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by hinaseno
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今日は『DEBUT AGAIN』に収録された、というか僕の”秘密の”『EACH TIME』のA面3曲目に収録した「Tシャツに口紅」の話を。
でも、これを書きながらずっと聴いているのは『EACH TIME 30th Anniversary Edition』に収録された「木の葉のスケッチ」のオリジナル・カラオケ・バージョン。
A面3曲目の座を奪われた「木の葉のスケッチ」ですが、曲として「Tシャツに口紅」に劣るというわけでは決してありません。これは声を大にして言っておかないと。
「Tシャツに口紅」は歌謡曲として少しだけ親しみやすいメロディをつけたのに対して、「木の葉のスケッチ」はアルバムの中の1曲として少しだけ難しいメロディをつけただけのこと。結果的にそれが親しみやすさ、口ずさみやすさの差になったんですね。

そういえば『Sound & Recording』という雑誌の5月号の巻頭企画「大滝詠一」で、今回の『DEBUT AGAIN』のマスタリングを担当した内藤哲也さんの話が載っていてこれが非常に興味深いものがありました。内藤さんは「ちびまる子ちゃん」以降の大瀧さんのセッションに参加されていて、『A LONG VACATION』の30周年盤以降のリイシューの中心的なスタッフでもあります。『EACH TIME 30th Anniversary Edition』でも、エンジニアのところに内藤さんの名前があります。
この内藤さんが大瀧さんの曲作りについてこんな話をされていました。おそらく『EACH TIME』以降の大瀧さんの曲作りはまさにこうだったんだろうなという話。

「いわゆる詞先、メロ先という制作方法があるとすると、ナイアガラはオケ先ですよね。大瀧さんはスタジオに入るときはメロディは全然できていないんです。自分の頭の中ではある程度できているのかもしれませんけれどね。で、オケが最初にありきで、そこにメロディを乗せて、さらには歌詞に合わせていきます。そういう普通と逆の作り方をするというのが面白いですよね。ただし、方向性が見えてから細部の詰めに至る過程は大変です。...」

ちなみに、大瀧さんと松本隆さんが共作した曲で、大瀧さん以外の人に歌われた曲はほぼすべて詞先で作られています。松田聖子の「風立ちぬ」も、森進一の「冬のリヴィエラ」も、ラッツ&スターの「Tシャツに口紅」も、薬師丸ひろ子の「探偵物語」や「すこしだけやさしく」もすべて詞先。
ただ、詞先だからといって、その詞に描かれた世界とか、言葉数をもとにしてメロディを作っていくわけではないんですね。あくまで大瀧さんが最初に作るのはオケ。

松田聖子の「風立ちぬ」について、大瀧さんはこんなことを書いていました。内藤さんの発言を裏付ける話ですね。

「これは詞が最初にあったのですが、松本的とはいえ〈文語体〉の出だしと〈すみれ、ひまわり、フリージア〉の花屋の店先のような詞に曲をつけるのはムズカシク、一度チラッと見ただけで、一週間以上目につかないところへ隠しておいたくらいでした。で、苦労して作曲したのですが、ナント、肝腎の本人が〈歌えない(彼女はいい曲だが、自分には向いていない〉と思ったそうです)ということで、なかなかヴォーカル・ダビングが行なわれませんでした」

というわけで、やはり松本さんの詞が先にあっても、大瀧さんはその詞の世界にひっぱられることなく、とりあえずまずオケを作って、その後メロディを作って詞をあてはめていくという形をとっていたんですね。
はじめて大瀧さんの曲を聴いた人にとってはびっくりするような譜割が出てくるのもこのあたりが理由のようです。

ただし、例の渋谷陽一さんの番組で『EACH TIME』の本邦初公開の曲として披露された曲のように、これ以上ない程に完璧なオケが作られたにもかかわらず、それにメロディをあてはめることができずに終わった曲もいくつもあるようですが(そのいくつかが『SNOW TIME』に収録)。

「木の葉のスケッチ」のオケを聴いていると、無限にメロディの可能性を感じさせるものがあって、ときどき、おこがましくも自分独自の口ずさみやすいメロディに変えて歌いたくなることがあったりするんですね。何も無理にそんなメロディにしなくてもと思えるところがいくつも。

改めて気づかされるのは『EACH TIME』に収録された曲に関しては、聴いた人が口ずさみたくなるということよりも、とにかくボーカリストとしての大滝詠一の可能性を追求し続けた曲作りがされたんだなということ。

話が「Tシャツに口紅」にいきませんでしたね。
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by hinaseno | 2016-03-31 12:33 | ナイアガラ | Comments(0)

『DEBUT AGAIN』が発売されてから10日ほど経ちました。でも、僕が毎日聴いているのは先日紹介したこの”秘密の”『EACH TIME』。
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実は『DEBUT AGAIN』を全部通しで聴いたのは5回ほど。編集された方がよく曲順を考えられているなと思いつつ、大瀧さんの声によってすべての曲が歌われているとはいえ、それぞれがかなり違う目的のために歌われている曲が混じっているために、その違いの方が気になってひとつひとつの曲を味わいきれないなと。
これではいけないと、通して聴くことはやめて気になる曲から1曲1曲を取り出して聴いた方がいいなと考えました。
昔、45回転のシングル盤をすりきれるまで何度も何度も聴いたように。

