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by hinaseno
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「苺の娘」と「田鶴山」


「杉山の中の一本松」では、小学校の教師を辞職したときのことについてこんなことを書いています。

私は予定のごとく、学校を辞職しました。首になったのではありません。私が辞表を出すと、校長も視学も、やっきになって引き止めて呉れました。それで辞表を受理してもらうまでに、一ヵ月以上もかかりましたが、そのわけはその頃その山の中では先生が不足していたからであります。

木山さんが後のエッセイで教師時代の話に触れたときには、たいてい「追い出された」とか「首になったも同然」といったような表現ばかりだったのでちょっとびっくり。でも、もちろん出石の弘道小学校を辞めたときも、あるいは菅生小学校を辞めたときもきちんとした手続きは踏んでいます。ただ、荒川小学校を一年で辞めて菅生小学校に移ったときにはちょっと校長との間でごたごたがあったようですが。

それはさておき、大正14年3月に出石の弘道小学校を退職した木山さんは「予定のごとく」東京に行き、東洋大学に入学します。住んだのは雑司ヶ谷。
でも結局1年もたたないくらいで体を壊して岡山の実家に戻り、昭和2年4月から再び姫路の荒川小学校で教師をすることになります。
木山さんの詩で最も惹かれるのは、この大正14年から昭和2年にかけて書かれたもの。特に希望に胸を膨らませていた大正14年にの作品は大好きなものばかり。

さて、「杉山の中の一本松」では冒頭、1つの詩が引用されています。タイトルは「苺の娘」。

田舎へかへらう
朝あけのやうなせいさんな 水辺の村へかへらう

むすめよ
よく からし菜や白菜を摘んでくれた娘よ
夕ぐれ近く
散歩帰りに そなたの畑の下路で口笛を吹きすますと
青菜のかげからいちごのやうに笑つたね
あんなにも素朴な
すつきりした笑ひをみせておくれよ
いつかそなたが 小川で素足を洗つてゐるときに会つたやうな
あんなせいそなはづらひを寄せておくれよ

ああ いちごのやうに明るい娘の畑へ もう一度かへらう。

読んですぐに思ったのは、これは木山さんの大正14年に書いた未発表作品ではないのかということ。「そなた」とかいくつかの言葉遣いは違いつつも、大正14年に木山さんが書いた詩と空気感がそっくり。木山さんが詩の中で使っているのと同じ表現も見られます。
たとえばこの「田鶴山」という詩。大正14年に書かれた作品です。

あを草の萌えた田鶴山
春が来ると
草の上に輪になつて
広い田圃を見下ろしながら
夏蜜柑の皮をむいて食べた。

学校がへりの疲れた体を
丘の窪みに横たへて
青い大空を見つめたり
啄木の歌を口吟したりした。

ああ、あんなにも素朴な
健康にみちみちたよろこびが
もう一ぺん僕等の上にやつて来ないものか。

「あんなにも素朴な」という言葉はまったく同じですね。あるいは最後の連で「ああ」という感動詞を入れるところも共通しています。

でも、「苺の娘」は木山さんの作品ではありませんでした。
作者の名は村井武生。

村井武生ってだれ? でした。
というわけで、「杉山の中の一本松」を読んで以来、村井武生という詩人を調べ始めたのですが、これがなかなか大変。まずは他の作品を読んでみたい。でも、現在出版されている彼の詩集は一つもないことがわかりました。

ところで田鶴山。調べたら矢掛の小田川沿いにある山。昨年の春に矢掛に行ったときに、そのすぐそばを通っていました。
木山さんの郷里の新山に通じる観音橋から矢掛の町へ行くのに、木山さんが矢掛中学時代に通ったはずの山陽道を通るか小田川沿いの道を通るか考えた末に選んだのが小田川沿いの道でした。でも、それはかなり大回りになることがわかっていました。その大回りの原因となっていたのがまさに田鶴山。田鶴山が小田川を蛇行させていたんですね。
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こちらのコースを選んだ理由はその近くに北畑橋という名の流れ橋があって、それを見たかったからでした。
この日のブログの最後に貼ったこの写真がまさにその田鶴山の登り口あたりで撮ったものでした。
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その日のブログで「もし木山さんが矢掛中学に通った頃からあったのだとすれば、きっと何度かはこの橋を渡ったのではないかと思います」と書いていますが、田鶴山に登ったのであれば、きっとこの北畑橋を渡ったはず。

「田鶴山」という詩に描かれているのは小田川周辺の春の風景。上の写真のような風景を木山さんも見ていたわけですね。
小田川は春が似合います。
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by hinaseno | 2016-02-29 12:15 | 木山捷平 | Comments(0)

今日は2月28日。
木山捷平はこの日が好きだったようで、「二月二十八日」と題した詩を二つ書いています。
まずは昭和6年の「二月二十八日」。東京の大久保に住んでいたときの詩。

ほんの少し小雨が降つてゐた。

貧乏人ばかり住んでゐる町に
花売りが花を売りに来た。

車の上に際立つて
桃のつぼみが赤かつた。

僕はやつと
今年も雛祭の近いことに気がついた。

もう一つは昭和9年の「二月二十八日」。このとき木山さんが住んでいたのは中央線沿線の馬橋駅の近く。

僕は二月二十八日と言ふ日が好きなり。
もしも気早やな米屋ありて
勝手口にのぞき米代を求めんには、
「ああ米屋さんか、生憎今日はないから三十日にしておくれ」
と答へん。
もしも気早やな大屋ありて
玄関のたたきに立ちて家賃を求めんには、
「ああ大屋さんか、生憎今日はないから三十日にしておくれ」
と答へん。
ああ今日はわれらの日なり。
明くれば弥生三月ついたちなり。

最後にオチがありますね。でも、今年の二月はもう一日あります。

さて、これらの詩を書いた数年前の昭和3年に木山さんは「杉山の松」という作品を書いています。木山さんは昭和3年3月まで荒川小学校にいて4月に菅生小学校に転勤。菅生という町に縁ができたとはいえ、やはり深い縁のある荒川小学校にいたときに書いたのであればいいなと考えつつ、でも、(杉山がまわりにあったかどうかはわからないけど)山に囲まれた菅生で書かれた可能性が高いかなと考えていました。

