使わない。

ということで、「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」はいったんはスナッフ・ギャレットに渡されたものの結局、彼はその曲をボビー・ヴィーの新曲として使うことはしませんでした。ちょっと大人の歌だったので、もう少しあとで使ってもいいと考えたのかもしれません。

そんなときに、その曲のデモに耳を止めたのが”黄金の耳を持つ男”ドン・カーシュナーでした。そう、最初はボビー・ダーリンとコンビを組んで曲作りをしていたものの、自分の才能がないということがわかって作家としての道はあきらめて、音楽出版会社を作った人。大瀧さんに「人生早めの切り替えが大事」と言われたあの人です。彼は友人のスティーヴ・ローレンスに曲をあげてすぐに録音させるんですね。それが大ヒットとなったわけです。


ところで、ジェリー・ゴフィンはあのように発言していますが、スナッフ・ギャレットがデモの段階からこの曲を気に入らなかったわけではなさそうです。実際彼はスティーヴ・ローレンが録音するよりも先にボビー・ヴィーの歌った曲を録音します。録音したのは1962年3月28日。前日にはのちにシングルとしてリリースされる「シェアリング・ユー(Sharing You)」(曲を書いたのはキャロル・キングとジェリー・ゴフィン)を録音しています。

ボビー・ヴィーの「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」は残念ながらYouTubeにアップされていませんがイギリスのACEから出た『Honey And Wine: Another Gerry Goffin & Carole King Song Collection』に収録されています。スティーヴ・ローレンスのバージョンに耳が慣れているせいもあるとは思いますが、このアレンジ、特に弦のアレンジにはかなり違和感を覚えてしまうんですね。ちょっと曲を殺してしまっているような感じ。アレンジャーはボビー・ヴィーのほとんどの楽曲で素晴らしいアレンジをしているアーニー・フリーマンなんですが、彼にしてはちょっと意外なほど残念なアレンジ。スナッフ・ギャレットもそれを感じたようです。もしかしたらもう一度アレンジをやり直してあとで録音し直そうと思っていたような気もしますが、とりあえずはボツ。そのタイミングをドン・カーシュナーが逃さなかったんですね。


ところで「Take Good Care Of My Baby」の次のシングルとして選ばれたのがこの「ラン・トゥ・ヒム(Run To Him)」という曲。




のちにキャロル・キングとジェリー・ゴフィンが書いて、「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」の前日に録音されたこの「シェアリング・ユー」は明らかに「ラン・トゥ・ヒム」の影響を受けていますね。




いや、「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」も曲に関しては「ラン・トゥ・ヒム」の影響を感じてしまいます。

この「ラン・トゥ・ヒム」。作詞はジェリー・ゴフィン。でも、作曲はキャロル・キングではなくジャック・ケラー。あの「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」を書いた作曲家でした。ボビー・ヴィーというシンガーを介してキャロル・キングとジャック・ケラーはお互いに影響を与えあっていたんですね。


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by hinaseno | 2016-12-31 14:10 | ナイアガラ | Comments(0)

12月15日。クリスマスの日。外は快晴。風もなさそう。気温も高めで小屋を倒す作業をするには絶好の日。

毎朝パソコンを立ち上げて必ず最初に見る鷲田清一先生の「折々のことば」のその日の言葉はこれでした。


God be with you till we meet again


”God”と”again”という言葉が目に飛び込んで驚く。鷲田先生の解説を見るとこの言葉は「神ともにいまして」という題で知られる讃美歌で、主に日本では教会で葬儀の時によく歌われるとのこと。でも曲は長調。「送別の歌なのに長調なのが不思議だったが、悲しみの淵に沈む人を支えられるのは、信仰と希望と連帯だからだろう」と書いている。


前の晩、つまりクリスマスイブにアゲイン(Againですね)の石川さんから電話をいただいて、高橋和枝さんの原画展が開かれている武蔵新田のティールグリーンが石川さんの実家のすぐ近くだということで、仕事前にそれを見に行くと知らせてくれていたので、なんだか気持ちがわくわくしつつ、一方でも今日の日の作業が事故もなくうまくいくようにと神様に祈りたくなる気持ちもあったので、最初と最後に”God”と”again”という単語が置かれたこの” God be with you till we meet again”という今日の言葉に運命的なものを感じてしまう。

「信仰」と「希望」と「連帯」の言葉。

神様がそばで見守ってくれていることだけは確かなよう。


10時ごろHさんがやってきて前回Hさんが事故をして中断していたスレートの屋根を外す作業から取り掛かる。Hさんが脚立に上がって作業を開始。はじめは下で脚立を支えていたけれどもスレートが割れて落ちる可能性があるので離れてHさんの作業を見守る。脚立に乗った状態で梁に打ち付けている釘を抜く作業はかなり大変そう。