さて、その最初に取り出した1曲はもちろん「Tシャツに口紅」。
この曲のクオリティが高すぎて他の曲がかすんでしまうんですね。とすると、取り出すしかありません。
最初は家でも車の中でも「Tシャツに口紅」だけリピートして聴き続けていました。で、聴きながら思ったのは、これは同時期に録音していた『EACH TIME』の中に置かれるべきだなと。入れて聴いてみたらどうなるんだろうかと。
これは僕の勝手な思い付きではなく、もともと「Tシャツに口紅」は『EACH TIME』制作中に(正確にいえば制作中断中に)作られたもので、曲の肌触りは『EACH TIME』そのもの。いや、肌触りどころか...。

大瀧さんは『EACH TIME』の20周年盤を出されたときに、こんな発言をされていました。

「(ラッツ&スターの「め組のひと」の)つぎの「Tシャツに口紅」はやらしてもらったんだけど、ああいうタイプのが『EACH TIME』に入っててもよかった。そうするともうちょっと目鼻があるものに...。わかりやすい歌謡のものがまったく入っていないからね。難しいものだけになってしまったんだけども」

でも、あれほどにクオリティの高い自ら歌う「Tシャツに口紅」を録音していながら、結局それを『EACH TIME』の20周年盤にも30周年盤にも入れませんでした。その理由もわからないでわけではありませんが。

というわけで””final”でも”complete”でもなくあくまで”my”『EACH TIME』を作成することにしました。
とはいうものの、『EACH TIME』は最初に出たLPのときから、大瀧さんが亡くなる寸前まで制作されていた『EACH TIME 30th Anniversary Edition』まで、収録曲も違えば、曲順も違うし、さらにはバージョン違いの曲も何種類かあって、そんな中にどうやって「Tシャツに口紅」をどういう形で入れたらいいのか、正直途方に暮れそうになります。
でも、結論的にはシンプルに。大瀧さんが亡くなったことを知った日のブログで書いた「勝手な希望」通りにしようと。

基本的には最初に出たLPの曲順で。1曲目は絶対に「魔法の瞳」。あの「眼が逢うたびに」のヴァースが僕にとっての『EACH TIME』の始まりです。後で付け加えられた曲はあくまでボーナストラック、つまり”my”『EACH TIME』からは外す。
それからバージョン違いのものがある「魔法の瞳」「夏のペーパーバック」「レイクサイド・ストーリー」もすべて最初のLPバージョンのものを。
LPのときには収録曲は全部で9曲という中途半端な数字だったので、「Tシャツに口紅」を入れればちょうど10曲。『ロング・バケイション』と同じ曲数、というか当時のアルバムの標準的な曲数になります。

ちなみにLPのときの曲順はこうなっています。

A面
1. 魔法の瞳
2. 夏のペーパーバック
3. 木の葉のスケッチ
4. 恋のナックルボール
5. 銀色のジェット

B面
1. 1969年のドラッグレース
2. ガラス壜の中の船
3. ペパーミント・ブルー
4. レイクサイド ストーリー

さて、「Tシャツに口紅」をこのどこに入れるかということですが、これも決まっていました。

A面3曲目。

そのアルバムを代表し、なおかつ親しみやすい曲が置かれる場所。『ロング・バケイション』では「カナリア諸島にて」が置かれた場所です。
もともとの『EACH TIME』ではここに「木の葉のスケッチ」が置かれていましたが、A面3曲目という位置に来るタイプの曲ではないと思っていました。もちろん大好きな曲ですが。

といいつつCDの時代になってはA面もB面もありません。
でも、やはり最初のLPのことを考えて最初の5曲がA面、そのあとの5曲をB面としようと。
ところがこんな条件も作ったために新たな問題が。

CDの時代になってもきっと意識されていたはずの『EACH TIME』の仮想B面は1曲目から3曲目を大瀧さんは固定しているんですね。「1969年のドラッグレース」「ガラス壜の中の船」「ペパーミント・ブルー」。この並びのことについてはこの日のブログでも書いています。
いかにもレコード盤をひっくり返した最初の曲らしい「1969年のドラッグレース」、以前書いたB2理論として大瀧さんが絶対にここに置くべきと考えていたはずの「ガラス壜の中の船」、そしてこの曲の余韻があるからこそさらに輝きを増す「ペパーミント・ブルー」。これは崩しようがありません。
で、「Tシャツに口紅」をそのままA面3曲目に入れるとA面が6曲ということになってしまいます。何かをB面にまわさなければなりません。

ちなみに『EACH TIME』の最後の曲は、あの大エンディングバージョンをもった「レイクサイド ストーリー」以外考えられないので、A面からまわす曲が入る場所は「ペパーミント・ブルー」と「レイクサイド ストーリー」の間しかありません。
いちばんすんなりしているのは「Tシャツに口紅」を入れたA面3曲目にあった「木の葉のスケッチ」をB面4曲目にまわすこと。
でも、どうもしっくりこない。と同時に、やはり当初大瀧さんがA面の3曲目に置いていただけのことはあって、この曲は独自の輝きを持っていることを改めて知ることとなりました。
「木の葉のスケッチ」はやはりある程度目立つ場所に置かなければ、ということでA面のラストに置くことに。その前のA面4曲目は『A LONG VACATION』の「Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語」的な「恋のナックルボール」を。結構いい流れです。
で、もともとA面のラストだった「銀色のジェット」をB面の4曲目に。これは苦渋の選択。でも、不自然な感じではありません。