『行列の尻っ尾』に収録された「杉山の中の一本松」で紹介されるのは、木山さんが「中国山地系のはずれの、とある山陰の小さな城下町」の小学校に勤めていたときのエピソード。もちろんこの小学校は木山さんが大正12年から14年の春にかけて勤務していた兵庫県出石の弘道小学校。
出石の町についてもう少し説明が続きます。

「人口はどのくらいあったのかははっきりした記憶がありませんが、この国の普通の町とは反対に、毎年人口がいくらかずつ減って行くという珍しい町でありました。四面を山にかこまれて、もちろん汽車など通じていませんし、煙のでる工場など一つもありませんから、それはそれは、静かな静かな町でありました。
 その感じを雨にたとえれば、時雨の町と云えましょうか。夕立のように沛然たるところはなく、梅雨のようにじめじめした所もなく、日が照りながら雨が降っているという風な、一種特別な明るさもあるのでした」

このあたりの言葉のトーンは、『行列の尻っ尾』に収録された他の作品のそれとはかなり違っています。教育系の雑誌であることを意識しているんでしょうね。さらにこんな言葉まで書かれていました。

「そこの町の昔の城跡に建っている小学校の教師として赴任していった私は、一目ですっかり町の雰囲気が気に入ってしまいました」
「それで第一印象からして、私は私の一生涯この町で代用教師として終ってもよいと考えたものでもありました」

ちょっとびっくり。でも、まもなく自分自身が教師としては「落第」であることを痛感する出来事にぶつかります。それは朝、生徒を運動場に集めて行なう「朝礼」。号令台に立って生徒たちを前に「気を付け」と叫ぶこと、これができなかったんですね。とにかく嫌で嫌で仕方がない。でも、これが月に2回ほど回ってきたわけです。
このエピソードを語った後で「杉山の松」の話が出てきます。

 後年、私は四十二歳で召集をうけて陸軍に入隊した時、気を付けの刺青がなっとらん、と上官の上等兵や一等兵殿に度々足を蹴られて、痛い目をしました。その時、遠い二十何年前、朝会の儀式で、一千人の生徒の前で立ち往生した時のあわれな姿が思い出されたことでした。
 私がそのころ作った詩に、次のような愚作があります。題は「杉山の松」と云います。

杉山をとほりて
杉山の中に
一本松を見出でたり。
あたりの杉に交つて
あたりの杉のやうに
まつすぐ立つてゐるその姿
その姿がどうもをかしかりけり。

これだけでは何のことやらよく分りませんが、自分のつもりでは、号令の才能もなく気を付けの才能もない。自分自身を一寸からかってやった、象徴詩のつもりなのです。

実はここで紹介されている「杉山の松」は詩集に収められているものと少しだけ言葉が違っています。詩集に収められているものでは「まつすぐに立つてゐるその姿」となっているのが「まつすぐ立つてゐるその姿」と「に」がはずれていますね。
それはさておき、ここで気になったのは「私がそのころ作った詩に」という表現。
「杉山の中の一本松」を書いた昭和32年から見れば20年以上も前の数年というのはたいした違いはないと思いつつも、でも大正12年頃のエピソードと実際に詩が書かれた昭和3年には5年の差があります。やはり大きすぎるような。
ちなみにこのあと「ついでに、同じその頃作った愚作をもう一つ書いて見ましょう」と紹介されるのが、あの「電信工夫」。「せっかく生涯の天職としてもいいと考えていた教師を、もう間もなく辞職しなければならないと決心して、一抹後髪をひかれるような、また将来が不安なような気持ちでいた時に作ったものなのです」というコメント。こちらはまさに出石の弘道小学校をやめた年の大正14年に書かれているので、木山さんの説明の通り。こちらも象徴詩だったとは驚き

「杉山の松」のコメントでもうひとつ気になったのはこの部分。
「遠い二十何年前、朝会の儀式で、一千人の生徒の前で立ち往生した時のあわれな姿」

正確には確認できませんが、木山さんが勤めていた当時の弘道小学校の生徒数はたぶん500人もいなかったはず。菅生小学校も当時多いときで300人くらい。一方、荒川小学校のあった荒川村は当時は姫路のはずれの農村だったとはいえ、どうやら600人くらいいたようです。
「一千人」という数はややオーバーであるにしても、それに最も近い生徒数がいたのは「杉山の松」を書いた昭和3年の春まで勤めていた荒川小学校。朝礼の号令は、おそらく荒川小学校でもしなければならなかったはずですから、実際には荒川小学校の時の朝礼のイメージをもとにして「杉山の松」が書かれたと考えるのが自然ではないかと。
というわけで昭和8年頃の荒川小学校の写真を。
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真ん中にそびえるポプラの木が印象的です。昭和2年に書かれた「ポプラの梢」の(現行の詩集に載っているのは数年後に改作されているのでオリジナルの『野人』に収録されたバージョンの)ポプラは、まさにこの荒川小学校の校庭にあったポプラと自分自身を重ねていたと考えています。

さて、「杉山の中の一本松」を読んで何よりも驚いたのは、この話の前の部分に書かれていたことでした。
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by hinaseno | 2016-02-28 13:48 | 木山捷平 | Comments(0)

ちょっとはじめに断りのようなことを。
木山さんの話を書くと、つい「以前も書いたことですが」とか「何度も書いてきたことですが」みたいな言葉を書いてしまっていて、自分で書きながら煩わしく思えてきたので、木山さんの話に限らずなるべくそういうのはやめにすることにしました。
ということなので、今日書くことも以前に書いた話がいくつも出てきます。

『行列の尻っ尾』に昭和3年に書かれた「杉山の松」が出てきたので、おおっ、もしかしたら姫路の教師時代の話が出てくるかと思ったら、残念ながら出てきたのは”出石”の小学校に勤務していたときの話。
「残念ながら」というのは、木山さんが昭和2年から3年にかけて勤めていた荒川小学校には浅からぬ縁があったため。その縁に関しては秘密ということで今までここに書いたことはありません。でも、この縁なくして僕の木山捷平研究はありませんでした。
それから昭和3年から4年にかけて勤めていた菅生小学校には縁もなければ菅生という町にも行ったこともなかったのですが、不思議なもので木山捷平の研究を始めた途端に縁が生まれたんですね。姫路の木山さんに関しては、”呼ばれた”としか思えないことばかり。
こちらの縁は隠すことはないので。

