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今日は中秋の名月。僕には昨日の月と今日の月を見分けることはできませんが、昨日の月も、一昨日の月も美しいものでした。

昨日も仕事帰り、船場川の橋を渡るとき、船場川の流れとその上に美しく輝いている月を眺めて、木山さんのこの詩を思い浮かべました。
もちろん「船場川」という詩ですね。

あへないで帰る

月夜

船場川はいつものやうに流れてゐたり

僕は

流れにそうてかへりたり

木山さんには「秋」をテーマにした詩がいくつもありますが、それと同時に「月夜」をテーマにした詩もいくつか書かれています。
昭和初期の、しかも姫路の外れですから、街灯なんてなかったはず。でも、木山さんは仕事のあと、月の光を頼りに、数少ない”友”に会いに出かけていってたんでしょうね。
月の光とともに場所を確認するために頼りにしていたのは船場川の流れ、それから...。

ところで、タイトルの写真が変わったことに気づかれたでしょうか。これこそまさに僕が見たかった写真だったんです。木山さんが昭和2年に見続けていた風景ですね。

実は『荒川小学校百年史』の前に『荒川小学校開校八十周年記念誌』というものが出版されているのを知って、図書館に行ったら借りられる棚に置かれていました。何度も見ていたはずの棚でしたが。本が小さくて薄く、しかも背表紙の「荒川小学校」という文字がすごく小さくて、ちっとも気づきませんでした。
手にとってぱらぱらとめくったら、見たかった写真、あるいは木山さんがいた当時の学校の見取り図もあり、もうびっくりでした。もちろん旧職員のところに木山捷平の名前もあります。

卒業年次別の生徒数も載っています。昭和2年次は男子36人、女子31人。この子たちの卒業式の日には木山さんはもちろんいたんでしょうね。当時はまだ講堂がなかったので、2つに別れていた教室の間の仕切りを取り払って講堂代わりにしていたようです。

さて、その『八十周年記念誌』に収められていた写真。
まずは『百年史』には「戦前の...」としか書かれていなかった写真も、『百年史』よりも大きくクリアに載っていました。これですね。
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写真の下には「明治43年頃の校舎」と書かれています。その頃にはすでに現在の位置に校舎があったんですね。
で、次が「大正4年頃の校舎全景」と題された写真。ここに僕がずっと見たいと思っていたものが写っていました。うれしかったですね。
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それから次が「昭和8年頃の校舎全景と清水校長」と題された写真。
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作られたばかりの大きな講堂が、まばゆいばかりに輝いていますね。こちらの写真にも僕の見たかったものがやはり写っています。

木山さんが荒川小学校にいたのは昭和2年ですから、年代的には昭和8年の写真の方が近いことになりますが、でも、まだ講堂が建っていなかった大正4年頃の写真の方が木山さんの見ていた風景に近いでしょうね。

さて、僕が見たかったものと言えば、それは2本のポプラの樹でした。正面から見たら校門の左側、実際には校門を入ってすぐの南側に立っていたようです。
大正4年(1915年)頃と昭和8年(1933年)頃の写真を見比べてみると、ずいぶん高くなっていることがわかります。ポプラの樹の高さを考えると木山さんが見たのは昭和8年の方に近いですね。

僕が『百年史』の戦前の卒業生の思い出の文章を読んで気がついたのは、何人もの人がポプラの樹のことを書いていたことでした。『八十周年記念誌』に収められた思い出の文にもやはり何人もの人がポプラの樹のことを書いています。
例えば卒業年は書かれていませんが大正時代の苫編の八木さんの文。こんな言葉が出てきます。
荒川村立荒川尋常小学校と大きな標札がかかった石柱の校門があり、それに接して南に二本の大きなポプラの樹がそびえていた。このポプラは何処からもよく見え、小学校の一つの目印にもなっていた。

あるいは大正12年卒の、この文章を書かれた当時は生駒市に住まれていた塚原さんの文にもこんな言葉が。
運動場には、東の郡道(のちの県道)沿いに数本のポプラの巨木が並び立っていたのが印象的。これが学校唯一のアクセサリーであったが、その亭々として天を衝くような威容は、将来の向上と、目標に向かって邁進する勇気を象徴するように思えて、子ども心をゆさぶり励ましました。

他にも『百年史』を含めて何人もの人がこのポプラの樹のことを書いています。講堂が造られる前は、校門横の2本のポプラの樹が「目印」でもあり「唯一のアクセサリー」だったんですね。
『八十周年記念誌』には「昭和16年頃の校舎全景と大西校長」と題された写真が載っていますが、そこにはもっと大きく2本のポプラの樹が手前に写っています。
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実は木山さんが姫路で発行していた「野人」にはポプラの樹のことを書いたものがあります。しかも2つも。

それらは少しだけ言葉を変えられて後に出版された詩集に収められています。そられの詩集に収められた詩の書かれた年代を見ると昭和2年。まさに荒川小学校に勤めていたときのものです。

僕は木山さんの詩の中でも、特に重点的に昭和2年に書かれた詩を読んできましたから、一体このポプラの樹はどこにあったものなんだろうかとずっと考えてきたのですが、まさしくそれは荒川小学校のポプラだったんですね。
荒川小学校あたりに土地勘がなかった木山さんは、まさにこのポプラを目印にしていたはず。荒川小学校近くの町坪に住んでいたときには、家に戻るための目印として、あるいは市内の千代田町に住んでいたときには、学校へ行くための目印として。

というわけでその詩を2つ紹介しておきます。
まずは「野人」の第二輯の最後に収められた「ポプラの梢」と題された詩。

風に順応してゐるのではない。
ポプラの梢は
つよい反抗をつづけてゐるのである。

おそらく荒川小学校に勤めるようになって間もない時期に書かれたはずの詩。木山さんの気持ちが表れています。
ただ、のちに『木山捷平詩集』(昭和42年発行)に収められたものは、こうなっています。

風に順応してゐるのではない。
ポプラの梢は
腹のへり加減を見てゐるのである。

詩の下に「昭・2」と添えられていますが、このポプラは、荒川小学校のポプラとは違うものになっている気がしますね。

もう1つ、「野人」の第五輯に収められた「月夜の時雨」と題された詩。おそらくは秋に書かれた詩。となりの頁には、後に「大西重利に」との言葉が添えられる「秋」という詩が並んでいます。「野人」の中で最も好きな”風景”です。

いゝ月夜だ。

ぱらぱらと
しぐれが過ぎて行つた。

さびしいか?
否!

