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by hinaseno
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「That Sunday That Summer」


ジョー・シャーマンとノエル・シャーマンのどっちが兄でどっちが弟なんだろうと書きましたが、ようやくその手がかりを発見。
ジョー・シャーマンもノエル・シャーマンもウィキペディア(もちろん英語版)ではほんの数行。それでもノエル・シャーマンは生まれた年と、亡くなった年月日が記載されています。生まれたのは1930年、そして亡くなったのは1972年6月4日。なんと42歳の若さで亡くなっているんですね。
一方、ジョー・シャーマンの方には生まれた日についても亡くなった日についても何の記載もありません。

何かないのかと調べていたら、こんな記事を発見しました。ある殺人事件に関すること。記事が書かれたのはちょうど1年前。
自分の父親を殺害した男が、実は自分の殺したのは実の父親ではなくて、自分の本当の父親はジョー・シャーマンという名のソングライターだと証言して、ジョー・シャーマンにDNA鑑定を行なってほしいと訴えたということが書かれています。そしてジョー・シャーマンのコメントもいくつか。ジョー・シャーマンは少なくとも1年前の段階では、まだ生きていたんですね。
で、この記事の中にジョー・シャーマンは87歳との記載が。ということは1926年生まれ。ノエル・シャーマンが1930年生まれなので、ジョー・シャーマンの方が4歳年上だったということになります。

思わぬ形でジョー・シャーマンが兄だったと知ることができたのですが、とにかくジョー・シャーマンに関してはわからないことだらけ。誰か調べていてもよさそうなのに、ひとつも見当たらない。
というわけで、かなり四苦八苦しながらいろいろと発見しているのですが、それがどれも驚くようなことばかり。
中でもこの曲を作曲していたのにはびっくりでした。ナット・キング・コールの曲の中でも一番好きな「That Sunday That Summer」。詞も曲も最高に素晴らしい。



曲はGeorge David Weissとの共作。シングルがリリースされたのは1963年。もともとは「Mr. Wishing Well」という曲のB面に収録。でも、「That Sunday That Summer」の方が大ヒットしたんですね。

実はこの曲を初めて聴いたのは達郎さんの「サンデー・ソングブック」。かかったのはナット・キング・コールの歌ったものではなく、彼のの娘のナタリー・コールが歌ったバージョン。調べたら1991年7月14日。夏の曲特集の最後にかかったのがナタリー・コールの「That Sunday That Summer」でした。



「サンソン」でジャズがかかるのもめずらしかったけれど、曲があまりに素晴らしくて、すぐにこの曲の収められた彼女のアルバムを買いに行きました。それ以来、何度繰り返して聴いたやら。
ナット・キング・コールのオリジナルが聴けたのは何年も後だったように思います。というわけなので、ずっと聴き続けていたナタリー・コールのバージョンの方が愛着があります。

もしも私が今まで生きてきた人生で、ただ1日だけを選ばなくてはならないとしたら
それはあの夏の、あの日

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by hinaseno | 2014-10-31 12:29 | 音楽 | Comments(0)

話はちょっと大瀧さんのアメリカン・ポップス伝のことに。
アメリカン・ポップス伝では印象に残る言葉がいくつもありました。その中のひとつ。アメリカン・ポップス伝パート3の第2夜での話。この日のテーマは1958年から60年初頭にかけてのボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの3人の物語。この日の最後に語られたのがこの言葉。
どこまでもボビー・ダーリンをフォローするコニー・フランシスさんではありました。

そしてフォローという言葉に掛ける形で、この日の最後の曲「Follow The Boys」がかかります。
で、曲の後にこんな言葉が続きます。
その後の3人ですけれども、ボビー・ダーリンはこの後、映画に進出するというお決まりのコースですね。コニー・フランシスはアルドン出版社のライターのヒットが続きます。セダカは持っていた音楽センスを活かしてポップスの名曲を次々と発表することになるんですが、続きは日を改めて、60年代、アルドン・ミュージクの時代でお話しすることになります。

残念ながら「60年代、アルドン・ミュージクの時代」の物語は永遠に語られないままになってしまったのですが。
でも、少しだけ、1960年のボビー・ダーリンとコニー・フランシスのことを。
アメリカン・ポップス伝パート3の第2夜でのボビー・ダーリンの話は1959年にリリースされた『That’s All』というアルバムの話で終わっていました。その後は大瀧さんが語られたように映画に進出。1961年の映画『九月になれば』で共演したサンドラ・ディー(このブログで何度も登場していますね)と恋に落ちてその年に結婚ということになります。
一方、コニー・フランシスはというと、60年になるとおそらくボビー・ダーリンをフォローするのはあきらめて、アルドン出版社のライターの曲を次々に取り上げてヒットを連発します。
その60年に入っての最初の大ヒット曲がこの「Everybody's Somebody's Fool」。見事全米チャートの1位。R&Bチャートでも2位。カントリー・チャートでも24位。