しばらく様子を見ていて下の方の釘は僕が低い脚立に上がってできそうなことがわかったのでやってみる。Hさんがスレートがずり落ちないように上から支えて僕の作業を見守る。最初は手間取るけどそのうち要領がつかめてくる。まずHさんが上の方の釘を抜き、次にHさんがスレートを支えて僕が下の釘を抜く。全部釘を抜いたら僕が下に降りてスレートをゆっくりと下ろす。このリズムが次第に合ってきて作業のスピードが上がる。事故の不安もなくなってくる。でも油断しないようにする。

結局昼前までに屋根のスレートと小屋の側面に打ち付けたトタンを全て外すところまで終わる。ここでお昼休みに。後で訊いてみると母親はやはりずっと神棚の前で神様に祈っていたそうである。


部屋に戻ってパソコンを開いたら高橋和枝さんから今朝のブログを読まれたことと、今からティールグリーンに向かわれるとのメールが入っている。高橋さんがこの日ティールグリーンに行かれるとは思っていなかったのであわてて石川さんに電話。石川さんはすでに到着されている。実家からは歩いて300歩ほどだったと(正確な数字を言われていたけど忘れてしまった。308歩だったっけ?)。高橋さんがティールグリーンに向かわれていることを伝えたら2時くらいまでなら店にいることができると。高橋さんと親しいおひさまゆうびん舎の窪田さんにそのことを高橋さんに伝えてもらうようにお願いする。

ということで石川さんと高橋さんがお会いすることができるのかというわくわくどきどきの気持ちを心に持ちながら作業を再開。目蒲線(東急多摩川線だけど)に乗っている高橋さんを想像するだけで楽しくて仕方がない。でも絶対に気を抜かないようにする。梁を外して柱を全部倒すという大変な作業がある。腐りかけている柱が何本かあるので判断を間違うと全体が崩れ落ちてしまう危険もある。

Hさんは僕に離れているようにと言って一人で作業を始める。ここからはHさんの作業をただ見守るしかない。何度も何度も柱や梁を状態を確認しながら、いくつかの場所にロープをかけ、慎重に梁を取り外していく。梁を全部外し終わるとロープを引っ張って柱を何本かまとめて倒す。見事と言う他ない。

柱を全部倒し、ちょっと休憩を入れようという頃に石川さんから電話。高橋さんに会うことができたとうれしそうな声。たぶん一時間も話す時間がなかったんじゃないかと思うけど、いろんな話をしたようで、自分の事のようにうれしくなる。高橋さんとのツーショットの写真を送ったと言ってくれたのに写真が重くてなかなか受信できない。でも、電話を切ったあとようやく受信できる。うれしそうな二人の顔を見て幸せな気分になってすぐにおひさまゆうびん舎の窪田さんに画像を送る。

改めて考えてみると石川さんと高橋さんが二人並んでいるというのは僕にとっては奇跡のようなこと。クリスマスの日に起きた奇跡。

倒した梁や柱に打ち付けられた釘などを取り外してこの日は作業終了。あの事故の後にはHさんと再びいっしょに作業ができるなんて想像もできなかったので、こうやって作業を終えられたのもやはり奇跡としか思えない。


そういえば作業の途中で、小屋の奥の方に積まれていたものをどけたらその下に煉瓦を敷いてあるのが見つかる。全部で20個ほど。見るとどれも耐火煉瓦。Hさんによると、昔この家を建てる前に住んでいた近くの家に耐火煉瓦の炉があったのでその煉瓦ではないかと。確かに炉があったような気もする。

耐火煉瓦といえば三石。もしかしたらあの小津の『早春』が撮影された頃に作られた耐火煉瓦ではないかと考える。ということで記念にそのうちの一つだけデザインがシャレていたものを部屋の中に置くことにする。

ついでだけど三石の耐火煉瓦といえば毎週日曜日に放送している『鉄腕DASH』であのDASH島に炉を作るために、どうやら三石で耐火煉瓦を作るようである。ちょっと見逃せない。

それから『早春』つながりでいうと、武蔵新田駅の千鳥とは反対側の矢口という場所が『早春』にちらっと出てくる。以前も紹介したけど、三石にやってくる前に池部良・淡島千景夫婦が住んでいた六郷あたりの家の隣に住んでいた杉村春子が淡島千景に自分の亭主の過去の女道楽を語る場面があってその中に矢口が出てくる。


「(小指を出して)これ......、駅向うの川っぷちにカフェーがあるでしょ。あたし、あそこだとばっかり思ってたら、そのとなりの玉突き屋のゲーム取りだったの。それを火の見の傍のアパートに住まはしてたのよ。その時分、うち矢口に住んでいたでしょ」


ということで奇跡のようなクリスマスの1日の話はこれで終わり。次回は武蔵新田あたりのことをもう少し別の角度から。


今日、12月30日は大瀧詠一さんの命日でした。大瀧さんの話はできなかったけど、大瀧さんがいなければ僕は石川さんと知り合うことはありませんでした。


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by hinaseno | 2016-12-30 16:54 | 雑記 | Comments(0)

