Nearest Faraway Place nearestfar.exblog.jp

好きなリンク先を入れてください

<   2014年 09月 ( 23 )   > この月の画像一覧



ちょっと話がそれますが、昨日、厚田雄春/蓮實重彦『小津安二郎物語』をぱらぱらとめくっていたら厚田さんの興味深い話を見つけました。ロケ・ハンに関する話。
「ロケ・ハンはだいたい夏ですよ。たとえば『東京物語』は6月11日からロケ・ハンに入っています。はじめはずっと東京を見てまわって、月末に尾道に行きました。志賀直哉先生の『暗夜行路』の書かれた家のあたりを見てまわりましたが、何かもう感じが違っているなといっておられたのを覚えています」

やはり小津は志賀直哉の『暗夜行路』の影響から、映画の舞台を尾道に設定しただけでなく、志賀直哉が『暗夜行路』を書いていた坂の上の家、つまりは小説の中の謙吉の家のあたりをロケ・ハンまでしていたようです。

さて、昨日紹介した川本三郎さんの『青いお皿の特別料理』に収められた「事務所開き」には、なんと小津の映画の話が出てきます。新井くんという二十代の若者が小津の映画のファンだという設定。主人公である岡崎さんに「ぼく、小津安二郎が好きなんです」という場面があったりして...。まるで僕のために書いてくれたような話。

その同じ事務所で働くようになった岡崎さんと新井くんが、おそらくは事務所のあるビルの近くの「旭川に面した小体な居酒屋」でビールを飲む場面があります。これがまたいいんですね。この居酒屋もまた探してみようと思います。おそらくは京橋近くはず。
その居酒屋での会話。
「肴、なににしますか」と新井くんが聞いてくる。
「そうだな、なにかさっぱりしたものがいいな。きみに借りた小津のビデオにあったろ、なんという映画だったかな。中村伸郎が、年を取るとだんだんあっさりした食べ物が好きになる、山菜とかひじきとか、っていうだろ。あの心境だな」と彼はいう。

中村伸郎は小津の映画にたくさん出ているので、どの映画だろうと思っていたのですが、少し前に『秋日和』を観ていたらこの場面が出てきました。『秋日和』は以前、アドバルーンが映っているものとして紹介した映画。

この映画、何といっても最高なのは小津の映画初登場の岡田茉莉子。3人のいじわるおやじをやっつけるコミカルな役柄はたまりません。岡田さん本人に言わせれば「2.5枚目」。
岡田茉莉子が小津の作品に出ているのはこの『秋日和』と小津の遺作となった『秋刀魚の味』の2作だけ。ここ数ヶ月、岡田茉莉子のことをずっと考えていたので、川本さんの岡山を舞台にした小説の中に小津の映画の話が出てきて、さらに『秋日和』の話が出てくるというのはうれしいやらびっくりやらでした。
岡田茉莉子さんのことについてはまた改めて。

そういえば『秋日和』では、ビルの上から見たこんな風景が映りました。
a0285828_843246.jpg

前にこれと同じような写真を貼って、ここはどこだろうなんて書きましたが、この場所は東京中央郵便局の駐車場だそうです。というわけなので東京駅のすぐ近く。
2種類の電車(向こう側は湘南電車、手前は私鉄の電車でしょうか)が停まっているのは以前気がつきましたが、今回、観ていたらその手前に路面電車(都電ですね)が入ってきて見事に3種類の電車が並ぶんですね。いかにも鉄道好きの厚田さんらしい風景。
”ビルから見下ろした場所に路面電車が走っている風景”つながりですね。川本さんはどこまで意識されたんでしょうか。でも、きっとこれも偶然。

ところで、岡山の古い写真集を見ていたら京橋を走る路面電車をとらえたこんな写真が載っていました。
a0285828_8445832.jpg

昨日貼った地図のB地点からはもう少し橋に近い所にある建物の屋上から撮ったんでしょうね。
昭和の初め頃に撮られた写真とのこと。木山さんが昭和11年にここに来たときも、昼間であればこんなふうに電車が走っていたわけです。
[PR]
by hinaseno | 2014-09-30 08:45 | 雑記 | Comments(0)

 
三階の窓から下を見ると、路面電車が交差点を大きく曲がって、旭川のほうに走ってゆく。それと入れ違うように、岡山駅に向かう電車が旭川を渡ってこちらに近づいてくる。
 五階建ての共同ビルは交差点に近い。十代のころ、この「おかでん」と呼ばれる路面電車に乗って学校に通っていた彼には、電車の通る道の近くに事務所を借りることが出来たのはうれしいことだった。高校時代に戻ってもう一度、新しい人生を始めるような元気が出てくる。
 「岡崎設計事務所」と入り口に名前も入った。事務所といってもいまのところ、彼と広島の大学を出たまだ二十代の新井くんの二人しかいない。新井くんは彼のアシスタントのようなものだ。

これはある短編小説の書き出し。まさかこんな場所を舞台にした小説があるなんて思いもよりませんでした。しかも作者は川本三郎さん。
数ヶ月前に手に入れた川本さんの唯一の小説集『青いお皿の特別料理』(2003年 NHK出版)に収められた「事務所開き」という作品の冒頭のこの部分を読んだときにはほんとうにびっくりでした。川本さんが1999年頃にこのあたりを歩かれたり、あるいは路面電車に乗られていたことは知っていましたが、まさかここを舞台にした小説を書かれていたとは。

文学や映画の舞台になっている場所を探ったり訪ねたりするのはとても楽しいことですが、自分のよく知った場所が文学や映画の舞台になっているのを知るというのはたまらない悦びがあります。それが大好きな作家や映画監督ならなおさらのこと。
ちなみにこの交差点の少し北には、荷風があの岡山空襲があった日に滞在していた松月という旅館がありました。この旅館はもちろん焼失しましたが、その後建て直され、今もその建物は残っています。ただし、別の名前の割烹に変わっているのですが。
川本さんもこの松月を探されたようですが、結局見つからなかったようです。

さて、この小説の舞台となった事務所。もちろんそれは架空の事務所には違いありませんが、おそらくはこのビルのあたりだろうという場所をつきとめました。川本さんはこの交差点近くにある禁酒会館という大正時代に建てられて奇跡的に戦災を免れた建物のあたりから何枚か写真を撮られたようなので、その写真の中にこのビルが写っていたかもしれません。この写真の左の方に写っている茶色のビル。この写真をとったのは表町商店街の入り口近く。目の前には城下の停留所があります。
a0285828_9522763.jpg

