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<   2014年 11月 ( 19 )   > この月の画像一覧



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長福寺の白壁を見たあとに長尾山を下る途中で木山さんの墓に参り、それから木山さんの生家に行ったときも、僕がずっと考えていたのは木山さんのことよりも「おしの」のことばかり。僕にとっての新山とは「おしの」のいる風景だということに気づきました。
もちろん「おしの」は木山さんが作り出した女性。実在していたのかどうかはわかりませんが、木山さんの心の中には(少なくとも昭和10年くらいまでは)はっきりと存在していた女性。雑司ヶ谷にいたときも姫路にいたときも故郷の新山に住む「おしの」は木山さんの中に居続けました。
『木山捷平全詩集』には「おしの」の登場する詩が全部で10編あります。それを書かれた年代順に並べておきます。
一番古いのは大正10年、矢掛中学校の在学中、17歳のときに書かれた詩。
  おしの

 おしのの麦蒔く
 手がやさし。

 なぞへ畑を
 行つたり来たり。

 もの言うて過ぎうか。
 黙つて行こか。

 麦蒔くおしのの
 しょさがよい。
 (『未発表詩篇』)

それから大正14年、21歳のときの詩。この年、木山さんは雑司ヶ谷に住んで東洋大学に通っていました。
  赤蜻蛉 

 山畑のたうきびのかげであつてゐたら
 赤蜻蛉が
 おしののてぬぐひに止りに来た。

 おしの
 ほんとにお前はわしがすきか。
 この村のもので誰一人
 ほめてくれるものもないこのわしが――

 そして、おしの
 わしが××のためにたたかつて
 牢へ行くやうなことがあつても
 お前はわしを忘れはせぬか。

 赤蜻蛉はたうきびの葉にとまつた。

 また一ぴきやつて来た。
 ふたつは くるくるつと つるんで
 おを空をななめにすべつて行つた。
 (『野』)

  秋空

 おれが空を仰いだら
 おしのも一しょに空を仰いだ。

 秋空は澄んで雲一つなかつた。

 おれがえゝ月だのうと言うたら
 おしのもえゝ月だのうと答えた。
 (『未発表詩篇』)

次が昭和2年、姫路の荒川小学校に勤めていたときの詩。
  かすかな波の音

 この松林から海は見えないが
 かすかな波の音が聞えて来る。
 私は松の根元にねころんで
 遠いふるさとを思うつてゐる。

 おさげの、まだ十四であつた頃の
 おしのの姿をしのんでゐる。
 (『未発表詩篇』)

で、昭和3年、姫路の北の菅生小学校に勤務していたときの詩。
  夜道を三里

 夜道を三里
 俺あ、おしのに逢ひに行つた。

 おしの、蚕に桑やつてゐたが
 口笛吹いたら裏から出て来た。

 空豆ぽりぽり食べながら
 俺あ、久し振りにおしのと話した。

 夜道を又三里
 俺あ、おしのと別れてかへつた。

 帰るさ、峠で一ぷくしてゐたら
 首のあたりで何かごそごそした。

 さはつて見たらおしのの着物にゐた蚕
 何時の間にか俺について帰つてゐた。
 (『野』)

  おしのを呑んだ神戸

 にくい汽車!
 おしのの乳房までものせて
 上り列車は汽笛をふいた。
 神戸へ!
 神戸のマツチ工場へ!
 さびしいか? おしの
 さびしいのに何故行くんだ?
 神戸へ!
 神戸のマツチ工場へ!

 列車は発車した
 おしのの乳房までものせて、
 にくい神戸!
 神戸はおしのを呑んでしまつた。
 俺あひとり
 田園の中の停車場にのこされた。
 (『野』)

次は昭和4年、東京に住むようになった最初の年の詩。いずれも第二詩集『メクラとチンバ』に収録されています。
  おしのの腰巻

 おしのの腰巻嗅うで見たら
 おしのの腰巻くさかつた。

 おしのの腰巻何故くさい?
 田の草とつて
 田の草とつて汗でよごれた。

 汗でよごれりや
 腰巻だつてくさくなら。

 糞ツ!
 くさい腰巻竹の棒につけて
 えつさ えつさ
 東京のまんなか駈けちやろか。
 「サア コラ ミンナ
 コノ コシマキ ニ 敬礼ダ!」
 (『メクラとチンバ』)

  月夜の橋上から
    ―おしのに―

 夜業に麦刈つて
 月夜の畦道をひとりで帰つた。

 帰りしな
 土橋の上から小便たれた。

 小便が月にてらされて
 パリパリというて川へ流れた。

 「神戸のマツチ工場もつらいだろ」
 おら、お前のことが思はれた。

 川ん中で、もう
 去年のやうに河鹿がないてゐた。
 (『メクラとチンバ』)

  神戸のマツチ工場から帰つたおしの

 柿の下の野風呂に入つて
 おしのはどんぶり首まで沈んでゐた。
 
 ――おしのさん、たいちやろか?
 ――いいえ、えいあんばい!

 神戸のマツチ工場から帰つたおしのは
 久し振りのやうに空を仰いでゐた。

 ――きれいなお月さんぢやがな!
 ――きれいなお月さんぢやろ!

 柿の繁みの間から
 お月さんも久し振りにおしのを見てゐた。

 ――おしのさん、神戸はえいとこかい?
 ――………………

 おしのはめつきりやせてゐた。
 そして青白くなつてゐた。

 ――おしのさん、もう神戸なんか行かんとけよ。
 ――ええ、もう神戸なんか行かんわ。

 どうやら向うの石垣で
 チンチロリンがないてゐた。
 (『メクラとチンバ』)

最後は昭和6年に書かれた詩。
  さつまいもの花

 さつまいもに
 さつまいもの花が咲いてゐる。
 さみだれのふる日
 しよんぼり
 みのかぶつておしのが植ゑたさつまいも畑の
 さつまいもに
 さつまいもの花が咲いてゐる。
 (『未発表詩篇』)

興味深いのは、この10編の詩のうち、3編の詩に「月」の話が登場すること。月はおしのにつながっていたのかもしれません。月を見れば、おしののこと、つまり古里新山の風景を思い返していたんでしょうね。

