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権現様の扉を開くと、正面に紙垂をつけた柱が2本。その棚に神聖なものが祀られていることがわかります。下には小さな石ころがいくつも。どうやら疣をこすれば疣が消えてなくなるという言い伝えのある石ころのようです。
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神棚の中をよく見ると、真ん中におかれた大きな石板(字が読み取れませんでした)の横に、木でできた人形のようなものが...。
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なんと3つもありました。右に2本、左に1本。
よく見ると、左にある1本はかなり古そう。右の2本は、どうやら近年に作られたもののようで、形もかなりイージー。何人もの子供達に遊ばせるために作ったのか、あるいは万が一なくなったときのために予備として作ったのか。でも、どうやらこれが伝説の人形であることは間違いがなさそうです。でも、それが「たねさん」と呼ばれていたかどうかは確認できませんでした。

丘を下りて、丘の周りを歩いていたときに、丘のそばの畑で農作業をしている年配の男の方がいたので、もしかしたら「たねさん」のことをご存知ではないかと思ったので、いくつか訊ねてみました。
丘の上にあるのは権現様であること、その丘の下の、保育園が作られた場所には昔、その方も通われていた福田小学校の校舎があったことも確認できました。
で、その後で、
「あの権現様の中に木製の人形がありますよね...」
と言い出しかけて、さらに「あれは『たねさん』と呼ばれていましたか」と訊く前に、その年配の男性は咄嗟に「たねさん!」と口にされました。その方も子供の頃、祭の日にやはり「たねさん」で遊んだそうです。

そういえば、その方からもう一つ、Fさんの「たねさん」の小説につながる話を教えていただきました。
「権現様の前に大きな木が一本立っていたでしょう。実はあの木には昔、梟の巣があったんですよ。そこにかなり長い間梟が住みついていて、梟の鳴き声がずっと聞こえていたんです」

『木靴』を離れてからのFさんのことは先に紹介した前之園さんの「ある無名作家の孤独」にいろいろと書かれています。ある時期には絵を描かれ美術館で展覧会をされたとか、それからまた何年か後には「ある地方力士のこと」という題の小説を書いて、地方の都市が主催する文学賞で入賞したこともあったそうです。その作品を読まれた前之園さんはFさんの作品が小山清の作品と「そんなに遜色ないところまで達しているように思えるのだった」と書かれています。「たねさん」を読めば、Fさんが若くして優れた作家であったことはよくわかります。
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by hinaseno | 2015-05-29 12:43 | 雑記 | Comments(0)

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権現様の場所もわかったので、5月の初めのよく晴れた日に、いよいよ「たねさん」に会いに行きました。牛窓に行くときなど何度もその近くを通っていましたが福元の集落に入るのは初めて。権現様のある丘はすぐにわかりました。
丘の麓にはもともと学校があったような場所もあります。ちなみにこれはちょっと古いですが明治43年の地図。権現様のあるあたりには学校の印があります。Fさんが通っていた福田小学校のはず。
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これが現在の写真。福田小学校の校舎はどうやらこのつきあたりにあったようです。
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手前の広場がたぶん昔の校庭。 校舎を取り壊した後、保育園が作られたようですが、今は閉鎖されていました。そしてその保育園の向う側に権現様のある丘があります。
保育園の横に丘に登る道がついていたので、20〜30mほど登ると権現様らしき建物が見えてきました。権現様と思われる建物の前には、まるで権現様を守るように大きな木が一本立っています。
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丘の周りはFさんが書いていたように竹薮だらけ。果して「たねさん」をどの方向に投げたんでしょうか。
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さて、権現様と思われる建物の入口には簡単なしめ縄がつるされていました。これが権現様であることは間違いないはず。
入口の扉から、中に何かが祀られているのが見えました。鍵はかかっていなかったので、ゆっくりと入口の扉を開けました。
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by hinaseno | 2015-05-28 13:16 | 雑記 | Comments(0)

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Fさんが『木靴』の創刊号に書いた「たねさん」という小説の中では、主人公の「私」が生まれ育った田舎の村の地名が書かれていました。
「福元」

もし前之園さんの文章でFさんの郷里が岡山の邑久町であることを知らなければ、仮にこれを読む機会があったとしてもきっとぴんと来なかったような気がします。でも邑久町の福元であればそれがどのあたりにあるのかはよく知っています。小説に出てくる「干田川」、「堂山」も近くにあることがわかりました。この福元がFさんが生まれ育った場所であることは間違いなさそうです。
試しにネットの電話帳で調べたら福元にはFさんと同じ名字の人がかなりたくさんいることがわかりました。残念ながら母親が生まれ育った場所とはかなり離れていて、通っていた小学校も違っていました。

ちなみに邑久町からその北の長船町にかけては「福」の字のつく地名が多く、一番有名なのは長船町の福岡。教科書には必ず載っているこの「一遍上人聖絵」の「福岡の市」の絵はあまりにも有名ですね。
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福岡は最近では黒田官兵衛の舞台にもなったようで観光客がかなり増えているようです。
この福岡から南に2kmほど行ったところが邑久町の福田地区とよばれるところ。その福田地区に福中と福元があります。

