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8時5分に岡山駅を発車した特急やくもが乗り換え駅である新見駅に到着したのは9時7分。ちょうど1時間。ちなみに各駅停車の列車に乗ると1時間50分くらいかかります。

荷風はというと。
正午新見といふ驛の停車塲に着す。こゝにて津山姫路行の列車に乘替をなす。

荷風の乗った列車が岡山駅を発車したのは9時42分なので新見まで2時間余りかかっています。

僕が新見に到着したときには津山行きの姫新線の列車はすでにホームに停車していました。でも、発車までには50分近くあったので、せっかくなので新見の町を少しだけ歩きました。といってもあまりにも暑く、駅近くにめぼしいものも見あたらなかったので、すぐに駅に戻って冷房の効いた列車(といってもたった一両)に乗り込みました。僕が乗ったときには乗客は一人もいませんでした。

荷風はというと、おそらくすぐに乗り換えの列車に乗り込んだとは思いますが、発車までには少なくとも30分くらいはあったんじゃないでしょうか。で、発車までの間、列車の中からまわりの風景を眺めていたようです。荷風の目がとらえた新見駅周辺の風景。
車窓より町のさまを窺ひ見るに渓流に沿ひ料理屋らしき二階家立ちならびたり。家屋皆古びて古驛䔥條の趣あり。鐵道従業員多くこの地に住居するが如し。

僕の乗った列車はようやく9時51分に新見駅を発車。乗客は5人ほど。荷風が乗った列車が発車したのはおそらく12時半くらいでしょうか。

新見を出て、列車はさらに奥深い山の中に入っていきます。かなり急な斜面を登っているようで、苦しそうな軋む音が聴こえてきます。どういうタイミングなのかはわかりませんが、何度か警笛を鳴らしながら。
荷風は新見駅から勝山に向かう列車の中で見た風景をこう描いています。
新見を發するや左右の青巒いよいよ迫り、隧道多く、渓流ますます急なり。されど眺望廣からざれば風光の殊に賞すべきものなし。一歩一歩囊中に追ひ込まれ行くが如き心地す。

まさにその通りの風景。両側から山が迫ってきて、違う世界に入っていく感じ。それを荷風は「一歩一歩囊中に追ひ込まれ行くが如き心地す」と表現しています。素晴らしいの一言。ただし『断腸亭日乗』では「青巒(せいらん)」が「青山」に、「囊中(のうちゅう)」が「袋の中」という言葉に。意味が分かるように変えたのだとは思いますが、読んだときの言葉の調子、あるいは言葉の響きが全然違います。

これは勝山に向かう途中で一瞬開けた風景を列車の中から撮ったもの。こんな深い山の中にも家が建っていて人が暮らしていることに驚いてしまいました。
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ところで、新見から勝山に向かう途中、どうしても見ておきたいものがありました。
岩山駅の木造駅舎。
姫新線には古く雰囲気のある、相当ディープな木造駅舎がいくつか残っているのですが、岩山駅はその中でも特に素晴らしいものの1つ。もちろん無人駅。
以前に紹介した『鉄道遺産を歩く 岡山の国有鉄道』(2008年 吉備人出版)という本でこの写真を見て、いつかぜひ見てみたいと思っていました。
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で、停車したときに開いた扉から撮ったのがこの写真。
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本当は下車して、駅の正面とか駅の内部(昔の便所がすごい)を見てみたかったのですが、調べてみたら次の列車が来るのはなんと4時間後。いくらなんでも、ここで4時間過ごすわけにはいきません。
ネットで調べてみたらYouTubeに、岩山駅の風景をとらえたものがいくつもありました。きっと全国に岩山駅のファンがかなりいるんでしょうね。というわけで一番新しいものを貼っておきます。



さて、話は昭和20年8月13日の荷風のことに。
岩山駅を通過するあたりだったかどうかはわかりませんが、荷風は車内である人たちの存在に気がつきます。
車中偶然西歐人夫婦幼兒を抱きて旅するものあるを見る。容貌獨逸人なるが如し。

どうやら、このドイツ人とおぼしき家族が向かっていたのも勝山だったようです。
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by hinaseno | 2014-07-31 08:47 | 雑記 | Comments(0)

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勝山に行くのならば、荷風が行ったのと同じルートで行きたい。あの昭和20年8月13日に荷風が見た風景と同じものを見てみたい。できるだけ同じ日の、同じ時間に。

あの日、荷風は岡山で列車に乗り、伯備線経由で高梁川沿いを北上し、新見で今の姫新線に乗りかえて勝山へと向かいました。

その日の『断腸亭日乗』。
と、ここで少しだけ面倒くさい話を。
以前も触れましたが岡山の日々を描いた部分に関しては『罹災日録』と『断腸亭日乗』でかなりの違いが見られます。『罹災日録』に比べて『断腸亭日乗』の方はいくつもの言葉の省略、表現の変更が見られます。平易な表現になって、文の美しさがなくなっているんですね。言葉の調子もよくない。僕が実際に見た風景で確認しても『罹災日録』のほうが詳しく、正確に、そしてなおかつ美しく表現されています。
興味深いのは『荷風全集 別巻』の附録のCDに収録されている「荷風自作朗読『断腸亭日乗』」で、荷風が「断腸亭日乗」という言葉から始めて読んでいる昭和20年8月12日と13日の日記は『罹災日録』に収録された方。岡山の日々に関しては荷風自身も『罹災日録』に書かれている方が”本当の”『断腸亭日乗』と考えていた証拠のような気がします。
まるで、どれが本当の『EACH TIME』か、みたいな話ですね。