このビルの3階にはなかなか雰囲気のいい喫茶店がありました。これがその喫茶店の窓から撮った写真。「路面電車が交差点を大きく曲がって、旭川のほうに走ってゆく」風景です。
a0285828_9524797.jpg

a0285828_95315.jpg

a0285828_9532029.jpg

a0285828_9533467.jpg

a0285828_9565241.jpg

a0285828_957833.jpg

a0285828_9572067.jpg

川本三郎さんがこのあたりを訪ねられたのはおそらく1999年の春。「百閒と荷風の面影を訪ねて『岡山電気軌道』」(『旅』1999年5月号)にこう書かれています。

 岡山がいいのは城と川があって、そして町のなかを路面電車が走っていること。岡山電気軌道という名前もいい。明治四十五年開業というから九十年近い歴史がある。町の人には”おかでん”と親しまれている。乗客数は多く、路線の延長も考えられているという。
 電車は岡山駅前から出る。旭川を渡って東山まで行く東山線と、南の清輝橋まで行く清輝橋線の二本がある。総延長四・七キロのミニ電車である。
 まず旭川を見たかったので東山線に乗る。百四十円の料金を払って乗り込むと、運転手は若い女性だった。ブルーの帽子が可愛らしい。女性の運転手は三人いるそうだ。パンタグラフがちょっと変わっている。屋根の上に四角の櫓があり、その上にパンタグラフが付いている。路面電車だが線路内に車は入ってこない。ごとごととゆっくり走る。岡山駅から二つ目の柳川で清輝橋線と別れる。城下、県庁通り、西大寺町とメインストリートを走る。ふだんは通学の学生で混むというが、春休みのせいかがらがら。
 西大寺の停留所を過ぎたところで大きく左に曲がる。旭川が見えてくる。川のパノラマが一気に開けてくる。川は勢いよく橋に向かっていく。この路線のいちばんいい瞬間である。

と、この部分を改めて読んでいるうちに、事務所は別の場所だということに気がつきました。ここまで書いてきて、写真も貼ってしまったのにひどい話。まあ、ご愛嬌ということで。
「路面電車が交差点を大きく曲がって、旭川のほうに走ってゆく」のはどうやら西大寺町の停留所付近。一応地図を貼っておくとB地点の所。僕が写真を撮ったのは城下の停留所近くのA地点。
a0285828_958574.png

でも写真を撮らせていただいた喫茶店はとてもいい店で、実はちょっと無理をお願いして写真を撮らせてもらいました。これはこれでとてもいい風景だと思います。本もぎっしりあって、小津を含めて映画関係の本のほか、内田樹先生や平川克美さんの本も置かれていました。
B地点へは改めてまた行ってみることに。3階から写真が撮れるようなビルがあるかどうか。

上の地図のB地点から見えるはずの路面電車の通る京橋の下には、かつて遊廓のあった中島があります。前に一度書きましたが木山さんも一度ここに来ています。
昭和11年4月4日の日記。

終列車井笠線にのり上京の途につく。あとに残す母があわれで、言いにくかったが。出発の一時間前に言い出しあたふたと汽車にのった。夜はまだ寒い。母が尾坂川の途中まで送ってくれた。早朝岡山駅で予定の特急にのれず、満員のため次の普通急行までのばした。十五年前新調の人力車にのり、岡山の深夜をさぐる。車夫のつれて行った家は中島の廓、ひっぱり上げられ、逃げられぬ体となる。酒をのみ三味をひく約束で金は渡したが、金を渡したら三味は明朝ひくという。やむなく一時間ばかり無為にすごし急行にのる。余はピューリタンなり。このへん駄目なる所以かも知れず。

この頃には確か路面電車は通っていたはず。でも、深夜だったので運行はしていなかったんでしょうね。この次に書かれている4月17日の日記にはこんな記述。
村上菊一郎、坂本義男氏来訪。

木山さん、村上菊一郎に4月4日の出来事を”正直に”話したんでしょうか。

川本三郎さんの「事務所開き」にはもう少し興味深い話が出てくるので、それはまた次回に。
[PR]
by hinaseno | 2014-09-29 09:59 | 雑記 | Comments(0)

そういえば村上菊一郎は夏葉社の新刊『親子の時間 庄野潤三小説撰集』の最後に収められた「山の上に憩いあり」に名前が一度だけ出てきます。牛窓での出会いがなければきっと読み流していたはず。それから編者である岡崎武志さんのあとがきにも村上菊一郎と関係の深い人物の名前が出てきます。これもその少し前に『随筆集 ランボーの故郷』を読んでいたから気づけたこと。
岡崎さんが書かれたあとがきにこんな一文が出てきます。
井伏、河上、庄野の各家庭を設計したのは同じ広瀬三郎という建築家だった。

『随筆集 ランボーの故郷』にはこの広瀬さんのことを書いた「井伏邸の敷居」というエッセイが収録されています。こんな書き出し。
河上徹太郎、吉田健一、庄野潤三、井伏鱒二、安岡章太郎と書くと、何だか野間文学賞受賞者の列挙のように思われるかもしれないが、これはわたしの友人の建築家広瀬三郎さんが邸宅を新築した文学者たちの名前にほかならない。

このあと広瀬三郎という建築家は作家の家を建てるときには必ずその作家の主要な本を数多く読んでから仕事を始めるということが書かれています。同じ『随筆集 ランボーの故郷』に収められた「夏の果て―木山捷平追悼」というエッセイにはこんな記述があります。
先年木山邸の二階を増築したのは、わたしが紹介した知合いの大工であり、庭に咲き乱れているシュウカイドウは、いつかわたしのところから移し植えたのが殖えたのだ。

もしかしたらこの「知合いの大工」というのも広瀬三郎と関係のある大工だったかもしれません。いずれにしても、村上菊一郎という人を知ったことで、これまで見えなかったいくつものつながりを見つけられるようになりました。

さて、村上菊一郎の『随筆集 ランボーの故郷』の中で特に面白かったのは「荷風訳レニエの詩一篇」というエッセイ。フランスの詩を訳した荷風の『珊瑚礁』の中で、特に僕のお気に入りなのがレニエの「仏蘭西の小都会」だったので、思わず、おっでした。
でも、この詩の舞台となっている町は詩の中には出てきません。村上菊一郎はそれを探られているんですね。僕も木山さんの詩でまったく同じようなことをしていたので、余計に共感を覚えてしました。村上菊一郎という人は資質的には自分と似通っているところがあるなと。
で、牛窓で出会った村上菊一郎のもう1冊の随筆集『マロニエの葉』にはさらにおもしろい話が載っていました。タイトルは「尋ね人顛末」。発表されたのは昭和23年。当時村上菊一郎はまだ三原にいて、木山さんたちと会っていた頃に書かれたもの。
この「尋ね人顛末」の「尋ね人」が志賀直哉の『暗夜行路』の尾道の話に登場する人なんですね。尾道といえば、小津が『東京物語』の舞台にした場所。そのきっかけが志賀直哉の『暗夜行路』でした。志賀直哉は小津が最も敬愛する作家で、若い頃から『暗夜行路』を何度も何度も読んでいたので、その作品の舞台となった尾道を映画の舞台のひとつにしたんですね。そして撮影のための尾道への行き来がなければ『早春』の舞台となった三石にも気づかなかったはず。
志賀直哉の『暗夜行路』の尾道の話がなければ『東京物語』も『早春』もなかったわけです。その『暗夜行路』の尾道の話に出てくる、主人公の謙吉が住んでいた家の隣の気だてのいいおばあさんが村上菊一郎と同じ三原につながりのある人だということが書かれていたので村上菊一郎は興味を持ちます。それはきっと実在の人物に違いないと。で、村上菊一郎はいろいろと調べて、最終的につきとめるんですね。
すでに絶版になってしまったままの本の中にひっそりと収められているだけではもったいないような話。