果してこの福元に権現様があるのか。今も残っているのか。そしてそのそばには小学校があるのか。
先ず調べたのが手元にある平成17年発行の『邑久町史』。その福元の地図を見たら…、ありました、権現様が。
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ただ、そのそばに小学校はありません。『邑久町史』を読むと福元には福田小学校というのがあったようですが、昭和48年に閉校したようです。ただそれがどこにあったのかは『邑久町史』では確認できませんでした。
地図を見たら「たねさん」にも出てくる「牛神様」もあります。Fさんが福元という土地に詳しいことがよくわかります。
さて、『邑久町史』にはこの権現様についてこう記載されていました。
吉井川の大水のとき、流れ着いた御神体をここへ祀ったといわれています。イボ取りの神様として有名で、本殿の周りにある石を借りて帰り、石でイボを撫でているといつのまにか治っているといいます。十月二十三日の夜が祭礼で、木造のご神体を投げ合いますが、このご神体に触るとおかげがあるといいます。夜暗い中投げ合っても不思議と人に当りません。ヤブに投げ込んでも必ず出てくるといわれ、中にはご神体を隠す人もいますが、それでも出てきます。

「たねさん」に書かれていた通りのことが記載されていて本当にびっくりでした。こうなるともう権現様に行かないわけにはいきません。

何よりも確認したかったのは、今もその木造のご神体が権現様にあるのかということ、そしてそれが「たねさん」と呼ばれていたのかということでした。
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by hinaseno | 2015-05-27 11:25 | 雑記 | Comments(0)

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井伏鱒二の『荻窪風土記』に収められた「小山清の孤独」はこんな言葉で始まっています。
 戦争を境に、文学青年窶れをした人たちが影をひそめ、文学同人雑誌も影をひそめた。戦前には私の知つてゐるだけでも(荻窪、阿佐ヶ谷附近の人たちの間だけでも)「青い花」「鷭」「ロマネスク」「青空」「海豹」「麒麟」といふやうに、次から次に発刊されてゐた。戦後は十年近く一冊もなくなつて、荻窪八丁通りの先の関町に引越して来た小山清を中心に「木靴」といふ同人雑誌が出た。昭和三十一年六月末の発刊である。
 同人は大学生や高校の学生も混つた若い人たちで、二割くらゐは仕事を持つてゐる人がゐた。私の知つてゐる人では、筑摩書房に勤めてゐた石井立と主宰者の小山清だけで、他には少し後になつて知つた荻窪八丁通りの先でパン工場を経営する辻淳がゐた。この雑誌は気ながに蜿蜒と続き(今日まだ跡切れ跡切れに続いてゐるかも知れないが)、主宰者の小山清が亡くなる昭和四十年三月まではぼつぼつと刊行を続けてゐた。創刊当時に学生だつた同人も、主宰の小山君を嬉しがらせるやうな作品を書いた。

『木靴』に最初から参加したのは小山清という作家に、小山清の作品に強く惹かれた人たちであったことはいうまでもありません。彼らが「主宰の小山君を嬉しがらせるやうな作品を書い」ていたので、小山さんは『木靴』という同人誌を作ろうと考えたんだろうと思います。Fさんももちろん「嬉しがらせるやうな作品を書い」ていたひとり。

前之園明良さんの文章によれば、5年で大学(早稲田大学)を卒業できなかったFさんは昭和31年の春に突然、前之園さんらサークルの人たちに何の連絡もせず大学をやめたようです。
昭和31年の春といえば、まさに『木靴』が発刊する直前。いろんな理由があったにせよ、Fさんが大学をやめたのは『木靴』を出すために小山さんにいろんな形で協力しようとしたからだったように思います。

前之園さんたちのところから突然姿を消してしばらくたって、Fさんから前之園さんのところへ手紙が届きます。その手紙には小山さんと『木靴』という同人雑誌を始めたことともうひとつ、住み込みの新聞配達員をしていることが書かれていました。
興味深いのはFさんが住み込みの新聞配達員をしていた販売店。浅草田島町の読売新聞販売所。
『木靴』の4号からは「同人住所」が載っていて、そこにはFさんの住所がこう記されています。
東京都台東区浅草田島町111 読売新聞合羽橋出張所

なんと、小山清が戦前に、やはり住み込みで働いていた新聞販売所のあった竜泉寺町のすぐ近く。しかも小山さんと同じ読売新聞。小山さんが勤めていた販売所はおそらく空襲で焼けたはずなので、Fさんが勤めたのは戦後になってあの地域に作られた販売所だったのかもしれません。
もしかしたら小山さんの紹介で働くようになったのかもしれませんが、それにしても小山さんとほぼ同じ状況に身をおいて、文章を書こうとするFさんの姿にはびっくりすると同時に微笑ましい気持ちにもなってしまいます。小山さんがFさんのことをどのように見ていたのかも想像に難くありません。

