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今日は6月29日。
今から68年前に岡山大空襲があった日です。
これを書いているのは朝の8時。
かろうじて空襲から逃れ、まさに「九死に一生を得た」荷風は、今頃雨の中を途方に暮れながら下伊福町の池田優子さんの家をめざして焼け野原になった岡山の街を歩いていたんでしょうね。
家族とはぐれてしまった僕の父親は、もしものときに避難する場所として決めていた、市内から相当離れた田舎の町にある家に、おそらくは家族の中で一番早く到着して、他の家族がやってくるのを待っていたか、あるいは家族全員の無事の再会を喜び合っていた頃かもしれません。

でも、考えてみると、以前父親から聞いていた、旭川沿いの土手を歩いて行く父親の後をずっと追いかけてきて、振り返った父親(もちろん当時は子供)を見て、「なんだ、子供か」と言った老人が荷風であればとずっと思い描いていたのですが、そのとき荷風は父親が逃げていた旭川西岸の土手ではなく旭川東岸の西大寺に向かう道にいたわけで、荷風と父親が言葉を交わしていたのではという夢のような妄想は打ち砕かれてしまいました。

でも、すぐ近所に住んでいた半月ほどの間、二人はきっとどこかで出会っていた気がします。
荷風は何度も旭川沿いを歩いていますし、父親は川遊びが大好きだったみたいですから。

ところで、阿部雪子の話。
昨日、僕にとっては衝撃であった荷風とのツーショットの写真のことに触れましたが、実はそれは数年前に出た永井永光著『父荷風』にすでに収められていたんですね。高橋さんが”発掘”したわけではなかったんですね。図書館に行って調べたらきちんと載っていました。

『父荷風』では、その写真の掲載されたページで阿部雪子に関してこう書かれています。
 
ところで、素性も何もよくわかりませんが、よく見かけましたので、気になった女性がいました。それが阿部雪子さんです。荒川の下流の葛西橋が、まだ古い木の橋のころに荷風といっしょに写っている写真があります。阿部さんと荷風の関係はよく聞かれまして、いろいろ調べたのですが、結局わかりませんでした。
 荷風が亡くなる少し前まで、阿部さんは小山さんとも何回か来ています。上野の博物館に勤務していたころでしょうか。阿部さんが来て離れの部屋に入ってしまうと、音もしなければ声もしない。一時間か二時間いて、すっと帰っていくのです。何をやっているのか、まさか荷風のように覗くわけにもいきませんでした。
 ともかく不思議な人でした。「日記」を見ると、かなり頻繁に来ています。あまり荷風のタイプではなかったと思いますが。

高橋英夫の『文人荷風抄』によると、阿部雪子は最初は人に頼まれて荷風の家に家事の手伝いをする形で行ったようです。
阿部雪子を紹介したのはどうやら林龍作というヴァイオリニスト。菅原明朗の友人だったようです。林龍作は戦前まで神戸女学院の教授をされていたようです。神戸女学院といえば内田樹先生が長年勤務されていた大学ですね。
林龍作は関西と関東に拠点を持っていたようで、『文人荷風抄』には書かれていませんが、『断腸亭日乗』に記載されている関東の住所は「目黒区洗足」。調べてみると阿部雪子の住所である「大森区南千束」のすぐ近くですね。
阿部雪子と林龍作はどういう関係だったかはわかりません。でも、付き合っている女性をいくら荷風とはいえ(いや荷風だからこそと言えるのかもしれませんが)家事の手伝いとして紹介するとは思えないですね。ただ、阿部雪子は何らかの形で音楽に触れていた可能性が高そうで、音楽を通じて何らかの接点を持っていたのかもしれません。で、その関わりの中で彼女に対して人として信用のおけるものを感じたからこそ荷風に紹介したんでしょうね。

でも、結局彼女は荷風の家の家事を手伝う人ではなく、荷風からフランス語を学ぶ弟子になります。同居する人に声も届かないくらいに小さな声でフランス語をささやき合う関係に。
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by hinaseno | 2013-06-29 09:53 | 文学 | Comments(0)

先日、荷風関係の本当に素晴らしい一冊の本を買いました。
高橋英夫著『文人荷風抄』。今年の四月に出た本。
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川本三郎さんが毎日新聞でこの本の書評を書かれているのを、つい先日ネットで知って、どうしても読みたくなりました。

川本さんはいくつも荷風に関する本を書かれていますが、同時に荷風に関して書かれた本の書評もいくつも書かれていて、ときどきは本をぱらぱらと見たりはしますが、あえて買って(あるいは図書館で借りて)読もうと思うものはありませんでした。
でもこの本だけは違いました。

僕はここで荷風の『断腸亭日乗』の話を延々としているのですが、まだ全部を読んでいないばかりか、おそらくは3分の1すら読んでいません。重点的に読んでいるのは、まだ「索引」という便利なものがあるのを知る前に探した成島柳北のことが多く出てくるあたりから。もちろん一番読んだのは昭和20年ですが。

成島柳北のことが多く出てくるのは昭和18年の2月あたりから。2月10日の『日乗』にこう書かれています。
午後大島隆一氏来話。成島柳北に関する著述の序を需めれる。

このあたりから一応最後まで読んだのですが、その部分に頻繁に登場する二人のことが気になっていました。一人は男性、一人は女性。もちろんこの時期の荷風に最も深く関わった男女と言えば何度も書いている菅原明朗と永井智子なのですが、この二人は芸能活動をされていたので、ネット上でもいろんな情報があふれています。

でも、僕が気になっていたのは、一般人。
一人は、前に一度この日のブログで書いた相磯凌霜。関口良雄さんの山王書房の常連客でもあった人ですね。

で、もう一人の女性の方。
名前は阿部雪子。
名前に「雪」という字がついています。
荷風にとって「雪」といえば、多くの人にとってすぐに頭に浮かぶのは『濹東綺譚』のお雪。そして実は先日来話してきた『問はずがたり』のヒロインの名も「雪江」。

荷風の小説をすべて知っているわけではないので、荷風の小説の中でどれくらい「雪」の字がついた女性が出てくるのかはわかりません。でも、僕にとって重要な2つの作品のヒロインの名前に「雪」という字がついているんですね。そしてその「雪」という字がついた女性が、あとでわかったことですがたまたま僕が重点的に読んでいた『日乗』に頻繁に登場している。