ひえびえと
しかも素直に
葉のおちたポプラは立つてゐる。

この詩ものちに『野』(昭和4年)に収められたときにほんの少しだけ言葉が変えられています。

いい月夜だ。

ぱらぱらと
しぐれが過ぎて行つた。

さびしいか?
否!

ひえびえと
しかもまつすぐに
葉の落ちたポプラは立つてゐる。

こちらのポプラは荒川小学校のポプラのままのようですね。

このポプラは今はもうありません。
昭和33年の火災で焼けたんでしょうか。残念ですね。

というわけで、今夜は月明かりの下で、木山さんが見た2本のポプラの樹のことを考えながら、船場川の流れを見てみようと思います。

「月とポプラと船場川」ですね。金子みすゞの詩みたいですが。

ところで、今夜はこのブログでも何度も書いた平川克美さんがEテレに出演されます。「ハートネットTV」という番組。夜の8時からです。「隣町探偵団」の話ではなく、お父さんの介護をされていたときの話ですね。その話は『俺に似たひと』に書かれています。本当に素晴らしい本ですので、この機会に是非読んでみて下さい。
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by hinaseno | 2013-09-19 10:23 | 木山捷平 | Comments(0)

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先日お会いした町坪にお住まいの方にまず確認したのは、当時木山さんが下宿していた家の場所と、昭和初期の荒川小学校の場所でした。木山さんが下宿していた家の場所については後日触れるとして、僕にとっては半年ほど前に大正15年発行の地図を手に入れて以来気になっていた木山さんが勤めていた当時の荒川小学校のあった場所を特定しておく必要がありました。

その地図の学校の位置は、現在と道をはさんで反対側にあるんですね。
これが大正15年発行の地図。学校は、学校前の広い道の東側にあります。
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そしてこれが同じあたりの現在の地図(Google Map)。
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学校は同じ道の西側にあります。大正15年発行の地図では、そこはなんと針葉樹林の生えた数十メートルの小高い丘になっています。ちなみに戦前の住宅地図も荒川小学校は現在と同じ位置にあります。

この写真は、上の地図の赤丸をしてあるあたりから、荒川小学校の方向に延びる道をとらえたもの。
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道路の左側の建物の間から校舎がちょこっとのぞいています。それから先に言ってしまうと木山さんが姫路に来て最初に住んでいた町坪の家があったのは、左の手前に写っているサーモンピンクの建物のあたりだったと思われます。

さて、先日も紹介した『荒川小学校百年史』に小さく載っている戦前のこの写真。
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それからこれは現在の、ほぼ同じ位置からとらえた荒川小学校の写真。
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校舎の位置は変わっていますが、やはり現在と同じ場所にあることがわかります。
では、大正15年以降にその場所に移転されたのかというと、それならば『百年史』の、例えば大正15年卒の人、あるいはそれ以降に書かれた人の話の中に、そのことが書かれているはず。でも、書かれているのは昭和7年に新しい講堂が作られたことだけ。

先日うかがった昭和12年に荒川小学校に入学された方の話では、講堂はすごく綺麗でピカピカだったけれども、校舎は相当古かったとのこと。
木山さんが荒川小学校に勤務した昭和2年以降に荒川小学校が道路の西側に移転したとはちょっと考えられないですね。で、改めて大正15年発行の地図を見ると、上の方にこう書かれています。
「明治26年及28年測量大正12年第2回修正測図」

大正12年に修正測図されて後に移転したのであれば、大正15年卒の人、つまり大正10年に入学した人が絶対にそれを書いているはずです。とするならば道路の東側から西側に移転されたのは、明治28年以降の明治時代ではないかと思います。僕が手に入れた大正15年発行の地図は、実はほとんどが明治26年、あるいは明治28年頃の様子を表していたんですね。木山さんが荒川小学校にやってきたころには集落はもう少し広がっていたはず。実際、木山さんが住んでいたと思われる場所には、集落を表す記号がないばかりか、家の記号すらありません。古い地図を見る場合、気を付けないといけないですね。

てなことを書きながら、なんとなくやっていることが平川克美さんの「隣町探偵団」とかなりかぶっていることに気づきました。踏切り、そこを越えたところにある小学校の場所。
もちろんこちらは当時は姫路の外れの村。平川さんの調べられているのは小津安二郎の「生まれてはみたけれど」という映画の舞台になった東京の蒲田。
考えてみると、『荒川小学校百年史』の中で僕が重点的に読んでいる、木山さんが荒川小学校にいた昭和2年に1年生で、まちがいなく木山さんの姿を見ていたはずの昭和7年度に小学校6年生だった人は、まさに昭和7年に製作された「生まれてはみたけれど」の6年生の子供たちと同学年になるわけです。

その映画も、あるいは昭和7年度卒の人の書いた小学校時代の思い出もどこか牧歌的なものがあります。でも、それぞれに彼らが6年生のときに起きたある出来事が、映画と作文に共通して登場しています。

爆弾三勇士(肉弾三勇士)。

昭和7年2月22日に起きた出来事で、英雄となった人たちの話。
「生まれてはみたけれど」の教室をとらえたこの場面。
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壁に掲げられた額に「爆弾三勇士」と書かれています。僕はこの映画を観るまで「爆弾三勇士」の話なんて全く知りませんでした。

『荒川小学校百年史』に載っている昭和7年卒の中地の黒田さんの文章。途中に木山さんと同期の中村治三先生の話が出てきます。「美髭の中村先生」と書かれています。木山さんと同じ年に荒川小学校に勤務するようになっていますが、その後10年間もいたんですね。土山の出口さんも中村先生の思い出を書かれています。「中村治三先生のゴールデンバットのたばこのにおい」なんて言葉があります。
さて、黒田さんの書かれた文章の中にこんな話が出てきます。
六年生の頃、新しくできた講堂での学芸会で「肉弾三勇士」を上演したことなど、当時の世相と併せて、しみじみと回想される。