というわけで、『罹災日録』に収められている8月13日の日記を。
八月十三日
谷崎氏を勝山に訪はむとて未明に起き、明星の光を仰ぎ見つゝ暗き道を岡山驛の停車場に至る。構内には既に切符を購はむとする旅人雑沓し、午前四時札賣塲の窓に灯の點ずるを待ちゐたり。構外には前夜より來りて露宿するもの亦尠からず。予この光景に驚き勝山往訪の事を中止せむかと思ひしが、また心を取直し行列に尾して佇立すること半時間あまり。思ひしよりは早く切符を買ひ得たり。一ト月おくれの盂蘭盆にて汽車乘客平日よりも雑沓する由なり。予は一まづ寓居に戻り、朝飯かしぎて食ひし後、再び停車塲に至り九時四十二分發伯備線の列車に乘る。

この日の朝、住んでいた三門の家から岡山駅まで一往復半しているんですね。歩いたら片道おそらく30分くらいはかかるはず。しかも切符を買うために30分くらい並んでいます。これだけでも相当に疲れそうです。

で、荷風が乗ったのが9時42分発の伯備線経由の列車。というわけで、当初は8月13日の、同じ時間くらいの電車に乗ろうと考えていましたが、やはりお盆と重なって人も多そうだったのでやめて、行ったのは7月26日。翌日の日曜日の27日とどちらにしようかと考えてのこと。行ったみてわかったことですがタルマーリーは7月27日から8月13日まで休み。危ないところでした。もちろん、あとでタルマーリーのサイトを見たら、ちゃんと書かれてはいたのですが。

結局、僕が乗ったのは8時5分発の特急やくも。乗り継ぎとか到着時間のことを考えたら、これしかないかなと。これで新見まで行って津山行きの姫新線に乗り換えます。

さて、列車の中での荷風の様子。まずは倉敷まで。
辛うじて腰かくることを得たり。向合ひに坐したる一老媼と岡山市罹災當夜の事を諮る。この媼も勝山に行くよし。辨當をひらき馬鈴薯、小麦粉、南瓜を煮てつきまぜたる物をくれたれば一片を取りて口にするに味案外に佳し。

で、倉敷から伯備線に入ります。ここからの風景描写が素晴らしい。
列車倉敷を過る頃より沿線の山脈左右より次第に迫り來り、短き隧道を出入する事敷回に及ぶ。沿道行けども行けども清渓の流るゝあり。人家は皆山に攀づ。籬辺時に百日紅の花爛漫たるを見る。

この時の荷風の心の状態を考えれば、風景などをゆっくりと眺める余裕などなさそうな気もするのですが、実際の風景を見て改めて永井荷風という文学者、というか観察者のすごさを思い知りました。風景を的確にとらえ、しかもそれを簡潔で美しい文章に仕上げています。山の斜面に家が建ち並んでいる風景は、まさに「人家は皆山に攀づ」というべきもの。その表現の見事さに感動しました。

ところで、伯備線を北上し始めて間もなく、自分のしたことのまちがいに気がつきました。僕は進行方向に向かって通路を挟んで右側の座席の窓際に座ったのですが、それでは荷風が「沿道行けども行けども清渓の流るゝあり」と表現した風景をまったく見れない。「清渓」つまり高梁川が流れているのは進行方向に向かって左側だったんですね。荷風が座ったのもおそらく通路を挟んで左側の座席。
というわけで、すぐに左側に移りたかったのですが、残念ながら見える範囲の左側の窓際の座席は全部埋まっていました。結局、移ることができたのは次に停まった駅で人が降りた後。特急だったので、すでに新見までの区間の半分くらいは来ていたのですが。
それでも、窓越しに見える高梁川の風景は素晴らしいものがありました。岡山にこんなにも美しい風景があったとはと心が震えました。
次は時間がかかっても各駅停車の列車に乗ってみたいと思わずにはいられませんでした。
もし、勝山に行かれるのならば、やはり時間がかかっても伯備線に乗ってもらいたいなと。もちろん通路を挟んで左側の窓際の座席で。できれば荷風の『断腸亭日乗』(『罹災日録』バージョン)を読みながら。
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by hinaseno | 2014-07-30 10:44 | 雑記 | Comments(0)

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谷崎潤一郎が勝山に疎開していたときのことに関するものをいくつか読んだ後で、メールをチェックしたらN社のSさんからメールが届いていました。出たばかりのSさんの著書『あしたから出版社』の感想などを書いたメールの返事でした。

ところで『あしたから出版社』にはこんなことが書かれています。
 潤一郎という名前は、谷崎潤一郎からとった、と母から聞いた。
 本当は父が好きだった吉行淳之介の名をとって、淳之介という名前にしたかったけれど、画数が悪いといわれ、それで、潤一郎にしたらしい。
 この名前のおかげで、ぼくは、子どものころから、文学に親しんでいる気持ちを持った。人に自分の名前を説明するときは、必ず谷崎の名前を出した。

で、その「潤一郎」という名前のSさん(隠すほどのものでもないですね)のメールで、Sさんの友人の萱原さんという方が、まさに勝山で本屋をされようとしているという情報をいただき、その萱原さんの書かれたこちらのサイトの記事を教えていただきました。
「潤一郎」さんのメールの中に「勝山」の文字を見ただけでも驚きだったのですが、萱原さんの書かれている文章の中にもうひとつ驚くことが書かれていました。
タルマーリーという名前のパン屋。萱原さんはそのタルマーリーの店主の方が書かれた本の制作に関わられていたとのこと。