月といえば、新山から笠岡に戻るときにはすっかり日が暮れてしまっていたのですが、車の中から見えた月が信じられないほど美しく輝いていました。その日の天気が素晴らしかったこと、そして新山の空気が美しかったことを考えても、その日見た月はこれまで見たこともないほど美しいものでした。
車で送っていただいた方とその話をしたら、満月にはまだ早いはずということになったのですが、あとで、その次の日が「後の十三夜」というめずらしい名月だったようです。171年ぶりに見ることのできる奇跡的な月。実際にはその一日前だったのですが。
でも、僕はその月を見ながら「おしの」と会話をしていました。
「えゝ月だのう」と言ったら
「えゝ月だのう」と答えてくれました。

木山さんに「十三夜」という詩があります。昭和11年に書かれた詩。
  十三夜

 時雨
 時雨
 ぱら
 ぱらと

 背戸の萩の花を打つ

 十三夜の
 明るきに―――――。
 時雨
 時雨
 ぱら
 ぱらと

木山さんは月をこよなく愛していました。そしていくつも月の詩を書いています。ただ、この「十三夜」を書いた頃には「おしの」のことは忘れかけていたのかもしれませんが。

というわけで、長く続けた木山捷平の郷里、新山を訪ねた話も今日で終わり。しばらくは木山さんの話はなくなるかもしれません。

そういえば木山さんの詩を読み返していたら、なんと「アドバルーン」のことを書いた詩があったのに気づきました。ずっとアドバルーンのある風景を探していましたが、まさか木山さんの詩にあったとは、なんとも灯台下暗しでした。昭和6年に書かれた詩。昭和6年といえば鈴木信太郎が、あの「東京の空(数寄屋橋附近)」を描いたのと同じ年。まさに東京の空にアドバルーンがあがり始めた頃。木山さんの話はしばらくなくなると書きましたが”The story Is ended. But the melody lingers on”ですね。いろんなところで木山さんはつながってきます。
というわけで、そのアドバルーンの詩を。タイトルは「広告気球」。
  広告気球

 東京の
 屋根 屋根 屋根 屋根 屋根
 その上の
 空にぽつかりと浮かんでゐる軽気球。
 ふんどしのやうな広告をぶらさげて
 風が吹いて来ると
 風の方向に少しづつなびき――
 あがるのでもなく
 落ちるのでもなく
 ゆれるにまかせてゆれながら――
 あつちに一つ――
 こつちに一つ――
 どいつもこいつも切ない商業主義をぶらさげて――
 東京の
 不景気 不景気 不景気 不景気 不景気
 その上の
 空にぽつかり浮かんだまま――
 見えないをどりををどつてゐる
 狸のきんたまのやうな
 哀しい
 空のちんどん屋 軽気球。

なんか歌にしてもいいようないい詩です。

最後に木山さんの生家の前で撮った写真を。
目の前の田圃ではまさに刈り入れをしているところでした。
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by hinaseno | 2014-11-29 11:27 | 木山捷平 | Comments(0)

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木山捷平は昭和7年に『おしのに送る手紙』という作品を書いています(昭和2年2月発行の『詩人現代』に掲載)。郷里の新山に住んでいる「おしの」という架空の女性に宛てた手紙形式の作品。木山さんが『うけとり』など、小説を書き始めるのは翌昭和8年から。その意味では詩から小説へ移行する時期の興味深い作品といえます。
『おしのに送る手紙』は「――ある覚書の一部――」という言葉で締めくくられています。木山さんの日記をみると、昭和7年1月3日に「『おしのに送る手紙』を書き終わる」と書いています。もしかしたら昭和7年の元日に、新たな気持ちで新しい方向に向かうために書き始めたものだったかもしれません。

この『おしのに送る手紙』の中に、例の「白壁」の話が出てきます。
 お寺のぐるりをとりかこんだ白壁の塀は昔のまゝでせうか。あれは僕が尋常何年生のときだつたかしらぬ。ぬりかへたばかりの、まだ乾ききらない真白な白壁に、草の葉でもつて大きな落書をして、おショウに見つけられて、ひどく叱られた上、先生に言ひつけられたものですが。
 バツを食つたぼく等は、日がくれても、いつまでも教室のすみに立たされてゐました。じつは先生、帰すのを忘れて、先におかへりになつてゐたのでした。
 小使の小母さんがそれを見つけて、
「お帰んなさいよ。」
といつて帰してくれました。
 あのオショウさんは間もなく死んでしまひましたがあの××先生や、いたづら友達の□□や△△はどうしてゐることでせうか。
 先生のクンカイにもかゝはらず、落書は日に日にふえるばかりでした。さうしているうちに、
 キヤマショウヘイと
 マツモトオシノ
 ××××シタ
 という風なのがあらはれて、僕ら二人は、こつそりと破れざうりを持つて、消しにでかけたことがありましたが。
 あんたはあの夕ぐれのことを、今もおぼえてゐるでせうか。

これももちろん創作の可能性もありますが、「マツモトオシノ」という名前は別としてもっとも実話に近いものではないかと思います。担任の教師も『うけとり』に出てくるような、卑劣で暴力的な人物ではなく、教室の隅に立たせていたのに、それを忘れて自分は先に帰ってしまうという、のんびりした先生。おそらく『うけとり』に登場する教師は、もう少し後に、木山さんが教師になってから目にした人物がもとになっているのではないかと思います。
大正時代の新山の小学校には『うけとり』に出てくるような教師はいなかったんですね、きっと。
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by hinaseno | 2014-11-28 12:09 | 木山捷平 | Comments(0)

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細かいあらすじは省きますが、なんと白壁に落書きをした犯人に岩助がされてしまうんですね。受持ちの土井先生の誘導尋問のような長時間の「取調べ」によって。
土井先生による激しいののしりの言葉と暴力を受けた後、ようやく解放された岩助は家に戻ってすぐに「うけとり」に向かいます。
「やり場のない忿怒」が体を激しく襲う中、夢中になって歩いていたら、いつの間にか寺の白壁のある場所までやってきていました。そしてその怒りをぶつけるように壁に落書きをはじめます。
大バカ
バカヤロー
土井安太!
バカヤロー