というわけでこんな曲順になりました。1枚のCDに収まっているのでA面もB面もありませんが、一応振り分けています。

A面
1. 魔法の瞳
2. 夏のペーパーバック
3. Tシャツに口紅
4. 恋のナックルボール
5. 木の葉のスケッチ

B面
1. 1969年のドラッグレース
2. ガラス壜の中の船
3. ペパーミント・ブルー
4. 銀色のジェット
5. レイクサイド ストーリー

ということで、かなり個人的な好みによる『EACH TIME』ができあがったので、やはりジャケットも独自のものにしようと。

本来のアルバムのジャケットはこれですね。
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真ん中に描かれているのは都会の風景。
イラストレーターの河田久雄さんが描かれた絵を大瀧さんが何枚か見られて最終的にこれに決められたそうです。
『EACH TIME』の松本隆さんが書いた詞にはいろんな場所が出てくるのですが、都会が舞台になっているのは、まさに当初A面3曲目に置かれていた「木の葉のスケッチ」でした。
昔、付き合っていたけれども別れた二人が街の中で出会うという話。こんな歌詞が出てきます。
都会(まち)がくれた粋なはからいさ

『EACH TIME』を代表する曲といえば、後にシングルカットされた「ペパーミント・ブルー」と、『EACH TIME』に収録された曲の中で一番最初に録音され(『A LONG VACAITON』でいえば「君は天然色」)、後に『アメリカン・ポップス伝』などのいろんな特番のテーマソングに使い続けた「夏のペーパーバック」。いずれも「夏」の「海」を舞台にした曲ですが、それを押しのけて「都会」の風景を描いたものを採用したんですね。

でも、僕が作ったCDはそのA面3曲目に「Tシャツに口紅」という海を舞台にした曲を置いたので、やはり海が描かれた絵の方がいいなと。
で、河田久雄さんといえば、楽譜付きの画集『NIAGARA SONGBOOK2』にたくさんのイラストを描いていたので、改めてパラパラと眺めてみました。
その絵の中で、海を描いたものとしていちばんよかったのが上で紹介したものでした。この絵は『EACH TIME』のジャケットのかなり有力な候補だったのではないかと思っています。

ちなみに前々回に紹介したバージョンは、その画集に入っていないけど、河田さんの描かれた絵をチェックしていたときに見つけたもの。
文字のロゴは同じものがなかったので似たものを。左上のナイアガラのロゴは本当はちょっといじったものを作っていれようかと思いましたが、結局外しました。

というわけでこの『EACH TIME』が僕にとっては最高の最終形ということで、ず〜っと聴いています。A面3曲目に入った「Tシャツに口紅」も違和感がないどころか、ようやく収まるべきところに収まったという感じです。
次回はその「Tシャツに口紅」の話を。

最後に、今回のCDを作る過程で、改めて曲の魅力を再発見することになった「木の葉のスケッチ」を貼っておきます。


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by hinaseno | 2016-03-30 12:32 | ナイアガラ | Comments(2)

僕が最も敬愛するミュージシャン(敬愛するのはミュージシャンとしてだけではありませんが)である大瀧詠一さんの驚愕の未発表作品集『DEBUT AGAIN』、あまりにも語るべきことが多すぎて何から話をしていいやら。
とりあえず最初はジャケットに使われた写真の話から。
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このジャケット写真が公開されたときには驚きました。今まで一度も見たこともない写真だったので。
事務所っぽい部屋の机に座って電話をかけながら作業をしている大瀧さん。机の上には様々なものが置かれています。背景のテレビ画面に映っている映像とかも含めて気になるものばかり。

このジャケットのデザインを手がけられたのは岡田崇さん。細野さん関係の作品のデザインや例の『レイモンド・スコット・ソングブック』を制作された方ですね。もしかしたら岡田さんがいろいろとコラージュされたのかと思いながら、手持ちの大瀧さんのいろんな写真を調べていたらありました。
『EACH TIME』の翌年の1985年の夏に発売された『B-EACH TIME L-ONG』の、たぶんレコードショップに置かれていたちらしに掲載されていたこの写真。
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大瀧さんの着ている服も含めて、机の上に置かれているものはほぼすべて同じ。岡田さんがコラージュしたものではありませんでした。カセットテープがいくつも挟み込まれたドラムのようなものはすごいですね。こういうの売られていたのかな。
ちなみに僕は『B-EACH TIME L-ONG』は車の中で聴きたいと思って(まだ当時カーステにはCDを搭載していなかったので)、カセットテープを買いました。大瀧さん関係のものでカセットを買ったのはこれだけ。
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写真を細かく見比べてみると武者人形が手にしているCDが違っていますね。
それから最も大きく違っているのは後のテレビ画面の映像。『B-EACH TIME L-ONG』のちらしに映っているのは映像版『NIAGARA SONGBOOK』のワンシーンですが、『DEBUT AGAIN』の方に映っているのは大瀧さんのライブの様子をとらえた映像。これはどうやら『A LONG VACATION』発売直前の1980年12月16日に郵便貯金ホールで行なわれたライブのようです。この部分だけは岡田さんが入れ換えられたんでしょうね。
ちなみに、この日のライブのタイトルは「LET’S DEBUT AGAIN」。今回のアルバムのタイトルもここからとっているようです。

