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by hinaseno
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<   2015年 04月 ( 28 )   > この月の画像一覧



今にして思えば、この写真は...。
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これは今から3年前の夏(木山さんのことを調べ始めてほんの2カ月足らずのこと)、おひさまゆうびん舎で開かれた夏葉社フェアのために書いたものの表紙にした写真でした。

文章の書き出しに使ったのがやはり昭和8年に書かれた「秋」だったので、それを引用した村上春樹の「秋をけりけり」の雑誌『an an』に掲載されたページを背景にして、昨日載せた写真の木山さんの部分だけをトリミングして重ね合わせたもの。昨日と同じく岡山文庫の『木山捷平の世界』に載っていた写真を使ったんだろうと思います。
当時、木山さんの日記も、野長瀬正夫に関して書かれたものも何も持っていなかったので、野長瀬正夫のことなど知る由もなく、結局、野長瀬正夫の写っている部分は切り落としたわけですが、今、改めて考えてみれば、まさにそれはまさに「秋をけりけり」していた年の二人(であることが極めて高い)の写真だったわけです。

さて、木山さんには野長瀬正夫のことを書いた「野長瀬正夫君と私」というエッセイがあります。昭和7年の1月に書かれたもの。二人が「秋をけりけり」したのは、おそらくこの年の秋。
このエッセイは『詩人時代』という雑誌に掲載されたものですが、2年前に手に入れた『自画像』に収められていて、これを初めて読んだときには、ものすごく驚きました。
調べてみたら2年前のこの日のブログの最後で「ところで、この『自画像』に収められたエッセイを読んで、またまたものすごく驚いたことがあったのですが、それはまた後日。」って書いていましたね。結局、書かないままでいた話。でも、野長瀬正夫のことがわかってきて、個人的にはさらにものすごく驚くことになりました。

「野長瀬正夫君と私」は、こんな書き出し。
 うん、そんなこと位、訳のないことだと最初は思つたが、いざとなるとどうして、わが野長瀬正夫の横顔を二本や三本の線でデッサンすることは、私にとつて容易な業ではないことに気づいた。恋する男女は、目をつむつても、その愛人の顔を眼前に彷彿たらしめることは難しと歎くさうであるが、或ひはさういふ類に属するのであらうか。

まるで恋人のことを書いているような文章。この少し後にはこんな言葉が出てきます。
これほど左様に、彼は私の一人(いちにん)の愛人なのである。

昭和7年当時において、野長瀬正夫が最も大切な友人、というよりもそれ以上の(当時木山さんは結婚していたので変な意味ではなく)自ら「一人の愛人」と表現するほどの存在であったことがわかります。あるいはこんな言葉。
 私は始終彼と顔を合わせてゐるが、つい二三日前もふらりと彼の翠洋荘を訪ねた。それが現在(1932年1月9日)の私にとつては、最後に逢つたわが野長瀬正夫である。

これだけの存在をぬきにして、あえて詩にしようと思えるほどの別の「友達」が当時いたとはとても考えられません。

さて、僕が「ものすごく驚いた」というのは二人が出会うきっかけにありました。そのきっかけをつくったのが、例の昭和2年に書かれた「秋」の「この土地のたつた一人の友」でした。
つまり、僕が3年前にたまたま心にひっかかった二つの「秋」という詩に描かれた昭和2年の「友」と昭和8年の「友」がつながったんですね。
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by hinaseno | 2015-04-30 11:39 | 木山捷平 | Comments(0)

昭和7年から昭和8年にかけての木山捷平の日記で、野長瀬正夫が木山さんの家にやってきたり、あるいは木山さんが野長瀬正夫の家を訪ねたりしていることを記載したものを並べてみます。
昭和7年3月1日 野長瀬を訪問。

11月15日 野長瀬来訪。『土の血統』をよみ感心してくれる。午後有楽町に津田君訪問。左奥の入歯をした、森、栗本君を実業ビルに訪問。神田杏雲堂病院に佐々木俊郎氏を訪問。野長瀬と会す。三省堂に長田、山本、倉橋と出逢う。神田日活にて野長瀬と活動を見る。

11月20日 村井武生来訪。共に野長瀬君をホタルアパートに訪う、留守。

11月30日 夜野長瀬正夫来訪。夕食を共にす。『若き女教師』を借りて行く。

12月2日 野長瀬来訪。何の話もなし。

12月26日 夕方野長瀬来訪。原稿紙とリプトン紅茶少々持ち帰る。

昭和8年1月30日 家でもありはせぬかと阿佐ヶ谷方に出かけて野長瀬訪問。『女教師三人組』という「サンデー毎日」の懸賞に出した大衆文芸をよんできかされる。なかなかうまし。道で井伏氏に出あい、カフェー三軒ばかり歩き、コーヒー、ビール、ウイスキー、三、四円おごってもらう。なかなか愉快な一晩がすぎてしまう。夜ふけて野長瀬来り、小生の『出石』をよむ。三時ごろ帰りたり。

