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アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(6/6)

(はじめに)この日放送されたプログラムは、アメリカン・ポップス史的には前回文字起こしした部分の話がひとつの大きなクライマックスでした。そこで終わっていてもよかったような気もします。

ところが大瀧さんはこの日のプログラムの最後の最後にもうひとつのクライマックスを用意していたんですね。それもとびっきりロマンチックな物語。そこでかかったのが以前から僕の大好きな曲の1つであった「That’s All」という曲でした。

正直言えば、僕は今までボビー・ダーリンをほとんど聴いていなくて、ボビー・ダーリンが歌う「That’s All」を聴いたのもこのときが初めて。で、それははっきり言うと考えられないような曲になっていたんですね。「That’s All」に抱いていたイメージが壊れるような歌。

「That’s All」については改めて書こうと思っていますが、この曲の詞で語られているのはとてもささやかな愛情の告白。例えばこんな歌詞。


 あなたに与えることができるのは春に田舎を散歩することと

 木の葉が落ち始めたときにつなぐ手

 それから冬の夜を暖かくする燃えるような光をもった愛…


僕の知っている男性シンガーも女性シンガーもすべてしっとりと歌っているんですが、ボビー・ダーリンはこの詞からは考えられないような歌い方をします。本来の歌詞の「That’s All」という言葉にこめられたニュアンスさえ全く違って聞こえます。

で、そのあとにかけられるのがコニー・フランシスのバージョン。これも初めて聴いたんですがこれがすばらしいんですね。

ということで、この日のプログラムの最後の部分を。


*   *   *


さて、ボビー・ダーリンに話を移します。ボビー・ダーリン、本名ウォルデン・ロバート・カソット(Walden Robert Cassott)、イタリア系です。イタリア系で男性歌手となりますと当然目標はフランク・シナトラとなるわけですね。幼少時代からシナトラのような大歌手になるというのが周囲の期待でもあったわけです。ですからいくらポップ・ヒットが出てもボビー・ダーリンは満足することはありませんでした。

「ドリーム・ラヴァー」をヒットする前にですね、実はこのスタンダードナンバーを集めたアルバムを企画していたんです。すでにこの曲は「ドリーム・ラヴァー」よりも前に録音されていて、しかも後々ヒットするんですが、半年以上も前に録音されておりました。


BOBBY DARIN / Mack the Knife(Take 7)

(注)ここでかかるTake 7には演奏前の語りが少し入っているのですが、以前紹介したCDに収録された音源はこのYouTubeのものと同じで語りの部分がありません。大瀧さんが番組で使用した音源はいったいどこで手に入れたものなんでしょうか。


このリリースが遅れたのはですね、周囲、特にDJの反対が大きかったといいます。せっかく「ドリーム・ラヴァー」が大ヒットしてティーンの客をこれだけつかんだわけだからみすみすそれを失うことはなかろうというのがDJの意見だったんですね。

ところが半年後、出してみたら人気が落ちるどころかさらに広がってナンバー1を獲得しました。9週ですね、他のチャート紙では10週、連続1位だったんですね。そしてまたこの曲は音楽界最大の栄誉であるところのグラミー賞を獲得しました。ここでボビー・ダーリンはティーンのアイドルから大人の歌手へと、つまりシナトラへの道が開けたわけですね。

「マック・ザ・ナイフ」が入ったアルバム、このアルバム・タイトルは「ザッツ・オール」と言いまして、このアルバムも大ヒットしました。スタンダード・ナンバーを集めたものでした。


BOBBY DARIN / That’s All


シナトラへの道まっしぐらという感じですね。この曲をボビー・ダーリンが録音したすぐ後にコニー・フランシスも同じ曲を録音しています。


CONNIE FRANCIS / That’s All


う~ん、ボビー・ダーリンへのラブレターという感じですね。切々と歌っておりました。まさにボビー・ダーリンへの後追い三味線ですな、これは。本名コンセッタ・ロサ・マリア・フランコネロ(Concetta Rosa Maria Franconero)、イタリア系です。

ボビー・ダーリンはこの後、夢の舞台であるコパカバーナに出演します。そして『ダーリン・アット・コパ(Darin at the Copa)』というアルバムも出ます。

その半年後、「コニー・フランシス・アット・コパ(Connie Francis At the Copa)」というアルバムも出しました。

どこまでもボビー・ダーリンをフォローするコニー・フランシスさんではありました。


CONNIE FRANCIS / Follow the Boys

(注)改めて言うことでもありませんが、この日の特集で大瀧さんが何度も「フォロー」や「追い続ける」という言葉を使っていたのは、最後にかかるこの「フォロー・ザ・ボーイズ」の伏線だったというわけです。


「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」はニューヨークのその後としましてボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの3人組の物語をお送りいたしました。この3人の共通人物がアルドン出版社のドン・カーシュナーだったことを含めまして、今までのストーリーをアルバムにするとなるとタイトルは「ティーンエイジ・トライアングル(Teenage Triangle)」、つまりこれが「ティーンエイジ・トライアングル」のヴォリューム・ゼロ(Vol.0)だったというわけですね。

その後の3人ですけれどもボビー・ダーリンはこの後映画に進出するというおきまりのコースですね。コニー・フランシスはアルドン出版社のライターのヒットが続きます。セダカは持っていた音楽センスを活かしてポップスの名曲を次々と発表することになるんですが、続きは日を改めて60年代アルドン・ミュージックの時代でお話しすることにいたします。それではまた明晩。


(おわりに)残念ながら多くの人が聴きたくて仕方がなかった「60年代アルドン・ミュージックの時代」は結局放送されることはありませんでした。でも1976年に始まった「ゴー!ゴー!ナイアガラ」はまさにそのアルドン・ミュージックのスタッフ・ライター特集から始まるんですね。

第1回目の放送の最初に番組の紹介の後、いきなり「第1回目はアルドン・スクリーンジェムズのスタッフ・ライターの特集、今週と来週はキャロル・キング作品の特集です」となるんですね。いきなりこれを聴いた人は「アルドン」?「スクリーンジェムズ」? ですよね。

で、第3回目がニール・セダカの特集。そして第5回目のジャック・ケラーの特集の時にコニー・フランシスの曲が3曲もかかります。

このジャック・ケラー特集が素晴らしかった。コニー・フランシスはジャック・ケラーの曲との相性が抜群なんですね。

このジャック・ケラー特集のことはボビー・ヴィーの話のときに触れるつもりです。でも、「ゴー!ゴー!ナイアガラ」から40年後の新たなアルドン・ミュージック・ストーリーを聴いてみたかった。