と書きましたが後で調べたらどうやら1981年6月1日に行なわれた新宿厚生年金会館でのライブ映像からのもののようです。

ところで大瀧さんの机に置かれているのは以前にも紹介した「EACH TIMES」という、『EACH TIME』が発売される数ヶ月前からやはりレコードショップの店頭に置かれていた新聞。これを見ると『EACH TIME』の発売をまだかまだかと待ちながらレコードショップに何度も足を運んでは毎号わくわくして読んでいた日々のことを思い出します。
その「EACH TIMES」の中でも最も興奮したのが、机の一番上に置かれている第3号。 はじめてジャケットが公開されたときのものです。新聞には「これがアルバム・ジャケット。『A LONG VACATION』とは一味違う河田久雄氏のイラストレーションに注目。」と書かれています。
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河田久雄というイラストレーターの名前を知ったのはこのときが初めて。
永井博さんが描いた『A LONG VACATION』の海の風景とは違ってそこに描かれていたのは都会(まち)の風景。でも、空気感はあまり変わらない。
このジャケットをカラーで見たのは店頭にポスターが貼られたとき。それもやはり衝撃でした。

大瀧さんの新譜をリアルタイムで待ち続けたのは後にも先にもこの『EACH TIME』だけ。だから『EACH TIME』には他のアルバムとは比べものにならないほどの思い入れがあります。
にもかかわらず、そのジャケットを勝手にちょっといじったものを作ってしまった理由を次回に書くことになりそうです。

これを書きながら久しぶりに聴いていたのは先程紹介した『レイモンド・スコット・ソングブック』。何から何まで本当に素晴らしいアルバムです。
この「Manhattan Minuet」という曲がお気に入り。


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by hinaseno | 2016-03-29 13:49 | ナイアガラ | Comments(2)

坪田譲治展のこと


岡山市にある吉備路文学館に行って開催中の坪田譲治展を見てきました。坪田譲治展が開かれていることはつい先日知って、開催期間が今月中ということであわてて。

坪田譲治という作家は今まであまり触れることのない人でしたが、最近になって間接的にいろんな形で接してきました。
まず、最も大きなものとしては例の山高登さんが全ての号の表紙を描かれた『びわの実学校』。坪田譲治という人を意識するようになったのは山高登さん経由でした。坪田譲治が岡山出身の作家であることもそのときにはじめて知りました。

それから川本三郎さん経由で知った『風の中の子供』という映画。その原作が坪田譲治でした。監督は小津の友人でもある清水宏監督。清水宏は子供好きで『蜂の巣の子供たち』など子供を主人公にした映画をいくつも撮っています。どれもいい映画なんですね。今確認したら『風の中の子供』の原作の舞台は坪田譲治が生れ育った岡山市とのこと。映画はどこでロケされたんだろう。改めて原作を読んでみようと思います。

展示場の部屋に入って最初に紹介されていたのは坪田譲治が師事した小川未明との関係のこと。小川未明もこれまでほとんど触れることのなかった作家ですが、先日、高橋和枝さんが絵を描かれた『月夜とめがね』という素晴らしい作品を買ったばかり。箱も買いました。

それからやはり『びわの実学校』も展示されていました。ただし第一号だけ。でも、そのそばに十周年記念の寄せ書きをした色紙が展示されていて、その中にもちろん山高登さんの名前もあり、ちょっとうれしい気持ちに。

さて、坪田譲治展で一番気になっていたのはやはり木山捷平との関係のこと。年はかなり違いますが、二人とも岡山出身で一時期雑司ヶ谷に住んでいたこともあり何らかの接点があるのではと思っていたらやはり。
坪田譲治に宛てた木山捷平の手紙が二通展示されていました。
一通は昭和16年12月24日付の「『河骨』出版記念会の出席の礼状」。木山捷平の『酔いざめ日記』を見るとこの年の4月30日に『昔野』と『河骨』出版記念会が開かれていて、その招待した人の中に坪田譲治の名がありました。ちなみにこの中には木山さんが詩を書いていた頃からの旧友で後に『びわの実学校』の第一号にも作品を載せている野長瀬正夫の名前もあります。坪田譲治と野長瀬正夫が知り合うきっかけになったのはもしかしたら木山さんなのかもしれません。
ちなみに村井武生はこの前年に大陸に渡っていたので会には参加していません。
ところでこの礼状、書かれたのは出版会から8ヵ月も後のこと。はっきり言って字もかなり汚くて読みづらい。脱字もちょこちょこあって、あとで書き足しをしています。礼状というには「・・・」な内容。
でも、まだ無名といってもいい時代の木山さんからのはがきを坪田譲治はきちんととっていたんですね。

もう一枚は昭和25年12月26日に書かれたもの。「病気中のため返事遅れの詫で」と題名がつけられていました。『酔いざめ日記』を見るとこの前月の11月25日に坪田譲治の還暦祝賀会が開かれていて木山さんが招待されていたようです。その礼状が坪田譲治から届いていたのにすぐに返事が書けないでいたわけですね。日記を見ると12月頃から持病の神経痛が出ていたようで、坪田譲治に返事を書いた12月26日の日記にはこんなことが書かれていました。

小生神経痛のため不自由な足で外出出来ず。(中略)今年も体が悪くて年の瀬となった。一人暮し心身共に疲れた。妻も子も亦哀れである。

さて最後に真ん中の展示コーナーを見ました。そこには坪田譲治文学賞を受賞した作品がずらりと。やはり子供を主人公にした小説ばかりのようです。
展示されてた作品で僕が持っているのはただ一冊。いしいしんじの『麦ふみクーチェ』。これは大好きな作品。このあといしいさんの作品はいくつか読みました。

おもしろかったのは坪田譲治文学賞のコーナーのおしまいに、なぜだか木山捷平文学賞の作品が何冊か並んでいたこと。
その中にはもちろん堀江敏幸さんの『雪沼とその周辺』がありました。この日のブログでも紹介しましたが、本当に大好きな本。