「爆弾三勇士(肉弾三勇士)」が新しくできたばかりの講堂で行なわれた学芸会で上演されたことは、その2年あとの昭和9年卒の苫編の人の話の中にも出てきます。その方の話の中には牧歌的なものはありません。おそらく学校教育的には昭和8年頃からぐっと軍国主義的なものになっていったと推測されます。その人の文章にはこんな話も。
昭和8年の教科書改訂では、神話と軍国主義で一杯となり、国家非常時と教えられ、超国家主義教育を受け、何かにつけ軍歌を歌った。

で、どうやらその年くらいに荒川小学校に奉安殿が作られたみたいですね。そこに毎月拝礼したと書かれています。昭和11年卒の方も奉安殿のことを書いています。
昭和7年度よりあとの卒業生から、先日話をうかがった昭和17年度の卒業生の間で小学校の思い出を書かれているのは、たった3人。『百年史』を出すときに、生存されている人が少なかったという理由もあるかもしれませんが、それ以上に、その人たちが受けた学校での教育にいい思い出を持っていないということが最大の理由のように思われます。
先程の昭和9年度卒の方の書かれている文章(書かれた平成4年当時は70歳くらいでしょうか)の最後はかなり厳しい内容で終わっています。木山さんのことから話はそれてしまいましたが、引用しておきます。
人間誰しも己の暗い過去について語りたくはない。「過ちは二度と繰り返しません。」「一億総懺悔」とか言う言葉どこに消えたか、儒佛文化の師匠の館へ土足で踏みこんで、非人道の限りを振舞い、何に向かって自らを恥じ、どう生きてゆくのか。私達の世代も、真剣に戦争の被害者としての日本、加害者としての日本を受けとめるために、国際社会に通用する歴史を学ぶべきだと思う。隠している方が恥ずかしく教えられない方が悲しいのではないか。

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by hinaseno | 2013-09-18 09:46 | 木山捷平 | Comments(0)

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昨日は天気の回復してきた午後に、荒川小学校近くの町坪にお住まいの”ある方”に話をうかがいに行ってきました。途中で見た船場川も、それから後で見た夢前川も雨が上がった後とはいえ、かなり水位が増していて濁流が流れていました。船場川も昔は何度か氾濫したことがあったとのこと。
でも、雨がたくさん降ると、岡山の旭川、それから百間川のことを考えます。

ところで昨日お会いした町坪にお住まいの男性。お会いするのは2度目です。昭和5年生まれで、荒川小学校に通われていました。町坪には戦前からずっとお住まいになられています。前にはじめてうかがったとき、荒川小学校のこと、そして木山さんが最初に下宿していた家に関することをいろいろと話していただいたのですが、そのときにはあまり時間がなかったので、改めてゆっくりお話をうかがってきました。
最初にうかがったときには知らなかったのですが、家に戻って『荒川小学校百年史』を見たら、なんと荒川小学校の思い出を書かれていらっしゃった中のお一人。その方は昭和17年度卒です。その話をしたら、「そういえばそんなこともあったな。○○さんに無理矢理、書けと頼まれたんだ」と楽しそうに話していました。

実は、その方の名字は木山さんが町坪に下宿先の家と同じ。僕がもっている戦前の地図にも一件だけその名字の家があったので、いつか訪ねてみようとおもいつつ、時がたってしまったのですが。
で、最初におうかがいをしたときにお名前を聞いてわかったのは、僕が姫路時代の木山さんのことをいろいろと知るきっかけになった兵庫教育大学の前田貞昭教授の「木山捷平の姫路時代を探索する」という文章でインタビューに答えられている方でもあったんですね。前田教授の論文は2008年に井伏鱒二の故郷の広島県福山市にあるふくやま文学館で開催された「井伏鱒二と木山捷平」展のために作られた『井伏鱒二と木山捷平』に収められています。

そのことに関する話も昨日したのですが、いくつも面白い話が。
僕が最初にうかがったときに木山捷平の話をしたら、全くぴんときていなかったようでしたが、話をしているうちに、そういえばそんな話を以前どなたかが聞きに来たな、ということになって、もしかしたら前田教授の論文に名前のあった人ではと思って調べたらやはりそうでした。
ただ、そのあとでその論文が出たこともご存知でなく、木山捷平の本を読まれたわけでもなかったようです。ですから、木山捷平の名前はすっかり忘れられていました。
ところが僕が「井伏鱒二と関わりの深い人で...」と口にしたら、急に表情が変わって「おおっ、井伏鱒二! 子供の頃大好きだったんだ」と。へえ〜っと思いつつ、その方の子供の頃、つまり戦前、戦中にいったい井伏のどんな本を読まれていたんだろうと思ったのですが、題名は覚えられていませんでした。でも、『少年倶楽部』という雑誌に連載されていた作品だったとのこと。
「それが好きで好きで、親に頼んで『少年倶楽部』だけ買ってもらっとったんだ」と。

家に戻って調べたらヒュー・ロフティングの『ドリトル先生船の旅』(現在は『ドリトル先生航海記』)。ネット上に画像があったので、ちょっとお借りして貼っておきます。
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興味深いのは、『少年倶楽部』に連載されていたとき(昭和16年〜17年)に、上の画像でもわかるように、原作者のヒュー・ロフティングの名は隠されていて、井伏鱒二の作品として発表されていたんですね。まさに、"そういう時代”だったわけです。ですから、昨日お話をうかがった方も、『ドリトル先生』を井伏の作品と思っていたんですね。

いずれにしても、子供の頃に大好きだった井伏鱒二と、それから近くに住んでいた木山捷平についての本の中に自分の名前が載っているということを非常に喜んでいらっしゃいました。ただ、残念なことに目がほとんど見えなくなっていらっしゃったので、実際に見て確認されることはできなかったのですが。