それから、土井先生が新任の女の先生とひそひそ話をしていたのを思い出したので、こう書き加えます。
土井安太
山川タキ子
ショウカシツ ノ スミデ
…………シタ

さらにはその場面の絵も書き添えます。

で、最後はこう終わります。
 それだけ書くと、幾らか胸がすっとして来た。彼は手に残った粗朶炭を叢の中に投げ棄てて、もう一度あたりを見廻した。やはり誰の姿も見えなかった。
 岩助は地べたに置いていたうけとりの竹籠を手につかむと、一目散に――まるで一疋の野猪のように松林の中に駆け上って行った。

ところで、この『うけとり』、最初に雑誌(『海豹』昭和8年)に掲載されたときは最後にこんなことが書かれていたことを最近知りました。
 もちろん、二人の小さな恋はそれきりで終りを告げた。やっと高等学校を卒業すると、岩助は一小作百姓となって、野良労働に従った。セイはマッチ工場の女工となって神戸へはたらきに出たが、青く痩せて村に帰って来て、間もなく死んで逝った。寺の住持がお経をあげて、彼女はその裏の松林に葬られた。
 さうして、二十年の歳月が流れた。一人前の大人になって一家の主になりさへすれば、嫌なうけとりからは解放されて、仕事をすることが気楽になるであらうと考へてゐた岩助の夢想は外れた。彼は今、年老いた父母と共に、山岡善右衛門の小作一町歩のうけとりをしてゐるに過ぎない。
 しかも、そのうけとりは、子供の時の山行きなどの比ではなく、年と共に負担を加へ労苦を増していくばかりである。が、岩助はどうかするとあの時のことを追想して、僅か二週間に過ぎなかったとは云へ、真に歓喜そのものの中に飛び込んで松葉を掻き集めたあの悦楽を思ひ出す。あのやうに楽しく、「うけとり」を忘れた労働がして見たいと、彼は切に希みながら、野良の生活を暮してゐる。よき白壁あらば「落書」したいそのたまらない意欲をぐっと胸におさへて――。

岩助の現在の様子が描かれていたんですね。なんとなく芥川龍之介の『トロッコ』の最後の部分を連想させる終わり方。でも、結局、その数年後に単行本に収録されるときにその部分は削られて現在文庫本に収められた形になったようです。
ちょっと驚いたのは「セイ」のその後のこと。彼女は神戸のマッチ工場に女工として働きに出て、その後、体を壊して村に戻ってきて間もなくなくなったとの話。
神戸のマッチ工場といえばすぐに浮かぶのは、「おしの」という女性が登場する次の2つの詩。まずは昭和3年に書かれた「おしのを呑んだ神戸」。第一詩集『野』に収録されています。
  おしのを呑んだ神戸

 にくい汽車!
 おしのの乳房までものせて
 上り列車は汽笛をふいた。
 神戸へ!
 神戸のマツチ工場へ!
 さびしいか? おしの
 さびしいのに何故行くんだ?
 神戸へ!
 神戸のマツチ工場へ!

 列車は発車した
 おしのの乳房までものせて、
 にくい神戸!
 神戸はおしのを呑んでしまつた。
 俺あひとり
 田圃の中の停車場にのこされた。

それから翌昭和4年に書かれた「神戸のマツチ工場から帰つたおしの」という詩。こちらは第二詩集『メクラとチンバ』に収録されています。
  神戸のマツチ工場から帰つたおしの

 柿の下の野風呂に入つて
 おしのはどんぶり首まで沈んでゐた。

 ――おしのさん、たいちやろか?
 ――いいえ、えいあんばい!

 神戸のマツチ工場から帰つたおしのは
 久し振りのやうに空を仰いでゐた。

 ――きれいなお月さんぢやな!
 ――きれいなお月さんぢやろ!

 柿の繁みの間から
 お月さんも久し振りにおしのを見てゐた。

 ――おしのさん、神戸はえいとこかい?
 ――………………

 おしのはめつきりやせてゐた。
 そして青白くなつてゐた。

 ――おしのさん、もう神戸なんかへ行かんとけよ。
 ――ええ、もう神戸なんかへ行かんわ。

 どこやら向うの石垣で
 チンチロリンがないてゐた。

こういうのを読むと、「セイ」=「おしの」にあたる女性が実際にいたのかと考えてしまいます。あるいは「土井先生」のような先生が実際にいたのかとか、さらには岩助が白壁に落書きをしたエピソードは木山さんの身に実際に起こったことなのかということも。

で、これに関してはもう一つ興味深いエッセイがあります。それは次回に。
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by hinaseno | 2014-11-27 12:53 | 木山捷平 | Comments(0)

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白壁があるお寺の名前は長福寺。木山さんの生家のすぐ裏山にあるお寺。ちなみに裏山の名前は長尾山。この山の名前も木山さんの作品に何度も出てきます。
たとえば満州にいたときに書いた短歌。
長尾山畑の黍草穂に垂りて
妻のつむ見ゆ吾子もつむ見ゆ

いつもどこかへ行くときにはなるべく古い地図を調べておくのですが、笠岡の古い地図が手に入らなかったので、今回は完全に案内の方におまかせ。でも、ありがたいことに、案内していただいた方は、基本的に僕が気がつくのを待ってくれていました。古墳群が長福寺のある裏山にあったこと、その山が長尾山だったこともあとでわかりました。ちなみにその古墳群の名称は長福寺裏山古墳群。
うれしいことに、その方にいただいた『伝えたいわがふるさと』に木山さんが生まれた明治30年頃の新山付近の地図が載っていたので、それをもとにして木山さんに関係のある場所を記載した地図を作ってみました。そういうのはきっと作られているはずだとは思いましたが、やはり自分で調べながら作った方が楽しいので。
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さて、木山さんが落書きをしたという長福寺の白壁。子供たちに落書きをしてといわんばかりに、真っ白にまっすぐにのびていました。
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木山さんは「白壁」という詩を書いた5年後に、子供たちがこの白壁に落書きをするエピソードの出てくる、とびっきり素敵な小説を書きました。タイトルは「うけとり」(後に「初恋」と改題)。書かれたのは昭和8年。『出石』に続いて小説としては2作目ですが、間違いなく木山さんの初期の小説の最高傑作の一つですね。どこか童話的な雰囲気もあり、何度読んでも切なくなってしまいます。ただし、登場する担任の教師は『尋三の春』の大倉先生とは違っています。そういう先生も、というかそういう先生の方が多くいたんでしょうね。
主人公の高木岩助は尋常小学校の6年生。名前は出てきませんがもちろん木山さんが通っていた新山小学校。岩助を木山さんと同一人物とするならば、話は大正4年の秋。まさに秋の新山の村を舞台にした小説でした。
山峡の村に秋が来ていた、楢や櫟がところどころに紅葉を飾って、山の谷間に朝の陽が明るくかがやいていた。

