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『断腸亭日乗』には昭和8年10月25日以外でもときどき流行歌のことに触れた話が書かれています。ますは昭和4年6月25日の日記。

晴れて風涼し、終日三番町に在り、夜お歌を伴ひ銀座を歩む、三丁目の角に蓄音機を売る店あり、散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行歌を聞く、沓掛時次郎とやらいふ流行歌の由なり、この頃都下到所のカツフェーを始め山の手辺の色町いづこと云はずこの唄盛大に流行す、その他はぶの港君恋し東京行進曲などといふ俗謡此の春頃より流行して今に至るも猶すたらず、歌詞の其劣なるは言ふに及ばず、広い東京恋故せまいといふが如きものゝみなり。

昭和8年10月25日の日記に書かれていた「君恋し」「東京行進曲」以外に2曲流行歌が紹介されています。
まずは「沓掛時次郎」。長谷川伸原作の『沓掛時次郎』が映画がされたときの主題歌のようです。レコードになったときのタイトルは「沓掛小唄」。作詞は長谷川伸、作曲は奥山貞吉、歌っているのは川崎仟と曽我直子。



もう1曲は「はぶの港」。「波浮の港」ですね。これも日本ポップス伝でかかった曲。作詞 野口雨情、作曲 中山晋平。童謡の名曲をいくつも作ったコンビです。「波浮の港」は新民謡運動で作られた曲。
日本ポップス伝では藤原義江の歌ったものと佐藤千夜子が歌ったものがかかっています。藤原義江のレコードはビクターの邦盤の記念すべき第1回新譜とのこと。ただし、藤原義江の父親はイギリス人とのことで、洋楽と同じ赤盤で発売されたとのこと。YouTubeの画像を見ると確かに赤盤です。



で、邦楽の黒盤の第一号歌手となったのが佐藤千夜子。黒盤ですね。



日本ポップス伝ではこの次に「本当の意味合いでの流行歌の第一号」ということで佐藤千夜子の「東京行進曲」がかかります。作曲は「波浮の港」と同じ中山晋平(作詞は西條八十)。荷風は「はぶの港君恋し東京行進曲などといふ俗謡此の春頃より流行して今に至るも猶すたらず」と書いていますが、まさに流行歌の誕生を証明するような内容の日記になっています。ただし、歌詞は「劣なる」と批判していますが。でも流行歌にはこの後も耳を留めて聴いていたようです。

それから昭和11年8月19日の『断腸亭日乗』でも流行歌について触れられています。

快晴。涼味九月の如し。終日曝書。夜銀座食堂に飯す。蓄音機店の前に男女蝟集し、流行唄とんがらがつちやだめよ又日本よい国などといふを傾聴す。

「とんがらがつちやだめよ」は正しくは「とんがらかっちゃ駄目よ」。渡辺はま子が歌ってヒット。作詞 佐伯孝夫、作曲 三宅幹夫。この曲は小津の昭和12年の映画『淑女は何を忘れたか』でも歌われたようです。いかにも小津好みの曲。



「日本よい国」は、 小津の『早春』で岸恵子さんによって歌われた「あゝそれなのに」を歌った美ち奴によって歌われています。作詞 伊藤松雄、作曲 齊藤佳三。



で、その「あゝそれなのに」のことも昭和15年8月12日の『断腸亭日乗』に出てきます。

黄昏池之端揚出しに飯す。摩利支天の縁日を見る。寺の門外に下谷とかきし大なる提灯を出したり。その向側なる旅館の場外に夫婦者らしき盲目の乞食、女は三味線男は四ッ竹を鳴し居たれば佇立みてきくに、春雨松づくし越後獅子の後にはあゝそれなのにそれなのにとと云ふ当世の流行唄をも唄へり。男女いづれも四十位。神は猶黒し。其顔立より察するに東京の者なるべし。毎夜ラヂオにて放送せらるゝ当世芸術家の演奏よりも哀愁切々として暗涙を催さしむ。この頃浅草オペラ館の唱歌のつまらなくなりしは芸人の心に得意驕慢の気起りしが為なり。青年文士の文章に読むべきものゝ出でざるも盖不遜の心あるが為なるべし。失意と零落とは決して悲しむべきものに非らず。

この日、三味線によって歌われた「あゝそれなのに」はなかなかよかったようです。荷風も♫空には今日もアドバルン♫って口ずさんだりしたんでしょうか。

というわけで最後に美ち奴の「あゝそれなのに」を。作詞 星野貞志、作曲 古賀政男。


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by hinaseno | 2015-10-31 13:49 | 音楽 | Comments(0)

昨日に続き。

昭和七年中最流行のもの
「岡を越えて」
『断腸亭日乗』にはなぜか昭和7年だけ「昭和七年中最流行のもの」としています。ヒット曲が多かったんでしょうか。
「岡を越えて」のタイトルは正しくは「丘を越えて」。作詞者 島田芳文、作曲 古賀政男、歌 藤山一郎。荷風は題名の後に「スキーの唄」との言葉を添えていますが、スキーの歌ではないような気が。
日本ポップス伝の大瀧さんのコメント。「古賀さんの明るいタイプのいちばんの代表作。最初「ピクニック」という題名でインストゥルメンタルとして作ったので演奏部分が多い」。