そういえば、『荒川小学校百年史』に載っているこの方の文章、「読んでもらえるか」とのことだったので、お読みしました。20年前に書かれているので、何を書いたか忘れているとのことでしたが、読んでいるうちにいろんなことを思い出されていました。
せっかくなのでその方の文章を少し引用しておきます。文章、お上手なんです。
飾磨郡荒川村が姫路市に合併した翌年、昭和12年の1年生。支那事変の起こった年でもあった。職員室の運動場側に南京占領の色ずりの大きなポスターが不思議に残る。男女各1クラス、男組は47名、赤穂浪士と同数だとよろこんだ時もあった。(中略)
勉強は自分も含めて全員よくやったことにして…………、あれは1、2年の頃か。悪童何人かの学校の帰り、カバンを四ツ池の土手にほってはいのぼった西の山、そこには、国語読本「向こうの山にのぼったら」の文章そのままの景色があった。建築が新しいのか同じ木造でも講堂はピカピカ。大きな桝目の天井、中央のシャンデリア?その講堂での映画会。白黒であったが、ラジオが村で数台の頃であってみれば楽しみだった。宮澤賢治の名は知らなかったが「風の又三郎」が今も心に残る。四大節、元日は好きだった。学校での式典のあと、町坪は高等科の兄貴分が連れていってくれる朝日山の観音さん参り。学校から歩いて英賀保駅へ、網干までの一駅ではあるが汽車に乗ることのうれしさ…………。自分たちですごく遠くへ旅した気になった。(後略)

ところで、もしかしたら木山さんも子供たちと一緒に、あるいは一人で登ったかもしれない「西の山」。地図を見ると165メートルほど。「向こうの山にのぼったら」の文章はそれを読んでいるときには知らなかったのですが、それに書かれているように海が見えたんだと。
それからもうひとつ見えた場所として、そのときのことを思い出されながら語られた言葉が僕にとってはちょっと嬉しいことばでした。
「山の向こうの村が見えてのう...、蒲田(かまだ)が」

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by hinaseno | 2013-09-17 09:32 | 木山捷平 | Comments(0)

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木山さんが荒川小学校にいた頃の子供たちは、大正4年(1915年)から大正10年(1921年)にかけて生まれた人ということになります。今もご健在であるとすれば92歳から98歳くらい。
木山さんが荒川小学校に勤めていたことを知るのが、もう10年くらい前のことであったならと思う日々。
でも、だからこそ、どんなささいなことであれ、木山さんにつながることを発見できればうれしいものです。

実は昨日は予定していたことがあったのですが、台風の影響のためにとりやめ。で、また図書館に行って『荒川小学校百年史』(平成4年発行)を見てきました。名簿以外に木山さんのこと、あるいは木山さんにつながる何かが発見できないだろうかと、何度かページをめくっていたらちょっと興味深いものを発見しました。
それは卒業生が荒川小学校の思い出を書いたものでした。卒業年度(6年生の4月のときの年)が書かれています。木山さんが教えていた当時、荒川小学校にいた子供たちを考えてみると昭和2年から昭和7年度卒業ということになります。

で、古い方から見てみると、年代はとびとびになっているのですが、「大正12年度卒」、「大正15年度卒」と続き、さあいよいよ次はと思って見たら「昭和7年度卒」。木山さんがいた当時1年生ですね。木山さんが教えていた学年はわかりませんが、1年生と6年生ではなさそうな気がするので、教えてはいないだろうとは思いつつ、でも、荒川小学校で1年間ともに過ごしていたことは確かです。うれしいことに「昭和7年度卒」は3人も。よく読むと、興味深いことがいくつも書かれています。特に昨日書いた木山さんんと同じ時期に務めていた先生の名前が何人も出てきます。たいていは複数年勤務していた先生ですね。
で、木山さんがいたときではないけれども、その前後の生徒であった人の文章にもいくつか興味深いことが。木山さんの昭和2年に書かれた”あの詩”は荒川小学校のことかなと思わせる手がかりもありました。その詩についてはまた後日。

ところで、『荒川小学校百年史』には戦前の荒川小学校をとらえた写真が一枚だけ小さく載っていました。「戦前の荒川小学校校舎全景」と字が添えられたこの写真。非常に小さく画質のあまりよくない写真で、しかも図書館でコピーしたものから読み込んだものなので、かなりわかりづらいのですが。撮影された年代も書かれていません。
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荒川小学校は空襲の被害は受けていないのですが、昭和33年に火災があって、校舎や講堂、そして校長室が全焼しているんですね。そのために貴重なものが数多く失われてしまったとのことでした。もちろんその失われたものの中には木山さんにつながるものがいくつもあったんでしょうね。

というわけなので、これはどうやら当時生徒だった人の持っていた写真のようです。子供たちが集まっている(記念写真でも撮っている?)運動場の奥に校舎らしき長い建物。道か川をはさんで左の方にも学校関係の建物(職員室や宿直室?)と思われるものが2つほど見えます。そのすぐ背後には山が見えます。高低には背の高い木が一本か二本植えられています。

さて、荒川小学校の卒業生が書かれた文章をいくつか紹介します。
まず、木山さんが荒川小学校にやってくる前に卒業した大正15年卒業(実際には木山さんが荒川小学校にやってくる直前の昭和2年3月に卒業しているわけですね)の中地にお住まいの森さんの文章。こんな書き出し。
小学校の思い出を書くことになり何か糸口に、なるような物は、と思って記念寫眞帳を取り出しました。
一頁は校舎の寫眞です。運動場の北端に、東西に長い二棟が並んで居ました。建物の西側は、南北に大廊下で続いて居ました。廊下の西北端は、じめじめした感じの便所でした。大廊下は運動具の置場であり、掲示場であったり、また何か催し物がある時の待機場でありました。廊下には板製の簀の子が並べてありましたが廊下の地面と合わないので気を付けて歩いてもガタゴト煩い音でした。

その校舎の風景はまちがいなく木山さんがいたときのものですね。で、『百年史』に載っている写真の風景にもつながっていて、なんとなくあの写真はこの文章を書いた森さんの持っていた「記念寫眞帳」に載っていたものではないかと思います。荒川小学校は昭和7年ごろに大きな講堂が造られたようですが、この写真にはそれらしきものが見当たりません。
この写真が森さんが卒業する直前に撮られたものだとすれば、まさに木山さんが荒川小学校にいた昭和2年の写真ということになります。まあ、いつものように希望的観測に基づいた推測なのですが。

ところでこの森さんの文章には昨日列挙した教員の一番上にある田村先生のことが少し書かれています。
六年生の時には田村顕二先生に身命を賭けての御指導を賜りました。

荒川小学校に6年間勤められた先生ですね。昭和2年12月まで勤められているので、木山さんとは9か月ほどいっしょにいたことになります。田村顕二という名前なので、今だったら絶対に「たむけん、たむけん」と子供たちに呼ばれて、からかわれることになったんでしょうね。