でも、この物語、長尾山をはじめとして新山を取り囲んでいる山々を子供たちが遊び回るという話ではありません。村の子供たちは学校から帰った後に、うけとりという仕事をすることを親から命じられていました。「うけとり」とは、ある仕事の量を決めてそれをひき受けさせること。仕事の性質や量は、季節や年齢によって違っていました。子守、草刈り、縄綯い、桑摘み、紙袋はり、などなど。子供は日が暮れようと、このうけとりが済むまでは家に帰ることができません。
岩助たちが秋に任されていたうけとりは、おそらく冬に備えて、大籠いっぱいに松葉を集めること。岩助の父親は「団栗(どんぐり)の葉なんぞまざらんとこをじゃぞ」と岩助に注意を与えます。団栗の木なんてたくさんありましたから大変です。

岩助はもちろんいやいやこの仕事をやっていましたが、ある日、隣村のセイという一級下の女の子に出会ってから状況が変わります。二人が出会った場所は山椒谷。お互いに恋心を抱くようになった岩助とセイは、他の子たちに隠れてその山椒谷でこっそりと会うようになります。
ちなみに山椒谷は上に貼った地図にあるように、長尾山とは反対側の山の中の谷。

で、それまでは同じ村の子供たちといっしょに仕事をしていた岩助は、彼らと別行動をとるようになるんですね。
面白いエピソードがあります。子供たちはいつも山の中で大声でお互いを呼び合うのですが、別行動をとるようになった岩助の名前を何度呼んでも岩助が返事をしてくれないので、さらに大きな声でこう言います。
「岩やん言うても返事がない
 ええ嫁さんでもとったんか
 山椒谷のまん中で
 何やらこそこそやりようた」

いるのがわかっているのに返事をしようとしない相手をからかう歌ですね。もとになっているのは岡山に伝わる童歌。『岡山の童うたと遊び』(岡山文庫)を調べたら載っていました。童歌にしては、ちょっと...ですね。
 ○○ちゃんいうても返事がない
 ええ嫁さん(婿さん)でもとったんか
 じょうにつんつんしんさんな
 ごんぼう畑のまん中で
 からかさまくらで
 エッサモッサとやったげな
 こんど見たら言うちゃるぞ

 ○○ちゃんいうても返事がない
 たんとつんつんしんさんな
 ええ嫁さん(婿さん)でもとったんか
 あしたの晩にゃ子ができる
 だんまり団子 団子屋の息子
 団子を食うて 屁をひった

この童歌、からかいの歌にがまんできなくなって返事をしたらしたで、また歌に続きがあったようです。しかも、「はい」「おい」「あん」「うん」「なに」「どこ」「知らん」という返事の言葉でいろんなバリエーションがあります。
おそらくは時代や地方によって微妙な違いはあったんだろうと思いますが、こういう童歌が織り込まれているのが、『うけとり』という作品の魅力の一つであることはいうまでもありません。
でも、結局、出てこようとしない岩助に腹を立てた仲間たちは、白壁に岩助とセイに関する落書きをしたんですね。字だけでなく絵も添えて。それに早くから気づいていたセイはその都度落書きを消していました。消しても消しても彼らは落書きを続ける、それをまたセイが消す。
その話をセイから聞いた岩助は「なんぼ書いたちゅうて、今度からはわしがみんな消してしもうてやら」と力強く言います。セイも「たのまあな」と。しかし物語は意外な方向に展開します。
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by hinaseno | 2014-11-26 08:55 | 木山捷平 | Comments(0)

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昭和4年に出版された木山捷平の第一詩集『野』には45編の詩が収められています。大正14年に書かれたものが11編、昭和2年に書かれたものが10編、昭和3年に書かれたものが21編、そして昭和4年に書かれたものが3編。
木山さんは昭和2年の春から昭和4年の春まで姫路の小学校に勤務していたので、この詩集に収められた詩の大半は姫路に住んでいた頃に書かれたものということになります。もちろんこの間、何度か郷里に戻っているので、郷里の新山で書かれたものもあるはずだとは思いますが。

昭和3年に書かれた詩には農村や農民たちを描いたものが大半をしめています。のんびりとした風景を描いた詩がある一方で、寂しさや怒りをぶつけた詩もいくつか。その代表的なものが「夜刈り」という詩。木山さんの書いた詩の中で唯一「姫路」という言葉が出てくる詩です。
  夜刈り

 月が明るいので
 わしら田園へ出て稲刈つた。
 おやぢ!
 おかあ!
 わし!
 妹!
 四人ならんで米のなる木刈つた。

 米のなる木は刈つたとて
 麦のごはんに漬菜のおかず
 わしらすぐ腹がぺこぺこになつた

 寒い!
 ふるへる!
 からくり!
 搾取!

 月が沈んだ。
 わしら暗い畷道通つて帰つた。
 寂寥!
 憤怒!
 自棄!
 破壊!
 姫路の空があかかつた。

以前にも書いたように、これは本当に不思議な詩。家族で稲刈りをしている場所は間違いなく新山。稲刈りのために郷里に帰ったときに書かれた詩なのかもしれません。ところが最後に「寂寥!」「憤怒!」「自棄!」「破壊!」という感嘆符付きの相当きつい言葉を連ねたあとに唐突に「姫路の空があかかつた」という言葉が出てきます。それらの言葉は木山さんの中では姫路という場所につながっていたんでしょうね。

『野』では、この詩の2つ後に「積つた憤怒」が載っています。やはり昭和3年に書かれた詩。
  積つた憤怒

 積り
 積り
 積り
 積もり積つたこの憤怒!