玄関から飛び出してHさんが作業している場所に行ったら、Hさんが地面に倒れている。出血は見あたらなかったけどHさんの意識はない。最初に作業に取り掛かっていたはずのスレートの屋根が割れている。用心深いHさんが、危なっかしいことがわかっているスレートの上に上がったんだろうかと考えながら、すぐに母親を呼びに行く。が、母親は倒れているHさんを見るなり気が動転。救急車を呼んでもらおうと思ったけどどうにもならない。仕方なく僕が救急車を呼ぶことに。携帯を持っていなかったのでいったん家の中に戻る。

電話をした後でHさんの奧さんに電話をしなければと母親にHさんの家の電話番号を聞きに行く。すると母親はHさんのそばで必死になって何かをつぶやいている。僕が子供の頃に病気などになった時に祈っていた言葉。母親が娘時代から信仰していた神様に必死に祈っている。

よく見るとHさんの意識が少し戻っている。そして声も出るように。少し安心する。そのHさんの変化に気がついているのかどうかわからないけど、母親はHさんの体に手を当てて祈り続けている。

まもなく救急車がやってくる。救急隊員の人がHさんのところにやってきて母親に離れるように言っても母親の体は硬直して一歩も動けなくなっている。仕方なく僕が母親を抱きかかえて体をHさんから離す。

救急車が到着したものの、搬入する病院がすぐに見つからないようで少し焦る。その間にHさんの奧さんを車で迎えに行く。奧さんを連れて家に戻ってきた頃にようやく病院が見つかる。知人に連れられて近くに出かけていた父親が家に戻っていたけど状況がつかめていない感じ。Hさんが事故をしたということを受け入れることができないのかもしれない。

Hさんが救急車で病院に行った後、いくつかの雑事におわれようやく一息ついた時に、ふと明後日の世田谷ピンポンズさんのライブのことが頭をよぎる。行くのはまず無理だろうと思っておひさまゆうびん舎の窪田さんにキャンセルを伝える。残念だけど仕方がない。


翌日Hさんの奧さんを連れて昼過ぎに病院に行く。昨夜は話はできるようになっていたものの、夕食を戻したと聞いてまだ安心はできないと思う。

でも、病室に入ると元気そうなHさんの姿がある。普通に話ができる。朝食も昼食もしっかり食べたとのこと。高いところから落下したはずだけど骨折もない。頭の方も少し出血があった程度で大丈夫のこと。1週間くらいで退院できると。明日の土曜日は母親を連れてくるつもりだと言ったらその必要はないと強く断られる。

事故の話をすると「合点がいかん」という言葉を繰り返している。慎重で危険なことは絶対にしないHさんにとっては事故は納得できないものだったようである。屋根には絶対に上がっていないとのこと。脚立から落ちたということになるけど脚立は倒れていなかったと言うとやはり「合点がいかん」と。いろんなことを話しながら、Hさんも70歳を超えているので完全に安心ということにはならないけど、でも、まず命に関わるようなことはなくなったと、ちょっと母親の神様に感謝する。そういえば母親はHさんの奥さんにずっと神様に祈り続けていたことを話していたようで、奥さんはそのおかげだったと何度も話される。

ふと、もし神様がいるのならば、きっと世田谷ピンポンズさんのライブに行くように仕向けてくれたんだろうと考えて、病院から戻ってすぐにおひさまゆうびん舎の窪田さんに電話して空きがあるか尋ねて夜の部を予約する。


結局、Hさんはいろいろと調べるためにちょうど2週間入院して退院。退院した翌日にやってきて退院の挨拶をされ、置きっ放しになっていた自転車で帰られる。普通に自転車に乗っている。

それから1週間ほどしてHさんは僕も母親もいない時にやってきて、会話の要領の得なくなっている父親と少し話しただけで帰られたようである。

僕も母親も気になっていたのは壊すのを中断している小屋のこと。母親は断固反対。業者に頼もうとの一点張り。僕もそうすべきだと思いつつ、Hさんのプライドを考えるとどうすべきか悩む。


そして、12月24日の朝、Hさんが奥さんといっしょにやってくる。神棚を拝まして欲しいと。もちろんHさんがそんなことをされるのは初めて。母親は病院に行っていたので僕が2人をその場所に連れて行く。正直言えば僕は今までに一度もそこに手を合わせたことはない。

そのあとHさん夫婦とお茶を飲みなが少し話をしていたときにHさんの口から作業を再開したいとの話が出る。できれば明日にでもやりたいと。医者からは仕事をしてもいいと許可が出たそうである。ただしみんなが納得してくれなければやらないと。

僕はHさんという人を今もなお職人として信頼しているのでHさんがそう言ってくれるのであればと伝える。ただし、奥さんに「本当にいいんですか」と訊いてみる。奥さんは僕がそばにいて手伝ってくれるのであればと言う。僕がいれば安心だと。奥さんは僕のことをかなり信頼してくれているようで、少し困ってしまう。父親はそばにいたけど意思表示はできない。たぶんやってほしくない気持ちの方が強いんだろうと思いながら、その言葉を出せずに全然関係のない話を口にし続けている。

