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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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小山清のことを調べていて、といってもたった2日間のことですが、結果的には2番目になった驚きの話を。でも、これはかなりすごいことでした。

井伏鱒二の『荻窪風土記』に収められた「小山君の孤独」を読んでいたら、こんなことが書かれていました。
 小山清は千束小学校に通つた。音楽の先生に中山晋平がゐたが、カチューシャの唄やゴンドラの唄を作曲した人とは知らなかつた。中山晋平はそのころ島村抱月のところで書生のやうなことをしてゐた筈だ。

なんとこの日のブログをはじめとして、このブログで何度も取り上げてきた中山晋平に教わっていたとは。興味深いのは小山清が中山晋平から教わっていた時期。
小山清は1918(大正7)年に千束小学校に入学しています。卒業したのは1924(大正13)年。で、中山晋平は明治の末から1922(大正11)年まで千束小学校に勤務しています。ということは、小山清は小4か小5くらいまで中山晋平に教わったことになります。
中山晋平は大正9年に野口雨情とコンビを組んで、素晴らしい童謡や民謡を書き始めます。「黄金虫」「しゃぼん玉」「兎のダンス」「証城寺の狸囃子」、あるいは詩は野口雨情ではありませんが「てるてる坊主」などの童謡が次々に作られたのも大正10年頃。そして、あの「船頭小唄」が作られたのも大正10年。まさに小山清を教えていた時期。
おそらくは唱歌しか歌われていなかったはずの小学校の教室で、できたてほやほやの、最先端の、当時においては間違いなく過激な音楽を中山晋平がどれだけ子供たちに歌わせていたかはさだかではありませんが、なんとも興味深い。

小山清の小説には音楽を感じさせるものがあるとずっと思っていましたが、そこには中山晋平の教育が無意識の形で影響を及ぼしていたのかもしれません。

というわけで、小山清のことを調べていて最も驚いた話のことを書くために、しばらくこのブログを休むことになりそうです。
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by hinaseno | 2015-01-28 10:58 | 文学 | Comments(0)

「小さな町」のこと


昨日、朝起きて、アゲインの石川さんのブログに樋口一葉の『たけくらべ』を朗読していたものが貼られているのを見てびっくり。小山清つながりで『たけくらべ』のことを考えていたばかりでした。
石川さんが樋口一葉の『たけくらべ』を暗記されるほどに愛されていることはよく知っていましたが、それにしてもなんというタイミング。どうやら千代田区の話が出てきたので千代田区の生まれの樋口一葉につながったのかもしれません。
そういえばラジオデイズの平川克美さんと小池昌代さんのこの対談で、小池さんが『たけくらべ』の冒頭を朗読されています(「その2」の28分58秒あたりから)。小池さんも樋口一葉の朗読にはまっているんですね。僕は小池さんファンなので、この部分だけ何度も聴き返しました。
で、小池さんの朗読のあとで、平川さんの口から、石川さんが『たけくらべ』の”全文”暗記をしているという話が出てきます。小池さんもびっくり。

というわけで、僕もその影響を受けて、冒頭のこの部分を何度も読んでいました。小池さんが言われているようにとても音楽的。
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き...

さて、この部分、何度も読んでいましたが、その舞台がどこかなんて考えたことはありませんでした。「大門」というのは遊廓のあった吉原の大門。
樋口一葉は一時期、この吉原のすぐ近くの下谷龍泉寺町で荒物雑貨駄菓子屋を経営していて、その体験をもとにして『たけくらべ』を書いたんですね。というわけで、下谷龍泉寺町は『たけくらべ』の舞台となっている町として有名なようです。

さて、小山清。彼の作品に「小さな町」と題されたものがあります。舞台はまさに下谷龍泉寺町。小山清は、下谷龍泉寺町に住んで新聞配達をしながら小説を書いていたんですね。「小さな町」をはじめとして、下谷龍泉寺町を舞台にした小説をいくつも書いています。ちなみに小山清が生まれたのは吉原。
一昨日、小山清が下谷龍泉寺町を舞台にした小説をいくつか読んでいて、そのひとつ「安い頭」の中に『たけくらべ』のことが出てきて、へえ〜っと思った矢先のことでした。
その「安い頭」の冒頭部分を引用しておきます。
下谷の竜泉寺町という町の名は、その土地に馴染みのない人にも、まんざら親しみのないものでもなかろう。浅草の観音さまにも遠くないし、吉原遊廓は目と鼻のさきだし、お酉さまはここが本家である。若しもその人が小説好きであるならば、「たけくらべ」にゆかりのあるこの町を、懐かしく思うであろう。だいぶまえのことであるが、一葉の記念碑がその住所の跡に建てられて。電車通りにある西徳寺で、故人を偲ぶ後援会が催されたことがあった。馬場孤蝶、菊池寛、長谷川時雨の三人が来て話をした。故人と昵懇であった孤蝶老が、往時一葉が子供相手に営んでいた一文菓子屋のことを、「如何にも小商売(こあきない)」と云った口前を、私はいまなお覚えている。

ところで「安い頭」には、「ある若い詩人の『町』という詩にこんなのがある」という言葉の後に、その詩が引用されています。
小さな町であった
それでも町の匂いがした
煤煙が流れていた
おしろいの匂いがした

この詩、調べてもわかりませんでした。無名の詩人なんでしょうか。あるいはもしかしたら小山清自身が若いときに書いたものなのかもしれません。

小山清の「小さな町」はこの詩に出てくる言葉をタイトルにしていたんですね。
というわけで、また一つ、東京の中に愛すべき小さな町が生まれました。
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by hinaseno | 2015-01-27 12:08 | 文学 | Comments(0)

