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by hinaseno
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夏の終わりというのは何歳になっても切ない気持ちになるものです。そんな気持ちにぴったりなのが「ゴー!ゴー!ナイアガラ」の1977年と1978年の8月の最終週に放送されたもの。いずれも波の音をバックにして、かかる曲もほとんどがバラードばかりなので、これを1枚のCDにしてここ数日聴き続けています。今年の夏に聴くのは今日が最後。
ところで昨日久しぶりにピクシーズ・スリーのCD(日本盤ではなく2001年にCrystal Ballというよくわからないレーベルから出た輸入盤)を聴いていたら、この「Love Walked In」という曲に耳がとまりました。



曲を書いたのはガーシュイン兄弟。ジャズのスタンダードナンバーですが、この曲を知ったのがまさに「ゴー!ゴー!ナイアガラ」の1978年の8月の最終回の放送でかかったフラミンゴズの歌ったこのバージョン。



かの有名な「I Only Have Eyes For You」(作曲はハリー・ウォーレン)と同時期に録音されたものですが、「I Only Have Eyes For You」に勝るとも劣らない見事な作品になっています。

曲がかかった後の大瀧さんのコメントもいいです。
ガーシュインの名曲ですけどね、こういうフラミンゴズ風にアレンジしてね。足音と口笛が印象に残る曲でしたけどね。

というわけで「Love Walked In」という曲が急に身近に感じられて、いろんな人が歌ったり、演奏した「Love Walked In」を聴いていました(こんなことをしていると、あっという間に時間が過ぎ去ってしまいます)。
この曲、聴けば聴くほどいい曲。でも、歌うのはかなり難しそう。いくつか聴いたなかではケニー・ランキンが歌ったものがよかったです。でも、やはり一番いいのはフラミンゴズですね。大瀧さんの言う通り「足音と口笛」がなんともいい雰囲気。

さて、昨日の話の続き。
Qlair(クレア)というグループのことを知ったのは萩原健太さんも加わった新春放談での健太さんの話。久しぶりにその部分の話を聴き返してみようと思って数日あれこれ探してようやく発見。ちょっとびっくりするような会話がなされていました。
Qlairの話が出てきたのは1992年1月26日の放送。The Shangri-Las(シャングリ・ラス)という、やはり3人組の女の子のグループの「Give Him A Great Big Kiss」という曲がかかった後の会話です。
山下:シャングリ・ラス、「Give Him A Great Big Kiss」。日本題は何ですって?
萩原:「がっちりキスしよう」。
山下:そういうの覚えてるの、萩原さん、すごいですね。

このあと大瀧さんの驚くべき発言が唐突に飛び出します。
大瀧:さすがに渡辺満里奈のファンだけあるね。
萩原:あれっ(苦笑)。
大瀧:関係ないか。

なんで「がっちりキスしよう」と健太さんが言ったことで、大瀧さんの口から「さすがに渡辺満里奈のファンだけあるね」という言葉が出てきたのか。
興味深いのはこの4年後の1996年に発売された渡辺満里奈さんのアルバム『Ring-a-Bell』の2曲目に収められた「Tonight You Belong To Me」のカバーの邦題がなんと「ばっちりキスしましょ」(曲の訳詞は萩原健太さんの奥さんの能地祐子さん)。1992年の新春放談を録音したとき、渡辺満里奈さんの曲を書いたり、あるいは彼女のアルバムをプロデュースするなんて思いもよらなかったはず。こういうのを「たまたま」ということで済ましていいものか。

「ばっちりキスしましょ」についてはこの日のブログで書いていますね。

Qlairの話までいきませんでした。
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by hinaseno | 2015-08-31 14:15 | ナイアガラ | Comments(0)

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ここ数年、再発関係のCDを買うとしたらイギリスのACEという会社が編集したものばかりでしたが、この8月末に国内でどっとすごい数のCDが再発されました。ロックン・ロール誕生60周年記念の3社合同企画として全部で111タイトル。数もすごいけど内容もかなりすごいものがあります。欲しいものがいっぱい。

中でも一番すごいのはブランディンの宮治淳一さんが監修された「ワーナー・ガール・グループ・ナゲッツ」と題された5枚のCD。収録された曲がとにかくマニアック。たとえばシリーズのVol.1の1曲目はなんとダイアン・リネイの「Falling Star」。あの(なんて言ってもどれだけの人が知っているか、ですが)ピーター・デ・アンジェリスの作った曲です。