で、こういうのを調べ始めたのが、おそらくは郷里の三原に疎開して戻っていたときだったようです。井伏や木山さんたちと酒をのむ例の会が尾道で開かれたのはたぶん村上菊一郎の提案だったのではないかと思います。メンバーの中にたぶん尾道が郷里の人はいなかったはずなので。
おそらくはそのときにはまだ解明の途中だっただろうと思いますが、尾道の坂道を歩きながら、井伏鱒二に得意げに話をする村上菊一郎の姿が目に浮かびます。

この尾道での会のこと、木山捷平が「井伏鱒二」で少し描いています。これもまた僕の大好きな風景です。村上菊一郎の人柄が表れています。
 ある時、林芙美子の母校を眼下に見おろす会場で例の会をやった時、その岡の上にある会場に向って坂をのぼって行く茶色の外套の井伏氏の姿を後ろから見上げるようにして、
「あの井伏さんね。あれを見て尾道のひとは一体何ものじやと想像しているじやろうかね」
 と私と並んで歩いた村上菊一郎が私に云ったことがある。
 云うまでもないことだった。あれが天下の井伏とは尾道ひろしと雖も、誰も知るまいという意味が言外にあふれていた。

広島県人である村上菊一郎が「だ」の部分を「じゃ」と岡山弁と同じ言葉を話しているのがとても身近に感じられます。そういえば『東京物語』の尾道に住む老夫婦が話している「ありがとう」の「が」にアクセントをつけるのも岡山弁と同じ。広島も東の方は言葉もそして人の雰囲気も岡山に近い気がします(西の広島市の方は住んでいたときにかなりの”違い”を感じました)。

ところで村上菊一郎の『マロニエの葉』には井伏さんが描いた村上菊一郎の肖像画が掲載されています。井伏の周りにいた人たちはみんな機会があるごとに井伏さんに字を書いてもらったり絵を描いてもらったりしてるんですね。で、井伏はそういうのにわりに気軽に応えていたようです。
村上菊一郎の肖像画は井伏が酒の席でさらさらと10分足らずで描いたとのこと。肖像画の横には「村上菊一郎の正像也」との添え書きも。この「正像」というユーモアにあふれた言葉を村上菊一郎はとても気に入ったようです。
a0285828_105967.jpg

[PR]
by hinaseno | 2014-09-28 10:09 | 雑記 | Comments(0)

川本三郎さんがママカリを食べた小料理屋(実は僕もママカリの寿司をいただきました。これが最高に美味しかった)で井伏鱒二が牛窓に滞在していたことを知って、そのいきさつなどを調べていたら、驚くようなことに次々に出会うことになりました。

井伏が牛窓に滞在していた時のことは「備前牛窓」(昭和50年6月発行『新潮』)というエッセイに描かれていて、その冒頭に牛窓に行ったいきさつが書かれています。
数年前から冬になると風邪から気管支ぜんそくの発作を起こすようになったため、瀬戸内寄りの温かい場所に冬の間だけでも転地したいので、どこかいい場所はないかと探していたそうです。で、「岡山の親戚へ依頼の手紙を出し」、その結果、紹介してもらった場所が牛窓だったと。

でも、実は違っていたんです。井伏が相談したのは、井伏とずっと親しくしてきた郷里が瀬戸内にある文人。その人も牛窓が好きで郷里に戻ったついでに何度も滞在していたので、迷わず牛窓を紹介したようです。

さて、その文人。最初に名前を聞いたときには正直ピンと来ませんでした。どこかで聞いたことがあるなという程度。でも、この話を伺った人の書斎に通していただいたら、その人の本が2冊。2冊ともエッセイ集。本を開く前から”うれしい予感”は始まっていました。
最初に手にとった本のあまりにも素敵な装幀が気になっていたので、装幀者の名前を先に確認しました。
山高登。

山高登の装幀した本は知り合いのYさんとともに2年くらい前から探し続けていたのですが、まさかこんな場所で、こんな形で出会うなんてびっくりなんてものではありませんでした。
そして本の目次を見ると、そこには驚くような人たちや本の名がずらっと。
井伏鱒二、荷風、そして木山捷平の作品のタイトルでもある『去年今年』と『酔いざめ日記』の文字も。
筆者の名は村上菊一郎。最初に手にとった本のタイトルは『随筆集 ランボーの故郷』。以前ちらっとだけ紹介したこの、とってもチャーミングな本。
a0285828_8501359.jpg

村上菊一郎は、井伏鱒二を中心としたいわゆる阿佐ヶ谷会と呼ばれる文人たちのメンバーの一人。ただ、自身の著作はそれほどなく、フランス文学の翻訳を多くされています。阿佐ヶ谷会のメンバーということで、当然、木山捷平との交流もありました。『随筆集 ランボーの故郷』で木山さんの『酔いざめ日記』を取り上げているのは、その中に村上菊一郎の名が何度も登場するので、それに触れてるんですね。

さて、話は昨日の続きに。笠岡の港で木山さんと井伏鱒二が再会した後、古川洋三を加えた3人は昼過ぎから夜まで酒を飲みつづけます。で、この会がもう少し発展するんですね。

昨日引用した木山さんの「井伏鱒二」のエッセイにはこう記されています。
この会がきっかけになって、いや、それはそういう時機がきていたかも知れないが、その後東京の疎開者が集合して酒をのむようになった。メンバーは、上記三人のほか、小山裕士、村上菊一郎、大江憲二が加わり、在郷組からは藤原審爾、高田英之助、木下夕爾なども参加した。会場はその都度あちらこちらで、笠岡のこともあれば、倉敷のこともあり、尾道のこともあれば、三原のこともあり、というような具合であった。ただしこれらはみな山陽本線に沿った町であった。
 この会には名前がなかった。例の会と口で言ったり、葉書に書いたりすると、それであッと通じた。それほど、この会はたのしいものであった。御大であり長老である井伏鱒二氏のかもし出す雰囲気にわれわれは酔った。文壇のエース井伏鱒二氏を、われわれ疎開組だけで独占しているような快感が、この会には満ちあふれていた。

というわけで、木山捷平の『酔いざめ日記』にはこの呼び名のない会が何度か開かれていたことが記されています。その日、集まったメンバーも記載されていて、村上菊一郎の名前も何度も。ちなみに村上菊一郎の郷里は三原。

ところで、このメンバーの中には、これから先に書く予定の話の重要な人物の名前があるのですが、それはまた後日。

『随筆集 ランボーの故郷』には村上菊一郎が詠んだ短歌が最後に収められていて、その中に「備前牛窓」と題して4首の短歌が載っています。大変貴重なものだと思いますので、ここにその4首を載せておきます。村上菊一郎がいかに牛窓の町を愛していたかがよくわかります。
さくら咲く丘のかなたに本蓮寺の塔なつかしき備前牛窓