高橋英夫さんの『文人荷風抄』は、全部で3章から成り立っているのですが、驚いたことに僕が気になっていた2人の人、阿部雪子と相磯凌霜とのことを大きく扱っていたんですね。第二章の「フランス語の弟子」で阿部雪子を、第三章の「晩年の交遊」で相磯凌霜を取りあげています。
なんといっても阿部雪子を取りあげた「フランス語の弟子」が素晴らしすぎます。昭和20年代後半に撮られた阿部雪子と荷風が二人で並んでいる写真まで載っています。『日乗』を読む限りでは彼女の年齢を知ることはできなかったのですが、荷風とは40歳ほどの年の差。この写真はおそらく30歳を過ぎた頃になるんでしょうか。写真を立った場所が橋の前の河原というのが荷風らしい。実はその写真、何度も見ていた大きな橋の前で撮られた川を見つめる荷風の写真と同じ日に同じ場所で撮られたもの。

彼女の姿は白い半袖のブラウスに当時、つまり昭和20年代後半に多かった長めのスカート。川本さんは彼女の服装を見て、『東京物語』の原節子のようだと書かれています。そう、まさにこの日のブログで貼った原節子の服装にそっくりです。
そういえばこの日のブログで原節子の家は大田区の方向だと書きましたが、『日乗』に載っている、この阿部雪子の戦前の住所もなんと「大森区(現在の大田区)南千束」。もう少し付け加えれば相磯凌霜(鉄工所の重役)も大田区。住所は大森区久ケ原および池上。大田区には縁がありすぎてびっくりします。

荷風と初めて出会ったのは20歳前半。
実はこの阿部雪子が荷風と初めて出会った日というのが、まさに僕が柳北に関する『日乗』の記述を読み始めた日の4日後のこと。『文人荷風抄』には柳北とのつながりのことまでは書かれていませんが。

昭和18年2月10日に大島隆一氏から成島柳北に関する著述(『柳北全集』のことでしょうか)の序を頼まれた荷風は、それを3日後の2月13日に書き上げます。2月13日の『日乗』にその序の全文を載せています。
阿部雪子が『日乗』に初めて登場するのはその翌日、2月14日。考えたらバレンタインデーですね。でも、当時はそんな日は存在しなかったでしょう。
ただ、彼女はこの日、あるお菓子を持参して荷風の偏奇館を訪ねてきます。この日は日曜日だったんですね。
阿部雪子と云ふ女より羊羹を貰ふ。

もうひとつ、柳北と阿部雪子が重なって『日乗』に登場してくる部分があります。何度か触れた昭和19年10月16日の『日乗』。全文引用します。
蔭晴定りなし。正午小川君来りて眠をさます。阿部雪子来り餅栗を恵まる。午後森銑三君来り写本柳北の航薇日誌及び林鶴梁の日記二冊を示さる。天保十四年より明治初年まで三十余冊ある由なり。燈下小説執筆前夜の如し。この一編この分にて行けばやがて書上ることを得べし。

そのあと荷風が写すことになる柳北の「航薇日記」を持ってきてもらった日に彼女はやって来ています。この日は餅栗を持ってきて。
この日荷風が執筆を続けていたのはもちろん『問はずがたり』。荷風はきっと雪子からもらった餅栗を食べながら小説を書いていたんですね。同じ「雪」の字のついた女性をヒロインにした物語を。
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by hinaseno | 2013-06-28 12:21 | 文学 | Comments(0)

大学時代、専門とは別に、可能な限り考古学の授業をとっていました。好きだったんですね。
お目当てはやはり近藤義郎先生。その道の大家でしたから。その考古学の授業で近所の遺跡をめぐったり、ときには発掘作業を手伝ったりしていました。

吉備の巨大古墳である造山古墳、作山古墳もたぶん行ったはず。で、楯築遺跡にも行ってるんですね。当時はまだ発掘調査が進んでいた時期だったと思います。
あの立石のある広場にぐるっと学生を座らせて近藤先生が話をされていたように思います。その段階でどれほどのことが明らかになっていて、どんな内容のことを語られたのかは全く記憶がありません。ただ覚えているのは、その遺跡が考古学的に”とてつもない”ものになるだろうということと、その場所がとても気持ちのいい場所だったということ。でも、その後、他のものへの関心が移る中で楯築遺跡のことをすっかり忘れていまったのですが。

いったい楯築遺跡の研究はどこまで進んでいるのかと思い、ネットで調べたら結構びっくりするような言葉がいくつも。その多くはあの卑弥呼、邪馬台国につなげられた言葉。果して近藤先生はそこまでのことを語られていたんだろうかと思い、近藤先生の『楯築弥生墳丘墓』(2002年)と、それから近藤先生が序文を書かれている薬師寺慎一著『楯築遺跡と卑弥呼の鬼道』(1995年)を読んでみました。いずれも吉備人出版。考えてみたらここで岡山関係のことを調べようと思って見つけたものはほとんど吉備人出版の本ですね。岡山の出版社で、知ったのはつい最近なのですが、その充実したラインナップには感心します。岡山文庫だけではないんですね。

さて、近藤先生の『楯築弥生墳丘墓』。かなり高齢になって書かれているのですが(どうやらこの前年にパソコンを人にもらって初めてそれを使って書いたとのこと)、読み始めてすぐに”あの頃”と変わりない近藤先生の姿が蘇ってきました。自分のことを「僕」と表現されているのが、いつまでたっても若さを失われていない感じがしてうれしくなりました。

最後に載っている著者紹介の言葉が最高に近藤先生らしくっておもしろかったので引用します。ご自分で書かれたんでしょうね。
1925年足利市に生まれる。栃木・東京・京都で遊び、1950年春岡山に移住し、宿を替わること約10回。女房と倅2人。発掘した遺跡約100余、うち世に「大?発掘」といわれるものは月の輪古墳(1953年)・喜兵衛島土器製塩遺跡(1954年〜1964年)・楯築遺跡(1976年〜1989年)である。1990年の岡山大学退官後、年金を得、遺跡歩き、小説よみ、雑文書きに過す。

と、まあこんな感じなのですが、本の内容は近藤先生らしく(その発掘調査で行なった気の遠くなるような作業と同様に)慎重に言葉を選ばれています。素人であればぱっと飛びついてしまいたくなるような気持ちを抑えて、あくまで発見されたもので言いうることだけを語られています。