Twinkle, twinkle, little star


今年没後50周年にあたる小山清の展示会を来月末にするということで、姫路のおひさまゆうびん舎さんから何か書いてもらえませんかとの依頼がきました。

おひさまゆうびん舎とそのお隣のツリーハウスというお店を知ったのは4年前、2011年のこと。その年が小山清の生誕100周年にあたっていて、やはり展示会をされていたんですね。でも、僕がはじめて店に足を運んだのは展示会が終わった後。たまたま店に立ち寄ったら、その展示会が開かれていたことを知って、残念な思いをしたものでした。
ただ、それからそのおひさまゆうびん舎を通じていろんなうれしい出会いがありました。姫路の木山捷平について書いたものを最初に発表させていただいたのもおひさまゆうびん舎で、それがもとでまたいろんな人との出会いも生まれました。

さて、小山清といえばやはり「落穂拾い」。というか、それしか知りませんでした。
そういえば、昨年から刊行が始まった新潮文庫で池内紀・川本三郎・松田哲夫共同編集『日本文学100年の名作』シリーズの第4巻「木の都」に、小山清の「落穂拾い」が選ばれていました。選者はだれだろうと後ろを見たらやはり川本三郎さん。
川本さんが書かれた「読みどころ」を少しだけ引用しておきます。
 清貧の作家という系譜がある。
 尾崎一雄、木山捷平、宮地嘉六らが浮かぶ。日々のつつましい暮しを飄然と、清々しく描き出してゆく。大言壮語とは対極の清逸な小世界に心なごむ。

というわけで「落穂拾い」について書こうかと思いつつ、以前、おひさまゆうびん舎の窪田さんからお借りした『小山清全集』からコビーしたものやら、やはり窪田さんにいただいた『小さな町』(みすず書房)をぱらぱらと読み返して、この2日間、久しぶりに小山清にどっぷりとつかっていました。
不思議なもので、何か書くという意識で読むといろいろと興味深い発見が次々に出てくるものです。
で、小山清に関するあることを探っていたときに、おやっというものを発見。それはまさに、昨年の暮れ頃から探し続けていたものにつながるものの核心に触れる部分。よくそれを発見できたなと自分でもびっくり。こんなことってあるんですね。小山清とおひさまゆうびん舎さんに感謝です。
ってことで、書くことはそれで決まってしまいました。

ということで、書こうかと思ってやめたことをいくつか書いておきます。
最初に書こうとしたのはこのブログで前回まで書いていた北海道の話。
小山清は終戦後、坑夫募集に応じて、北海道の夕張炭坑に行っています。そのときのことを描いた小説もいくつかあります。
一番好きなのは『雪の宿』。ある音楽との偶然の出会いによって、荒れた生活を送っていた主人公が立ち直る話。小山清の文学にはときどき音楽が出てきます。この物語で出てくるのは「きらきらぼし」。”Twinkle, twinkle, little star”と英語で歌われています。素敵な北海道の冬の物語です。

さて、小山清が北海道に行ったのは昭和22年1月末のこと。小山清が36歳のときです。上野駅から汽車にのって青森に行き、青森港から連絡船に乗って函館に。そこからもちろん函館本線に乗ります。
 翌朝、函館に着いてまたすぐ汽車に乗つた。寂しい海岸べりを、長時間汽車は走つた。私はそこにとり残されたやうにある小屋を見かけて、その小屋に母と自分が二人だけで住む生活のことを思った。
 (中略)
 長万部で乗り換へ、東室蘭で乗り換へ。最後に追分から夕張行の支線に乗つた。小さな昔風の汽車で、客車の中にストーブが取りつけてあるのが土地柄を思はせた。私たちは引率者から分配されたするめを。めいめいストーブで炙つて食べた。夕張に着いたのは、夜の九時頃であつた。夕張の駅は山峡にある。雪に被はれた山のうへには、炭坑夫の寮や長屋の燈火が煌めゐて、はるばると来た私たちの胸にいひやうのない感慨を催させた。
                               (小山清「夕張行」より)

小山清は長万部(おしゃまんべ)で室蘭本線に乗り換えているので、蘭越、あるいは小樽は通っていません。そして追分から石勝線に。最近はこういうのを読むと、必ず地図で辿るようにしています。

ところで、川本三郎さんが「夕張炭坑で働いた文士、小山清」という文章を書かれているのがわかりました。でも、どうやら僕の持っている本の中には収録されていないようです。また、手に入れて読んでみようと思います。
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by hinaseno | 2015-01-26 11:50 | 文学 | Comments(0)

東北、そして北海道のことを考える日々。
考えてみると昔からアイヌや縄文人にはどこか親密な感情を抱いていまし、東北や北海道の旅する番組もよく見ていました。
そういえば数年前に夜、テレビをつけたらたまたま放送されていたのが、元ピチカート・ファイヴの野宮真貴さんが北海道を旅する『Small Trip ちいさな荷物で週末旅』という番組。その日が最終回。とってもいい番組だったんで再放送を期待していましたが結局見ることができないまま。ああ見てみたい。