2月4日 朝赤松月船訪問。『出石』書き改めたものを見てもらう。これにて短篇になりし由。帰りに野長瀬をホタルアパートに訪う。昨夜もらって忘れたとちの餅をもらってくる。野長瀬、田中、倉橋、鈴木二郎という人を伴い来る。仙台人なり。ズーズーという。一緒に写真をとって貰う。そこへ竹下君も来てにぎわう。夜、海豹同人会。

2月9日 余はわかめ、さざえ、青のりを持ちて赤松月船、井伏鱒二氏を訪いたり。...夜道をよく知らねば井伏氏の邸近くまで送りてもらいたり。井伏氏はねていたり。起きて酒などよばれ、さざえのつぼ焼してくいたり。なかなかの通人の話をきかされつつ。氏の部屋に上りしははじめてなり。帰りに野長瀬のところにより、大いにやろうというて夜半をすぎて帰る。

3月4日 野長瀬君熱海よりやってくる。

7月7日 朝、昼二回下痢した。野長瀬来訪。

7月28日 起きたら十二時ごろ。野長瀬君大阪より帰り来る。色黒になれり。つづいて竹下君、トシネ君と共に来る。

9月8日 神田の印刷所訪問。古木さんに一冊雑誌を送る。小学館で森本栄穂さんに逢う、岡山県児島郡出身の人。三省堂で長田、農林省に山本、内務省に佐伯を訪ねた。...帰りに三省堂で山本とあい新宿にかえり野長瀬の所で将棋をする。

12月19日 野長瀬、倉橋不在。

それから興味深いのは昭和8年の3月8日から12日にかけての熱海旅行の話。どうやら野長瀬正夫はこの時期、熱海の誰かのアパートに滞在していたようで、木山さんを誘ったようです。この頃、木山さんは足の神経痛に悩まされたようでその治療のために熱海に行くことを決心します。ところが天気も悪い日が続き、温泉の入浴効果もなく、痛みは和らぐどころかさらに増したようです。で、3月12日の日記にはこんな記載。
 野長瀬に二円で切符を買ってもらう。駅まで自動車がないので歩くのが辛い。コウモリ傘の杖にすがって行く。東京駅ホームの長かったこと、野長瀬おんぶしてくれた。

野長瀬正夫が木山さんをおんぶしてるんですね。東京駅のホームといえば人もかなり多くて、きっとおたがいに恥ずかしかっただろうとは思いますが、このあたりにも2人の友情の深さを見ることができます。
でも、この後二人は会う回数が極端に少なくなっていきます。

昭和8年に書かれた「秋」の、木山さんと郊外を「秋をけりけり」した友達が野長瀬正夫だということはあくまで推測の域を出ないのですが、もう少し推測をするならば、おそらくはこの「秋」というのは、日記でも何度か野長瀬正夫が訪ねて来たことが書かれている昭和7年の秋のことではないかと考えています。この時期、用事らしい用事もなくて何度も訪ねて来ていますね。「野長瀬来訪。何の話もなし」とか。いかにもあの「秋」に描かれた友情の風景。

木山捷平という人は、ある友人との友情を詩に表現するときには、会えない状態が続いている時の、あるいは友情が終わりかけているように感じとった時の寂しい気持ちの中で書く。
これが木山さんの詩をずっと読んできて(そしていろいろと調べてきて)僕なりに知ったことでした。
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by hinaseno | 2015-04-29 11:54 | 木山捷平 | Comments(0)

改めて木山捷平が昭和8年に書いた「秋」という詩を。
この詩との出会いがすべての始まりでした。
 
 新しい下駄を買つたからと
 ひよつこり友達が訪ねて来た。
 私は丁度ひげを剃り終へたところであつた。
 二人は郊外へ
 秋をけりけり歩いて行った。

この詩を初めて読んだとき、木山捷平という作家のことも全く知らなかったわけですから、この「友達」がだれかなんて知る由もありませんでした。
木山さんは当然のことながら住んでいた場所やその活動によっていろんな交友関係をつくっています。最も有名なのは阿佐ヶ谷会とよばれるものですが、この昭和8年は井伏鱒二を含めてその周辺の人たちに関わりを持ち始めた段階。木山さんに関するものを読んでわかってきたのは、この昭和8年というのはいろんな新しい交友関係が生まれていた時期でした。
姫路から上京して来て最初に交友関係を持ったのは、それ以前から詩の活動を通じて知り合っていた仲間たち。
でも、小説家としての歩みを始めるようになって、太宰治など小説家をめざす人たち、あるいはすでに小説家として活動している人たちと親交をもつようになり、必然的に、それまでの詩の活動を通じて知り合った友人たちとの関わりが遠くなっていきます。
「秋」はそんな時期に書かれた詩でした。

『サラダ好きのライオン』で、この詩を取り上げた村上春樹はこんなことを書いています。
 この詩を初めて読んだときに、「これはまだ若い人のつくった詩だな」と僕は感じた。実際、昭和八年には木山捷平はまだ二十九歳だった。どうしてそう感じたかというと、「新しい下駄を買ったから」といって友達がふらっとうちにやってくるような状況は、そしてそれを普通のこととして捉える感覚は、まだ二十代の人のものだからだ。

