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「鷗外」がつながる


日頃意識していない何かが、まるでだれかがさそっているようにほぼ同時期につながっていくことがあります。2つくらいなら、ちょこちょこつながることはあるので、そんなに気にすることはないのですが、3つくらいのことがつながると、おやっという感じになります。今年のはじめに書いた「『スマイル』がつながる」もそうでした。木山捷平もまさに4つくらいのことが一時期につながりました。そうなるともう運命的。

先日、岡山に帰省していて、いつものように古書五車堂さんに立ち寄りました。古書五車堂さんには、はっきり言って欲しい本が100冊ほどはあるですが(大げさでなく)、読む時間がないことや、置くスペースがないことや、○○がないことから、いつも数冊ずつちょぼちょぼと買っています。こっちを買ったから、こっちは我慢しとこうとか、あれを買おうと思っていたら別の気になる本が見つかったので、予定変更とか。

で、先日買った一冊が小堀杏奴の『朽葉色のショオル』。
杏奴という名前は何年も前から読んでいた『断腸亭日乗』の戦中、戦後部分に何度も登場していたのでぼんやりとは知っていました。でも、彼女が森鷗外の次女であることを知ったのは、今年になって。春先に読んだ高橋英夫の『文人荷風抄』ですね。『朽葉色のショオル』のことも取り上げられていました。
小堀杏奴の『朽葉色のショオル』が古書五車堂さんに置かれているのは、たぶん開店の時から知っていましたが、なんとなく先延ばし。でも、今回はふっと読んでみる気持ちになったんですね。朽葉色の季節になったからでしょうか。そういえば毎回五車堂さんで本を購入すると特製の栞をいただくのですが、今回いただいた栞は朽葉色でした。「朽葉色のしおり」。

いただいたといえば、古書五車堂さんのフリーペーパー「ほんのお通し」。店員の”のんちゃん”が書かれているものですね。現在は2号め(と言っても、僕が店に立ち寄るのはたいてい月末で、すでになくなってしまっているのですが、今回も特別に印刷していただきました。すみません)。
そのフリーペーパーで一番笑わせてもらっているのが「ある日の店内」。今回も前回と同じく食べ物、おやつネタですが、話の展開がすばらしい。どこまでが実話でどこまでがフィクションなのか。
今月号のはこんな会話で始まります。
のん「う〜ん、う〜ん...」
店主「どうしたの? のんちゃん。何時間もうなってるけど」
のん「あ、店主。悩みがあって仕事が手につかないんです」
店主「それは困ったね。僕でよければ相談にのるよ」
のん「実は...ケーキとようかんのどっちを私のおやつにするか決まらないんです。店主とどうぞって、ほら、いつも来てくださるあの方にいただいたんですけどね。あ〜困ったなあ〜」
店主「のんちゃん...、そんなことで...。しかしその対比はまるでマリとあやみたいだね」

「マリ」は森茉莉。森鷗外の長女ですね。そして「あや」は幸田文。もちろん幸田露伴の娘。このあとの話の展開と、オチが素晴らしいです。
それはさておき、幸田文も森茉莉も古書五車堂さんには何冊も置かれていて、幸田文はちょこちょこ買っていますが、森茉莉はいつか読んでみようと思いつつ、前回も手にとってみただけ。
森茉莉と幸田文の違いもわかりませんが、同じ露伴の娘である森茉莉と小堀杏奴の違いもわかりません。

このフリーペーパー、姫路に戻ってから読んだのですが、そのあとで、昭和2年の木山捷平と大西重利のことをまとめたものを読んでいただいた方(最初のきっかけを与えていただいた方)と電話で話をして、その際、お世辞が99%くらいは入っていることは知りつつ、こんなことを言われました。