タルマーリー? どこかで聞いたことがある、というか読んだ(見た)ことがある。それもつい最近。確かその写真の店も見たような。

思いあたる本は一冊しかありませんでした。『あしたから出版社』とほぼ同じ頃に出版された『「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ』という本。その209ページにその写真はありました。
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この写真を心に留めていたのは岡山の勝山でお店をされているということもありましたが、何よりも写っている店の人たちがなんともいえないくらいにいい表情をしていることでした。

『「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ』の著者は平川克美さん。 平川さんはタルマーリーをこう紹介されています。
あのパン屋さんの感じは、小商いのひとつの理想形です。やっていて楽しそうなのが、傍から見ていても伝わってくるし、実体のあるものをつくる喜びと、顔の見えるお客さんに喜んでもらえるのは確かな手応えになります。小商いの担い手と、店を支えるお客さんが顔の見える関係を築くというのは、重要なポイントになるはずです。

それにしてもここまでいろんなことが一気につながると運命的と思わずにはいられない。すぐにでも勝山に飛んでいきたくなりました。ただ、その前に、その平川さんの本でも紹介されている、タルマーリーの店主の渡邉格(わたなべいたる)さんの書かれた『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』を読んでおこうと。
これがまた最高におもしろい本でした。深く頷かされることがいくつも書かれています。島田さんの『あしたから出版社』にも平川さんの『「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ』にもつながっています。
『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』を読んでいるうちに、店も、店で働いている人たちも、店のある町並みも見たくなりました。そしてもちろんそこで作られているパンを食べてみたい。

ところで、話はまたちょっと下駄のことに。
平川さんの『「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ』には、過去の平川さんの関わられてきた仕事のことが書かれているのですが、興味深いのはやはり内田先生や石川さんのいらっしゃった「アーバン・トランスレーション」という会社のこと。
最初は渋谷の道玄坂に事務所を構えられたそうですが、社員が増えてオフィスが手狭になったので別の場所に移転されたんですね。その新しいオフィスに関する話。
広いオフィスに社長室、そしてそこには座り心地のいいソファ。普通(?)の人であれば最高の気分になってもおかしくないはずなのですが、平川さんはそこに居心地の悪さを感じてしまうんですね。
そこは、広さが数百平米もあり、しかも、あろうことか社長室なるものができてしまいます。そこにソファを入れたのがいけなかった……。社業は順調、自分は社長室にいるだけで、会社も自分の給料も何となく回ることが見えてしまうと、仕事が途端に面白くなくなって、一日の大半をソファで寝て過ごすようになってしまったんです。
 早い話が、「社長業」にまったく興味をもてなかったということです。次第に、社長室にいるだけの退屈な日々に飽き、何か別なことをしたいと思うようになっていきました。

そういえば、当時この会社の平川さんの部下だった方から、平川さんが下駄で会社に通われていたという話を以前伺いました。それはまさにこの時期のことだったんでしょうか。
それを伺ったときには、いろんな意味ですごいな、と思ったのですが、まさにその下駄が次なる歩みを導いていたような気がしないでもありません。
小商いの店が並ぶ町や銭湯には下駄が似合っています。もちろん暖簾も。

というわけで、重い腰を上げて僕は勝山へ向かいました。
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by hinaseno | 2014-07-29 11:09 | 雑記 | Comments(0)

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昨日は下駄を履いて近所をぶらぶらと。いや、下駄って気持ちがいいですね。

下駄といえば、何といっても永井荷風の『日和下駄』。最高の町歩き本です。こんな一節で始ります。
人並はずれて丈が高い上にわたしはいつでも日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。いかに好く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。

荷風は若い頃はどんな天気のときでも下駄を履いて東京の町のあちこちを歩いていたんですね。下駄を履いて遠くまで歩くのは大変そうですが。

手持ちの本で、荷風が下駄を履いている写真をいくつか。たくさんあるかと思いきや、見つかったのはこの2枚だけでした。
まずは1908(明治41)年の写真。アメリカから日本に戻ってきた直後くらいでしょうか。29歳の荷風。
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こちらは1947(昭和22)年の写真。千葉の市川に住むようになったときにとられたもの。68歳の荷風です。
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さて、僕が勝山に行かなくてはと思った最初のきっかけもやはり荷風でした。このブログで何度も書いたように荷風は終戦間際に勝山に行きます。そこにいたのは谷崎潤一郎。一足先に谷崎は家族とともに勝山に疎開していて、何度か荷風に勝山に来てはどうかとの手紙を書いていました。で、ついに昭和20年8月13日に荷風は勝山にいる谷崎に会いにいきます。できれば勝山に疎開したいという気持ちを抱いて。
荷風が岡山で過ごした場所をひとつひとつ辿ってきた僕にとっては、最後に見ておかなければならない場所が勝山でした。

それからもちろん、小津安二郎が若いときから敬愛してやまない二人の作家、谷崎潤一郎と永井荷風が岡山の勝山で再会したというのも僕にとっては大事件。この勝山での2人の再会が小津の『早春』での池部良と笠智衆が川べりで語り合うシーンのモチーフになっているのではないかという僕なりの推測をこの目で確かめてみたいという気持ちもありました。

ちなみに、荷風が勝山に到着したときの服装はどうだったかというと、谷崎潤一郎の『疎開日記』の昭和20年8月13日にこう書かれています。
カバンと風呂敷包とを振分にして擔ぎ外に予が先日送りたる籠を堤げ、醤油色の手拭を持ち背廣にカラなしのワイシャツを着、赤皮の半靴を穿きたり

