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by hinaseno
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昨日、昭和35年の10月頃に行なわれた矢掛中学の同窓会で『平賀春郊歌集』のことを知ったのでは、と書きましたが「弁当」を読み返してみたら本が出版されて2年近く後に予約申し込みのビラが来たので為替を組んでおくったら現物が届いたと書かれていました。「弁当」は物語の形になっているので事実かどうかはわかりませんが。

さて、木山捷平は『平賀春郊歌集』を手に入れ、その「編集後記」を読んで平賀春郊と若山牧水の関係を初めて知ります。こう書かれているようです。
平賀先生は延岡中学校第一回卒業生で若山牧水先生と同窓で、且又牧水先生の最も親しい友人の一人として、牧水先生と同様酒を愛したことに於ておくれをとらなかったことも治(あまね)く人の知る所である。

で、歌集の年譜を見ながら平賀春郊の生涯を辿っていきます。年譜を引用しつつ、ところどころ木山さん自身の「筆者注」も。たとえば、
明治41年9月 平賀節と結婚(筆者注、これはムコに行ったものと解釈される)

僕は最初、平賀春郊という名前を聞いて、しかも歌人ということだったので、このブログでも何度か紹介した平賀元義と関係があるのかと思っていたのですが、出身地も含めて全く関係ありませんでした。
『若山牧水書簡集』の、牧水が書いた宛名で確認すると、平賀春郊の最初の名前は大内財三(さいぞう)。明治35年に鈴木家の養子となり名前が鈴木財三に。さらに明治39年の手紙からは「財三」が「財蔵」になっています(ときどきは財三)。
手紙の中の呼び名では「鈴木兄」、「財三兄」、「財蔵兄」と変わり、明治40年10月の手紙で初めて「春郊兄」という言葉が出ています。

木山さんが引用したものでは「明治41年9月 平賀節と結婚」となっていますが、どうやらそのときは平賀家との養子縁組だったようで、節と実際に結婚したのは明治42年6月。ということで、それ以後から宛名は平賀財蔵になります。でも、ときどき「財三」になったり、あるいは「財造」になったり。
平賀春郊という名前を宛名に書きだしたのは明治45年3月の手紙から。それからは平賀春郊か平賀財蔵の両方の名前を使っています。
矢掛町にいるときには「岡山県矢掛町 平賀春郊様」しか書かれていないときもあって、本名でもないし、番地も書かれていないし、よく届いたものだと思います。

さて「弁当」にはこんなことが書かれています。
岐阜県斐太中学時代の歌に、
つとめやめて京にいなむと思ひつついとしかりけり高山の子ら
というのがあり、
新潟中学時代の歌に、
けふもまた論語教へてかへるさの信濃川辺によしきりがなく
というのがあるが、正介はよんでいてこれらの歌は先生の気持の動揺と受け取られてならない。もっとつっこんで言えば、延岡中学校の同級生だった若山牧水のような自由人に先生はなりたがっていたのではないか、だがそこはムコのかなしさも手伝って勝手な自由がきかなかったのではないかと想像される。

平賀春郊は明治45年に東京帝国大学を卒業し、最初に赴任したのが岐阜県斐太中学校、それから新潟県新潟中学校、さらに郷里の宮崎県宮崎中学校に赴任しています。

『若山牧水書簡集』の牧水の手紙を読むと、この時期、平賀春郊は牧水に歌集を出してもらおうといろいろと働きかけをしていたことがうかがわれます。牧水もそれを実現しようと努力しつつも、お金の問題など困難な状況があって実現できないままでいたようです。
そんなときに平賀春郊は郷里の宮崎を再び離れて岡山の矢掛中学校への赴任が決まります。これには牧水も驚いたようで、春郊が矢掛に赴任してまもない大正9年4月4日にかなり長い手紙を書いています。この日の手紙は個人的には最も心打たれるものでした。
春郊の歌集を出してあげることの出来ないままになって、しかも牧水にとってはきっととんでもない場所に春郊が赴任することになった責任も感じているようで、文面に申し訳ない気持ちがあふれています。
手紙は「平賀君、かきにくい手紙だが思いきつて書いてみる」という言葉から始まります。こんなことが出てきます。
 君もエライ所に出かけたものだネ。思ひもかけぬ所だつたので少なからず驚いた。何か縁故があつて行つたのかネ。延岡よりも田舎らしいぢアないか。家族も一緒か、それとも独りだけかネ。苦笑する様なせぬ様なツラをしてその田舎町を逍遥してゐる君の風ボーがよく心に映る。落ちつくことが出来たら幸ひと思ふ。

そして懸案の春郊の歌集の話も。
 歌のことを云へば、君の印刷した原稿を大変失礼してゐるが、あれはどうしやうね。今さらどうしやうも無いものだけれど、かなり時もたつてゐるので、とにかく相談する。そちらからでも一冊にして出すかネ、創作社でたつてもいゝ。とにかく来月の末あたり暫く上州の温泉に行つて自分の編輯をやるつもりだからその前に一緒に先日来の君のを纏めて見て来よう。ほんとに済まなかつた。