確かにイントロの演奏部分が長いのですが、日本ポップス伝ではこの「丘を越えて」に関して興味深いことが語られます。まず「丘を越えて」の間奏部分に「軍艦マーチ」の間奏が使われていることを指摘し、さらに「丘を越えて」のイントロ部分に「軍艦マーチ」のイントロ部分を足してできたのが「ホンダラ行進曲」のイントロだと。歌い出しの「ひとつ山越しゃ」だからまさに「丘を越えて」なんですね。これには驚きました。「聞いてみたからわかったよ」です。

「涙の渡鳥」
正しくは「涙の渡り鳥」ですね。作詞 西條八十、作曲 佐々木俊一、歌 小林千代子。



「大東京行進曲」
作詞 西條八十、作曲 中山晋平、歌 四家文子。これは「東京行進曲」の歌詞を変えただけ?



昭和八年  
「嶋のむすめ」
と、荷風は記載していますが、正しくは「島の娘」。荷風は題名の下に「正月より」という言葉を添えています。発売されたのは前年の暮れのようですが、年が明けてヒットしたんですね。作詞 長田幹彦、作曲 佐々木俊一、歌 小唄勝太郎。小唄勝太郎さんは男のような名前ですが、歌っているのは女性ですね。



「踊子の歌」
と、荷風は記載していますが、正しくは「踊り子の唄」。どうやら「嶋の娘」のレコードのB面に収録されていたようです。両面ヒットだったんでしょうか。作詞 西條八十、作曲 佐々木俊一、歌 四家文子。



「ほんとにさうなら」
正しくは「ほんとにそうなら」。荷風は「五月頃より」という言葉を添えています。作詞 久保田宵二、作曲 古賀政男、歌 赤坂小梅。



で、昭和8年の曲として最後にこの2曲が並んで記載されています。この曲が2曲並んでいるのも大瀧さんの日本ポップス伝と同じ。
「丸ノ内音頭」七月頃
「東京音頭」

「丸の内音頭」は正しくは昭和7年に作られたようです。この曲の出だしを聞くと、だれもが、え?っと思います。でも、日本ポップス伝でアシスタントをしていた女性は大瀧さんに「『はぁー 踊り踊るなら』のあとはどうなってるでしょう?」と聞かれたときに、普通であれば「ちょいと東京音頭(ヨイヨイ)」と答えるべきところを、答えられなかったんですね。これには大瀧さんもこけてました。もちろん僕もこけました。
作詞 西條八十、作曲 中山晋平。日本ポップス伝でかかったのは藤本二三吉が歌ったもの。残念ながらYouTubeに音源がありませんでした。

「丸の内音頭」は「はぁー 踊り踊るなら」のあと「丸くなって踊れ(ヨイヨイ)」と歌われるんですね。
大瀧さんの説明によれば「東京行進曲」のヒットで銀座に客が集まるので、丸の内の商店街の若旦那が集まって丸の内に客を呼ぼうということで丸の内のテーマソングを作ったとのこと。でも、ちっとも流行らなかったようです。で、歌詞を変えて(作詞は同じく西條八十)、歌手も小唄勝太郎さんに変わって歌われたのが、かの有名な「東京音頭」。



大瀧さんによれば、これは当時120万枚売れたそうです。日本で初めての100万枚、ミリオン・ヒットがこの「東京音頭」だったとのこと。ということで「中山晋平は音頭の親、というか私の親みたいなもんですけど」と大瀧さんは話されて、ここで普通であれば大笑いになるんですが、アシスタントの女の子は全くの無反応で大瀧さんも再びがっくり。大瀧さんのアシスタントを務めることになったのなら、少しくらいは大瀧さんの予備知識を持って臨んでほしかったです。

さて、「東京音頭」は大ヒットした後、別に東京ではない場所でも盆踊りで使われたり、ヤクルト・スワローズの応援ソングとして使われたりと、現在でも知らない人はいないんですが、そのもとに「丸の内音頭」があったことを知る人は当時でもほとんどいなかったはず。でも、荷風は知っていたんですね。

で、驚くことに、あの『濹東綺譚』に「丸の内音頭」のことが書かれているんですね。「丸の内音頭」という名称は書かれていませんが、「東京音頭」の元があったことを指摘しています。

東京音頭は郡部の地が市内に合併し、東京市が広くなつたのを祝するために行はれたやうに言はれてゐたが、内情は日比谷の角にある百貨店の広告に過ぎず、其店で揃ひの浴衣を買はなければ入場の切符を手に入れることができないとの事であつた。それは兎に角、東京市内の公園で若い男女の舞踊をなすことは、これまで一たびも許可された前例がない。地方農村の盆踊さへたしか明治の末頃には県知事の命令で禁止された事もあつた。東京では江戸のむかし山の手の屋敷町に限つて、田舎から出て来た奉公人が盆踊をする事を許されてゐたが、町民一般は氏神の祭礼に狂奔するばかりで盆に踊る習慣はなかつたのである。

荷風は「東京音頭」のことに関心を強くもっていたようで(もちろん批判的な気持ちで)、『断腸亭日乗』には「東京音頭」の話が何度か出てきます。「流行歌の盛衰」を書いた8日後の昭和8年11月2日の日記では「今年秋盛に流行せし東京音頭の事」が雑誌に紹介されていたので、その記事を引用しています。内容はかなり批判的。
で、翌昭和9年2月15日の日記にはこんなことを書いています。