僕に木山捷平という作家のことを教えてくれたのは、先日、世田谷ピンポンズさんがライブをされたたつの(龍野)の九濃文庫のYさん。おひさまゆうびん舎にはじめて夏葉社の島田さんがやって来られた日に、Yさんもいらっしゃってたんですね。その日が初対面。僕が岡山出身であるということを話したら「あなたと同じ岡山出身の作家で、一時姫路にいた作家がいるんですよ」と。それが木山捷平でした。
今考えると、岡山出身で姫路にもゆかりのある作家は他にも何人もいたはずなのに、Yさんの口から出たのは木山捷平の名前だけ。いや、もしかしたらもう一人だれか別の作家の名前を出されたかもしれません。でも、僕の心に残ったのは木山捷平だけ。
そして少し調べたらあまりに近い場所に暮らしていて、そして何よりも縁の深い荒川小学校に勤務していたこともわかって、これは!っということになったんですね。
一方、菅生小学校についてはまだそれほど意識していなかった頃、Yさんがその頃集め始められていた山高登装幀の本を僕もいくつか見つけることができたのでそれらをYさんにお渡ししようと思ったけれど、なかなか会える時間や場所が見つからず、結局、Yさんが仕事場になるんですが、ということでYさんの勤務地に行くことにしました。
Yさんから場所を聞いたときに、どこかで聞いたことのある地名だなと。それがまさに菅生でした。そのときのYさんが仕事をしていた場所は、木山捷平の勤務していた菅生小学校の目と鼻の先にあったんですね。
「菅生って、木山捷平がいた場所ですね」
といったら、Yさんは、少し考えられて、
「ああ、そういえばそうでしたね」と。

こういうのがYさんの意図したものならば面白くもなにもないのですが、これはまったくの偶然。木山捷平が菅生小学校に勤務していたことをYさんが知ったのはずっと前のことだったので、忘れられていたんですね。
そういえば先日のピンポンズさんのライブも、いろいろな方々の都合を考えた上で日にちを決めた後、実はそれがYさんの70歳の誕生日の日だったということがわかったとのこと。
Yさんは、不思議な何かを持っています。

その日、Yさんのいる場所に本をお持ちした後で、はじめて菅生小学校を目にし、数日後に改めて菅生の町を訪ねることになりました。

田圃の中にあるのが、木山さんが菅生小学校時代に下宿していた家。
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by hinaseno | 2016-02-27 11:48 | 木山捷平 | Comments(0)

久しぶりに木山捷平の話。
幻戯書房から出た2冊の木山捷平の未刊行作品集のうち、随筆を集めた『行列の尻っ尾』を先日読了。で、昨日から小説集の『暢気な電報』を読み始めました。最初の作品のタイトルは「串かつキッスの巻」。タイトルも最高にいかしているけど、作品も最高。一日一作ずつのペースで読んでいきます。

『行列の尻っ尾』も興味深い作品が満載でした。ただし収録されているのは昭和25年以降の作品。この本がたくさん売れて、戦前の未刊行作品集が発売されることを心から願っています。
さて、収録された作品の中に、僕が最も関心を寄せている時期に関することが書かれている作品がありました。

タイトルは「杉山の中の一本松」。
木山捷平の死後、笠岡の古城山公園に建てられた詩碑にも刻まれた「杉山の松」という詩に関する話。木山さんが自身の詩について解説するのはめずらしいこと。この「杉山の松」という詩が、自分の書いた詩の中で特に優れたものであると木山さん自身も認識していたことがうかがえます。
ところで「杉山の松」が書かれたのは昭和3年。昭和3年というのはまさに木山捷平が姫路にいた時期。自他ともに最も評価の高い作品が、木山さん自身の記憶の中から完全に抹殺してしまったと言っても過言ではない姫路の教師時代に書かれていたというのは興味深いこと。ただし「杉山の中の一本松」を読んだら、ちょっと意外な展開が。

「杉山の中の一本松」という作品は『教育評論』という雑誌の昭和32年1月号に掲載されたもの。内容はやはり小学校の教師時代のこと。副題には「教師時代の思出」とあります。 教師をしていた頃からはもう30年近く離れたこの時期に、どういういきさつでこのような教育雑誌に文章を掲載することになったんでしょうか。

木山捷平の教師時代といえば、文庫などの年譜(木山みさを編)に載っているのは大正12年から14年の春にかけて勤務していた兵庫県の出石にある弘道小学校だけ。でも、実際にはこのブログでも書いてきたように昭和2年から3年の春までは姫路の荒川小学校、そのあと4年の春までは姫路の北部の菅生小学校に勤務していました。
でも、後に木山さんの口から語られるのは出石の小学校時代の話ばかり。

そういえば、先月は講談社文芸文庫から『酔い覚め日記』も発売されました。久しぶりに最初の方をぱらぱらとめくっていたら、昭和7年6月3日の日記に「求めに応じてまとめた略年譜」と題された、木山さん自身が作成した年譜が載っていました。そのまま書き写してみます。

大正十一年より十三年迄百姓、小学校教師たりしも用をなさず。
大正十四年状況。十月、赤松月船、佐藤八郎、大木篤夫、村田春海、吉田一穂、草野心平、大鹿卓、黄瀛と共に『朝』を創刊。
昭和三年四月、詩話会に反抗して同士と「全詩人連合」をつくる。
昭和四年五月詩集『野』を出版。
昭和六年六月詩集『メクラとチンバ』出版

「大正十一年より十三年迄」のところにある「小学校教師」というのは出石の弘道小学校のこと。この年譜を書いたほんの数年前であるはずの昭和2年から4年にかけて勤めていた姫路の小学校時代のことはまったく触れていません。このあたり徹底していますね。
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by hinaseno | 2016-02-26 12:25 | 木山捷平 | Comments(0)