当時はそんなことはありえない、と思ったらそうでもないようです。
昭和7年度卒業の岡田の中山さんはこんなことを書いています。
四年生になってふとした事から腕白小僧となり、上級生と一緒になって悪い事許りを致しました。先生に綽名を付けてからかったり、気に入らぬと授業を放ったらかして運動場へ出て、先生に追いかけられ中庭や法輪寺山へ逃げ廻ったことも度々でした。

法輪寺山というのはおそらく写真に写っている背後の山。荒川小学校のすぐ近くに法輪寺というお寺があるので、地元の人にはそうよばれているんでしょうね。

でも、この中山さんの話はこう続きます。
懐かしい腕白友達の大半が戦死し残念でなりません。

つまり、木山さんが荒川小学校で教えていた頃に小学校に通っていた子供たちの多くは戦死しているんですね。生徒の男女の割合は戦後からしか載っていなかったのでわかりませんが、当時小学校に通っていたのは男の子がずっと多かったのだろうと思います。『百年史』の思い出を書いている人で、大正15年卒から昭和7年卒の間がいないのはそのためなのかもしれません。ちなみに女性が出てくるのは昭和8年卒からです。
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by hinaseno | 2013-09-16 10:10 | 木山捷平 | Comments(0)

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先日、図書館で平成4年発行の『荒川小学校百年史』を見てきました。その最後の方に、荒川小学校に勤務していた教員の名前がずらっと並んでいます。そしてそこに「木山捷平」の名が。勤務期間も昭和2年4月から昭和3年3月。木山さんが荒川小学校に勤めていたことを示す紛れもない証拠ですね。
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文芸誌で木山さんの名前を見かけても驚くことはありませんが、姫路の外れの、近所と言ってもいい小学校の『百年史』の”教員”の名前の中に木山さんの名前が”ひょこっと”あるんですから、やはり感動してしまいます。果たしてこれを持たれている人の何人が「木山捷平」という名に目をとめたでしょうか。きっと一人もいないのでは。ちなみに本は禁帯出でしたので、この写真はコピーしたものを写したものです。

ところで、この名簿で、当時の校長の名前と、同僚の教員の名前を知ることができました。
木山さんが荒川小学校にいた当時の校長の名は井上敬二。荒川小学校の第7代校長です。校長は写真が貼られているのですが、残念ながら次の第8代校長から。
井上敬二校長は大正15年3月から昭和4年3月まで荒川小学校の校長を務めています。

荒川小学校の校長と言えば、木山捷平の父、静太が木山さんに送った手紙の中に、この校長のことがでてきます。昭和3年3月31日の手紙(『木山捷平 父の手紙』所収)。
今日この手紙を鳳君が小田へ投函したあとそなたの手紙を配達された。
任地はムヤミに変るものではない。
校長と喧嘩するものでない。そのやうな性質のそなたとは思はねど、どうせ他界のよりあひどこであるから、何処へ行つても他役所へ行つても皆他人同士の角突合ひ、暗闘ばかりだ。これが普通の世相である。あたりまへであるのだ。

木山さんは父に荒川小学校から菅生小学校へ移ることを手紙で伝えたんでしょうね。もしかしたら校長と喧嘩したようなことを書いていたのかもしれません。木山さんが転勤を希望したのか、あるいは校長が転勤させたのか。
たった一年勤めただけでの転勤ですから、校長と何らかのトラブルを起こしたと静太が推測しただけなのかもしれません。

ただ、当時の教員名簿を見ると荒川小学校に一年だけ勤務している人は意外に多いですね。せっかくですので、木山さんが荒川小学校にいたときの教員の名前を並べておきます。
田村顕二(大正11年4月〜昭和2年12月)
熊見幾二(大正11年4月〜昭和11年3月)
福島(山本)みつ(大正14年4月〜昭和5年8月)
三木シゲ(大正15年3月〜昭和2年6月)
浅田忠治(昭和2年4月〜昭和3年3月)
野村梅太郎(昭和2年〜?)
中村治三(昭和2年4月〜昭和12年3月) 
井上重雄(昭和2年4月〜昭和3年3月)
木山捷平(昭和2年4月〜昭和3年3月)
井上富士雄(昭和2年4月〜昭和4年3月)
東口まさの(昭和2年4月〜?)
吉竹一子(昭和2年1月〜昭和4年3月)
内海しげの(昭和2年4月〜昭和5年3月)

勤められた期間が不明の人もいますが、少なくとも木山さんが荒川小学校での勤務を始めた昭和2年4月時点においては、男性教員は木山さんを入れて8名、女性教員が5名。どうやら1学年に2クラスくらいはあったようですね。
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by hinaseno | 2013-09-15 10:26 | 木山捷平 | Comments(0)

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はじめに地図を貼っておきます。現在の国土地理院の前身である大日本帝国陸地測量部が大正十五年に発行した姫路市南部の五万分の一の地図。大正十二年に修正測図と書かれています。
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この地図を見つけたのは神戸の海文堂書店。姫路の市街地の古い地図はネット上も含めていくつもあるのですが、姫路の南部の古い地図を見かけたのは初めてでした。木山さんが姫路にいたのが大正11年と、昭和2年から4年にかけてのことでしたから、まさに木山さんが姫路にいた頃の姫路の様子を正確に表した地図です。本当は二万五千分の一であればもっとよかったのですが、この時代にそういうのが存在していたかどうかはわかりません。とにかく、見つけることができただけで本当に幸運でした。

貼り付けた部分の右端を流れているのが市川、左端を流れているのが木山さんの小説のタイトルにもなっている夢前川、そして中央付近を蛇行して流れているのが船場川(舩場川と記載されています)。
地図記号を見ると、現在は存在しないものもあります。例えば「師団司令部」とか「旅団司令部」とか。いずれも右上の姫路の城内に置かれていますね。
地図の左上には先日触れた「蒲田」があります。「南畝」は市街地に近いので書かれていないですね。姫路駅の「ひめぢ」と書かれている辺りになります。
この地図で示された地域は現在では全て姫路市になっていますが、当時は飾磨郡。ところどころに集落がある程度で、田園が広がっています。