もともとこの曲は「Jealous Of You」という曲のB面に収録されたのですが、DJがB面ばかりをかけるようになって、結果的に大ヒット。
この曲を書いたのがジャック・ケラー、歌詞はノエル・シャーマンではなくてハワード・グリーンフィールド。「Venus In Blue Jeans」のコンビですね。
で、この曲のオーケストラ指揮をしているのがジョー・シャーマン。アレンジもしたんでしょうか。

そしてこの曲の大ヒットを受けて作られた次の曲が「My Heart Has A Mind Of Its Own」。この曲も全米チャート1位。



この曲をかいたのもジャック・ケラーとハワード・グリーンフィールド。今度は堂々のA面。で、この曲のアレンジ、オーケストラ指揮をしているのがジョー・シャーマン。
ジョー・シャーマンがアレンジを手がけているのはこの2曲だけ。ノエル・シャーマンがジョー・シャーマンと離れて共作をするようになったジャック・ケラーの作った曲をジョー・シャーマンがアレンジをしているなんて、なんともおもしろいですね。

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by hinaseno | 2014-10-30 12:00 | 音楽 | Comments(0)

バリー・マンとノエル・シャーマンが作った曲には先日紹介したBilly Stormの「Sure As You're Born」をはじめとして素晴らしい曲がいくつもありました。でも、目立ったヒットはなく2人の共作は終わります。時代は彼らが作った、ちょっと大人向けの曲ではなく、ティーンエイジャー向けの曲が主流となってきてたんですね。
その1959年に発表されたティーンエージャーの時代の到来を告げたのがこの曲でしたね。ディオン&ベルモンツの「A Teenager In Love」。



バリー・マンは60年代に入ってからは、若者向けの詞が書ける若い世代の作詞家と組むようになります。アルドン・ミュージックの偉い人がそうしたんでしょうね。で、まもなく私生活でもパートナーとなるシンシア・ワイルと出会うことになります。

一方、ノエル・シャーマンはというと、曲を書くパートナーもいなければ、詞のオファーもなくなったようです。ティーンエイジャーを対象にした単純な歌詞が要求された時代に、彼の書いたような大人の詞は目を向けられなくなってしまったんですね。

でも、運命というのは不思議なもの。おそらく、そんな大人の詞が書ける彼にオファーをしたミュージシャンがいました。
時代は1962年の暮れ。まさにアイドル・ポップス全盛の時代。でも、いち早くアイドルシンガーから脱して大人向けのシンガーへの歩みを始めた人がノエル・シャーマンに声をかけるんですね。それがまさにティーンエイジャーの時代の幕開けを告げるような曲を歌ったディオン。彼はソングライターとしての歩みを始めたところでした。
ディオンは、ディオン&ベルモンツの時代から長らく在籍していたローリーから1962年の暮れにコロンビアに移籍します。
その第一弾がこの「Ruby Baby」。ドリフターズのカバーですね。曲を書いたのはリーバー・ストーラー。全米2位の大ヒットとなります。



この「Ruby Baby」のB面にディオンは自作の曲を収録します。曲のタイトルは「He'll Only Hurt You」。ロイ・オービソンの「Crying」みたいな曲。この共作者の中にノエル・シャーマンが入っているんですね。



で、次のシングルが「This Little Girl」。



この曲を書いたのが、この時期、まさにティーン向けの曲を量産して、アルドン・ミュージックのエースになっていたキャロル・キングとジェリー・ゴフィン。彼らが「Ruby Baby」タイプの曲を作ったんですね。
で、このシングルのB面に収められたのがまたしてもノエル・シャーマンと共作したディオン自身が作った曲。タイトルは「The Loneliest Man in the World」。「He'll Only Hurt You」と同様、かなり内省的な大人の歌です。



ディオンとノエル・シャーマンが共作した曲はもう2曲ほど。そのうちのひとつがこの「Flim Flam」という曲。曲は「Drip Drop」にそっくりですが、でもいい曲です。



というわけでノエル・シャーマンのことを調べていて、ソングライターとしての歩みを始めたばかりのディオンに行き当たるなんて思いもよりませんでした。でも、それこそがアメリカン・ポップスの面白いところです。
次回はそのノエル・シャーマンと最初にコンビを組んでいたジョー・シャーマンのことを。ところでジョー・シャーマンとノエル・シャーマンって、どっちがお兄さんでどっちが弟なんだろう。