木山さんの昭和7年から8年にかけて書かれた日記を読んでいて、こういう関係にありそうな友人は”たった一人”、野長瀬正夫しかいないように思いました。あくまで推測の域をでないことですが。
木山さんの日記の中に、ひげそりをしているときに誰かがやって来て二人で郊外を散歩したという記述があれば一番いいのですが、残念ながらそれはありませんでした。ただ、昭和6年12月10日の日記にこんな記述が。
 日光浴、入浴、ひげそり。坂本氏来り。

この坂本氏という人物は、ほかの日の日記に見当たらず、どういう人物なのかよくわかりませんが、そのあと「さそわれて『海豹』同人会にゆく」と書かれているので、『海豹』の同人の一人のようです。「〜氏」と書いているところを見る限り親しい関係でもないようなので(親しい関係のある人は日記ではたいてい「〜君」、あるいは呼び捨て)、二人で郊外を「秋をけりけり」した友人ではなさそうです。

さて、昭和8年の日記で最も多く登場するのは古谷綱武、神戸雄一、塩月赳(正しくは走にょうに斗)ら。いずれも『海豹』の同人。『海豹』に関する用事で会っているのがほとんどのようです。そんな中、ときどき「来訪」したり「訪問」したりしていたのが、以前からの詩の仲間である野長瀬正夫でした。
この時期に書かれた日記で最も興味深いのは昭和8年2月4日の日記。記念すべき第1回目の『海豹』の同人会が開かれた日です。木山捷平が太宰治とはじめて出会った日でもあります。木山さんはこの日のためにはじめての小説「出石」を書き上げていました。
 朝赤松月船訪問。『出石』書き改めたものを見てもらう。これにて短篇になりし由。帰りに野長瀬をホタルアパートに訪う。昨夜もらって忘れたとちの餅をもらってくる。野長瀬、田中、倉橋、鈴木二郎という人を伴い来る。仙台人なり。ズーズーという。一緒に写真をとって貰う。そこへ竹下君も来てにぎわう。夜、海豹同人会。古谷綱武宅。会費五円。集るもの――大鹿卓、今官一、岩波幸之進、塩月赳、新庄嘉章、吉村○○○、神戸雄一、藤原定、小池○○、太宰治、小生。

実はこの5日前の1月30日の日記に、こんな記述があります。
 家でもありはせぬかと阿佐ヶ谷方に出かけて野長瀬訪問。『女教師三人組』という「サンデー毎日」の懸賞に出した大衆文芸をよんできかされる。なかなかうまし。道で井伏氏に出あい、カフェー三軒ばかり歩き、コーヒー、ビール、ウイスキー、三、四円おごってもらう。なかなか愉快な一晩がすぎてしまう。夜ふけて野長瀬来り、小生の『出石』をよむ。三時ごろ帰りたり。

前年の5月に中央本線の線路沿いの杉並区馬橋四四〇番地に移り住んだものの、汽車や電車の騒音がものすごくて、とても長く住める家ではないとわかって次の家を探しに行ったついでに、ふらっと野長瀬の家を訪ねています。
で、夜も更けて今度は野長瀬正夫がふらっと木山さんの家までやって来て3時頃までいるんですね。この時期、お互いの家をこういう感じで行き来していたのは野長瀬正夫だけ。
昭和2年の「たった一人の友」が大西重利であったならば、昭和7〜8年の「たった一人の友」は野長瀬正夫だったことがわかります。

この日、おそらく木山さんは『出石』を書き上げたことを伝えたんでしょうね。そうしたら野長瀬がそれを読みにやってきてくれた。そのときに野長瀬正夫が言ったであろう感想がきっかけになったのか、3日後の2月2日に木山さんは『出石』の書き改めをします。そして完成したものを2月4日に郷里の先輩である赤松月船のところに持って行き、これでいいだろうという返事をもらって、うれしくなってきっとそれを伝えるために野長瀬正夫のアパートに行ったんでしょうね。一番喜びを分かち合いたい人のところへ行ったわけです。
で、木山さんはその『出石』の原稿をもって『海豹』の同人会の場に向います。

2月4日の日記の中に「一緒に写真をとって貰う」との記述があります。それがこの写真ですね。左が29歳のときの木山捷平、右が野長瀬正夫。
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「秋をけりけり」した、まさにその頃の二人の姿がここに写っているわけです。
でも、この日を境に二人の距離は少しだけ離れていくことになります。
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by hinaseno | 2015-04-28 12:16 | 木山捷平 | Comments(0)

『秋立ちぬ』


つながるときにはつながるもの、
なんてつい先日書いたような気もしますが、そんな話から。
昨日、YouTubeに成瀬巳喜男の『おかあさん』がアップされているのに気がついて、狂喜乱舞してその7つに分割されたものの1つめを見ていて、で、それが終了して、次の映像が再生され始めて、当然『あかあさん』の2つめの映像だと思ったら、別の映画が始まって、何だろうと思ったらこの画面が出てきて腰を抜かしてしまいました。
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成瀬巳喜男の『秋立ちぬ』
この映画のことを知って以来、僕にとっては運命の一作といえる存在になっていながらも、見る機会を持てないでいた作品。このブログでも『秋立ちぬ』のことは何度も語ってきました。それがようやく。アップされたのは先月のようです。
YouTubeで『秋立ちぬ』のチェックは頻繁にしていて、つい先日もしたばかり。どうやら英語でAki Tachinuと表記されていたのでひっかからなかった、あるいは気づかなかったようです。