「あなたの書かれたものを読んでいたら、松本清張の『或る「小倉日記」伝』を思い出しました。読んでなければ、是非読んでみてください」

僕は松本清張は『点と線』くらいしか読んでいなくて、あとは先日、高峰秀子主演の『張込み』を見たくらい。もちろん『或る「小倉日記」伝』のことなんて知りませんでした。それが芥川賞受賞作であることも。
で、その本のことを聞いていたら、森鷗外が出てきたんですね。森鷗外が一時期小倉で過ごした時期のことを探る話。それを聞いただけで、無性に読んでみたくなって昨夜読みました。自分のやっていたことと重なる部分も多々あって本当に面白く読めました。と同時に、この本を薦めてくれた方が、僕の書いたものを読んで、『或る「小倉日記」伝』を思い浮かべられた、もう一つ別の理由もわかりました。それはブログ上では書かなかったことに触れることなので、ここには書きませんが。
それにしても、その方の本に対する造詣の深さと、記憶力に改めて感服してしまいました。

ところで、その松本清張の『或る「小倉日記」伝』には、鷗外の小倉の日々を調べている主人公に、ある場所で出会った人がこんな言葉をぶつけます。
「そんなことを調べて何になります?」

この言葉は主人公の心に深く突き刺さります。
僕は幸いなことに、直接こんな言葉を向けられることはなかったのですが、でも、ごくたまにではあるのですが、どこからかそんな声が聴こえてくる瞬間があります。『或る「小倉日記」伝』の主人公のように「努力」しているという意識は全くないのですが、それでもほんの一瞬だけ小さな絶望感に襲われてしまいます。
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by hinaseno | 2013-10-31 09:08 | 文学 | Comments(0)

長畝橋はおそらく現在の新幹線の高架の下あたりにあったのではないかと考え、その場所に行ってきました。といっても、そこは以前一度見ていた場所ですが。ちょっとそのあたりの現在の地図(グーグル・マップ)を貼っておきます。
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グーグル・マップでは新幹線の線路が走っていてわからないのですが、実はその高架の下に水路が残っています。おそらくその水路へは立ち入り禁止。さらにその北側の新幹線の高架と山陽本線の高架にはさまれた土地は、路線バスの駐車場になっていて、やはり立ち入り禁止。いずれも入ろうと思えば入れますが、前回は南側の道からその水路を眺めただけでした。
でも、今回は高架下の水路にそばに入ってみて、南側を眺めてみてびっくり。なんとこのように水路が南側の道の下で枝分かれしているんですね。
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左側はかなりの区間、暗渠になっていますがもちろん安田川、右側はこの日僕が歩いた清水川(何度も紹介している南畝町在住の写真家が撮った写真では「中川」と記されている川のはず)。暗渠になっていますが、木山さんが歩いたはずの安田川沿いの斜めの道は今も残っているんですね。

ここに枝分かれした場所があるとすれば、少なくとも高架下に見えている5mくらいの水路は長畝川と言ってもいいことになります。とするならば、長畝橋はその少し北。でも、そこは立ち入り禁止の駐車場。でも、ちょうど休憩中の運転手さんがいたので、お願いして少しだけ入らせてもらって写真を撮りました。地図でいえば赤丸をつけた辺り。
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昭和初期に長畝橋から撮った写真と比べてみたら、かなり近い雰囲気。
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でも、コンクリートで整備された分流場所は、当時の自然な流れで作られた場所とは違っている可能性もあります。
で、もう少し北の、山陽本線の高架のそばから撮ってみました(地図の緑色で丸をした辺り)。山陽本線の高架の下にも長畝川の痕跡と思われる水路が残っています。
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おそらく長畝橋は、地図の赤丸と緑丸をした間の、今は路線バスの駐車場となっているところにあったのではないかと思います。
でも、これでわかったことは、かつて南畝町を流れていた長畝川の痕跡というべき水路が、新幹線の高架下と、山陽本線の高架下に数メートル残っていたこと。それから、木山さんが南畝町288の家に向かうときに通ったに違いない安田川沿いの道も今も100mほど残っていたということ。歩いてみないとわからないものです。
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by hinaseno | 2013-10-30 08:20 | 木山捷平 | Comments(0)