このシリーズ、世界初CD化の音源がいっぱい。これまであやしいCDのチープな音でしか聴いていなかった曲もきれいな音で聴けそうです。ジャケットもとってもオシャレ。ぜひ手に入れなければ。

そんな中、このCDも久し振りの再発。日本では2度目でしょうか。
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ピクシーズ・スリーという3人組のガール・グループ(当時、アメリカで最も多かったのは3人組の女の子のグループでした)の『パーティー・ウィズ・ザ・ピクシーズ・スリー +8』というCD。
このかなりマイナーがなガール・グループのCDが日本で何度も再発されるのかという理由ははっきりしています。このCDの「+8」、つまりボーナス・トラックとしてこの素晴らしい曲が収録されているからですね。曲のタイトルは「Cold, Cold Winter」。



この曲が大瀧さんの作った「うれしい予感」の下敷きになっているということは、大瀧さんファンでは知らない人はいません。
ちなみにタイトルはめいっぱい「冬」ですが、実際には「あなたがいなくなると寒い寒い冬になってしまう」という内容で歌詞の中に何度も’summer’が何度も出てきます。過ぎ去った(過ぎ去ろうとする)夏の曲というべきなのかもしれません。

さて、大瀧さんには1986年に1枚のアルバムを非売品として発表していました。タイトルは『SNOW TIME』。それまで発表していた冬の曲と未発表のインストの曲を集めたもの。ただし、冬のアルバムなのに「夏のリビエラ」という曲が入っているのが笑えます。森進一さんが歌った「冬のリビエラ」の英語詞を大瀧さん自身が歌ったものなので、もとは冬の歌ではあるのですが。でも、英語詞では’winter’ではなく’summer’。

このアルバムが初めてCDとして”発売”されたのが10年後の1996年でした。このとき、当初のアルバムでは最後に収録されていた「レイクサイドストーリー」のストリングス・バージョンのかわりに収録されたのが「うれしい予感」のインストゥルメンタル・バージョンでした。タイトルは「YOKAN」。
1996年発売の『SNOW TIME』の大瀧さん自身による解説にはこんなことが書かれていました。
今回当初から”冬もの”として企画された「うれしい予感」のインストを収録することによって、ようやく『SNOW TIME』がアルバムとしてバランスが取れたのです。

「うれしい予感」が主題歌として使われることになった『ちびまる子ちゃん』が再スタートしたのは1月、つまり冬ですが、詞の内容ははっきり言ってぜんぜん冬ではありません。

大瀧さんが『ちびまる子ちゃん』の主題歌を録音し始めたのは長嶋巨人が日本一になった1994年10月下旬。当然、曲はそのときまでに作られていたわけです。
僕は「うれしい予感」は、実は『ちびまる子ちゃん』の主題歌として作ったのではなく、「うれしい予感」あるいは「予感」という仮のタイトルで別の何かのためにかなり前に作られていたのではないかとずっと考えていました。引き受けるかどうかわからない『ちびまる子ちゃん』の主題歌のために作ったのではなく、「冬」の曲としてほかの誰かに歌われるために作っていたのではないかという気がします。
で、そのときに下敷きにしたのが、まさにタイトルに「冬」のついたピクシーズ・スリーの「Cold, Cold Winter」だったんだろうと。

話はまた少しそれてしまいますが、90年代初頭、僕はある日本の3人組の女の子のグループにはまっていて、彼女たちのために大瀧さんに曲を書いてもらえたらと考えていた時期がありました。
その3人組のグループの名前はQlair(クレア)。「うれしい予感」は彼女たちが歌うにはピッタリの曲でした。
たとえば当時、彼女たちはこんな曲を歌っていました。



この「お願い神さま」という曲を作曲したのは広谷順子。コーラスアレンジも彼女。
広谷順子という名前を聞いて、おおっ! と思う人がどれだけいるでしょうか。
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by hinaseno | 2015-08-30 15:17 | ナイアガラ | Comments(0)

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1995年の野茂のことを考えるきっかけになった本がありました。今年の初夏に、滅多に行かない病院に行くことになって(原因不明の蕁麻疹)、その待合室の棚にあったのが野茂の特集をした『Number』という雑誌。表紙には「Japanese Major Leaguer 1995-2015 日本人メジャーリーガー20年史 すべては野茂英雄からはじまった。」との言葉。
この写真なんてたまらないですね。
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ロサンゼルスのドジャースタジアムで投げている野茂。他にも野茂の写真がいくつも。
トルネード投法と呼ばれたその独特の投球フォームもなんと美しいんだろうと思ってしまいます。そういえば今年の高校野球でトルネード投法で投げていた選手がいましたね。