此夜銀座通楽器屋にて盛に桜音頭と称する俗歌を奏す。去年中流行せし東京音頭に似たるものなり。

実は日本ポップス伝では、大瀧さんは「東京音頭」のあとにこの「桜音頭」をかけています。正しくは「さくら音頭」。大瀧さんによれば、「東京音頭」による音頭ブームで各社が競作して「さくら音頭」を作ったそうですが(作品はすべて別物)、この佐伯孝夫作詞、中山晋平作曲のビクター盤が最も売れたそうです。荷風が聞いたのもこのビクター盤のはず。



作曲者が「東京音頭」と同じく中山晋平、そして歌っていたのも小唄勝太郎さんだったので、荷風が似ていると思ったのは当然のこと。でも、批判的な気持ちは抱きつつも、そのときに流行っていた曲をちゃんと耳にしていたというのは、さすが荷風だなと思わずにはいられません。いつの時代にも耳にも入れないで新しいものはダメだと批判する人、いますからね。
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by hinaseno | 2015-10-30 12:09 | 音楽 | Comments(0)

最近ずっと永井荷風の『断腸亭日乗』を読む日々が続いているのですが、昭和8年10月25日の日記にちょっと興味深いことが書かれていたので紹介します。
「流行歌の盛衰」と題して、昭和3(1928)年頃から昭和8(1933)年にかかてはやった歌を紹介しているんですね。荷風はラジオは大嫌いですが、ラジオから流れている曲、あるいはときどき立ち寄る蓄音機店でかかっていた曲は心に留めていたようで、それをこの日まとめていたんですね。荷風の耳がとらえたヒット曲集といえるのかもしれません。大瀧さんの日本ポップス伝で紹介された曲がいくつもあります。
最初は荷風が書いた文章だけ引用しようと思いましたが、せっかくなのでちょっとした解説とYouTubeの音源、それから日本ポップス伝でかかった曲は大瀧さんのコメントをつけておきます。大瀧さんのコメントに関してはこちらのサイトのものを使わせていただきました。
改めて考えてみると、昭和3年から昭和8年というのは、戦前のいちばんよかった時代なのかも知れません。
   
昭和三年 
「君恋し」
昭和3年に二村定一が歌ったものがヒットしたようです。作詞 時雨音羽、作曲 佐々紅華。日本ポップス伝での大瀧さんのコメントは「近代歌謡の第1号で、「東京行進曲」が国内的な第1号だとすれば、この曲は洋楽的な第1号といえる」。



昭和四年  
「東京行進曲」
作詞 西條八十、作曲 中山晋平。歌手は佐藤千夜子。日本ポップス伝での大瀧さんのコメントは「 いろいろな点で流行歌の第1号と言われる作品」。というわけで、荷風が「流行歌の盛衰」で、最初に「君恋し」と「東京行進曲」を取り上げていたのは、まさに大瀧さんが日本ポップス伝で語っていた通りでした。



「上陸第一歩」
荷風は昭和4年のところに記載していますが、昭和7年公開の松竹映画『上陸第一歩』の主題歌のようです。歌手 南部たかね、作詞 小村小松、作曲 近藤政二郎。

「麗人の歌」
戦後に作詞 西條八十、作曲 古賀政男のコンビで作られた同名の曲があるようですが、これは作詞 サトウハチロー、作曲 堀内敬三のコンビによる曲。歌手は河原喜久恵。



「道頓堀よ」
と、荷風は記載していますが、「道頓堀よ」という曲は見当たりません。もしかしたら歌詞の最後に「道頓堀よ」と歌われる「浪花小唄」(作詞 時雨音羽、作曲 佐々紅華)のことなのかもしれません。日本ポップス伝では藤本二三吉によって歌われたものがかかっていいます。
大瀧さんのコメント。「「東京音頭」に匹敵する大阪のテーマ。NHKラジオ「浪花演芸会」のテーマとしても有名」。



昭和五年詳ならず
昭和5年にもいくつか流行歌が作られていますが、荷風はチェックしていなかったんでしょうか。

昭和六年  
「銀座の柳」 
『日乗』には「四月頃より流行」という言葉が添えられています。作詞 西條八十、作曲 中山晋平。歌手四家文子。



「大磯心中」
と、荷風は曲名を記載していますが、「悲恋小唄(大磯坂田山心中)」という曲のことなのかもしれません。作詞 小室 信、作曲 古賀 政男。歌手は矢野秋男。

「酒は涙か」
と、荷風は曲名を記載していますが、おそらく「酒は涙か溜息か」のことでしょうね。作詞 高橋掬太郎、作曲 古賀政男、歌 藤山一郎。
日本ポップス伝の大瀧さんのコメント「大ヒットが誕生。作詞は高橋掬太郎で、元々の詞は新民謡として作られた4行だったものを、古賀政男は2行にして作曲した。それまでの男性歌手は大きな声で朗々と歌うのが一般的だったが、マイクの発達とともにマイクの前でささやくように歌う、クルーナー唱法が生まれた。藤山一郎は日本のクルーナーの第1号。実は私、大滝もその系統」。