それから映画に進出したボビー・ダーリンの話は「アメリカン・ポップス伝パート4 第5夜」、つまり結果的には最後となってしまった「アメリカン・ポップス伝」で語られます。出演した映画でサンドラ・ディーに出会うんですね。

というわけなので、「アメリカン・ポップス伝パート4 第5夜」で少し語られたボビー・ダーリンとサンドラ・ディーの物語をその部分だけ文字起こししようと思っています。

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ボビー・ダーリンとコニー・フランシス


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by hinaseno | 2016-11-30 14:09 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(5/6)


(はじめに)今日文字起こししたのはこの日のプログラムのクライマックスの部分。いよいよボビー・ダーリンの「ドリーム・ラヴァー」からコニー・フランシスの「カラーに口紅/フランキー」、そしてニール・セダカの「オー、キャロル」が登場します。まさにシックスティーズ・ポップスが誕生する瞬間が興味深く語られています。ここに至る話の中でも、これがなければ、この人がいなければ、この人があの行動を取らなければという話の連続でしたが、今日文字起こしした部分はすごすぎます。こんなところにこんな人がいたのかという驚きのつながりが大瀧さんによって次々に示されます。本当によく調べられているなとただただ感服。この日の部分だけでも1冊の本にする価値がありそうです。ってことで文字起こしを。

*   *   *

さて、セダカがロックンロールの「アイ・ゴー・エイプ」を録音していた頃にボビー・ダーリンは自作のポップソングのデモを作っていました。


BOBBY DARIN / Dream Lover (Demo)

(注)これはかなり貴重な音源ですね。調べたらライノから出ているボビー・ダーリンのボックス『As Long As I’m Singing: The Bobby Darin Collection』に収録されていることがわかりました。録音は1959年2月。まさにバディ・ホリーが飛行機事故で亡くなった月。

番組では1番を歌い終わったあたりで音は絞られるのですが、2番に入る直前の間奏でギターがちょっと面白いフレーズを弾くんですね(この音源の0:33あたり)。で、大瀧さんはちょっと吹き出します。確かにそこはかなりコミカル。演奏しているのはもちろんあの人です。


(笑)え~、あの半音はなんですかね。これをレコーディングするにあたって…、あっ、これ、ギターはおそらくアル・カイオラでしょうね、で、ボビー・ダーリンは自分でギターを弾いてんだと思います。

これの正式なレコーディングをする前日にですね、ボビー・ダーリンはニール・セダカに電話したんですね。で、明日のセッションでピアノを弾いてくれないかと頼んだんです。ボビー・ダーリンはデビュー以来、ピアノは全部自分で弾いているんですね。セッション・マンを使ったのはたったの一度しかないんです。不思議なことなんですね、この曲だけ前日、突然ニール・セダカをピアニストとして使ったんですけどね。


BOBBY DARIN / Dream Lover


アル・カイオラのギターがデモよりも高音になっていますよね。オクターブ上げたほうがいいというアイデアはセダカがセッション中に出したものだと言われています。ま、本人が言ってますね。

また、もうひとつですけれども、この曲のドラマーはセダカのメイン・ドラマーだったスティックス・エヴァンズがたたいています。エヴァンズがボビー・ダーリンのセッションに参加したのは後にも先にもこの時だけなんですね。ですからこの曲は完璧なるセダカ・サウンドに聴こえてしまうのであります。

この「ドリーム・ラヴァー」は最高位が2位と大ヒットしていた59年の6月ですが、追いかけるようにチャートを上がってきたのはコニーのこの曲でした。


CONNIE FRANCIS / Lipstick on Your Collar

(注)ほぼフルコーラスかかります。


コニー・フランシスの「カラーに口紅」でしたけれども、途中のギター・ソロはジョージ・バーンズ(George Barnes)という有名なジャズ・ギタリストです。途中のフレーズはさすがにジャズマンという感じがしますね。この頃になりますとニューヨークのジャズ・ミュージシャンもロックンロールのニュアンスをかなり出せるようになってきています。ジョージ・バーンズはカントリーのレコードなんかも出していますね。

それにしてもボビー・ダーリンがロックだと言えばロック、ポップだと言えばポップというふうにコニーのボビー・ダーリンへのフォロー度合いがすごいですね。

「カラーに口紅」のB面はニール・セダカのバラードでした。


CONNIE FRANCIS / Frankie


あ~いいバラードですね。このへんからコニーとセダカの相性がぴったりしてきましたね。このあとは次々に名曲が生まれます。A面の「カラーに口紅」は5位、B面の「フランキー」は9位と、両方がトップ10入りするというコニー・フランシス初の両面ヒットです。この両面ヒットはシックスティーズ・ポップス幕開けを感じさせるシングル盤というふうにも言えると思います。また「カラーに口紅」は私のポップスの原点となった曲でありまして、非常に思い出深い曲であります。

「カラーに口紅」、「フランキー」の両面ヒットが出た後、いよいよ真打、ニール・セダカの大ヒットが登場します。


NEIL SEDAKA / Oh! Carol


これは9位となってセダカ初のトップ10・ヒットです。これでようやくボビー・ダーリン、コニー・フランシスとトップ10シンガーの仲間入りができたというわけですね。この時点では3人ともまだナンバー1ヒットは持っていません。

さて、この「オー、キャロル」、このアレンジの元ネタはご存知ダイアモンズの「リトル・ダーリン」。


THE DIAMONDS / Little Darlin’


このダイアモンズのアレンジなんですけれども、これはチャック・セイグルその人だったんですね。どこにもクレジットされてなくて別の人の名前が書かれていますから今まで知られていなかったんですけれども。ニール・セダカがそう発言しています。また、ダイアモンズを調べますと、チャック・セイグルは当時別名を使ったり、あるいは本名でB面を作曲したりしています。「オー、キャロル」はこの「リトル・ダーリン」の真似だと思っていたんですが、実は本家本元のアレンジであったわけです。


この「オー、キャロル」にはアンサー・ソングがあったということは最近では有名な話となっております。


CAROLE KING / Oh, Neil


歌っていたのはご存知キャロル・キングですね。作詞は旦那のゲリー・ゴフィンが書いています。この二人が結婚する前ですね、キャロル・キングとニール・セダカは10歳の頃から知り合いだったそうです。そこでセダカが元のガールフレンドであったところのキャロルという名前を使って詞を書いてくれとグリーンフィールドに頼んだと。それが「オー、キャロル」であったわけです。