「君の印刷した原稿」という言葉があるように春郊は自分の歌集を出版してもらうために自分自身で印刷して作成したものを牧水に送っていたようです。でも、結局それぞれが生きているときにその歌集が作られることはありませんでした。ただ、春郊は牧水に対して裏切られたという気持ちは最後まで持たなかったはずですが。

こういう手紙を木山さんが読んだらどんな気持ちになったでしょうか。木山さん自身も文学者としての道を歩みたいとは思いつつ、実際には教師の仕事をしていた時期もあるので、春郊の気持ちは痛いほどわかったでしょうね。

さて、牧水は翌大正10年の1月に、宮崎に帰省するついでに春郊のいる岡山の矢掛を訪ねてみたいという手紙を書き送ります。
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by hinaseno | 2015-03-31 13:42 | 木山捷平 | Comments(0)

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木山捷平が昭和36年に書いた「小田川」のことを調べていたら、その原稿が岡山県立図書館に所蔵されていることがわかったので見てきました。原稿用紙で6枚。撮影も可とのことでしたので遠慮なく。
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原稿用紙の右下に「右指ケガのため乱筆おゆるし下さい」という判が押されていて、気の毒なことなのにちょっと吹き出してしまいました。作ったんですね、こういうの。

さて、木山捷平は矢掛中学の3年になった頃から文学に目覚め、いろんな本を読むようになります。さらに4年生になってからはいくつかの雑誌に短歌や俳句などを投稿し始めます。投稿した雑誌の選者には若山牧水もいたようです。
大正10年(『高梁川』に掲載された「小田川」は「大正15年」と書かれていましたが、原稿を見たらちゃんと「大正10年」になっていました)、木山さんが5年生になって初めて平賀春郊に国語と法制経済を教わるようになった間もない5月に、その若山牧水が矢掛の平賀春郊を訪ねて来たことが翌日の地方新聞に載り、他の教師も含めて学校中が大騒ぎになります。でも、そんな騒ぎに対して平賀春郊は「終始知らん顔をしていた」とのこと。昭和39年に書かれた「弁当」にはこう記載されています。
 国語の時間だったか法制経済の時間だったか忘れたが、撃剣の強い一人の生徒が、
「先生、牧水先生が先生のお宅に来たそうじゃありませんか。ちょっと牧水先生の話をしてください」
 と先生をつついたが、
「一晩とまって行っただけです。一晩じゃ、別に話す材料は何もありません」
 と逃げてしまった。
 先生が歌人であることは生徒はうすうす知っていた。しかし誰もその歌を見たものはなかった。しでに文学少年になっていて、歌の真似事などをした正介なども、その歌がどこに発表されているのか皆目わからなかった。

大正11年の春に矢掛中学を卒業してからほぼ40年後、おそらくは平賀春郊先生のこともすっかり忘れてしまったある日、木山さんは『平賀春郊歌集』を手にし、歌人としての平賀春郊のこと、若山牧水とのつながりについて初めていろいろ知ることになります。
『平賀春郊歌集』が出版されたのは昭和34年3月。非売品として作られたもの。発行者は松江高等学校宮崎県同窓会。「弁当」には「あまり上等でない装幀の歌集」と書かれています。
吉備路文学館の若山牧水展に行って、まず見たかったのはこの『平賀春郊歌集』でした。うれしいことに2階の展示室に飾られていました。そばにはその歌集に収められているはずの歌を記した短冊が50くらい展示されていました。

これは白黒ですが『岡山の短歌』(岡山文庫)に掲載されている『平賀春郊歌集』の表紙の写真。実物は淡い緑色の水彩絵の具で塗られていました。大きさはA5サイズくらい。
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ところで、木山さんはどういう経緯で『平賀春郊歌集』を手に入れたのか、ということですが、そのあたりのことは「小田川」にも「弁当」にも記されていません。「小田川」の冒頭にはこう書かれているだけ。
「平賀春郊歌集」といふ歌集が、一昨年の春、松江高等学校宮崎県同窓会(延岡市三ツ瀬町高森医院内)から出版された。私は知らないでゐて、手にして一読したのは、ほんの最近のことである。

『小田川』が掲載された『高梁川』第12号(発行所は高梁川流域連盟)が発行されたのは昭和36(1961)年8月31日。『酔い覚め日記』を見ると昭和36年7月28日の日記に「『高梁川流域』より白桃一箱着。三六個入。原稿の御礼とあった」と記されているので、おそらく書いたのは7月。

もう少し前の日記を見てみると前年の昭和35年8月30日にはこんなことが書かれていました。
佐藤一章氏死去。29日午後1時58分、胃かいようにて大倉病院にて、54歳。今朝の新聞にて知る。矢掛中学校同窓生であった。戦後二、三回逢っていた頃は元気であった。惜しい画家を亡くした。