ただ、僕はHさんに「戻ってから訊いてみるけど、僕の母親は賛成しない可能性が高いよ」と正直に伝える。まず賛成することはないだろうと思う。

で、母親が戻ってきてHさん夫婦がやってきたことを伝える。みんなが賛成してくれれば作業を再開しようと思っているので、母親の気持ちを訊きたいと言っていたことも。Hさんの奥さんと僕が賛成したので、あとは自分で考えてHさんの家に連絡してと伝える。僕の意見は言わない。結局母親は相当悩んだにちがいないだけど、Hさんに了解の気持ちを電話で伝える。

ということで12月25日のクリスマスの日に作業を再開することが決まる。なんだかすごいクリスマスになっちゃったなと思う。前日の夜、つまりクリスマス・イブは正直、かなりナーヴァスな状態に陥る。Hさんの奥さんが僕がそばにいてくれれば安心だと言ってくれても、僕にいったいどんな手伝いができるんだろうかと。Hさんも絶対に僕に危険なことをさせるようなことはしないはずだし。変に手助けしようとしすぎると逆にHさんの邪魔をする可能性もある。

そんなことをいろいろと考えていたときにアゲインの石川さんから電話。僕のいろんな不安を吹き飛ばしてくれるようなうれしい話をされる。なんだかよくわからないけどとにかくいろんな神様が見守ってくれているような気持ちになって明るい気分で眠りにつく。

翌日のクリスマスの日に武蔵新田でもっと素敵なことが起こることを知らないまま。


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by hinaseno | 2016-12-29 12:25 | Comments(0)

ストリートビューを使って石川さんの実家からティールグリーンのあるあたりまでバーチャルウォークをしていたときに、実はその整然としすぎている街並みに少し疑問を感じて、例によってちょっと調べたらその理由がわかりました。かなりびっくり。あのあたりはまさに、”あれ”があった場所だったとは。それについてはまた改めて。


さて、昨日貼った写真に写っている煉瓦のこと。

その前に、前置きがながくなりますが、昔書いただるまストーブのことから。

石川さんの昔からの友人である平川克美さんが朝日新聞で連載していた「路地裏人生論」を読んで武蔵新田のことをはじめて意識したが2013年1月19日のことですが、その月の初めの1月4日のブログから2回に分けて書いたのが実家の工場に置いていただるまストーブの話でした。自分で言うのもなんですが、結構気に入っています。


このだるまストーブの話の中で何度か「職人さん」が登場しています。僕にとってのだるまストーブの思い出はその職人さんと過ごした時間と結びついているんですね。

その職人Hさんは父親に指導を受けて大工になったのですが、もともと器用だったようで、ある時期からは細かい仕事はそのHさんがするようになっていました。欄間の彫刻彫りなんかもしていたこともあってそれは見事なものでした。

Hさんは体ももちろん丈夫でしたが、ただひどく寒がりだったので冬場になると細かい作業をするときにはだるまストーブにくっついて仕事をしていました。

僕は父親が配達に出ていないときに、ときどき工場に行ってだるまストーブのところのHさんのそばに座って、Hさんのしている作業やストーブの中の火を眺めるという時間を過ごしていました。ときにはストーブの上で餅を焼いていっしょに食べたりもしました。

大工関係の人というのは大声でどなりちらすようなしゃべりかたをする人が多くて、僕は昔から父親も含めてそういう人たちをひどく嫌っていた(恐れていた)のですが、Hさんだけは普通に静かに話す人だったので、自然に近づくようになったようでした。何を話していたかはほとんど覚えていないけれど、とにかくそこで過ごす時間が大好きでした。


そのHさんも父親が仕事をやめてからは家に来ることもあまりなくなり、滅多に出会えなくなりましたが、それでもときどきは家にやってきて父親ができなくなってしまったことをやってくれていました。

最近になってわかったことですが、父親とHさんと、何人かの大工関係の人で実家のいくつかの場所に手を入れる話が進んでいたのに、それぞれの人の都合が合わなかったり、何よりも父親の痴呆がすすんだために立ち消えの状態になっていたんですね。なかでも小屋と駐車場を兼ねていた建物がかなり荒廃が進んでいて、危険なのでなるべく早く倒しておいたほうがいいということになっていたようですが、その話を父親にしたら業者に頼んだ方がいいと言いながら一向に前に進める気配もなく日は過ぎて行きました。

で、ある日、Hさんがやって来たときにそれを話したら僕と一緒にやろうかということに。正直、僕がどれだけの手伝いをできるかはわからなかったのですが、Hさんが高いところに上がっている時には脚立を支えるとか、危険でない場所での釘抜きとか、たいしたことはできないだろうと思いつつ、でも他の人をあてにすることもできなくなっていたので2人でやることに決めました。