それにしても心の準備もない中で、ソファーに寝ころんで『おかあさん』の世界に入り込んでいたので、本当にびっくり。『おかあさん』が見れた喜びもぶっとんでしまいました。
YouTubeはいつからか一つの画像が終ったら勝手に次の画像が始まって、しかもそれがなんのつながりもないものだったりして、結構鬱陶しく思っていましたが、まさかこんな出会い方をするとは思ってもみませんでした。
『秋立ちぬ』や『おかあさん』以外にも、見たかった成瀬の作品が先月くらいにいくつもアップされているようで、ゴールデン・ウィークはこれらの映画を見続ける日々が続きそうです。とりわけ見たかったのは『愉しき哉人生』と『限りなき舗道』。
ただ、『秋立ちぬ』を見た後に『おかあさん』を見たら6/7と7/7の画像がアップされていないのに気づいてがっくり。そこには香川京子さんの素敵な花嫁姿が映っているはずなのに。

それにしても『秋立ちぬ』はタイトルからして運命的なものを感じずにはいられないですね。僕が大瀧詠一という名前と初めて出会った「風立ちぬ」と「秋」が合わさっているわけですから。
大瀧さんも『秋立ちぬ』にいくつもの運命的なものを感じてその研究をし、それを研究したがゆえに、大瀧さんと川本三郎さんが出会うという、僕にとっては奇跡のようなことが起こったわけですから。
『秋立ちぬ』のことは、また改めて書くことにします。

「また改めて」といえば昨日、野長瀬正夫という人のことに少し触れて「また改めて」と書きましたが、『秋立ちぬ』を見ていたら監督助手のところに「野長瀬三魔地」という名前があってちょっとびっくり。
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野長瀬という名字はかなりめずらしいはずなので、もしかしたら何か関係があるのかと思いましたが、どうやらつながりはなさそう。野長瀬正夫は奈良出身の詩人。で、野長瀬三魔地は京都出身。黒澤明監督のいくつかの映画のチーフ助監督や、あの『ウルトラマン』シリーズの監督をしてる人なんですね。そんな人が『秋立ちぬ』の監督助手をしていたとは。
野長瀬氏というのは日本の氏族の一つとしてウィキペディアにも載っているので、きっと血のつながりはあるんでしょうね。

というわけで「秋」そして「野長瀬」という名前もつながったことなので、野長瀬正夫の話をしておこうと思います。ずっと続けている木山さんの北海道旅行の話をしていたのに、相変わらず行き当たりばったりです。
村上春樹が『サラダ好きのライオン』(もともとは雑誌『an・an』)で紹介した「秋」という詩に登場する「友達」が野長瀬正夫であるという話。
ここにはもう少し「秋」につながる話が含まれています。

そういえば『秋立ちぬ』は、秋の始まりを示すタイトルとは違い、2度と取り戻すことの出来ない少年の夏の終わりを描いた何とも切ない物語。夏の終わりのボーイズライフを描いた映画は大好きです。少年にとって夏の終わりと秋の始まりは全く違うんですね。
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by hinaseno | 2015-04-26 11:52 | 映画 | Comments(0)

今朝、『あまちゃん』を見て知ったのは、主人公の能年玲奈さんの役名が「秋」ということ。「アキ」と呼ばれているのは知っていましたが、まさか季節の「秋」という字が与えられていたとは思いませんでした。
このブログでは何度も書いてきたように、僕と木山捷平とのつながりをつくってくれたのは2つの「秋」という詩でした。
ひとつは昭和2年、姫路にいたときに書いた「大西重利に」との言葉が添えられた「秋」、もうひとつは昭和8年、杉並区馬橋四の四四〇に住んでいたときに書いた「秋」。
考えてみたら小説家としての第一歩を踏み出し始めた昭和8年に書かれた詩はこの一篇だけ。この詩に登場する「友達」はとても特定出来そうにないですが、もしかしたら太宰治だったかもしれません。でも、一番可能性があるのは野長瀬正夫ではないかと考えています。それについてはまた改めて。

さて、その昭和8年2月23日のこと。この日のことは昭和39年に発表された「太宰治」に詳しく書かれています。
その日の朝、新聞記事を読んだ木山さんは小林多喜二が「私と同じ馬橋の六十五番地違いに住居を持っていたこと」を知ります。
新聞に載っていた小林多喜二の住所は「杉並区馬橋三の三七五」、そして木山さんの住所は「杉並区馬橋四の四四〇」。確かに番地は「六十五番地違い」。
でも、小林多喜二は馬橋の三丁目で木山さんは四丁目じゃないかと思ってネットで昭和24年の地図を調べたら、それぞれが1番地から始まっているのではなく、1番地から500番地くらいある馬橋をだいたい100番地ごとに馬橋一丁目から馬橋四丁目までに分けていることがわかりました。というわけなので「六十五番地違い」というのは間違いありませんでした。というわけでそれぞれの家のあった場所を地図で確認。
赤丸の「440」が木山さんの家のあった場所。そして、「375」は載っていませんでしたが、青丸で囲った「374」「378」の数字が見えるの辺りに小林多喜二の家があったと考えられます。500mあるかないかの距離。
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というわけで、怒りと好奇心の入り混じった中で「うまく行けば線香の一本でもあげたいものだと思って」木山さんは小林多喜二の家に向かいます。でも、...
ところが家を出て、二、三町ゆくと、もうそのへんの淋しい路地に私服らしいものがうろちょろしているのを発見したので、私はこれはいかんと思ってあたふたと家に引きかえした。
 私がこれはいかんと思ったのはほぼ妥当だったようで、その日の夕刊に次のような記事が出た。
「小林多喜二氏葬儀、物々しい警戒」