桜が咲いた 弥生の空に


『ナイアガラ・カレンダー』は 1977年暮れに発売されました。オリジナル盤のジャケットは翌78年のカレンダー。
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このカレンダー、来年使えるんですね。来年までにはなんとしてもLPを手に入れたい。

『ナイアガラ・カレンダー』は1月から12月まで毎月1曲ずつ曲がついているわけですが、よく考えるとちょっと?がつく部分も多いんですね。1月は「お正月」、2月は「バレンタインデー」はOKですが、3月は「お花見」。お花見ってふつう4月のはず。
でも、4月は「プロ野球の開幕」。野球好きの大瀧さんなので4月の座は野球に譲り渡した、とずっと思っていました。でも、そうでなかったんですね。大瀧さんにとってお花見は絶対に3月でした。
ちなみに5月はわりと爽やかな青空が多いはずなのに「五月雨(さみだれ)」。で、梅雨の季節で鬱陶しい雨が降り続くはずの6月は「青空」。
今更のように気がついたのは、大瀧さんの歌の多くは「旧暦」を使っていたこと。でも、ジャケットに使われているカレンダーは新暦。日本古来のものと西洋から入ってきたものが、ややこしく入り混じっている日本文化を皮肉ってもいたんでしょうね。
ということで「お花見メレンゲ」はもちろん旧暦3月の歌。ちなみに旧暦3月の別名は「弥生」。大瀧さんのお母さんの名前でした。
個人的な話ですが、僕は旧暦の月の名がついた女性に惹かれる傾向があります。

さて、阿部雪子さんがはじめて荷風の偏奇館を訪れた昭和18年のバレンタインデイの翌日の2月15日、例によってその日の『断腸亭日乗』を読んでいたら、昭和9年2月15日にこんなことが書かれてありました。

此世銀座通楽器屋にて盛に桜音頭と称する俗歌を奏す。去年中流行せし東京音頭に似たるものなり。

この「さくら音頭」のことや、荷風が似ていると書いている「東京音頭」のこと、さらにその元歌である「丸ノ内音頭」のことはこの日のブログで書いていますね。YouTubeで見つけたこの音源も貼っています。



ちなみに「丸ノ内音頭」が昭和7年、「東京音頭」が昭和8年、そして「さくら音頭」が昭和9年。バートン・クレーンがいろんな作品を発表した時期と重なっています。

ところで久しぶりにこの「さくら音頭」を聴いてみたらびっくりでした。「東京音頭」に似ているということで、これまではメロディにばかり気をとられて聴いていましたが、その歌詞がなんと!! 「さくら音頭」の冒頭の歌詞。

咲いた咲いたよ 弥生の空にヤットサノサ
さくらパッと咲いた
咲いた咲いた咲いたパッと咲いた

これって「お花見メレンゲ」の歌詞、そのままじゃん、でした。前日に「Blue Valentine's Day」の流れで久しぶりに聴いたので気がついたんですね。
気になって「さくら音頭」と「お花見メレンゲ」の歌詞を比べてみたら、他にもかなりかぶっています。
これが「お花見メレンゲ」の歌詞。作詞はもちろん大瀧さん。

花見メレンゲ お花見メレンゲ
花見メレンゲ お花見メレンゲ

桜が咲いた 弥生の空に
みんな揃って 見に行こう
朝も早よから 腰弁下げて
ニンマリ笑って 見に行こう

桜咲いたッタ パッと咲いた
桜咲いたッタ パッと咲いた
桜咲いたッタ パッと咲いた
桜咲いたッタ パッと咲いた
桜咲いたッタ パッと咲いた
桜咲いたッタ パッと咲いた
桜咲いたッタ パッと咲いた
咲いた 咲いた

上野の山ぢゃ 西郷どんも
浮かれて カッポレ 踊り出す
風サッと吹きゃ 散る散るミチル
百圓らいたぁ 良く売れる

桜咲いた後 パッと散った
桜咲いた後 パッと散った
桜咲いた後 パッと散った
桜咲いた後 パッと散った
桜咲いた後 パッと散った
桜咲いた後 パッと散った
桜咲いた後 パッと散った
散った 散った

花見メレンゲ お花見メレンゲ
花見メレンゲ お花見メレンゲ

木のまわりにゃ お花見客の
夢の後かよ ごみの山

桜散っちゃった パット散った
桜散っちゃった パット散った
桜散っちゃった パット散った
桜散っちゃった パット散った
桜散っちゃった パット散った
桜散っちゃった パット散った
桜散っちゃった パット散った
散った!

で、こちらが「さくら音頭」。確認できたのは3番までの歌詞ですが、レコードでは4番も歌われていました。ちなみに「日本ポップス伝」でかかったのは1番だけ。

咲いた咲いたよ 弥生の空にヤットサノサ
さくらパッと咲いた
咲いた咲いた咲いたパッと咲いた
大和心の エー
大和ごころの八重一重
シャン シャン シャンときて
シャンとおどれ サテ
      シャンとおどれ

花は桜木 九千余萬ヤットサノサ
散らばパッと散って
散って散って散ってパッと散って
ならばなりたや エー
ならばなりたや国の為
シャン シャン シャンときて
シャンとおどれ サテ
      シャンとおどれ
花が咲いた咲いたヤッコラサノサ
おどりゃ野暮でも浮れ出す

さくら咲く里 柳の渡舟ヤットサノサ
風がサッと吹いて
吹いて吹いて吹いてサッと吹いて
月もほんのり エー
月もほんのり薄化粧
シャン シャン シャンときて
シャンとおどれ サテ
      シャンとおどれ

1番もそうですが、2番の「パッと散って」や3番の「風がサッと吹いて」なんてほぼそのまま。さらには 「浮か出す」とか「おどれ」とかの言葉もかぶっています。

おお!これはっ! と思ってかなり興奮したのですが、そのあとで「花見メレンゲ」に関するインタビューや新春放談での話を聞いたら、ちゃんと「さくら音頭」から歌詞をとっていることを語られていました。ほかのいろんな曲(「朝も早よから 腰弁下げて」は布谷文夫さんの「深南部牛追唄」ですね)やら落語やら芭蕉の俳句も取り入れているみたいですが、でも中心にあるのはあきらかに「さくら音頭」。