ただ、極力センセーショナルな言葉を避けているけれども、結論的に言えばそれは近藤先生も書かれているように「大変な遺跡」であることは間違いないようです。

でも、”大きな”話に飛びつきたくなる要素はありすぎますね。
温羅伝説のもとになっている『古事記』に記されている大和朝廷が吉備を征服したのとは全く逆のストーリー、つまり吉備の勢力が大和に入って行ったというストーリー。そこまではいかないにしても、あの卑弥呼の古墳と考えられている箸墓とのつながりは心ときめくものがあります。

楯築墳丘墓(弥生時代なので古墳とは言わないんですね。どう見ても古墳なのですが)は弥生時代後期、つまり古墳時代が始まる直前の、日本最大の墳丘墓。それはまさに邪馬台国の時代。墳丘墓の形も前方後円墳の原型のようにみえる。棺に納められた人物は副葬品から見ると女性の可能性が高い。そこで発見された吉備地方特有の祭祀用に使われた特殊器台、特殊壷はあの最古期の前方後円墳で、卑弥呼の墓と言われている箸墓でも発見されている。
でも、近藤先生は形についても「一見前方後円墳『前方部』思わせる規模と整然とした形態をも」っていて、「他の弥生墳丘墓に類を見ない構造物」と語られるのみ。あるいは特殊器台、特殊壷についても、ある段階で大和に入り、のちに円筒型埴輪・朝顔型埴輪として全国に及んだとされているだけ。
もっとセンセーショナルな言葉を期待して読んだ人は肩すかしを喰らった気持ちになるのかもしれません。今の時代の学者であれば、すぐに...あっ、やめておこう。

さて、その近藤先生が序文を書かれている薬師寺慎一著『楯築遺跡と卑弥呼の鬼道』。こちらは吉備津にお住まいの研究者。その手のものを期待する人にとってはこちらの方を面白く読まれるのかもしれません。
僕も興味深く読みましたが、一番面白かったのは近藤先生の序文でした。薬師寺さんは近藤先生と1年間ほど大学で一緒に学ばれていた人とのこと。

近藤先生の序文はいきなりこんな言葉から始まります。
「なんとも不思議な本である」
で、さらにこう言葉は続きます。
「まず楯築を三世紀における倭の最大の墓、さればそこに葬られた首長は倭の最強最大の有力者、それは卑弥呼であると力説する。とすれば邪馬台国は吉備にあったのではないかと思い、『魏志倭人伝』に記事から、卑弥呼もそしておそらくは楯築の主も、鬼道と呼ばれる道教に通じていたに違いないと確信する」
「最後に筆者は楯築を中心とする備中地域で成立・展開した特殊器台を取り上げ、その最新型式の「宮山型」が最古型式の前方後円墳である奈良県桜井市の箸墓古墳などからも発見されることを重視し、『吉備の勢力が大和に入って、古墳を造った』と確信するのである。『楯築の後裔』はついに大和に入ったのである」

薬師寺さんの書かれていることの説明を、かなり距離を置いてされていることがわかります。この薬師寺さんの書かれていること、飛びつきたくなりますし、実際、学者の方でも最近同じようなことを語られている人がいます。でも、近藤先生は学者として越えてはいけないものを大学を退官された後も持ち続けられているんですね。

序文の最後ではこう書かれています。
「僕はこの本を原稿の段階で読ませていただき、天馬空をかける著者の自在な発想に、思わず手を差し延べ、あるいは寂として佇み、不思議な想いに耽った。いつの日か僕が考古学者をやめるときがきたら、道教とは別の道を通ってでも自由に羽ばたいてみたい気がする」

僕自身は吉備の人たちが大和に入ったとしても、その大和朝廷の帝国主義的なスタイルと吉備国のイメージは合わないような気がします。箸墓との関連は興味をものすごくそそられますが。

近藤先生は残念ながら4年前に亡くなられています。
僕が授業で聴いていた頃、宮内庁が陵墓を公開しないことに対して何度も怒りの言葉を口にされていたように思うのですが、その宮内庁が今年、箸墓を公開したんですね。といっても端っこの方をちょこっと歩かせただけという感じですが。
僕がそのニュースを見たときに一番に思ったのは前方後円墳の成立の研究をずっとされていた近藤先生のことでした。ああ、その場に近藤先生に行ってもらいたかったと。あまりにも遅すぎると。

最後に「荷風を見えない力で呼び寄せた場所の話」というタイトルのことにつなげて言えば、楯築の墓に葬られた人は、卑弥呼であるかどうかは別として、なんとなく女性の首長であったと考えてみたいですね。
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by hinaseno | 2013-06-27 11:15 | 文学 | Comments(0)

最近気がついたことで最も興味深かったのは、なんといっても荷風が岡山の風景を入れるために後半を大幅に書きかえた『問はずがたり』で、主人公を足守駅あたりからおそらくは庭瀬、妹尾崎辺りに設定されていたと思われる主人公の実家までバスで走らせたルートでした。
前は少し省略したのですが、改めてその部分を引用します。
 西の方総社と呼ばれる町をさして、極めて速力の鈍い旧式の支線列車は、岡山の町を出るが否や備前備中の二国にひろがる明い沃野の唯中に僕の身を運んで行く。今更言ふまでもなく、旅行好きの人は一ノ宮、高松、吉備津などゝいふ町や村の散在してゐる松の多い丘陵の風景の、いかに明媚であるかを知つてゐるだろう。北方の空を限る長い連山の麓から南の方面一帯、瀬戸内の海岸までひろがつてゐる中国筋の沃野は、今しも麦の収穫を終つて稲の植付けに忙しい最中であった。二筋三筋この地方を貫き流れる河川から、縦横に幾筋となく導かれる灌漑用の溝渠には、早苗を積んだ田舟が水の流れに従つて、白壁づくりの農家の軒下を往復し、天鵞絨のような藺草の青さは、洗つたやうな砂道の白さに強烈な色の対照を示してゐる。
 僕の生れた家はかういつた平野の真中に立つてゐる小さな停車場からまたもやバスに乗換えて十五分ばかり樟と松との森林に蔽はれた山際に並んで、いづこも白壁の塀を繞らしてゐる人家の中の一軒である。

荷風が頭に思い描いたのは、吉備津神社のある吉備の中山と日差山の間を流れる足守川に沿った田園地帯を通るルート。残念ながらそのバスから見た風景は描かれていません。なぜならば、そこは荷風自身、岡山にいる間に一度も通らなかったルートでしたから。

何度も紹介している荷風自身が描いたこの地図を使えば、荷風が実際に歩いたのは赤い矢印で示したルート。でも、『問はずがたり』の主人公がバスで通ってやってきたのは青い矢印で示したルート。
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荷風は平松氏の農園から南の方に目を向けて成島柳北を想起するのですが、このとき少しは北の方角も目を向けたにはちがいありません。もしかしたら平松氏は吉備の中山、日差山、あるいはその向こうの龍王山や鬼ノ城の話もしたかもしれません。