ということだったようです。
こんな出来事があったことを、その30年あまり後に小樽にある小林多喜二の文学碑を訪れた木山さんは果して思い出していたでしょうか。
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by hinaseno | 2015-04-25 13:14 | 木山捷平 | Comments(0)

ここ最近、毎朝、朝食をとりながら見ているのが『あまちゃん』。
なんとも時代遅れな話ですが『あまちゃん』には自分にとってかなり縁のあるものだと知って、機会があれば見ておこうと思っていたところ、つい先日、BSで再放送されていることがわかったので録画して見ているわけです。残念ながら気がついたときには第6話まで終っていましたが。

『あまちゃん』との縁に関しては、何よりも舞台が大瀧さんの故郷の岩手県であること。それだけでなく、かなり大瀧さんとつながる部分が多いんですね。
大瀧さんが曲を書いている小泉今日子さんや薬師丸ひろ子さんが出演していること、さらには、見てはいないけど、子供の頃の小泉今日子さん役の人がオーディションで大瀧さんが松田聖子さんのために作った「風立ちぬ」を歌っているらしいこと、などなど。小泉今日子さんが働いている飲食店の名が「リアス」というのもいいですね。大瀧さんには「リアスの少年」という曲もあります。
それから、川本三郎さんの本で知った三陸鉄道が何度も出てくるのもうれしいことです。

そしてもう一つ、主演が木山捷平とつながりのある(?)能年玲奈さんであること。
この日のブログから数日かけて書きましたが、木山さんが姫路出版していた『野人』の発行所である(実際には大西重利の住所であった)姫路の南畝(のうねん)町と能年(のうねん)さんの名字がつながっているという話。
ここまでいろいろとつながっていることを知ったからには見ないわけにはいきません。

そういえば、佐野史郎さんのブログで知ったのですが、大瀧さんは『あまちゃん』のかなり鋭い分析をされていたそうですね。どこかに発表されているんでしょうか。ぜひ、読んでみたいと思っているのですが。

さて、話がちょっととんでしまった小樽の話。
余市から小樽に戻って来て、木山さんがまず見学したのが「最近出来たばかりの」小林多喜二の文学碑でした。「銀鱗御殿の哀愁」にはこんなことが書かれています。
この碑は伊藤整をふくむ小樽高商の卒業生が、思想のいかんをとわず協力して出来たものだという記事を新聞で読んだ時から、私は興味をおぼえていたのである。

木山さんが「形は本を二頁にひろげたような形だった」と書いていますが、写真を見たらまさにそのとおり。
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小林多喜二が小樽と縁があることを知ったのは実はつい最近のことでした。
おひさまゆうびん舎で開かれていた小山清展に展示されていたものをちょっとお借りしてコピーさせてもらったのがこの『北海道文学全集』の、小山清の「夕張の宿」の前に収録されていた佐多稲子の「雪の降る小樽」でした。
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主人公の女性が「十数年前に警察の拷問で死んだ作家K」の母親が住む家を訪ねる物語。このKというのがだれだろうと調べたら小林多喜二だったんですね。佐多稲子さんが実際に訪ねた話を物語にしたようです。

小林多喜二が亡くなったのは昭和8年2月20日。
そのころ木山さんはまさに最初の小説「出石」の最後の仕上げをしていた時期でした。そして太宰治たちと『海豹』という同人誌を立ち上げて、この2月の末に出た『海豹』の創刊号に木山さんの「出石」が掲載されることになるんですね。
木山さんの昭和8年2月21日の日記はこんな文章で始まります。
 朝、日なたぼこをしていたら神戸雄一君が、『出石』の校正刷りを持ってやってくる。古谷君の所へ同道して、そこで校正をなす。...(中略)神戸君はまた校正のことで守部と二人で太宰のところへ行ったので、小生たちは雑談して帰る。

で、この後にこんな記述が出てきます。
 夕刊、切抜小林多喜二が警察で殺されたことが出る。...

さらに(附記)として23日にこんなことを書き加えています。
 帝大、慶大、慈大も解剖を拒絶。急死した小林多喜二の遺骸は友人と遺族間に解剖して死因を確かめようとする希望があったが拒絶され、やむなく自宅に運び戻った。同夜は杉並区馬橋三の三七五の同家で通夜が行われる。....