ところでその日のブログの最後は発売されて間もない『EACH TIME 30th Anniversary Edition』に触れていますね。ボーリングつながりの話で、先日のNHKの「SONGS」でピアノやチェンバロを演奏された井上鑑さんの話も。
というわけで、次回はいよいよ『DEBUT AGAIN』、というか例の”秘密の”『EACH TIME』の話になります。

ちなみに”秘密の”『EACH TIME』にはこんな別バージョンもあります。
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by hinaseno | 2016-03-28 10:50 | 雑記 | Comments(0)

「妹」と「いもうと」


そういえばおひさまゆうびん舎のイベントに行く前に書いていた村井武生の話が途中やめになっていました。彼の詩についてもう少しだけ触れておこうと思います。
ところで僕は木山捷平の研究本はほとんど読んでいないのですが(あんまり読む気もしない)、木山捷平と村井武生の関係はだれかが指摘しているんでしょうか。

ところで姫路のことが登場する「赤い酸漿」についてですが、あとで総社の清音読書会が作られた『木山捷平資料集』を見たら「木山捷平と姫路」の章で、この「赤い酸漿」のことも紹介されていました。作品を見る機会がなかったので、すっかり忘れていました。

さて、おひさまゆうびん舎でのイベントのある数日前に書いたこの日のブログで、木山捷平の「朝景色」が村井武生の「朝」という詩から多大な影響を受けていたことを書きましたが、まさにその「朝景色」に曲をつけたものが世田谷ピンポンズさんによって歌われるなんて想像すらしていなかった電車の中で、途中の車窓風景を眺めながら読んでいたのは、その日の朝に届いた村井武生の詩集『樹蔭の椅子』でした。
そう、村井武生の名前を知るきっかけとなった木山さんの『行列の尻っ尾』の「杉山の中の一本松」で紹介されていた詩集です。大正14年に抒情詩社から出版されたものですね。
この詩集、入手はまず不可能だと思っていましたが、ある可能性(相当に小さな可能性でした)にかけて少し努力してみたら手に入ったんですね。連絡があるまではどきどきでしたが、やはり縁があったということ。木山さんに関してはこうした縁が僕をひっぱってくれています。

『樹蔭の椅子』を読んで印象的だったのは妹のことを書いた詩が多かったこと。村井武生は父母の死後、妹とふたりで暮らす日々が続いていたようです。兄のためにいろんなことをやってくれる妹をいとおしく思う詩がどれもすばらしいんですね。
その一つの紹介します。題名はまさに「妹」。
  


 すり切らされた自分の下駄を
 黙つて直してくれる妹を眺めてゐると
 しみじみいとしさがこみ上げてくる

 父母がないために
 又一人の兄がふがひなく
 他の仕事が出来ないために
 他處の娘のやうに遊ばれもせず
 みづくろひをするひまも持たないことは
 年ごろのものにとつて
 どんなにさびしい気持ちであることか

 ぼんやり街道(おもて)をみてゐた妹は
 ふと兄のこの凝視に出あつて
 はつと鋏を持ち直したのである。

この詩を読んで、すぐに思い浮かべたのは以前にこの日のブログでも紹介した木山さんの「いもうと」という詩。体を壊して実家に戻った大正15年に書かれた詩です。詩の雰囲気や「いとほしさ(いとしさ)」という言葉などに、やはり村井武生の影響を感じずにはいられません。
  
いもうと

 窓の障子がだんだん明るんできた。
 妹はいつの間にか起き出て
 井戸端で米をといでゐる。
 そのとぎ方は幼く
 そのとぎ音は澄まない。
 さればなほさら
 この病(やみ)の身をいたはつてくれる妹のいとほしさ。
 雪はまだふつてゐるらしい
 今朝は井戸の水もつめたく
 彼女の手も赤くただれてゐよう――。

詩に多く接してきた人であれば村井武生の詩のほうを評価するだろうと思いますが、僕はやはり木山さんの詩のほうが好きです。何より木山さんの詩には季節感があって、より体に入り込んでくるような気がします。「いもうと」で描かれた冬の朝のしんとした風景と、体を壊している兄が目を覚まさないように音を立てずに家事をしている妹の姿の描写は本当に素晴らしい。

とはいいつつ、村井武生の詩は木山さんが影響を受けただけのことはあって本当にいいものが多くて、現在、彼の詩に触れる機会が全く無いという状況はあまりにも残念すぎるように思います。ぜひ、彼の詩集を出してほしいですね。

この写真は昭和9年に撮影された木山さんの家族写真。木山さんは後列の左端。このときは丸眼鏡をかけていますね。木山さんには二人の妹がいましたが、「いもうと」で描かれているのは真ん中に座っている月さん。詩を書いた当時は9歳でしたが、この写真のときには17歳。抱いているのは自分の子どもでしょうか。
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考えてみたら、僕の好きな詩人は妹思いの人が多いようです。宮沢賢治、そして松本隆さん。
その松本さんがはっぴいえんどの頃に詞を書いた曲に「朝」というものがあります。今朝この曲を聴きながらふと思ったのは、この詞の「君」というのはもしかしたら松本さんの妹のことではないかと。
歌詞を貼っておきます。歌詞カードに書かれているのは改行がすごいので、つい先日新版が出た松本隆さんの『風のくわるてつと』に収められている形で。これも結構改行がすごいけど。
  