さらに同じ昭和35年10月22日の日記には。
石井直三郎歌碑千円、矢掛川畔に出来る。
有本放水碑、千円、岡山市に建設
矢掛中学校(高等学校)同窓会、千円

どうやらこの時期、岡山関係の人と接する機会が増えていたようで、そんな中、おそらくは矢掛中学の同窓生の佐藤一章という画家を偲ぶ形で同窓会が開かれ、それに参加したのかもしれません。
そして、たぶんこの同窓会で久しぶりに矢掛中学校時代のいろんな話をする中で平賀春郊の話が出て、彼の歌集が作られていることを知らされたのではないかという気がします。もしかしたら誰かがその場に持って来ていたのかもしれません。
で、その発行所に問い合わせて『平賀春郊歌集』を送ってもらうという形になったんでしょうね。ということなので木山さんが『平賀春郊歌集』を手に入れたのは昭和35年の暮れか翌年の始め頃だったかもしれません。
その歌集を見ながら矢掛中学時代のことや、小田川の畔にあった平賀春郊の家を訪ねたことなどを思い返していたときに、高梁川流域連盟から原稿の依頼が来たので(小田川は高梁川の支流)、それではということでささっと書いたんでしょうね。
で、書いたあともいろいろと平賀春郊のことを思い起こしているうちに、これは物語になりそうだということで、随筆ではなく小説の形で書き直したのが「弁当」だったんでしょうね。
ちなみに「弁当」を掲載したのは『別冊文藝春秋』。昭和39年8月29日の日記にこう記載されています。
「別冊文藝春秋」原稿今晩二時脱稿す。『弁当』25枚、12時15分、藤沢貴美さん来訪され、渡した。

最初は原稿用紙で6枚だったものが4倍にふくれあがっています。

ところで、吉備路文学館の2階には、牧水から平賀春郊に出したいくつもの手紙とともにこんな本が展示されていました。
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『若山牧水書簡集 「僕の日記である。」』。若山牧水が平賀春郊に出した手紙264通をすべて収録したもの。若山牧水記念文学館から取り寄せたのですが、考えたら吉備路文学館でも販売していたような気がします。発行は平成22年。もちろん木山さんはこの本を読むこともなければ、これほど多くの手紙を書き送る関係であることも知る由もありませんでした。

『若山牧水書簡集』には吉備路文学館にも展示されていたこの写真が掲載されていました。
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写真の下には「大正10年小田川にて(右端が牧水 その隣が春郊。)」と書かれています。巻末に掲載されている略年表を見ての推測ですが、春郊の左にいる女の子は当時10歳の長女久子。そしてその左で赤ん坊を抱いているのが春郊の妻節。赤ん坊は生まれたばかりの次女はる子だろうと思います。このとき春郊は40歳、牧水は37歳。

この写真を撮った場所はおそらくこの辺りの河原。ここにもかつては観月橋と呼ばれる流れ橋があったようで、橋脚が少しだけ残っていました。
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春郊はきっとこの辺りの土手沿いの家に住んでいたんでしょうね。
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牧水が春郊に出した手紙の宛先はすべて「岡山県矢掛町 平賀春郊様」。番地もなければ字名もありません。よくこんなので届いたなと。
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by hinaseno | 2015-03-30 14:11 | 木山捷平 | Comments(0)

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昨日、荷風と違って木山さんは歩いているときにはぜんぜん観察者ではないと書きましたが、電車に乗ると一変、すごい観察者になります。
観察対象は女性、しかもたいていは若い女性。
大丈夫かなと思うくらいの細かい観察。そのあたりの話についてはまた改めて。

さて、明治44年の地図に木山少年が歩いたルートを赤で記してみました。左下の赤丸が木山さんの生家、右上の青の四角が矢掛中学校。水色に塗っているのが小田川。この土手沿いに沿って僕は歩いたんですね。木山さんの家からのスタートではありませんでしたが木山さんが毎日歩いていた2里(8km)くらいは歩いたようです。
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そういえば昨日紹介した観音橋を渡って山陽道に入ったところにあった木造の建物、調べてみたらやはり郵便局。地図を見たらまさにその場所に〒のマークがあります。明治7年に作られたとの情報も。少なくとも木山さんが矢掛中学に通っていたときにはこの郵便局の建物があったようです。
ちなみにその上に貼った写真の左手に見える建物は旧中国銀行小田支店。これも作られたのは大正12年以前とのこと。これが建てられていた頃に木山さんが通っていた可能性もあります。

そんな古い建物も残っている山陽道沿いの町並みを抜けると田圃の中の一本道となり、そのまっすぐの道が矢掛の町に入る辺りまで続きます。木山さんが歩きながら勉強したり、あるいは冬の寒いときには何度か焚火をしたのはこの田圃の中の一本道だったんでしょうね。
小田川の土手を歩きながらときどきその道を眺めていましたが、正直そちらを歩かなかってよかったと思うくらいに単調な道。焚火もしたくなるのもわかります。
その焚火の話をちょっと引用します。題名は「中学一年生」(『わが半生記』に収録)
僕は焚火が出てくる話が好きなのですが、これも短いけど大好きな話。
 私は家を出てしまえば、寒稽古にかようのは割合平気だった。ただ顔は手拭いで頬かむりするからそれほどでもなかったが、かちかちに霜のおりた道を歩いて行くと、足の先がちぎれるほど冷たいのが閉口だった。冷たさを解消するには焚火をして当るのが一番早い解決策だった。
 焚火は田んぼに積んである藁を抜いて来て、道のまんなかでもした。二回ほどして一里ほど行くと、連中があちこちからあらわれて、またそれから三回ほどして学校にたどり着くのが毎日のおきまりだった。
 連中が多くなればなるほど、焚火の時間は長びいた。自転車通勤の先生も自転車からおりて、
「今日は特別寒いのう。どう、わしにもちょっと当らしてくれ」
 先生は出発するとき、
「お前たち、今日は燃え出した火だから仕様がないが、明日からは決して焚火などするんじゃないぞ」
 と一言訓戒をたれて行くのがおきまりだった。
「はい、明日からは決して致しません」
 と生徒はいさぎよく答えるが、明日になると前の日と同じことをくりかえして、無事二週間の期間がいつの間にか終ってしまうといったような塩梅だった。
 こういう具合だったから、私たちが学校の道場に入るのは、たいてい朝の寒稽古が終りかけた頃だった。いわば辷り込みというやつで、私たちは出席取りの時間に魔にあいさえすれば、誰も文句をつけるものはなかった。