さて、この地図の真ん中あたりに赤で四角に囲んでいるのが荒川村。ここも当時は姫路市ではなく飾磨郡荒川村。そのそばに赤丸で囲んであるのが荒川小学校。現在の荒川小学校とは道をはさんで反対側にあります。場所がちょっとだけ変わっているんですね。
木山さんはこの荒川小学校に昭和2年4月から昭和3年3月の一年間勤務していました。僕が木山捷平に関心を持ったのも、きっかけは多少縁のある荒川小学校に勤めていたのがわかったからです。
木山さん関係で僕が発見できたらと最も強く思っているものがあるとすれば、それは木山さんが荒川小学校に勤めていた確かな痕跡。写真であるとか、当時の職員名簿であるとか。
でも、前に荒川小学校に伺ったときに、仮に存在していたとしても、それらは全て焼失しまったということでした。

木山さんが荒川小学校に勤務していたときに最初に住んでいたのは、そのちょっと南の、線路を越えたところにある町坪(ちょうのつぼ)。学校で用意された家だったんでしょうか。でも、木山さんはまもなくそこを離れて市街地に近い姫路市千代田町に移ります。ちょうど「紡織工場」と書かれているあたり。木山さんの姫路時代の数少ない友人のひとりであった坂本遼は、木山さんの第一詩集の『野』の序文で「私は去年の今頃、ぬけ出してはじめて紡績の町の木山さんをたづね」と書いています。木山さんはそこから2kmほど毎日線路沿いを歩いて荒川小学校に通っていたんでしょうね。僕にとってあまりにも近しい風景の中を木山さんが今から86年前に歩いていたわけです。
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by hinaseno | 2013-09-14 09:08 | 木山捷平 | Comments(0)

さて、「あまちゃん」のヒロインである能年玲奈さんの話。といってもあくまで名前に関する話です。出身は姫路の北部の、つまり市川上流の兵庫県神崎郡神河町。
「能年」という名字がめずらしくて、おそらくこのページなんかを調べられて、南畝町のことを書いている人が何人もいたんですね。そのために僕が「南畝町」「由来」なんて言葉で検索したときに、その画像の中で彼女の写真にヒットしたわけです。

その「日本姓氏語源辞典」には「ノウネン」という名字についてこう記載されています。

ノウネン 南畝 兵庫県多可郡多可町。兵庫県姫路市南畝町発祥。江戸時代から記録のある地名。「農年」と表記してノウネとも発音した。
ノウネン 能年 兵庫県神崎郡神河町・埼玉県。南畝の異形。
ノウネン 農年 兵庫県西脇市。南畝の異形。

能年玲奈さんの「能年」はまさに兵庫県神崎郡神河町にしかないようですね。で、兵庫県姫路市南畝町発祥の「南畝」の異形であると。さらにもう一つの異形として「農年」という字もあるとのこと。

南畝町のことにずっと関心を持ってきた僕としては、「兵庫県姫路市南畝町発祥」なんて言葉を見ると嬉しい気もしますが、でも、ちょっと待てよ、ですね。

もともと「南畝」は「長畝」から来ています。『播磨国風土記新考』(昭和6年)の「長畝川」の話の後の説明部分にはこんなことが書かれています。

今姫路市の西南部に南畝と書きてノオネンと唱ふる町あり。古くは長畝と書きしを中ごろは農年と書きき(農人町とは別なり)。此町と長畝川・長畝村とは地理的関係は無けれど歴史的関係はあるべし

この説明を書いた人は「長畝川」を別の場所にしているのですが、ポイントは南畝町は賀毛郡にあったとされる長畝村と歴史的な関係をもっていたということ、そして「南畝」という言葉も、古くは「長畝」、それから「農年」と書かれていたということ。つまり「農年」も、そして「能年」も「南畝」が発祥ではなく、本来は「長畝」なんですね。
戦前の住宅地図を見ても、南畝町には「南畝」さんも「農年」さんも、そして「能年」さんも住んでいません。

では、賀毛郡長畝村はどこにあったんだろうかということになりますが、今の所調べた限りは不明のようです。でも、ちょっと興味深いことがあります。
先程のネット上の「日本姓氏語源辞典」を見ると、「南畝」という名字を持った人は兵庫県多可郡多可町、 「能年」という名字を持った人は兵庫県神崎郡神河町、そして「農年」という名字を持った人は兵庫県西脇市。兵庫県でもわりと限られた地域になります。で、それらの町は播磨国の地図にあてはまてみると、だいたいこの赤丸のあたりに入ってきます。賀毛郡もありますね。
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おそらくは小さな、村人の数もあまりいなかったはずの長畝村は、賀毛郡の西の市川に近い方にあったと思われます。で、その長畝村に住んでいた人の子孫が、「長畝」が「ノウネン」と発音されて「南畝」になったと同様に、ある場所では「農年」、そして神崎郡の方に行った人は「能年」という名字を名乗るようになったと考えるべきだと思います。

その賀毛郡の西にあったはずの長畝村の人が姫路の南畝町にやってくることになったのは、いうまでもなく古代の市川、今の船場川の流れがあったからこそ。

ところで、先日触れた南畝町の名前の由来となる「長畝川」の名前の由来を書いた『播磨国風土記』は、正確にはこう書かれています。横書きなので返り点を入れることができませんが。

所以号長畝川者 昔此川生蒔于時賀毛郡長畝村人到來苅蒔爾時此處石作連等爲奪相闘仍殺其人即投棄於此川故号長畝川

「長畝川」には「ナガウネガワ」、「石作連」には「イシツクリノムラジ」、「蒔」には「コモ」と読みがながふられています。さらに「蒔」は△の印が横にあり、誤字の指摘がされています。正しくは「蒋」なんでしょうね。

送り仮名がないので、現代語を交えて書き下し文にしてみます。

長畝川と号する所以は、昔、この川に蒋が生えていて、時に賀毛郡長畝村の人が来たりて蒋を苅った。その時、ここの石作連らが奪ったため相闘い、その人を殺してこの川に投げ棄てた。故に長畝川と号す。