「影をしたひて」
「影を慕いて」ですね。作詞作曲古賀政男、歌は藤山一郎。ここは日本ポップス伝と同じ流れになっています。オリジナルは佐藤千夜子が歌ったもののようです。
日本ポップス伝の大瀧さんのコメント「オリジナルである佐藤盤はヒットせず、藤山一郎によるリメイクがヒット。このギターも古賀政男で、出だしが都々逸調で、和風と洋風の得もいわれぬミックス感覚。日本の流行歌の形を作った原点ともいえる作品」。
日本ポップス伝ではこの後、日本ポップス伝の白眉と言うべき「聴きくらべ」が行なわれます。聴きくらべがなされるのは「影を慕いて」と「船頭小唄」と「悲しい酒」と「天然の美」。曲の構造が全く同じなんですね。だれもがびっくり仰天。
ところで日本ポップス伝では何度か橋本治さんの言葉を引用しているのですが、どうやらそれは『恋の花詞集』という本をもとにしていたようです。『恋の花詞集』で橋下治さんは「影を慕いて」について、「多分日本の歌謡曲史上で一、二を争う、有名な”悲しい恋の歌”です」と述べています。



ちょっと長くなったので、昭和7年と8年はまた次回に。
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by hinaseno | 2015-10-29 15:12 | 音楽 | Comments(0)

ロッパ、内田百閒に会う


先日立ち寄った古書展で購入したもう1冊は内田百閒の『頬白先生』。
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この日のブログでも紹介した古川ロッパの主演で映画化された作品(映画のタイトルは『ロッパの頬白先生』)の原作。映画の公開は昭和14年3月21日。当時15歳だった高峰秀子さんも出ているので、ぜひ見たいと思っているのですが、まだ見る機会にめぐまれていません。フィルムは現存してるんでしょうか。
ところで僕が購入した本は昭和21年にコバルト社から映画化文芸名作選として発売されたもの。最初は映画が公開された年に新潮社から『頬白先生と百鬼園先生』という題名で出ていたようです。コバルト社から出たものは題名は変わっていますが「百鬼園先生」も収録。

『古川ロッパ昭和日記』には『頬白先生』がらみのことがいくつか書かれています。

昭和14年2月1日 
昨夜百間随筆二冊読んじまったから眼がだるい。

昭和14年2月6日
頬白先生撮影第一日。
今日から撮影。十時開始の由、十時と言っても何うせ中々だらう、十時頃出かける。果して、砧村へ着いてみると、一時開始とある。仮題「頬白先生」の高利貸の家のセット、阿部豊の監督は何度もリハサルをやらせるが、流石にうまく、嫌な気を起させない。ワンシーンワンカット、三分何秒流しっ放しで、丸山定夫とのやりとりを一カット。それから金を返すところ、これも二分ばかり。今日はこれだけで、はや七時過ぎとなる。新しい俳優部屋の風呂は中々いゝ。阿部と二人、渋谷のふた葉亭へ寄る。今日はチキンで美味かった。帰宅九時頃。

共演した高峰秀子さんの話も出てきます。

昭和14年2月13日
十二時頃から、高峰秀子扮する先生の娘が、二階へ訪れて来るしんみりしたところ。高峰秀子は、別の映画で先刻迄働いて、これで徹夜すると又朝八時開始で働くんださうだ。夜も三四時頃、僕の芝居が何うしても阿部の腑に落ちない個所が出来、いろいろ注文されるが、何度やってもいけない。さんざ手古擦って、明け方に終る。

ロッパはこの時期百閒に強く惹かれていたのか、この後舞台で『百鬼園先生』もやったようです。
そしてその舞台稽古をしているところに、ある日突然百閒が見に来てるんですね。

昭和14年3月31日
座へ二時近く出た。セリフやってると、ヌウッと部屋へ入って来たオットセイの標本みたいなのが「私が内田百間です」成程変ってゐる。「百鬼園先生」の稽古が三時すぎから。妙な味の芝居で、一寸いゝかも知れない。内田先生づっと見てるので、弱った。

「オットセイの標本」みたいなのが入ってきたというのが笑えます。
『頬白先生』の序文には映画『頬白先生』と芝居『百鬼園先生』のことが書かれて結構興味深いものがあります。序文が書かれたのは昭和14年4月。たぶん映画と芝居を観た直後に書いたんでしょうね。せっかくなので引用しておきます(カタカナと漢字で書かれていますが、カタカナはひらがなに直しました)。

本書の刊行に就いて特に一言する。
頃者私の作物から取材した芝居や映画が世に行はれているのは作者として有り難い事である。これを機縁に私の読者のふえる事を念ずる。
しかし私は従来の作品に於いて文章を書いたのでkって物語の筋を伝えようとしたのではない積りである。そう云う積りで書いた私の作物の中から芝居なり映画なりの組立てが成ったと云うのは、その事に携わった脚色家の労苦と好意による事であって、私としては深甚の感謝を致さなければならぬと考えるが、同時に作者として自省す可き点があると思はれる。つまり私の文章が未熟である為に後でおりが溜まり或はしこりが出来て、そう云うところが人人の話の種になるのではないか。もっと上達すれば私の文章も透明となり何の滓も残らなぬであろう。そうなれば芝居や映画になる筈がない。今日の事は私の文章道の修行の半ばに起こった一つの戒めであると考えられる。読者が私の文章を読む以外には捕える事が出来ないと云う純粋文章の境地に到達する様一層勉強するつもりである。
芝居の「百鬼園先生」映画の「頬白先生」を観られた諸賢に願はくは本書を一読せられたいと念ずるのは、右の様な私の文章上の未練によるのである。芝居は芝居、映画は映画であるが、文章はまた文章の理想がある。そう云う意味で本書を上梓するのであるから読者が芝居や映画で見覚えた話の筋を本書に収めた文章の中から探ろうとする様な事はやめて戴きたいと思う。但し本書の文章を読んだ後で、彼所がああなっているのかと思い当られるのは止むを得ない。