昭和38年の地図で、小山さんが働いていた新聞配達所があった場所(青丸)とFさんが働いていた新聞配達所があった場所(赤丸)を示しておきます。
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by hinaseno | 2015-05-25 12:58 | 雑記 | Comments(0)

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「たねさん」が収められた『木靴』の創刊号は、8号までの『木靴』のうちで本の状態が最も悪く、下手をすればページがはずれてしまいそうなために、展示会のときも、それから展示会が終わって窪田さんに送っていただいたときもビニール袋に入れられていました。ということなので、創刊号は後回しにして他の号から読み始めることにしました。
いくつかの作品に「岡山」「吉井川」「西大寺」という言葉が出てきつつも、Fさんが生まれ育った町を確認できるような言葉を見つけることはできず、半分あきらめかけた気持で、最後に袋から取り出したのが創刊号でした。そしてそこに収められた「たねさん」という小説にははっきりと彼が生まれた場所を示す地名が書かれていました。
それだけでなく、この作品は8号までに収められたFさんの6つの作品の中で最も優れたもので、田舎の村を舞台にした小学生たちの様子を描いたその作品は、まるで木山捷平の新山を舞台にした小説を思い起こさせるものでもありました。

ということで、ぜひその作品を読んでもらいたいので、ここに「たねさん」の全文を書き写しておきます。

たねさん

 田舎の小学校の裏の竹薮に囲まれた丘の頂きに、権現様と呼ばれる小さな社がある。これは、子供の頃の私には、懐しいがひどく怖い神様だつた。
 権現様は平常は参詣人など殆どなく、上り段には両側から熊笹と漆の木が生え出していて、子供の頃毎年のように漆にかぶれた私には、夏など一寸通れなかつた。
 一体、部落には小さな祠までいれると、二十人近くの「神様」が戸を構えていて、それぞれに相応しい霊験を伝えていたが、権現様は特に疣が専門であつた。境内の小石を一箇拝借して来て、十五日間とか朝晩それで疣を撫でて、最後に糸で結んで引張るとぷつんと取れるというのである。幸い私にはその点の心配はなかつたので御厄介にはならずに済んだが果して如何なるものだつただろうか。借りたのを返す時には、それに加えて、河原で年齢の数だけ拾つて来るのである。それを怠つたり、汚い石を返したりすると、罰があたつて尚余計疣が出るといわれていた。
 また、この権現様には、「たねさん」と呼ばれる一尺足らずの木像が祀つてあつた。それを秋の祭の晩に、子供達が小学校の校庭で、投げたり蹴つたりして遊ぶのである。
 「たねさん」というのは、その木像を彫つて奉納した男の名前である。像は特別に何の神様とも伝えられてなかつたが男の立像だつた。今になつて思いついたのだが、ひよつとしたら、たねさん自身の像だつたかも知れない。
 たねさんは、祖母の話だと、幕末の頃何処からか部落に流れて来て住みつき、村の「ほうと」(一種の使い走り)をして、独り者で晩年を送つたのだそうだ。彼は筆もたち頭もあつたと伝えられているが、生れた国の名とそれを捨てた理由についてだけは、遂に世を終るまで誰にも明さなかつたといわれている。
 たねさんは、遺言として村の子供達に、この像を出来るだけ乱暴に扱うような遊びを続けて貰いたいと頼んだのだそうだ。恐らく、彼の一生は踏まれたり蹴られたりの連続だつたに相違ない。しかし、福元(私の部落)のひとびと、特に子供達からは、深く愛されていたらしい。
 ラグビーともサツカーともつかない、ただ際限もなく奪い合いをするだけの遊びである。今から考えると、あんな単純な遊びの何処が面白かつたのかと思えぬでもないが、子供の頃は結構夢中になつて暗がりの運動場を転げ廻つたものだ。しかし、それにしても、子供たちは自分の曾祖父の名すらろくに知らないのに、百年も異郷に語り継がれているというのは、一体如何いう人だつたのだろうか。
 私たちが遊び疲れて、おせつたいの豆餅を頂きに石段を上ると、いつまで経つても同じ調子で祝詞をあげる神職さんの後姿があつた。時々、村のお内儀さん達が、重箱に一杯のお茶をいれて来て、神職さんの後で拝んでかえつた。
 祖母は信仰深かつたので、私を横に正坐させて、自分が拝み終るまでは、絶対に動かせなかつた。祖母が帰りかけると私は石段の脇の熊笹を折つて持たせてやつた。村には牛神様という家畜専門の祠もあつたが、権現様の笹も牛馬に喰わせると病気にならない呪(まじな)いになるといわれていた。そんな時、祖母はきまつて、
「親にやあ敗けても、漆にやまけぬ。」
と唱えながら、あたりへ、ぺつぺつと唾を撒き散らして呉れたものである。祖母はそうすれば絶対に漆にはかぶれないで済むと信じていた。祖母は、弱虫で家に引込んでばかりいた私を、嗾しかける様にしては、こういう男の子の遊びに加わらせたものである。
 また、この「たねさん」には、不思議な言伝えがあつた。それは、「たねさん」が、どんな場所へ放り込まれても、独りで権現様の祭壇へ戻つて来るというのである。権現様の祭の晩には盗んできて柱に縛りつけておいても、朝までには脱けてかえつたとか、干田川(ほしだがわ)に放り込んだのが、途中から岸へ上つて歩いて戻つたとか、老人たちの話によると、奇蹟は何度起つたか知れないのである。私たちは、その奇蹟の故にも「たねさん」を敬い愛していた。
 自然の成行きとして、権現様の祭の前にもなると、子供たちは学校で他処の部落の子に、誇らしげにそれを喋つてきかせる。
 しかし、福元部落の子供は、親達が教えるのだから信じ込んでいるが、他処の子は簡単にそうはゆかない。なかに、自尊心の傷つけられるのに抗して、
「そねえな阿房げたことがあるもんか。」
というのがあるからだ。勿論、私たちは口角泡をとばして、部落の権威になりそうな大人の名を出しては、嘘でないことを力説する。それで大抵は納得する。