いろんなことをきっかけに北海道や東北のいろんな町を好きになっています。たぶんアイヌ語をもとにした町の名前が素敵なことも理由のひとつ。
最初に好きになったのは小樽。その小樽から函館までを結ぶ函館本線沿いに好きな町が多いようです。
最近知ったのでは青葉市子さんがライブをした美唄。美しい唄とかいて「びばい」と読むんですね。「カラス貝の多く棲む沼」という意味のアイヌ語から来ているようです。
そういえば宮沢賢治も1923年8月に樺太に行くために函館本線に乗っています。

2年前のこの日のブログで紹介した川本三郎さんの「遠い声」と題されたエッセイに登場するのも函館本線の駅。そのエッセイでは函館本線のことも駅の名前も、その駅から出ていた岩内線のことも隠されていました。もちろん川本さんがその駅で出会った少女を気づかってのことのこと。だから僕も駅の名前を書かないことにしました。でも、あの少女もおそらくもう中学生になっているはずなので、もう名前を書いてもいいですね。駅の名は小沢駅。「こざわ」と読みます。
地名の由来はやはりアイヌ語。ただ音ではなく意味から来ているんですね。
もともとはアイヌ語の「サクルペシペ」という地名があったようです。意味は「夏越える沢道」。それが江戸時代に「夏小沢」と訳され、のちに「小沢」となったとのことです。

川本さんが函館本線に乗って小沢に行ったのは2010年の夏。小樽から函館までの鉄道の旅をされて、途中立ち寄ったのが小沢でした。ちなみに別のエッセイを読むと同じときに函館本線の深川駅から出ている留萌本線にも乗って、留萌(るもい)、さらには増毛(ましけ)に行っているようです。
留萌も好きな町。名前も当てられた漢字も素敵ですね。増毛は先日亡くなった高倉健さんが主演した『駅 STATION』の舞台になった町とのこと。その増毛から車で小樽まで行って、そこから再び函館本線に乗ったんですね。

さて、ずっと布谷文夫さんの話をしてきましたが、実は布谷さんもこの函館本線の町と関係の深いことを最近知りました。
「呆阿津怒哀声音頭」を唄っているアーティスト名は正式には”蘭越ジミーとオシャマンベ・キャッツ”。
蘭越ジミーはもちろん布谷さんのこと。「深南部牛追唄」で作者の一人としてジミー蘭越となっていましたが、歌手としてこの名前がつけられているのはこの曲だけ。
『LET’S ONDO AGAIN』の歌詞カードには蘭越ジミーについてこんな紹介文が書かれています。もちろん大瀧さんならではの冗談にあふれた文章ですが。
蘭越ジミー 北海道、蘭越出身。民謡とR&Bが大好きで、そのミックスした味はジュースの如く美味しい。このような唄を唄うのは世界中彼一人でこのジャンルでは斜め右に出る者はあるが、押しも引かれもする、第一人称で書いた文章である。

布谷さんに関してはどこに掲載されたプロフィールをみても北海道函館出身となっていますが、ここでは蘭越(らんこし)となっています。おそらくはこの蘭越が本当の出身地のはず。でなければ、こんな名前にするはずがないですからね。
で、この蘭越がやはり函館本線にある町。地名の由来はやはりアイヌ語。「桂の木が多い所」という意味の「ランコ・ウシ」からきているようです。ちなみにアイヌ語の「ウシ」は「〜する所」という意味とのこと。でも、「うし」つながりでもあります。
この蘭越は函館からはかなり離れていて、むしろ小樽に近いですね。あの小沢駅とは40kmの距離。
ちょっと確認すると、小樽から函館に向かう3つめの駅に余市があります。布谷さんはこの余市にあった高校に通っていたようです。で、余市から4つめにあるのが小沢駅。さらに小沢駅から5つめにあるのが蘭越駅。ついでにその蘭越から6つめにあるのが長万部(おちゃまんべ)駅。

ちなみにオシャマンベ・キャッツについてはこんな説明。
全員が北海道とは何の関係もない。

ナイアガラファンにはいうまでもないことですが、オシャマンベ・キャッツはもちろん伊集加代子さんをはじめとするコーラスグループ。オシャマンベ・キャッツは『ロング・バケーション』にもクレジットされています。

下は先日入手した『日本地理大系 北海道・樺太篇』に載っていた昭和初期の留萌の町の写真。
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手前に見える建物には興文堂書房との文字が見えるので、どうやら書店のようです。通りがかった人が見ているウィンドウには本が並んでいるんでしょうね。こんな素敵な雰囲気の書店がこんな場所にあったなんて驚きでした。
でも、この書店、残念ながら今はもうないようです。
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by hinaseno | 2015-01-24 11:26 | ナイアガラ | Comments(0)

「呆阿津怒哀声音頭」


布谷文夫さんが歌った「深南部牛追唄」の経験からいろんな曲が作られることになります。牛つながりのカウボーイ・ソングの「論寒牛男」もそうですね。でも、R&Bと民謡の融合をさらに深化させて作られた音頭四部作がなんといってもすごい。
「ナイアガラ音頭」、「クリスマス音頭」、「呆阿津怒哀声音頭」、そして「Let’s Ondo Again」。リード・ボーカルはすべて布谷文夫さん。
この中で、とりわけ歌詞がすごいのが、アルバム『Let’s Ondo Again』に収録された「呆阿津怒哀声音頭」。