現在の風景の中に、過去の、具体的には昭和初期の風景を落とし込むという作業をしながら南畝町を歩いています。
この日のブログで書いていますが、昨年の9月、南畝町288と南畝町228(こちらはまだ謎のまま)を探したときには、まだ当時の風景は何もイメージできないまま、南畝町のあちこちを歩き回りました。空襲でそこがほぼ完全に焼失してしまったことすら知りませんでした。
でも、今は、南畝町288に誰が住んでいて、どんな生活をしていたかがわかっています。それから昭和初期の南畝町をとらえた写真が何枚もあります。現在の風景の中に、昭和2年の木山捷平が「この土地でのたつた一人の友」の家に行っていたときの具体的な風景が見えるようになってきました。

今まで南畝町の古い写真といえば、この写真しか見たことがありませんでした。南畝町を通る飾磨街道をとらえたもの。
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この写真も、もちろん写真集に収められています。写真のタイトルは「南畝町 飾磨街道北望」。年代は不明ですが、おそらくは戦後ではないかと思います。写真の右に「西田歯科」という看板が見えます。西田歯科というのは今はもうありませんが、昭和30年頃の古い地図を見ると、ちゃんと載っています。
写真では見づらいのですが、この西田歯科の2軒向うに東西を横切る道があって、そこを西に100mほど行くとおそらく長畝橋があったはず。
昨日貼った長畝橋から南側をとらえた写真を見ると、長畝川から枝分かれした安田川沿いに道が見えます。こういうのはネット上で見ることができる大正末期や昭和初期の地図では確認できません。
でも、木山さんが千代田町から「友」の家のある南畝町288に行くとすれば、おそらく飾磨街道ではなく、この安田川沿いの道を通っただろうと思います。

いずれにしても昭和2年の南畝町288を場所を探るスタートは、南畝町を貫いている、戦前に姫路では最もにぎわった場所のひとつである飾磨街道ではなく、伝説の長畝川にかかっていた長畝橋にしようと勝手に決めました。

長畝川と呼ばれていた川が描かれている大正15年の地図を眺めながら、ブログをはじめた初日に引用して以来、何度も引用してきた木山捷平が昭和2年に書いた「船場川」というタイトルの詩を改めて思い浮かべました。
 あへないで帰る

 月夜

 船場川はいつものやうに流れてゐたり

 僕は

 流れにそうてかへりたり。

この日木山さんが「あへな」かったのは、おそらく「この土地でのたつた一人の友」大西重利。木山さんは夜、南畝町288の家を訪ねたけれども、その日、大西重利はそこにいませんでした。この詩を書いたのはおそらく千代田町に住んでいたときだろうとは思いますが、でも、地図を見るとあまり船場川に「流れにそうてかへ」る部分は少ないように思います。
木山さんが「流れにそうてかへ」ったのは、実は船場川ではなくて、その支流である長畝川(と、その支流の安田川)だったのではないかと考えています。
というわけで、長畝橋のあった場所へ向かいました。

最後に改めて大正15年の地図を貼っておきます。
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by hinaseno | 2013-10-29 09:18 | 木山捷平 | Comments(0)

あまり詳しくは書けないのですが、昨日、ある場所に行って、あるものを見てきました。きっかけは、いつものように”たまたま”。
でも、それを見た驚きといったら。
今年1年、いくつもの驚くべき出会いや発見がありましたが、その中でも超弩級。今年最高の驚くべき発見でした。でも、いろんな制約(自分自身に課しているものも含めて)があって、残念ながらここに書くことはできません。いつかそういうのを何らかの形で明らかにすることができる日がくればいいかなと思う一方で、そっと、僕の胸の中だけにしまっておきたいという気持ちも交錯しています。
ひとつだけ言えるのは、全ての推測が100%(以上)の形で確認できたということ。
とにかく素敵な秋でした。