さて、話はころっと変わって、一昨日の大谷翔平君のピッチングは、またまたすばらしいものがありました。そのポテンシャルはすでに日本のプロ野球のレベルを超えてしまっていることは確か。一刻も早くメジャーリーグへという気がします(その方がリアル・タイムで見れることが多そうなので)。

ところで大谷君については二刀流の是非が論じられ続けていますが、現段階では投手としての活躍が目立っているので投手一本でという声が大きくなっているようです。元シアトル・マリナーズの佐々木さんもメジャーに行って打席に立てば内角を攻められることが多くなるのでぶつけられる可能性も高くなるから打者はもうやめたほうがいいとコメントしていました。
二刀流のままでいると、どっち付かずになってしまうという意見が多そうですが、僕としては両方にチャレンジしているからこその今があるように思います。

大瀧さんならこの二刀流についてどう考えていたでしょうか? どこかで語られていた?
大瀧さんが野球について考えるときには常に長嶋さんならどう考えるだろうかということが基本になっているので、長嶋さんだったら=大瀧さんだったら、やはり二刀流を続けることを支持したはず。それでどっちつかずのまま終わるようだったら、それまでの選手だったと。

そういえば野茂もプロ入りしてから、その投球フォームのことをいろいろ言われました。近鉄の当時の監督の仰木さんが(イチローに対してと同じように)個性を大事にする人だったので、そのフォームに手を入れることはしませんでしたが(させませんでしたが)、仰木さんの後を継いだピッチャー出身の鈴木監督はたぶん何か言ったかもしれません。

さて、『Number』のインタビューで野茂はこんな話をしていました。
「’95の1月、球団にメジャーに行きたい、と伝えました。すぐメジャーの球団に声をかけてもらい、まずは西海岸の球団から回りました。シアトル、サンフランシスコ、そしてロサンゼルスの順番で、そこで決まらなかったら東に行くつもりでした。なぜ西からか、といえば、シンプルな理由で、『近かったから』なんです」

ということで、野茂が最初に行ったのは日本から一番近いシアトル・マリナーズでした。野茂のこの動きは大瀧さんの予想通りだったんではないでしょうか。

そしてこの「マリナーズ」と「満里奈」さんがつながった。
というのは勝手な想像だったんですが、先日、びっくりするような写真を発見。雑誌から切り抜いてファイルにはさんでいた記事に載っていたもの。かなり小さな写真だったのでよく見つかりました。
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雑誌はおそらく『ミュージック・マガジン』。内容から1995年の3月号あたりのような気がします。大瀧さんをはさんで手前が『ちびまる子ちゃん』の原作者のさくらももこさん(のはず)、そして奥にいるのが渡辺満里奈さん。たぶんレコーディングのときの写真。
よく見たら満里奈さんが着ているのはシアトル・マリナーズのジャンパー。サイズが大きいのでたぶん男物。1995年当時、まだ、メジャーリーグのことなんてほとんど一般的でなかった時代に、女の子が自分でこんなジャンパーを買うはずはありません。これは大瀧さんから満里奈さんへプレゼントしたものにちがいありません。
なんとも大瀧さんらしい、遊び心あふれたプレゼントです。

この写真はマスコミ用に撮られたもののようなので大瀧さんはちょっとオシャレな服を着ていますが、もしかしたらこの日はずっとマリナーズのトレーナーを(おそろいで)着ていたかもしれません。
満里奈さん、このジャンパー、今も大切にしているでしょうか。
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by hinaseno | 2015-08-28 14:51 | ナイアガラ | Comments(0)

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プロモーションといえば、今年3月にNHKで放送された「大瀧詠一ソングブック」(司会は萩原健太さん)で、「うれしい予感」のプロモーション・ビデオが流れたときにはびっくりでした。そんなのが作られていたんですね。
で、昨日、YouTubeにそのビデオのフルバージョンが1年ほど前からアップされていたのに気がつきました。曲はなぜかものすごくスローになっています。