 ところが、五年生の時、どうしても本気にしない相手が現われたのである。その子は、大島君といつて、大阪からの転校生で、勉強もよく出来た。大島君は私を組の中心とみて、はじめは盛んにお世辞を使つてきていたが、私が喧嘩に甘いのを見てとると、急に対抗的な態度にかわつた。受持ちの先生からも、
「しつかり勉強せんと、三学期の級長は大島だぞ。」
と云われていたし、中には彼の機嫌を取り結ぶ子まであつて、私には容易ならざる相手だつた。
 その大島君が、がんとして、私の云うのは嘘だと云い張つた。他処の部落の子には、彼に賛成するものも出て来た。私は福元の子に囲まれて、精一杯の啖呵をきつた。しかし、都会育ちの大島君には口では敵いそうもなかつた。彼はしまいには、自分で持つて帰つて柱へ縛つてみると云い出した。それには私も思はずはつとしたが、平静を装つて、
「おう、やつてみい。罰があたつて疣だらけんなるから。」
と嘯いてみせた。すると流石にそれは思いとどまつたが、とにかく証拠を見せろといつてきかない。
 そこで、私は「たねさん」を薮の中へ投げ込もうと提案した。権現様の丘の周囲は、村有の深い竹薮になつていて、年に一度の薮垣修理の他には、何年も斧を入れたことがなかつた。それには、大島君も承諾した。
 学校が終つて、私たちはこつそり丘に登つて、「たねさん」を借り出した。私は必死の思ひだつたが、大島君は一目見るなり、
「なんや、不細工な人形やなあ。」
と事もなげに云つてみせた。
 私は漸く尻ごみをはじめた福元の同級生を制して、大島君に希望の方向を訊いた。そうして、崖の突つ先に立つて彼の指さす箇所をめがけて、力一杯抛つた。「たねさん」は、一度竹の幹にかちんと触れて落ちていつた。
 その晩は、床に就いても眠れなかつた。熱つぽい頭をころころさせながら、盛んに自問自答を続けていた。
 二時間も経つと、我慢が出来なくなつて、寝巻のまま、懐中電燈を持つて、便所に立つような振りをして出て行つた。私はその頃、かなり広い家に、祖母と使用人の朝鮮人夫婦とで暮していた。金(きん)の部屋は別棟になつていたし、祖母は腹の太い人だつたので、私が戸を開けて出る位のことを兎や角思うのではなかつた。
 私は子供の度胸試しの会でも、墓地のある堂山へ行つて盆提燈や花輪のかけら位持つて戻れたし、懐中電燈も持つていることだし、小学校位なら平気だつた。しかし、その自信も熊笹の繁つた石段の道にかかる頃から、変てこなものになつて来た。
「親にや敗けても、漆にやまけぬ。ぺつ、ぺつ。」
私は大声で怒鳴りちらしながら登つて行つた。
 社の中には、時々「おへんど」(乞食)が寝ていることがある。たねさんも、恐らくそういう一人で、この社をしばらくの住み家にしていたのではなかろうか。私はもどかしくて、土足のまま板の間に上つた。そうして、そおうつと、祭壇に懐中電燈を向けた。
 無かつた。「たねさん」は、何処にもなかつた。嘘だつたのだ。
「なんたらことなら。阿房たれ!」
小声だったが、力を入れて云つた。それは祖母が私を叱る時の口癖だつた。誰に向つて怒りをぶちまけてよいのか、しかとは分らなかつたが、もう一度大声でそれを繰返した。私は泣きたかつた。しかし、一人なので泣けなかつた。
 「たねさん」は明日の朝までには戻つて来るのかも知れなかつたし、そう考えられないこともなかつたが、私にはもうそんなことは大嘘だとしか思えなかつた。そうして私の心の底には、初めからそういう疑いも無いことはなかつたのに――と、それを押し隠せた虚栄心を呪う気持になつた。
 如何しようか、と思つた。明日の朝早く来て探そうかと考えた。しかし、大島君のことだから、明日は早く来るに違いないと思われた。
 私は漸くのことに心を決めた。懐中電燈を頼りに、藪の中へ入つて探すことにした。
 私はその前の年の春、従兄の悪童に誘われて、この薮の中へ筍を盗みに入つたことがあつた。河原の薮の囲いの外で掘つたのだと偽つて持つて帰ると、祖母が大そう喜んだ。その時の経験で、探し廻つても出口に迷う事はないと思つた。それに、投げた見当も大体のことは記憶にあつた。
 入口は、社の真後にあつた。入ると、薮はいきなり急な下り坂になつた。下駄では歩きにくかつた。しかし、踏み抜きの恐れがあつたので、脱ぐという訳にはいかなかつた。この薮では、昼間でも梟が鳴いていたし、子供達は狸の類いが巣を造つていると信じていた。私は竹の幹に掴まつて、懐中電燈で遠くまで照らして、何も居ないことを確めては進んだ。私が動くと、それにつれて竹の陰も動いた。時々、荒い羽音で私の肝を冷し乍ら、鳥が飛んで逃げた。
 「たねさん」は容易なことでは見付からなかつた。「こんなこと位(ぐれ)え、何へんたらありやあ」と口に出さんばかりにして云いきかせていたが、何時の間にか目からは正直なものが伝わつていた。
「たねさあーん。隠れんと、出て来て頂でえー。たねさあーん。堪えてつけえなあ。たねさあーん。」
私は哀れな声を出して怒鳴つた。
 「たねさん」は、見当よりは、はるかに丘に近い場所へ落ちていた。私は、ううーつと嗚咽になつて喉に突き上げて来るものを必死に堪えながら、夜露で冷たくなつた木像を寝巻の袖で何度も拭いた。
 「たねさん」を祭壇へ返して、神妙に坐つて手を突いて天罰のないことを祈つた。私は必要なら毎日河原から石を拾つて来てもよいと思つた。疣だけは、どうか赦して貰いたかつた。
 小学校の校庭を横切つて、校門に向つた時だつた。私は、慌てて懐中電燈を消した。精米所の向うに、見覚えのある提燈を認めたのである。
 私はそおーつと砂場の方へ寄つて、身体を松の幹に隠した。祖母と、金だつた。二人はかわるがわる私の名前を呼んでいた。私は突差に、二人が探し廻つて、近所の同級生から昼間のことを聞いたのだと悟つた。
 私の張りつめていた心は一時に溶けてきて、提燈の灯が急に潤んで見えたとおもうと、涙が両方の目から溢れてでた。
 私は二人をやり過ごすと、下駄を脱いで手に掴んで、一目散に走り出した。
                       (1956年6月1日発行『木靴』1号 所収)