多少回りくどく書いてはいるものの、どうやら百閒は映画の『頬白先生』も芝居の『百鬼園先生』も気に入らなかったようです。

でも、百閒さん、その『頬白先生』に出ていた少女が女優としても一人の人間としても素敵な女性に成長して、その人から「この夜でいちばん会いたい人」ということでラブレターをもらうことになろうとは思いも寄らなかったでしょうね。
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by hinaseno | 2015-10-26 12:21 | 文学 | Comments(0)

先日の水曜日、2015年10月21日はわが愛する映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の「パート2」で、マーティ(マイケル・J・フォックス)が行ったのがまさにこの日。30年前の映画の「未来」がやってきたわけですね。日本でも海外でもかなり盛り上がっていました。この日に備えていろんなものが準備されていたようです。
でも、個人的には1985年当時の30年後の未来であった2015年よりも、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の「パート1」で行った30年前の1955年の方がやっぱりわくわくします。ジョン・フォードの『太陽は光り輝く』が公開された2年後。
もしタイムマシーンがあれば、僕はやはり圧倒的に過去のいろんな時代に行くでしょうね。

さて、その2015年10月21日、デロリアンではなく普通の車でとある場所で開かれていた古書展に行きました。結局向かったのは「過去」ですね。
昨日紹介した『キネマ旬報』とともに手に入れた本は2冊。今日はその1冊を。

更科源蔵の『北海道・草原の歴史から』( 1975年 新潮社)。「草原」は「くさはら」と読むようです。
最初に「父と母と、名もなく北海道の土になった開拓者たちに捧げる。」との言葉があるとおり、更科源蔵が北海道で出会った名もなき開拓者たちの19の話が綴られています。
更科源蔵は木山捷平が東京にやって来たときからの友人で、木山さんが晩年に何度か北海道を訪ねたときには必ず更科源蔵に会っていました。
『北海道・草原の歴史から』をぱらぱらめくってみましたが、木山さんのことが出てくる話はなさそう。でも、歴史書ではあまり知ることのできない北海道の開拓の小さな歴史をいくつも知ることができそうです。ぱらっとめくって目に入った言葉もへえ〜っと思えるものでした。

「北海道に富山県の人が多いのも、この薬屋さんが隅から隅までくまなく歩いて、そのよい土地を探しては故郷の人たちに宣伝したからである、」

ところで、本を開いていたら新聞の切り抜きがぱらりと。ときどきこういうことがありますね。何だろうと見てみたら、更科源蔵が死亡を伝える記事でした。この本を持っていた人はきっと更科源蔵のことを愛していたんでしょうね。

その記事には25日に亡くなったとしか書かれていなかったので調べてみたら、更科源蔵が亡くなったのは1985年9月25日のことでした。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、マーティが過去や未来に行ったひと月ほど前に、更科源蔵は別の場所に旅立っていたわけですね。でも、彼はきっと今も北海道のコタンにいるはず。
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by hinaseno | 2015-10-24 13:33 | 文学 | Comments(0)

『太陽は光り輝く(The Sun Shines Bright)』が公開されたのは1953年。映画の舞台は南北戦争から40年くらい経った1900年頃のケンタッキー州の小さな町。南部の町ではありませんが黒人が多く住んでいます。
前年に公開された『静かなる男』がジョン・フォードの祖国のアイルランド讃歌であるならば、 『太陽は光り輝く』は南軍讃歌というべきもので、昔から(アイルランド同様)南軍に対するシンパシーを持っているので、それだけで心惹かれるものがありました。
ちなみに僕はジョン・フォードといえば見ていたのは西部劇ばかりで、唯一の例外が『静かなる男』。これは村上春樹が『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』で大好きな映画と紹介していたので手に取りました。

『太陽は光り輝く』で興味深いのは出演者。
ジョン・フォードの映画は小津の映画がそうであるようにお決まりの俳優たちが登場していて、ときに映画がごっちゃになってしまうのですが(興味深い例は村上さんの『めくらやなぎと眠る女』に出てくる『リオ・グランデの砦』と『めくらやなぎと、眠る女』に出てくる『アパッチ砦』)、『太陽は光り輝く』にはジョン・ウェインもヘンリー・フォンダもモーリン・オハラも、あるいは傍役のウォード・ボンドも、そして騎兵隊三部作の『アパッチ砦』『黄色いリボン』『リオ・グランデの砦』や『静かなる男』のすべて出ていたあのヴィクター・マクラグレンも出演していません。でも、だからこそ、この作品は愛すべき小品になっています。