実はこの青色で示したルートを成島柳北は通っています。そのようすは『航薇日記』の10月29日に描かれています。そこには吉備の中山、日差山(柳北は「庇山」と表記)、龍王山、鬼ノ城など、このあたりの重要な山、史跡がいくつも出てきます。足守川のことは書かれていませんが、おそらく「撫川(なつかわ)」と表記されている川が足守川のことだろうと思います。

前に『雨月物語』の話を書いたときにも触れましたが、柳北は吉備津神社の鳴釜の神事、つまりはこの辺りに伝わる最も魅力的な伝説である「温羅(ウラ)伝説」のことを知っていて、『航薇日記』にも紹介しています。

そう、荷風が『問はずがたり』の主人公をバスで通らせたルートは、まさに「温羅伝説」ルートと重なっています。
桃太郎伝説にもつながる「温羅伝説」を初めて知ったのはたぶん高校時代。歴史的な事実とさまざまな伝説が交錯するこの物語には本当に心がときめくものがありました。

で、改めてネット(たとえばこのブログとかこのブログ)などで伝説に関わる場所を見ていました。
鬼ノ城、血吸川(足守川に合流する川。昭和20年8月28日の『日乗』で「足守と服部といふ駅の間に小川二流あり」と書かれている川の一つが足守川で、もう一つが血吸川)、矢喰神社、鯉喰神社、そして楯築遺跡...。

楯築遺跡?
その遺跡の写真を見たとき、あっと思いました。
ここ、大学時代、近藤先生の授業で行った所じゃないかって。
あの不思議な遺跡はこんなところにあったんだと。びっくり。
僕は吉備津神社以外、あのルートの史跡には行ったことはないと思っていたのですが、行ってたんですね。しかも楯築遺跡は倉敷市ではあるのですが、庭瀬のすぐ近く。

『問はずがたり』の主人公はバスの中から、この楯築遺跡のある丘を眺めたときに、その頂上部にいくつかの立石が並んでいるのが目に入ったでしょうか。いや、庭瀬あたりに住んでいたのならば、子供の頃にそこで遊んでいたかもしれません。そして、あの不思議な石も目にしていたかもしれません。

残念ながら楯築遺跡の写真は1枚も持っていませんので、きれいな写真がいくつも載っているこのサイトの画像を勝手にお借りしました。
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このサイトに載っているこの写真も感動的です。
鬼ノ城からとった「温羅伝説」ルート。まさに、荷風が主人公にバスで通らせたルートです。楯築遺跡の向こうに見える尾根は、荷風の行った平松さんの晴耕園があった場所ですね。
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by hinaseno | 2013-06-26 09:34 | 文学 | Comments(0)

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蓬莱橋、鶴見橋がかかっている場所まで戻ってきた荷風。
この日の『断腸亭日乗』には下伊福町の池田家に行ったことしか書かれていません。
でも、荷風が岡山市の西の下伊福町の池田家へ行ったのはたった一度だけ。岡山にやってきた翌日に菅原明朗と一緒に行っています。その日、荷風は駅近くの人の家に泊まっていたので、もしかしたら池田家の人が迎えにきたのかもしれません。このたった一度だけ行った下伊福町の池田家が荷風にとって岡山で唯一頼れるべき存在だったんですね。

ただ、いうまでもなく空襲で焼け野原となり風景も一変してしまった岡山市内を歩いて一度しか行っていない場所へ辿り着くのは相当困難だったはず。
70に近い年齢。昨夜来何も口にしていない。火が迫って来る場所から逃げ、その逃げる中ですぐ目の前に焼夷弾が落とされるというショックも受けている。さらには雨も降り続いている。

でも、荷風はそこに辿り着くことができたんですね。もちろん人にいろいろと尋ね歩いただろうとは思います。その一方でやはり荷風の地理的な感覚がいかに優れたものであるかも思わずに入られません。

蓬莱橋、鶴見橋に辿り着いてから後の『罹災日録』を全て引用します。『断腸亭日乗』には書かれていないことばかりの記述が続きます。
時に県庁前警察署の建物無事に残りたりと語るものあり。行きて休むこと半時間ばかり。市中罹災の区域も稍審にするを得たり。予はこの地に一人の知己なし。この際身を寄すべき処下伊福町なる池田氏の家あるのみ。下伊福町の町は岡山市の西端にして田疇の間に在り。道程凡そ一二里なるべし。雨中行李を肩にし予烟濛々たる街路を歩む。其困苦名状すべからず。漸くにして尋ね到れば其人の家も亦焼失せしが、四辺に田園あり。直に避難先の家を知り、相会して互に無事を賀することを得たるは不幸中の幸なり。池田氏が予の為に買い置きたる夜具また避難先の家に在り。恰も好し。菅原氏も明石より帰り来るあり。池田氏の周旋にて三門町二丁目佐々木といふ人の家の一室を借り、其夜は野宿の悲しみに遭はざることを得たり。これ皆池田氏が好意の賜物。其恩義終生忘るべきにあらず。

「雨中行李を肩にし予烟濛々たる街路を歩む。其困苦名状すべからず」との言葉があります。『断腸亭日乗』では知りえなかった言葉。

ところで先日の岡山空襲の戦災状況を表した地図を見ると興味深いことがわかりました。荷風が鶴見橋(右の青色の四角)から下伊福町(左の緑色の四角)のあたりを拡大したものを貼っておきます。
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まず、荷風が「県庁前警察署の建物無事に残りたりと語るものあり」と書いているのですが、確かに県庁付近には焼け残っている場所があるんですね(黄色の四角で囲った部分。実際には県庁とそのそばの警察署は真っ赤になっているのですが)。調べてみたらこの奇跡的に焼け残った部分にあったのがこの禁酒会館。岡山にやって来た川本三郎さんが訪ね、青葉市子さんが昨年ライブをした場所。
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さて、もちろん荷風の泊まっていた松月あたりは焼けているのですが、その松月の前に泊まっていた岡山ホテルはさらに爆心地に近い所にありました。もし荷風がこの岡山ホテルに滞在し続けていたならば、おそらく荷風は逃げ延びることはできなかったのではないかと思います。