ディオンとノエル・シャーマンが共作した「He'll Only Hurt You」と「The Loneliest Man in the World」は日本盤でCDが出たこの『RUBY BABY』というアルバムに収録されています。このアルバムには彼らが共作した「Unloved, Unwanted Me」という軽快な曲も収録。ちなみにこのアルバムにはキャロル・キングとジェリー・ゴフィンが書いたあの「Go Away Little Girl」も収録。僕はスティーヴ・ローレンスよりもディオンの方が好きです。とにかく素晴らしいアルバム。でも、このアルバムになんで「This Little Girl」が収録されなかったんだろう。
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by hinaseno | 2014-10-29 11:55 | 音楽 | Comments(0)

1959年にバリー・マンとノエル・シャーマンが共作した曲の中でいくつか興味深い曲を紹介しておきます。
まずは「I Whisper Your Name」という曲。まずはバリー・マン自身が歌ったもの。デモのはずですが、アレンジも含めて曲として完成されています。



で、この曲はJohnny McKayというシンガーによってレコーディングされます。ただし、やはりB面。ちなみにアレンジャーはテディ・ランダッツォ。



次は「School Of Broken Hearts」という曲。まずはバリー・マンの歌ったものから。



そしてThe Shell-Tonesというホワイト・ドゥーワップのグループによってレコーディングされたものを。ただ、これはシングルとして発売されたのかどうかは不明。



「I Whisper Your Name」も「School Of Broken Hearts」も、バリー・マンが歌ったものの方がはるかにいいですね。アレンジもおそらくバリー・マン自身のはず。
興味深いのはこの2曲、イントロを聴けばよくわかるようにC-Em-F-Gというコード進行。CからAmに行かずにEmに行っているところがいかにもバリー・マンらしいですね。この日のブログでそのことにも触れていますが、やはりバリー・マンは曲作りをはじめた最初の頃からこのコード進行が好きだったようです。
でも、このコード進行は下手をすれば「歌謡」を超えて「ど演歌」のような曲にもなりかねません。そういう資質は持っていたみたいです。
たとえば、1959年にバリー・マンがジョー・シャーマンのレーベルから出したこのスタンダードのカバーなんかを聴くと、かなり「ど演歌」。バリー・マンはこんな曲も作っていますね。



ちなみにこのB面に収められていたのがジャック・ケラーとノエル・シャーマンが共作したこの「A Love To Last A Lifetime」。こっちの方が断然素晴らしい。



というわけで下手をすれば「ど演歌」に行ってしまいがちなバリー・マンにジャズの洗練された要素を教えたのがノエル・シャーマンであったんでしょうね。あるいは彼らのすぐそばにいたはずのジャック・ケラーのポップな曲の影響も見逃せないような気もします。

さて、バリー・マンの歌った「I Whisper Your Name」や「School Of Broken Hearts」のイントロを聴いていると、なんとなくこの曲のメロディが流れてきます。



ジミー・クラントンが1962年に歌った「Venus In Blue Jeans」。この曲のコード進行もやはりC-Em-F-G。

ちなみにこの曲を書いたのはジャック・ケラー、詞はハワード・グリーンフィールド。
で、この曲のデモを歌っていたのがバリー・マン。アレンジはジミー・クラントンが歌ったものとほぼ同じですね。1961年に録音されています。



デモといっても完成されていますね。バリー・マンとジャック・ケラー、それぞれにいろんな影響を与え合っていたようです。ひとつの名曲が生まれる背景にはいろんな要素が絡み合っています。
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by hinaseno | 2014-10-28 11:46 | 雑記 | Comments(0)

バリー・マンとノエル・シャーマンの共作は1959年の3月に始まります。で、最後に共作したのがこの年の11月。つまり二人がいっしょに曲を作ったのは1959年のたった9か月。この間18曲のデモをレコーディング。バリー・マンが1959年に作った曲は30曲足らず。3分の2くらいはノエル・シャーマンとの共作なんですね。
ところが、バリー・マンに関して書かれたもの、例えばCDのブックレット、あるいはブリル・ビルディング系の作家たちのデビュー時のことをかなり詳しく書いているケン・エマーソン著『魔法の音楽』などを見ても、この1959年のバリー・マンとノエル・シャーマンのことに触れたものは全くありませんでした。きっと彼らが共作して他のアーティストによってレコーディングされたもの(10曲ほどレコーディングされています)が全くヒットしなかったからなんでしょうね。