ところで、話はがらっと変わりますが、「南畝町288」とともに気になっているのが例の写真にとらえられていた長畝橋がどこにあったかということ。
それを確定する手がかりになりそうな写真がありました。
まずは、この写真。「長畝橋東より」というタイトルが付されています。撮影されたのは昭和12年。
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橋を渡っている人の身長から推測すると4メートル前後の幅があることがわかります。つまり、かなり広い道にかかっている橋。この道幅であれば地図にははっきりとかかれているはず。

それからもう1枚。タイトルは「長畝橋南より南望」。年代は不明です。でも、おそらく同じ昭和12年頃に撮られたものではないかと思います。
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ポイントは橋の南側で枝分かれしていること。この2つの手がかりをもとにして大正15年の地図をみると、おそらく赤丸の場所に長畝橋があったのではないかと思われます。飾磨街道から100mほど西の場所。
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ちなみに、たぶん長畝川は枝分かれして、写真の左、つまり地図の東の方に流れているのが安田川、で、写真の右、地図の西の方に流れているのが中川と呼ばれているようです。昭和40年の写真に「安田川・中川分岐点南望」というものがあり、背景の家は変わっていますが、川の流れはほぼ同じ。とすれば、昭和40年代初頭にも長畝橋は残っていたことになります。

さて、その長畝橋の場所。おそらくは、まさに新幹線の高架の真下。はたして何か痕跡は残っているでしょうか。また見てきます。
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by hinaseno | 2013-10-28 09:20 | 木山捷平 | Comments(0)

というタイトルを書きましたが、ピンポイントで特定できるかどうかはわかりません。空襲で焼け野原になり、さらに区画整備もされてすっかり町の風景も変わっていますから。

「南畝町288」の場所探しは、兵庫教育大学の前田貞昭教授の書かれた「木山捷平の姫路時代を探索する」や、自分で見つけた地図を参考に昨年いろいろやって、だいたいこのあたりかなというあたりをつけることができたので、それ以来やめていました。
場所はどこかということを探すよりも、そこにだれが住んでいたかということを優先すべきだと考えたからです。といっても、場所が近いですから、散歩がてら何度もそのあたりを歩いては、何か痕跡はないだろうか探してはいましたが。

そういえば昨日、内田樹先生経由で知った大阪大学医学部病理学の仲野徹教授のブログを読んでいたら、研究における「プロセス重視派」のことが書かれていて、とても興味深かったです。僕は紛れもなくプロセス重視派ですから(まあ、僕のやっているのは研究と呼べるようなものではありませんが)。

ところで、昨日貼った地図の赤丸を付けたところ。大正15年の地図なのですが、よく見ればわかるように、南畝町の境界線からははずれた場所(飾磨郡城南村)に含まれています。
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以前貼った『城南小学校八十年史』に載っていた校区の地図からも外れています。
ところが昭和5年のこの地図では、赤丸をつけた場所も、その北にある女子職業学校(現在の播磨高校)も、飾磨郡ではなく姫路市の南畝町に入っています。
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僕は明治から現在までのあの近辺のいろんな地図を見て来たのですが、南畝町と、その南の手柄村の延末、それから飾磨郡城南村の豊沢の境界は時代によってかなり変更されています。地図の年代も作成されたときのものなのか印刷されたときのものなのか不明なものも多いので。
というわけで、いろいろとややこしそうなのですが、もうちょっとだけ"秋をひょこひょこ"してみようと思います。
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by hinaseno | 2013-10-26 10:27 | 木山捷平 | Comments(0)