庭瀬の外れの山に菜園を持っている平松さんが経営する松月に移ったことは、やはりいろんな意味で奇跡的なことだったというしかないですね。何か見えない力が働いていたとしか思えません。そして荷風が向かった下伊福町も、その見えない力に呼び寄せられた気がしないでもありません。
戦災地図を見ると下伊福町は市内から少しはずれているのに焼けています。で、荷風は結局、その少し北の妙林寺(オレンジ色の四角で囲んだ所)のあたりで過ごす日々が始まります。

まもなくやってくる6月29日。この昭和20年6月29日という一日を見るだけでも荷風には見えない不思議な力が働いていたとしか思えません。
そしてその力を及ぼしていたのはやはり庭瀬あたりということになります。

何度も書いてきたように庭瀬あたりには間違いなく呪術的ともいえる力が存在しているのだと思います。その見えない力が荷風の命を助け、しかしながら旭東に逃げ延びようとする荷風の行く手を阻んで、荷風を西へ西へと引っ張っていった。そして柳北との奇跡的な邂逅をすることになる。
いったいあのあたりには何があるんだろう。
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by hinaseno | 2013-06-24 12:35 | 文学 | Comments(0)

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岡山空襲の日の、正確には空襲以後のことが記された昭和20年6月29日の『断腸亭日乗』を全文引用します。
六月廿九日 雨歇まず。焼残りし町を過ぎ下伊福四三三池田の家に至るにこゝも亦焼かれゐたり。されどあたりは曠然たる畠地にて池田の母子一同近鄰の家に避難しゐたり。午後明石より帰来りし菅原永井智子の二人と偶然池田の許にて邂逅することを得たり。

6月28日の『断腸亭日乗』と同様、書かれているのはほんの100字余り。でも、『罹災日録』には、やはり前日同様にかなり多くのことがこと細かに記されています。メモにはこの日のことが詳細に書かれていたことがわかります。

6月29日の『罹災日録』は河原の風景から始まります。
河原には避難の人多からず。流をわたりて対岸に行くものあり。対岸より此方の草原に来るものあり。砂上に集まりて物喰ふ家族もあり。暁風の冷なる事秋の如し。

この荷風が疲れを癒した旭川の東岸の河原は果してどのあたりになるんでしょうか。
前日の日記の最後には「来路を歩み再び旭川の堤上に出づ。対岸市街の火は今正に熾なり。徐に堤を下り河原の草に坐して疲労を休む」と書かれています。蓬莱橋も鶴見橋も空襲の被害を受けていないので、もし、蓬莱橋近くの河原であれば、流れを渡って対岸(西岸)に行ったり、あるいは対岸から荷風のいる東岸に来る人がいるはずはありません。また、被害の大きい南の方に向かったとは思えません。
おそらくは蓬莱橋のある場所よりもかなり北の方。つまり6月28日の『断腸亭日乗』に書かれている「鉄橋に近き河原」だったのだろうと思います。『罹災日録』には「鉄橋」という言葉は出てきませんが、メモには「鉄橋」近くの河原で体を休めたことが書かれていたはず。
このあたり、実際にはメモを見なければわかりませんが、かなり細かい内容のことが書かれていたであろうことが推測できます。ただ、『断腸亭日乗』を浄書する段階ではそれをまとめて文章化することができなかったんでしょうね。で、『罹災日録』を書くときに、特にこの6月28日と29日に関しては『断腸亭日乗』の浄書された文章を見ることもなく、改めてメモを見て書き直しをしたんだと思います。結果的に『罹災日録』には出て来なかった「鉄橋」という言葉が『断腸亭日乗』の方に残された。
このあたりのこと、できればその日のメモを見てみたいですね。
ちなみに東京大空襲の日のことが書かれた昭和20年3月11日の手帳のメモはこんな感じになっています。
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おそらくほとんどの人にとって、荷風が行った河原が旭川の西岸であろうが東岸であろうが、あるいは蓬莱橋から南の方であろうが、あるいは北の鉄橋近くであろうが何の関係のないことだと思います。でも、僕にとっては小さくはないこだわりがあるんです。このブログを以前から読んでいただいている方にはわかっていただけるかもしれませんが。

「路傍の樹下に蹲踞して」いた場所(現在の中区浜3丁目あたり)以降の荷風の足どりを地図で確認します。
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荷風は緑色の矢印で示したように、まず蓬莱橋のところまで戻り、対岸の市街地が激しく燃えているのを見て、さらには、次なる空襲が起こる可能性も考えて、旭川の土手沿いに、なるべく家の建っていない北の方へ向かい、緑の丸印で示した山陽本線の鉄橋近くの河原で体を休めたのだろうと思います。もしかしたら鉄橋を越えて百間川に分岐するあたりの場所まで行っていたかもしれません。

この土手沿いの経路は、まさに、4か月ほど前に僕がこのブログで書いた、単なる希望的妄想に過ぎなかった『旭東綺譚』とぴったり重なっているんですね。
ほんの1km余りの距離ではあるのですが、妄想と現実が一致していたんです。

『旭東綺譚』の妄想と重なるといえば、もうひとつ興味深いことがこの日の『罹災日録』に書かれていました。

突然雨が降り出すんですね。
『旭東綺譚』を書き始めたとき、僕は『濹東綺譚』のあの有名な場面をどこかに入れようと思って、どこかで雨を降らせようと考えました。で、その場所として地図を見ながらイメージしたのがまさに旭川の東岸の山陽本線の鉄橋付近でした。
『罹災日録』を引用します。
忽ちにして雨降り来りて居るべからず。堤に登り歩むこと二三丁。門構の家あるを見其軒下に立ちて雨を避く。門内にも雨を避くるもの数人あり。巡査も亦走り来りて入口に憩ふを見る。時間を問ふに六時を過ぐと言へり。予は雨の小降りとなるを窺ひ出でゝ旭橋に至り、対岸の烟を見るに、火勢も稍衰へしが如し。

ネット上で見ることができた岡山空襲の日の体験談を調べたら、やはり空襲がおさまってしばらくしてから雨が降り出したことが書かれていました。

旭川の東岸を北に向かって歩む、そして鉄橋付近で雨が降り出す。
妄想が現実と一瞬だけ重なっていたんですね。

残念ながら荷風は『旭東綺譚』のように、百間川の土手を東に向かって歩いたのではなく、蓬莱橋と鶴見橋(荷風は旭橋と表記しています)の方に戻ります。
そのとき、荷風の目にはかろうじて空襲の被害を免れた塀井の塔が真正面に見えていたにちがいありません。
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by hinaseno | 2013-06-22 13:04 | 文学 | Comments(0)