でも、大瀧さん、この「さくら音頭」をいつ知ったんでしょうか。「ナイアガラ音頭」を作るときに、日本のいろんな音頭を研究される中で知ったのか、あるいはこのレコードが家にあったのか。1976年3月29日放送の「ゴー!ゴー!ナイアガラ」の「日本のオールディーズ特集」で大瀧さんはこんなことを言っていました。

僕は小さいときに、おふくろが電蓄(蓄音機)を持っていてそれをかけてたことがありまして、いまだに覚えてんですねど。その頃からお皿(レコードのこと)を回すのが好きでね。

『レコード・コレクターズ』2008年4月号に掲載された『ナイアガラ・カレンダー』のインタビューでも、「花見メレンゲ」に関する話の中で、大瀧さんのお母さんが日本舞踊を踊る練習の手伝いをするために、藤本三重吉の「梅は咲いたか」と「梅にも春」を蓄音機で回していたと語られています。

そしてこの話の冒頭、こんなことを言っています。

3月はやっぱりお花見だし、弥生は母親の名前なんだよね。それを個人的には無視しては語れない。

「さくら音頭」の「咲いた咲いたよ 弥生の空にヤットサノサ さくらパッと咲いた」のあたりの歌詞をとった理由はこんなところにあったんですね。

ところで3月といえば3月21日がナイアガラ・デーとなって、大瀧ファンにとってはいつからかバレンタインデー以上に待ち遠しい日になっているわけですが、そもそものきっかけは『A LONG VACATION』が1981年3月21日に発売されたこと。で、これ以降発売されたほとんどのアルバムが3月21日に発売されるようになって、いつしか3月21日は大瀧さんファンが待ち望む日となったわけです。
でも実際には『A LONG VACATION』の当初の発売予定日は大瀧さんの誕生日である7月28日。『EACH TIME』も7月21日が最初の発売予定日でした。それぞれいろんな事情があって結局変更されて決まったのが3月21日でした。
もしかしたらこの日って、大瀧さんのお母さんの誕生日なのかもしれませんね。

ところで「お花見メレンゲ」の最後の「パット散った」は「ぱっ、トチった」ということになって最後はみんなトチって終わるというオチがついています。
3月にアゲインでモメカルがライブをするということですが、モメカルは上手にトチれるでしょうか。

それにしても『ナイアガラ・カレンダー』のジャケットの3月の大瀧さんのこの写真!
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by hinaseno | 2016-02-24 11:50 | ナイアガラ | Comments(0)

村田和人さん...


今朝は「お花見メレンゲ」のことを書くつもり、というか、昨日書き上げていたものをアップするつもりでいましたが、急遽、別の話を。
今朝起きて、昨日、村田和人さんが亡くなられたことを知りました。一昨日のアゲインでのライブが急遽中止になったという話を聞いていたので心配はしていたのですが、まさかこんな急に亡くなられるとは。

村田さんと言えば、この日のブログでも書いた通り、今年の元日に聴いたのが「ナイアガラ・トライアングルVol.1」の伊藤銀次さんと「ナイアガラ・トライアングルVol.2」の杉真理さんと、そして村田和人さんの対談&デュエットでした。
僕にとって2016年という年は村田さんの声で始まっていたわけです。現在、ここで紹介している銀次さんのサイトは冬眠中とのことで、僕が聴いた音源は聴くことができなくなっていますが、昨年暮れにアップされたこの放送を聴く限り、村田さんは元気はつらつでした。亡くなられたというのがいまだに信じられない。

1980年代後半、次なる「ナイアガラ・トライアングルVol.3」(当初のリリース予定は1988年。ただし、あくまで「仮」)のメンバーをいろいろと考えていたとき、村田和人さんは、おそらく僕だけではなく、かなり有力な存在であったことは間違いありませんでした。「ナイアガラ・トライアングルVol.1」の山下達郎さんとの強い縁があり、文句なしの素晴らしい才能を持ったミュージシャンだったので。

村田さんと言えば、アゲインでいつも満席オーバーの50人を超えるライブをほぼ毎月のように続けられていました。確か昨年100回に達したんですね。本当にすごい。ライブの翌日のブログで石川さんは村田さんのライブがいかに特別なものであるかを熱く語られていました。
今、思い出すと、石川さんはいつも村田さんという人の「人柄」を強調されていたように思います。
ミュージシャンであれ作家であれ、何かものを作り出す人は、その作品のみを評価すべきで人柄がいいとか悪いとかというのは二の次、三の次であることを十分御承知であるはずの石川さんが、あえて村田さんの「人柄」の素晴らしさを何度も強調されていることに深い感銘を受けてきました。最後には必ずぜひ一度、村田さんのライブを味わってくださいという言葉を添えて。
もし次に東京に行く機会があるならば、アゲインで村田さんのライブのある日に合わせて、ぜひそのライブを拝見してみたいと考えていました。
とにかく残念という他ありません。

村田さんといえば、やはりこの曲ということになります。竹内まりやさんとデュエットしたとびっきり素敵なサマーソング。



村田さんのご冥福をお祈りします。

追記:ブログをアップした後『POP FILE RETURNS』のサイトをチェックしたら、村田和人さんがゲストに来たときの音源がアップされていました。ぜひ聴いてみてください。素晴らしい音楽とともに村田さんの素敵な人柄が出ています。
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by hinaseno | 2016-02-23 13:48 | 音楽 | Comments(0)

雪子さんはミューズ


幻戯書房から出た木山捷平の2冊の未刊行作品集のうち、随筆集である『行列の尻っ尾』を読み終えました。どれもこれも面白くて興味深い話ばかり。中でも1つ、おっという話があったので、また改めて書くことにします。

ところで、もう半年くらい永井荷風の『断腸亭日乗』を書き写す日々を送っています。大正14年から昭和19年にかけて、今日と同じ日の日記を読んで、気になるものを書き写すという作業。結構大変ですが、たぶん似たようなことをされている人はどこかにいるはず。
今から73年前の今日、昭和18年2月21日の『断腸亭日乗』にはこんなことが書かれていました。この日は今日と同じ日曜日。