キャロル・キングが歌った「オー、ニール」のアレンジとプロデュースはチャック・セイグルです。何度も出てきますけれども。この「オー、ニール」のおかげといいますかね、これが契機となりまして、ゴフィン&キングはドン・カーシュナーと知り合ってアルドン出版社と契約したんですね。

この二人のゴフィン&キングはセダカの次のアルドンのエースになりましたし、さらにはシックスティーズ・ポップスの牽引車となったわけです。この「オー、ニール」が第1作だったんですね。なにがきっかけになるかというのは本当にわからないものです。

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ニール・セダカとキャロル・キング、後ろにいるのはチャック・セイグル


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by hinaseno | 2016-11-29 13:09 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(4/6)

さて、58年6月にアルドン出版社と契約したニール・セダカに与えられた仕事はリトル・アンソニーとインペリアルズの第2弾を作ることでした。彼らの第1弾とは、


LITTLE ANTHONY & THE IMPERIALS / Tears on My Pillow


「ティアーズ・オン・マイ・ピロウ」、これがPOPチャートでは4位となる大ヒットで、プロデューサーのジョージ・ゴールドナー(George Goldner)は第2弾を探していたんですね。そこでグリーンフィールドとセダカのコンビが書いた曲が「ザ・ダイアリー」ということになりました。


LITTLE ANTHONY & THE IMPERIALS / The Diary


お聴きになってわかる通り肝心なところでコードを間違えていたりとかですね、ジョージ・ゴールドナーは勝手に歌詞を変えたりしてニール・セダカはずいぶん憤慨したそうですね。

で、アルドン出版社のアル・ネヴィンズ(Al Nevins)の勧めもあってセダカは自分のレコードの第1弾をこの曲にしようというふうに決めました。これ、他人にアレンジやプロデュースを任せた場合によく起きることで、作者側としては出来上がってきてね、ちょっと違うんだよなぁということがあると、その思いが高じると、これはこうやるんだよというふうに自分でやりたくなったりするもんなんですけどもね。おそらくセダカもそういう思いだったんじゃないでしょうか。レコード会社もアル・ネヴィンズがスリー・サンズ(The Three Suns)時代の古巣ですね。RCAと決まってデビュー曲「ザ・ダイアリー」を録音することとなりました。


NEIL SEDAKA / The Diary (1st Version)

(注)ポップス伝でかかったのはこのYouTubeの音源とは別テイクのもの。同じ日に録音されたもののようですが、キング・カーティスのサックスのフレーズが放送でかかったものとはかなり違っています


これが最初の「ダイアリー」なんですね。サックスはキング・カーティスなんですけれども、なんか日本のムード歌謡みたいですね。やってはみたものの満足できる出来ではなかったんですね。そこでニール・セダカはコニー・フランシスのセッションで知り合ったアレンジャーのチャック・セイグルを呼んできたんです。それから彼はセダカのアレンジャーというふうになるんですけれども、初期の楽曲はすべて彼が編曲しています。そして再録音されたセダカのデビュー・シングル「ダイアリー」はめでたく59年1月に発売されました。


NEIL SEDAKA / The Diary


これがPOP14位、R&Bでも25位にチャートされまして、セダカはこの時点で歌手としてコニー・フランシス、ボビー・ダーリンと肩を並べることができたのでした。

「ザ・ダイアリー」に続きましてセダカの第2弾シングルはお得意のジェリー・リー・ルイス調のロックンロールでした。


NEIL SEDAKA / I Go Ape


「アイ・ゴー・エイプ」! ニール・セダカでした。

(注)曲が終わった後に「アイ・ゴー・エイプ」! と発した大瀧さんの声が印象的です。「ゴー・ゴー・ナイアガラ」ではノリノリのロックンロールがかかった後には時々そんな声を発することがありますが、アメリカン・ポップス伝ではとてもめずらしい。それだけこの曲が好きなんですね。


曲が始まる前に、前の語りがついてましたけどね、あれをヴァースといいますけれども、こういうヴァース付きっていうのはセダカの得意技の一つでもありました。

これはチャック・セイグルのアレンジが光っていて素晴らしい出来で、ニューヨーク生まれのロックンロール・ナンバーとしてはこれがもうナンバー・ワンではないかというふうに僕は思います。特にドラムが凝っているんですよね。ドラマーはスティックス・エヴァンズ(Sticks Evans)といいます。この人は非常にうまいんですね。それからもう一人、ブラシをたたいている人がいてダブルでリズムを刻んでいます。

ところがこの素晴らしいニューヨーク生まれのロックンロールができたわけですけれどもチャートは42位と振るわなかったんです。しかしですね、イギリスではこの「アイ・ゴー・エイプ」、セダカのデビュー・ヒットなんですね。で、なんと9位にランクされているんです。アメリカは42位。このあたりもアメリカとイギリスとのロックンロールの捉え方の違いが表れているというふうにも言えますし、59年になりますとアメリカではブームに陰りが出ていますからね。そういう関係もあったかもしれないです。

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後方左からハワード・グリーンフィールド、チャック・セイグル、アル・ネヴィンズ、ニール・セダカ。手前はドン・カーシュナー

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左からキング・カーティス、ハワード・グリーンフィールド、ニール・セダカ、ドン・カーシュナー、アル・ネヴィンズ



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by hinaseno | 2016-11-28 13:04 | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(3/6)

さて、一方のニール・セダカもマイナー・レーベルからレコードを出し続けておりました。


NEIL SEDAKA / Ring-a-Rockin’


「リング・ア・ロッキン」でした。ジェリー・リー・ルイス・タイプの曲ですね。ボビー・ダーリンよりもやっぱりニール・セダカのほうが作曲能力は高いですね。もしこの曲がヒットしていたらニール・セダカのほうがニューヨーク初のロックンローラーというふうになっていたわけです。ところがニールのロックンロールはヒットせずにボビー・ダーリンの作った曲のほうがヒットしたというわけでした。


BOBBY DARIN / Splish Splash (take 2)

(注)ここでかかるのはこの音源の2:07あたりから聞ける「Take 2」の音源の演奏前のやりとりの部分。あの独特の音色をしたギターが聴かれます。


え~イントロでギターを弾いていたのはおそらくアル・カイオラですね。「ギター、どう弾いてんだ?」みたいなことで、ちょっと弾いたという感じです。

ということでニューヨーク初のロックンローラーは結果的にボビー・ダーリンということになってしまったわけですけれども、これがヒットしていたときに1位だったのはコースターズの「ヤケティ・ヤック」でしたからアトランティック・レコードとしてはこのころはウハウハの状態だったわけですね。