下駄ではなかったようですね。まあ、当然といえば当然。

ところで、勝山へ行くことを具体的に考えていたときにもうひとつの”事件”が起こりました。
ちょうど一週間前の夜のこと、谷崎が勝山にいたときのことを書いた『疎開日記』を読んで、それから川本三郎さんが勝山について書かれた「谷崎潤一郎の隠れ里」(朝日選書『文学を旅する』所収)を読み終えた後、メールをチェックしたら、まさに谷崎と同じ名前を持つN社のSさんからメールが届いていました。読んでみたら、なんと勝山に関することが。偶然にしては、あまりにもできすぎている話。本当にびっくりでした。で、その話は、昔、ある会社の社長をされていたときに下駄を履いて会社に通われていたという方がつい最近書かれた本にもつながっていくことになります。いやはやなんとも。

そういえば、久しぶりに『日和下駄』を取り出してみたらいくつも付箋が貼ってあるのに気づきました。
大瀧さんが「五月雨」の歌詞を書くときに、荷風のどの随筆を参考にしたのかといろいろ探して歌詞の中の言葉を見つけては貼ったものでした。
『日和下駄』が一番多かったんですね。「無闇矢鱈」「一目散」「薄墨」「憂鬱」...。荷風の『日和下駄』がなければ「五月雨」の歌詞はどうなっていたんでしょうか。
ちなみに大瀧さんがシングル「五月雨」をレコーディングしたのは1972年3月22日。ということはおそらく1972年の年明け、もしかしたらお正月に炬燵に入って、蜜柑でも食べながら『日和下駄』をパラパラと眺めていたのかもしれませんね。大瀧さんが23歳のときです。
ちなみに今日7月28日は大瀧さんの誕生日です。

ふと大瀧さんが下駄を履いている写真がないかと探してみましたがありませんでした。フォークの人たちと区別するために絶対に下駄なんか履かなかったんでしょうね。
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by hinaseno | 2014-07-28 11:37 | 雑記 | Comments(0)

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もし、自分にラッキーアイテムというものがあるとすれば、それは下駄かな、と思ってしまった2014年7月のとても暑い夏の日。場所は岡山の県北の町、勝山。

基本的にかなりの出不精で、よっぽど縁があると感じたところしか出かけていくことはありません。勝山への縁は数年前から感じていましたが、ここ数日、それに輪をかけたようにバタバタと縁が縁を呼ぶようなことがあって、これは絶対に行かねばと。

勝山での一日を順序よく話しておきたいのですが、とりあえず下駄のことから。
考えてみると、このブログも下駄のことがなければ始めることはなかったのかもしれません。
村上春樹が「秋をけりけり」というエッセイの中で引用した木山捷平の「秋」という詩を読んで感動したことから、木山捷平のことをいろいろ調べているうちに、わかってきたことを報告したいという気持ちから始めたブログでしたから。その木山捷平の詩に出てきたのが下駄でした。木山さんのことをいろいろ調べる中で、いくつもの発見や思わぬ人とのうれしい出会いもたくさんあって、そういった幸運を運んできてくれたのも下駄だったかもしれないなと。

勝山に何時間かいて、思っていたほどの収穫が得られない状況がいくつか続いていて(後日書くことになるだろうと思います)、しかも猛暑。かなり気持ちがめげかけてきた時のことでした。
店や家の前に暖簾がかかっている古くからの家並みが続く通りを北に向かって歩いていて、まあ、これ以上行ってもめぼしいものに出会うことはないだろうと考えて引き返そうとしたときに「こんにちは」との声が。その通りを歩いていて声を掛けられたのは初めてでした。
見ると、 少し離れた角にある店の入口で、どことなく保坂和志似の初老の男性がこっちを見ていました。店の入口の脇には「おみやげ」と書かれた大きなのぼり。入口から見るとお菓子やら雑貨やらを売っていました。呼び止められることがなければ立ち寄ることはなかったはず。
買い物をするつもりはなかったけど、ずっとその町の暖簾を撮ってきていたので、暖簾の写真を撮らせてもらうことに。
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写真を撮った後「下駄がありますよ」と一言。見ると店内の奥に下駄がずらっと。ああ、下駄屋さんだったのかとそのときにわかりました。
「このあたりは木の産地で、その木を使って作った下駄なんです。桐で作ったいい下駄があるんですよ」

下駄なんて今まで欲しいと思ったこともなく、父親が履いていたものを子供の頃に履いた経験しかありません。でも、いくつも並んでいる下駄を見ていたら、その町にいくつもはためいていた暖簾と同じような風通しのいいものを感じて無性に欲しくなってひとつ買うことにしました。
で、すごく暑かったので履いていた暑苦しい靴を脱ぎ捨ててその下駄に履き替えて町を歩いてみたくなりました。バテ気味だった気分も一気に回復。

店を出て、気分だけは下駄を履いて”夏をけりけり”しようと、その第一歩を踏み出しかけたときに、店の主人からちょっと驚くような話が。
「店の裏の川沿いにいい建物があるんですよ。元は○○だったんですけど」
その言葉に激しく反応。それはもしかしたら、あれではないかと。
で、店の裏の旭川にかかっている橋から川のそばに建っている建物を見て確信しました。ああ、これこそまさにあの○○に違いないと。

この話はまた後日詳しく。
不思議なことに、この後、今回は会うことは出来ないと思っていた人に会うことができて、いろいろと話をすることができました。ただ、一日遅ければその人の店も長い夏休みに入るため、その人に会うことができなかったこともあとでわかったので、本当に幸運でした。
その人もこんなふうに言っていました。
「縁のない人とは、何回来て下さってもお会いできないんです」と。
すべては下駄が運んでくれた幸運。