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by hinaseno | 2015-05-23 14:17 | 雑記 | Comments(0)

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「おう、やつてみい。罰があたつて疣だらけんなるから。」

小学五年生の「私」は、「たねさん」についての不思議な言い伝えを信じようとしない転校生に向かってこう言いました。「たねさん」を祀ってある権現様は疣取りの神様でもありました。

実は権現様に行って「たねさん」に会った翌日くらいから、体のあちこちにできものが出始めました。正直これにはびっくり。疣(イボ)ではないにしても、何か祟られるようなことをしてしまっただろうかと考えずにはいられませんでした。
結局は蕁麻疹ということで病院に行って薬を貰って飲んだら、すぐに症状はなくなりました。でも、原因は一体なんだったんでしょうか。

さて、話は2011年の暮れのこと。
おひさまゆうびん舎の窪田さんにいただいた前之園明良の「小山清生誕百周年 余聞」には前之園さんとFさんとの興味深い交流の話がいくつも書かれていました。Fさんが前之園さんの大学(早稲田大学)の先輩であること、同じ文学関係のサークルに所属していたこと(サークルでは前之園さんの方が先輩)、そしてFさんに誘われて『木靴』の合評会に参加して一度だけ小山清に会ったことなどが書かれています。

この半年後、やはりおひさまゆうびん舎を通じてYさんと知り合うことになります。で、そのYさんも同人であった『酩酊船』を何冊かいただいたのですが、その第27集(2012年4月30日発行)に前之園さんの書かれた「ある無名作家の孤独」という文章が収められていました。
内容は「小山清生誕百周年 余聞」をさらにふくらませたもの。小山清生誕百年展の後日談とともにFさんに関するもう少し詳しい話が書かれていました。ただしFさんの名は実名ではなく「フクチ・ヒロシ」という名前に変更されています。
「ある無名作家の孤独」というタイトルは、おそらくは井伏鱒二が書いた「小山清の孤独」になぞらえているんだろうと思います。