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爆弾の雨が降り注ぎ、あちこちで火の手が上がって行く市街地を避け、旭川の東にわたり、百間川の方へとまっすぐに延びる道(この道は現在の国道402号線の50メートルほど南を走っている道と思われます)を逃げて行った荷風。

しかしながら、その荷風の歩みを阻んだものがありました。
荷風の目の前に爆弾(焼夷弾)が落ちたんですね。まるで逃げ延びようとする荷風たちの進路を遮断するかのように。あるいは逃げ延びようとする荷風たちをねらったかのように。

『罹災日録』はこう続いています。
焼夷弾前方に落ち農家二三軒忽ち火焔となり牛馬の走り出でて水中に陥るものあり。予は死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を観望す。前方の農家焼け倒れて後火は麦畑を焼きつゝおのづから煙となるを見る。

「予は死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を観望す」
『罹災日録』を初めて読んだとき、最も衝撃を受けたのはこの言葉でした。東京大空襲以降、何度かの空襲にみまわれた荷風でしたが、「死を覚悟」したことが書かれているのをみるのは初めてでした。逃げ場を失っているんですね。しかも上空には戦闘機が焼夷弾の雨を降らせている。

『断腸亭日乗』では荷風は旭川の「河原の砂上に伏して」いたとが書かれていましたが、実際には旭川を渡って東に延びている道の途中の「路傍の樹下に蹲踞して」いたんですね。「死を覚悟」して。

前方にも後方にも焼夷弾による火の手があがっている。次には自分の真上に爆弾が落ちて来るかもしれない。このときの荷風の恐怖は想像するに余りあります。この恐怖の体験は荷風が戦時中に受けたものの中で最も大きなものだったんではないでしょうか。
これ以後、荷風がしばらくの間「恐怖症」に陥ったこともわかりますし、精神的な力がない中で文章化するのも困難であったことも推測できます。ただおそらく荷風が常時持参していたメモにはかなり克明に記載されていたことは間違いないですね。

果して荷風が「路傍の樹下に蹲踞して」いた場所はどこなんだろうと考えました。

岡山空襲の被害地域を示した地図がどこかにないかと探していたら、国会公文書館のサイトに「戦災概況図岡山」と題された、かなり詳細な地図がありました。
これが被害状況を示した全体の地図です。
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基本的には旭川の西岸の市街地が真っ赤になっているのですが、東岸でも赤く塗られた地域があります。小川洋子さんの実家のある森下町や内田百閒の生家のある古京町あたりから門田屋敷にかけても真っ赤に塗られています。

で、その上の方に飛び飛びに赤く塗られた部分があります。まさに荷風が逃げていた場所です。
そののあたりを拡大したものがこれです(青い線は近くを流れている川)。
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荷風が逃げたはずの進路上に赤く塗られた場所が2か所。一つは浜(現在の岡山市中区浜)にある現在の操山高校の南あたり。調べたら操山高校は空襲で60%ほど焼けたとのこと。それからその西の原尾島辺りにも赤く塗られた場所が広がっています。荷風が落下するのを目にした焼夷弾による火災はおそらくこのどちらかだと思います。この2カ所の距離を考えると同じ戦闘機から落とされた小型の焼夷弾による火災が二手に分かれて起こった可能性もありますね。水を張った水田に落ちたものは燃え上がらなかったんでしょう。

荷風が「路傍の樹下に蹲踞して」いた場所を知る手がかりとなるのはこの2つの言葉。
焼夷弾前方に落ち農家二三軒忽ち火焔となり牛馬の走り出でて水中に陥るものあり

前方の農家焼け倒れて後火は麦畑を焼きつゝおのづから煙となるを見る

荷風が逃げている「前方」、つまり東の方向にある農家が焼けて、そこから牛馬が逃げ出して水中、つまり川に落ちたことが書かれています。
上の地図に青い線で示しているのは、荷風の逃げた道沿いにある川です。
操山高校付近の家は密集していて農家という感じではありません。おそらく燃えた農家は原尾島あたりで赤く示された中にあったのではないかと思います。牛馬が落ちた水中は、そこから南西に延びている川ではないでしょうか。

そして後方にも火が見える場所となると、荷風が「路傍の樹下に蹲踞して」いたのは、だいたい地図で赤の丸で囲んだこの辺りになるように思います。
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現在の地名でいえば岡山市中区浜3丁目と原尾島3丁目の境目あたりになるでしょうか。

と、このあたりをGoogleマップで何度か見ているうちに、ふと思いあたることがありました。ちょっと前にそのあたりを別のことでチェックしていたことがあったので。
ああ、やはりそこは岡山市中区浜3丁目。驚きました。なんという偶然なんだろう。

このブログで以前何度か書いたことのある岡山に戻ったら立ち寄っていた万歩書店平井店。
実はその店は今年の3月末で閉店したのですが、そこの店長だった中川さんが今月新しい店を始められたんですね。名前は『古書五車堂』。今度岡山に帰ったときには伺うつもりでいるのですが、そのお店の場所がまさに岡山市中区浜3丁目。その辺りは行ったことがなかったので、はがきをもらったときに一度Googleマップで確認していたんです。いやはやなんとも。

でも、本当にいい場所ですね。すぐ南には安住院の多宝塔(瓶井の塔)が見えて、もと西大寺鉄道の後楽園駅に建てられた夢二郷土美術館、あるいは内田百閒や小川洋子にゆかりのある場所にも近い。そしてそこは何よりも荷風の身を最終的に守った「旭東」の地。
もちろんさすがの中川さんも、店を始められた場所のすぐ近く(もしかしたらまさにその場所だったかもしれませんね)に荷風がその日やって来ていたなんてご存じなかったと思いますが。

さて、(実際には6月29日の出来事を書いた) 6月28日の『罹災日録』はこの後もう少しだけ続きます。
空中の爆音も亦次第に遠し。即ち立つて来路を歩み再び旭川の堤上に出づ。対岸市街の火は今正に熾なり。徐に堤を下り河原の草に坐して疲労を休むるに、天漸く明し。

岡山大空襲が終わったのが午前4時7分。空襲が終わったのを見計らって荷風は旭川の堤に戻っています。ただ、橋を渡って対岸、つまり旭川の西の市街地の方へは行かず、堤から河原に降りて行って一休みしています。

荷風が確かに旭川の河原に降りていました。でも、それは西岸ではなく東岸だったんですね。
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by hinaseno | 2013-06-21 10:11 | 文学 | Comments(0)