そういえば、下駄を買ったお店の暖簾、下駄の鼻緒をデザインしたものだったんですね。帰りの電車で撮った写真をチェックしているときに気がつきました。ニコニコ顏にも見えます。
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by hinaseno | 2014-07-27 14:58 | 雑記 | Comments(0)

「短いのがいいな」


細野さんの「風をあつめて」、「夏なんです」つながりで、かなり久しぶりにジェームス・テイラーの『マッド・スライド・スラム』というアルバムを何度か聴きました。久しぶりに聴くと、以前は何とも思わなかった曲が、妙に心に響いてくるというのはよくあること。今回そう感じたのは、アルバムの最後に収められた「Isn't It Nice To Be Home Again」という曲。



1分にも満たない小品。でも、とっても素敵な曲。
で、ふと1分くらいの曲を集めてみたらおもしろいかなと思いつき、「Small Songs About One Minute」という適当なタイトルを付けたプレイリストを作って、パソコンのiTunesのライブラリーに入っている曲をいろいろと探してどんどん入れていきました。
とりあえず30秒以上1分30秒以内ということにしましたが、結構あるんですね。最初はグレン・グールドの『ゴールドベルク変奏曲』なんかも入れていたら4時間近くになってしまったのでクラシック関係はカット。それからちょっとずつ条件を変えていって、1分20秒くらいまでということにして(何曲かは特例で残しましたが)、1枚のCDに収まる80分くらいに。曲数は81曲。1曲平均ほぼ1分ですね。
で、それをシャッフルで聴くと結構おもしろくって。自分で作っていながらはまってしまいました。何より曲が短いので飽きがきません。

1分くらいの曲というのは、前奏曲や間奏曲、あるいはコーダのようなやや控え目な曲が多いのですが、意外や意外、興味深い発見がいくつもありました。曲としての起承転結がないからこそできることもあるんですね。

どんなアーティストのどんな曲を入れたかというと、一番多いのはやはりビーチ・ボーイズ。「And Your Dream Comes True」とか「Meant For You」とか「Our Prayer」とか、全部で13曲。
大瀧さんだったら「おもい」とか「愛餓を」。ジングルもいくつかありますね。たとえば「ジングル・ベースボール」、「ジングル・月曜の夜の恋人に」、そして「ジングル・ナイアガラ・マーチ」、それからもちろん「CM Special Vol.2」。それから商品名の出てこないCMソングも入れました。

アルバムを通して聴いていると、つい聴き流していた素敵な曲もいくつも発見。例えば、佐野さんが佐藤奈々子に作った「トワイライト」とかびっくりするくらいいい曲。YouTubeになくて紹介できないのが残念。
ブラジル系にも1分くらいのいい曲がたくさんあります。ガル・コスタのこの「Chululu」という曲もとっても素敵な曲。この曲の入ったLPは大好きで何度も聴いていたのに、こんないい曲があったなんて、という感じ。



他にも紹介したい曲はいくつもありますが、とりわけ気に入っているのはSpanky & Our Gang関係の曲。「1-3-5-8 (Pedagogal Round #2)」や「Stuperflabbergasted」、「Nowhere To Go」、「Commercial」、そして死ぬほど好きな「Like To Get To Know Youのコーダ」。




それからママス&パパスの「Once Was A Time I Thought」も大のお気に入り。短いのに早口言葉みたいな歌詞もコーラスもかなり高度。



僕の持っているCDにはこの曲のリハーサルのときのバージョンが入っていてこれが最高。どうやらミッシェル・フィリップスがなかなかうまく歌えなくて、たぶんジョン・フィリップスがママ・キャスにどうしたらいいかなとか訊ねたら、ママ・キャスが一言。
”No, she can’t!” 
でも、ミッシェルさん、きっと悔しくて、一生懸命練習したんでしょうね。

いずれにしても、こういう短い曲というのは、肩の力をいい感じで抜いているのが最大の魅力なんでしょうね。曲の風通しがいいというか。で、そういう曲作りに長けた人っていますね。ランディー・ニューマンとかブライアン・ウィルソンとかハリー・ニルソンとか。
で、大瀧さんもまちがいなくその一人。
そういえば、昔、大瀧さんがたぶん新春放談で、何かの曲がかかった後で「短いのがいいな」と言っていました。本当にそうですね。

考えてみたら、1960年から1963年のアメリカン・ポップス黄金期の曲は2分以内の曲がほとんどなんですね。長くて2分30秒くらい。これが1964年になると、3分、あるいは4分を超えるような曲が出てきます。LPの時代になると、もっと長い曲もいくつも。
やっぱり「短いのがいいな」と思う今日この頃です。蒸し暑い夏は特に。

というわけで、最後はやはり大好きなニルソンのこの曲を。


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by hinaseno | 2014-07-25 10:36 | 音楽 | Comments(0)

もう間もなく、大瀧さんの誕生日である7月28日がやってきます。
大瀧さんの誕生日といえば、というか、その翌日の29日につながる話ではあるのですが、大好きなエピソードがあります。7月28日か29日に書いてもいいかなと思ったのですが、まあいいですね。

このエピソードは「ゴー!ゴー!ナイアガラ」の第7回目の放送で披露されています。6回目まではキャロル・キングをはじめとするアルドン・ミュージックのスタッフ・ライターの特集。
で、第7回目。放送日は1975年7月29日。大瀧さんが27回目の誕生日を迎えた翌日の放送。ここではじめて、ご自身を特集します。前にも書きましたが、今、聴いてもびっくりする音源が続出。