「うれしい予感」のプロモーション・ビデオが存在していたこと自体もびっくりでしたが、ロケされている場所もびっくり。満里奈さんが歩くのは東京の懐かしい風景ばかり。百貨店(デパート?)の屋上の遊園地、商店街、路地、そして橋。橋が架かっているのはおそらく隅田川のはず。撮影されたのは歳末っぽい感じです。
ひとつひとつのロケ地を確認するのは大変(僕の目に馴染んでいるのは 20年前の東京ではなく、映画などで見ている60年ほど前の東京なので)なので、とりあえず気になる風景を貼っておきます。
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おっと思ったのは最後の方で映ったこの映像。
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で、このシーンの後、このモノクロの写真に変わります。おそらくデビューした頃、あるいはデビュー直前の満里奈さんの写真。
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後ろに走っているのは間違いなく池上線の電車。彼女が立っているのは、たぶん(東京の大田区の)蒲田の近い蓮沼の駅あたりのの線路の前ではないかと思います。

数年前、小津の『生れてはみたけれど』のロケ地が目蒲線、池上線の沿線であることがわかって、あのあたりの地図を片手に少年たちが通っている小学校がどこなのかをいろいろと探っていたときに、蓮沼の近くに相生小学校というのがあるのが知って、ちょっと調べていたらそこに渡辺満里奈さんが通ってたのがわかって不思議な”縁”を感じたものでした。
でも、結局、あの小学校は相生小学校ではなかったようですが。

果たして大瀧さんはこのプロモーションビデオに大瀧さんがどれくらい関わっていたんでしょうか。
ヒッチコック好きの大瀧さんとしてはどこかにちらっとだけ出ていたりして。
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by hinaseno | 2015-08-27 11:54 | ナイアガラ | Comments(0)

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シアトル・マリナーズのトレーナーを着た大瀧さんの写真を見たときに、僕はすぐにマリナーズと「満里奈」をつなげて考えました。写真が撮られたその時期に渡辺満里奈さんの「うれしい予感」が発売されていたので、もしかしたらプロモーションか何かでそのトレーナーを着たのではないかと。
大瀧さんは当時、設立されたばかりのOo RECORDS(ダブル・オーレコード)の取締役でもあったので、昨日紹介したラジオ番組を含めていくつかのプロモーションをしていたはず。そこで着ていた、あるいは着るつもりでいたのかなと。

ただ、不幸なことが起こるんですね。
「うれしい予感」が主題歌として使われた『ちびまる子ちゃん』が再開第一回目の放送が1月8日。そしてその翌週の1月16日に第一回目のプロモーションをラジオで行ないます。その翌日の1月17日に起こったのが阪神淡路大震災。

後に大瀧さんは2011年にも同じような経験をします。3月21日に発売される『NIAGARA CD BOOK 1』のプロモーションのために3月10日に二つのラジオ番組に出演しました。
『KAWAADE 夢ムック 大瀧詠一』の巻末に収められた年表にはこう書かれています。
3月10日 JENディア・フレンズ、NHK-FM佐野元春氏の『元春レディオショー』に出演。

この翌日に東日本大震災。大瀧さんの生まれ育った岩手も大きな被害を受けることになります。JENディア・フレンズの方がどうだっかは知りませんが、佐野さんの番組は大瀧さんが佐野さんに連絡して収録したものをオンエアーしないようにお願いします。大きな不幸が起きているときに自分の陽気な声を流してほしくなかったこともあったでしょうし、それ以上に大瀧さんはそこに何らかのメッセージを受け取ったようです。