などかくも心に沁むか牛窓の朽ちなんとする青楼のあと

備前焼をひさぐ店あり店番のおきなおうなの顔のよろしさ

牛窓の古き町並辿りゆけば瀬戸の潮騒しづこころなく

大好きな本蓮寺の三重塔のことがうたわれているのがうれしかったですね。この本蓮寺の三重塔のことも、また後の話で出てくることになります。
[PR]
by hinaseno | 2014-09-27 08:49 | 雑記 | Comments(0)

今回の話はたぶん、いろんなところに飛びまくります。場所も時代も。どこから、何から書き始めればいいのやら。
中心的な人物もいるのかどうかはよくわかりません。自分の意識としてはいつも木山捷平と小津安二郎がいるのですが。でも、今回書く予定の話の中心にどかんと座っているのは井伏鱒二でしょうね。それからやはり川本三郎さん。

そうだ、ママカリの話から。
川本三郎さんが牛窓を訪ねたときに立ち寄った小料理屋で食べたのが瀬戸内名物のママカリでした。川本さんがママカリを食べた店で、井伏鱒二が一時期牛窓に滞在していたことを知り、さらに木山さんと関係の深いある人物のことを知り...。

いきなり話は終戦後のことに。場所は岡山では牛窓とは反対の西の端と広島の東の端。
木山捷平は昭和19年に満州に行き、敗戦が決まってからも1年ほど長春に留まることになり、ようやく日本に戻って来たのは昭和21年8月の末。このときの日々を描いたものが『大陸の細道』ですね。
元々体がそんなに丈夫なわけではない木山さんだったので相当にひどい健康状態で日本に戻ってきます。この写真が帰国直後の木山さん。極度の栄養失調になっていたようで、とても木山さんとは思えないほど痩せこけてしまっています。
a0285828_105029.jpg

木山さんが帰国して生活するようになったのは、戦前に住んでいた東京ではなく郷里の岡山。現在は笠岡市に入っていますが、笠岡の市内からはかなり北の方の新山村という所。当時、木山さんの奥さんも息子の萬里さんもそこに疎開していました。
郷里に戻って来てまもなく、木山さんは奥さんから師と仰ぐ井伏鱒二が彼の郷里の福山に戻って来ていることを聞きます。福山は広島県の東の端にある町。木山さんの住んでいる笠岡からはそんなに遠くありません。で、木山さんはすぐに会いたいとの手紙を出します。ただ、井伏が会うことにしたのはひと月以上も後の10月半ば。井伏は笠岡に住んでいた古川洋三に木山さんの健康状態を何度か観察させて、会っても大丈夫というのを確認してから会うということにしたんですね。なんと大人の心遣い。

二人が再会したのは昭和21年の10月14日。木山さんの日記を見ると、この日の朝にも病院に行って注射を打ってもらっています。まだ、体調が万全とはとてもいえない状態では在ったようです。

さて、いよいよ再会の時がやってきます。
この木山さんと井伏鱒二の再会の場面がいいんですね。僕は木山さんが書いたものの多くを風景として心に留めているのですが、これはとりわけ好きな風景。場所は古川洋三の疎開先である笠岡市。笠岡港のすぐ近くだったようです。
木山さんはこのときのようすをこう描いています。なんとも素敵な秋の海辺の風景。
 当日、私はがたがたの自転車を引っぱり出して、一里の道を笠岡までとばした。
 定刻の一時頃、古川洋三の疎開先に行くと、
「井伏さんは今朝早くから見えております。いま古川と浜に出て、釣りをしていらっしゃいます。もうおっつけお帰りになるでしょう」
 と古川夫人が柱時計を見ながら言った。
 大体の見当をきいて、私は浜に出た。海の入江をかかえるようにして、長さ三、四丁の花崗岩の突堤がある。その突堤の先端に、私は二人の姿を見つけた。
 突堤の花崗岩は秋の陽にてらされて、足の裏があついほどであった。でも海から吹いてくる風は涼しかった。犬だての花が石崖の間にこぢんまり咲いていた。人ひとり通らぬ突堤を、私はひとりで歩いた。
 先端から一丁位まで行った時、二人がちらりと私の方を見た。しかし二人は熱心に釣りをつづけた。
 二人と私の距離が三間くらいになった時、
「井伏さん」
 と私は咽喉がつまったような声をかけ、二間くらいになった時帽子をとって、
「留守中はいろいろどうも……家内がたいへんご厄介をおかけしまして……」
 と舌たらずではあったが、それを補うように丁寧なお辞儀をした。
 私の留守中、私の家内はたびたび井伏氏に手紙を出して、捷平がいまどこにいるだろうかと井伏氏に筋違いな難問を発して、井伏氏を困惑させていたらしいからであった。
「いやあ、よく帰った。実を言えば、君はもう満州で戦病死したというニュースが、ぼくの耳にもはいっていた位だよ」
 釣糸をたぐり寄せながら、井伏氏が私の気持をほぐすように言った。
 表現がまずくてうまく感じが出ないが、
「奥さんがよろこんだだろう」
 とつづけて井伏氏が言ったので、
「はい、それはもう、大へん……」
 と私は答えた。
(「井伏鱒二」『群像』昭和39年10月)

感激のあまりに言葉がうまく出てこなくなってしまっている木山さん。何度読んでもぐっとくりものがあります。
この再会の場面、井伏鱒二も書いているんですね。こちらの木山さんはもうすこししゃべっています。
 終戦直後のころ、私が備中笠岡港の突堤でママカリ釣をしてゐると、肩章のない兵隊服を着た木山君がひょつこりやつて来た。久しぶりの出会ひだが、いきなり木山君がかう云つた。
「僕はね、こなひだ満州から引揚げて、この近くの僕の生れた所在にころがりこんじゃつた」
「それで君は、その在所で何をしてゐるんだ」と聞くと、僕は地主で、家内が小作人だと云つた。これは木山君の郷里に疎開してゐる奥さんが、空閑地利用で菜園か何か作つてゐて、木山君はぶらぶらしてゐるといふ意味に解された。
 こんな風に木山君は、お互に久闊でびつくりしてゐる場合でも咏嘆的な言葉や感傷的な口吻を見せない人であつた。詩や随筆を綴る場合にもその傾向があつた。根底は感傷家でありながら、感傷はユーモアで消してゐる。ぎらぎらする大げさな言葉は、素朴な風化した言葉にしなくては気恥ずかしい。そういう人がらであつた。
(「面影」『感恩集』昭和45年9月)

木山さん、なんだかしどろもどろで何を言ってんだかって感じですね。
でも、これほど木山さんの人柄をくっきりと描いている文章を他に知りません。僕の思い描いている通りの木山さんの姿がここにあります。

それにしても木山さんも素敵ですが、井伏鱒二もさすがという感じです。命からがら満州から戻ってきて久しぶりに会う日がやってきたというのに、その約束の時間をほっておいて大好きな釣りをしているのですから。しかも釣っていた魚がママカリだったとは。

二人が再会した風景はこんな感じだったでしょうか。
a0285828_18154866.jpg

[PR]
by hinaseno | 2014-09-26 10:07 | 雑記 | Comments(0)