原曲はレイ・チャールズの歌った「What’d I Say」。



手拍子やいくつかの和楽器で音頭のリズムが加えられていますが、原曲に忠実なコピー。布谷さんの歌も原曲どおりに歌っているようなんですが、歌詞カードを見るとこのように漢字だらけ。
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原曲の歌詞にほぼ忠実に漢字を当てはめているんですね。もちろんタイトルの「呆阿津怒哀声」も「What’d I Say」を漢字に直したもの。ちなみに歌詞カードでは「津」は小さく書かれています。「ほあっどあいせい」ということですね。
大瀧さんは昔、新春放談でこの歌詞についてこんなことを語っていました。
半年かけたんだからね、あの漢字探すのに。漢和辞典と首っ引きで。あれ、すごいよね。あれ、かなりのこと明治近代言い当ててるよな。

あるいは雑誌のインタビューではこんなことも。
当て字のすごさがわかるっていうのはすごいことだよ。

というわけで、原詞を確認しながらどのような当て字がされているかを確認しました。
いや、超大変な作業。でも、すごさ、わかりました。
まず、歌詞カードを写すのが大変。ネット上に一部歌詞を確認することができましたが、コピペは絶対にしないことにして一字一字漢字を見つけました。普通は使われていない漢字だらけで、部首索引とか画数索引とかやっていたら膨大な時間がかかりました。
で、それをやりつつわかったのですが、ただ音に合う漢字を使ったのではなく、物語になるように意味も考えて最もふさわしい漢字を選んでいるんですね。「半年かけた」というのも大げさではなさそう。レコーディングを終えた後、ぎりぎりまで歌詞作りをやっていたみたいです。

というわけで、「呆阿津怒哀声音頭」の歌詞を。参考のために原詞と漢字の読みも付けておきます。ただし、原詞といっても聴き取り(空耳)もたくさんあるようで、「呆阿津怒哀声音頭」の歌詞に合わせていくつか詞を変えています。それから漢字の読みは音読み訓読み、場合によっては送り仮名も混ざっているようで、何カ所かはどう読んでいいのかわからない部分も。
録音のときには布谷さんはかなりトランス状態に入っていたみたいで、原詞にない、何を言っているのかよくわからないアドリブも連発。それにまた漢字を当てはめているようです。とにかく大変な作業でした。めちゃくちゃ面白かったですけど。

で、この作業をしてみてわかったのは、この大瀧さんが漢字を駆使して作り上げた歌詞は、相当に淫靡な物語になっているということ。特に(説明はしませんが)”あの部分”はわいせつ度が高く、放送禁止すれすれになっています。まあ、多くのR&Bの歌詞は卑猥な隠語がたくさん含まれているわけですが。

一番笑ってしまうのは、なぜか一部分、漢詩にしていないこの部分。
「手湯 ママ!」「手湯 パー!」
「酒飲み過ぎてあげそう!」
「オー イヤすまん」

原詞とかぶっている言葉もあれば、何の関係もない言葉も使われています。
最高なのは「あげそう!」。原曲は「Arkansas」。でも、レイ・チャールズの歌っているのを聴くと「あげそう!」って聞こえるんですね。たぶん「あげそう!」って、空耳したのが面白かったので、そこだけは普通の日本語にして、その前に「酒飲み過ぎて」を付けたんでしょうね。
曲を聴きながら歌詞を読んで下さい。
Hey mama, don't you treat me wrong
塀儘御中鳥味論(へいままおんちゅうとりみろん)
Come and love your daddy all night long
仮面裸撫遊堕泥女慰論(かめんらぶゆうだでいおんないろん)
All night long, hey hey, all right
女色 塀塀 往来(おんないろ へいへい おうらい)

Silly girl with the diamond ring
尻軽浮意座黙恋(しりがるういざだまれん)
She knows how to shake that thing
死之渦這都思営苦雑寝具(しのうずはうつしえいくざつしんぐ)
All right, hey hey, hey hey
往来 塀塀 塀塀(おうらい へいへい へいへい)

Tell your mama, tell your pa
「手湯(てゆ) ママ!」「手湯(てゆ) パー!」
I'm gonna send you back to Arkansas
「酒飲み過ぎてあげそう!」
Oh yes, ma'm, you don't do right, don't do right
「オー イヤすまん。湯丼動来(ゆどんどうらい)。丼動来(どんどうらい)。」

When you see me in misery
右遠入染印見摺(うえんにゅうしみいんみずり)
Come on baby, see about me now
家紋米味胃心罰尾菜(かもんべいびいしんばつびな)
Yeah yeah, hey hey, all right
家家 塀塀 往来(いえいえ へいへい おうらい)

Silly girl with the red dress on
尻軽浮意座 劣何巣温(しりがるういざ れっどれすおん)
She can do the Birdland, all right long
椎気病動座場婭妊 女異論(しいきやむどうざばあじん おんないろん)
Yeah yeah yeah, ha, what'd I say, all right
家家家覇呆阿津怒哀声 往来(いえいえいえはほあっどあいせい おうらい)

Well, tell me what'd I say, yeah
植 照身呆阿津怒哀声 家(うえ てるみほあっどあいせい いえ)
Tell me what'd I say with now
照身呆阿津怒哀声 初頭並迂(てるみほあっどあいせい ういずなう)
Tell me what'd I say
照身呆阿津怒哀声(てるみほあっどあいせい)
Tell me what'd I say with now
照身呆阿津怒哀声 雨伊豆名雨(てるみほあっどあいせい ういずなう)
Tell me what'd I say
照身呆阿津怒哀声(てるみほあっどあいせい)
Tell me what'd I say
照身呆阿津怒哀声(てるみほあっどあいせい)