 朝がカーテンの隙間から洩れ
 横たわる君を優しく包む 
 白い壁に光は遊び なんて眠りはきみを綺麗にするんだ 
 今ぼくのなかを朝が通りすぎる 
 顔を乖(そむ)けひとりで生きて来た 
 何も見なかった何も聞かなかったそんな今迄が 
 昔のような気がする 
 もう起きてるの眠そうな声 
 眼を薄くあけて微笑みかける 
 何も言わずに息を吸い込む僕は暖い 
 窓の外は冬

曲をかいたのは大瀧さん。これもたぶん詞先のはずですが、大瀧さんはちょっぴり歌詞をかえて歌っています。
この音源の27:11から聴けます。


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by hinaseno | 2016-03-26 12:24 | 木山捷平 | Comments(0)

すっかり「赤い酸漿」から話がそれてしまいました。
木山さんが姫路の荒川小学校に勤めていた昭和2年にはいろんな形で何度も利用したはずの英賀保駅でしたが、残念ながら「赤い酸漿」では英賀保駅に触れられることもなく舞台は上郡からいきなり姫路駅に。
姫路駅に到着してバッグの持主の女性の住所である「姫路市××町十五番地」の家があるはずの場所に行くことになるかと思いきや、その期待はあっさりと裏切られることになりました。小説的にも、多少エロティックな期待を抱いていた人の気持ちも同時に裏切るようなことになる結末。結局、姫路市内で出て来た場所は姫路駅の待合室だけ。

とまあ、作品的には期待を裏切られることになりましたが、この作品をきっかけにして静太の手紙を読みかえしているうちにいろんな発見がありました。
興味深かったのは夏休みの帰省と『野人』の発行に関すること、そしてやはり「この土地でたつた一人の友」大西重利のこと。

『野人』は第一輯を昭和2年7月1日に発行しました。印刷は6月20日。木山さんとしてはこれを毎月発行するつもりでいました。ただし第一輯のあとがきでも書いているように「経済のゆるすかぎり」。

第二輯を発行したのは8月1日。印刷は7月20日。これは予定通り。
木山さんは8月5日に帰省。おそらく印刷が上がって何人かの人たちへの発送作業を終えた後に帰省したんですね。

問題だったのは第三輯。
これも予定通り8月20日に印刷されて9月1日に発行されています。でも、8月20日には木山さんはまだ帰省中。姫路にはいません。
木山さんとしてはできれば第三輯を印刷所に届ける8月20日までには姫路に戻りたかったはず。ところがどうやらそれができなくなったようです。

父静太の日記を読むと8月22日にこんなことが書かれていました。

讃岐の琴平参詣。捷平が家に居る時、この間にと思ひつきであつた。余は二十九年ぶり、妻は初回。これまでは養父母ありて、妻は家を空けるられず、余も一夜外泊もせざること十数年になる程だから夫婦連れの旅行などは思ひもよらなかつた。今年は末の子が小学二年となるから、姉さん、兄さんが家に居るから大丈夫とつたからだ。

ということで、木山さんが姫路に戻ろうかなと考えていた頃に突然、静太は奥さんと琴平(金比羅宮)に行きたいと言い出したようです。当日突然行くことを決めたわけでもないはずなので、おそらくは数日前に決めて木山さんに告げたはず。

困った木山さん。もちろん頼る人はひとりしかいません。
大西重利ですね。彼に急遽手紙を書いて事情を説明して、とりあえず第三輯の原稿を印刷所に持って行ってもらうように頼んだはず。手紙には第三輯に収録してもらう詩を書いた原稿を添えて。

第一輯から第五輯までの『野人』の中で、この第三輯だけがあとがきが書かれていなくて不思議に思っていたのですが、その理由はこのあたりの事情によるものだったようです。
たぶんこのときには印刷代も大西重利に立て替えてもらったはず。とにかく大西重利には世話になりっぱなしでした。

最後にもうひとつ発見した興味深いこと。
静太が姫路にやって来た後、10月27日に木山さんに書いた手紙の冒頭の言葉。

前略、二十七日夜のお手紙、今日石井が配達してくれた。先日の梨果友人へ分配されたそうだが、あれは虫入り果であつたから、虫入りは外面から窺ひ知れぬ大きなホラがあるものなれば、貰つたもので顔をしかめたかも知れぬ。

この梨はおそらく静太が姫路に来るときに、足を痛めながら笠岡駅で買ったものですね。木山さんはこの梨を友人にあげ、そのことを父親への手紙に書いたようです。
この友人が大西重利だったことはいうまでもありません。
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by hinaseno | 2016-03-25 12:00 | 木山捷平 | Comments(0)

木山捷平の父静太の手紙や日記を読むと、木山さんが昭和2年の10月初旬に姫路市内の千代田町に引っ越すまで、二度ほど帰省していることがわかります。このとき乗り降りしたのは最寄りの駅である英賀保駅のはず。
まずは6月11日の日記。

 捷平帰る。鰆の季節に一度帰れと言ひ遣りたるに今夜帰りたり。然し今日でよかつた。これまでは鰆が少くて高かつた。病人も皆よくなつて一家打揃つて語ることが出来た。
 五時に姫路を出発し、ここへ十時に帰着せり。

翌6月12日の日記にはこんな記述も。

 捷平の健康は大分よい。これならば心配ないようだ。顔色もよい肥へても居る。

昭和2年6月11日は土曜日。4月に姫路に赴任してからちょうど2ヵ月後の帰省。「鰆の季節に一度帰れ」と伝えていて帰ってきたということは木山さんも僕と同じように鰆が好きだったからなんだろうかなと。
ただ、この時の帰省は鰆のためだけではなかったはず。木山さんも「鰆の季節」にしなければならないことがわかっていました。
それは田植え。
田舎にある田圃の田植えは長男である木山さんが絶対に手伝わなければならない仕事でした。この仕事を元気よくやってもらったからこその「捷平の健康は大分よい。これならば心配ないようだ」との言葉のはず。