1995年のときのことについては全く知らなかったのですが、ラジオデイズの『大瀧詠一的2011』でこんな話をされていました。ちょっと長いですが引用しておきます。
前回僕は同じ経験をしたことがある。1995年に、とある楽曲のプロデュースをしたの。で、そのプロデュースの1回目のプロモーションがラジオだったのよ。で、ラジオに出たわけ。1回目。で、その翌日に神戸地震。
でね、そのときもね、そのタイトルがね、ある種、忌み言葉的なもんだったのよ。みんな忘れていると思うけど「うれしい予感」っていうタイトルだったんだ。あのときにはまだ今みたいにツイッターも2チャンネルもまだ95年はそんなに発達していなかったから、まあ、ある程度事なきを得たんだけど。95年に今の状態だったら、完全に血祭りに上げられてんなと思ったのさ。
で、それがあったので、今回は。とにかく、魑魅魍魎が跋扈するんだよ、ああいうときって。どっかの、ねらいさだめてぐわーっと集まるんだな。応仁の乱の京都みたいな状況で。どっかに獲物はないかっていうので、怨霊が跋扈するんですよ。そのときうろうろ出て歩き回るのは、まあ...。そのとき、95年のときにも考えたんですよ。
ただ、95年のときも、これはもう、こういうことがあったから、このあとプロモーションはやめたほうがいいって言ったんだけど。なんたってレコードの発売の前にテレビ(『ちびまる子ちゃん』のこと)が再スタートしてたのね。しかも(視聴率が)30%超えた。しかも新しいレコード会社で、それの第一弾みたいなレコードだったから。 大きなプロモーション、企画が動いているときは止められないんだなと思ったな。大きなプロジェクトが始まってしまって、そこにもうすでに準備ができていて動き始めていたと、一回目の、それって、止められない、止められなかったんだよ。
僕は個人的には、もうないもんだとあきらめて、そこでスパッと一回目でやめたほうがすっきりするからそうしたらって、ずいぶん個人的に抵抗したけど駄目だったね。まあ、僕のもんじゃなかったからね。今回は僕のもんで自分のもんだから完全にハンドリングできたんだけどね。どっかの放送局の電リク以外はね、それ以外はできたんだけど。
ただ、ああいうときってのはね、本当に内田先生の新刊じゃないけども、呪いの世界なんだよ、まだまだこの国は。彷徨うんだよ、餌求めて。で、とにかくね、尋常じゃないだよ。冷静にだれも考えられないのだよ。

「うれしい予感」は予定通り1995年2月22日に発売。もちろん僕も発売されたその日に購入。久し振りのナイアガラサウンドに狂喜乱舞しました。「うれしい予感」というタイトルは、大瀧ファンにとっては、まさにその言葉通りそれから後の大瀧さんのさまざまな活動を予感させるもので、大瀧さんのアルバムは結局発売されることはなかったものの、満里奈さんの(ミニ)アルバム、そして「幸せな結末」と、ハッピー(うれしくて幸せ)なことは続きます。
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by hinaseno | 2015-08-26 14:32 | ナイアガラ | Comments(0)

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先日見つけたYouTubeのこの音源。



1995年4月に大瀧さんが渡辺満里奈さんのラジオ番組に出演したときのもの。大瀧さんはとっても照れ屋なので相手が女性だと話がぎくしゃくすることが多いのですが、びっくりするほど会話が弾んでいます。大瀧さん独特のボケにも満里奈さんは見事に突っ込んでいます。

この放送では当然のことながら「うれしい予感」の話が出てきます。興味深かったのは満里奈さんのこの言葉。
「(曲は)最初に作られていて、私はあとは歌うだけっていう感じでした」

1995年の新春放談で大瀧さんは「うれしい予感」と「針切りじいさんのロケン・ロール」についてこんなことを語っていました。
「今回、両A面とも歌手が一番最後に決まるっていう異常なあれだったんですよ、ホントに。すべてのものがいろいろあって歌手が最後に乗っかってしまうっていうことだったんですけども」

というわけで、前にも書いたように、「うれしい予感」を渡辺満里奈さんが歌うことに決まったのは、すべて曲ができあがった後だったようです。場合によっては大瀧さん自身によって歌われる可能性もあったのかなと思いつつ(きっとあったはず)、でも、曲は女性に歌われることを考えて女性キーで作られています。

さて、さきほどの音源に、満里奈さんに決まったいきさつとかが語られていればよかったのですが、残念ながらそのあたりの話はありませんでした。
考えうる一番高い可能性としては、1988年から数年間、大瀧さん、達郎さんとともに新春放談に加わっていた音楽評論家の萩原健太さんが満里奈さんのことを大瀧さんに紹介したのではないかなと。当時大瀧さんは萩原健太さんとその奥さんでやはり音楽評論家の能地祐子と深く交流していて、特に能地さんはアイドルにも詳しかったので、大瀧さんにいろんな情報を伝えていたのではないかと思います。