映画の後半、いかがわしい職業についていた女性の葬儀のシーンからは圧巻。多くの人が偏見の目で見つめる中、判事の行動に共感を覚えた人がひとりひとり自発的に行列に加わっていくシーンは涙なくしては見れません。素晴らしいの一語。
そして、最後、映画の最初ではヴィクター・ヤング楽団によって演奏されていた「My Old Kentucky Home」が、黒人たちによって歌われます。これも泣けました。
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この画像の1:27:43あたり。



かなり感極まっていたら、さらにこの後びっくりするようなオチが待ち受けていました。日本盤のDVDの最後に写ったのがこの文字。
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山下達郎さんのいたシュガー・ベイブのベーシストで、大瀧さんとも親交のあった寺尾次郎さんがこの映画の字幕をされていたとは。寺尾さんはフランス映画の字幕だけかと思っていました。

で、寺尾次郎さんが大瀧さんの曲でベースを演奏しているのを調べたらただ1曲だけありました。
それがなんと『ナイアガラ・ムーン』のアルバムの最後に収められた「ナイアガラ・ムーンがまた輝けば」。『ナイアガラ・ムーン』のほとんどの曲のベースを弾いているのは細野晴臣さんですが、この1曲だけ寺尾さんが演奏。
『太陽は光り輝く』の最後のオチが「ナイアガラ・ムーンがまた輝けば」とはすごいですね。

先日立ち寄った古書展にあった古い『キネマ旬報』をめくっていたら、グラビアに『太陽は光り輝く』が掲載されていました。ラッキー。
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by hinaseno | 2015-10-23 12:03 | 映画 | Comments(0)

今、読んでいる2冊の本。
グレン・フランクル著 高見浩訳『捜索者 西部劇の金字塔とアメリカ神話の誕生』と
岩阪恵子『わたしの木下杢太郎』。
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この2冊、いずれも最近、川本三郎さんが書評で紹介されていたもの。
川本さんが取り上げられている本はすべて欲しくなってしまうから困ります。いや、ほんとに。

岩阪さんの本は手に入れたばかり。木山捷平以来の評伝ですね。『画家小出楢重の肖像』といい『木山さん、捷平さん』といい、岩阪さんの書かれる評伝はどれも素晴らしいものなので、こちらはゆっくりと読んでいこうと思います(木下杢太郎についてはちょっとびっくりなことがあったんですが、ここに書ける話ではありません)。
その一方でここ半月ほど、ぐいぐいと読んでいるのが(といってもまだ3分の1ほど)グレン・フランクルの『捜索者』。ジョン・フォード監督の同名の映画の歴史的背景を丹念に探ったものですが、おそらく今年読んだ中では一番の本になりそうです。

で、この本の影響で、今、ジョン・フォードの映画を毎日見る日々を送っています。そしてジョン・フォードの映画のことを考えていたら、封じ込められていた記憶がよみがえってきました。
それは2013年12月30日とその翌31日のブログに書かれていること。

2013年12月30日というのは大瀧さんが亡くなられた日。そしてその翌日は大瀧さんが亡くなられたことを知った日。その日のブログを書き終えて一息ついたときに大瀧さんが亡くなられたことを知らせる第一報が届いたんですね。

その頃、僕は石川さんの影響でフォスターの曲にどっぷりとはまっていました。ブログでも書いている通り、12月29日の夕方、姫路駅前の商店街を歩いていたときに、唐突にジョン・フォードのことが頭に浮かんだんですね。ジョン・フォードならきっと映画にフォスターの曲を使っているはずだと。
そして家に戻って調べたらすぐに見つかったのが『駅馬車』。
で、翌日、駅前の商店街にあった古書店で双葉十三郎の『現代アメリカ映画 作家論』(1954年 白水社)を買ったまま読んでいなかったのを思い出して、ジョン・フォードの章を読んでみたら、その本が出た前年に公開されたばかりの映画『太陽は光り輝く』が紹介されていて、そこにフォスターの名曲「My Old Kentucky Home」のことが書かれていたわけです。
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というわけで『太陽は光り輝く』は、まさに大瀧さんが亡くなられた日に知ることのできた映画。知ったときにはぜひ見てみたいと思っていて、でも当時はDVD化されていないことは確認していましたが、大瀧さんが亡くなられたことのショックで当時心の中にあったはずのものはすべてふっとんでしまったわけです。

で、2年近くの月日が流れ、久しぶりにジョン・フォードの映画に対するマイ・ブームが到来して封印されていた『太陽は光り輝く』のことを思い出してチェックしたら、昨年の暮れにDVD化されていたことがわかってびっくり。
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by hinaseno | 2015-10-22 13:46 | 映画 | Comments(0)

こんなCDを作りました。
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大瀧さんが女性シンガーに提供した曲(1曲だけ作曲ではなくプロデュースした曲を入れています)を集めたコンピレーション。全部で20曲。

こういうコンピレーション、カセット・テープ時代から何度作ったかわからないけど、考えてみたらCDで作るのは初めて。もちろんiTunesのプレイリストは作っていたので、収録時間を考えて数曲削除するだけのこと。ジャケットをどうしようかと考えて、20曲中7曲収録している松田聖子をメインに主だったシンガーのレコードジャケットをぐるりと。
こういうのって作っているときが一番幸せです。
どういう曲順にしようかと考えたけど、基本的に作られた順に収録しました。でも、車で聴くときはシャッフルしています。