正午ゆき子来話。餅を貰ふ。

3年前ならば、この「ゆき子」という人が誰かなんて見当もつきません。でも、今はこれがだれであるかすぐにわかります。この人の名前が出て来るのを楽しみに読んでいるのだから。
名前は阿部雪子。
阿部雪子という女性のことは、この日とその次の日ののブログでも書いています。

荷風の『濹東綺譚』のヒロインと同じ「雪」という名前の女性が晩年の荷風に寄り添っていたというのはあまりにも魅力的な話。この「雪」さんは魔物とはほど遠い存在の人でした。川本三郎さんの言葉を借りるならばミューズ。

ところで一昨年、勝山に行ったときに(勝山に行くときに聴いていたのはジミー・ロジャース)勝山での荷風のことを調べるために立ち寄った資料館で見せてもらった『市川市文学ミュージアム開館記念特別展 永井荷風 ー『断腸亭日乗』と「遺品」でたどる365日ー』(2013年7月20日発行)という冊子を取り寄せてみたら、その中に阿部雪子さんについて書かれたものがありました。例のこの写真も添えられて。
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ちょっと気になったのは彼女の名前。「阿部雪子」ではなく「阿部雪」。引用した文の「阿部雪子」の「子」のところに「し」というルビがふられています。

実は『日乗』でも阿部雪子の名前が阿部雪になっているのが何カ所かあります。
荷風は『日乗』で、親しい知人の名前の最後に「子(し)」とよく付けていたので、どうやら阿部雪子さんの「子」もそれとおなじ判断をしているようですが、ちょっと無理があるような気がします。あるいはきちんと調べられてのことなのでしょうか。

阿部雪子さんがはじめて荷風の家を訪ねて来るのは、この一週間前の日曜日。荷風はこう記しています。

阿部雪子と云ふ女より羊羹を貰ふ。

この表現を見る限り、名前は阿部雪子(ゆきこ)だったはず。

ところで阿部雪子さんのことが気になる理由がもうひとつあって、実は「阿部」というのは母親の旧姓。これで母親か祖母の名前が雪子ならば最高なんですが、残念ながらどちらも「子」がつくものの違っています。

阿部雪子さんは戦争が激しくなった昭和20年にはどうやら東京を離れて疎開したようです。その住所が『断腸亭日乗』に載っています。

阿部 雪 宮城県栗原郡萩野村有馬字有野本町

ここが彼女の郷里なんでしょうか。これが郷里ならばいろいろと調べることができそうな気がします。
個人的には、この郷里(?)が岡山、あるいは母方の先祖がいた四国の町ならば面白かったのですが...。
この場所、調べたら岩手県との県境。大瀧さんの生まれた江刺からそんなに遠くない場所でした。

そういえば阿部雪子さんがはじめて荷風の家にやってきた昭和18年2月14日はバレンタインデー。
バレンタインデーといえば大瀧さんの『ナイアガラ・カレンダー』の2月の曲のこの「Blue Valentine's Day」ですね。



で、その『ナイアガラ・カレンダー』の翌3月の曲がこの「お花見メレンゲ」。



この曲には大瀧さんのお母さんの名前が入っているんですね。それについてはまた次回に。
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by hinaseno | 2016-02-21 12:57 | 文学 | Comments(0)

雪ちゃんは魔物だ


バートン・クレーン作品集についての話をもう少し。
この作品集のブックレットの最後のページには「バートン・クレーンの曲が流行った時代」と題された年表が載っていて、バートン・クレーンが作品を発表した昭和6年(1931)から昭和11年(1936)年までの主な出来事、文学作品、映画、流行歌が並べられています。
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昭和6年から昭和11年。昭和6年には満州事変、昭和11年の翌12年7月には日中戦争(支那事変)が起こっています。「戦前」とよばれる時代の中で、昭和6年から日中戦争が起こった昭和12年の7月までこそまさに僕が最も近しい感じを抱いている時代。
この時代に少年期を過ごした安岡章太郎は『わたしの20世紀』の中でこの期間をこう表現しています。

「個人個人の生活の視野から言えば、満州事変とシナ事変の間には、平和な安穏な休憩期間(インターヴァル)があり、その一番のんきな時代が、この映画(昭和12年に制作された内田吐夢監督の『限りなき前進』)が撮影された三ヵ月ほどということになるだろう」

昭和6年には東京のあちこちにアドバルーンが上がり始めた年。年表の昭和11年のところには例の「あゝそれなのに」。小津安二郎の『早春』で岸恵子さんが口ずさんだ歌。
その小津のサイレント時代の最高傑作である『生れてはみたけれど』が公開されたのが昭和7年。同じく東京の郊外を舞台にした小市民映画で、日本最初のトーキーとして映画史上に残る五所平之助の『マダムと女房』が作られたのが昭和6年。
このあたりがきちんと年表に入っています。ひとつだけ気になったのは、昭和8年の流行歌のところにあの「東京音頭」がなかったこと。

年表の「文学」の欄の一番最初に書かれているのは永井荷風の『つゆのあとさき』。銀座のカフェーで働く女給を主人公にした小説ですね。荷風の『断腸亭日乗』の昭和6年から9年にかけては「銀座」という言葉がいくつも出てきます。この時期荷風は何度も銀座に出かけていました。
バートン・クレーンにも「夜中の銀ブラ」をはじめ、「銀座」を舞台にしたと思われる歌をいくつも歌っています。前回紹介した「僕色男だ!」や「かわいそう」にはカフェーの女給も登場します。

さて、荷風は昭和6年の暮れ頃から荒川放水路を歩き始めていました。そして昭和9年から11年にかけてそのあたりを舞台に優れた随筆をいくつも発表しています。「深川の散歩」「元八まん」「里の今昔」「放水路」「寺じまの記」。荷風の随筆の中で最も好きなものがこの時期に書かれています。
そして、昭和11年頃から隅田川の東に通い始め、この年に『濹東綺譚』を書きます(新聞で発表したのは翌12年の4月から6月)。
というわけで、この『つゆのあとさき』から『濹東綺譚』を書くまでの時期がぴったりとバートン・クレーンが作品を発表した時期と重なっているわけです。