ここでちょっとバリー・マンの歴史を。
バリー・マンの作った曲が最初にレコーディングされたのは1958年9月に発売された「Stranded」という曲。歌ったのはBobby Pedrick Jr.というシンガー。Sid Jacobsonとの共作ですね。「Stranded」は「White Bucks And Saddle Shoes」という曲のB面に収録されました。
で、最初にヒットしたバリー・マンの書いた曲は、このブログでも何度か紹介したダイアモンズの「She Say (Oom Dooby Doom)」。Mike Anthonyとの共作。曲が発売されたのは1959年1月。
このヒットで作家でやっていける自信をもったバリー・マンは(歌手になりたいという希望はずっと持ちつづけていたようですが)アルドン・ミュージックと契約。このアルドンとの契約を勧めたのがジャック・ケラー。2人はその少し前に出会っていて、3歳年上のジャック・ケラーはバリー・マンの才能をいち早く認めて、彼に音楽業界に入るようにいろんなアドバイスをしたようです。
というわけでアルドンと契約したバリー・マンが最初に共作を始めたのが、まさに当時ジャック・ケラーと最も多く共作していたノエル・シャーマン。おそらくジャック・ケラーがバリー・マンをノエル・シャーマンに紹介したんでしょうね。この1959年にバリー・マンがノエル・シャーマン以外に共作している作詞家、例えばJoe ShapiroやHank Hunterはいずれもジャック・ケラーの共作者。ジャック・ケラーが作った曲のデモもバリー・マンがいくつも歌っています。まさにジャック・ケラーがいなければ、ですね。
ただノエル・シャーマンもジャック・ケラーに紹介されたからといって、10歳も年下の20歳そこそこの若者とじゃあ一緒に仕事を、というわけにはならなかったではず。やはりバリー・マンの優れた才能を認めたからこそでしょうね。ジャック・ケラーがそうであったように。
で、ジャック・ケラーがノエル・シャーマンからプロの音楽家として必要なものをいろいろと学んだように、バリー・マンも多くのものを学んだはず。

2人が最初に共作した曲はおそらく「Times Has A Way」という曲。で、この曲はジェリー・ケラー(ジャック・ケラーと紛らわしくて困ります。2人ともJ. Kellerとしばしば記載されているので)によってレコーディングされて、ジェリー・ケラー自身が作った「Here Comes Summer」という曲のB面に収録されます。これがとてもいい曲。1958年のキャロル・キングの曲は、いかにも習作という感じですが、1958年にノエル・シャーマンと共作したバリー・マンの曲は完成されたものばかり。



ちなみにA面の「Here Comes Summer」は後にBruce & Terryによってカバーされます。見事なサーフィン・ソングに生まれ変わって。
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by hinaseno | 2014-10-27 11:47 | 音楽 | Comments(0)

ペリー・コモの「Beats There A Heart So True」という曲をはじめて耳にしたのは、まだ木山捷平のことも知らない4年前の秋。
2010年9月12日に放送された達郎さんの「サンデーソングブック」。この日がジャック・ケラーの特集の第1回目。たぶん、日本どころではなく世界で初めてこの曲が公共の電波にのったんじゃないでしょうか。

でも、なんと大瀧さんは、今から40年近く前の1976年7月14日放送の「ゴー!ゴー!ナイアガラ」のジャック・ケラー、トニー・パワーズ特集でこの曲を紹介しています。ただ時間の関係で曲はかけられなかったのですが。そのときの大瀧さんの言葉。
58年にはペリー・コモに1曲書いているんですね。「Beats There A Heart So True」という曲で。共作がノエル・シャーマンなんですよ。あのジョー・シャーマン、ノエル・シャーマンのシャーマン兄弟のですね。...と共作したんですよ。すごいもんですね。
 
というわけで共作者のノエル・シャーマンの名前もちゃんと紹介されています。「すごいもんですね」という言葉とともに。
ジャック・ケラーが6歳年上の、ジャズ畑で活動していたはずのノエル・シャーマンと共作したいきさつについては、達郎さんの「サンデーソングブック」で、こう語られていました。
(キャシー・リンという作詞家と共作したコーデッツの「Just Between You and Me」という曲の)ヒットをきっかけでプロのソングライターとして生きていこうと決めますが、このプロのソングライターとしての心得を教えてくれた最大の恩人がノエル・シャーマンという人で、この人はジョー・シャーマンとノエル・シャーマンと兄弟でたくさんヒットをもっておりました。一番有名なのはナット・キング・コールの「Ramblin' Rose」。我々の世代ですとビーチ・ボーイズで有名な「Graduation Day」なんてのがありますが。
このジョー・シャーマンとノエル・シャーマンは、この時代、仲が悪くてですね、作詞を担当してたノエル・シャーマンは、他の作曲家をいろいろ物色しているところに、このジャック・ケラーという若者が出てきまして、このジャック・ケラーを自分の弟のようにこの人はかわいがって、毎日オフィスにジャック・ケラーが通いまして作曲のノウハウを学びました。1年半で20曲以上のレコード化されましたが、その中から今日は私がジャック・ケラーの初期の最高傑作だと思います、ほんとにいい曲です。Perry Comoの1958年、シングル「Moon Talk」のカップリングとして発売されました「Beats There A Heart So True」という、まだロックンロール以前の香りが残っておりますが、ほんとに素晴らしい作品です。