考えてみたらブログを始めて2年の歳月が流れていました。このブログを始めたのも秋でした。秋といえば、木山捷平のこの詩ですね。すべてはここから始まりました。
新しい下駄を買つたからと
ひよつこり友達が訪ねて来た。
私は丁度ひげを剃り終えたところであつた。
二人は郊外へ
秋をけりけり歩いて行つた。

この夏、僕も新しい(というか初めて)下駄を買ったので、さあ、秋をけりけりして、いろんなところを訪ね歩こうかと思っていたのですが、ちょっと寒くなってきて靴下を履くようになったら、下駄が履けないということに気がついてしまいました。靴下を脱いで下駄を履くのも面倒だし、指の分かれた靴下を買うのも抵抗があるし。

なんてことを思っていたときに、小津の『お早よう』を観ていたらちょっと面白い場面に出会いました。見れば見るほど、考えれば考えるほど笑える場面。
この映画は基本的にはコメディ・タッチで、いろんなところに笑いが散りばめられてはいるのですが、そのシーンが笑いを取ろうとしたところなのかどうなのかは正直微妙。実際にはちょっと深刻な場面でもあるので。

それは親と喧嘩した子供達(男の兄弟)が家から出て行ったまま、夜になっても戻って来ないというシーン。
実は前にも紹介しましたが『麦秋』でもそういうシーンがあります。
原節子が子供達を探して、謙吉の家にやって来るシーン。こんな会話。
原:うちの子供達おじゃましてません?
杉村:いいえ。
原:来ませんでした?
杉村:ええ、どうかなすった?
原:夕方出たっきり、まだ帰って来ないの。

そこへ謙吉が二階から下りてきます。
謙吉:どうしたんです。
原:ねえお前、いっしょに探してあげたら?
謙吉:そうですね、行きましょう。
原:すみません。
杉村:お前、その下駄、鼻緒ゆるいよ。
謙吉:大丈夫だ。
原:じゃあ。
杉村:もうこんなに暗いんだからね、八幡前から長谷の方の通り、ずーっと探してごらんよ。ひょっとしたら駅の近所か。待合室なんかよく見てごらん。裏駅の方もね。

謙吉は母親の杉村春子の言葉を聞く頃には、すぐに下駄を履いて外に飛び出しています。すぐに飛び出していたというのがポイントですね。
a0285828_8485257.jpg

これと全く同じ場面が『お早よう』に出てきます。もちろん小津はその前の作品で同じような場面があったことを知らないはずがありません。自分の過去の作品をパロディにしたのか、あるいはもう少しそこに深い意味を入れたのか。

『お早よう』では久我美子が子供達を探して佐田啓二のアパートにやって来ます。一応、佐田啓二も久我美子もお互いにほんの少し好意は抱いているという設定。『麦秋』での会話と比べてみると、なかなか興味深いものがあります。
久我:うちの子達、うかがってませんのね。
佐田:ええ、どうかしたんですか。
久我:あの、昼間も来なかったでしょうか?
佐田:いや、今日は来ませんよ。
佐田の姉:どうかしたの?
久我;お昼過ぎまでうちにいたんですけど、だまってどこかへ出て行っちゃって。
佐田の姉:そう、それはご心配ね。
久我:ええ...、でも、もう帰ってるかもしれません。じゃあ、どうも。
佐田の姉:じゃあ気をつけてね。
佐田:さようなら。

佐田啓二はすぐに飛び出すどころか、最後は「さようなら」なんて言って久我美子を見送っています。よく見たら佐田啓二は靴下も履いていて。これでは下駄を履いてすぐに外に飛び出すことはできません。
a0285828_8501711.jpg

この後、二人は卓袱台のある部屋に戻って、佐田啓二は佐田啓二は本を読みながら、佐田啓二の姉は煙草を吸いながらしばらく話。
で、時計が夜の8時を過ぎているのに気がついてこんな会話になります。
姉:ね、一度見てきてあげたらどう?
佐田:何?
姉:子供達よ。お昼過ぎ出たっきりってずいぶん長いもの。
佐田:うん、行ってみてやろうか。
姉:うん、行ってらっしゃいよ。
佐田:うん。

といってようやく佐田啓二は立ち上がるのですが、それでもかなりもたもたと。お姉さんも「寒いわよ、たくさん着ていかないと」とか言って、それを聞いた佐田啓二はコートをゆっくりと羽織ります。歩きながらでも羽織れるのに。しかも、夜誰に見られるわけでもないのに鏡をちらっと見ながら。もたもたぶりが徹底しています。
a0285828_851476.jpg

自分が勉強を教えている子供達が夜になっても家に帰って来ていないという状況なのに、このもたもたぶりはひどい。この段階での佐田啓二と久我美子の距離を表しているといえばそれまでですが、いくら寒い冬の夜とはいえちょっとやりすぎてます。見れば見るほど笑えてくるのですが。
ただ、佐田啓二は子供達をきちんと見つけて来て、家に届けるんですね。謙吉と比べるとスマートすぎます。

さて、秋だけでなく冬の寒い夜も下駄を履いて遠くまで歩いていた人といえば木山さん。一番最初のブログで、木山さんが姫路にいた昭和2年に書いたこの「船場川」という詩を紹介しました。船場川は姫路城の西の脇を通って姫路市内を南に流れている川。
 あへないで帰る

 月夜

 船場川はいつものやうに流れてゐたり

 僕は

 流れにそうてかへりたり。

この詩が書かれたのは昭和2年の冬。 寒い中、 訪ねて行けば必ず温かいお茶を出してくれたこの土地でたったひとりの友人(大西重利)に、この日は残念ながら会うことができませんでした。そして会えなくなったのはこの日だけでなく、ずっと。この詩は二人の別れがその少し前にあったことを示しています。

この詩を引用した日に貼っていたのがこの写真。もちろん流れている川は船場川。
a0285828_852541.jpg

ここは、姫路城の北西にある清水橋近くから撮った写真。
細かく言えば、大西重利に会うために歩いていた船場川の川沿いの道はこのあたりではありません。そういうことがいろいろとわかったのは昨年のこと。ただ木山捷平が「船場川」の詩を書いた1年後くらいには、このあたりを通って別の友人(坂本遼)に会いに行っていました。ここを木山さんが何度か通っていたことは確か。

ところで、先日、昭和29(1954)年発行の岩波写真文庫『姫路』という本を手に入れたので中を見てみたらこんな写真が載っていました。
a0285828_8542422.jpg

僕が2年前に撮った写真とほぼ同じ場所から撮られています。木山さんが姫路にいた頃からは20年あまりの月日が流れていますが、このあたりは空襲の被害を免れているので、おそらくは木山さんがいた頃とはそんなにも変わっていないのではないかと思います。近所の子供達が川で遊ぶ風景も。