この日の日記にはさらに「附記」が続きます。小林多喜二とは特につながりがあったわけではありませんが、この事件に木山さんがかなり動揺していることがわかります。
でも、この朝刊を読んだ木山さんは小林多喜二の葬式に行ってみようと考えました。「解剖を拒絶した医者への反感」とともに、小林多喜二とのつながりを知ったからでした。
ひとつは小林多喜二が木山さんよりも一つだけ年が上だったこと。もうひとつは小林多喜二が木山さんのすぐ近所に住んでいたこと。
小林多喜二の住所は「杉並区馬橋三の三七五」、そして木山さんの当時の住所は「杉並区馬橋四の四四〇」。
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by hinaseno | 2015-04-24 11:57 | 木山捷平 | Comments(0)

木山捷平の北海道旅行の話を続けていますが、『新編 日本の旅あちこち』の方も少しずつ読み進めています。昨夜読んだのは「阿武隈の国民宿舎――福島」。塩屋崎灯台へ行った話が出て来て、おっと。
実はつい先日BSで放送された『喜びも悲しみも幾歳月』という映画を見たばかり。あちこちの灯台で働く灯台守夫婦(主演は佐田啓二と高峰秀子)を暮しを描いた映画。確か塩屋崎灯台もちらっと出てきたな、と思いながら読み進めていたら、やはりその映画のことが出てきました。どうやら映画は実話に基づいたもののようで、佐田啓二演じる主人公はまさに塩屋崎灯台に勤務していたとのこと。木山さんが訪れたときは、そのモデルになった人は岩手県の魹ヶ崎に勤務していたそうです。ただ、木山さんはその映画を見ていなかったために、その灯台で働いていた職員にいい質問ができなかったようです。

この映画で面白かったのは、主人公の勤務地が変わるたびに日本地図が出てきて、その前の勤務地から次の勤務地へカメラが移動していく場面。結構わくわくするんですね。岡山の近くの瀬戸内海の男木島灯台のときはドキドキでした。子供の頃に何度か乗った宇高連絡船から男木島は見ていたので。
そういえばこの男木島は猫島としても有名のようで、何年か前に岩合光昭の「世界ネコ歩き」という番組でこの島の猫の特集をしていましたね。

映画では最初の勤務地である観音崎灯台から次の勤務地に行くときに、カメラでとらえた地図がまさに積丹半島あたりに近づいていったときにはびっくりでした。最近、何度も地図で見ていた場所だったので。

これは手元にある昭和初期の地図ですが、カメラがこのあたりまで近づいてきて、もしかしたら小樽の灯台かと思ったら、ちょっとだけずれて少し右の石狩の灯台に止まりました(赤い印が灯台)。話のつながりとしては小樽であれば、もう少しおもしろかったんですが。
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ところで、「阿武隈の国民宿舎――福島」では、塩屋崎灯台の職員と話をしたあとの感想としてこんなことを書かれています。
 映画に関する私の質問は殆ど落第に近かった。が、ここで会った所長をふくめ三人の職員の印象は後々まで私の胸にのこった。その印象を一言で言えと言われれば、それは孤独な自然と毎日々々闘いつづけている人間の尊い姿といってもいいであろう。高さにすればわずか海抜五十メートルの標高が彼らにとっては実は別世界なのだ。そこに地上とかけはなれた住居を持ち、そこで仕事に精励しているものの善良で素朴な姿に私は心を打たれた。

映画を見たばかりだったので、このときに木山さんが感じとった気持ちがよく理解できます。
で、灯台守を主人公にした物語をこのあと書いているんじゃないかと思って調べてみたら...。実はこれが木山さんの最後の旅だったんですね。
木山さんが雑誌の企画でこの福島の旅行に夫婦で出かけたのは昭和43年3月23日。実はひと月前から胃痛や背痛で夜も眠れない状態が続いていて、企画が持ち込まれたときには最初は断ったけれども二度目の電話で引き受けたことが日記に記されています。
旅行の初日の日記にもこんな記述が。
疲労で安眠出来ず。妻が背中をさすってくれる。

そういう状態の中、翌日、灯台に行っています。いい質問ができなかったのは、映画を見ていなかったことだけではなく、木山さんの体調もかなり影響していたようです。
旅行から戻った四日後の日記にはこんな記述も。
背痛、胃痛、胸痛、指痛、全身めちゃめちゃ。

そして翌月に入院。手術を受けるものの8月23日に食道癌で亡くなります。

塩屋崎灯台は東日本大震災によって消灯したとのこと。再点灯まで9カ月もかかったようです。
木山さんが訪ねたときにいた職員はもうかなり前にすべて退職されていたでしょうね。でも、きっと「阿武隈の国民宿舎――福島」を書いたあとも彼らの姿は木山さんの心にずっと残り続けていただろうと思います。
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by hinaseno | 2015-04-22 12:07 | 木山捷平 | Comments(0)

木山捷平から北海道にやってくるという連絡を受けて、札幌駅に迎えにいった更科源蔵。たぶん40年ぶりぐらいに再会した二人。でも、『新編 日本の旅あちこち』の「銀鱗御殿の哀愁」に書かれているのはずいぶんあっさりとした会話。
「突然何をしに来たのか」
「漫然たる旅で、何が何でも君の智慧を拝借せねばならない。ぼくはこれから何処へ行けばいいのか」