ほのぼのとしたいい話。特に先生がいいですね。
同じ『わが半生記』に収録された「スペイン風邪」には、ちょっと切なくなるような話も。世界的に流行したスペイン風邪に木山さんもかかったんですね。大正7(1918)年、木山さんが矢掛中学2年生の10月30日のこと。
その日は朝から雨が降っていたんですね。木山さんは一時間目の途中から自分の体調がおかしいことに気づきます。
...二時間目になって頭がぐらぐらして早引を教師に申し出た。
 二里の道を歩いて家に帰った。それよりほかに取る方法はなかった。田圃の稲が黄色に色づいていたのを私は覚えている。雨がふってるのも私は覚えている。雨は大降りではなく、小雨だった。
「それよりほかに取る方法はなかった」という言葉が胸にこたえます。

楽しかったり辛かったりと(辛いことの方が多かった気もします)いろんなことがこの二里の道にはあったわけで、それが木山捷平という人間を作っていったんですね。

さて、これは矢掛の町に近づいて小田川と旧山陽道が接近した辺りで撮った山陽道の写真。西の方角を写しているので、木山さんが下校するときに見ていたのはこの風景。体調が悪かったら途方に暮れそうです。
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もう少し矢掛に近づいた場所にはこんな石の灯籠も。これも昔からあったはず。
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で、これがおそらくは大正時代の矢掛中学(現矢掛高校)の写真。
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そしてこれが現在の矢掛高校。
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ところで木山さんは「人間の歩き方」というエッセイを書いています。最後にこんなことが書かれています。
人間の歩き方をみていると、大体その国、あるいは地方、その時代の傾向がわかるのではあるまいか。人間の歩き方には、目もあれば鼻もあれば口もある。ごまかそうとしてもごまかしきれない何かがそこにある。

子供の頃から歩いた距離を考えると、木山さんほど歩いた作家はそんなにはいないような気がします。その木山さんの言葉なので説得力があります。
僕の歩き方にはどんな目と鼻と口があるんだろう。歩くのはかなり早いけど。

ところで、矢掛の町に入る手前である場所を探したんですが、驚いたことにその建物が残ってたんですね。この建物についてもまた改めて。
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by hinaseno | 2015-03-29 12:12 | 木山捷平 | Comments(0)

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岡崎武志さんがここで書かれているように、そして僕もこの日のブログで書いたように、木山捷平は「歩く人」でした。
考えてみれば荷風も「歩く人」。でも、それぞれの歩き方はかなり異なります。荷風は観察者として全身をセンサーのようにしているような歩き方。郊外の自然にあふれた場所を歩くときも観察者としての姿勢は崩しません。それに対して木山さんの歩き方は、どこかとぼとぼとした感じで、センサーなんてちっとも働いているようには思えません。自然な中を歩くときはすっかり自然に溶け込んでいます。岡崎さんの文章の中に紹介されているNさんは先日いただいた手紙で木山の作品を「明るいさびしさ」と表現されていたのですが、確かにその通りで、歩いているときの木山さんの姿はどこかさびしい感じがあるけれども、でも決して暗くはありません。

その木山さんの「歩く人」としての土台を作ったのが、矢掛中学時代に矢掛まで二里の道のりを歩き続けたことだろうと思います。しかも靴ではなく下駄で。
改めて考えてみるとその矢掛中学時代に遅刻した木山さんに担任の教師が「なんで遅れたんだ?」と注意したとき、「走らないから遅れた」と答えたいうのは「歩く人」木山さんを象徴しているようなエピソードです。遅れないことよりも歩くことを優先する。

さて、木山さんが12歳から18歳の春まで歩き続けた2里の道のりを、全部ではないけれども歩いてみようと思って下車したのは小田駅。
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ここから小田川沿いを歩いて木山さんが通学するときに渡っていたという観音橋に向かいました。