さて、木山さんに関するいろんなことが見つかりそうになったときには、靴も履かずにすぐに飛び出したくなっていましたが、今はそういう状況でもありません。ただ不思議なもので、いくつかの場所で木山さんに(そして小津にも)つながる出会いが断続的にではありますが起こっています。縁というべきか運命というべきか。
というわけで、靴下を履いて、ちょっともたもたしつつ、でも心の鼻緒はゆるまないように注意しながらの「秋をけりけり」です。話はあっちに行ったりこっちに行ったりするだろうと思います。
[PR]
by hinaseno | 2014-09-25 08:56 | 木山捷平 | Comments(0)

テディ・ランダッツォが1950年代の末に契約していたレーベルはABCパラマウント。最初は自分で曲もかけるシンガーとしての契約だったんでしょうね。映画にも出ていたくらいのかなりの男前ですから。
ABCパラマウントのプロデューサーはドン・コスタ。ドン・コスタはテディ・ランダッツォの作曲家・プロデューサーとしての能力を高く評価して1960年代中頃にはテディ・ランダッツォをひっぱってDCPというレーベルを作ります。先日紹介したリトル・アンソニー&インペリアルズの一連の曲はこのDCPレーベルからリリースされています。

さて、ドン・コスタといえば『アメリカン・ポップス伝』で、かのピーター・デ・アンジェリスのサウンドを最初に取り入れた人として大瀧さんが紹介していました。というわけで、ドン・コスタのプロデュースの下でテディ・ランダッツォが曲をかき、テディ自身が歌った、ピーター・デ・アンジェリスの「ヴィーナス」サウンドを取り入れたとびっきり素敵な曲があります。「Pretty Blue Eyes」と同じくらいに大好きな曲。タイトルは「Cherie」。チェリーではなくシェリー。



この曲、興味深いのは作詞家、のちにバリー・マンとコンビを組んで、私生活でもパートナーとなるシンシア・ワイル。シンシア・ワイルがバリー・マンに出会うきっかけを作ったのがテディ・ランダッツォだったんですね。まさにこの「Cherie」を作っているときのこと。おそらく1960年。
「Cherie」を作るためにシンシア・ワイルとテディ・ランダッツォがオフィスにいたときにバリー・マンが作詞家のハワード・グリーンフィールドといっしょにオフィスに入ってきます。二人がテディ・ランダッツォのために作った曲をテディに聴いてもらうために。
そこでピアノを弾いたバリー・マンを見て一目惚れ。どうやら積極的に動いたのはシンシア・ワイルだったようです。
当時バリー・マンはラリー・コルバーという作詞家と共作することが多かったようですが、まだ仕事上のいいパートナーを見つけられていなかったとき。ハワード・グリーンフィールドはニール・セダカとのコンビでヒット曲を連発し始めた頃。バリー・マンにとってもいいタイミングだったようです。シンシア・ワイルの積極的な行動が功を奏して、まもなく2人はデートしながら曲を作るという関係になります。仕事上と私生活でのパートナーが一度にできあがったわけですね。で、1961年に結婚。黄金のコンビの誕生。この二人。今も結婚生活が続いています。
ところで、シンシア・ワイルがテディ・ランダッツォと「Cherie」を作っていたときに、テディ・ランダッツォのためにバリー・マンが持ってきたのがこの「The Way Of A Clown」という曲。詞を書いたのはハワード・グリーンフィールド。



「The Way Of A Clown」はそこそこヒットしたんですね。テディ・ランダッツォの歌う「The Way Of A Clown」は『ゴー!ゴー!ナイアガラ』でもかかっています。もちろんかかったのはバリー・マン特集のとき。1976年7月7日に放送された『ゴー!ゴー!ナイアガラ』の第4回目の放送のとき。テディ・ランダッツォの名が日本の電波に乗ったのはこれがはじめてだったかもしれません。
このとき大瀧さんは「The Way Of A Clown」をバリー・マンとテディ・ランダッツォとの共作と紹介しています。テディ・ランダッツォが優れたソングライターであることを知っているがゆえの勘違いでしょうか。
でも、この「The Way Of A Clown」はテディ・ランダッツォの作風にもちょっと似ているところがあります。ともにABCパラマウントに所属していたバリー・マンとテディ・ランダッツォ、いろんな形でお互いに影響を与え合っていたことは確か。

ちなみにこの「The Way Of A Clown」のB面が「Cherie」。僕は「Cherie」の方が遥かに好きなのですがB面になったんですね。シンシア・ワイルは「Cherie」の詞に関しては「ひどい出来」だと思っているみたいです。「Cherie(シェリー)」ってたぶん女性の名前でしょうね。
「Cherie(シェリー)」はシンシア・ワイルがバリー・マンに出会うきっかけとなった曲ですが、テディ・ランダッツォはのちにシェリーという名の女性と結婚してるんですね。ただしCherieではなくShelly。

テディ・ランダッツォはバリー・マンと同じくらいにたくさんの曲を作っているのですが、ヒット曲が少ないということもあって、バリー・マンやキャロル・キングの作品を集めたコンピレーションがどんどんと出ているのに、テディ・ランダッツォのは全くでないまま。iTunesなんかでは結構多くの曲を見つけることができるようになってきてはいるのですが。いつかちゃんとした形のコンピレーションが出てほしいですね。できれば1965年くらいまでの”小品”をまとめたものを。

いくつか好きな曲をあげておきます。
テディ・ランダッツォ「But You Broke My Heart
テディ・ランダッツォ「How I Need You」
テディ・ランダッツォ「You Don't Care Anymore」
スティーヴ・ローレンス「Why Why Why」
スティーヴ・ローレンス「The Week-end
イーディ・ゴーメ「Fool Around」
レズリー・ゴーア「Let Me Dream」
The Duprees「Aorund The Corner」
Brook Benton「It's Just a House Without You」
Lenny Welch「My Fool Of A Heart
[PR]
by hinaseno | 2014-09-24 10:32 | 音楽 | Comments(0)

大瀧さんがもし、例えば達郎さんとかに「テディ・ランダッツォでなにか1曲?」と聴かれたら、フォー・シーズンズみたいに迷うことなく、即座にこの曲をあげられるだろうと思います。もちろん僕も今は文句なしにこれです。



スティーヴ・ローレンスの歌った「Pretty Blue Eyes」。1959年の曲の大ヒット曲。 あのリズムに、あのコーラス。たまらないものがあります。
1959年の曲、というわけで、春頃に作った『Golden Pops in 1959』にも当然入れています。あのリズムのことを考えてボビー・ダーリンの「Dream Lover」、クレスツの「The Angels Listened In」の次に。で「Pretty Blue Eyes」の次はニール・セダカの「Oh Carol」。
2年前の8月に放送された『アメリカン・ポップス伝パート2』で、例のアル・カイオラの「ドンドコランタンランタンタンタン」を演奏している曲を続けて流した時には「Pretty Blue Eyes」はかからなかったのですが、「Pretty Blue Eyes」でギターを演奏しているのはやはりアル・カイオラ。
『ゴー!ゴー!ナイアガラ』の第62回の男性シンガー特集ではボビー・ダーリンの「Dream Lover」に続けて「Pretty Blue Eyes」をかけています。大瀧さんの中ではつながっているんですね。
「Pretty Blue Eyes」は『ゴー!ゴー!ナイアガラ』でもう1回かかっています。あまり多くはない2度かけた曲の1つ。かかったのは第26回の男性シンガー特集。このときはリック・ネルソンとカスケーズの「For Your Sweet Love」の次にかけられています。「For Your Sweet Love」もやはりあのリズム。「Pretty Blue Eyes」が大瀧さんの中でどういう風に位置づけられているかがよくわかります。
ちなみに第62回の男性シンガー特集で「Pretty Blue Eyes」がかかったときに、この曲を下敷きにしてダイアン・リネイの「Billy Blue Eyes」が作られていると指摘しています。「Billy Blue Eyes」のプロデュースは先日亡くなったボブ・クリュー。このあたりのつながりのなんと興味深いこと。で、僕は夏前に作った『Songs In BLUE』というコンピでこの2曲をつなげました。