And I wanna know
艶度 泡娜悩(えんど あわなのう)
And I wanna know
園土粟菜野(えんどあわなのう)
And I wanna know
宴奴哀泣能(えんどあわなのう)
And I wanna know know know
演努阿波投農脳膿(えんどあわなのうのうのう)
And I wanna know
円帑淡奈底憂(えんど あわなそこう)
And I wanna know yeah 
煙怒沫那乃吁 家(えんどあわなのう いえ)

Hey, ho, hey, ho, hey, ho, hey
幣 宝 閉 法 陛 封 嘔(へい ほう へい ほう へい ほう おう)
One more time
椀望待牟(わんもうたいむ)
Say it one more time right now
背奴 腕毛体無 頼徒鳴有(せど わんもうたいむ らいとなう)
Say it one more time now
瀬努 湾網鯛夢綯(せど わんもうたいむなう)
Say it one more time now right now, yeah
施怒 椀亡怠亡来兎拏獲家(せど わんもうたいならいとなえ いえ)
Say it one more time
背奴 腕猛腿向(せど わんもうたいむ) 
Say it one more time
〔畝度湾朦態霧〕(せど わんもうたいむ)

Hey, ho, hey, ho, hey, ho, hey
会 放 歯 崩 刃 鐚 鳴(え ほう は ほう は あ な)
Make me feel so good
迷句魅昼想愚(めいくみひるそうぐ)
Make me feel so good, right now
女育身干燥求 麗妬慣飢(めいくみひるそうぐ れいとなう)
Ah, right now 
悪 雷戸納雩(あく らいとなう)
Make me feel so good, right now
謎宮未秘留蔵隅 磊登儺受(めいくみひるぞうぐう らいとなう)
Yeah yeah yeah yeah
家家家家(いえいえいえいえ)
Make me feel so good
〔姪駆躬日向騒颶〕(めいくみひむそうぐ)

Huh, ho, huh, ho, huh, ho, huh, awh
抱 傍 呆 飽 棒 膨 噫(ほう ぼう ほう ほう ほう ほう ああ)
It's all right
一通往来(いっつうおうらい) 
Said that it's all right right now
施度溢通往来 礼与成優(せどいつつうおうらい れいよなう)
Said that it's all right
責駑失通往来(せどしっつうおうらい)
Said that it's all right
世呶逸通往来(せどいっつうおうらい) 
I said, I said
汗駄 汗唾(あせだ あせだ) 
It's all right, yeah yeah
遹通往来 家家(いっつうおうらい いえいえ)

Oh, baby shake that thing right now
汚 魚尾死影苦雑神愚糾(お おうびしえいくざつしんぐあざなう) 
Baby shake that thing now
冥備畏刺鋭拘雑針具慣宇(めいびいしえいくざつしんぐなう)
Baby shake that thing
酩魅易志泄公雑臣偶(めいびいしせっくざつしんぐう) 
Baby shake that thing right now
米味異脂栄躯雑進虞蕾土梛植(べいびいしえいくざつしんぐらいとなう) 
Baby shake that thing right now
吠鼻蛇詩詠口雑唇紅 倭牡 我雄(べいびへびしえいくざつしんく わお わお)

Woah! Feel all right
話御 妃婁往来(わお ひろうらい)
Said I feel all right, woooah, yeah yeah
施孥秘流往来懊卯家家(せどひるおうらいおうういえいえ)
Ah, said I feel me all right
嘻 攻弩飛見往来(ああせどひみおうらい) 
Feel me all right. feel me all right
罷見往来 避見往来(ひみおうらい ひみおうらい)
Said I feel all right, maybe
施奴費所往来 謎微猗(せどひしょおうらい めいびい)
Woah! Said I feel all right
王 背怒肥褸往来(おう せどひるおうらい)

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by hinaseno | 2015-01-21 12:22 | ナイアガラ | Comments(0)

前回貼った音源を聴いていただければそこでほとんど語られていますが、一応「深南部牛追唄」の歌詞について説明しておきます。
その前に、改めて「深南部牛追唄」の歌詞を。

俺らはな
生まれながらの牛追だ
朝も早よから腰弁下げりゃ
牧場の乙女はにんまり笑う

俺らはな
牛追い仲間じゃ人気者
どこまで続くかこの人気
おら知らね 牛に聞け

俺らはな
千葉の姉ちゃんと乳しぼり
賭た命を笑わば笑え
これが牛追の生きる道

2人はなあ
別れ別れになる運命
たとえ離りょと互いの胸に
又の会う日を目と目で誓う

大瀧さんと銀次さんと布谷さんの3人でいろんなところからネタを引っぱってきて、それでも一応、牛追いの物語になるように仕上げてるんですね。アイデアの中心にあったのは布谷さんと大瀧さんが大好きな三橋美智也の曲。曲の最後には、歌詞カードには書かれていませんが「達者でナ」が出てきます。

曲の最初は三橋美智也「俺ら炭坑夫」の出だしのこの歌詞。

おいらはナァ
生まれながらの 炭坑夫

この「炭坑夫」を「牛追だ」としたわけですね。これに続けて三橋美智也の「常磐炭坑節」のこの歌詞。
ハアー朝も早よからカンテラ下げて

でも牛追いはカンテラ下げないな、じゃあ、何下げるんだと言ったら布谷さんが「腰弁!」。

次は岡本敦夫の「高原列車は行く」のこの部分。

汽車の窓から ハンケチ振れば
牧場の乙女が 花束なげる

牛追いに花束投げるのは変だなと大瀧さんと銀次さんがつまったときに布谷さんが言ったのが「にんまり笑う」。これで1番が出来上がり。

2番に入っているのは当時流行っていたギャグ。
「いつまで続くかこの人気」は 月の家圓鏡、「おら知らね 牛に聞け」は漫画トリオからとっているようです。どちらも知りません。