ついにヒットの出たボビー・ダーリンはロックンロール路線を突っ走りました。


BOBBY DARIN / Mighty, Mighty Man


ボビー・ダーリンの「マイティ・マイティ・マン」でした。やっぱり歌うまいですよね、ボビー・ダーリンはね。


さて、ボビーよりも先に登場したコニー・フランシスは第2弾を出します。


CONNIE FRANCIS / I’m Sorry I Made You Cry


え~「アイム・ソーリー・アイ・メイド・ユー・クライ」。自信が出てきたんでしょうね。歌い上げてました。「フーズ・ソーリー・ナウ」とまったく同じ路線だったんですけれども、実はこれは36位と低調だったんですね。そこでもう次の第3弾にプレッシャーがかかりました。ここでさらに順位を落としますと「フーズ・ソーリー・ナウ」はまぐれだったということになりますからね。

この第2弾からはMGMの新しいプロデューサー、モーティ・クラフト(Morty Craft)が担当したんですけれども、まあ彼も相当あせったでしょう。いろいろと曲を探したんですけれども、なかなかいい曲がなくて。そこへドン・カーシュナーが登場します。

彼が始めた出版社に今度契約したコンビがいるということでセダカとグリーンフィールドを連れてきたんですね。その場にはボビー・ダーリンもいましたがいろいろ聴いている中でコニーは「この曲、わたしにちょうだ~い!」と叫んだのがこの曲でした。


CONNIE FRANCIS / Stupid Cupid

(注)この曲のイントロは松田聖子の「Rock'n'roll Good-bye」(作曲、アレンジはもちろん大瀧さん)ですね。今日気がつきました。


後半に聞こえるピアノはニール・セダカが弾いています。「ステューピッド・キューピッド」、ここでコニー・フランシスはニューヨーク最初の女性ロックンローラーというふうになったわけで、恋人ボビー・ダーリンの「スプリッシュ・スプラッシュ」の後を追ったということになりました。

(注)ここで大瀧さんは最後に少し笑いかけます。この日の裏テーマはボビー・ダーリンの後を”追い続ける”コニー・フランシス、ということになっているのですが、考えてみると「スプリッシュ・スプラッシュ」も「ステューピッド・キューピッド」もタイトルが語呂合わせのようになっていますね。コニーが「この曲、わたしにちょうだ~い!」と叫んだときにそれをどれだけ意識したかはわかりませんが。


それよりもこのセッションは重要な偶然がありました。この「ステューピッド・キューピッド」をアレンジしたのはチャック・セイグル(Chuck Sagle)です。彼は以前マーキュリーのスタジオでアレンジの仕事をしていたんですけれども、プロデューサーのモーティが呼んできたんですね。セダカにとってこのチャック・セイグルとの出会いは非常に大きかったんです。「ステューピッド・キューピッド」がゴキゲンなロックンロールに仕上がったのもこのチャック・セイグルのアレンジの力が大きかったんですね。

で、同じ日のセッションでもう1曲セダカの曲が録音されました。


CONNIE FRANCIS / Fallin’


え~まあ「フィーバー(Fever)」ですけどね。このブルージーなムードは100%アレンジャーのチャック・セイグルの腕によるものなんですね。セダカはこのアレンジが相当気に入ったとみえますね。

で、この2曲「ステューピッド・キューピッド」は14位、「フォーリン」は30位とランクはそう高くはありませんでしたが、コニーはニール・セダカによってロックンロール路線を始めることができたわけです。


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by hinaseno | 2016-11-27 13:07 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(2/6)


では、この時ボビー・ダーリンはどうしていたかと言いますと、前回もお話ししましたがデッカからアトランティックに移籍して、自分の路線をどれにしようかというふうに迷っていた時代だったんですね。まあしかし時代はロックンロールですからボビー・ダーリンとドン・カーシュナーのコンビはそれ風の曲を作りました。


BOBBY DARIN / Pretty Betty

(注)ここでかかったのはやはり演奏前の会話が入ったテイク違いのもの。おそらく『Roberto Cassotto - Rare, Rockin'& Unreleased』に収録されたTake 5の音源ではないかと思います。残念ながらYouTubeにはありませんでした。


え~(笑)、リトル・リチャードの「トゥッティ・フルッティ(Tutti Frutti)」ですね。

続いては「ドント・コール・マイ・ネイム」。


BOBBY DARIN / Don’t Call My Name


え~まあ(笑)、これはすぐにわかりますね。ファッツ・ドミノの「エイント・ザット・ア・シェイム」ですけども、この2曲をカップリングして売り出しましたが、まったくヒットしませんでした。

ちょうどこの時期ですね、アトランティックが待ちに待っていたリーバー&ストラーのコンビがニューヨークにやってきました。そしてコースターズのニューヨークにおける初セッションということになるんですけれども、ここでボビー・ダーリンが曲を提供していたんですね。


THE COASTERS / Wait a Minute


え~(笑)オチがいいですよね。「サーチン(Searchin')」と「ヤング・ブラッド(Young Blood)」を足した歌ですけれども。ボビー・ダーリンとドン・カーシュナーのコンビは本当にわかりやすいですね、作る曲が。このコンビは作家チームとしては大失敗でドン・カーシュナーは作家の夢を早々と捨てて出版事業に走ったのが大正解だったんですね。人生早めの切り替えが大事ということでしょうか。

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ボビー・ダーリン(左)とドン・カーシュナー(1956年春)


ニューヨークに来て本家のリーバー&ストラーがコースターズ用に書いた最初の曲が「ヤケティ・ヤック」でした。


THE COASTERS / Yakety Yak


やっぱりノヴェルティ・ソングを作らせたらこの二人にかなうコンビはいませんね。


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by hinaseno | 2016-11-25 15:34 | ナイアガラ | Comments(0)

前から予告していたように今日から何回かにわけて「アメリカン・ポップス伝パート3の第2夜」の文字起こしをします。この日の放送の大瀧さんがつけたタイトルはボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカによる「ティーンエイジ・トライアングルVol.0」。この3人の絡み合いの中で60年代ポップスの原点ともいうべき曲が作られていくストーリーは何度聞いても興奮しますが、同時にコニー・フランシスのボビー・ダーリンへのフォロー度合いも語られるところが面白いのですね。ただ、そのボビー・ダーリンがサンドラ・ディーと結婚することになることまではこの日の放送では語られません。