シャーマン兄弟は共作した曲が僕の調べた限りでも20曲足らずしか見当たらなかったのは、二人の関係が悪くなって共作をやめていたんですね。
二人が関係を壊すことなく続けていれば、ガーシュイン兄弟のように名曲を次々に生み出していたかもしれない…
と思いつつ、彼らが関係を悪くしたがゆえに、次世代の才能のある作曲家を結果的に育てたことになっているわけですから、運命というものは不思議なものです。

というわけで、ノエル・シャーマンに目をかけられたジャック・ケラーと1957年くらいから1960年にかけて共作を行ないます。で、ノエル・シャーマンは単なる作詞家としての関わりだけでなく、大人が聴いても聴くに値するような曲の作り方をジャック・ケラーに教えたんでしょうね。それを考えると、ノエル・シャーマンがいなければ「Venus In Blue Jeans」(作詞はハワード・グリーンフィールド)という名曲は生まれていなかったのかもしれません。ということは「風立ちぬ」も。

一応ジャック・ケラーとノエル・シャーマンが共作した曲を並べておきます。基本的にはB面の曲が多いようです。
It's So Easy To Say / Johnny Nash
Keep in Touch / Georgia Gibbs
Beats There A Heart So True / Perry Como
Three O' Clock Thrill / Kalin Twins
Walkin' to School / Kalin Twins
Love Is A Two Way Street / The Chordettes
Seven Minutes In Heaven / The Poni-Tails
Before We Say Goodnight / The Poni-Tails
Fantastico / Peggy Lee
Next / Jonny O'Neill
Now You Know How It Feels / Wink Martindale
Yum, Yum, Yum / Cinderella
Who Do You Think You Are / The Four Lads
I Can't Sit Down / Marie & Rex
One Little Acre / George Hamilton IV
Have A Nice Weekend / The McGuire Sisters
The World in My Arms / Nat "King" Cole
Little Girl Lost / Bobby Roy And The Chord-A-Roys
Girls Were Made For Boys / Bobby Roy And The Chord-A-Roys
A Love To Last A Lifetime / Barry Mann

おそらく「A Love To Last A Lifetime」をレコーディングしたときにノエル・シャーマンはジャック・ケラーよりもさらに年下のバリー・マンを知り、彼が作ったいくつかの曲を目に留めて、バリー・マンとの共作を開始します。で、ジャック・ケラーと同様に、いろんな作曲のノウハウを教えたに違いありません。バリー・マンとノエル・シャーマンが共作した曲についてはまた次回に。

さて、上に並べたジャック・ケラーとノエル・シャーマンが共作した曲の中で特に気に入ったのがThe Four Ladsの「Who Do You Think You Are」という曲。



1959年に発売された「Happy Anniversary」のB面の曲。アレンジがなんとジョー・シャーマン。仲違いをしてたはずなのにどういうこと? ですね。
どういうこと? といえば、昨日紹介したバリー・マンの「A Love To Last A Lifetime」もレコードの下の方には「Orch. under the dir. of JOE SHERMAN」の文字が。どうやらアレンジだけでなくオーケストラの指揮もジョー・シャーマンがしたようです。
さらに言えばこのシングルを発売したJDSというのはジョー・シャーマンが作ったレーベル。実はこのJDSからはびっくりするようなグループがデビューしていたこともわかって。それはまた後日。
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by hinaseno | 2014-10-26 12:36 | Comments(0)

12月に大瀧さんがらみのCDがどどっと発売されます。その中で気になっているのは『大瀧詠一のジュークボックス』と題されたCD。大瀧さんの家にあったジューク・ボックスに収められていた曲をもとにして編集されたもの。
収録された曲のほとんどは「ゴー!ゴー!ナイアガラ」でかかっていますが(一度「My Juke Box」という特集もありました)、中にはそうでない曲も。
特に気をとめたのはナット・キング・コールの2曲。「ランブリン・ローズ(Ramblin' Rose)」と「月光値千金(Get Out And Get Under The Moon)」。いずれも有名な曲でもちろん知っている曲でした。

で、「ランブリン・ローズ」のことを曲を聴きながらあれこれと調べていたら、いろいろと興味深いことがわかってきました。



曲が発売されたのは1962年。日本盤のシングルも発売されています。やはり大瀧さんがアメリカン・ポップスを聴きはじめた中学2年の曲ですね。
「ランブリン・ローズ」の曲を書いたのはジョー・シャーマン(Joe Sherman)とノエル・シャーマン(Noel Sherman)のシャーマン兄弟。
この兄弟の作った曲は他に何があるんだろうと調べたら、おっと思う曲が。
フォー・フレッシュメンの「Graduation Day」。死ぬほど好きな曲です。



この曲を知ったのはもちろんビーチ・ボーイズのカバー。曲の前に”I’ll be back in ten minutes”という言葉が入るスタジオ・バージョン。



フォー・フレッシュメンのCDが「Capital Collectors Series」から初めて出たときに、まず最初に聞いたのが「Graduation Day」でした。