先日紹介した南畝町に住んでいた写真家の古い写真をいろいろとながめていて、長畝川とともに、おっと思うような写真が見つかりました。
昭和12年に撮影された写真。タイトルは「南畝町南端より南望」。
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大正15年の姫路駅南近辺の地図をもう一度貼っておきます。
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右下に、大西重利が昭和2年から勤務していた城陽小学校があります。
この写真はおそらく地図の青丸あたりから撮られたのではないかと思っています。西には飾磨街道の町並が延びていますが、東は田圃が広がっています。まさに南畝町の南端。南に延びている川はおそらくは明治時代くらいまでは長畝川と呼ばれていた川の支流、もしかしたらこのあたりは安田川と呼ばれていたかもしれません。
ちなみに南畝町288は、赤丸のあたりではないかと考えています。それについてはいずれ詳しく。

僕がこの写真に目を留めたのは、木山捷平が昭和2年に書いた「友の秋」にでてくる「ゐなか郊外」の風景が撮られていたからです。改めてその詩を引用します。
昭和2年に、木山捷平と大西重利が「さとちゃん」を乳母車に乗せて、「秋をけりけり」した「ゐなか郊外」の風景がここにあります。
つとめからかへると
洋服に柾歯の下駄をひつかけて
がたがたの乳母車に里ちやんをつんで、
ゐなか郊外の午後を
行きつもどりつする友である。
今は道ばたの
やなぎの細葉も色づいて
しみじみ後妻のほしい秋十月。
日がだんだんとかたむくと
痩せてのつぽの友の姿は
乳母車をおしたまま
ひよろひよろと地球の皮をはふのである。

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by hinaseno | 2013-10-25 09:36 | 木山捷平 | Comments(0)

僕が大西重利のことを見つけたのも、南畝町という近くの町を気にするようになったのも、すべてはこの一冊の詩集からでした。
『木山捷平全詩集』。
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といっても、実はこれを手に入れたのはつい先日のこと。ネットで買いました。
値段はちょうど3000円(送料はかかりましたが)。
本当はその前にもう少し安いものを注文していたのですが、在庫がないとの連絡がきたのでその次に値段の安かったものを買いました。
で、昨年の9月のブログをはじめたばかりの頃に書いたこの日の文章を読み返したら、あの日、村上さんが古本屋で、ちょっと悩んだ末に買った『木山捷平全詩集』も3000円だったということを知り、ちょっとうれしくなりました。ちなみに定価は3500円。もちろん今は絶版になっています。

ものごとのきっかけというのは不思議なものです。いまさらいうことでもありませんが。「風が吹けば桶屋が儲かる」、「犬も歩けば棒にあたる」...。
そういえば、村上さんが古本屋で『木山捷平全詩集』を3000円で買った話が載っている『サラダ好きのライオン』には、「犬も歩けば棒にあたる」の話が載っています。「いろはかるた」にはいっている「犬も歩けば棒にあたる」という言葉について、ある日ふと疑問をもって調べたら、本来は現在、流布しているものとはまったく違い意味で使われていたということを知る話。でも、もちろん村上さんのことだから、話はそれだけでは終らず、そのあとに村上春樹的「犬も歩けば棒にあたる」ストーリーが作られています。「犬も歩けば棒にあたる」プラス「風が吹けば桶屋が儲かる」のような話。いや、別に「儲かる」というチープなストーリーではなく、クスッと笑えるような幸福な話。
でも、いろいろ考えてみると、もしもあの日、村上さんが古本屋でちょっと悩んだ末に3000円で『木山捷平全詩集』を買わなければ、僕のとても幸福な発見の物語が始まることもありませんでした。

ところで、村上さんも手に入れた昭和62年発行の『木山捷平全詩集』(三茶書房)。本当に装幀が素敵なんですが、この装幀を手がけているのがこのブログでも何度も触れてきた山高登さん。
縁というのは不思議なのですが、僕に最初に木山捷平のことを教えて下さった方(村上春樹の『サラダ好きのライオン』が発売される数ヶ月前。その方がいなければ、たぶん僕は村上さんの木山捷平に関するエッセイにあまり目をとめなかったと思います)が、山高登さんの大ファンなんですね。現在では山高さんと手紙のやりとりまでされていて、山高さんに関するいろいろな話も聞かせてもらっています。