3番はまずその時期に大瀧さんが凝っていたというストレートコンビのギャグからスタート。「千葉の女が乳搾り」というギャグがあったようですが、このギャグもストレートコンビもしりません。
で、これに続くのが村田英雄の「王将」。

吹けば飛ぶような 将棋の駒に
賭けた命を 笑わば笑え

これはそのままとっていますね。
続けて植木等の「これが男の生きる道」。「男」を「牛追」に変えています。

で、最後の4番。せっかく人気が出て、いっしょに牛の乳搾りまでしてくれる女性ができたのに別れがくるんですね。きちんと物語になっています。
4番の歌詞に使われているのが岡晴夫の「啼くな小鳩よ」。

啼くな小鳩よ 心の妻よ
なまじ啼かれりゃ 未練がからむ
たとえ別りょと 互いの胸に
抱いていようよ 面影を

この「たとえ別りょと 互いの胸に」を「たとえ離りょと互いの胸に」と歌詞を少しだけ買えて入れています。
わかっているのはこれだけ。きっと他にもあるんでしょうね。

さて、歌詞はできあがったものの、はたしてこれを実際に布谷さんが歌って、レコーディングするのかという問題があります。布谷さんは本来ブルース・シンガーで、そのときまでは(おそらく)真面目なブルースしか歌っていなかったはずですから、この歌詞で布谷さんが本当に歌うのかどうか銀次さんは心配だったみたいです。
でも、大瀧さんが「布やん、出来たよ!」と歌詞を書いたものを渡したら、布谷さんは何の疑問も抱くことなく歌い出したようです。しかも例の「だじゃ」をはじめとしてアドリブ連発で。

布谷さんの『悲しき夏バテ』のレコーディングを終えた後の9月21日、大瀧さんと伊藤銀次さん率いるごまのはえ改めココナッツ・バンクは実質的にはすでに解散していたはっぴいえんどのメンバーが一堂に会した『City Last-Time Around』に出演します。
この1973年9月21日について大瀧さんはこんなことを語っていました。

9月21日はナイアガラの始まりだったんだよ。はっぴいえんどの終わりの日はナイアガラの始まりの日で、宮沢賢治の命日だからね、言っとくけど。9.21は3.21とともにナイアガラ日だったんだな。

この9月21日に向けて猛特訓していた日々の中で生まれたのが達郎さんとの出会いであり、布谷さんの「深南部牛追唄」でした。
大瀧さんにとってはこの曲の達成感は計り知れないものがあったようで、これができたからこそ、あの「ナイアガラ音頭」が生まれたことはいうまでもありません。
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by hinaseno | 2015-01-19 13:04 | ナイアガラ | Comments(0)

Dodger!


大瀧さんがプロデュースした布谷文夫さんの『悲しき夏バテ』の歌詞カードには「深南部牛追唄」の歌詞の下にこんな言葉が添えられています。
※この唄は、アメリカ深南部地方に古くから伝わるトラディショナルソング「牛追い唄」よりヒントを得てさんばかトリオが作ったものである。詳細を知りたい方は「牛追い唄」を参照のこと御知らせ致します。

「アメリカ深南部地方に古くから伝わるトラディショナルソング「牛追い唄」よりヒントを得て」というのはもちろんウソ。歌詞カードに平気でウソを書かせるなんてさすが大瀧さん。でも、これを信じて曲を探した人いるんでしょうか。
「さんばかトリオ」というのはもちろん大瀧さんと伊藤銀次さんと布谷文夫さん。ただしクレジットはそれぞれの変名、多羅尾伴内、銀杏次郎丸、ジミー蘭越となっています。

さて、前日貼った「深南部牛追唄」はライブバージョン。やはり布谷さんのアルバムに収録されたバージョンを聴いてもらわなくてはいけません。曲は最高にカッコいいです。個人的にはボブ・ディランの「I Want You」に似ていると思っています。
というわけで、この音源の20:50あたりからお聴きください。



1975年1月に放送された「ゴー!ゴー!ナイアガラ」。この日はナイアガラの特集ということで伊藤銀次さんと山下達郎さんがゲストに来ています。終始冗談ばかり言ってげらげら笑い通しなのですが、とりわけ「深南部牛追唄」に関する話は大瀧さんと銀次さんの間で最高に盛り上がっています。いかにその曲作りが楽しかったかがよくわかります。
ここでの話の中で大瀧さんが布谷さんは歌入れのときに予定していないことをアドリブでぽっと言っちゃうんですね。だから大瀧さんはそれを逃すまいと、曲が始まる前からテープを回し続けていたようです。
「深南部牛追唄」のアドリブではなんといっても「だじゃ」ですね。曲の切れ目ごとに言ってます。
岩手では「〜だべ」の変わりに「〜だじゃ」という言葉が使われているようすね。共通語の「〜だろ」に該当する言葉。北海道出身の布谷さんがそれを知っていて使ったのか、あるいは咄嗟に出てきた言葉だったのか。

布谷さんの「だじゃ」は英語の「dodger」にも聞こえます。
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by hinaseno | 2015-01-16 12:24 | ナイアガラ | Comments(0)