改めて考えてみると、1994年当時、時代は小室哲哉一色。小室哲哉プロデュースと名をつけて、そこそこ踊れて歌える女の子であれば売れるという時代。歌っていた女の子たちは自分たちのことをアイドルではなくアーティストとよばれたがっていたようです。アイドルの時代は終わってたんですね。
で、プロデューサーという言葉がもてはやされるようになったのもこの頃。でも、きっと、ただ、”小室哲哉プロデュース”という名前だけを貸していたのもいっぱいあったはず。その20年以上から、まだ当時音楽業界ではめずらしかったプロデューサーということをしていた大瀧さんにとっては、プロデューサーブームは見ていられなかったでしょうね。満里奈さんのラジオ番組で大瀧さんが本来プロデューサーというのはどういう仕事をするのかということをずいぶん詳しく語っていたのは、そうした当時の風潮への批判の気持ちもあったはず。
いじれにしても、歌手も、あるいは歌手が所属している会社の人も、小室さんに曲を書いてもらおう、小室さんにプロデュース(?)してもらおうという時代でした。

さて、渡辺満里奈さんは1994年には24歳。元おニャン子クラブではありましたが、アイドルという歳ではありません。
ウィキペディアを見ると、おニャン子解散後の彼女についてこんなことを書いています。
おニャン子クラブ解散後も歌手としてアイドル番組やバラエティーなどに出演。当初はアイドルとして、事務所の意向に沿った衣装や楽曲で出演していたが、徐々に自らの意見を加味して、自分の個性に合った曲や衣装などを表現するようになっていく。当時好んで聴いていた渋谷系の楽曲を歌番組で披露するなど、アーティスト志向である意思を垣間見せることがあった。

というわけで、彼女も当時の若い女性歌手と同様に、アイドルとは一線を画してアーティストとしての道を歩んでいました。ただし、彼女が選んでいたのは渋谷系とかの音楽。僕も大瀧さんが曲を作らなくなってから、渋谷系と呼ばれることになる音楽を好んで聴いていたので、満里奈さんがそのあたりの人と関わりを持っていたことは知っていました。
「うれしい予感」の前には渋谷系を代表するフリッパーズ・ギターの小沢健二に曲を書いてもらったりしていますね。で、渋谷系の人たちははっぴいえんどの音楽に影響されていた人も多く、そのあたりの影響なのか満里奈さんはこの時期、大瀧さんのファースト・アルバムに収録された「それはぼくぢゃないよ」をライブで歌っていたようです。なんともマニアック!

そういうのを健太さんや能地さんからいろいろ聞いているうちに、大瀧さんは満里奈さんに興味を抱いたんだろうと思います。で、そういう縁のきっかけになったからこそ、大瀧さんがプロデュースした満里奈さんのアルバム『Ting-a-Bell』の1曲目に能地祐子作詞、萩原健太作曲の曲が収められることになったと。

縁といえば、大瀧さんがだれに歌ってもらおうかと考えていたときに、渡辺満里奈さんの名前が出てきて、その「満里奈」という名前におっと思うものがあったのではないでしょうか。
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by hinaseno | 2015-08-25 14:17 | ナイアガラ | Comments(0)

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『ちびまる子ちゃん』の主題歌を歌った渡辺満里奈さんの話をしようかと思いましたが、今日8月23日は木山捷平の命日なので、そちらの話を。と思いましたが、離れないような話をします。

木山捷平が昭和2年に書いた詩に「さあいそげ」という作品があります。『木山捷平全詩集』では「船場川」の次に収められています。木山さんが姫路の荒川小学校に勤務していたときに書かれた詩。
子供等よ
いそげ、
あの丘を越えると
もうすぐだ、
あの丘を越えると
大きな海が見えてゐるのだ、
そこだ
そこが広なんだ。
さあいそげ。

子供達を海に連れて行くことを描いた詩。実際に荒川小学校時代の木山さんが子供達を姫路近辺のどこかの海に連れて行ったときのことを描いたものなのか、それ以前の出石小学校で先生をしていたとき、あるいは「尋三の春」に描かれた木山さんが子供だったときを思い出して書いたものなのかは正確にはわかりません。
でも、この詩でずっと気になっていたのは「広」という言葉。詩集には「ひろ」というルビがふられています。

1995年から数年間、阪神淡路大震災をきっかけに僕はある活動に関わっていたと書きました。その活動をしていたのは姫路の西を流れている夢前川の西の広畑という場所でした。

ここに大正12年の地図があります。
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赤丸の「文」が昭和2年に木山さんが勤めていた荒川小学校。東には船場川(「舩場川」と表記されています)が流れています。
青の四角で囲んだのが広畑。すぐそばを夢前川が流れています。北の方に蒲田という地名がありますね。
さて、広畑はのちに沿岸部に新日鉄の巨大な工場が造られて町は大きく発展したのですが、この頃はまだ田圃だらけです。
興味深いのはその広畑の南の海に近い辺りの地名が「広村」と書かれていること。「広(ひろ)」と呼ばれる土地がここにあったんですね。まあ、荒川小学校から子供達を海に連れて行くならば、まっすぐ南に下って船場川の河口あたりに行けばいいわけですが、でも、もしかしたら「さあいそげ」の「広」は広畑の南の「広村」なのかもしれないと考えたりもしています。