話は大瀧さんがキャロル・キングと”再会”した翌年の1972年7月28日の誕生日のこと。この日、大瀧さんは結婚式をあげられたんですね。
で、その翌日。本当は結婚式の翌日ということで仕事を入れてほしくないと言っていたそうですが、残念ながらはっぴいえんどとしての仕事が入ります。大瀧さんは奥さんを連れて仕事場に向かいます。ずっと奥さんにぶつぶつ言いながら。

仕事の会場は晴海の埠頭。
ちょっと暇な時間が出来たので奥さんとぶらぶら歩いていたら、なんと会場内でシングル盤のバーゲンに遭遇。すべて外盤(つまり原盤ということ)。一番上にあったのはリック・ネルソンの「It’s Up To You」。他にもその辺の時代のシングル盤がどさっと。
で、店の人に値段を聴いたらなんとすべて10円。わおっ、ですね。
ちょうどキャロル・キングと再会して以来、60年代初頭のアメリカン・ポップスを再認識し始めていた大瀧さんにとっては、まさに渡りに船。奥さんなんかほったらかしにしてシングル盤を漁ったんでしょうね。でも、どうやらステージで演奏する時間は迫ってきていたようです。ちょっと大瀧さんの言葉を。
急いで急いで、いろいろ探したら、あるわ、あるわ、すごいんですよ。フィル・スペクターのフィレスの原盤はあるし、ディメンションの原盤はあるし。まあ、すごいんですね。ほいで夢中になってかなりのものを探してたんですよ。

で、このあとの大瀧さんの行動がいいんですね。時間のある限り探しまくるんじゃなくて、なんとメンバーを呼びに行くんです。単独で行動することが多いといっても(この場合は奥さんといっしょですが...、ただし、そっちのけ)、何かを見つけたらそれを自分ひとりで独占しようとはしないという。
そして他のメンバーの、細野さんとか松本とか茂を呼びに行きましてね。「シングル盤だ! シングル盤だ!」って、みんなで探してね。そしたらちょうどステージの方からね、「はっぴいえんどのみなさん、出番ですよ。出番ですから、ステージへ」ってなんて声もものかは、ギャンギャン探してたんですが。
もう、その日のステージなんて何やったか全然覚えていなくて、早く終わって、ばーっと終わってから、またそのレコード屋さんへ行きましてね、ほいでまあ探したんですね。そしたらいっぱいありましてね。かなり買いましたよ。

そのとき思いましてね、そろそろシングル盤の時代じゃなくてLPの時代であるというのはみんな先刻知ってはいたんですけども、なんとはなしにシングル盤の外盤が10円なんて、なんかさびしいと思ったわけですよ。
それで、ちょうど結婚式の翌日ということで、なんか因縁めいたものも感じましたしね。それから表面にこういうものを聴いているというのを表に出すようになったのは。当然、昔から、小学5、6年から中学そこらにかけては、こういうものをギャンギャン聴いてはいましたけれども、ちょうどそれでもなにか自分のものを見つけたいなと思っていたときに、偶然にこういうものがありましてね。非常に幸運でしたね。

大瀧さんのとった行動、そしてこの出来事の捉え方のひとつひとつが大瀧さんらしいなと思ってしまいます。

ちなみに「ディメンション」というのは、キャロル・キングのシングルや、彼女がクッキーズやリトル・エヴァに書いた曲のシングルをたくさん出しているレーベル。「ディメンション」=60年代初頭のキャロル・キングといってもいいレーベルです。

この結婚式の翌日の、この偶然の出来事がなければ大瀧さんのその後の活動はなかったと言っても過言ではないのかもしれません。
3年後に始まった「ゴー!ゴー!ナイアガラ」でかかった曲、特に最初のキャロル・キング特集でかかった曲の多くは、まさにこの日に手に入れたものだったんでしょうね。
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by hinaseno | 2014-07-23 10:49 | ナイアガラ | Comments(0)

大瀧さんの書いた「日本のポップスの歴史と私のキャロル・キング」(『レコード・コレクターズ』1995年1月号)はこんな言葉が続きます。
彼女がシンガー・ソングライターとして再デビューした時に、その変化を受け入れつつも、私は彼女の(動きとは逆に)以前のポップスの時代を再認識し始めた、というのが〈私のキャロル・キング〉の最大のポイントです。

J.Tが仲介してくれた(といっても、勝手に私がそう思い込んでいるだけなのですが)二度目のキャロル・キングとの出会いは、楽しいものであると共に自分の音楽の原点を再認識するキッカケになりました。

ジェイムス・テイラーによってキャロル・キングに再会した大瀧さんは、キャロル・キングのシンガー・ソングライターとしての新たな活動に関心を向け、同じ1971年に発表された彼女の『タペストリー(つづれおり)』を聴いたには違いありません。でも、どうやらアメリカの人だけではなく日本の多くの人たちが彼女が新たに作り出した音楽に心を大きく揺さぶられるほどには、大瀧さんの心が動かされることはなかったようです。うれしいという気持ちとは別に。

大瀧さんがジェイムス・テイラーを通じてキャロル・キングと再会したまさにその頃、アメリカでこの曲が大ヒットします。これを耳にした大瀧さんは驚いたでしょうね。



スティーブ・ローレンスが1962年に歌って大ヒットした「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」のカバー。「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」は大瀧さんがキャロル・キングの書いた曲の中で最も好きな曲。歌っているのはダニー・オズモンド。ダニー・オズモンドのカバーは1971年の9月に全米ナンバーワンになっています。大瀧さんが耳にしなかったはずはないですね。ただ、同時に、こんなふうにも思ったにちがいありません。
ダニー・オズモンドじゃ、ちょっと”Go away little girl before I beg you to stay”って感じが全然出ないな。