でも、このシャーマン兄弟、いい曲を書いているのに、あまり多くの曲を作ってないんだなと(その理由は後で知ることに)一旦はパソコンを閉じて...。
で、その後しばらくして、つい先日アゲインで行なわれた「出張ブランディン」というイベントで宮治さんがかけられたこの曲を聴いて、あまりの曲の素晴らしさにびっくり。
曲のタイトルは「Sure As You're Born」。歌っているのはBilly Storm。



曲を書いたのはバリー・マンとノエル・シャーマン。
というわけで、この日2度目のノエル・シャーマンでした。僕の場合はたいていこういうのがきっかけでものごとが始まります。
この曲、調べたらバリー・マンのデモを多く収めた『Barry Man: Inside The Brill Building』にバリー・マン自身が歌っているバージョンがありました。このCD、あまり聴いていなかったので印象に残っていませんでした。



バリー・マンの歌っているのはデモのようですが、Billy Stormよりもバリー・マンの歌っている方がいいですね。
CDのクレジットを見たら””Rec. By Kenny Rankin”と書かれていてまたまたびっくり。あのケニー・ランキンがこの曲を歌っているのかと思って調べたらYouTubeにありました。若き日のケニー・ランキンですね。



さて、『Barry Man: Inside The Brill Building』というCDの中にはバリー・マンとノエル・シャーマンが共作した曲がいくつも。どれも素晴らしい曲ばかり。
で、その中にはノエル・シャーマン作詞でジャック・ケラーが作曲してバリー・マンが歌った「A Love To Last A Lifetime」という曲も。これもとてもいい曲です。



で、考えたら、数年前にノエル・シャーマン作詞してジャック・ケラーが作曲した曲を集めたことを思い出しました。
きっかけはこの曲。
ペリー・コモの歌った「Beats There A Heart So True」。この曲をYouTubeにアップしている方経由で関心をもちました。



というわけでノエル・シャーマンが作詞した曲探しをする日々が続いています。続きは明日にでも。
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by hinaseno | 2014-10-25 11:44 | 音楽 | Comments(0)

昨日書き忘れましたが、『馬鹿まるだし』の中で「岡山」という言葉が一瞬出てきます。安さんがあるとき「岡山」の町で、闇で仕入れた品物を売って金儲けをするんですね。ここでは岡山市内を指しているはず。というわけで、ロケ地は千葉県でしたが、映画の舞台は岡山市からそんなには遠くない瀬戸内の小さな町に設定されているようです。ただ、片上、あるいは片谷という地名は出てきませんでした。

ところで先日、藤原審爾のことや彼と片上とのつながりのことを教えてくれた龍野市(たつの市)にお住まいのYさんの家を久しぶりに訪ねました。座敷でYさんが用意してくれた美味しいお寿司をいただきながらいろんな話を。話は尽きません。
そんな話の中で映画の『秋津温泉』のことに触れたときに、Yさんからちょっとびっくりするような話を聞きました。
「前田陽一があの映画の助監督をしてたんですよ。『秋津温泉』の予告編を作ったのも前田陽一ですよ」と。
調べてみたら確かにそう。松竹大船に入社して間もない前田陽一は吉田喜重のもとで『秋津温泉』の助監督をしていました。3年ほど前に横浜で開催された「ヨコハマ前田友の会」では前田陽一が監督した作品ではなく『秋津温泉』が上映されたようです。

前田陽一のことはYさんからよく聞いていました。Yさんと同じ龍野市出身の映画監督。前田陽一は龍野にいたころに同じ龍野に在住の人たちと『酩酊船』という同人誌を作っていました。同人には芥川賞候補にもなった竹内和夫という作家もいます。竹内和夫が候補になったときに芥川賞をとったのが丸山健二。竹内和夫はどうやら次点だったようです。候補の中には野呂邦暢もいます。

Yさんの家に初めていったときに、Yさんからぜひ読んでと言われてお借りしたのが『酩酊船』に寄稿した文章も載っている前田陽一の『含羞のエンドマーク』という本。この本はYさんにお返しした後、古書店で見つけて手に入れました。
で、実はYさんもこの『酩酊船』の同人の一人だったんですね。というわけで、前田陽一の書いた文章の中にYさんの名前も出てきます。同人のひとりであった八木裕彦さんが亡くなられたときに書かれた文章。
 昨年、最初に見舞ったのは二月であった。『酩酊船』十一集の合評会が龍野の〇〇(Yさんの実名)の新邸で行なわれ、東京方面に帰る私と前之園明良、上田榮子が名古屋で途中下車することにした。これにとんぼ帰りをする竹内和夫が同行した。