 この憤怒はどこて捨つべきか?
 この憤怒はどうしたらはらせるか?
 いきなり嬶(かかあ)のどてつぱらをけりとばしてやらうか?
 否!
 丼を皆んなぶつけてわつてやらうか?
 否!
 酒をたらふく飲んであばれてやらうか?
 否!

 否!
 否!
 否!

この2つの「憤怒」と「寂寥」に満ちた詩の間に挟まれているのが「白壁」という詩です。これもやはり昭和3年に書かれたもの。
  白壁

 子供の時分
 ぬりかへたばかりのお寺の白壁に
 大きな落書をして
 和尚にひどく叱られたが……。

 あれは愉快な悪戯であつた。
 あれは美しい意欲であつた。

 この頃
 僕等をとりまく大きな寂寥!

 神様!
 この寂寥をどうしてくれる?
 あのような白壁を
 僕等の前にさしひろげてくれ!

怒りをぶつけることのできた場所、怒りを受けとめてくれた場所としての「白壁」。この白壁のあった場所が、まさに木山さんの生家の裏山にあったお寺の前にあった白壁でした。
木山さんのことを知っていろんな詩を読むようになって、いつかは見てみたいとずっと思っていたのがまさにこの白壁でした。
そしてこの白壁は、木山さんのこの詩にある通り、「ぬりかへたばかり」の真っ白な状態で僕を迎えてくれました。
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by hinaseno | 2014-11-22 11:00 | 木山捷平 | Comments(0)

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新山駅を後にして次に行ったのは山の中の古墳群でした。その古墳群のある山が木山さんのいろんな小説の舞台になっている、まさに木山さんの生家のすぐ裏の山だというのはあとで気づきました。
そこで唐突にこの曲を思い浮かべることになりました。100年前のタイムトラベルを続けていたからでもないのですが。



大貫妙子さんの「メトロポリタン美術館」。NHKの「みんなのうた」でも使われたので知っている人は多いはず。大貫さんの中でも特に好きな『Comin' Soon』というアルバムに収録されています(『カイエ』にも)。ただ、このYouTubeの音源は残念ながら誰かのカバー。かなり忠実なカバーで、歌っている人もうまいので貼っておくことにしました。
なぜこの曲を思い浮かべたかというと、ここの古墳群で発掘されたものが、あのメトロポリタン美術館に収蔵されていることを知ったから。
とにかくここの古墳群には驚きました。墳長が60mもある、備中西部では最大の前方後円墳もあれば、方墳もあったり、時代的にはめずらしい造出部のある円墳もあったり。相当に有力な人であると同時にちょっとユニークな指導者が支配していたに違いありません。
車で立ち寄っていただいたのは最大の前方後円墳である双つ塚古墳と造出部のある円墳である仙人塚古墳。
これがその仙人塚古墳。「仙人」という名前がいいですね。
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で、この古墳の前にはこんな看板がありました。
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明治時代にこの古墳で発掘された短甲がメトロポリタン美術館に収蔵されているとの記述。で、メトロポリタン美術館のサイトの収蔵品を調べてみたらありました。これですね。
ただし説明書きのどこにも新山、あるいは笠岡の名前はありません。
よく見ると「Gift of Bashford Dean, 1914」との文字が。ちょうど100年前の1914年にバシュフォード・ディーン(Bashford Dean)という人がこの短甲をメトロポリタン美術館に寄贈したということ。

このバシュフォード・ディーンというのは生物学者なのですが、日本の甲冑の愛好家でもあったようで、どうやら日本全国を巡って甲冑集めをしていたようです。調べたら日本のいろんなところでいろんなものを手に入れてますね。彼について調べていたら興味深いことがぞろぞろ。それはさておき、彼が日本で集めた甲冑をメトロポリタン美術館に寄贈したようです。そのひとつが木山さんの生家から目と鼻の先の裏山で発掘された短甲だったということ。

その短甲発見と、それがディーンさんの手に渡るいきさつが、前に紹介した『伝えたいわがふるさと』に載っていたので、簡単に紹介しておきます。

古墳から短甲が発見されたのはどうやら明治30年ごろ。木山捷平が生まれる7年ほど前のことです。発見したのは新山小学校の生徒だったとのこと。もちろん木山さんが通っていた小学校。木山さんがいろんな小説で書いていたように、新山の子供たちはときには遊んだり、ときには親から任された仕事をしたりと、山のあちこちを駆け回っていたわけです。
発見した小学生はたぶん小学校の先生に伝えたんでしょうね。で、その短甲は小学校に保管。明治34年に岡山師範学校の教授がその短甲に関する論文を『考古会』という雑誌に発表しています。
で、木山さんが生まれた翌年の明治38年にディーンさんが岡山にやってきたようで、おそらく甲冑の専門家と岡山に何かめずらしい甲冑はないかという話になり、新山小学校で発見された短甲がディーンさんに紹介されたようです。ディーンさんはそれに興味を持ち、ぜひ売ってくれということになったんですね。
このときディーンさんに同行していた人が新山村長に送られたのがこんな内容の書簡。
1年に2、3人の来訪者のために小学校に保存するのは、日々数百人の研鑽の資料として博物館に出陳する効果には遠く及ばない。展覧に資するのは、貴校の名を宇宙的にすることになる、貴校においておくのが無用とはいいませんが。

というわけで村側は売ることを決め、ディーンさんに当時のお金で500円を要求。しますでも、結局は300円になったとのこと。この200円の差は結構大きかったみたいですね。いや、もっと高いお金を要求してもよかったのかもしれません。
アメリカに戻ったディーンさんは間もなくメトロポリタン美術館に寄贈。それが1914年。日本でいえば大正3年。木山さんが2度目の大病にかかった翌年。新山小学校の5年生のとき。

ところで先程の書簡の「貴校の名を宇宙的にすることになる」というのがすごいですね。でも、実際にネットで調べると新山小学校の名前どころか、新山の「に」の字もありません。いい加減なものです。でも、新山小学校の名は木山捷平によって、僕のような人間には知られることになりました。ちっとも「宇宙的」ではありませんが。

これは木山さんの生家の裏山の古墳群の中で最大の古墳である双つ塚古墳のそばで拾ってきたどんぐりです。木山さんもきっとこの山でいくつもどんぐりを拾って遊んだはず。
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by hinaseno | 2014-11-21 15:15 | 木山捷平 | Comments(0)