それを決めたのが今月の初めの12月1日。最初は一旦は僕がゆっくり手伝える土日で作業をしようということに決まったんですが、土曜日におひさまゆうびん舎での世田谷ピンポンズさんのライブがあることを思い出して、「ちょっと土曜日は出かける用事があるんだ」と言ったら「じゃあ、今日、わしができることをやっとくわ」ということで、早速その日の午後、まだ僕が食事をしていたときにやってきて一人で作業を始められました。

その作業の音を聞きながら急いで食事を済まして、作業をしている小屋のすぐそばの部屋で作業用の服に着替えていた時に突然、どすんというとても嫌な音がしました。そしてその音をきっかけにして鳴り響いていた作業の音もすべてなくなりました。これほどに嫌な沈黙を経験したのは初めてでした。


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by hinaseno | 2016-12-27 13:20 | 雑記 | Comments(0)

昨日のクリスマスの日に起こった素敵な出来事。それについての話をいろいろと書こうかと思いましたがなんだかちょっと長い話になりそうです。残念ながら今日はゆっくり書く時間がないので、例によって何回かに分けて書くことにします。

で、今日はとりあえず昨日の出来事を一枚の写真にしてみました。

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手前の『バートン・クレーン作品集』はアゲインの石川茂樹さんが今年出されたCD。『くまのクリスマス』は昨年暮れに高橋和枝さんが出された絵本。武蔵新田のティールグリーンで昨日まで開かれていたのはこの『くまのクリスマス』の原画展ですね。

それから左のくまの人形はおひさまゆうびん舎でのイベントのときに買った高橋さん手製の人形。そしてその下の煉瓦は…。

この煉瓦のことから話を始めようと思います。武蔵新田で起こっている素敵な出来事のことを考えながら僕は昨日のクリスマスの日、一日中ある人と僕にしてはめずらしく肉体労働をしていました。


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by hinaseno | 2016-12-26 13:02 | 雑記 | Comments(0)

今日はクリスマス。それにからめて先日久しぶりに神戸に行った話でも書こうかと思っていましたが、昨夜、つまりクリスマス・イヴに起こった(というかわかった)驚きの話を。


考えたらブログをはじめてから何度かミラクルなことが起こっています。

僕がこのブログなどをきっかけにして生まれたつながりは大きく分ければ2つ。

大瀧さんつながりと夏葉社つながり。

木山捷平つながりもありますが、それもそもそもは夏葉社=おひさまゆうびん舎つながりで起こったこと。

それぞれにミラクルなことが何度か起こっているんですが、ときどきこの2つの、つまり大瀧さんつながりと夏葉社つながりが結びつくミラクルが起こるんですね。

最もすごかったのは、アゲインの石川さんに送っていただいた「ゴー!ゴー!ナイアガラ」のシリア・ポール特集を聞いていたら、そこで大瀧さんが何度も語っていた「関口くん」というのが気になってもしやと思って調べたらそれがまさに夏葉社の『昔日の客』の関口良雄さんのご子息である関口直人さんだったとわかったことですね。それだけでもすごいことだったんですが、それがわかったまさにその日にその関口さんがアゲインで行われていたライブに見えられていたのには腰を抜かしました。

その日の証拠として石川さんから送っていただいた関口さんと石川さんのツーショットの写真は『昔日の客』にはさんでいます。


さて、今回もその石川さんがらみの話。

昨夜、石川さんから電話。かなり興奮気味。どうやら僕のその日書いたブログを読んで驚いてすぐにかけられたようです。現在、高橋和枝さんの「くまのクリスマス」の原画展が開かれている武蔵新田のティールグリーンというお店があるのは石川さんのご実家の目と鼻の先だと。石川さんのご実家が千鳥近辺にあることもちらっと聞いた記憶がありましたが、まさか武蔵新田のあのあたりだったとは。

で、石川さんにご実家の番地を聞いて調べたら、ティールグリーンは直線距離にして100mほど。ゆっくり歩いても3分ほど。もう笑ってしまいました。

僕は笑うしかなかったのですが、石川さんは僕がその前に書いたロス・バグダサリアンとチップマンクスについてのことに触れた話(興味深く読んでくださっていたようです)を夜書きかけて、で、僕のブログをみたらまさにご自分の実家の近くのことが書かれていたので相当に驚かれたようです。「君はいったいどういう人なんだ」と言われても。たまたまとしかお答えしようがないですね。

というわけで、石川さんは今日の仕事前にティールグリーンに行かれるそうです。うれしいですね。高橋さんの絵をバックにして石川さんの写真を送っていただけたらうれしいです。