というわけで、ここから大瀧さんは一気にキャロル・キングの「再認識」をし始めるわけです。ただし、シンガー・ソングライターとして変貌を遂げた彼女を追うのではなく、「彼女の(動きとは逆に)以前のポップスの時代を再認識し始めた」んですね。

もともとキャロル・キングの音楽は中学のときに大好きになっていたわけですが、特にはっぴいえんどというバンドをやるようになってからは、バンドのコンセプトと違うということであえて聴かないようにしていたんですね。大瀧さんの目を逸らさせた張本人が細野さんであることは言うまでもありません。もちろん、細野さんが「キャロル・キングが書いたポップスなんか聴いてはダメだ」と言ったわけではないとは思いますが。
ところが、大瀧さんの目を逸らせた張本人が新たに始めた音楽の中にキャロル・キングがいたわけですから、大瀧さんにとっては「なんだよ、それ」って感じだったはず。
これが、昨日紹介した、僕が最初に見た大瀧さんの言葉にあった「ぼくは何のために目をそらし続けたのか」って言葉につながるわけです。

で、大瀧さんが、まさに「動きとは逆」のキャロル・キングの再認識をし始めたときに、ソロの話が持ちかけられます。
”リーダー格”の細野さんにその話を伝えたら、細野さんからこの一言。
「話があるうちにやった方がいいよ」

ということで、『風街ろまん』のマスタリングが終わった翌日の10月9日に、ソロ・シングルをレコーディングします。
その日録音した「恋の汽車ポッポ」は、まさにキャロル・キング調の曲。イントロで「ロコモーション」そっくりのドラムをたたいているのは、なんと細野さん。
そしてこのシングルのジャケットは汽車の上に乗った大瀧さんを写したもの。
これがそのジャケット。青梅の鉄道公園で撮ったものですね。
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もちろんリトル・エヴァの「ロコモーション」のパロディー。こちらはリトル・エヴァのLPのジャケット。
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ちなみにこれはアルドン・ミュージックの偉い人たち(アルさんとドンさん)と一緒に写っているリトル・エヴァとキャロル・キングとジェリー・ゴフィンの写真。
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by hinaseno | 2014-07-22 10:24 | ナイアガラ | Comments(0)

バッファロー・スプリングフィールド周辺の音楽からは、ずいぶんとかけはなれた感触をもった細野さんの曲を聴いた大瀧さんは、細野さんに向かってこう言います(たぶん)。
「何やってんの?」
「ジェイムス・テイラー。今、はまってるんだ」
で、次に大瀧さんに会ったとき、細野さんは「これだよ」と言って、大滝さんにこの2枚のLPレコードを手渡します(たぶん)。
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前年の1970年に発表された『スウィート・ベイビー・ジェイムス』と発売されたばかりの『マッド・スライド・スリム』。
細野さんから2枚のLPを受けとった大瀧さんは、レコードに針を落として曲を聴きながら、LPに記載されたミュージシャンのクレジットを見ます(たぶん)。そしてそこに、あるミュージシャンの名前を発見します。
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キャロル・キング!
大瀧さんにとっては6、7年ぶりの彼女との”再会”。

話はそれますが、僕が『ロング・ヴァケイション』を聴いて大瀧詠一(大滝詠一)というミュージシャンに関心を持って、初めて読んだ大瀧さん関連の本が萩原健太さんの書いた『はっぴいえんど伝説』(1983年 八曜社)でした。同じ八曜社からは1981年に『All About Niagara』が発売されているのですが、僕が持っているのは1983年の第3刷のもの。きっと同じ日に、同じ書店の同じ棚でこの2冊を発見して買ったはず。ただ、『All About Niagara』は、当時の僕にとっては内容が濃すぎて読むのは後回しに。

『はっぴいえんど伝説』を買ったときには、はっぴいえんどというバンドが日本に存在していたことも、そのグループに大瀧さんが在籍していたことも全く知りませんでした。もちろんそのグループに細野晴臣さん、松本隆さん、そして鈴木茂さんがいたことも。
『はっぴいえんど伝説』は7つの章からなっていて、第1章から第3章がはっぴいえんど、第4章が細野さん、第5章が鈴木茂さん、第6章が大瀧さん、そして第7章が松本さんに関することが書かれていたのですが、僕が最初に読んだのはもちろん第6章。”第1章からではなく”。
その章、いきなり大瀧さんのこんなインタビューの言葉が出てきます。当時の僕にとってはすべてがちんぷんかんぷんでした。
ほら、『風街』で細野さんがジェイムス・テイラーっぽいことやりだしたでしょ? で、ジェイムス・テイラーのレコード聴いたらさ、ピアノがなんとキャロル・キング、なんでこんなとこに出てくんのって感じだったよ。ぼくが子供のときからずーっと聴いてたんじゃない。それが「イッツ・トゥー・レイト」だもんね。アチラはなーんもむずかしく考えずに、綿々と自分の音楽やり続けてるんだよ。はっぴいえんどはさ、セダカ&グリーンフィールドだめ、マン&ウェイルだめ、ゴーフィン&キングだめ、って形で足を踏み入れた世界だったけど、じゃぼくは何のために目をそらし続けたのか、と……ね。