前にも書きましたが、今、その方は山高登さん装幀の本を集められていて、僕もそのお手伝いをひょこひょこと、いや、ちょこちょことしています。
先日、神戸の海文堂書店に最後に行った日、たまたまちょっと立ち寄った古本屋で山高登装幀の内田百閒『東京焼盡』(中公文庫)を見つけました。その少し前に、その方とお会いして(お会いした場所は木山さんが荒川小学校の後に勤めるようになった菅生小学校のすぐ近く。その方はそこで仕事をされているんです)話をしていたときに、その方は山高登装幀の本のリストを持っているのですが、それを見て中公文庫の内田百閒『東京焼盡』を本屋で取り寄せたら、装幀が違うものになっていたと残念がられていたもの。なんていいタイミングなんだろうと思いました。
今度お会いしたときにお渡しする予定です。
でも、『木山捷平全詩集』はコピーだけさしあげることに...。

ちなみに限定65部の『木山捷平全詩集』の愛蔵版には、山高登の自摺、多色木版画が入っているとのこと。言うまでもありませんが、そちらは僕の手にしたものの5倍以上の値段がついています。そういうのが何のためらいもなく買えるようになることが幸福なのかどうかはわかりません。
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by hinaseno | 2013-10-24 08:53 | 木山捷平 | Comments(0)

昭和2年の木山捷平と、彼の姫路での「たつた一人の友」大西重利をめぐる冒険もようやく一段落ついたので、お世話になった方々にご報告の日々。
そんな中、ある方から南畝町といえば、ということである写真家の名前をうかがう。姫路の古い写真にはその人の写真がよく使われていて、僕もその人の撮った写真を何枚か持っていました。このブログにもたぶん1枚か2枚は貼っているように思います。なんとなくこの人の写真、よく使われているなとは思っていましたが、南畝町の人だったとは。いるんですね、そんな人って。

生れは明治時代の中頃。亡くなった年はまだ確認できていませんが、昭和40年代の写真もあるので相当長生きされたようです。
図書館で調べたらこの人の著書、写真集はいくつもあって、とても一日では確認できるものではなかったのですが、南畝町の人ということであれば、南畝町の写真をたくさん撮っているはずだと思って探しました。特に僕が関心を持ち続けている昭和初期の南畝町の写真はないだろうかと。
実は古い南畝町の写真(といっても戦後かな)は1枚だけもっていて、それもやはりこの人の撮った写真だということがわかりました。

で、いろいろ探していて、見つけました。
古い南畝町の写真がずらっと、ほぼ100枚も載ったものが。時間があまりなくなって、しかも禁帯出でしたから、コピーだけとって帰ってからじっくり見ました。
リストを見たら半数以上は戦後のものだというのがわかったのですが(時代が不明のものも多い)、でも、姫路大空襲の影響を受けなかったところもあるみたいで、戦後でも古い町並が残っている写真もあります。

最初に思わず目にとめてしまったのがこの写真。年代不明ですが、他にも同じアングルで撮られた写真があって、そちらは昭和12年。背景に写っている家は同じですが、こちらのほうが少しだけ古そうな気がします。
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南畝町に流れている川、そしてそこにかかっている橋。
リストのタイトルを見たらびっくりしました。
「長畝川と長畝橋」
戦前の地図上ではこの言葉は確認できませんでしたが、明治時代から南畝町に暮らしていた人たちは、そこに流れていた川をまだ「長畝川」と呼んでいたんですね。しかもそこに長畝橋という名前の橋がかかっていたとは。
長畝川と、長畝橋の写真はほかにも数枚あります。個人的にはこれは大発見ではないかと思っています。なんせ、あの「あまちゃん」の能年さんにもつながる、伝説の長畝川の写真なんですから。