ところで、その石川さんが今日貼られていたのがチップマンクスのこの音源。




「Wonderful Day」というタイトルのクリスマスソング。これ、ロス・バグダサリアンがかいた曲なんですね。

いい曲。こんな曲があるとは知りませんでした。

実は神戸に行ったとき、いつも年末に行った時にはそうするように、中古レコード屋でクリスマスのレコードを集めた箱をあさっていて、その中にチップマンクスのクリスマスアルバムがあったんですね。でも、収録されていた曲は「チックマンク・ソング」以外はすべてカバーだったんで買うのをやめたんですが、こんなシングル盤が出ていたとは。

こんなかわいいジャケットもついています。

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おおっ、ほしい!と思ってeBayを調べたらジャケット付きのレコードの値段はかなり高い。また気長に探してみます。


ところでこのシングル盤はB面の曲もクリスマスソング。




こちらもロス・バグダサリアンがかいた曲。ジャジーでいい感じです。タイトルは「The Night Before Christmas」。クリスマスの前夜に起こったミラクルな話でした。関係のない人にとってはなんの興味もないことかもしれないけど。


最後に、せっかくなので、僕もストリートビューを使って石川さんのご実家からティールグリーンまで歩いてみました。

これはティールグリーンから石川さんのご実家がある方向をとらえたもの。この向こうから石川さんが歩いてこられるわけです。

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by hinaseno | 2016-12-25 09:42 | 雑記 | Comments(0)

『くまのクリスマス』


いきなりですが武蔵新田のことを。知らない人にとっては武蔵新田って何? ですね。

武蔵新田という場所のことは、朝日新聞の土曜日版「be」に連載されていた平川克美さんの「路地裏人生論」というコラムで知りました(『路地裏人生論』は昨年単行本になっています)。この日(2013年 01月19日)のブログでちょうどその日の新聞に掲載されたコラムのことを書いています。こんな書き出し。


「晴れた日曜日は、絶好の町歩き日和。とはいえ、遠出は億劫だ。最近はもっぱら隣町を歩く。いつもの三人組で、隣町観光、いや隣町探偵をするのが楽しい。脚下照顧。ちょっと使い方が違うが、わかっているつもりの隣町でも歩いていると思わぬ発見がある」

こういう文章はたまらないですね。で、このあとこんな言葉が出てきます。


「武蔵新田もそのひとつだ」

当時、平川さんが隣町探偵をしたものを読んだ時には必ず地図で調べていたので、蒲田に近い池上線と目蒲線(現在は東急多摩川線)あたりの地名はたくさん覚えることができました。地元じゃないのにそのあたりの地名をこれだけ知っているのは僕ぐらいだろうなと。


なんでいきなり武蔵新田の話をしたかというと、現在、その武蔵新田の駅のすぐ近くにあるティールグリーン(TEAL GREEN)というお店で高橋和枝さんの絵本の原画展が開かれているんですね。ティールグリーンの地名を確認したら大田区千鳥。平川さんがお生まれになったのも確か千鳥だったと思います。


さて、そこに原画が展示されているのは『くまのクリスマス』という絵本。この絵本、先日、世田谷ピンポンズさんのライブに行った時におひさまゆうびん舎で買ってきました。高橋さんのサイン入りです。

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この絵本、ようやく今朝読みました。いや、いい絵本です。ほっこりした気分になって何度もくすっと笑わされて、そしてキュンとする瞬間があるんですね。

とりわけよかったのがこの場面。この絵を見たときにはちょっとうるっとしてしまいました。

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つながって、つながって、つながって…。これは原画を見てみたいな。ああ。武蔵新田に行きたい。

『くまのクリスマス』でもう一枚、大好きな絵があって、それは裏表紙のこの絵。これもたまらない絵です。

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実はこの絵、絵本を読んでいるときには出てこなかった絵なので、勝手にそのシーンを想像していたら、なんと裏表紙の絵がそれだったんですね。絵本を読み終えて閉じてこれを見たときには、思わずワハッと声が出てしまいました。

高橋さん、笑わせてくれます。

武蔵新田での原画展は明日までとのこと。お近くの方はぜひ。

行けない人はお近くの書店で絵本を買ってみてください。大人の男性もOKです。


そういえば、高橋さんのくまくまちゃんの新作が来年2月に出るそうです。タイトルは『くまくまちゃん、たびにでる』。

家の中で、ごろごろしていることをこよなく愛していたはずのくまくまちゃんが一体どんな旅をするんでしょうか。これも楽しみです。

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by hinaseno | 2016-12-24 12:29 | 雑記 | Comments(0)

ペイシェンス&プルーデンス姉妹がゴールド・スター・スタジオで録音したのが「Tonight You Belong To Me」(このときには「They Say」ではなく本来の歌詞の方を歌ったようです)と「A Smile And A Ribbon」という曲の2曲。

「A Smile And A Ribbon」という曲は父親のマーク・マッキンタイアとロバート・ウェルズ(Robert Wells)との共作。ロバート・ウェルズといえばナット・キング・コールによって歌われたこのクリスマス・ソングがなんといっても有名です。