大瀧さんは「二人のブルース」をレコーディングするためのオケづくりを始めます。オケを作った場所は福生のスタジオでしょうか。
バックのミュージシャンは福生にやって来て間もない伊藤銀次さんがリーダーのごまのはえ。演奏の中心はギターの伊藤銀次さんとドラムの上原裕(ユカリ)さん。
でも、この演奏ではちょっと殺風景ということで、大瀧さんは以前「あつさのせい」でピアノを弾いてもらった松任谷正隆を呼ぶことを思いつきます。
ここからは大瀧さんの言葉。
で、彼がオケ聴いたら、”今、ラグに凝ってんだけど”と言うわけ。で、ギター外して、ベースとドラムだけ聴きながらラグにした。それからラグに合わせたギターのフレーズを考えて、コードもメジャーにしちゃった。そしたら「二人のブルース」って歌えないのよ。さあ、どうしたらよかんべって。

ここで、銀次さんの言葉。
この曲のオケが録れて歌入れをする時に、大橋のポリドールのスタジオで僕と大瀧さんと布谷さんの3人で行ったら、前のスタジオ(を使っていた人たち)が押して待たされたんですよ。

で、再び大瀧さんの言葉。
ポリドールの食堂で銀次と布やんと3人で。それで、思いついた。ここは一発、ストーリー展開のあるノヴェルティ・ソングでいこうと。

このときのひらめきこそが後に数多く作られるナイアガラ・ソングの名曲のもとになってるんですね。しかもポイントはそこに3人いたこと。
大瀧さんの言葉はこう続きます。
...思うもののだよ、ネタがない。それでまあ「二人のブルース」だから、ブルースといえば、”ディープ・サウス”。ディープ・サウスを日本語に訳すと、”深南部”。ん? 岩手県に「南部牛追唄」っていうのがあるなあ。故郷に戻ったんだよ。故郷の新民謡を作ろうと。深南部の牛追唄というストーリーにしようと。牛追いだから、カウボーイ・ソングなんですよ。そうか、「深南部牛追唄」ってカウボーイ・ソングなんだってそのとき気がついた。

前にも言いましたが、大瀧さんが生まれ育ったのは南部藩と伊達藩の境界線に近い辺り。いってみればまさに南部藩の一番南の奥地。まさに深南部。つまり大瀧さんの生まれた場所を舞台にした曲を作ろうとしたわけですね。

ということで3人による歌詞の共作が始まります。で、できあがったのがこの歌詞。この歌詞のどの言葉をどこからとってきたのかはまた次回に。
俺らはな
生まれながらの牛追だ
朝も早よから腰弁下げりゃ
牧場の乙女はにんまり笑う

俺らはな
牛追い仲間じゃ人気者
どこまで続くかこの人気
おら知らね 牛に聞け

俺らはな
千葉の姉ちゃんと乳しぼり
賭た命を笑わば笑え
これが牛追の生きる道

2人はなあ
別れ別れになる運命
たとえ離りょと互いの胸に
又の会う日を目と目で誓う

後に大瀧さんは「深南部牛追唄」についてこんなことを言っています。
当時はこのような〈共作システム〉で何作か作られたものでした。その "極致" が布谷文夫の「深南部牛追唄」で、大袈裟に言うならこの曲は1曲だけで "ナイアガラ論文" が書けるほどの深みのある楽曲で "ナイアガラの真髄ここにあり!" というものです。

この言葉、実は今日ネット上で見つけました。どのメディアで話された言葉なのか確認できていません。もしご存知の方がいれば教えて下さい。
でも、大袈裟でもなく、「この曲は1曲だけで "ナイアガラ論文" が書けるほどの深みのある楽曲で "ナイアガラの真髄ここにあり!" 」だと思っています。

今日は布谷文夫さんの命日。この日に話を終えるつもりでしたが、まだ何回かは続きそうです。
僕もすっかりヌノラーになってしまいました。
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by hinaseno | 2015-01-15 11:51 | ナイアガラ | Comments(0)

話は1973年に。
「事の始まりは1973年の福生スタジオ」です。
僕の言葉ではなく大瀧さんの言葉。『レコード・コレクターズ増刊 大瀧詠一Talks About Niagara』所収の『ナイアガラ・トライアングル Vol.2』のインタビューでの言葉。そばにいた佐野さんや杉さんにこんなことも言っています。
「映画の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と同じように、みんなには73年に戻ってもらいたいんだよね」

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、あの落雷のあった1955年11月12日に何度も戻るように、大瀧さんのナイアガラ・ストーリーでは必ず1973年に戻ることになります。このブログでも1973年の出来事を何度も書いてきました。そういえば、大瀧さんのスタジオにも一度落雷があったんですね。あれはいつのことなんだろう。