もしかしたら昭和2年の日々、木山捷平はこの橋を渡って大西重利に会いに行っていたかもしれません(その可能性は極めて高い)。

他にもいくつもの南畝町の町並をとらえた写真があります。
これもその一枚。
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木山捷平が昭和2年に書いた詩にでてくる「友」の家がこの中に写っているのではないかと思うとわくわくしてしまいます。

ところで、この写真家の撮った南畝町の写真で、年代的に最も新しいのが昭和45年に撮られたもの。ある工事の写真がずらっと並んでいます。
その最初に写っているのがこの写真。
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「新幹線乗入絶対反対!」との言葉。その下には「南畝町...」の文字も。

そう、南畝町は新幹線が通って町は分断されたんですね。そのあとの橋桁が作られている工事をとらえた何枚もの写真はあまりにも悲しい。
おそらく、この工事の中で、伝説の長畝川も、そこにかかっていた長畝橋も完全に姿を消してしまったんでしょう。
長畝川という名前とともに。
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by hinaseno | 2013-10-23 08:30 | 木山捷平 | Comments(0)

松井秀喜が引退してから、いや正確にいえば、彼が試合に出ることがなくなってから、野球を見ることがほとんどなくなっていたのですが、最近、久しぶりにわくわくしながら野球を見る日々を送っています。

ボストン・レッドソックスの上原浩治投手。
もともとジャイアンツにいたときも、松井とともに応援していた選手。
彼は松井よりもひとつ下で、はっきり言えば峠を越えた段階で大リーグに行きました。大リーグに行ってもけがばかりで、満足にシーズンを送ったシーズンがあったんだろうかと思うくらい。さらには先発をはずされて中継ぎ、セットアッパーとしてチームを転々。で、今年、レッドソックスの抑えとして大活躍。昨日はリーグ優勝決定シリーズで見事MVPを獲得。素晴らしいの一言です。

僕は以前、大リーグで一番好きなチームはドジャーズと書いたような気がしますが、その次に好きなのはボストン・レッドソックス。松井のいたヤンキースの永遠のライバルチーム。松井がいたときのヤンキースとレッドソックスのリーグ優勝決定シリーズは最高でした。どちらかがただ勝利すればいいというような気持ちを越えた闘い。もちろん僕はヤンキースを応援していたのですが、でも心の中で何度もレッドソックスに拍手を送っていました。
感情をあまり表に出すことをしない松井が同点のホームインしたときの、あの伝説のハイジャンプもこのときに起こりました。幸運なことに僕はそれを生(放送)で見ていました。

レッドソックスといえば、すぐに思い出してしまうのが村上春樹の『アフター・ダーク』。それからひとつの曲。「スウィート・キャロライン」ではありません。

『アフター・ダーク』の最初の方で、デニーズにいるひとりの女の子をとらえるシーンが出てきます。主人公の女の子ですね。
彼女はずいぶん熱心に本を読んでいる。ほとんどページから目をそらさない。分厚いハードカバーだが、書店のカバーがかかっているので、題名はわからない。真剣な顔をして読んでいるところを見ると、堅苦しい内容の本なのかもしれない。読み飛ばすのではなく、一行一行をしっかりと噛み締めている雰囲気がある。
テーブルの上にはコーヒーカップがある。灰皿がある。灰皿の横には紺色のベースボール・キャップ。ボストン・レッドソックスのBのマーク。彼女の頭には少しサイズが大きすぎるかもしれない。

この日本に、大リーグのチームの帽子、しかも有名なヤンキースやイチローのいたマリナーズではなく、ボストン・レッドソックスの帽子をかぶった女の子なんて(この小説が出たときに松坂は入団していたっけ?)、ちょっと普通では考えられない。ごく普通の女の子のようで、ちっとも普通でないんですね。でも、たったこれだけのことで、少なくとも僕はこの女の子のことを好きになってしまいます。