土手沿いには新しい家も多くなっていますがところどころ古い家も。
この大きな建物は廃墟になっていますが、旅館か何かだったんでしょうか。
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500mほど歩いたところで観音橋が見えてきました。なんの変哲もない橋ですが、ここを木山さんが100年前に渡っていたと思うと感慨ひとしお。
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これが矢掛町の側の橋の袂から木山さんの郷里の新山の方向を見たもの。ここから2kmあまり歩けば木山さんの生家まで行けるのですが今回はやめにしました。
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で、これが笠岡市の側から矢掛町の方を見たもの。木山さんが毎朝登校するときに見ていた風景ですね。正面にぽっかりと見える山(観音山)がとってもいい感じです。
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これは橋の途中で矢掛の中心部の方向を見たもの。土手沿いに先程の旅館のような建物が見えます。
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この橋を渡って旧山陽道に入ります。僕は基本的に小田川沿いを歩いたのですが(そのためにかなり大回りになってしまいました)、ちょっとだけ山陽道も歩いてみました。
これが観音橋を渡ってすぐの辺り。
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ところどころに古い建物が。これは郵便局か何かだったんでしょうか。木山さんが学校に通っていた頃からあったかどうかはわかりませんが。
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ここから矢掛までの長い道のりが始まります。
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by hinaseno | 2015-03-28 11:19 | 木山捷平 | Comments(0)

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というわけで、昨日休みが取れたので矢掛に行ってきました。歩いたのはおもに小田川流域。有名な矢掛本陣は横目で通りすぎただけ。
それにしても昨日一日本当によく歩きました。家に帰って歩いた距離を調べたらなんと20kmを超えていました。歩数にして28000歩。いや、途中で走ったところもありました。

矢掛に行く前に荷風が滞在した総社に途中下車しましたが、その話はまた改めて。たまたま立ち寄った場所で、偶然にも総社での荷風を調べられている人にお会いしていろいろと話をうかがったりしているうちに予定時間をオーバーしてしまい、そこから総社駅まで2km近くの距離をかなりの速度で走ることに。乗る予定の列車にぎりぎり間に合いました。 木山さんの言葉を少し借りれば、”走ったから遅れなかった”でした。でも、ここで走ったことが最後にこたえました。

総社駅から伯備線に乗って向かったのは隣の駅の清音(きよね)。そう、僕に木山さんに関するいろんな資料を送っていただいた清音読書会のNさんがお住まいの場所。突然お訪ねするわけにも行かなかったので今回は素通りさせていただきました。
それにしても「清音」とはなんて素敵な地名。その名の通り、そばを流れる高梁川の清らかなせせらぎが聞えて来るような場所にありました。
で、この清音から乗ったのが井原鉄道。開業したのが1999年とのこと。もちろん乗るのは初めて。1両だけのなんともかわいらしい電車です。この電車が小田川沿いを走っていることを知ったのでぜひ乗ってみようと。
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早春の小田川の風景を眺めながらの電車の旅はたまらないものがありました。ちなみに旅のお供はキャロル・キング。
下車したのは矢掛ではなく、もうひとつ西にある小田。矢掛町の西の端にある駅です。
ここからときどき寄り道したり、橋を渡ったりしながら小田川に沿って歩き続け、帰りの電車に乗ったのは矢掛町の東の端にある三谷駅。最後はへとへとになってしまいました。

さて、木山捷平は大正5(1916)年に新山小学校を卒業して矢掛中学に入学します。その矢掛中学に、大正9年の初め、木山さんが3年の終わり頃に、一人の教師が教頭としてやってきます。名前は平賀春郊。木山捷平が昭和36(1961)年に書いた「小田川」、さらに昭和39(1964)年に書いた「弁当」で取り上げていたのは、この平賀春郊先生のこと。「若山牧水展」の二階に展示されていたのはこの平賀春郊に関するものでした。
「小田川」や「弁当」に描かれている木山さんと平賀春郊のこと、そして平賀春郊と若山牧水とのことはまたゆっくりと書いていこうと思います。

木山さんは5年生になって初めて平賀春郊に教えてもらうことになります。教えてもらったのは国語と法制経済。「小田川」や「弁当」には、これについて面白いエピソードが書かれています。それもまた改めて。
で、翌年、つまり大正11(1922)年の春に木山さんは矢掛中学を卒業、そして早稲田大学の文科への入学の希望をかなえられず姫路師範学校に入学し、教師になるための勉強をすることになります。
改めて考えてみると、平賀春郊との出会いは文学者への道に進む小さなきっかけを与えてくれたと同時に、木山さんにとっては(いやいやであったにせよ)教育者としてのひとつの規範となっていたような気がします。

ところで、小田川に沿って木山さんと関係のある場所を訪ね歩いてきましたが、例の流れ橋も気になったので見てきました。
まずは小田から小田川沿いに歩いてすぐに見えてきた北畑橋。矢掛町と笠岡市の境界にあります。この橋がいつ作られたのかはわかりませんが、もし木山さんが矢掛中学に通った頃からあったのだとすれば、きっと何度かはこの橋を渡ったのではないかと思います。
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上は木材ですが橋脚は鉄筋コンクリートで頑丈に作られています。
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さて、渡ってみようかと思ったものの、水面からの高さが2mくらいもあって(高所恐怖症です)、さらにときどき強い風も吹いたりしていたので、結局渡るのはやめにしました。
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すると向う側から自転車で渡ってくる男性が。風にあおられて何度もよろめいて、見ているだけではらはらどきどきでした。
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20分ほどこの場所にいましたが結局渡っていたのはこの人だけ。正直、子供が渡るのはかなり危険な気がしました。でも「危険だから渡るな」みたいな看板はどこにもありません。あくまで各自の判断のようです。