さて、その1曲目は金延幸子の「空はふきげん」という曲。



大瀧さんがはっぴいえんどで『風街ろまん』を作っていた頃に金延さんのためにかいた曲ですね。はっぴいえんど時代に作った爽やか系の曲の特徴がよく出ていて、大好きな1曲です。作詞は金延さん。それから編曲も金延さんですが、おそらくは大瀧さんがギターで弾き語りして作ったデモテープの影響を強く受けているはず。
その金延さん作詞作曲の「あなたから遠くへ」が2曲目。渡辺満里奈がカバーしたものとどっちを入れようかと悩みましたが結局オリジナルの方を入れました。

3曲目以降はおなじみの曲が並びます。
大瀧さんが女性シンガーにかいた曲は男性シンガーにかいたものよりもロマンチックであることはいうまでもありません。

P.S . 貼った写真をよく見たら「Eiichi」の最後のiが抜けていました。
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by hinaseno | 2015-10-19 13:11 | ナイアガラ | Comments(0)

失われた「夏暦」という作品に対する愛惜が深まる中、上林さんは、あるエピソードを思い出します。

 その時私はカアライルのことを思ひ出した。カアライルは、苦心の末に成つた「佛蘭西革命」の草稿が、女中によつて過つて暖炉にくべられたのを知ると、彼は怒りもせず、再び勇を鼓して、新しい草稿にとりかかつたといふのである。私はその逸話を思ひ出すと、私も爰でもう一度奮ひ立つて新しく稿を起し、「夏暦」を再現して見ようと思ふ心が萌して来た。しかし、小さくとも芸術作品と歴史的叙述とでは趣きを異にするし、書かれてゐた生活体験ももう数年前のことに属して遠のき、作品の気分も既に失はれてゐることではあるし、字と行を逐ふやうにして元通りの作品が構成出来るわけのものではない。早い話が、私は作中に出て来る自分の子供達にどんな替へ名を使つてあつたか、それさへ覚えてゐない始末である。のみならず、現在の私は、今更原形と同じ作品を組立てることに、少しも興味を感じない。そこで思ひ立つたのが、やや異る形式の下に、「夏暦」の生活気分を再現することであつた。即ち、私は、このやうな前書様のやうなものを書き加え、「夏暦」の概略を辿ることによつて、「夏暦」の再現を計らうといふのである。さうすれば、曲のなかつた「夏暦」に一つの技巧が生ずるであらうし、原作では思ひも寄らなかつた一種の浪漫性も加はるであらう。さう思ふと、勃然として、新しい芸術的感興が湧くのを私は覚えた。
 「夏暦」は、四年前の一夏、二十日余りの間、私が一人で自炊生活をして暮した間の記録であつた。捨ててしまふには惜しい作品であつたし、また懐しい生活でもあつた。私は壊れた彫像を継ぎ合わすやうに、失われた原稿から、あすこを取りここを取りして、出来るだけ順序を逐ひながら、綴り合すことにしよう。そんな作品もあつていいだらう。

というわけで上林さんは新しい「夏暦」を書き始めます。
そして、そのあとがき。

 これで漸く、前作「夏暦」の再現を見たわけである。奮起した甲斐はあつたと、私は喜んでゐる。七十六枚。前作を超過すること十五枚であるから、梗概どころではなくなつた。書いてゐるうちに、前作の面影が詳に思ひ浮んだだけではない、新しい想念が流れ出るのを禁じ得なかつた。だから、前作にない情景が書き加えられてゐるところもあれば、前作にある情景で省略せられてゐる個處もある。例へば、子供が鳥笛を吹く終末は、前作にはないものであつたし、鮫島鉱泉へ立つ間際に、雑誌社の友人が訪れて来て、食卓を共にして、残り飯を平げてから出かけるところなどは、前作にあつて、この作にないものである。

前作は見ていないからわかりませんが、僕はおそらく書き直した作品の方がよかっただろうと考えています。上林さんもきっとそう思ったはず。

そういえば、先日、村上春樹の新刊『職業としての小説家』を読んだら、とても面白いエピソードが書かれていました。それは1980年代の末頃の出来事。
そのとき村上さんは外国で『ダンス・ダンス・ダンス』という小説を書いていました。当時使っていたのはワード・プロセッサー。ワープロを使って小説を書くのはこのときが初めてだったようです。書いたものはもちろんフロッピー・ディスクに入れていたんですね。
ところが最後になって書き上げたフロッピー・ディスクを開いて確認したら、章が丸ごとひとつ消えているのに気づきました。かなり長い章で、しかも村上さんなりに「我ながらうまく書けた」と思っていただけにショックも大きく、やはり上林さん同様、茫然としてしまったようです。でも、書き上げた文章を思い出しながら、どうにかその章を復活させたそうです。

面白いのはその後のこと。『ダンス・ダンス・ダンス』が本になって刊行されたあとで、行方不明になっていたオリジナルの章がひょっこりと出てきたんですね。

それで「ええ、参ったな。こっちの方の出来が良かったらどうしよう」と心配しながら読み返してみたのですが、結論から言いますと、あとから書き直したヴァージョンの方が明らかに優れていました。