そのあとこんな場面が出てきます。
小さな音で店内に流れている音楽はパーシー・フェイス楽団の『ゴー・アウェイ・リトル・ガール』。もちろん誰もそんなものは聴いていない。

こんな場面で「ゴー・アウェイ・リトル・ガール(Go Away Little Girl)」を入れてるんですね。 曲を作ったのはキャロル・キング。僕の死ぬほど好きな曲。そして大瀧さんも死ぬほど好きな曲。
パーシー・フェイス楽団の演奏する曲であれば、有名な「夏の日の恋」でもいいような気もするのですが、どういう必然性で村上春樹はこんな曲を選ぶんだろうと驚いてしまいます。

というわけで、パーシー・フェイス楽団の「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」を貼っておきます。本当はとても素敵な詞もついているのですが。
ボストン・レッドソックスの帽子をかぶった女の子だったら、きっとメロディが流れてきただけで、「あっ、『ゴー・アウェイ・リトル・ガール』!」と思ったに違いありません。
「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」のことは、このブログでも何度か触れています。いつか改めて書いてみようと思っています。

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by hinaseno | 2013-10-21 08:07 | 雑記 | Comments(0)

大西重利が亡くなる数年前に書かれたものを読み続けています。
その中に収められた素敵な詩を。大西重利が81歳のときに書いた詩です。
いくつか気になる表記もありますが、そのままにしています。題名はありません。
木山捷平が若い頃に書いた詩と似た感触があるのは気のせいでしょうか(おそらく木山さんから贈られていたはずの詩集は何度も読んでいたでしょう)。

トレパン姿の
すらりっとせたかく美しく
やさしくてりこうそうな
むすめさん
「おじいちゃん! わたし、子犬だい好きよ! しばらくかしてちょうだいか?」
「ハイ! ハイッ」
「なまえは! しろって?」
「ハイ! さよう。」
「しろよ おいで。」
くさりをはずして両手をひろげて
うずくまった
しろはいきなり娘さんの胸にとび込んだ
娘さんは
ひろげていた両手で
しっかりと白(しろ)を抱きしめた
しろは首をのばして
しきりにほゝずりをしている

やがってパッと白をつきはねると
むすめさんは
つばめのような身がるさで
広い校庭を旋回
白はそのあとを力いっぱい
うさぎのように
とび上がりとび上りして
おっかける

休んでは抱き

抱いては走り

走っては抱き

まるで母子(おやこ)の犬のたわむれ

「おじいちゃん! 毎日なん時ごろ来なさる?」
「五時半ころ」
「では、あしたもまたネ」

娘さんは
夕もやの中に
こんもりと咲いている
桜の方へ消えて行った
白はそれを見送って
「ワン!」と一声

あくる日そこへ行ったが
娘さんの姿は見えなかった。
そのあくる日も
また、そのあくる日も
また、またそのあくる日も

ここに出てくる校庭は大西重利の家の近所にある学校。有名な進学校である白陵です。岡山にも岡山白陵があります。
あまり大きな声で言いたくないことのひとつですが、大西重利は白陵を作られるときに多大な尽力をされています。たぶんそれを文献上で確認することはできないだろうと思います。知っているのは創設に関わられたごく一部の人だけ。

今から30年以上前に白陵に通っていた人が、夕方、白い犬を連れて校庭を散歩しているひとりのおじいちゃんを見かけていたとしたら、それが僕がずっと書き続けてきた大西重利、無名で、お金もなく知り合いもいなかった木山捷平を全力で手助けしていた(でも、木山さんが有名になってもそのことをおそらくは語ることをしなかった)大西重利なんですと、小さな声でメッセージを送ります。
この詩に出てくる「すらりっとせたかく美し」い、トレパン姿の少女は、今、40歳の半ばくらいになっているんでしょうか。
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by hinaseno | 2013-10-19 09:07 | 木山捷平 | Comments(0)