木山さんが昭和2年に書いた詩に「腰巻」というのがあります(第一詩集『野』に収録)。この詩はこの帰省のときにした田植えの経験をもとにして書いたにちがいありません。
  腰巻

 田植が来た。
 オカア!
 腰巻を一つ買うておくれ。
 七つも八つも
 つぎのあたつてゐるのをしてゐては
 若い衆に見られた時
 わしやはづかしいもの。
 のう、オカア!
 オトツツアンにたのんで
 腰巻を一つ買うてもらつておくれ。

木山さんが姫路に戻った後に静太が出した7月9日の手紙には田植えのことが少し書かれています。

田植は小川のほとり田は六月二十九日日曜日に植ゑた

きっと木山さんが帰省したときに田植えをしたのとは別の場所にある田圃の田植えをしたことの報告だろうと思います。

次に帰省したのは夏休み。7月24日の手紙にはこんなことが書かれています。

 十五日のお手紙十六日着、疝気の悩み全快の由安心、もう僅かの日子で休暇なれば帰宅を待ちつつあり。

この手紙の後、次の手紙が書かれるのは8月27日。もちろんその間、木山さんは実家に帰省していました。
8月25日の日記にはこう記されています。

 捷平行く。五日に帰つたのだから二十日間休んだのであつた。顔色がよくなり肥えたやうに見えた。

ということで、木山さんは8月5日に帰省して、25日に姫路に戻ったことがわかります。この帰省のときもやはりいろいろと農作業を手伝ったはずで、やはり昭和2年に書かれた「百姓の子」という詩はこの時の経験をもとにして書かれたのだろうと思います(「百姓の子」は『木山捷平全詩集』では昭和4年の作品と記載されていますが、昭和2年11月1日発行の『野人』第三輯に収録されているので、昭和4年というのはまちがい)。
 百姓の子

 日はてりながら時雨がすぎる。
 田の畔に立つて
 幼な子がないてゐる。
 ――あの子の母は
   どこへ行つたのだらうか?――
 みにくいなりの子がひとり
 収穫の野中でないてゐる。

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by hinaseno | 2016-03-24 14:42 | 木山捷平 | Comments(0)

秘密の『EACH TIME』


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秘密の『EACH TIME』。
この話はまた近いうちに。
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by hinaseno | 2016-03-24 11:30 | ナイアガラ | Comments(0)

姫路にやって来た翌日の10月20日に父静太が木山捷平に書いた手紙。ここにはまぎれもなくあの昭和2年の木山さんが生活していた姫路の風景があります。
冒頭に出てくるのは山陽線の汽車の中から見た荒川の風景。
荒川小学校、英賀保、町坪、飾磨…。
そして慰問を終えた後に向かったのは木山さんが下宿していた千代田町の家。

 昨日行きしなの車窓、運動会はよく見えた。が、何をして居るのかそれは観えるものではない。学校が見える間はよく見えたので町の坪(あたり?)は見えなんだ。英賀保の小学校にも高く網を張つたり旗が立つたりして居た。英賀保は十八日が祭礼だつたと車中で聴いた。軍隊には野砲兵第二中隊山部兼吉、第七中隊有本一二の二人が居るのでそれを慰問と称して出かけたのだ。折善く直に逢へた。兼吉君は前夜行軍に英賀保辺に出て徹夜した、一二君も同様徹夜で飾磨線の踏切辺で涼んだと話して居た。随分とキタヘルものらしい。
 余は胃腸が変なのと、風邪按排がよくないのと、も一つ朝笠岡駅で失敗、僅かの時間を利用して梨を買はんと柵を乗り越へて飛んだら足を痛めた。尾坂の和平君(接骨院)に行く必要を生じた。笠岡で八時二十分経由、村へおしまひの前の列車で着いた。
 駅前交番では警察の三十歳あまりのが、職務以外の事をさせたとブリブリ毒づいた。『おツさんももうこんなことをしてアいけんぞ』おツさん おツさんと浴びせかけ『おツさんの名は何といふんだ』などと来た。言ひなり放題に言はしておいた。何のこいつの如き青巡査めがと思ひ思ひ聞くんだから腹は立たなんだ。
そなたに頼んでおく、一度山部兼吉君に面会に出ねばならぬ。同じ部落の同年輩のもので同じ姫路に住んで居て、軍人となつとるものを一度訪問せぬといふわけはない。一度是非行つてくれ。駅から兵営手前三丁のところまで自動車賃二十五銭、野砲兵大隊の正門前に一人の歩哨が立つてる、面会に来たのだと言つて門内に入るのだ。門を入ると、すぐ兵が十人計り集つとるところで面会に来た何中隊の何某に逢はしてくれと申込むのだ。例の室で待たせる。手土産に煙草か菓子を買つて行くがよい。
 自分共昨日行つたのは面会ではなくて村を代表して慰問に行つたのだから、慰問される方は朝から待つとるので、尚更早くなるのだ。
 一、午後がよろしい、午前中は兵士ケイコをしとるから。
 一、面会はあつさりと切り上げるがよい。
 一、兼吉君は、来月末に除隊になるんだからもう早く行つてやるがよい、是非行かねばならぬ。已に遅れた方だ。
 昨日は忙しくて四時十五分の列車に乗り、弁当を買ひ、荒川あたりで食つたのだ。それまで何一つ口に入れなんだ。茶一杯飲まなんだ。姫路の弁当だけで足らなんだ。上郡で鮎ずしを買つて食つた。鮎でなくてニセモノだ、うまくなかつた。上郡の鮎鮓、三石の弁当、これが兵庫県西端、岡山県の東端の背中合せの二大名物として珍とするに足るのであらう。
 久保田邸は冬暖かそうで安心した。都会から田舎の学校へ通ふことは便宜なるを以つての故であつて、これも矛盾の事なることを知つて置くべきである。マツチ工場の音響、サホドでもないが耳には障る。これも都会のお蔭だ。姫路で他の都市にない特長のものがないかと聞かれたら、大いにある。自動車のよくゆすること、交番の巡査がよくドナルこと。此の二つで十分だ。姫路の誇りとすべしだ。二十日朝認む