さて、はっぴいえんどは1972年の暮れに事実上解散。大瀧さんは1973年の1月に福生に引っ越します。そこで自分の部屋を仮設のスタジオにするんですね。FUSSA 45スタジオの始まりです。で、2月には三ツ矢サイダーのCMの話がまいこんできます。「サイダー73」ですね。
3月には大阪で活動していた伊藤銀次さん率いるごまえのはえというグループをプロデュースすることになり、ごまのはえが上京してきて福生に住むことになります。で、彼らのデビューのための”鬼の特訓”が開始。
その鬼の特訓のたった1日だけあった休みの日に銀次さんたちが高円寺のグルーヴィンという喫茶店で達郎さんが自主制作したレコードを聴き、大瀧さんと達郎さんが出会うことになるわけですが、まさにそのごまのはえ特訓の日々に依頼されたのが布谷文夫さんの新しいアルバムのプロデュースでした。その録音が6月下旬から7月にかけて行なわれます。
あまり時間がなかったせいか、このアルバムのために大瀧さんが新たに作った曲はありませんでした。基本的には布谷さんが作った曲のアレンジ、ミックス。それから大瀧さんがはっぴいえんど時代にかいた「颱風」のカバー。
アンダース&ポンシアが曲を書いた「One Woman Man」を改作した「夏バテ」にはおそらくいちばん力を注いだんだろうと思います。
でも、大瀧さんはもう一つやってみようと思った曲がありました。布谷さんがブルース・クリエイションというグループにいたときに大瀧さんが作った「二人のブルース」という曲。ただこの曲はブルース・クリエイションでは発表されず、その次に布谷さんが作ったDewというグループでレコーディングしたようです。



さて、布谷さんのソロ・アルバムのためにこの「二人のブルース」を改めてレコーディングしようとしたときに、いつものように思わぬ出来事が起きるんですね。
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by hinaseno | 2015-01-14 11:35 | ナイアガラ | Comments(0)

ナイアガラの歴史を考えたとき「深南部牛追唄」ほど大切な曲はないのではと思う日々。
もちろんそれは大瀧さんが布谷文夫さんという希有なアーティストに出会うことができたからこそのこと。
というわけで、大瀧さんと布谷さんの出会いについて少し。

ウィキペディアでは布谷さんと出会ったのは大瀧さんが上京した1967年の夏となっていますが(おそらく『KAWADE夢ムック 大瀧詠一』の巻末の湯浅学さんが作成された「大瀧詠一年譜」によってるんでしょうね)、正しくは上京して間もない3月のこと。でも、どのようなきっかけで出会ったかは長い間謎のままでした。

大瀧さんと細野さんの出会い、あるいは達郎さんとの出会いに関しては、いろんなところで何度も語られてきていますが、大瀧さんと布谷さんとの出会いについてはほとんど語られてきませんでした。大瀧さんという人は訊かれないことには答えない人なので、だれも訊く人がいなかっただけのこと。
布谷文夫さんというのはメディアにほとんど出ることもない人だったので、現在、布谷さんのCDのライナーノーツやウィキペディアに書かれていることのほとんどは1976年に放送された「ゴー!ゴー!ナイアガラ」の布谷文夫特集をもとにしています。布谷さん本人へのインタビューを交えながら布谷さんのヒストリーを辿ったあの番組は今となっては大変貴重なもの。
ここここで聴くことができます。
ただ、この放送でも布谷さんとの出会いについては大瀧さんが「ひょんなことから」と語っているだけ。

この謎に包まれた2人の出会いについて問いを発したのは内田樹先生でした。
例の2005年8月19日に行なわれた大瀧さんとのはじめての対談で内田先生が大瀧さんに質問されたんですね。そのやりとりがちょっと面白いのでそのまま載せておきます(『KAWADE夢ムック 大瀧詠一』に掲載)。
内田:布谷さんとはどういう経緯で知り合ったのですか。
大瀧:上京して1週間以内に会っていますね。こんな話、聞きたいですか?(笑)
内田:ええ、すごく知りたいです。ナイアガラーは「そういう話」だけ聞きたいんです。
大瀧:僕は岩手県内でも転々としていたのですが、何度目かの転校の時に知り合った人間がいて、彼がクレージーキャッツのソノシートを持っていたということで気が合って友達になった。それから二、三年して僕がギターを覚え始めた時に、彼が詞を書いて、僕がスリー・コードで曲を付けた。これが最初のオリジナル曲ですが、このときの作詞家が後に布谷さんの「冷たい女」の作詞をした千葉信行で、僕よりも前に上京していた彼に誘われて、彼の先輩がいるとあるGSバンドの練習に遊びに行ったんです。そこへリード・ヴォーカルが来るからちょっと待ってろと言われて、布谷さんを紹介されたわけです。

「こんな話、聞きたいですか?」という大瀧さんの言葉に対して内田先生の「ええ、すごく知りたいです。ナイアガラーは「そういう話」だけ聞きたいんです」という言葉がいいですね。
それはさておき大瀧さんは上京して数日で布谷さんに出会ったとのこと。当時布谷さんは専修大学の大学生。ふたりの出会いのきっかけを作ったのが岩手にいたときの中学時代か高校時代の同級生の千葉伸行さん。大瀧さんの最初のオリジナル曲の作詞をした人なんですね。「深南部牛追唄」が収録された、 大瀧さんプロデュースによる布谷文夫さんの『悲しき夏バテ』に収められた「冷たい女」の作詞・作曲をした人。

で、その布谷さんから「お前の趣味にぴったりの奴がいるから」と紹介されたのが立教大学の中田佳彦さん。そしてその中田佳彦さんから細野さんを紹介されるという流れになるわけですね。

日本のロック史的には細野さんとの出会いがどうしても重視されるのですが、ナイアガラ的には上京してほんの数日で布谷さんに出会っていること、さらにその布谷さんとともに「深南部牛追唄」という曲を作ったことこそが最も重要なことであったと思わずにはいられません。
その「深南部牛追唄」も企画を温めて生まれたものではなく、例によって”たまたま”時間ができたために生まれたものだったとのこと。
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by hinaseno | 2015-01-13 12:18 | ナイアガラ | Comments(0)