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神島を離れていよいよ木山さんの故郷の新山へ。
その新山の村に入ったときに最初に立ち寄ったのがここでした。
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井笠鉄道記念館。もとは井笠鉄道の新山駅。その駅舎を保存して記念館としたそうです。知りませんでした。正面に飾られている「新山駅」という文字も昔のままなんでしょうね。
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踏切あたりに立てられていたこんなものも。「汽笛」と書かれているのは、いつどんなタイミングで使ったんでしょうか。
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実はここも立ち寄った日には閉まっていて、残念ながら中を見ることはできませんでした。でもまさか、新山駅がそのまま残っていたとはびっくりでした。この新山駅と、そこを走っていた軽便と木山さんには驚くべきつながりがあったので。

弟とともにもう少しで亡くなりかけた疫痢にかかった4年後に、木山さんは再び大病に襲われます。木山さんが小学校の4年のときでした。病状はジフテリアだったようです。
病にかかったのは大正2年10月2日。喉が痛くなって声が出なくなったそうです。最初はたぶん風邪だと思ったみたいですね。でも、この病気が長引いて、呼吸も困難な状態に陥り、笠岡の病院、それから岡山市内の病院で診察、治療を受ける日々が続きます。

ひと月半くらい過ぎてようやく病状もよくなってきて、学校に行けるようになったのが11月13日。
その3日後の11月16日の日曜日に井笠鉄道の開通式が行なわれています。で、なんと木山さんはこの開通式の日に父親といっしょに軽便鉄道に試乗していたんですね。木山さんのことをいろいろ調べ始めたほぼ同じ時期に岡山の軽便鉄道のことを調べていたので、木山さんがまさに井笠鉄道の開通式の日に試乗していたと知ったときにはほんとうにびっくりでした。いつかそのことについて書きたいと思っていたので、ようやく。ちょうど101年前の出来事。

この日のことは父静太の日記に書かれています。病院通いと家での療養が続いていた木山さんにとってはこの上ないうれしい出来事だったようです。
 十一月十六日。日。晴
 井原、笠岡軽便鉄道開通。
 八時四十五分迎への汽車にて笠岡行き。 
 招待されて僕は捷平を連れて行ったら、折詰も寄贈品も二人前づつ貰って、捷平の歓喜といったらなかった。病気もこれで愈々全快するだろう。(翌日の新聞に式場の写真が出とる。捷平も僕も鮮明。捷平又大喜び。)

式があったのは笠岡だったようです。この日は停まっている軽便に乗ってみただけなのかもしれません。木山さんとお父さんも写っているというこの日の写真はどこかにあるんでしょうか。
この後、木山さんは新山駅から何度もこの軽便に乗ることになります。
 十一月十八日。火。晴
 軽便鉄道初乗り。(一昨日のは試乗なれば)
 捷平を連れて山下病院行。それより捷平ひとりを帰らして、僕は鴨方へ汽車で行く。

山下病院は笠岡にある病院。鉄道が開通する前も何度も通っていました。もちろん歩くわけにも行かないので、車でも頼んだんでしょうか。金銭的にも結構大変だったはずなので、そう考えるとまさに井笠鉄道は木山さんの病気の快復を助けるように開通したことになります。
この日は父親と二人で笠岡に行って、帰りは一人で新山に戻ったようです。きっとわくわくしたでしょうね。
その後の日記にも何度も山下病院へ通う記述が続きます。年末の12月30日にはこんな記述。
山下先生へ捷平一人で往って帰った。

それから翌12月31日も。
山下先生へ捷平は今日も一人で往って帰った。

一人で行って帰れるようになっていたんですね。
ところで、旧新山駅の井笠鉄道記念館にはこんな機関車も置かれていました。1号機関車とのこと。この機関車に引っぱられた客車に当時小学校4年だった木山さんも乗ったんでしょうね。
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これは正面に近い場所からの写真。
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ただし撮ったのは金網の外。休みでなければ中に入れて実際に触れることもできたのでちょっと残念。また来て下さいということですね。
この機関車を目の前にしたときに思ったのですが、今度来たときにはぜひこの機関車の上に跨がってこんな写真を撮ってみたいと思ってしまいました。いろんな意味で相当に勇気のいることですが。
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by hinaseno | 2014-11-20 13:06 | 木山捷平 | Comments(0)

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77番の札所で買った(買っていただいたのですが)『神島八十八カ所ガイドブック』に載っていた神島の地図を貼っておきます。
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右上の赤丸が出発点。ちょうど瀬戸の渡しを渡った場所になります。そこから時計回りに札所を巡って宿泊したのがおそらく下の赤丸をしたあたり。
さて、そこの海に近い宿屋で一泊した翌朝。
夜が明けると、僕たちはまた宿でこしらえてもらった握飯の弁当を背負い、浜とは反対の後ろの山に登って行きました。

地図を見ると赤丸をした場所から次の27番の札所へは「浜とは反対の後ろの山」の方向に向かうことになっています。
ここまでの道程は地図で確認できる通り。ただ、この後からちょっと実際の地形とは矛盾する話が出てきます。
うねくねとした凸凹道をやっと山の頂まで辿りつくと、おじいさんと僕は汗を拭き拭き一休みすることにしました。そこは島の小さな山脈の出鼻になっていて、(つまり僕たちが前の日陸から二銭で渡った瀬戸の渡しとは真反対の位置になっていて)目の前には一目の中に瀬戸内海がひろびろと見渡せるのでした。

地図を見ると27番の札所はそれほど高い山の上にあるわけではなく、1km足らずのゆるやかな坂道を登ったところにあります。それよりも高い場所に札所はなく、かりにそこをまっすぐに進んで「山の頂」まで登ったとすれば、それは「島の小さな山脈の出鼻」はなく、まさに島のど真ん中の山ということになります。で、改めて地図で「目の前」に「瀬戸内海がひろびろと見渡せ」そうな「瀬戸の渡しとは真反対の位置」にある「島の小さな山脈の出鼻になってい」る場所を探したら、それは島の西の端の39番の札所のあるあたりになりそうです。後半部分はかなり省略されているんですね。
さて、この瀬戸内海を見渡せる場所で、茂助とおじいさんはこんな会話をします。
「大けえなあ! 海は!」
「おう、大けえ」
「大けえなあ! 富士山とはどっちが大けえじゃろうか?」
「そりゃ、海の方が大けえ」
「ほーん。そんなら日本と海とはどっちが大けえかあ?」
「そりゃ、海の方が大けえ」
「ほんとかあ!」
「ほんとじゃ」
「そんなら、おじいさん、日本は海の中に沈んでしまやせんかあ?」
「沈まん」
「おかしいなあ!」