北畑橋を離れて小田川沿いに歩くこと30分あまり。ようやく見えてきたのがネットの写真でも見ていた野宮橋。橋が風景にとけこんでいます。
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橋に向かう道もいい感じです。
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遠くから見たときにはこちらの橋脚は木造のように見えましたが近づいてみたらやはり鉄筋コンクリートでした。

野宮橋は北畑橋とはちがって水面から1mくらいの高さで、川幅もそれほどではなかったので渡ることにしました。でも、ときどきやや強い風が吹くのでこわごわと。
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こちらが対岸から見た野宮橋。本当にいい橋。ここにも30分あまりいましたが、一人も渡る人がいませんでした。
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平賀春郊は、おそらくは矢掛の中心街に近い辺りだとは思いますが、小田川の土手際に住んでいました。その春郊の住んでいた家に一度だけ木山さんは訪ねていきます。卒業式が済んだあと”卒業御礼”という慣例があったようで、クラスの何人かと行ったようです。大正11年の早春のこと。
木山さんは春郊の家ではじめて本物のコーヒーをいただきます。でも、ちょうどコーヒーを飲みかけたときに春郊に思いもかけぬことを言われて動揺した木山さんはコーヒーをこぼしてしまいます。
というようなことが「弁当」に書かれているのですが「小田川」を読んだらなんとコーヒーではなく紅茶。どちらが本当なんでしょう。「小田川」の数年後に書かれた「弁当」は、例の正介を主人公にした小説。もちろんいくつかの創作は入っているはず。

そういえば北畑橋を通りすぎたあたりに少しだけつぼみが膨らみかけた桜の樹がありました。満開の桜もきっと美しいにはちがいありませんが、僕としては小田川は早春の風景に似合っているような気がしました。
この小田川沿いの風景は、木山さんが平賀春郊を訪ねていった93年前の早春の日とそれほど変わっていないはず。
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by hinaseno | 2015-03-27 14:30 | 木山捷平 | Comments(0)

矢掛へ


今日は矢掛へ行ってきます。
小田川沿いの風景を見に。
観音橋、野宮橋、そして栄橋…。

ついでというわけではありませんが、荷風が終戦直後に一時期滞在した総社にも立ち寄ろうかと思っています。もちろん吉備線に乗って。
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by hinaseno | 2015-03-26 09:15 | 雑記 | Comments(0)

それにしても自分のことながら木山捷平の「小田川」という随筆が掲載された『高梁川』(高梁川流域連盟 昭和36年8月発行)という雑誌との出会いはやはり奇跡的としかいいようがありません。これは呼ばれているとしか思えないですね。矢掛町を流れている本当の小田川に。

というわけで「小田川」に書かれていることの話をする前に小田川のことを少し。
木山さんの「小田川」という作品が『高梁川』という雑誌に掲載されていることからもわかるように小田川は高梁川の支流のひとつ。源流は広島県。岡山県に流れ込んで井原の辺りからほぼ真東に流れを変え矢掛町を通って高梁川に注ぎます。川に沿って旧山陽道が通っていて、矢掛は古くから宿場町として発達。今も古い町並みが残っているようです。

このブログでも何度か書いたように木山捷平は矢掛中学(旧制)に通っていました。
矢掛は木山さんの家があった新山の北東にあります。この矢掛にあった矢掛中学までの8km(2里)の道程を木山さんは歩いて通ってたんですね。この日のブログでも書きましたが、何度も遅刻する木山さんに「なんで遅れたんだ」と注意した担任の教師に「走らないから遅れた」と答えたというエピソードは笑わずにはいられません。

その矢掛中学は小田川の北にあったので、木山さんはもちろん小田川を渡ったはず。どこの橋を渡ったんだろうかと思ったら、この日のブログで書いていました。昭和6年に書いた「詩と郷土」というエッセイ。平賀元義について調べていたら、木山さんも平賀元義について書いていたんですね。前回引用した部分の後に書かれていたことも含めて改めて引用します。
 われわれ岡山人は近き古典に、兎も角もすぐれた一人のうたびとを持つてゐる。正岡子規をして『万葉以後一千年、その真髄を伝ふるもの元義一人なり』と嘆賞せしめた平賀元義である。その歌集の中に、
   古のますらたけをがわたりけむ小田の渡を吾もわたりつ
といふ一首がある。その小田川べりが私たちの郷土である。今ではその『渡』は「観音橋」とかはつてゐるが、私は小さい風呂敷包みを脇に抱へて、ペチヤンコになった下駄をひつかけて、その渡をわたつて中学にかよつた幼い自分を思ひ出す。学校の校歌に、
  高妻山の峯高く 小田の流れの水きよし
 とあつた。つむじ曲りの私どもはその頃、小田の流れのどこが清いのだらうかと訝つたものであつた。が、
「東京で隅田川だの江戸川だのゝ水を見て、くにへ帰つてあの川を見ると、如何にも清いわい」
と何時だつたか赤松月船氏と語つた。