慰問が予定よりも早く終わったので、やはり静太は木山さんが下宿していた家(久保田邸)に向かいます。「久保田邸は冬暖かそうで安心した」というところを見ると、やはり部屋まで入って行って日当りを確認したのかもしれません。
興味深いのはその後で木山さんの詩にも出てくるマッチ工場のことが書かれていること。たぶん木山さんが手紙でマッチ工場の音がうるさいとか書いていたんでしょうね。
手紙の最後には兵庫の端の上郡と岡山の端の三石も出てきます。

厳しい父親とはいいつつ、いたるところにやっぱり木山さんのお父さんだなと思わせる部分がありますね。駅で梨を買うために柵を乗り越えたら足をけがしたというくだりは木山さんの小説にも出てくるような話。
このときに静太が買った梨については後日興味深い話が出てきます。
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by hinaseno | 2016-03-23 14:53 | 木山捷平 | Comments(0)

昭和2年10月19日、木山捷平の父、静太は新山村の村民を代表する議員のひとりとして、姫路の軍隊(野砲連隊)に入った人達の慰問のために、はるばる笠岡からやってきます。新山から笠岡へは軽便、そして笠岡から姫路へはもちろん山陽線に乗って。
ちなみにこの姫路の野砲連隊には木山さんの第一詩集『野』の序文を書いた一人で、木山さんの姫路における”昭和3年”の友、坂本遼がいました。

新山村で慰問団を姫路の軍隊に派遣するのが決まったのは昭和2年9月の末。ただ、具体的な日にちはなかなか決まらなかったようです。
木山さんは10月の初め頃に荒川小学校近くの町坪から姫路市内の千代田町に下宿を変えています。千代田町に移ったのはもちろん『野人』の発行のことを考えてのこと。
『野人』を印刷していた大黒印刷は姫路駅のすぐ近くの姫路市南町にあったので、印刷したものを置いていたり発送したりするのは姫路駅に近い大西重利の南畝町288の家でやっていましたが(9月1日発行の第三輯までは発行所の住所は南畝町288)、やはりいろいろと頼ってばかりはいられなくなったんでしょうね。自分でやれることはやらなければということで、荒川小学校からは少し遠いけれど、姫路駅に近い場所に移ろうとしていた矢先に父親がやってくるということになったんですね。
木山さん、きっと気が気ではなかったはず。

結局、静太らの一行が姫路に来る日が決まったのが10月15日。この日静太が出した手紙には19日に行くことが決まったことの連絡の後に、こんな言葉が出てきます。

千代田とは下宿なりや、素人宿なるや、駅より遠きや。

この前に静太が木山さんに手紙を書いたのが10月3日なので、木山さんはおそらく10月10日前後に千代田町に引越しして、それを父親に伝えたようです。

ところで、この頃は木山さんはまさに『野人』の第四輯の発行に向けて準備していた最中。
詩人としての道は断念したと思っている父親に、そんなものを見られるわけにはいきません。慰問団の一員として自由な行動はとれないとは思いつつ、でも、姫路駅に近い千代田町の下宿を訪ねて来る可能性は十分にあります。
現に姫路に来る前日の10月18日の午後1時に書いた手紙には(着いたのは静太が姫路に来た後のはず)こんなことが書かれていました。

明日は久保田家へちょっと敬意を表したいが、とてもその暇はないであらうと思つて、その計画はせぬ。土産に梨果でも持つて行けばよい土産であるけれども、もうその用意はせぬことと決心した。

時間があれば千代田町の下宿先である久保田家へ訪ねて来ることを匂わせる言葉を書いています。
この手紙を読まなくとも、あの父親のことだから木山さんとしては絶対に下宿先にやってくるとふんでいたはず。

そしてついにその日がやってきます。
静太はいくつかの予定された行事をこなした後で、やはり木山さんの下宿していた千代田町の家を訪ねています。
静太が姫路に来た昭和2年10月19日は水曜日。この日荒川小学校は運動会。木山さんはもちろん学校に行っていました。
自分がいないときに部屋に入られて、詩を書いていたノートなんか絶対に見られてはいけない。こっそりと発行していた『野人』を発見されるなんてもってのほか。
ということで前日までに、詩を書いていたことに関わるようなものは、すべてどこかに隠していたはず。頼るべきはやはり「たつた一人の友」大西重利しかいませんでした。

ちなみに『野人』の第四輯の印刷は昭和2年10月25日。発行は11月1日。
やはりこの時も、いろんな面倒なことを大西重利に頼んでいたでしょうね。
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by hinaseno | 2016-03-22 12:36 | 木山捷平 | Comments(0)