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昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲は、『断腸亭日乗』にも書かれている通り、空襲警報が鳴らない中で突然始まりました。当時、荷風の滞在していた松月という旅館の北の弘西小学校近くに住んでいた父からも、その日空襲警報が鳴らなかったことは何度も聴かされました。
空襲が始まったのは午前2時43分。荷風は最初の爆撃の音で目覚めただろうと思います。すぐに荷物をまとめて旭川の堤の方へ逃げます。
改めて空襲の日の『断腸亭日乗』を引用します。
六月廿八日 晴。旅宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまゝ帰り来らざるを見。今明日必異変あるべしと避難の用意をなす。果してこの夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひゞかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。

地図上でこのときの荷風が避難した進路を予測すると、旭川の堤に出るまでの進路は正確にはわからないにしても、だいたいこの赤の矢印で示したようになると思います。
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旭川西岸の堤を北上して(僕の父親もそこの堤を北上して逃げました)、山陽本線の鉄橋のあたりで河原に下り、そこで空襲が終わるまでずっと臥せていた。その場所が青色の点線で示したあたりと予測できます。

僕は数年前に初めて『断腸亭日乗』を読んでから、旭川のその場所をずっと荷風が避難した場所と考えていました。そしてほんの数分間ではあるにせよ僕の父親と同じ場所を走っていたという想いを抱き続けてきました。

でも、実際には違っていました。
その日の『罹災日録』には全く違った事実が書かれていました。まさに「九死に一生を得たり」の状況がそこにはありました。
6月28日の『罹災日録』の初めの部分を引用します。
六月廿八日 晴。宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまゝ帰り来らざるを見、今明日必ず災異あるべしとて遽に逃走の準備をなす。果せるかな。この夜二時頃岡山の市街は警戒警報の出るを待たずして猛火に包れたり。予は夢裏急雨の濺来るが如き怪音に驚き覚むるに,中庭の明るさ既に昼の如く,叫声跫音街路に起るを聞く。倉皇として洋服を着し枕元に用意したる行李と風呂敷包とを振分にして表梯子を駆け降りるより早く靴をはき、出入の戸を排して出づ。

「燕の子」の話は『日乗』に数日前から何かを予感するように書かれていました。空襲警報は鳴りませんでしたが、荷風はすぐに逃げ出せる準備はしていたんですね。何度かの空襲を経験していたからだと思います。『罹災日録』はこう続きます。
火は既に裁判所の裏数丁の近きに在り。県庁門前の坂を登りつゝ、逃走の男女を見るに,多くは寝間着一枚にて手にする荷物もなし。これ警報なくして直に火に襲われしが故なるべし。

当時の裁判所は松月の玄関を出て、正面西にありました。そこの後方に火が迫っていたんですね。荷風は東の方向の当時の県庁の前の坂を登って行きます。ここは現在の岡山県立美術館や天神山文化プラザなどがある場所。名前の通りそこは天神山と呼ばれる小高い岡になっている所で、僕も歩いたことがありますが、かなりの坂道。『断腸亭日乗』には書かれていない、逃げている人々の姿も描かれています。

で、荷風はそこを通り過ぎて旭川にかかっている橋の袂にやって来ます。『罹災日録』には「旭橋」という名前が出てきます。ただ「旭橋」という名前の橋はありません。これは地図を見ればわかるように鶴見橋のこと。その向こうには蓬莱橋も架かっています。
荷風は数日前、ここを散歩していたときにも蓬莱橋の名前は確認していましたが(西大寺鉄道の後楽園駅を発見した日ですね)、鶴見橋の名前はどうやら確認しなかったようです。おそらく旭川にかかっている橋ということで「旭橋」という名前にしたのではないかと思います。
いずれにしても、この場所までは『断腸亭日乗』に書かれていることから予測できる進路。でも、このあと驚くべきことが書かれていました。
旭橋に至るに対岸後楽園の林間に焔の上るを見しが、逃るべき道なきを以て橋をわたり西大寺町に通ずる田間の小径を歩む。

なんと荷風は鶴見橋、蓬莱橋を渡って旭川の対岸に行ってたんですね。地図で示すと青い矢印で示した方向になります。本当にびっくりしました。
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荷風は鶴見橋、蓬莱橋を渡って、旭川の東、つまり「旭東」に行き、西大寺鉄道の線路沿いに、百間川の方向に向かって逃げていたんです。
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by hinaseno | 2013-06-20 09:42 | 文学 | Comments(0)

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荷風の『罹災日録』と『断腸亭日乗』の違いに気がついて、その違いを指摘している人がいないかどうかネット等で調べてみましたが、見つけることはできませんでした。『罹災日録』は『断腸亭日乗』の昭和20年の部分を取り出したもの、との認識が一般的になっているようです。
理由としては、両方を読んだ人、特に内容の違いが大きく出ている岡山に関する記述の部分までを両方読んだ人がほとんどいないということに尽きるのではないかと思います。

『罹災日録』が扶桑書房から発行されたのは昭和22年(1947年)1月。このときにはまだ『断腸亭日乗』は公には発表されていません。公になったのは昭和27年(1952年)に中央公論社から刊行された『荷風全集』に収められてのこと。小津はその翌年にそれを手に入れて読みふけるんですね。

『罹災日録』の「序」に荷風はこう書いています。
罹災日録ハ多年余ガ執筆スル断腸亭日乗ノ中ヨリ西暦一千九百四十五年我ガ昭和廿年ノ部ヲ抜摘セシモノナリ。日乗ハ元ヨリ公表スベキ心ニテ記スルモノニ非ラザルヲ以テ記事ノ精疎文章ノ格式日ニ依リ時ニ随ツテ同ジカラズ。之ヲ通覧スレバ筆勢ニ均一ナク放漫蕪雑ノ陋頗厭フ可キノ観アリ。然レ共今遽ニ之ヲ改メザルハ陋劣乱脈ノ文却テ罹災当時ノ情態ヲ想見スルノ便アレバナリ。又処処記事ヲ削除シ人名ヲ変ゼシモノアルハ筆者現在ノ境遇ヨリシテ事情已ム事ヲ得ザルガ為ノミ。

「記事ノ精疎文章ノ格式日ニ依リ時ニ随ツテ同ジカラズ」。書き換えた理由はこの言葉に集約されていると思います。推敲が十分になされた部分とそうでない部分の差が大きいということですね。
僕もきちんと全ての部分を逐一比較したわけではないのですが、明石の記述あたりまでは内容的にほとんど違いは見当たりません。それ以前に浄書してあったはずの『断腸亭日乗』をほぼそのまま載せて、いくつか言葉を直している程度。
でも、岡山の記述になると、文章そのものが大きく変えられていますし、何よりも驚いたのは、大量に加筆されていることでした。