さらにこんな会話も。
「そんなら、おじいさん、あの海は誰の身上な?」と尋ねてみました。
「誰の? 誰のだちうて、海は誰のでもなえ」おじいさんは平気で答えました。
「誰のでも?」
「おう」
「そんなら、誰が入って鯛や鰤を捕ってもかまわんかな?」
「おう」
「巡査がおこりゃせんか?」
「おこりゃせん」
「田と畑とは違うんかな?」
「ちがう。田や畑は銭を出して買わにゃ自分のものになりゃせん」
「海は銭を出して買わんでもええんかな?」
「おう」
「そんなら、おじいさん、海は皆いんなの共有物(もやい)なんかな!」
「おう」

木山さんの本を読んだ人ならばすぐにわかることですが、『おじいさんの綴方』と同じ年に発表された『尋三の春』にも同じような会話が出てくるんですね。大倉先生と生徒たちの会話。場所はもちろん古城山公園のある城山。
「そんなら先生、その大きな印度洋と富士山はどっちが大けえですか?」
「日本とはどっちが大けえですか?」
「ロシアとはどっちが大けえですか?」
「そんならその海には鯨は何万疋おるんですか?」
 それで私も知恵をしぼってきいて見た。
「そんなら先生、そんな大けな海は誰のもんなんですか?」
 すると先生は答えた。
「もう、そんな仰山きくな! 先生だちゅうて、そんな六カ敷いことは分からんがな」
 そう言いながら先生は、私の頭を掌でつかんで左右にゆすぶった。

海は富士山とどっちが大きいか、日本とどっちが大きいか、さらにはその海はだれのものか、この質問は茂助がおじいさんにしたものと全く同じもの。ただ、大倉先生はおじいさんとは違って答えていません。

実は木山捷平は、『尋三の春』の二年前の昭和8年に、この作品の原型となる『赤木先生』という小説を書いています。大まかなストーリーは同じですが、先生や主人公の少年の名前も含めて細かい部分はかなり変わっています。この『赤木先生』は笠岡市立図書館に展示されていたので、先日ようやく読むことができました。最も興味深かったのは城山での先生と子供たちの会話。これがなんとびっくりです。先生はきちんと子供たちの質問に答えているんですね。しかもその会話が『おじいさんの綴方』の茂吉とおじいさんの会話とほとんど同じ、というか全く同じ会話がでてきます。
『赤木先生』のその部分を引用してみます。
「先生、富士山と海とはどっちが大けえですか。」
「そりゃ、海の方が大けえ。」
「そんなら、日本と海とはどっちが大けえですか。」
「そりゃ、海の方が大けえ」
「そんなら、日本は海の中に沈んでしまやしませんか。」
「それでも沈まん。」
「をかしいなあ。」
「……」
 私はしばらく考へてゐたが
「そんなら先生、あの海は誰の海なんですか」
 と質問をかへて訊いた。
 すると赤木先生は、やうやく弁当を食べ終つて、しやぶつてゐた梅干の種を前の松の幹に性急に投げつけるが早いか、つと立ち上つて私をつかまえて抱きあげた。
「矢野改吉! お前はえゝ子ぢや。そんなことを訊くと先生は困るがな。」
「……?」
「海は誰のもんでもないんぢやがな。」
「誰のもんでも?」
「ん、誰のもんでもないのはこの海だけぢやがな。」
「……!」
 赤木先生はもう一度私を大きく左右に揺すぶつて、それから地上にどつと降した。そして私をその大きな掌でぐるぐる撫でまはした。撫でられながら仰向いて見ると、先生の顔はほんのり上気して、その黒い瞳が海よりももつと美しく輝いてゐた。

たぶん時代状況的にも先生としては最も答えにくかったはずの主人公の少年の質問にもきちんと答えているのには驚きました。そのときに先生のとった行動にも。ここでの会話を『尋三の春』でかなり削ったのは、ほぼ同じ会話を『おじいさんの綴方』で使ったためか、あるいは「海が誰のものか」という問いに対して「誰のもんでもなない」と先生が答えるのが現実的に難しい情勢になっていると判断したためなのかはわかりませんが、個人的にはきちんと答えた「赤木先生」の方がよく思えてきました。
それはともかく、木山さんのこの時期に書かれた小説で何度も繰り返される海を前にしてのこの会話は、おそらく姫路か出石で木山さん自身が先生をしていたときに子供たちと実際に交した会話そのものだったんじゃないかという気がますますしてきました。

さて、『おじいさんの綴方』で茂吉とおじいさんが海を前にして会話した場所には行けませんでしたが、その反対側の瀬戸の渡し近くのサンロックという喫茶店から見えた笠岡湾の船が行き来する風景は本当に素晴らしいものでした。
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by hinaseno | 2014-11-19 11:54 | 木山捷平 | Comments(0)

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映画であれ小説であれ、登場人物が移動するものが好きです。風景が変化するからでしょうね。木山さんの小説や詩の中でも特に好きなのは、主人公が移動するもの。木山さんの作品の主人公はほとんどが歩いての移動なので、よけいに好感を抱いてしまいます。

『おじいさんの綴方』の茂助とおじいさんが住んでいる場所はもちろん木山さんの故郷の新山(字は山口)であることはいうまでもありませんが、新山という地名は小説には出てきません。でも、そこから神島への「三里余りの道程」を徒歩で歩く途中の地名が小説にいくつも登場します。
順番に並べてみると「新賀」、「関戸」、「園井」、「新庄」、「横島」、そして「瀬戸の渡し」。そこで渡し舟に乗って「神島」に着きます。
いったん笠岡に出てから(現在の道でいえば県道48号から県道34号が通っている道)「瀬戸の渡し」に行ったんだろうとずっと思っていましたが、地図で改めて確認したら、どうやら県道34号ではなく県道288号の方を通ったようです。地図で見る限り峠越えの道もあって、小学校に入る前の子供にとっては相当に大変そうです。