この日のことは竹内和夫の『酩酊船流星記』にも書かれていて、ここで読むことができます。Yさんの実名が出ていますが。このサイトを運営しているのはやはりYさんの知人。

というわけで、僕はもしかしたら前田陽一が食事をした場所でお寿司をいただいたわけです。
そのYさんの家で、現在、山高登装丁展が開かれています。牛窓で奇跡的な出会いをして、その後手に入れてYさんにプレゼントした村上菊一郎の『随筆集 ランボーの故郷』も飾られています。機会があればぜひ。龍野(「たつの」と書くのは抵抗があるな)は本当にいい町。そういえば龍野を舞台にした寅さんの『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』も見なければ。龍野は「赤とんぼ」の三木露風が生まれた町です。

ところで、前田陽一は松竹大船に入社していますが、残念ながら小津の下では仕事をしていないようです。でも、きっと何度も小津の姿を見ていたでしょうね。
前田陽一は『秋津温泉』で吉田喜重の助監督をした他、小津の映画の助監督をしていた渋谷実の『好人好日』の助監督もしています。
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by hinaseno | 2014-10-23 12:20 | 雑記 | Comments(0)

久しぶりに『馬鹿まるだし』を観賞。いい映画でした。山田洋次さんが語っていたようにかなり原作に忠実に作られています。

舞台はお寺。語り手の少年が住んでいるそのお寺にがやってきたのがハナ肇演じる安さん。彼が小さな町で起こるさまざまな事件にまきこまれていくことになります。
このお寺、映画では何宗かはわかりませんが(最後に住職となった少年が「南無阿弥陀仏」と唱えているので浄土宗系であることはわかります)、原作では浄土真宗(一向宗)。寺の名前は浄念寺。
藤原審爾が片上で暮らしていた家もやはり浄土真宗だったようで、『遺す言葉』によると「家の中に仏間があり、そこに仏壇があり、隣の床の間には黒塗りの五尺ほどの厨子がおかれ、その中には阿弥陀仏がまつられてあった」とのこと。お寺ではないけれど、お寺のような雰囲気の家だったようです。つまり映画の語り手の少年は、まさに子供の頃の藤原審爾だったわけです。ただし映画の時代設定は戦後になっていますが。

映画では最後に語り手の少年が大人になって、お寺の住職になっています。これは原作にはないもの。
この住職を演じているのが、クレジットはされていない植木等。彼が少年時代を回想しているという設定ですね。というわけでナレーションも、やはりクレジットされていない植木等。予告編ではこうなっています。
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東宝と専属契約している植木さんが、本来であれば出演できないはずの松竹の映画『馬鹿まるだし』に出ることになったいきさつについては、山田太一さんによれば、映画初主演のハナ肇を応援したくて、なんとか力になりたいということで植木さん自身が希望されたとのこと。最初はナレーションだけをやってもらうことにしていたけれども、最後に本人が出たいということで、その語り手の少年が大人になってお寺を継いだということにして植木さんを出演させたと。「この人、お坊さんの息子だからね」と。

ああ、そういえば植木さんのお父さんはお寺の住職だったなと思って調べたら、ちょっとびっくりなことがわかりました。植木さんの父親はなんと浄土真宗のお寺の住職。しかもそのお寺の名前が常念寺。藤原審爾の原作の寺は浄念寺。もちろん浄土真宗。なんだか奇跡的ですね。
さらにいえば、『馬鹿まるだし』の少年は安さんのことで町に住みづらい状況になったりするのですが、植木さん自身も父親が社会運動に参加して投獄されたために、住んでいた村から出ていかなくてはならなくなったという経験をもっているようです。
植木さんが藤原審爾の原作を読んだかどうかはわかりませんが、主人公の少年のことやおそらく何らかの形で映画の舞台になっている寺の名前が浄念寺ということを知って、どこか運命的なものを感じて出ずにはいられなくなったような気もします。
というわけで、原作にはない映画のエンディングは、大人になったときの、ありえたかもしれない植木さんの姿でもあるし、ありえたかもしれない藤原審爾の姿だったといってもいいのかもしれません。

ところで、植木さんの父親のことを調べていたら、「スーダラ節」についての興味深いエピソードが書かれていました。作詞青島幸男、作曲萩原哲晶。

この曲、作曲は萩原哲晶ですが、例の「スイスイ〜」あたりのフレーズは植木さんが考えてもいるんですね。でも、いざレコーディングをするということになったとき、植木さんはこんな歌をうたってもいいものかと相当悩んだようです。こんなふざけた歌を歌いたくないなと。こんな歌を歌ってしまうと自分の人生が変わってしまうと。
で、植木さんは父親に相談したそうです。植木さんの父親は正義感が強く、その厳しさ、まじめさを植木さん自身も十分にわかっていたはずなのに、よく相談したなと思います。それくらいに植木さんも”まじめに”悩んでいたんでしょうね。
植木さんの悩みを聞いた父親は、いったいどんな歌だと植木さんに訊きます。で、植木さんは父親の前で「スーダラ節」を歌う。すると...。
植木さんの父親は予想に反して「すばらしい!」と涙を流さんばかりに感動したとのこと。で、植木さんにこう言います。
「この歌詞は我が浄土真宗の宗祖、親鸞上人の教えそのものだ。親鸞さまは90歳まで生きられて、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない、そういうことを最後までみんなやっちゃった。人類が生きている限り、このわかっちゃいるけどやめられないという生活はなくならない。これこそ親鸞聖人の教えなのだ。そういうものを人類の真理というんだ。上出来だ。がんばってこい!」