タイトルもそのものずばり「The Christmas Song」。この日のブログでもこの曲について書いていますが、「The Christmas Song」は数あるクリスマス・ソングの中で僕が最も好きな曲です。ということなので、「A Smile And A Ribbon」もとってもロマンチックでかわいい曲。どこかクリスマスっぽさが感じられます。




さて、マーク・マッキンタイアはゴールド・スター・スタジオで娘たちの歌った曲を2曲録音したものの、それをレコードとするつもりはなかったようで、ただ単に彼の両親(ペイシェンス&プルーデンス姉妹にとってはおじいちゃんとおばあちゃん)へのプレゼントにしようと考えたようです。

そんなとき、たまたまロス・バグダサリアンが彼といっしょに仕事をしていたので、マークはロスにダビングしたものをあげたんですね。

で、ロス・バグダサリアンが家に戻ってそれを聴いていたら、たまたまいっしょに聴いていたロスの奥さんがそれをすごく気に入って、ロスにリバティ・レコードの社長のサイモン・ワロンカー(チップマンクスのサイモンですね)に聴かせるように言って、その指示に従ってロス・バグダサリアンがサイモン・ワロンカーのところにもっていって曲を聴かせたら彼はすごく感動して、それをリバティ・レコードから出すことになったんですね。で、大ヒット。

ペイシェンス&プルーデンス姉妹にとってはびっくりだったでしょうね。で、それから次のシングルが作られることになります。「Gonna Get Along Without Ya Now」。これもかなりヒットします。いい曲ですね。




ちなみにShe & Himはアルバム『Volume Two』でこの曲をカバーしています。




ところがここからあとに何枚かシングルを出しますがチャートにかすりもしなくなります。そんなシングルのいくつかに実はロス・バグダサリアンが曲を書いています。「Over Here」、「Little Wheel」、「Your Careless Love」の3曲。いずれもマークとの曲。どれもB面の曲のようです。あんまりたいした曲ではありません。でも、きっと彼女たちの曲を書いているときにプルーデンスがかけていた曲を聴いて「Witch Doctor」のヒントを得るんですね。


さて、チップマンクスで大ブレークしたロス・バグダサリアンはチップマンクスで「Tonight You Belong To Me」をカバーします。いろんな意味で彼にとっても大切な1曲であったはず(リンクした画像はチップマンクスとはなんの関係もありません)。




最後についでなのでShe & Himのズーイー(正しい発音はゾーイー)がウクレレで歌った「Tonight You Belong To Me」を。




「Tonight You Belong To Me」は最近ではウクレレによって演奏されることが多いようですが、どうやらそのきっかけになったのはこの『天国から落ちた男』という映画でこんなふうに歌われたのがきっかけだったようです。




ここでウクレレを演奏しているのはなんとあのライル・リッツさんなんですね。


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by hinaseno | 2016-12-23 13:18 | 音楽 | Comments(0)

「Tonight You Belong To Me」という曲が書かれたのはペイシェンスとプルーデンス姉妹が録音した1956年の30年以上も前の1926年のこと。作詞はビリー・ローズ(Billy Rose)、作曲はリー・デイヴィッド(Lee David)。

翌年、ジーン・オースティンが歌って初のメジャー・ヒット。




とはいってもそれがきっかけでスタンダードソングになったというわけではなさそうで、1952年にフランキー・レインによって歌われたのが久しぶりのリヴァイヴァル・ヒットだったようです。

でも、この曲を有名にしたのはまぎれもなくペイシェンスとプルーデンス姉妹が歌ってから。

これ以降、ポップスのスタンダードとしていろんなアーティストに歌われ続けています。基本的にはペイシェンス&プルーデンスのバージョンのアレンジに従っています。大瀧さんが大好きなナンシー・シナトラの、例の♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫を使ったこのカバーは特別ですね。もしかしたらアル・カイオラがギターを弾いているかもしれません。




さて、改めて考えてみると「今夜、あなたは私のもの」なんて歌詞の曲は、とても10歳と13歳の女の子が歌うべき内容ではありません(今、ふと気がつきましたが大瀧さんの「幸せな結末」の最後に何度もリフレインされる言葉は「今夜、君は僕のもの」でしたね)。でも、どうやら彼女たちがそれをレコーディングするに至るまでにはいろんな段階があったようです。


彼女たちが「Tonight You Belong To Me」の曲を覚えたのはサマーキャンプだったようです。ただしそれは「Tonight You Belong To Me」とは歌詞が少し違っている曲。タイトルも「Tonight You Belong To Me」ではなく

「They Say」というものだったようです。調べてみたらコーラ・パンディット(Korla Pandit)という頭に変なターバンを巻いているテレビのスターによって歌われたレコードが1951年に出ています。残念ながらその音源は聴くことはできないのですが、2004年にCollectors’ Choice Musicから出た『The Best Of Patience & Prudence』には、最後にボーナストラックとして♫I Know~♫ではなく♫They say~♫と歌われているバージョンが収録されています。その音源のタイトルは「Tonight You Belong To Me (previously unreleased version)」となっていますが、おそらくそれが「They Say」というタイトルで歌われていた曲のはず。