前之園明良さんの「小山清生誕百周年 余聞」を読んだときに、はっと思ったのがこの部分でした。
たしか昭和三十年の夏休みに、彼は岡山県東寄りの邑久町の実家から、赤穂線を経由して兵庫県西寄りの龍野の私の家まで遊びに来たこともある。

邑久町というのは母親の生まれた町。現在は牛窓とともに瀬戸内市に入っています。Fさんが生まれた年も正確にはわからないけれども母親に近い。もしかしたら母親の知っている人かもしれないと思って、以前母親に同じ小学校にFという名前の人はいたかと訊いたら、そういう名前の人はいなかったとの答えでした。

今回、没後50年 小山清展が開かれることになり、『木靴』も再び展示されるということを知って、何よりもFさんのことを知りたいと思いました。生まれ故郷を舞台にした小説を書いていないだろうか。できればFさんが生まれた場所を特定できるような小説はないだろうかと。
それが最後に読んだ『木靴』の創刊号に収録された「たねさん」でした。
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by hinaseno | 2015-05-22 10:00 | 雑記 | Comments(0)

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権現様のある丘の近くで畑仕事をしていた老人に、しばらくその権現様のある丘のあたりの昔の話をうかがったあと、こう訊ねました。
「あの権現様の中に木製の人形がありますよね...」
老人は僕が訊ねようとしたことを最後まで聞くことなく、まさに僕の知りたかった言葉をうれしそうに口にしました。
「たねさん!」

                   *       *       *

今、僕の手元に小山清が創刊した同人誌『木靴』の創刊号から8号まであります。おひさまゆうびん舎の小山清展で展示されていたものを店主の窪田さんのご厚意でお借りしました。これがその表紙をずらっと並べた写真。
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そしてこちらが裏。真ん中に一足の木靴が描かれています。
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これらが今、僕の手元にあることに深い”縁”を感じずにはいられません。

この8冊の『木靴』は4年前の2011年の秋に、やはりおひさまゆうびん舎の隣にあったツリーハウスの2階で開かれた小山清生誕百年展でも展示されていたものでした。そのときにこの8冊の『木靴』を窪田さんにお貸ししたのが前之園明良さん。そしてそのきっかけをつくられたのがこのブログでも何度も触れているたつののYさん。
今回、没後50年の小山清展を開くにあたって前之園さんから窪田さんに寄贈されたようです。そして今僕の手元に。

『木靴』に関して記されたもっとも有名な本は井伏鱒二の『荻窪風土記』でしょうか。そこに収められた「小山清の孤独」という文章の中で『木靴』についてかなり詳しく触れ、最後にこう書いています。
同人雑誌「木靴」の存在は、小山君の生き甲斐であり、心の拠りどころであつたやうだ。

『木靴』は全部で20号発行されました。
手元にある8号までの発行日とページ数と執筆者の数を記しておきます。
 1号  1956年6月1日発行    84ページ  執筆者11名
 2号  1956年11月1日発行  144ページ  執筆者13名
 3号  1957年4月20日発行  142ページ  執筆者11名
 4号  1957年9月20日発行  118ページ  執筆者12名
 5号  1958年6月10日発行  114ページ  執筆者8名
 6号  1958年11月25日発行 128ページ  執筆者8名
 7号  1960年6月1日発行    74ページ  執筆者4名
 8号  1961年7月1日発行    57ページ  執筆者3名

このうち小山清は1号から3号まで寄稿。1960年の11月に脳血栓で倒れて失語症に陥ります。執筆者の数は5号から減り始め、小山清が倒れた後に出た8号ではたった3名になっています。でも、20号までは続いたんですね。

8号までで最も多く執筆されている同人は創刊号から名を連ねている宮原昭夫。8号のうち7号で長めの小説を書いています。宮原昭夫という同人は井伏鱒二の『荻窪風土記』でも触れられているように、後に『文学界』の新人賞と芥川賞を取っていることからもわかるように、かなりの書き手であったことがわかります。
宮原昭夫の次に多いのは8号のうちの6号で小説を書いている同人F。無名の作家なので、あえて実名ではなく「F」と記載することにします(講談社文芸文庫の小山清『日々の麺麭/風貌』の年表にはFの実名が書かれています)。
実はこの8号までの『木靴』を持っていたのはそのFさんでした。8号まで持っていたということはその後同人をやめてしまった可能性があります。

おひさまゆうびん舎の窪田さんに『木靴』を寄贈された前之園明良さんとFさんが大学時代の友人で、小山清生誕百年展のときに前之園さんがFさんから『木靴』を譲り受けていたようです。
で、前之園さんは小山清生誕百年展のときに「小山清 生誕百周年余聞」という文章を寄稿されていて、僕がおひさまゆうびん舎に足を運んで間もない頃、展示会が終わった後でしたがその文章をプリントしたものをいただきました。
それはまさにFさんについて書かれたものでした。そしてそれを読んだときに、ある”縁”を感じて、当時、ちょっと調べましたが何の手がかりも得られず、それっきりになっていました。でも、まさかそのFさんの持っていた『木靴』が僕の手元にあるなんて、やはり”縁”を感じずにはいられません。