この言葉はウィキペディアに書かれていたものなので、出典は確認できていません。でも、植木さんはこの言葉で「スーダラ節」を歌う決心がついたそうです。
何とも興味深い話。確かにあの歌詞、浄土真宗的です。

さて、そのクレージーキャッツに大瀧さんはこんな曲を作ります。

さらには、「ちびまる子ちゃん」の挿入歌のこんな曲も。

ところで、間もなくこんなDVDも出るそうです。『クレージーキャッツ デラックス』、なんと監督 大瀧詠一。以前出ていたものの再発なんですね。こんなのが出ていたなんてちっとも知りませんでした。
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by hinaseno | 2014-10-22 11:10 | 雑記 | Comments(0)

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上は、現在発売されている山田洋次監督の『馬鹿まるだし』のDVDのパッケージの表の写真。公開時のポスターと同じものが使われている気がします。
「監督 山田洋次」の下には同じ大きさで「原作 藤原審爾」、そしてその下には小さく「庭にひともと白木蓮より―小説中央公論―」と記載されています。
劇場公開日は1964年1月15日。成人の日ですね。この時期はまさにクレージー・キャッツの人気が大爆発していた時期。ただ、ハナ肇が映画で主演するのはこれが初めてだったんでしょうか。この作品から「馬鹿シリーズ」そして「為五郎シリーズ」が次々に作られることに。
ハナ肇がはじめて主演するということで、クレージー・キャッツのメンバーも参加したわけですね。興味深いのは植木等が契約の関係でクレジットを全くされないことで出演していること。ナレーションも植木等。
DVDのパッケージの裏にもクレジットはなし。でも、お坊さん姿の植木さんの写真がきっちりと掲載されています。
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『馬鹿まるだし』で一番気になっていたのは、この映画のロケがどこでなされたかということ。ネットでは確認できなかったので。で、 DVDの特典の「山田洋次監督自作を語る」を見たらわかりました。どうやら千葉の海沿いの町のようです(おそらくいくつかの町)。
山田洋次によれば、藤原審爾の作品の舞台がどこかはわかっていて、できれば瀬戸内海の見える場所でロケしたかったようですが、それにはかなり予算が必要で、まだ新人監督であった山田洋次さんが会社に無理をお願いするのはとてもできなかったそうです。それから人気絶頂でテレビに映画に引っ張りだこのクレージーを東京から遠く離れた場所に何日も滞在させて映画を撮影するというのは時間的にも無理だったんでしょうね。

さて、山田洋次は、寅さんシリーズを作っているときに、藤原審爾のもう一つ別の作品を映画化したいと考えていました。やはり藤原審爾が子供時代を過ごした片上を舞台にした小説。
小説のタイトルは『へそまがり』。これは後に『われらが国のへそまがり』という題名に変えられています。藤原審爾が亡くなってまもなく徳間文庫から出されたものはこちらのタイトル。考えたら藤原審爾は大瀧さんの『EACH TIME』が出た年に亡くなっていたんですね。没後30周年だったのに、何もなかったようです。ちょっと悲しいですね。

この文庫本の解説を解説を書いていたのが山田洋次。藤原審爾と山田洋次は『馬鹿まるだし』をきっかけにして交流が生まれたようで、藤原審爾は10歳年下の山田洋次をかわいがっていたようです。これがとてもいい話で全文引用したいのですが、大変なので今日はその最初の部分だけを。
 1984年12月21日、長い病気との戦いの果てに藤原さんはこの世を去った。

 正月に封切られる『男はつらいよ』第24作の追い込み撮影中だった私は、不精髭を剃る暇もなく仕事着のまま通夜に駆けつけた。
 ひとまわりもふたまわりも小さくなった藤原さんの白い顔を見ながら私が最初に思ったことは、とうとう『われらが国のへそまがり』の映画化がまにあわなかったということだった。
 手を合わせ私はそのことを藤原さんに詫びた。

「洋ちゃん、今夜へそまがりというのを書くからね、君、映画にしろよ」
 棺桶が安置されたその同じ部屋で、眼鏡の奥から優しい目で私を見ながら藤原さんがそう云ってくれたのは九年前のことだ。

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by hinaseno | 2014-10-19 14:45 | 雑記 | Comments(0)