ボビー・ダーリンの「Dream Lover」、カスケーズの「For Your Sweet Love」、ダイアン・リネイの「Billy Blue Eyes」、そしてスティーヴ・ローレンスの「Pretty Blue Eyes」。これを並べて聴いてみるだけでもいろいろと見えてくるものがあります。
ダイアン・リネイの「Billy Blue Eyes」はいろんな曲のタイトルを歌詞の中に入れた、いわゆる織り込みソング。シェリー・フェブレーの「ジョニー・エンジェル」なんかも出てきます。いつか織り込みソング特集なんかもやってみたいですね。






[PR]
by hinaseno | 2014-09-23 10:19 | 音楽 | Comments(0)

机の上にずらっと並べた8枚のCDと1枚のLPレコード。別に自慢ではありません。
a0285828_10583657.jpg

左下に写っているのがつい最近手に入れたもの。今月CDになって発売された『ティーンエイジ・トライアングル』。これでようやく(合計)9枚。あと、1枚。

実はこれらのアルバムは、数年前に手に入れた雑誌に載っていた大瀧さんの『ぼくの愛聴盤10』を並べたもの。これですね。
a0285828_1102732.jpg

もちろんこれは大瀧さんが書いている通り1977年春頃のある一日の段階における10枚の愛聴盤。ベスト10というわけではない。でも、音楽に関してはおそらくはちっとも飽きっぽくない大瀧さんのこと、何年経ってもそんなに変わるものではないはず。

以前このページのことについては少し触れましたが、改めてその10枚のアルバムを紹介しておきます。
まず1枚目に紹介されているのがThe Majorsの『Meet The Majors』。この本を手にとったとき、ただ一つだけ全く知らなかったもの。それが一番大きく載ってたのでなんなんだと。もちろん(今も)CDにはなっていなくて、LPを探して手に入れました。
大瀧さんはこんなコメントをしています。
「ドゥーワップは’50年代中頃に流行したが、このメイジャーズは’60年代のドゥーワップ・グループとも言えそうな感じで、ソングライター・アンド・プロデュースとしてのジェリー・ラガヴォイの活躍に御注目(彼はノーマン・ミードというペンネームを持っている)」

2枚目はRonny & The Daytonasの『Sandy』。
「ロニー&デイトナスの『サンディ』は最近ようやく手に入れたもの、以前から欲しかったのだが、なかなか見つからず、バーゲンで手に入れた時には大声をあげたい気分だった。ティーンエイジャーの淡い恋を唄ったバラードだけでアルバムを固めてあるのも珍しい」

そして3枚目がFrankie Valli & The 4 Seasonsの『Ain't That A Shame』。ヴィー・ジェイ時代の3枚目のアルバムですね。
「フォー・シーズンズの『Ain't That A Shame』もいいアルバムだ。彼らは何と言ってもVee-Jay時代のものがPhillips時代のよりよく聴こえてしまう」

で、次からフィル・スペクター関係の3枚のアルバムが並びます。ロネッツのアルバムが入っていないのが興味深いところです。
まずは『A Christmas Gift For You From Phil Spector』。
「フィル・スペクターの『クリスマス・ギフト』はぜひ一家に1枚お勧めしたいアルバムである。昨年の12月はこのアルバムを聴いた。何せ他のミキサーや作曲家連中が飽き飽きするほどレコーディングに時間をかけ、フィル・スペクターが全身全霊をこめて制作したアルバム。それだけに、実にスキなく音作りされており、スペクター・サウンドはこれ1枚あればわかる、と言い切ってもいいほどのヒット曲のアレンジが数々そのまま使用されている。また、いいプロデュースとは何かを考えさせられる1枚である」

次がThe Crystalsの『He’s A Rebel』。
「フィルズの看板アーティストはロネッツである。彼女達のアルバムも非常に良い出来である。が、割合と有名なので今回は(ロネッツと比較すると)少ししか知られていないクリスタルズの『He’s A Rebel』を取り出してみた。クリスタルズには小品が多く、そこが私の好きなところのひとつである」

で、Bob B. Soxx & the Blue Jeansの『Zip-A-Dee-Doo-Dah』。
「このアルバムではヒット曲以外では何といっても私の放送『ゴー・ゴー・ナイアガラ』のテーマ・ソング『Dr. Kaplan's Office』が注目される」

次はエルヴィス・プレスリーの2枚。『King Creole』と『Pot Luck』。正直、この2枚が選ばれていたのにはびっくり。どちらも持っていないCDでした。
「いよいよプレスリーの登場。現在になってプレスリーを好きになって良かったとつくづく思っている。なぜかというと、彼はアメリカン・ミュージックのありとあらゆることをやっていて、それが知らず知らずのうちに私の中に沁み込んでいたからである。だから私は、アメリカン・ミュージックに対しては割と幅広く理解しているつもりだが、それがプレスリーのおかげだと思っているのだ。『キング・クレオール』と『ポット・ラック』を選んだことから、私のプレスリー観を御想像願いたい」

で、1枚おいて、最後の10枚目のアルバム。これがつい先日CDが発売された『ティーンエイジ・トライアングル』ですね。
「最後はナイアガラ・トライアングルならぬティーン・エイジ・トライアングル(当然こっちが先)、コルピックスの五郎、秀樹、百恵の三人組のオムニバス・アルバム。ヒット曲だらけなのが最高(私はベスト・アルバムが大好きだ。ベストは他の代表と考えずに、もう一つの、新しい側面から見たアルバムと解釈して、曲がダブっても持つのは趣味人の常識である)」

実はこのアルバムに収録された曲は前から持っているCDにすべて収録されていたので、僕はパソコンの中で『TEENAGE TRIANGLE』というプレイリストを作って聴いていたのですが、やはりそれなりにちゃんとしたステレオでCDを聴くと全然響き方が違いますね。例えばポール・ピーターセンの「Lollipops And Roses」なんて初めて聴いたみたいに新鮮で、いい曲だなと思ってしまいました。シェリー・フェブレーの4曲は文句なし。「I'm Growing Up」という曲はますます好きになってしまいました。この曲には「恋の芽ばえ」という邦題がついていたんですね。