そのFさんが『木靴』の創刊号で書いていたのが「たねさん」という小説でした。きっといくつか小山清に文章を見せていて、小山清がこれがいいよって言ったんじゃないかと思います。
「たねさん」はFさんが生まれた場所を舞台にした物語。
僕は先日、その「たねさん」に会いに行ってきました。

話はそれてしまいますが、昨日、ようやく『大瀧詠一 Writing & Talking』を読み終えました。音楽に限らず、さまざまな分野に関する話の中で、折りに触れて大瀧さんが語られているのは人との出会いや縁のことでした。
最も面白かったのは高橋安幸著『伝説のプロ野球選手に会いに行く』に収録されていた「解説的対話 伝説のプロ野球ファン 大瀧詠一に会いに行く」でした。この中で著者でもあるインタビューアーの高橋さんに大瀧さんがこんなことを言っていました。
それでね、その「会いに行く」過程が半分ぐらいあってもよかったんじゃないか、っていう気もした。遠慮しないで、どういう過程でそこまで行ったか、いきさつとか縁とか、自分の思いっていうのがいっぱいあったほうが。

高橋さんの本は読んでいないので何とも言えませんが、大瀧さんのこの発言には大納得。僕もやはりそういうのを読むのが好きです。

というわけで、「たねさん」に会いに行ったことの「いきさつ」や「縁」をしばらく書いてみようと思います。
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by hinaseno | 2015-05-18 13:10 | 雑記 | Comments(0)

山高登さんの『東京昭和百景』の中に収められた絵の中に小さくアドバルーンが描かれていました。
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作品のタイトルは「Y浄水場西門」。
絵が描かれたのは2000年。でも、これはもちろん山高さんの記憶の中の風景。手前の木の扉からビルの建ち並ぶ方向を見ているのが大正15年生まれの山高少年。小学校低学年のようです。つまり、ここに描かれているのは、たぶん東京の空にアドバルーンが上がり始めた昭和6年から8年頃の風景。

Y浄水場というのは新宿にあった淀橋浄水場。今は新宿副都心となって高層ビルが建ち並んでいる場所ですね。作品の解説には山高さんのこんな言葉が書かれています。
浄水場の裏に小さな木戸があり、私はここを通るたび扉に付いていた小窓を押し上げて広い貯水池を眺めるのが好きだった。季節が変わるたび水鳥が飛来し、遥か遠くに新宿の街が蜃気楼のように浮かんで見えた。浄水場越しに映画街に上がるアドバルーンが見え、そこに書かれた映画の題名をかすかに読み取ることができた。

残念ながら、画集で見る限り映画のタイトルは読み取れませんでした。
そういえば鈴木信太郎の「東京の空」に描かれたアドバルーンには「しかも彼等はゆく」という映画のタイトルが書かれていました。
山高さんの木版画展には「Y浄水場西門」も展示されているんでしょうか。もし、どなたか行かれて映画のタイトルが読み取れたら教えて下さい。

ところで、川本三郎さんの『いまむかし 東京町歩き』の「淀橋浄水場」を見るとちょっと興味深いことが。
 淀橋浄水場は明治政府の国家事業として位置づけられた。基本構想をまとめたのが明治二十一年に発足した内務省の調査委員会。七人のメンバーには永井荷風の父で、同省衛生局にいたことのある永井久一郎が名を連ねている。

へえ〜、ですね。
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by hinaseno | 2015-05-16 12:03 | 雑記 | Comments(0)

一昨日のブログ、関口直人さんにお読みいただいたようで、丁寧なメールをいただきました。『森崎書店の日々』にまつわる話など(プロデューサーの方が『昔日の客』の大ファンだったようです)いろんなことを教えていただき、この場を借りて御礼申し上げます。

ところで、映画にも登場した三茶書房の『昔日の客』の装幀をされたのが山高登さん。その山高登さんの木版画展が現在、新宿で開かれたとのことで、関口直人さんもお母様といっしょに行かれたそうです。
そこに展示されているこの「大森曙楼旧門前」という絵。
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なんと、花束と風呂敷包みを手にしている男性は関口良雄さんとのこと。言われてみれば確かに。
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『昔日の客』に収められた何かの話の場面につながっているのかもしれませんね。
この「大森曙楼旧門前」などを収めた『東京昭和百景』という山高登さんの木版画集が昨年発売されたのですがこれが本当に素晴らしい。
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隅田川にかかる橋や築地、あるいは千住のおばけ煙突など、僕のお気に入りの東京の昭和の風景がいっぱい描かれています。
もちろん御茶ノ水辺りの風景(聖橋から見た風景)も。
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今、開催中の木版画展には、きっとこの本に掲載されている絵がたくさん展示されているんでしょうね。
昨年、たつので山高登装釘展を開かれたYさんも来週行かれるそうです。
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by hinaseno | 2015-05-15 12:19 | 雑記 | Comments(0)