ところで、渡辺満里奈さんが結婚されたネプチューンの名倉潤さんはこの広畑の出身。で、ちなみに渡辺満里奈さんは大田区の蒲田の出身。
おもしろいですね。
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by hinaseno | 2015-08-23 12:55 | ナイアガラ | Comments(0)

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1994年のシーズン後、近鉄との契約交渉が泥沼化して野茂はメジャーリーグに活路を見出そうとします。ただ、当時はまだポスティング・システムのない時代。野茂がメジャーリーグに行ける可能性は極めて低いことも確かでした。
でも、大瀧さんはおそらく野茂がメジャーリーグでプレーすることをめざしていることを知ると、いち早くメジャーリーグのことを調べたはず。大瀧さんのことだから全球団。ナショナル・リーグ、アメリカン・リーグの両方の球団の球場のある場所からそこで活躍している選手まで。
飛行機嫌いの大瀧さんとはいえ、できれば野茂がメジャーリーグでプレーする姿を実際に球場で見てみたいと思ったはずなので、日本から一番近い場所はどこかと考えておそらくシアトル・マリナーズに目を留めたはず。当時、シアトル・マリナーズには、あのランディ・ジョンソンがプレーしていました。そういえば、ランディ・ジョンソンは今年、以前在籍していたダイアモンドバックスのフロント入りしていて、つい先日、日ハムの大谷君が投げているときに視察に来ていましたね。

そんな野茂の動向を気にしながら、大瀧さんは翌年の1月から再開する『ちびまる子ちゃん』の主題歌とエンディングテーマのレコーディングを続けていました。
オープニングの主題歌は「うれしい予感」、エンディングテーマは「針切りじいさんのロケン・ロール」。「うれしい予感」は大瀧さん作曲、「針切りじいさんのロケン・ロール」はカバー。アレンジはどちらも大瀧さん(クレジットはCHELSEA)。

大瀧さんが曲を作るという返事をしたのがぎりぎりだったためか、この2曲の歌手が決まったのは「一番最後」だったとのこと。つまり、コーラスも含めてオケをレコーディングした後で歌手が決まったようです。歌手が決まって歌入れが行なわれたのは1994年の12月くらいでしょうか。相当ギリギリの状態だったはず。
で、結局、「うれしい予感」を歌うのが決まったのが渡辺満里奈さん、そして「針切りじいさんのロケン・ロール」は植木等さん。

植木等さんに関しては大瀧さんが昔からのクレイジー・キャッツのファンで以前から面識もあることから植木さんに決まって大瀧さんも喜んだだろうと思います。
気になるのは渡辺満里奈さんに決まるいきさつですね。
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by hinaseno | 2015-08-22 11:34 | ナイアガラ | Comments(0)

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長嶋さんが監督として復帰する前から、そして復帰してからも大瀧さんが追い続けていた一人の野球選手がいました。それが1990年代初頭に最も「ポテンシャルの大きい」存在であったことを誰しもが認める選手、野茂英雄でした。

野茂英雄に関してはラジオデイズの「大瀧詠一的2008年(3)」で、とても興味深い話がなされています。久し振りに聴き返していたら、野茂の話の後に成瀬の『おかあさん』の話もされてびっくり。
話のきっかけは大瀧さんの映画のアーカイブのこと。膨大な量の映画を録画したきっかけが野茂英雄だったんですね。こんな話をされています。
野茂投手が近鉄に入ってきたときに、久しぶりにこの投手をナマで見ておかなければならないと思ったのよ。で、西武球場に来て清原選手と対決するということで、僕、全試合通ったんです。清原・野茂対決。名古屋にも行ったし、川崎球場にも行った。最終戦(注:これは有名な10.19ですが、野茂が近鉄に入団する前年)。で、ドームでやるときもあって、そのときも行ったけど、とにかく行った。
でね、野茂英雄というのを見ておかないと、野球ファンとしてダメな気がして。で、清原選手との対決を。また、西武と近鉄はあの当時の選手はメジャーに入れてもいいくらいの両方ともすごい充実したものすごい強いチームだった。セリーグの、お嬢さん野球って言われたけど、セリーグの野球が面白くなくなったのね。で、パリーグを見だしたときに、その近鉄のあれで...。
で、西武球場は見に行くんだけど、藤井寺球場は見られないわけよ。テレビでやってないから、野茂投手の。
いいアイデア。
衛星のアンテナ立てたのよ。向こうにChannel-Oというのがあって。で、そこで藤井寺球場の近鉄戦やっているの。録画してんのいっぱいあるけどね。そのためにアンテナを立てたわけ。
それでチューナーをいろいろやってたら映画が飛び込んできて。日活映画とか、松竹映画とか、ボーンと飛び込んできて。これはいいと思って。それで見始めたんですよ。