この日の一番の聴きどころはボビー・ダーリンの「ドリーム・ラヴァー」、コニー・フランシスの「カラーに口紅」とそのB面の「フランキー」、そしてニール・セダカの「オー!キャロル」がかかるところですね。アル・カイオラも登場します。

放送でも語られていますがコニー・フランシスの「カラーに口紅」は大瀧さんのポップスの原点。ちなみに、僕はもちろん後追いではありますが、初めてオールディーズ(大瀧さんはこの表現を使いませんが)で好きになったのがコニー・フランシスの「フーズ・ソーリー・ナウ」でした。ということなので、この日の放送でこれがかかったときにはかなり感動したことを覚えています。コニー・フランシスが「フーズ・ソーリー・ナウ」を歌うことになるエピソードを語るときに大瀧さんが声で演技をしたのが笑えました。


*  *  *


アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(1/6)


大瀧詠一です。アメリカン・ポップス伝パート3の第2夜。本日はニューヨークのポップス・シーンについてボビー・ダーリンとコニー・フランシス、そしてニール・セダカの3人に絞りまして、その3人の関係がニューヨーク・ポップス、さらには60年代ポップスを作っていくその過程をタイムラインを追いながら説明していこうと思います。

まずは前回のおさらいから。


BOBBY DARIN / Splish Splash

(注) このときにかかるのは演奏前のやりとりも入っている「Take 7」の音源(『Roberto Cassotto(Aka Bobby Darin): Rare, Rockin'& Unreleased』というCDに収録された音源のようです)。この日の放送ではこのようなやりとりの入った音源がいくつか使われています。


ニューヨーク最初のロックンローラーとなったボビー・ダーリンはブロンクスの学校時代の知り合いだったドン・カーシュナーと作家コンビを組んで音楽ビジネスをスタートしたということは前回もお話しいたしました。そしてコマーシャルの仕事をしていた時にコニー・フランシスと知り合って。コニーはすでに55年にレコード・デビューを果たしていました。デビュー曲は「フレディ」という曲でした。


CONNIE FRANCIS / Freddy


このように売れないシングルが続いて、そして4枚目がボビー・ダーリンとドン・カーシュナーの曲でした。


CONNIE FRANCIS / My First Real Love


ボビー・ダーリンもコーラスでがんばりましたが、全くかすりもしませんでしたね。そうこうしているうちにボビー・ダーリンもレコードを出すことになってメジャー会社のデッカからデビューします。


BOBBY DARIN / Silly Willy


ボビー・ダーリンもデッカから4枚シングルを出しましたが、これも全く売れませんでした。

さて、もうひとりのニール・セダカは同じニューヨークでもブルックリンですからボビーやコニーとは住んでいる場所が違いました。もっともコニーはニュージャージーでしたけれどもね。

セダカは同じアパートに住んでいたハワード・グリーンフィールドとコンビを組むことになります。それが1952年です。それにしてもこの2人が同じアパートだったというのは、まあ出来すぎのような話なんですけれども、同じ学校とか、近所に住んでいたとか、よくある話なんですよね、これがね。グリーンフィールドの方が先輩だったので出版社に曲を売り込みに回っていたんですね。するとプログレッシヴ・ミュージックという会社がありまして、そこが2人の曲を買ってくれました。その曲はアトランティックのクローヴァーズが吹き込んだのです。


THE CLOVERS / Bring Me Love


クローヴァーズの「ブリング・ミー・ラヴ」でした。この2人の才能を認めた出版社のジェリー・ウェクスラーはもう1曲彼らの曲を取り上げて女性グループのクッキーズに歌わせました。タイトルは「パッシング・タイム」。


THE COOKIES / Passing Time


このクッキーズとはセダカは6年後に再会することになるんですけれど、まあどちらにしてもこの2曲はB面で、言うなれば数合わせのB面作家として使われたわけですね。しかしアトランティック・レコードの重鎮であったところのジェリー・ウェクスラーは後に「あの2人とはあの時に正式に契約をしておけばよかった」というふうに後悔したそうです。

セダカはこの当時、まだハイスクールに在籍中でした。アブラハム・リンカーン・ハイスクールという由緒ある名前ですね。ブルックリンにあるこの学校なんですけれども、他にもたくさんの音楽関係者を輩出しています。ハワード・グリーンフィールドも先輩でした、そこの学校の。それからポマス&シューマン(Pomus & Shuman)のモート・シューマン、大先輩ですね。他にはボブ・フェルドマン、ニール・ダイアモンド、この2人は後輩です。そして学校の同僚と組んだグループがトーケンズでした。


THE TOKENS / I Love My Baby


このトーケンズもヒットが出るのはこれから5年後のことなんですね。

コニー・フランシスはMGM、ボビー・ダーリンはデッカとメジャー会社だったんですけれども、ニール・セダカはマイナー・レーベルからのスタートでした。しかし結局3人とも全くヒットせずでエルヴィスが「ハートブレイク・ホテル」で登場した1956年のことでしたが、この3人にとってはスターへの道はまだ遠かったのでした。

翌57年、コニー・フランシスにとっては試練の年となったんですね。というのもこの3年間で9枚もシングル盤を出したんですが1曲もヒットしなかったんです。さすがにMGMレコードもしびれを切らして、次の10枚目のシングルもヒットしなかったら契約を打ち切るというふうに言ってきたんですね。そこでステージパパの登場ですね。

パパは「いいかいコニーよ、おまえは18曲も無駄にした。だから最後だから私の大好きな曲を歌ってくれよ」というふうに頼んだんです。それは30年以上前の古い歌でした。


ISHAM JONES ORCHESTRA / Who’s Sorry Now


コニーのパパはこの歌が大好きで、いつも歌っていたんだそうですね。しかしコニーは「こんな古くさい歌はイヤよ」と言って断ったんだそうですけれども、まあ結局は最後だということで押し切られて吹き込みをすることになりました。ま、しかし結果的にはそれが大ヒットとなってコニー・フランシスはようやく有名になれたわけです。


CONNIE FRANCIS / Who’s Sorry Now


「フーズ・ソーリー・ナウ」、コニー・フランシスでした。この曲がチャートを賑わしていたのは58年の4月頃ですから、すでにマーティ・ロビンスのポップ・カントリー調の曲は市民権を得ていた時期ですね。ロッカ・バラードとポップ・カントリーを足したようなアレンジが成功の原因だったんじゃないでしょうか。

このレコーディングに関してコニー・フランシスはおもしろいことを言っています。「ここまでのシングルは常にだれ風に歌おうというふうに考えていた。しかしこの時はだれの真似もしなくて自然に歌えた」と言っているんですね。ですからコニー・フランシス自身の歌い方を見つけたということなんでしょう。

ということでボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの3人の中で最初に登場したのはコニー・フランシスでした。


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by hinaseno | 2016-11-24 12:55 | ナイアガラ | Comments(0)

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今回のイベントに参加された三島さん、光嶋さん、松村さんは3人とも東京を離れて暮らすということを選び取られた方々。三島さんは京都、光嶋さんは神戸(内田先生の凱風館の近所ですね)、そして松村さんは岡山(立教大学から昨年4月に岡山大学にいらっしゃったとのこと)。それぞれの身体感覚で東京に対する違和感を感じ、そこを離れる決断をされたんですね。

三島さんの会社があったテナントはビルのかなり高い階にあったそうですが、「東京を見下ろすというのは出版という仕事には合わない」と考えて、京都に移られたんですね。移られたのは京都の古い民家。地面に近い場所から感じ取ったものを形にしているんですね。『ちゃぶ台』というシリーズはまさにそういう感覚を形にしたような本といえるように思います。


そういえば今回のトークイベントではそれぞれの身体感覚をもとにした経験を語られることが多く、それはとても腑に落ちるものでした。トークは熱を帯びていながら決して感情的になることなく、終始冷静に相応しい言葉を選び取られようとされていることに大変好感をもちました。

「『これからの町』を考えよう」というテーマだったものの話は多岐に渡ったので中にはどうやら違和感を覚えられた方もいらっしゃったようですが、僕自身は有意義で楽しい時間を過ごすことができました。


光嶋さんが、時の経過が生み出すもの(場合によっては予想もしない形のもの)の大切さを語る中で、凱風館は完成した当初よりも5年が経過した今の方がはるかにいい建物になっていると言われたのを聞いて、ますますぜひ一度凱風館を訪ねてみたい気持ちに。


岡大の松村さんの活動もこれから注目していこうと思います。松村さんの専門は文化人類学。アフリカのエチオピアでフィールドワークをされてきたようです。松村さんのことはミシマガジンで「セトウチをいく」で意識するようになったのですが、それ以前にもミシマガジンで「<構築>人類学入門」や「月刊 越尾比屋人」を連載されていたことがわかりました。「月刊 越尾比屋人」の方はときどき読んでいました。その最終回に書かれたこの文章も心に残るもので深くうなずくものがありました。

現在連載中の「セトウチをいく」も興味深い話ばかり。好きな町の一つである日生(「ひなせ」と読みます)を取り上げたこの日の文章もとても興味深いものでした。日生にはもう何年も行っていないのですが、あんな美術館があるなんて知りませんでした。ちなみにこのブログの「ニックネーム」はhinaseno。実はニックネームというのがこのような形で表示されるなんて思ってもみなくて、ブログを始める数日前に食べた日生の鰆が頭に浮かんで「hinasenosawara」を考えて長すぎるので「hinaseno」にしたら、それがそのまま名前として登録されたんですね。すぐに変更しようとしたんですが、どうやら無理みたいだったのでそのまま使っています。まあ、今では好きなミュージシャンの一人であるジョー・サラセノ(Joe Saraceno)に似てていいかなと。

関係ない話でした。近いうちに行ってぜひあの美術館を見ようと思っています。

松村さんの一番新しい文章は「不受不施派」に関すること。不受不施派については例の永瀬清子さんの家が不受不施派だったんですね。この日のブログでちょっとだけ触れています。

文化人類学者である松村さんがこれからどのような岡山を発見されていくのかとても楽しみです。


最後に新刊である『ちゃぶ台 Vol.2』のことを。ミシマ社らしさといえば「コーヒーと一冊」シリーズとこの「ちゃぶ台」シリーズではないかと思います。この本の面白さは手にとってみればわかります。装幀がすごいんですね。台割をつくらず、いろんな作家の方が書かれた原稿が集まった順に掲載して本をつくっていく。それぞれがどんな分量の文章を書くかもわからないままに。というわけで目次は最後のページについています。しかもこの本、本がぱかっと完全に開くんですね。何も知らずに例えば書店で手にとったらちょっとびっくりします。本が壊れるんじゃないかと。

さて、今回の『ちゃぶ台 Vol.2』は「革命前々夜号」となっていますが、実際には食と会社を考えるということで、その会社を考える特集の最初に登場しているのが平川克美さん。

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会社特集を組むことで三島さんの頭にまっさきに浮かんだのが平川さんだったんですね。で、三島さんは今年の5月に平川さんのところに話を聞きに行きます。イベントでも三島さんがそのときのことを話されたんですが、会場は爆笑。本当は笑えない話だけど

インタビューはこんなやりとりから始まります。


平川 今日はなんの話なの?
ーー『ちゃぶ台』という雑誌で「会社」特集をしようと思いまして。まっさきにお話を伺いたいと思って来ました。
平川 いやあ、会社ですか。まいったな。ぼくは、会社の経営について語る資格があるのか疑問なんですよ。実はぼくがやっている会社のひとつが、もうじき解散することになりまして。で、来月には会社の借金精算などで、家がなくなり貯金が全部なくなるんです。とほほでしょ。でも、なんか気持ちいいんだよね。


「会社」特集の最初のインタビューにのっている平川さんの最初の言葉というのがこれ。過激ですね。この後も平川さんの口から次々に過激な言葉がでてきます。でも一聴、一読の価値ある言葉ばかり。

話の中で平川さんは何度か「行くところまで行くよ」と語っています。トランプさんの登場で、さらにその言葉は現実味を帯びて来ました。


ーー行くところまで行くとどうなるんですか。
平川 行くところまで行くとさすがムシロバタじゃないけど、革命が起こるわけだよ。


この言葉が今回の「革命前々夜号」という副題につながったようです。

で、平川さんの最後の言葉。


(本来は動物世界では自然な形であるはずの)適者生存の世界を生き延びていくためには、弱い人間はある程度の集団、つまりは共同体をつくっていくのがああ。そして、共同体を存続させるためには、要所要所にぼくが責任を持つという人間が必要になります。『小商いのすすめ』に書いた「本来自分の責任じゃないことを自分の責任としてやる」っていう人間たちが立ち上がってくるしかないと、ぼくは思っているんです。

この最後の言葉は先日のトークイベントの結論ともつながっています。

ぜひ『ちゃぶ台』を手にとってみてください。

光嶋さんの『これからの建築』は今読んでいるところです。

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by hinaseno | 2016-11-23 15:13 | 雑記 | Comments(0)