さて、飛ばした1枚。この1枚だけまだ手に入っていないんですね。写真を拡大して見ます。
a0285828_1134960.jpg

これがなんとテディ・ランダッツォのアルバム。『The Best of Teddy Randazzo』。意外といえばこれが一番意外でした。テディ・ランダッツォは大瀧さんの好みからは、やや遠い音楽だと思っていたので。
とりあえず、大瀧さんのコメントを。
「テディ・ランダッツォの25センチ盤は、あまり持っている人がいないという話を聞いたので、自慢のアルバムとして紹介した(これも中古屋で手に入れたものだが)」

「自慢」だったんですね。
このアルバム、ときどきネットでチェックしてるんですが、なかなかないんですね。たまに見つけてもものすごく高い(今、ebayでチェックしたら5万円を超えています。ひゅ〜)。もちろんCDにはなっていないし、これからもきっとなることはないだろうと思います。
おそらくこのアルバムに収録されている曲はMarginalというかなりあやしいレーベルから発売されているこのCDにすべて入っているはず。これ、どう考えてもあやしいCDなのですが、今でも普通にアマゾンで売られています。
a0285828_1153564.jpg

[PR]
by hinaseno | 2014-09-21 11:05 | 音楽 | Comments(0)

またまたドゥーワップを聴く日々。といっても音楽のジャンルとしては一番好きなので、年中聴いているわけですが。

ヴィー・ジェイ時代のフォー・シーズンズのアルバムに収められた曲にはドゥーワップのカバーが多いんですね。The Moonglowsの「Sincerely」、Frankie Lymon & The Teenagersの「Why Do Fools Fall In Love」、Lee Andrews & The Heartsの「Teardrops」と「Long Lonely Nights」、The Skylinersの「Since I Don't Have You」、The Tune Weaversの「Happy, Happy Birthday Baby」、The Mello-Kingsの「Tonite, Tonite」、Jesse Belvinの「Goodnight My Love」と「Girl in My Dream」、Maurice Williams & The Zodiacsの「Stay」、The Driftersの「Honey Love」、The Raysの「Silhouettes」、あるいはThe Driftersの「Honey Love」。
カバーが多いというのは大瀧さんが好きになる大きなポイント。
で、フォー・シーズンズのカバーと、そのオリジナルと聴き比べて楽しんでいます。でも、そういうことをするのはいつもパソコンばっかり。つないでいるスピーカーもたいしたものではありません。

そういえばドゥーワップを聴き始めたときにはパソコンも、もちろんiTunesもありませんでした。最初に衝撃を受けたのはライノ(Rhino)から出たこれらのCD。もううれしくてうれしくて出たものはすべて買っていました。
a0285828_11104541.jpg

何よりも音が抜群によかったんですね。ビル・イングロットの音。これをとりあえずはそれなりの大きさのJBLのスピーカーで聴いていたからこそ、あれだけの感動を得ることができたんだろうなと。

というわけで、この最初に買ったライノのCDを順番に聴いてみました。
まずは一番よく聴いた『The Doo-Wop Ballads』。収められている曲は16曲。収録時間は52分。その後、この手のCDは入れられるだけ入れてしまおうということで、たいてい20数曲、へたをすれば30曲くらいが収められるようになったのですが、このCDに収められているのは本当に厳選された16曲。もちろん映画『アメリカン・グラフィティ』で使われた曲がいくつも。ドゥーワップ関係で何か1枚といえば、迷うことなくこのCDをお勧めします。でも、今はきっと廃盤でしょうね。
で、次が『The Doo-Wop Uptempo』。どんなに素敵なバラードでも、バラードばっかり聴き続けているとあきてしまいます。そういうときにこっちのアップテンポの方を聴いていました。遊び心満載。聴いているうちに心うきうきわくわく。

そして今度はアーティストごとのCDを順番に。
Frankie Lymon & The Teenagers、The Cadillacs、The Hertbeats... 、このあたりは数年後に例の『The Doo Wop Box』が出てからはあまり聴かなくなったもの。
で、Little Anthony & The Imperialsの後半に収められたこの曲がかかったときに、思わず耳をとめてしまいました。



「I'm On The Outside (Looking In)」という曲。ここからの4曲がたまらなく好きで、何度も何度も聴いていた日々がありました。
次に続くのが「Goin' Out Of My Head」。1964年の大ヒット曲。



そして次が「Hurt So Bad」。



で、最後が「Take Me Back」。この曲がとにかく好きでした。



この4つの素晴らしい曲を書いたのがテディ・ランダッツォ(Teddy Randazzo)。彼の名前を知ったきっかけは、達郎さんが『ON THE STREET CORNER 2』でカバーしたこの曲。タイトルは「Make It Easy On Yourself」。この曲を書いたのがテディ・ランダッツォでした。



「Make It Easy On Yourself」というとバカラックの作った同名異曲がはるかに有名ですが、僕は「Make It Easy On Yourself」といえば、Little Anthony & The Imperialsの歌ったものの方が数段好きでした。
ライノの『The Best of Little Anthony & The Imperials』のCDが出たときに、(たぶん多くの日本のドゥーワップ・ファンと同じように)「Make It Easy On Yourself」が収録されていないのをすごく残念に思ったのですが、それでも初めて聴くことのできたテディ・ランダッツォの曲の素晴らしさには圧倒されました。

その後、 Little Anthony & The Imperialsをはじめとしてテディ・ランダッツォ関係のCDがいくつも出て(もちろん「Make It Easy On Yourself」が収められたものも)、彼の世界にどっぷりとはまってしまった日々がありました。
と、過去形で書いてしまったのは、ここ数年、まったく離れてしまっていたから。彼の特にVicki Pikeと共作するようになってからのあまりにソフィスティケイトされた曲ばかりを聴いているうちに(ソフトロック的に聴かれるようになった曲の多くはテディ・ランダッツォ本来のものではないですね)、いつの間にか食傷ぎみになってしまったようです。
今、改めて考えればBobby Weinsteinと共作していた1964、5年の曲が最高に素晴らしいですね。あるいはテディ・ランダッツォが単独で作った曲。
ライノのCDに収められていた曲のうち、最初の3曲はテディ・ランダッツォとBobby Weinsteinの共作。で、「Take Me Back」はテディ・ランダッツォが単独で作った曲。

本当を言えばこの「Take Me Back」みたいな小さくて内省的な曲が彼の本来的なものだったような気もするのですが、彼に求められていたのはもっと大きくて派手な曲だったようです。というわけで残念ながらこのタイプの曲はほとんど作られることはありませんでした。
でも、もう1曲だけこのタイプの素晴らしい曲があります。テディ・ランダッツォ自身が歌うこの「Big Wide World」という曲。



作られたのは1962年。一応ポップ・チャートで51位のヒット。でも、1970年代初頭のシンガーソングライターの時代にこの曲が生まれていれば、彼の音楽は違う形でもっと広く受け入れられたのではないかと思ってしまいます。

というわけで、久しぶりにテディ・ランダッツォの日々を送っています。今、テディ・ランダッツォの曲を聴いている人はどれだけいるんだろうかと思いながら。
[PR]
by hinaseno | 2014-09-20 11:19 | 音楽 | Comments(0)