『風街』? ジェイムス・テイラー? キャロル・キング? 「イッツ・トゥー・レイト」? セダカ&グリーンフィールド? マン&ウェイル? ゴーフィン&キング?
当時の僕の知らない固有名詞がずらっと。しかも、「ぼくは何のために目をそらし続けたのか」ってどういう意味? でした。
これらのことがわかるにはずいぶんと時間が。

ここらあたりのことは、キャロル・キングを特集した『レコード・コレクターズ』1995年1月号の「日本のポップスの歴史と私のキャロル・キング」題された大瀧さんの書かれた文章でもう少し詳しく説明されています。
ジミヘンやジャニスの死で、ビートルズからスタートした〈60年代のロック〉が一段落すると、70年代から〈シンガー・ソングライターの時代〉がやって来てジェイムス・テイラー等が脚光を浴びます。バッファロー・スプリングフィールドを日本で一番最初に評価した男、細野晴臣は、再び誰よりも早くJ.T(日本たばこじゃないよ)を評価し、自らのスタイルに反映させ、現在ではニュー・ミュージックの古典ともいわれる「夏なんです」「風をあつめて」の名曲を作りました。私にとってのJ.Tは、ある人物と再会させてくれた人でした。それが今回の主役〈キャロル・キング〉です。日本でも大ヒットしたJ.Tの「君の友達」は、驚いたことに彼女の詞曲でした。

一応、細野さんの「風をあつめて」っぽい曲として、ジェイムス・テイラーの「Mud Slide Slim」を貼っておきます。



それから、ジェイムス・テイラーの歌ったキャロル・キングの「君の友達(You've Got A Friend)」も。



実は、大滝さんの書かれた「日本のポップスの歴史と私のキャロル・キング」という文章でも、他のどんなインタビューでも語られてはいないことですが、ジェイムス・テイラーを通じてキャロル・キングとの”再会”して間もなく、あるいはほぼ同時に、大瀧さんは別のルートでキャロル・キングとの”再会”を果しています。僕なりにはそちらの方のインパクトもかなり大きかったのではないかと考えています。
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by hinaseno | 2014-07-21 10:48 | ナイアガラ | Comments(0)

大瀧さんとキャロル・キングとの最初の出会いは大瀧さんが中学2年のとき。1962年ですね。最初に買ったシングルはリトル・エヴァの歌った「ロコモーション」。まさにリアル・タイム。日本盤のシングルのジャケットの解説に「Goffin-King」の説明が少し書かれていたのかどうかはわかりませんが、これ以降「Goffin-King」と記載されたレコードを買い漁ったそうです。中学生の少年がアーティストではなく作家でレコードを蒐集していたというのがすごいですね。
大瀧さんが中学2、3年だった1962、3年はまさにアメリカン・ポップスの黄金期。キャロル・キングとジェリー・ゴフィンは次から次へとヒット曲を連発していました。「ロコモーション」以前のヒット曲、例えばシレルズの「Will You Love Me Tomorrow」なんかも見つけては買っていたはずなので、お金がいくらあっても足りなさそう。

でも、1964年にビートルズが全米デビューしてから、大瀧さんの音楽の関心はアメリカン・ポップスからブリティッシュ・ポップスへと移っていきます。それが大瀧さんのちょうど高校時代。中学時代がアメリカン・ポップス、高校時代がブリティッシュ・ポップスとはっきりと分かれているんですね。
ただ、1964年以降でもビーチ・ボーイズとフォー・シーズンズだけはヒット曲を出している間は聴き続けたようです。もちろんキャロル・キングの作った曲にも関心を払っていたとは思いますが、1964年以降、彼女の作る曲はがっくりと数が減ってヒット曲が出なくなります。

『ゴー!ゴー!ナイアガラ』のキャロル・キング特集でかかった曲を調べてみると、1961年の曲が8曲、1962年の曲が14曲、1963年の曲が11曲。これに対して1964年の曲は4曲、1965年の曲は2曲、そして1966年以降の曲はゼロ。
大瀧さんにとってのキャロル・キングは1965年で終わっていることがわかります。1965年の曲は後追いで手にした可能性(1972年7月29日の、大瀧さんの結婚式の翌日に起こった出来事)もあるので、実質的にはやはり中学卒業とともに、キャロル・キングともお別れしたんでしょうね。
なので1966年に久しぶりに発表されたシングル「A Road To Nowhere」も、あるいはその翌年にアレサ・フランクリンによって歌われて大ヒットした「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」も、耳には入れたかもしれませんが、すでに別れを告げていたあとに届けられた曲ということで、大瀧さんの心に響くことはなかったんでしょうね(自分も似たような経験はいくつもあるので、よくわかります)。

というわけで、高校に入ってブリティッシュ・ポップスを聴き続け、そして高校を卒業して、細野さんと出会ってからはバッファロー・スプリングフィールドや、その周辺の音楽を聴き続ける日々が続きます。で、「バッファローがわかった!」と細野さんに宣言したその日に細野さんから新しいバンドへの参加を要請されるんですね。それがもちろんのちにはっぴいえんどと名づけられることになるバンド。1969年9月6日のことです。

月日はさらに流れ、1971年の5月、はっぴいえんどは2枚目のアルバム『風街ろまん』のレコーディングを開始します。
そこで細野さんはこんな曲をレコーディングします。もともとは細野さんの提案でバッファロー・スプリングフィールドのようなバンドをめざすということではじめたにもかかわらず、バッファローの曲とはかなり肌合いの違った2曲。

ひとつが「風をあつめて」。



そしてもうひとつが「夏なんです」。



大瀧さん、これを聴いて、あれっと思ったでしょうね。
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by hinaseno | 2014-07-20 11:39 | ナイアガラ | Comments(0)