というわけで、大瀧さんは1990年代のはじめ、普通の人ではとてもできないような方法を駆使して、近鉄の野茂を追い続けていたわけです。でも1994年の暮れ、たぶん日本じゅうが長嶋巨人の日本一にわきかえっていた時期に野茂は近鉄との契約交渉が難航し、かなりのゴタゴタの末にメジャーリーグの道に進むことになります。

大瀧さんはその時期、ある曲のレコーディングにとりかかったばかりでした。翌年の1月にテレビ放送が再開する『ちびまる子ちゃん』のテーマソング。その曲のコーラス・アレンジをしたのは山下達郎。大瀧さんが達郎さんにコーラス・アレンジを頼んだのは巨人が日本一になった翌日。大瀧さんの動きが長嶋巨人とリンクしていたことがよくわかります。で、レコーディングをしながら大瀧さんは野茂の動向をチェックしていたに違いありません。
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by hinaseno | 2015-08-21 12:15 | ナイアガラ | Comments(0)

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昨日紹介した2002年の新春放談では、こんなやりとりがありました。
山下:やっぱり、ポテンシャルの大きいヤツにどんどん流れていく。
大瀧:オレはね。元々そういうヤツだよ。自慢じゃないけど。

もし今、大瀧さんが生きていれば、きっと日本ハムの大谷君を熱狂的に応援しているだろうなと思います。出身も大瀧さんと同じ岩手県(生まれた場所もそんなに離れていないようです)。右投げ左打ちというのも大瀧さんと同じ。さらに言えば7月生まれというのも。
僕は松井が引退して以来、野球への興味がすっかりなくなってしまっていたのですが、今年になって(正確にいえば昨年暮れにテレビで見たダルヴィッシュと大谷との対談)から大谷君を応援するようになって、彼が投げた日のスポーツニュースは必ず見るようになりました。なんたって名前が「ショウヘイ」ですからね。木山捷平ファンとしてはほっておけません。大谷という名前も大瀧とかなりかぶります。

ただ、大瀧さんと僕(あるいは一般人)とでは同じファンといっても、熱の入れ方が違います。大瀧さんがある選手をこれと見定めた場合、放映されたものは全試合録画。行ける限りは球場に足を運ぶ。そしていろんなことを調べ尽くす。とても真似できません。

さて、大谷君が生まれたのは1994年。この年、野球界では大きな出来事がいくつかありました。特に大瀧さんにとって。大瀧さんの1995年を考えるには、その前年の1994年のことを考えておかなくてはなりません。すべては1994年に始まっていたと言ってもいいかもしれません。

大瀧さんと野球といえばなんといっても長嶋さん。エルヴィス・プレスリーと長嶋茂雄というのが大瀧さんにとっての最大のアイドルでした。その長嶋さんがジャイアンツの監督に復帰したのが1992年の暮れ。復帰が決まって間もない時期に開かれたドラフト会議で松井秀喜を引き当てます。復帰初年度の翌93年は3位に終わりますが94年は、かの「国民的行事」と言われた優勝決定戦で勝利して優勝。そして日本シリーズでは監督となって以来ずっと負け続けていた宿敵西武を破って初の日本一になりました。大瀧さんが熱狂したことは容易に想像ができます。そしてこの出来事が冬眠状態であった大瀧さんに火をつけたのも確かなようです。
相当に重い状態になっていた腰を上げさせたわけです。

ただ長嶋さんとは別にもう一つ、大瀧さんに大きな影響を与えたはずの出来事が1994年の暮れに起こります。
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by hinaseno | 2015-08-20 12:17 | ナイアガラ | Comments(0)