『職業としての小説家』の中で最も心に残った話でした。上林さんの「夏暦」とともに、何かのときにはこのエピドードを思い出すことができたらと思います。

さて、上林さんが再び「夏暦」を書き上げたのは昭和20年6月6日の朝のこと。もちろん、まだ戦争は続いていて、東京を始め各地で空襲が続いています。3月の空襲で偏奇館を焼かれた荷風はこの昭和20年6月6日には明石に疎開していました。でも、この3日後の6月9日に明石も空襲に遭い、荷風は岡山に逃げて行きます。そして6月の末にはその岡山の地で空襲に遭います。
そういうときなので上林さんは「夏暦」をようやく再び書き上げたとはいえ、それがまた失われてしまう事態に陥ることを当然のことながら想像します。いや、作品の運命どころか、自分や家族の運命すらどうなるかわからない状況。

「夏暦」のあとがきは次のような言葉で結ばれています。荷風や木山さんとは違って軍部を批判するようなことは僕の知る限り一切口にしない上林さんですが、この最後に書かれた言葉には、戦争というものに対する上林さんなりの強い抵抗の意志が感じられて、心が震えます。

 この仕事に取り掛つてゐる間にも、警報は幾度びか発せられ、私は書きかけの原稿を防空服の内ポケツトに入れ、自分の所属してゐる警防団の分団本部に出勤したこともあつた。幸にして難に会うこともなく、完成することが出来た。
 遮莫、この「夏暦」一篇は、私の作品としては珍しく数奇なる運命を潜つて成つたものであるとの感が深い。而して、稿は兎も角成つたが、戦時下のことであるから、今日以後、また如何なる運命に見舞はれることか保し難い思ひがする。私はこの小稿が恙なきことを祈ると共に、万一再び難に遭つても、三度び稿を改めたいと思つてゐる。四度びでも五度びでも……。


P.S. 世田谷ピンポンズさんがいつか「夏暦」というタイトルの曲を作ってくれたらうれしいですね。
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by hinaseno | 2015-10-18 15:21 | 文学 | Comments(0)

昔からタイトルに「夏」という字が使われた作品に惹かれる傾向があって、「夏」がきっかけとなって手に取って好きになった作品があります。池澤夏樹の『夏の朝の成層圏』とか辻邦生の『夏の砦』とか。
上林暁の『夏暦』も最初に惹かれたのはそのタイトルでした。そして、ようやく手に入れて読んだ作品はやはり素晴らしいものでした。

その表題作「夏暦」について上林さんはこう書いています。

「この「夏暦」一篇は、私の作品としては珍しく数奇なる運命を潜つて成つたものであるとの感が深い。」

この「数奇なる運命」が、物語の前後にまえがきとあとがきのような形でかなり長く書かれています。そこにも一つの物語があります。

もともと「夏暦」という作品は、ある季刊誌に載せる予定で書かれたそうです。おそらく作品に描かれた出来事があった間もない時期に書かれたはず。
ところで昨日、その作品の出来事があったのは昭和17年の夏だと書きましたが、昭和20年に書き直された「夏暦」のまえがきでは「四年前の一夏」と書かれていました。つまり昭和16年の夏。上林さんの勘違いなのか、年表を作った人の誤りなのか。
それはさておき、昭和16年あるいは17年に、ある季刊誌に掲載するために「夏暦」が書かれたものの、その季刊誌が出なくなったため原稿は出版社から戻されます。次に筑摩書房から上林さんの作品集を出すことになって、そこに収めるいくつかの他の作品の原稿とともに「夏暦」の原稿を筑摩書房にあずけます。作品中もっとも力作であった「夏暦」を作品集のタイトルにすることを決めて。
ところが空襲によって筑摩書房の建物が被災し、「夏暦」の原稿も焼けて失われてしまったんですね。筑摩書房が被災したのは昭和20年1月27日の空襲のようです。原稿が失われた話を聞いて上林さんはこう考えたそうです。

「闇から闇に姿を消すのが、あの作品の運命であつたのかも知れない。」

ふと下書きを二通書いていて、その一通は燃やしたものの、もう一通は残していることを思い出し、押入などを必死で探します。でも、どれだけ探しても見当たらない。

「若しやと望みを繋いでゐただけに、もはや求めるすべがないと知った瞬間、正直なところ、僕は暫く茫然として、埃臭い押入の中に頭を突つ込んだまま、そこらをただ掻い撫でてゐた。」

一度は「闇から闇に姿を消すのが、あの作品の運命であつたのかも知れない」と考えたものの、次第にその作品を惜しむ気持ちが強まってきます。

「たとひ原稿を喪ふことがあつても、多寡が知れてると思つてゐたが、喪つてみて初めて、掛け替へのないものを喪つたことを知つたのである。そして釣り落とした魚の譬への通り、喪つてみると、あの作品が相当傑れた作品であつたやうな気がして来て仕方がないのである。かなり冗漫で、甘い感傷もあつて、もう一度書き直して引き緊めたらいいんだがと、そのままにしてあつたのだが、今はそんな瑕瑾のことなど少しも気にならず、私の頭に浮んで来るのは、ただもうあの作品の好いところ、気に入つた描写のところばかりであつた。さうなつて来ると、私にはいよいよあの作品に対する愛惜が深まつて来るのであつた。」

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by hinaseno | 2015-10-17 13:55 | 文学 | Comments(0)