先日、日本映画専門チャンネルで放送された『森崎書店の日々』という映画を見ました。 古書店で働くようになった女の子の物語。 この映画のことは、いろんなところでちらちらと目にしていたので気になってはいましたがようやく。川本三郎さんの『そして、人生はつづく』でも触れられていますね。

菊池亜希子さん演じる主人公の女性が働くようになったのは神田の神保町にある古書店。神田の神保町の古書街のことは知らないはずはありませんが、実はそこが千代田区であること、そして御茶ノ水から近いことは、木山捷平の「御茶の水」を読みながら、いろいろと周辺の地図を見ていて初めて知りました。
それから「神保町」を「じんぼうちょう」と読むことも映画を見て初めて知りました。これまでずっと「しんぽちょう」と読んでいて、つい先日も「神保町」とブログに書いたときには「しんぽちょう」と入力していました。
そういえば木山さんが初めて野長瀬正夫に出会った場所も神田の今川小路でした。ガード下にある飲屋街なんですね。ネットで写真を見たら結構ディープな感じ。

ところで、映画ではいくつも、おっと思わせるようなシーンが出てきました。
まずは、菊池さんが初めて古書店で働くようになった日の夜のシーン。彼女が住み込みで働くようになった古書店のある場所のすぐ近くに立っている電柱にはかなり目立つように三省堂書店の文字。三省堂書店が協賛していたのかもしれないけど。
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それから川本三郎さんがびっくりしたと書かれていたのはこのシーン。菊池さんが手に取って読んでいた本のページをアップでとらえた場面。
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彼女が読んでいたのは、旺文社文庫版の梶井基次郎『檸檬・ある心の風景』。この中に収録された「ある心の風景」の赤線でひかれた「視ること、それはもうなにかなのだ。...」という部分をタイトルにした柏倉康夫『評伝梶井基次郎 視ること、それはもうなにかなのだ』を読んだばかりのときに映画を見られたようです。まあ、びっくりしますね。

僕がびっくりしたのは何といってもこのシーンでした。
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積み上げられた本の一番上にあるのは、三茶書房の『昔日の客』(関口良雄著)。こういうのは原作に書かれているんでしょうか。
何度も書いていますが、この映画と同じ年に夏葉社から復刻された『昔日の客』は運命の一冊でした。

で、この『昔日の客』つながりで、野呂邦暢の本がいくつか出てきます。いずれも録画していたものをストップモーションしてわかったこと。
まずは、菊池さんが初めて値付けをした本。映画を見てたら、この本が何なのか結構気になります。ようやくわかったのが棚に入れるこのシーン。
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本のタイトルは『愛についてのデッサン』。筆者は野呂邦暢。

さらに、一人の客がその本を手に取って、本を買うかどうか悩むシーンがあります。そのときに店番をしている菊池さんが読んでいた本のページがアップで写ります。
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文章のタイトルは「山王書房店主」。山王書房の店主はいうまでもなく『昔日の客』の筆者である関口良雄さん。そしてその『昔日の客』にも触れた「山王書房店主」という随筆を書いたのは野呂邦暢。どうやらそれが収められた『小さな町にて』を彼女は読んでいたようです。こういうのって、かなりマニアック。
ちなみに野呂邦暢の『小さな町にて』は、「小さな町」好きである僕のような人間にとってはぜひ手に入れたいものなのですが、ものすごく高価なので...。

最近、『小さな町にて』というタイトルで野呂邦暢の随筆コレクションが出ています。編者は岡崎武志さん。
岡崎武志さんといえば、映画の最後のエンドロールで出演者のところに岡崎武志さんの名前が出て来てびっくり。どうやら喫茶店のシーンで主演の内藤剛志さんとカウンターで珈琲を一緒に飲んでいるのが岡崎武志さんのようです。

そういえば八木沢里志さんの原作は第3回のちよだ文学賞の大賞を受賞されたとのこと。
ちよだ文学賞といえば、前回2014年の大賞の受賞者は阿部安治(やすはる)さん。
阿部安治さんは、実はこのブログでもなんども書いてきた内田樹先生と平川克美さんと石川茂樹さんの古くからの共通の友人。確かアゲインの石川さんとは大学の同級生だったはず。
阿部さんは今、平川さんの隣町珈琲で「路地裏の文学史」という講義をされています。
いろんなつながりがあって面白いですね。
阿部安治さんの受賞作である「俎橋からずっと」も神田を舞台にした小説とのこと。いつか読んでみたいとは思いつつ、まだ手に入っていません。

というわけで、関口良雄さんの息子さんである関口直人さんがアゲインにやってきて、その関口さんから電話をいただいた僕にとっては忘れられない日の、石川さんと関口直人さんのツーショットの写真を久しぶりに貼っておきます。石川さんに送っていただいたこの写真は『昔日の客』の中に大切にはさんでいます。
お二人ともお元気でしょうか。
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by hinaseno | 2015-05-13 12:04 | 映画 | Comments(0)