まあ、実際には「久しぶり」「よく来たね」「元気にやっていたか」みたいな会話もあっただろうとは思いますが、でも「何が何でも君の智慧を拝借せねばならない。ぼくはこれから何処へ行けばいいのか」という言葉を見ればわかる通り、木山さんが更科源蔵を頼りにしていたことがわかります。
 駅前のサッポロビールに入って小憩している間に、行先は積丹半島ときまった。私はいまはソ連領である樺太か、ハボマイ、シコタンの見える辺境を内心希望していたのであるが、それは短い日数では却って虻蜂とらずになる可能性があるというので、美人の産地だという積丹方面を探訪することになったのである。

もともと木山さんは道北、あるいは道東の、まさに辺境を旅することを希望していたようですが、結局決まったのは積丹方向。更科源蔵が、はじめて北海道にやって来た木山さんに行くことを勧めたのが札幌の西の小樽や余市でした。
距離的な問題とともに積丹方面にしたのは、そこが「美人の産地」だということ。さて、木山さんは期待通り、美人に会えたんでしょうか。

ここで一応、木山さんの日記と「銀鱗御殿の哀愁」を頼りに、この第一回目の北海道旅行で、木山さんが行った場所を確認してみます。

第一日目(昭和41年5月13日)晴れ
函館から函館本線に乗って札幌に。札幌時計台前の丸惣旅館に宿泊。丸惣旅館というのは松本清張の『点と線』にも出てくるとのこと。

第二日目(5月14日)快晴
札幌市内を見学。先ず向かったのが豊平川にかかる豊平橋。「岩野泡鳴が樺太の鑵詰事業に失敗して、北海道までひきかえしてここで色女と心中をこころみて失敗した場所」とのこと。ちょうど橋はかけかえの工事中だったようで、調べてみたらまさに木山さんが行った年の秋に竣工していました。「明治年間のおもかげは失われて」と書かれていたのでネットで調べてみたら、確かに素晴らしい橋だったようです。
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このあと北海道大学の構内を見学。有名なポプラ並木を見物して、初日と同じ丸惣旅館に宿泊。

第三日目(5月15日)雨
函館本線ではなく、バスで小樽に。で、そこからさらに別のバスに乗り換えて積丹半島の美国へ。終点の美国営業所の窓口にいた「美少女(といっても十七、八歳)」に、それから積丹町役場の当直の「美少女(といっても十七、八歳)」に声をかけています。宿泊したのは「海に面した」磯野旅館。
これは戦前の美国の海辺の写真。この中に磯野旅館が写っているとのこと。手前の大きな建物でしょうか。
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第四日目(5月16日)曇午後雨
この日は当初、積丹半島の突端まで行く予定だったようですが、天気が悪かったので引き返すことにして向かったのは余市。先ず行ったのが水産漁業センター。この場所にあった電信関係の庁舎で幸田露伴が働いていたことがあるということを記念して碑が建てられているのでそれを見学しています。
これがその碑。「碑の背景がすばらしかった。背景はすぐ海だった」と書いています。
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このあとニッカ・ウイスキーの工場を見学。余市の気候風土がスコットランドにそっくりということで作られたそうですね。それからフゴッペ(日記には「ふっとぺ」と書かれています)にある洞窟を見に行っています。昭和25年に発見された洞窟。木山さんは「考古学に関するガクのない私には殆んどちんぷんかんぷんだった」と書いていますが、写真で見たらこれはすごいです。
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でも木山さんは「見学は約五分で打ち切って」タクシーで小樽に向かいます。
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by hinaseno | 2015-04-21 14:42 | 木山捷平 | Comments(0)

昨日紹介した更科源蔵の略歴、中嶋はなえと結婚した昭和6年のところにこんな記述がありました。
夏、猪狩の再渡道を迎えにいき、当局からにらまれ、代用教員をクビになる

この猪狩というのは、やはり昨日紹介した『南方詩人』昭和5年1月号の最初の「百姓仲間」という作品を書いた猪狩満直のようです。草野心平と同郷の詩人。木山さんが昭和5年に書いた「小松川雑記」には猪狩満直と姫路で知り合った坂本遼の話が出てきます。やはり草野心平を通じて知り合った詩の仲間。このグループの中に更科源蔵もいたんでしょうね。
猪狩満直は大正14年に開拓農民として北海道に移住しています。昭和5年には福島の郷里に戻ったようですが、翌昭和6年には更科源蔵の郷里の北海道弟子屈村の牧場に行っています。
それにしても更科源蔵の年譜の「猪狩の再渡道を迎えにいき、当局からにらまれ、代用教員をクビになる」というのはどういうことなんでしょうか。