何だかひどい話ですが、名前の由来としては説明が足らなさすぎるという感じがします。でも、どうやら『播磨国風土記』にはこんな感じの説明が多いみたいですね。
実際には、この殺された村人の家族が殺された人を探しに来るとか、いろいろの後の話があったはず。
地名に名前が残ったということは、おそらく後でこの殺された村人をきちんと葬って供養し、その後も祈りを捧げ続けたんではないでしょうか。石作連というのは石棺を作る人たちなので、彼らも殺してしまったことを反省して、その村人を葬るための石棺を作っただろうと。
そして、ときどきは賀毛郡長畝村の人たちがここにやってくるようにもなって交流が生まれた...。
というようなところまでいかないと、地名としては残らないはずだと思います。

まあ、あくまで推測なのですが、この推測をしておかないと、僕の住んでいる近くまで死体が流れてきたというイメージが払拭されないので。
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by hinaseno | 2013-09-13 09:03 | 雑記 | Comments(1)

家の近所を流れている細流、名前がついていないのかとパソコンでいろいろと調べてみたのですが、わかりませんでした。というわけで、とりあえず川沿いを歩いてみることにしました。もしかしたら川の名前につながる何かがあるかもしれませんから。例えば「○○川にゴミを捨てないで下さい」と書かれた看板があるとか。

でも、残念ながら何ら手がかりなし。おそらくは農業用に整備された水路がまっすぐに延びているだけ。水路の脇にはまだこんなふうに米を作っているところもありました。
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途中にあった川沿いの家の年配の人に川の名前を尋ねたら、名前はないとの答え。でも、改めて後でもう一度いろいろと調べたら、どうやら南畝町の辺りから南に延びる水路は清水川という名前が付いているようです。あくまで行政上の仮の名前で、一般的には使われていないのかもしれませんが。

さて、その清水川。果して現在も船場川につながっているんでしょうか。
ここに木山捷平が姫路にいた頃のようすを調べるために何度も見ていた大正9年の地図があります。そこにははっきりと船場川から南畝町に向かう川の流れが記載されています。残念ながらこの川の名前は記されていませんが。木山さんが一時期住んでいた「千代田町」も見えます。
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それからこちらはちょっと見づらいですが大正十四年の姫路市内の地図。真中にあるのが姫路城。赤丸が南畝町です。船場川から枝分かれした川が現在の清水川とは違う方向に流れているのがわかります。ただ残念ながらこの地図にもこの枝分かれした川の名前が記されていません。
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でも、はっきりしていることは昨日貼った古地図に示された長畝川とこの地図で示された川が同じ流路を辿っていること。つまり名前はなくなってしまったとはいえ、長畝川の流れは近年まで残っていたんですね。

ちなみにこの地図は木山捷平と関わりの深い南畝町228と288の番地を調べるために入手した昭和30年代初頭の住宅地図。これを見ると戦前には今の清水川が作られていたことがわかります。現在は完全な直線になっていますが。
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というわけで、現在はおそらく暗渠になっているはずの船場川から清水川に向かう流れがあるはずなので、それを確認しようと思ったのですが、いろいろと調べていたら、それを詳細に調べられている方をネット上で発見してしまいました。これです。
僕はまだ「播磨国風土記」関係の文献をほとんど調べていないので、何ともいえないのですが、長畝川に関してここまで調べられている人はいないだろうと思います。もう少し自分で確認してみたかったのですがちょっと残念。
この方の書かれているものを見てわかったのは、船場川から南畝町に流れ込んでいる旧長畝川は清水川ともう一本安田川という川に分かれていること。安田川と呼ばれている川は住んでいる場所のすぐ東を流れていてこの部屋からも見ることができます。この水路は水が涸れることが多く、川と呼べるようなものではないと思っていたのですが。

ただ、確かなことは、僕は船場川から枝分かれした、昔は長畝川と呼ばれた川の、近年、清水川と安田川という2つに分けられた川の間にずっと暮らしていたということ。船場川からの流れにはさまれる形で暮らしていたわけです。

そしてその船場川をさかのぼると市川につながっていて(もとは船場川が市川の本流だったようですが)、さらにその市川を上流にのぼっていくと、そこに「あまちゃん」の主人公である女の子の出身地があることを知りました。ちょっとびっくりでした。
彼女の本名の名字は「能年」(のうねん)。

「蒲田」という地名を調べるために、たまたま見つけた本で木山捷平と関係のある「南畝(のうねん)町」も調べたことから、思わぬうれしい発見がいくつもありました。

せっかくなので、一年ぶりですが木山捷平が姫路にいた昭和2年に書いた「船場川」という詩を改めて載せておきます。木山さんが23歳のときに書いた詩。いったい誰に会いに行ったんでしょうか。
あへないで帰る

月夜

船場川はいつものやうに流れてゐたり

僕は

流れにそうてかへりたり

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by hinaseno | 2013-09-12 08:57 | 雑記 | Comments(0)

予想通り、と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、昨日の最後に書いた、『播磨国風土記』に名前が載っているという長畝川のことを少し調べました。川のことになると、どんなに小さな川であれ、というか小さな川だからこそ調べたくなってしまうんですね。

ここで唐突に話はそれるのですが、僕は何かをパソコンで検索するときに、まず画像検索をしてみることが多くなっています。そうすると意外な発見があったりするんですね。ほとんどはどうでもいいことなのですが、ときどきは、はっとするような発見があります。
例えば、「1903年のオハイオ州デイトン」を書いていたときに、画像検索して、いくつもの飛行機の画像を見つけたことで、ライト兄弟のことを発見することができました。
昨日はというと、なんと「あまちゃん」でした。わかる人にはわかるんでしょうね。でも、僕は”そのこと”を全く知りませんでしたから、へえ〜っ、でした。

「あまちゃん」といえば、先日のアメリカン・ポップス伝で、大瀧さんが「あまちゃん」の話をちらっとされたんでちょっとびっくりしました。見てないとわからないような言葉も使われていました。僕は見ていないので、その”喩え”がピンと来なかったのですが。

さて、木山捷平と何らかのつながりがあったはずの南畝町の名前の由来になった長畝川(ナガウネガワ)。今はその名前の川は存在しません。古代から中世にかけて、川というものは流れを何度も変え、支流を作っては、その支流が本流となったり、あるいはいつの間にか支流が消えていたりとかを繰り返して来たはず。でも、一つ面白いことがわかりました。長畝川は、僕がいちばん最初のブログで書いた船場川の支流であったということが。
じぇじぇじぇ! でした。