ところで『濹東綺譚』といえば「お雪」。荷風にとって、いや荷風ファンにとって「お雪」はまさにミューズでした。
面白いことに、バートン・クレーンの昭和6年の作品に「雪ちゃんは魔物だ」という作品があります。「雪」がミューズではなく魔物になっているんですね。これが詞も曲も最高なんです。

オリジナルは「Frankie And Johnny」という作品。
原詞は男を銃で撃ち殺した女性の話。
歌詞の最後にはこんな言葉が出てきます。救いのない言葉です。

This story has no moral
This story has no end
This story just goes to show that there ain't no good in men
He was her man and he done her wrong

この話にはモラルなんて何もない
この話には結末もない
この話は男というものにはいいことがないということを示しているにすぎない
彼は彼女の男で彼女に悪いことをした

この曲、いろんな人が歌っていますが、なんといってもジミー・ロジャースが歌ったものが一番。



録音したのは1929年。彼は5年後の1934年(昭和9年)に亡くなっています。年表にもきっちり載っています。

さて、この曲にバートン・クレーンはこんなとんでもない詞を付けたんですね。
魔物の雪ちゃんの話には、とんでもない「結末」が用意されています。モラルがないことは原曲と同じ。

雪ちゃんは魔物だ
ニッコリ笑えば 太郎は目がくらんで
ゴー・ストップにぶつかった 
おお、雪ちゃん、君凄いねネ

雪ちゃんは魔物だ
色眼つかえば 二郎さんは天に登って
太陽に衝突
おお、雪ちゃん、君危ないネ

雪ちゃんは魔物だ
泣いてみせれば 三郎さんは駆け出して
金庫を破った
おお、雪ちゃん、君罪だネ

雪ちゃんは魔物だ
肘鉄砲すれば 四郎さんはガッカリ
汽車ポッポ往生
おお、雪ちゃん、君つれないネ

雪ちゃんは魔物だ
小唄歌えば 五郎さんはうっとりして
アイスクリームになった 
おお、雪ちゃん、君冷たいネ

雪ちゃんは魔物だ
でもやっぱり女だ 六郎に惚れて
裸にされた
おお、雪ちゃん、君も憐れだネ

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by hinaseno | 2016-02-20 12:55 | 音楽 | Comments(0)

世の中楽しや 僕色男


先週の火曜日(2月9日)、このブログでも何度か紹介した龍野(たつの)のYさんの九濃文庫で世田谷ピンポンズさんのライブが開かれたんですね。おひさまゆうびん舎恒例の「ゴーゴーツアー」企画を兼ねてのイベント。
行きたかったけど、残念ながら。
それにしても「ゴーゴーツアー」っていい名前です。

このツアーの様子がおひさまゆうびん舎のブログでいろいろとアップされていますが、一番すごかったのはこの写真(ブログに貼られていたのをお借りしました)。
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ピンポンズさんが持っているのは三茶書房から出版された関口良雄著『昔日の客』の初版本。
例の『森崎書店の日々』で映った本ですね。これが映画のワンシーン。
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装幀は山高登さん。
今、九濃文庫では山高登さんの装釘作品展が開催中ということで、このツアーに参加された神戸のトンカ書店さんが持って来られたとのこと。

この『昔日の客』はどうしても手に入れたいと思っている本のひとつ。一番と言ってもいいかもしれません。同じく山高登さんが装幀した三茶書房の『木山捷平全詩集』とともに、いろんなつながりができるきっかけとなったものなので。
『木山捷平全詩集』はネットで手に入れましたが、三茶書房版『昔日の客』はいつか必ず素敵な出会いが訪れると信じています。

ところで、あとでYさんに聞いた話ですが、この日はYさんの誕生日ということもあってYさんがトンカさんにその『昔日の客』は「誕生日プレゼントですか」と訊いたところ「残念ながら、ちがいます」と言われたとか。でも、見ることができただけでもよかったと、大変喜ばれていました。
僕もこの場所にいたら興奮したでしょうね。

ところで神戸のトンカさんといえば、すぐに頭に浮かぶことがあります。
ひとつはおひさまゆうびん舎の横にあったツリーハウスで以前開かれた一箱古本市で、トンカさんの箱にあった川本三郎さんの『林芙美子の昭和』(新書館)を買ったこと。
で、そのあとトンカさんに行ったときに川本三郎さんの『荷風と東京』(都市出版)を見つけたこと。
その日の出来事がこの日のブログで書いています。

その日、モメカルの「大瀧詠一トリビュートライブ」ライブの司会で神戸にやってきた東京の武蔵小山にあるライブハウス・アゲインの店主の石川茂樹さんとトンカ書店に行ったんですね。
東京に行った時以来、久しぶりにお会いした石川さんでしたが、その少し前に体調を崩されていたのを知っていたので、ライブが済んだらすぐに東京に戻られるだろうと思っていたら「トンカ書店だけは行きたいので連れて行ってください」と言われたんですね。
ライブの後でひとりで行くつもりにしていたので、石川さんの口から「トンカ書店」の名前が出たのにはびっくりでした。
理由はこの日のブログで書いている通り、2006年に石川さんが『バートン・クレーン作品集』を出されたときに、トンカさんがいち早く連絡されてお店で販売されたんですね。ネットを見ると、何人かの人がトンカ書店で『バートン・クレーン作品集』を買ったことを書いています。

さて、先日、品切れになったその『バートン・クレーン作品集』が新たな曲を追加して発売されました。
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一番の目玉は新収録の「僕色男だ!」でしょうね。すでに「ふちがみとふなと」というグループがカバーしているとのこと。
石川さんからはあらかじめこの曲の歌詞を聴き取ってくださいという連絡をいただいていたので、iPodに落としてランニングをしながら聴き続けました。
そうしたらどうしてもはっきり聴き取れない部分があって、これがまさに石川さんが言われていた部分でした。
というわけで、僕が聴きとったものを載せておきます。聴き取れなかったのは「論じるのもよいけれど」のあと。あくまで一応ということで。
歌詞カードは聴き取りということなので、ぜひCDを購入して聴いてみてください。曲もとってもいいです。
でも、走りながら笑ってしまったのは「三人だけよかった」という二番目の「バーの女給」の話はどこにあるんだろうということ。でも、どうやら「恋はビールと同じ」からが「バーの女給」の話になっているようです。「ダンサー」との話は唐突に終わっているんですね。そして三番目の「運動選手」の話。どこが可愛いのかわからない。