このCDの解説には収録された音源についての説明が詳しく書かれていないのでよくわからないのですが、解説に書かれていることから推測してみると次のようになりそうです。

1956年の4月にマッキンタイア一家は友人の家から自宅に車で戻っていた時に、母親のオードリーが車の中で娘たちにキャンプで覚えた歌を歌うように言ったようです。そこで彼女たちが歌ったのが「They Say」。でも、音楽家としていろんな活動をしていた父親のマークはそれが「Tonight You Belong To Me」というタイトルで歌われた古い歌だと気がつきます。多分彼の頭に浮かんだのはジーン・オースティンが歌ったもののはず。もともとはワルツだったんですね。でも、彼女たちが歌ったのはおそらくは後に彼女たちが歌っているようなシャッフル・リズムだったようでマークはそれが気に入ります。で、それをレコーディングしようと考えるんですね。

録音したのはあのフィル・スペクターが数々の音楽を録音したゴールド・スター・スタジオ。スペクターがここで録音するのは数年後のことですが。(つづく)



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by hinaseno | 2016-12-22 12:48 | 音楽 | Comments(0)

ロス・バグダサリアンがエンジニアのテッド・キープといっしょに初めてテープの早回しサウンドを作り上げた曲が「Witch Doctor」でしたが、彼にこれをつくるきっかけを与えたのは当時11歳の少女でした。少女の名はプルーデンス。


先日文字起こしした「アメリカン・ポップス伝パート4 第5夜」で大瀧さんが語られていましたが、ロス・バグダサリアンがアルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』に出演した後にリバティで発表した曲がヒッチコックの映画のタイトルをそのまま使った「The Trouble with Harry(ハリーの災難)」というコミックソングでした。改めて曲を貼っておきます。




アーティスト名はアルフィ・アンド・ハリー(Alfi and Harry)。アルフィ(Alfi)というのはおそらくはヒッチコックのファーストネームからとったもの、で、ハリー(Harry)は「ハリーの災難」の主人公の名前ですね。

なんともいいかげんなグループ名なので、2人組のようだけれどもきっとチップマンクスと同じく実際はロス・バグダサリアン一人でやっているものだと思っていました。でも、違っていました。

一応アルフィがロス・バグダサリアン。曲でずっとしゃべり続けているのが彼ですね。で、ハリーはハッピー・ピエール(Happy Pierre)というアーティスト名で活動していたマーク・マッキンタイア(Mark McIntyre)というミュージシャン。おそらく彼がピアノを弾いているんだろうと思います。

「The Trouble with Harry」の作曲者のクレジットはHuddlestone, Eiseman, McIntyreとなっていてマッキンタイアの名前はありますがロス・バグダサリアンの名前は見当たりません。ただこのシングルのB面の「A Little Beauty」という曲はロス・バグダサリアンが一人で書いています。ちなみにチップマンクスの曲ではロス・バグダサリアンとマーク・マッキンタイアが共作した曲がいくつかあります。

ロス・バグダサリアンとマーク・マッキンタイアは公私にわたって親しかったようで、お互いの家を何度も訪問しあっていたんだろうと思います。そして1957年の暮れのある日、たぶんロス・バグダサリアンがマッキンタイアの家に行っていた時に、マッキンタイアの娘の一人、プルーデンスが聴いていたレコードに耳を止めます。彼女が聴いていたのは「Bozo and the Hummingbirds」。どうやらその曲には曲を早めたり遅くしたりする部分があったようで、ロス・バグダサリアンはそこに興味を持ちます。で、自分でもやってみたんですね。もともと言葉のやり取りを曲に入れるのが好きな彼がテープを早回ししていわゆるムシ声で作ったのが「Witch Doctor」でした。


さて、この「Witch Doctor」のきっかけをあたえたプルーデンスには3歳年上の姉がいました。姉の名前はペイシェンス。ペイシェンスとプルーデンスの姉妹は父親のマーク・マッキンタイアとロス・バグダサリアンが組んだグループ、アルフィ・アンド・ハリーが「The Trouble with Harry」を作った同じ年の1956年にこの曲を大ヒットさせていました。

曲のタイトルは「Tonight You Belong To Me」。




「Tonight You Belong To Me」という曲についてはこの日のブログをはじめ、何度かこのブログでも書いてきました。大瀧さんがシリア・ポールと渡辺満里奈さんのアルバムで2度もカバーした曲。大瀧さんにとっては大好きという以上の曲にちがいありません。

このペイシェンスとプルーデンス姉妹が歌った「Tonight You Belong To Me」をリバティ・レコードから発売するきっかけを作ったのがロス・バグダサリアンでした。

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ペイシェンス&プルーデンス(左が妹のプルーデンス、右が姉のペイシェンス)


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by hinaseno | 2016-12-20 14:40 | 音楽 | Comments(0)