さて、神島に渡る舟が出ていた瀬戸の渡しのあった場所、現在はその上を神島大橋ができていて車で渡れるようになっていますが、船が行き来できる場所は今でも残っていました。
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向こう側が神島。こちら側の地名が横島、そして舟が渡った場所の地名が瀬戸。
ちなみにこれはネット上にあった昭和20年代の瀬戸の渡しの写真。
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手前が神島のようです。どうやら動力船が走るようになった頃の写真のようです。でも、手前には手漕ぎの舟が見えます。

茂助とおじいさんは瀬戸の渡しで渡し舟に乗って神島に向かいます。料金は二銭。で、向こう岸に渡ると一軒の茶屋に立ち寄ってお茶をもらい、持ってきた弁当を食べます。
そこに昔から住んでいる人の話を聞いたら、そのあたりには昔は旅館が三軒くらいあったそうです。

食事を終えた茂助とおじいさんは遍路の服を着ていよいよ最初の札所に。
というわけで、瀬戸の渡しから一番近いところにあった札所に行ってみたら、そこは一番ではなく、七十七番でした。
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その七十七番の札所の売店に『神島八十八カ所ガイドブック』という冊子がありました。これは非常にありがたい本。それを見るとそこから一番の札所は1kmあまり離れた山の上。ただ、ガイドブックでは便路として、まずその七十七番の札所からスタートして、77、76、73、74、75、79、78、80、81、82、84、85、83、86、87、88と廻って、その次に1番の札所に行くようになっています。
『おじいさんの綴方』ではこんな記述があります。
指標番の札所から第二番の札所へ――程よい間隔をおいて道の所々に立っている石の第一をたよりに巡り始めました。

おそらく茂助たちは一番からスタートしていたんでしょうね。地図を見ると札所の間隔は近いところでは100mもなさそうです。一番離れているところでも1kmほど。ただ、今回、もちろん全部の札所を巡るわけにはいかないので、僕が行ったのは七十七番の札所だけ。
これが札を入れる場所。横には古い石の道標もありました。昔はこれを頼りに巡ったんでしょうね。
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山の中にある一番の札所から巡ったはずの茂助たちは、まもなく海辺に出ます。
何時の間にか僕達は波の打ち寄せている海辺に出ていました。

ここがおそらく5番の札所のある地蔵寺あたり。ここから神島の東の海岸に沿って札所が続きます。今は車の走れる広い道ができていて、前回はそこを車で走ってもらってとっても快適でしたが、昔は相当険しい崖の続く道だったようです。
海辺はけわしい崖になっていましたが、崖の薄暗い洞穴の中にも札所があるので、それにもちゃんと参り、その下手にあるかないかの道を崖に沿って、波の飛沫にぬれながら跳び石伝いに大廻りすると、やっと向側の人家の並んだ浜辺に出ました。

おそらくここが正砂、中村、鴨野という場所だろうと思います。車でまわったときにも人家がたくさん立ち並んでいました。茂助とおじいさんはここで宿をとります。ガイドブックを見るとこのあたりには現在も旅館や民宿が何軒かあります。一日で島を一周するのは無理なので、お遍路さんはここで一泊していたんでしょうね。

『おじいさんの綴方』は、実際に木山さんが神島に行ったときからは二十年以上も経って書かれているのですが、地理的なことも含めてその日のことが正確に記憶されていることがよくわかります。
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by hinaseno | 2014-11-18 15:08 | 木山捷平 | Comments(0)

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昨日、改めて笠岡に行ってきました。前回、ひとつ大事な目的を果たすことができなかったので、近いうちに行くことにしていました。でも、残念ながら今回も目的を果たすことができませんでした。僕が笠岡へ何度も来るようにどこかでだれかが計らっているのかもしれません。
ただ、前回時間がなかったり、車で通り過ぎるだけで足を止めることができなかった場所にも行くことができました。ただ天気はやや曇りがち。

まずは何といってもこの場所。
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この日のブログで書いた、木山さんが満州から戻って来て井伏鱒二に再会した場所。実際に井伏さんがどこで糸を垂らしていたかわかりませんが、おそらくこのあたりで井伏さんの姿を確認したはず。
そして、木山さんが「井伏さん」と声をかけたのがこれくらいの距離の場所だったでしょうか。いい場所です。
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さて、この写真の背景の右側に見えるのが神島です。『おじいさんの綴方』の茂助とおじいさんが八十八カ所の札所をまわった島。井伏さんは神島を目の前にして釣りをしていたわけです。

木山さんが実際に神島に行って、八十八カ所の札所をまわったかどうかについては僕の知る限りどこにも書かれていません。でも、物語に描かれた神島の自然や札所、あるいは町のようすを読む限り、そこに実際に行って歩いた経験がなければきっと書けないはずのもの。やはり祖父吉三郎と実際に行ったのは間違いのないことだと思います。

ところで、昨日、ちょっと時間ができたので、笠岡出身の画家である小野竹喬の絵を展示している竹喬美術館に立ち寄ってみました。館の入り口に行ってみたら、ちょうど生誕を祝う「竹喬祭」というものが行なわれていて入館が無料ということ。ラッキーでした。ただ、小野竹喬のことは全く知らなかったのですが。
で、入ってみたらいい絵が多くて、いっぺんに竹喬を気に入ってしまいました。海を描いたもの、あるいは背景に海が描かれているものも多く、題名を見たらなんと神島を描いているものもありました。絵葉書も売っていたのでいくつか買ってきました。
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一番左は「神島早春」という題名の絵。大正2年に書かれています。そして真ん中は「麦の芽〈神島の夏〉」。で、その右は題名に神島という言葉はありませんが真ん中と同じシリーズの「麦の芽〈坂道〉」という題名。坂道を歩いているのはお遍路さんのような気がします。「麦の芽」は明治末期に描かれているとのこと。まさに木山さんがおじいさんと行った頃です。
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by hinaseno | 2014-11-17 12:01 | 木山捷平 | Comments(0)