それはさておき、更科源蔵著『北海道の旅』を少し読みました。いわゆる観光用の本とは全く違っています。北海道という場所を、そのアイヌの時代からの歴史を知り抜いている人の言葉と、そしてやはり観光用のものとは全く違った更科源蔵自身によって撮られた写真で構成された素晴らしい本。この人の言葉は信じれると強く思いました。
例えば、最初の「函館」についてこんな記述が出てきます。
 われわれは函館というと、駅を出て電車通りを湯の川の方へ行ったり、十字街から立崎岬の方に行くか、箱館山に釣りあげられるかが主であるが、これでは本当の函館の深い部分に触れることはできない。見せるべくつくられたところなどは、あまりにも底が浅くてむしろあさましい。古い外国風の風物とともに、函館の静けさはかげの方にある。

それから更科源蔵の故郷の「屈斜路湖」ではこんなことも書かれていました。
 私は本当に私の故郷を知りたいという友には、五月か六月、それから九月か十月に来るように返事を出す。七月八月は絶対にさけるようにとつけ加えることをわすれない。

木山捷平が北海道に行ったのは昭和41年の5月と昭和42年の5月と10月。まさに更科源蔵の言葉通りに北海道を旅していたわけです。きっと木山さんはこの部分を読んで旅行の日程を決めたに違いありません。
あるいは何年か前に更科源蔵に北海道へ行きたいという手紙を書き、更科源蔵から「五月か六月、それから九月か十月に来るように」と書かれた返事をもらっていたのかもしれませんが。
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by hinaseno | 2015-04-20 10:36 | 木山捷平 | Comments(0)

道子よ、泣くな


木山捷平と更科源蔵のつながりを考えていて、ふと思いついたのが、ブログをはじめた頃、あの大西重利と木山捷平のつながりを調べていたときに知ったこの『南方詩人』昭和5年1月号の執筆者の中に、更科源蔵の名前があることを発見しました。
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『南方詩人』の執筆者の中には、後に木山さんの第1詩集『野』の序文を書いた小野整、赤松月船、坂本遼をはじめ、草野心平、黄瀛、林芙美子、そして大西重利など、木山さんとつながりのある人たちがずらりと並んでいます。
『木山捷平資料集』を見ると、『南方詩人』が発刊したのは昭和2年9月。木山さんは昭和4年1月号から参加(この号には木山さんの詩を一気に9つも掲載)。更科源蔵は昭和5年1月号から参加しています。

ネットに載っていた更科源蔵のこの年譜をみると、大正10年頃に詩を書き始め(木山さんとほぼ同じですね)、昭和2年に上京し、昭和3年に伊藤整のところを訪ねています。
ただ、翌昭和4年の春には北海道に戻って生まれ故郷である北海道東部の弟子屈で小学校の代用教員になっているので東京にいたのは2年ほどだったようです。
木山さん上京したのは昭和4年3月。姫路の菅生小学校での勤務を終えてすぐに上京したはずで、おそらくは上京してすぐに伊藤整らとも会っているだろうと思うので、木山さんが更科源蔵と会ったのは3月の下旬くらいでしょうか。ただ、会ったといっても、おそらくは一度か二度のことだったかもしれません。でも、きっとどこか気持ちが通じる部分があったんでしょうね。

年譜にも書かれていますが、更科源蔵は昭和6年に同じく詩の活動をしていた中嶋はなえと結婚。翌昭和7年の9月には長女道子が誕生しています。
更科源蔵はどうやら子供が生まれることを木山さんに手紙で知らせていたようで(お腹の大きくなった奥さんの写真も送ったようです)、木山さんも昭和7年に出した手紙では更科源蔵の奥さんの体の具合を心配するとともに「北海道の弟子屈で生れる子供の上に幸よあれ」との言葉を手紙で書いています。
で、その後、更科源蔵から子供が生まれたこと、その子が女の子で名前が道子であるということを手紙で知らされたようで、昭和8年に出した2通の手紙では道子ちゃんのことを気にかける言葉を書いています。

ところで「道子」ということで思いあたる木山捷平の詩がありました。『木山捷平全詩集』の「未発表詩篇」に収録されたもの。書かれたのはまさに昭和7年。ただし、タイトルが「やもめの歌」。
  やもめの歌

 道子よ、泣くな
 そら、窓にとまつて
 馬追ひがないてゐる
 あの声をおきゝ
 あれは
 おまへの母さんが愛した虫だ
 『馬追虫をきゝながら
 あなたのことを思つてゐます』と
 昔のたよりにあつたつけ
 なくな、道子よ
 そしてあの声をおきゝ
 母さんのやうにやさしいこゑだ
 さあさ、あれをきゝながら
 父さんと二人でねんねしな。

実は更科源蔵の妻はなえはかなり若いときに亡くなっています。ただし亡くなったのは7年後の昭和14年のこと。昭和7年のときにはもちろんまだ生きていて、同居もしていたはずで、亡くなる前年の昭和13年には次女の葉子も生まれています。
この昭和7年に書かれた詩に出てくる「道子」は、その年に生まれた更科源蔵の娘であることは間違いのないはず。もしかしたら何らかの事情で一時期別居していたことを更科源蔵から聞いたときに書いた詩なのかもしれませんが、それにしては数年後に起こったことを予見するような詩ですね。
いずれにしても、これでまた一人、木山さんの詩に出てくる人物を特定することができました。
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by hinaseno | 2015-04-19 12:13 | 木山捷平 | Comments(0)