そういえば以前、船場川は市川から枝分かれした川と書きましたが、その後で調べたら、どうやらもともとは現在の船場川が流れている方が市川の本流で、現在の市川は支流だったということです。
その古代は本流であった船場川から枝分かれして現在の南畝町のあたりに流れ込んでいたのがどうやら長畝川。時代によっては鹿間川、あるいは飾磨川と呼ばれたみたいですね。
これは柳沢忠著『船場川の流れ』(昭和57年発行)に載っていた、古図をもとにして筆者が作成したと思われる、姫路市内を流れていた昔の市川水系を描いたものです。南畝と書かれているところに流れ込んでいる飾磨川と書かれている川が長畝川と呼ばれた川。
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ではその長畝川は船場川とどの辺りで枝分かれしたかというとおそらく今の十二所線と呼ばれる国道と交わる辺り(下の地図の赤丸で示した場所)。そこから水色の矢印で示した南東に流れて行ったと思いますが、現在の地図上では何の流れ確認できません。
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ところが面白いことに久保町の辺りで突然流れが現れ、さらに南畝町ではっきりと川の流れが出てきています。ということは矢印の辺りは暗渠になっているということ。
ちなみに下の写真は、地図のオレンジ色で示した辺りで撮った川の写真です。川幅は1m余り。
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実は昨日最後に触れた、僕の住んでいる家のすぐ近くを流れてる細流がまさにこの川につながっているんですね。その細流は二本あるのですが、二本ともこの南畝町から流れてくる川につながっていました。
下の写真がその近所を流れている二本の細流。川幅は1mあるかないか。でも、死体が一体くらいは流れることはできます、なんて馬鹿なことを言ってはいけませんね。
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by hinaseno | 2013-09-11 10:00 | 雑記 | Comments(1)

姫路の中の蒲田(2)


地名の由来を知るのは好きです。たいてい諸説あるのですが、どれもそれなりに根拠があって興味深い。実は、そんなもっともらしい根拠とは全く関係なく適当に決められた可能性もあるし。
大田区という地名が大森と蒲田の一文字をとって決めたっていうのも、相当イージーな感じがします。まあ、西区とか東区とかといった味も素っ気もないものよりはましとはいえ。

地名でもっともわくわくするのはやはりアイヌ語に由来するものが多い北海道の地名ですね。この日のブログで書いた場所の地名がアイヌ語で「夏越える沢道」という意味だなんてたまらなく素敵です。つい先日、ある方のブログで『北海道 駅名の起源』という本があることを知り、ああ、ほしいと思ってしまいました。

ところで東京の大田区の蒲田に関してもやはり地名の由来は諸説あるようです。平安時代の文献に蒲田という名前が見られるとのこと。かなり古い地名ですね。
ネットで見るとこんな説が書かれていました。

①湿地に人工的に造った乾燥地(陸地)を蒲地・蒲池(カマチ・ガマチ)といい、それが蒲田(カマタ)になった。

②この一帯が沼地で、泥深い田地を蒲田と呼んだことから。

③「飛び越えたところ」、「沼の中島」ことを意味するアイヌ語の「カマタ」から。

④蒲(ガマ)の茂る湿地、またそこを開墾した泥田、深田から。

湿地、沼地、あるいは泥という言葉が並んでいます。アイヌ語に由来する可能性もあるんですね。
小津安二郎の昭和7年の映画「生まれてはみたけれど」を見てみると、あの辺りには泥深い原野が広がっていたようです。そのイメージからすれば上の②が該当しそうな気がします。

さて、姫路の蒲田。実は結構広くて夢前川の西岸には西蒲田という地名もあります。姫路の蒲田はどうやら「カマダ」と読むようです。
先日、図書館に行ったら橋本政次著『昭和三十一年編 姫路市町名字考』(姫路市発行)というのがあって、その中に蒲田の地名の由来も載っていました。実は前から姫路の地名に関する本はいくつも見ていたのですが、蒲田まで書かれていた本ははじめて。
面白いことに、この本、その「蒲田」の所にだけ手書きで波線をひいたりふりがなをふったりしています。何百という地名の中でそこだけ。その人はいったいどんな関心でそれを調べたんでしょうか。

それはさておき、そこにはこんなことが書かれていました。東京の大田区の蒲田とはかなりちがっています。
「蒲田」は八幡八幡即ち応神天皇の御名誉田別命の「ホンダ」を「ホタ」と訓み、「発田」と書き、のち「蒲田」の字を当て、これを「カマタ」と訓んだ。あるいは元和年間飯塚五郎兵衛重次が夢前川の蒲原を開墾し、藩主本多忠政の命により「発田」を「蒲田」と改めて「カマダ」と訓んだともいい伝えている。

つまりもともとは「発田」という字が与えられていて「ホタ」と読まれていた場所だったようですね。ふ〜ん、という感じ。

ところで、木山捷平と関係の深い南畝町(のうねんちょう)。こちらの地名の由来は、へ〜え、という感じです。

「南畝町」は町が付く前は「南畝村」で、もともとは「長畝村」だったとのこと。播磨国風土記によれば、そこを流れる川を「長畝川(ナガウネガワ)」と言っていたようで、こんな伝説があるとのこと。

むかし賀毛郡(カモノコオリ、今の加西市の辺り?)の長畝村の人がこの土地にやって来て、この川に生えている菰(コモ)を刈り取ってもっていこうとしたら、この土地の石作連(イシツクリノムラジ)が、ちょっと待てと、それは俺たちのものだといってれを奪い取ろうとして争って、結局その人を殺してこの川に投げ捨てた。そこからこの川を長畝川と名付けたと。

ちょっとだけ脚色したのですが、何かせこい話ですね。で、その長畝川が流れた所にある村ということで「長畝村」となり、それが後につづまって「南畝村(ノウネンムラ)」となったのだろうということ。
名前の由来のもととなった長畝川って今もあるんだろうか。近くを流れているあの小さな川がそうだろうかと。死体が流れている姿を想像するのはいやですが、それにしてもせこい伝説。もちろん木山さんはそんなことを知らなかったと思いますが。
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by hinaseno | 2013-09-10 10:15 | 雑記 | Comments(0)