木山少年が渡っていたのは「観音橋」。
ちょっと地図で確認。
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観音橋は上の地図の矢印の先。木山さんの家があった場所(四角で囲んだ長福寺のある山の麓)からの道を考えると当然ここを通ることになります。ネット上の写真で見たら正面に観音山が見える風景はなかなかいいものです。
ところでネットで小田川にかかる橋を調べていたら、矢掛町には流れ橋という木橋がいくつかあって、これが何ともいい感じなんですね。橋好きにはたまらない風情があります。遠くからわざわざこの橋を見に来る人もいるみたいですが、その気持ちよくわかります。
特にこの野宮橋は、周りの風景も含めて素晴らしい。
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木山さんもきっと何度かこの橋を渡ったはず。川に落とされたこともあったかもしれません。
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by hinaseno | 2015-03-24 11:52 | 木山捷平 | Comments(0)

ドリフターズ特集はいよいよルディ・ルイスの話に。
と思っていましたが、一昨日、吉備路文学館で開かれているこの展示会に行ってきたので、そちらの話を。
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開催されていたのは若山牧水展。生誕130年の特別展とのこと。木山捷平の特別展が終わった後、1月25日から開催されていたようです(4月19日まで)。
正直、若山牧水については特にこれまで関心を抱くこともなく過ごしてきました。教科書にも載っている「白鳥は哀しからずや空の青海のおをにもそまずただよふ」を歌を知っているくらい。でも、これはいい歌です。そういえばあの古関裕而が作曲した「白鳥の歌」というのはこの短歌に曲をつけたもの。東宝映画『音楽五人男』の挿入歌とのこと。



その牧水展に行ってみようと思ったのは、ある方からこの若山牧水展のことについて木山ファンとしてはとても気になる展示がされていることを教えていただいたからでした。
ある方というのは総社市にお住まいのNさん。Nさんが作成された『木山捷平資料集』(清音読書会)の内容の素晴らしさたるや言葉にできないものがあります。木山捷平について調べるときにこれほど役立つ本はありません。非売品として作成されて木山を研究する人には無償で提供されているんですね。本当に頭が下がります。

木山捷平に関心を持ち始めたとき、ネットでこの資料集の存在を知って、どうしても手に入れたくなったものの連絡先もわからず(この資料集を入手されたということを書かれていた方に問い合わせてもだめでした)、ようやく手に入れることができたのは、姫路での木山捷平(大西重利との関係のこと)をかなり調べた後のことでした。
そういえばNさんの連絡先を教えていただいたのは、先日おひさまゆうびん舎で初めてお会いすることができた方。木山捷平がつくってくれた素敵なつながりです。
Nさんには姫路での木山捷平についてまとめたものをお送りし、どうやら喜んでいただいたようで僕の方にも『木山捷平資料集』をお送りいただきました。正直なところ僕が送ったものと質も量も違いすぎて恐縮するしかありませんでした。
それからNさんとは何度かやりとりをさせていただくようになり、新たに改訂された『資料集』もすべて送っていただき(現在は3度目の改訂版)、それに加えて木山の全集には掲載されていない貴重な作品のコピーも送っていただきました。そのあたりのことも近いうちにここに書くつもりでいます。

さて、そのNさんから数日前にお手紙をいただき、若山牧水展のことを教えていただいたのですが、それは木山捷平の矢掛中学時代に教わったある先生の話。その話は木山の「小田川」と「弁当」という作品に書かれています。
「弁当」は僕が持っていた旺文社文庫の『茶の木・去年今年』に掲載されていました(こういったこともNさんが作成された『資料集』ですぐに調べることができるんです)。もちろん読んだことがある話。そうか、あの人がそうだったんだと。
さて「小田川」はというと『資料集』を見たら『高梁川』という雑誌に掲載されただけで、その後、全集にも収録されていません。
ということなのでまたNさんにお願いしてそれを読んでから牧水展に行ってみようと思って、一昨日は別の用事で岡山市内に行き、ついでに市内で開かれていた古書展に足を運びました。そうしたら、木山さんのことになると必ず起こる魔法がまたしても。

その古書展に足を運ぶのはこれで3度目。いつも歩く順序は決めていて、4分の3くらい見てもめぼしいものはなく、今日は収穫がないなと思い始めたときのこと。目に入ったのが10冊足らずの『高梁川』。薄い冊子なのでよく目に入ったなと。
そういえばこの日のブログでも書きましたが、前回の同じ場所で開かれていた古書展でこの『高梁川』の、まさに探していた号を見つけて、木山さんに呼ばれているような気がして新山に行ったんでした。
前回同様、まさかここで『高梁川』に出会えるとは思っていなかったので、「小田川」が『高梁川』の何号に掲載されているのか確認してこなかったのを少し後悔(普通は前回出会えていたら今回もと期待するはずですが、すっかり忘れていました)。
とりあえず一冊ずつ見てみようと思って(ビニールの袋に入れられているので結構面倒くさい)、一番右にあった号を手に取って目次を見てみたらなんとそこには。
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もう、笑うしかありませんでした。