世の中楽しや 
僕色男
恋人たくさんあるが
三人だけはよかった

最初の娘はダンサー
次はバーの女給
三番目は運動選手
みんな可愛かったよ

レビュー・ステージで見初めて
ダンサーに首ったけ
上げる見事な脚に
迷ってしまったよ

つま先で踊りゃ
わが心も躍る
踊らないときでも
彼女は素晴らしい

恋はビールと同じ
酔わなきゃしょうがない
だから恋にものんべえで
とうとう成功した

カフェーの隅っこで
世界を論じる
論じるのもよいけれど
だまったシーン なおよろしい

第三は運動家
妙なことを言や
首をぎゅっと絞められ
おっぽり出される

彼女が逃げれば
追いかけたとて
とても僕追いつけない
彼女はレコードホルダーだ

世の中楽しや 
僕色男
が、女のいるところは
面倒でいっぱいだ

今じゃ老いぼれて
哲学者になった
諸君に言ってきかせる
女を近づけるな

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by hinaseno | 2016-02-17 11:16 | 雑記 | Comments(0)

「これって、あれじゃん!」という発見は、音楽を聴いているときにときどき起こること。ささやかだけれど確かな幸福の一つです。今朝もひとつあったけど、それは後日。

ここのところずっとビーチ・ボーイズの『パーティー!』とブライアン・ウィルソンのファースト・ソロ・アルバム『Brian Wilson』を聴く日々を送っていたのですが、そんなときにおやっと思う発見がありました。
『Brian Wilson』を聴き返すのは久しぶり。でも、ブライアンのソロ・アルバムの中で最もよく聴いたのはダントツでこのアルバム。ソロではやはりこれがいちばん好きです。愛しいという気持ちでしょうか。
で、このアルバムで最も好きな曲がこの「Little Children」。作詞・作曲ブライアン・ウィルソン、プロデュースはブライアンとラス・タイトルマン。



フィル・スペクターがプロデュースしたクリスタルズの「Da Doo Ron Ron」タイプのなんともかわいらしい曲。一応「Da Doo Ron Ron」も貼っておきます。



詞もかわいいんです。タイトルの通り、小さな子供達が歌いながら遊び回っている様子を歌っています。

On a Monday mornin' you see 'em all there

Little children they're marching along

On a sunny mountain without any cares

Little children they're marching along

Marching along, siging a song

Making rhythm and rhyme

It used to be somthing to see

They don't keep track of the time

If the rain comes down

They put on their coats

Little children they're marching along

If it gets too floody

They get in their boats

Little children they're marching along

Marching along, siging a song

Making rhythm and rhyme

It used to be somthing to see

They don't keep track of the time

Poor little Wendy she's too scared to speak

Little children they're marching along

And look at little Carnie with dirt on her cheek

Little children they're marching along

It's three fifteen it's time to go home

Little children they're marching along

You can't kiss no one until you get home

Little children they're marching along


Marching along

Marching along

Marching along

途中にビーチ・ボーイズ・バージョンの「There’s No Other」に出てくる「Wendy(ウェンディ)」が登場します。もちろんブライアンの娘さんの名前。そのあと、長女の「Carnie(カーニー)」の名も。

ところで車の中では相変わらず『ゴー!ゴー!ナイアガラ』を聴き続けています。最近はわりとランダムに。
で、たまたま、聴いていたのが1975年11月3日に放送された男性シンガー特集でした。そこでこの曲がかかったんですね。タイトルは「Mountain of Love」。歌っているのはハロルド・ドーマン(Harold Dorman)。



ビーチ・ボーイズが『パーティー!』でカバーしていた曲。といっても気づくまでにちょっと時間がかかりました。『パーティー!』ではどちらかといえば聴き流していた曲だったので。

ってことで、「Mountain of Love」について少し調べてみました。
曲を書いたのはハロルド・ドーマン本人。曲が書かれたのは1959年。翌年発売されたシングルは全米21位のヒット。
で、大瀧さんもコメントしていましたが1964年にジョニー・リヴァースがこの曲をカバーして(バックはレッキングクルー)、それが全米9位の大ヒット。ビーチ・ボーイズが『パーティー!』で歌ったのは、このジョニー・リヴァースのバージョンをもとにしたようです。

で、「Mountain of Love」を何度も聴いていたら、おやっと。
それはサビの部分。
The mountain of love, the mountain of love


何かに似ていると思ったら「Little Children」じゃん! でした。
サビのところのメロディだけでなく、歌詞も似ています。単語ではなく発音。
“mountain of love”と”marching along”
「マチオラ」と「マチアロ」。
これは! ですね。
さらにそのあとには"used to be"という歌詞も似たようなフレーズで使われています。
それだけでなく「Little Children」の歌詞には”mountain”も出てくるし。ブライアンがどれだけ意識したかはわからないけど相当重なっています。
下敷きにしたのか、無意識に似てしまったのか。

それにしても、この「Mountain of Love」、これまであまり意識しなかったけど、とてもいい曲ですね。
曲の始めの方はダーレン・ラヴの歌った「A Fine, Fine Boy」にも似ています。プロデュースはフィル・スペクター。曲を書いたのはジェフ・バリーとエリー・グリーニッチ。「Da Doo Ron Ron」を書いたコンビです。



「Mountain of Love」、「A Fine, Fine Boy」、「Da Doo Ron Ron」、「Little Children」。
いい流れです。

ところで『ゴー!ゴー!ナイアガラ』では曲をかけた後こんな話が出てきます。

このレコード、今、ひょっと見たら思い出したんですけど。あれはどこだったかな、レコード舎かなんかでひょっと見つけたときにですね、伊藤銀次もこの曲が好きでね。二人でひょっと取り合って、僕が一瞬”勝って”このシングル盤を手にしているっていうのを今、思い出したんです。

ってことがあったんですね。
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by hinaseno | 2016-02-15 11:49 | Comments(0)