旧内山下小学校で行われたのは建築家の光嶋裕介さんと岡山大学文学部准教授の松村圭一郎さんとミシマ社代表の三島邦弘さんによるトークイベント。

ちょっと前置きが長くなりますがそれぞれの方々について。


今回のイベントはミシマ社から先日発刊された『ちゃぶ台Vol.2』と『これからの建築』(光嶋裕介著)の発刊を記念してのものでした。ミシマ社は今年創業10周年を迎えられたんですね。ミシマ社とその代表の三島さんのことは内田樹先生を通して会社の創業当時から知っていました。内田先生はミシマ社の3冊目に当たる『街場の中国論』をはじめとしてミシマ社から何冊か本を出されています(『街場』シリーズですね)。そして平川克美さんもこのブログでも取り上げた『小商いのすすめ』や『「消費」をやめる-銭湯経済のすすめ』を。


この夏におひさまゆうびん舎で益田ミリさんの『ほしいものはなんですか?』の原画展が開かれましたが、それもミシマ舎から出版されたもの。ほかにも今年読んだ本で言えば、あの『海街diary』の是枝裕和監督の『映画を撮りながら考えたこと』や今年公開された牛窓を舞台にした映画『牡蠣工場』の想田和弘監督の『観察する男』もミシマ社です。


建築家の光嶋裕介さんもやはり内田先生を通じて知りました。光嶋さんが建築家として最初に手がけられたのが内田先生の道場兼住居である凱風館なんですね。内田先生がまだ何も建てられた経験を持たない光嶋さんに道場を建てることを依頼したいきさつは個人的には大好きな話です。

内田先生はずっと合気道をされていて、いつか道場を持ちたいとずっとおっしゃられていました。実は僕は内田先生はきっと中村好文さんに依頼されるだろうと思っていた時期がありました。中村好文さんは僕の好きな建築家で何冊か本も読んでいましたが、確か『考える人』という雑誌にそれぞれが文章を寄稿されていたということで内田先生は中村好文さんに何度かお会いされているんですね。中村好文さんはあの村上春樹さんの家も建てられているので、おそらく内田先生は何かの機会に依頼されるにちがいないと勝手に考えていました。ところがある日突然、まだ何も建築経験を持たない光嶋さんに依頼するんですね。

そのきっかけというのは、内田先生の麻雀の会(でしたっけ)に初めて光嶋さんが参加されて、光嶋さんと話がはずんで、そのときに光嶋さんが建築家だと聞いて、じゃあ僕の道場を作ってよとその場で言ったと。すごいですね。

内田先生は常々「僕は人を見る目があるんだ」と公言されていますが(たいていは平川さんとの対談の時で、必ずそのあとには「それに比べて君は…」と続きます)、まさにという感じです。

光嶋さんが凱風館を建てられる過程をネット上で公開されていたので、それを読みながらどうしてもそれを見たくなったんですね。で、落成式の直前くらいにそれを見に行きました。


凱風館があるのはJRの住吉駅の近く。今からちょうど5年前の11月上旬のある日に凱風館に向かいました。ただし下車したのは住吉駅ではなくその隣の六甲道駅。前から一度行ってみようと思っていた宇仁菅書店と口笛文庫が六甲道駅に近いんですね(そのすぐ後に宇仁菅書店が閉店するというニュースを聞いたときにはびっくりでした)。

で、口笛文庫に立ち寄った後、凱風館まで約2kmの道のりをてくてくと歩いて行きました。建物はほぼ完成していましたが大工の人たちはまだいろいろと作業中。一応写真を撮らせてもらおうと大工の一人に許可を求めたら呼んでこられたのが光嶋さん。快く写真を撮らせていただきました。これがその時に撮った写真。

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さて、今回ミシマ社から出版された光嶋さんの『これからの建築』のもとになっているのがミシマガジンで「これからの建築スケッチ」と題されて連載されていたエッセイ。

ミシマガジンのこともこのブログで何度も紹介してきました。ミシマガジンは始まった当初は内田先生の「凱風館日乗」と平川さんの「隣町探偵団」が連載されていて(今はどちらも休止中)ワクワクしながら読んだものでした。


そのミシマガジンで昨年から「セトウチを行く」と題したエッセイを連載されているのが松村圭一郎さん。ミシマガジンは現在ではかなり多くの人が連載されていて最近はすべてを読むことはできなくなっていますが松村さんの連載はそのタイトルを見たときから関心を持って毎回興味深く読ませていただいています。今回のイベントで知ったとのですが、松村さんは三島さんの大学時代の同級生とのこと。


ってことで前置きが長くなりました。トークイベントが行われたのは小学校の体育館。

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左が司会の三島さん、真ん中が光嶋さん、そして右が松村さん。

三島さんと松村さんが1975年生まれ、そして光嶋さんが1979年生まれ。この世代には応援したくなる人が多いですね。


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by hinaseno | 2016-11-21 13:22 | 雑記 | Comments(0)

先日亡くなったアル・カイオラについて語られた大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝」の文字起こしを進めていますが、ちょっと休憩して昨日の話を。最近はタイムリーな話を書けなくなってしまっていて、後回しにすると書ける日がいつになるかわからないので先に書いておきます。


昨日行ったのは岡山市内にある旧内山下小学校。平成13年に閉校になったそうですが、戦前の古い校舎も残っていて、たぶんその校舎を残そうという動きからその校舎を様々なイベントに活用しているようです。そのことは数年前から知っていて、何度か行ってみたいイベントもありましたが(特に行きたかったのは青葉市子さんのライブ)、いろんな都合で行けないままだったので、今回はようやく。ぜひお目にかかりたい方々だったので。


旧内山下小学校があるのは岡山城の近く。というか実際には城の敷地内にあるのかな。岡山城の天守閣は岡山空襲で焼失しましたが、この内山下小学校の校舎も、その校庭の西のはずれにある岡山城西丸西手櫓も、それからそのすぐそばの禁酒会館も空襲と火災の被害から免れているんですね。

ちなみにこのあたりはこのブログでもなんども取り上げてきた場所。何度か地図を貼りましたが今日は航空写真を。

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真ん中に見える交差点で路面電車が90度に曲がるんですね。その曲がっているあたりにある「アムス」というのが例のコピックを買った画材屋さん(関係ないけど次回から文字起こしをする話のテーマを大瀧さんはティーンエイジ・トライアングル Vol.0と名付けましたが、その元にあったのは「ティーンエイジ・トライアングル Vol.1&2」。メンバーはコルピックスというレコード会社に所属していたジェームス・ダーレン、ポール・ピーターセン、そしてシェリー・フェブレーの3人。おひさまゆうびん舎でのイベントの時に高橋和枝さんがくまくまちゃんを描くときに使っている画材はコピックだと言った瞬間に僕の頭の中に浮かんだのはシャリー・フェブレーの愛くるしい顔でした)。