というわけで、かなり駆け足になってしまうことを知りつつ、そこから車で10分くらいの場所にある吉備路文学館に向かいました。
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by hinaseno | 2015-03-23 12:25 | 木山捷平 | Comments(0)

スコラでの坂本龍一さんとの対談では、クライド・マクファター&ザ・ドリフターズの「Such A Night」をかけたあと、ドリフターズの話がもう少し続きます。
ドリフターズっていうのはものすごく人気があって、そのあと60年代も活躍するんですけれども。リード・ボーカルがしょっちゅう変わって、そのあとベン・E・キングという人がリード・ボーカルになってソロになるとか。これもミュージカルっぽいような気がするんですよ。主役が何人も変わってロングランするっていうスタイル。アメリカの基本のショー・ビジネスのスタイルがあって。日本の場合は4番がいなくなったらチームが負けとかリード・ボーカルがいなくなったらそれは消滅するような...。東映の映画も、市川右太衛門ひとりしか入っていないんだから。あれだけの人数だからなんとかしろよといつも思ったんですけどもね。だれかいないのかな...これがいないんだよなぁ。こりゃ勝負にならないなと思いましたけどね。このドリフターズというひとつの組織を見てるとそういうのを感じましたけど。

ドリフターズという”グループ”ではなく”組織”と表現しているところが興味深いですね。というわけでベン・E・キングがリード・ボーカルだったときのドリフターズの曲を。
時代は5年ほど下って1959年の曲。この日にも紹介した「There Goes My Baby」。ポップ1位、R&B2位の大ヒット。



さらに「Dance With Me」。



次がジェイ&アメリカンズのカバーでも有名な「This Magic Moment」。曲を書いたのはドク・ポーマスとモート・シューマン。大好きな曲です。



で、そのポーマスとシューマンによるドリフターズの最大のヒット曲が「Save The Last Dance For Me」。ポップ1位、R&B1位。邦題は「ラストダンスは私に」。ビートルズの「ヘイ・ジュード」の元歌ですね。



この最大のヒット曲の後、ベン・E・キングがグループから突然脱退。原因はお金の問題だったようです。人気絶頂の状態のとき、突然リード・ボーカルを失ったドリフターズに新たにリード・ボーカルとして入ったのがルディ・ルイスでした。こういうの、言葉でいうのは簡単ですが、やはりとても日本人には考えられないことですね。
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by hinaseno | 2015-03-21 10:21 | ナイアガラ | Comments(0)

ナイアガラ記念日である3.21を前日にして、ついに届きました。
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これらのものについての感想はまた折々と。
最初に聴いているのは「魔法の瞳」から始まる『EACH TIME』。大瀧さん自身の本意はどうであれ、僕にとっても『EACH TIME』はこの形。1984年のあの早春の日々が蘇ります。

さて、ドリフターズ特集。正確には「いかりや長介がリーダーだったドリフターズも知らない人達が多くなったこの時代にルディ・ルイスがリード・ボーカルだったドリフターズについて語ること」の(その2)です。

最初はやはりクライド・マクファターがリード・ボーカルの曲。
ドリフターズは1953年にクライド・マクファターを中心に結成されたグループ。結成時のグループ名はクライド・マクファター&ザ・ドリフターズ。でも、クライド・マクファターは1954年にはドリフターズを脱退。つまりクライド・マクファターがドリフターズにいたのは2年足らずのこと。
デビュー・シングルは「Money Honey」。リード・ボーカルはもちろんクライド・マクファター。



この曲はエルヴィスにカバーされていますね。エルヴィスにカバーされた曲といえば、この「Such A Night」も。



それからクライド・マクファターがリード・ボーカルだったドリフターズの曲といえば、フォー・シーズンズや大瀧さんにもカバーされたこの「Honey Love」。



最後は何といってもこの「White Christmas」。
この曲のリード・ボーカルは2人。低音で1番を歌っているのがビル・ピンクニー。そして高音で裏声のひっくりかえしをつかいながら2番を歌っているのがクライド・マクファター。



以前にも書きましたが、この曲のパターンを使って大瀧さんは「お正月」を歌いました。坂本八とトランク短井という変名を使って。



1番はトランク短井。フランク永井の歌い方を真似ていますが、もとにあるのはビル・ピンクニー。
そして2番を歌っているのが坂本八。もちろん坂本九の歌い方て歌っているのですが、もとにあるのはクライド・マクファター。
アイデアの素晴らしさと曲のクオリティでいえば、この「お正月」に勝るものはないような気がします。

クライド・マクファターの、特にドリフターズに在籍していた時の歌唱法は非常に個性的で、大瀧さんも強く惹かれていたようです。
スコラでの坂本龍一さんとの対談では「公序良俗に反する歌唱法。人前で歌うのを憚られる歌唱法」と表現していました。で、その歌唱法をまさにエルヴィスが受け継いだんですね。
そういう流れがあることを知った上での「お正月」。しかも日本のポップスにつなげているのだからすごいです。単なる思いつきじゃないんですね。
坂本九の歌い方も「公序良俗に反する歌唱法。人前で歌うのを憚られる歌唱法」とまではいかなくても、相当に個性的です。
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by hinaseno | 2015-03-20 12:03 | ナイアガラ | Comments(0)