さて、その高橋さんもあの『ノーラ、12歳の秋』をはじめとしていくつも小学校を描かれていると思いますが、やはり小学校というのはいいものですね。いうまでもなく古いほうが雰囲気があります。

内山下小学校の校舎は尾道の久保小学校や土堂小学校のような外観の素晴らしさはありませんが廊下とか階段とか教室には昔のごく普通の小学校の雰囲気がそのまま残っていました。そしてほとんどの教室が何らかのイベントに使われていました。残念だったのは耐震の問題とかで2階から上には行けなくなっていたこと。


実は僕が行く予定にしていたイベントの場所をきちんと確認していなかったので、あちこち歩き回る羽目に。おかげでいろんな写真を撮ることができました。

というわけで、いくつか写真をアップしておきます。「理科室」とか「音楽室」と書かれた看板がおそらくは昔のままに残されているのもよかったです。「図書室」はどうやら3階以上にあったんでしょうね。

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by hinaseno | 2016-11-20 14:09 | 雑記 | Comments(0)

前回まで「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」の文字起こしを3回に渡って行ってきました。文字起こしをしたのは50分のプログラムのちょうど30分のところまで。このあとエルヴィス、そしてパット・ブーンの話になっていき、それはそれでまた興味深い話が続くのですが、今回のブログのテーマであるボビー・ダーリンとアル・カイオラの話からはそれてしまうので残りの20分間の文字起こしは省略することにします。


前回のブログのタイトルにもしたように、60年代ポップスのサウンドの原点となったのはポール・アンカの「ダイアナ」と、曲をプロデュースしたドン・コスタと、あのフレーズをギターで演奏したアル・カイオラだったという大瀧さんの指摘は、そのあとにかかった曲を聴いてわかるように本当に鋭いというか衝撃でした。

ただ僕なりに補足をすれば(もちろん大瀧さんはそれを十分に理解されていたわけですが)アル・カイオラが「ダイアナ」でやったギター・フレーズをそのまま演奏したボビー・ダーリンの「ドリーム・ラヴァー」と、さらにその「ドリーム・ラヴァー」でピアノを弾いたニール・セダカが同じサウンド(ギターがアル・カイオラだったかどうかは不明)を使って作った「オー!キャロル」の2曲が大ヒットしたというのがアメリカン・ポップス的にはとりわけ重要だったように思います。

でも、「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」ではおそらく時間の関係もあって大瀧さんはその部分をさらっと流しただけでした。もちろんこのプログラムを作った時すでに、その部分に焦点を当てた特集を後日組むことを考えていたにちがいありません。それが「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」でした。全20回の「アメリカン・ポップス伝」のプログラムの順序で言えば、この日の放送の2回後のこと。


「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」のテーマはボビー・ダーリン、ニール・セダカにコニー・フランシスを加えた3人組の物語。さらにこの3人の共通人物であるアルドン・ミュージックのドン・カーシュナーも含めて、大滝さんはこの日の特集のタイトルを「ティーンエイジ・トライアングル Vol.0」と名付けました。実質的にはこの3人こそがアメリカン・ポップスの原点であるということですね。

ということで次回からは「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」の文字起こしをしようと思います。そちらは全文文字起こしする予定なので何日かかるやらです。


最後にそれを書き起こす前にいくつか補足的なことを。

「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」の文字起こしした部分の最後にバディ・ホリーの話が出てきます。彼の亡くなり方が神話的だったために、映画『アメリカン・グラフィティ』でも語られるように「バディ・ホリーが死んでロックンロールが死んだ」という言葉が定説のようになってしまっているのですが、大滝さんはそれに異を唱えていますね。58年暮れにはバディ・ホリー自身もロックンロールからポップスへの路線変更をしていたと。これもとても重要な指摘。

前回の文字起こしした部分の最後にかかったのはバディ・ホリーの「It Doesn't Matter Anymore」(作曲はポール・アンカというのがとても興味深いですね)。これが録音されたのが1958年10月21日。場所はニューヨーク。

実はこの日録音された4曲はどれも素敵な曲ばかりなんですね。「It Doesn't Matter Anymore」の他にはバディ・ホリー自身が書いた超名曲「True Love Ways」、ブライアント夫妻が曲を書いた「Raining In My Heart」、そしてノーマン・ペティが曲を書いた「Moondreams」。

で、注目すべきはこの日のセッションでギターを弾いていたのがまさにアル・カイオラ。あの♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫は聴かれませんが、でも、バディ・ホリーがあの飛行機事故で亡くなる3ヶ月前に録音されたこれらの曲でアル・カイオラがギターを弾いていたというのはとても興味深いことですね。


ところでバディ・ホリーとボビー・ダーリンは58年頃にはかなりの親密な交流があったようで、バディ・ホリーが58年の7月にニューヨークで録音した2曲(「Early In The Morning」と「Now We're One」)はいずれもボビー・ダーリンの曲。2曲ともロックンロールですね。

で、あのバディ・ホリーとリッチー・ヴァレンスビッグ・ボッパーの3人が飛行機事故で亡くなった59年2月のツアーにどうやらボビー・ダーリンも誘われていたようです。結果的にはそれ以前の約束があったためにボビー・ダーリンは断ったようですが、もしもボビー・ダーリンがこのツアーに加わっていたならば「Dream Lover」は生まれなかったかもしれません。「Dream Lover」のデモが作られたのはまさにその59年2月のことでした。ここで亡くなっていたらボビー・ダーリンはバディ・ホリーほどの語られるべき神話もないままで終わるミュージシャンになっていたでしょうし、なによりもその後の魅力的なアメリカン・ポップスの重要な部分が欠けたことになっていたかもしれません。


そういえば『アメリカン・グラフィティ』といえば、この日のブログでも紹介したこの会話も心に残ります。

「君、コニー・スティーヴンスにそっくりだね」
「ホントにそう思う? でも、私はサンドラ・ディーに似てるかなって思ってるけど」

このサンドラ・ディーと結婚したのがまさにボビー・ダーリン。結婚したのは1960年のこと。これを踏まえた上での「ティーンエイジ・トライアングル Vol.0」の物語を次回から。

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by hinaseno | 2016-11-19 14:08 | ナイアガラ | Comments(0)