『断腸亭日乗』を見ると、昭和20年12月28日に『罹災日録』の浄写を始めたことが記されています。
前にも書きましたが終戦後荷風は熱海に移っておそらく10月くらいに『断腸亭日乗』の岡山の日々を浄書し、それからすぐに『問はずがたり』の元になっている『ひとりごと』の後半部分を書き直します。
『罹災日録』の浄写が行なわれたのはその後。
おそらくかなり文章を書く上での精神的、肉体的なエネルギーが回復した中で行なわれたはず。逆に言えば、『断腸亭日乗』の岡山の日々の浄写は、まだそれらが十分に回復していない中でなされたんでしょうね。だから荷風は読み返してみて、その不十分な推敲に不満を覚えた。あるいはエネルギーがなかったために書ききれなかったことにも不満を覚えて書き足した。

ということなので、昭和20年の明石までの日々は十分な推敲の中で『断腸亭日乗』が浄写されていたので書き改める必要はほとんどなかったけれども、岡山の日々に関しては十分に推敲がなされた上で書かれた『罹災日録』に載っている文章こそが『断腸亭日乗』に書かれるべき文章であったといえると思います。少なくとも荷風自身はそう考えていた。だからラジオで放送された『断腸亭日乗』の朗読で実際には『罹災日録』に書かれている方を読んだんですね。

そう考えると、現在は岩波書店の『荷風全集』の別巻に「異文篇」として、ほとんど目立たない形で『罹災日録』は収められているだけなのですが、できれば荷風の岡山の日々だけを取り出した『罹災日録(荷風の岡山の日々)―これが真実の「断腸亭日乗」』と題した本が新たに出版されるべきように思います。そこには『断腸亭日乗』の白眉といわれる東京大空襲の日の記述と変わらない、岡山大空襲の一日のことが記されているのですから。

『断腸亭日乗』にはこのようにたった数行しか書かれていないその日のことが、『罹災日録』には全く違う形で書かれていました。
六月廿八日 晴。旅宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまゝ帰り来らざるを見。今明日必異変あるべしと避難の用意をなす。果してこの夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひゞかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。(『断腸亭日乗』より)

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by hinaseno | 2013-06-19 10:18 | 文学 | Comments(0)

『夢二と福島』の本のことで昨日、ひとつ書くことを忘れていました。でも、後で考えたら今日書いた方がよかったようなことではあるのですが。

先日横浜から送られてきた『夢二と福島』はもちろん古本なのですが、その本の中にこんなものがはさみこまれていました。
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『夢二郷土美術館』の案内パンフレットと、「61.11.30」の日付の入ったスタンプ。昭和61年(1986年)11月30日は日曜日。この本のもとの持ち主は30年程前にどうやら日曜日を利用して岡山にある夢二郷土美術館を訪ねられたようです。

夢二郷土美術館は以前にも少し触れましたが、西大寺鉄道の終点の後楽園駅があった場所に建てられています。実はふた月ほど前に行ってみたのですが休館。その日は内田百閒が通った大手饅頭の本店にも行ったのですがそこも定休日で休み。

ところで今日、6月18日といえば、昭和20年(1945年)に荷風が西大寺鉄道の後楽園駅を発見した記念すべき日。

今、ちょうど荷風が68年前に岡山にいた日々が続いているので、日々、この日荷風が何をしていたのかを確認しています。昭和20年の『断腸亭日乗』を見ると、荷風が岡山市内の松月に滞在していた6月には晴れの日が続いていてあまり雨らしい雨が降っていません。今年と同じ空梅雨だったのかもしれません。皮肉にも雨らしい雨が降ったのは空襲があって焼け出された6月29日から30日にかけて。荷風はずぶぬれになって頼るべき知人もいない、廃墟と化した岡山の街を歩いていたんですね。また、それについては改めて書こうと思います。

さて、今日、6月18日の『断腸亭日乗』。前にも少し引用しましたが、全文引用しておきます。
晴、菅原君夫婦朝の中より出でゝ在らず、独昼飯を喫して後昨朝散策せしあたりを歩む、県庁裁判所などの立てる坂道を登り行くにおのづから後楽園外の橋に出づ、道の両端に備前焼の陶器を並べたる店舗軒を連ねたり、されど店内人なく半ば戸を閉したり、橋を渡れば公園の入口なり、別に亦一小橋あり、蓬莱橋の名を掲ぐ、郊外西大寺に到る汽車の発着所あり、眼界豁然、岡山市を囲める四方の峰巒を望む、山の輪郭軟かにして険しからず、京都の丘陵を連想せしむ、渓流また往時の鴨川に似て稍大なり、河原に馬を洗ふものあり、網を投げ糸を垂るゝ者あり、ボートを泛るものあり、宛然画中の光景人をして乱世の恐怖を忘れしむ、晡時客舎にかへる

実は今、読んでいるのは『断腸亭日乗』ではなく『罹災日録』の方。『断腸亭日乗』の昭和20年部分だけを抜き出して出版されたもの、と思っていたのですが、実は相当違っているんですね。
とりあえず、6月18日の『罹災日録』を全文引用します。
晴。昼飯後昨朝散策せしあたりを再び歩む。県庁門前の坂道を登り行くに道おのづから後楽園対岸の外の堤に出づ。橋手前に備前焼の陶器を陳列せし店舗、道の両側に並びたれど、店内寂として人影なく、半ば戸を閉せしもあり。橋を渡れば公園の入口なり。別に亦一小橋あり。蓬莱橋の名を掲ぐ。郊外西大寺に到る汽車の発着所あり。眼界豁然。岡山市を囲める四方の峰巒を望む。山姿優婉京都の丘陵を連想せしむ。渓流また往時の鴨川に似て形勢稍広大なり。河原に馬を洗ふものあり。網を投げ糸を垂るゝものあり。小舟を泛るものあり。宛然画裏の光景人をして乱世の恐怖を忘れしむ。晡時客舎にかへる

先ず気づくのは『罹災日録』では、『断腸亭日乗』の最初に書かれている「菅原君夫婦朝の中より出でゝ在らず」の部分が省かれています。菅原明朗と永井智子に関する部分は他でもかなり省略されています。
その他に関しては、書かれている内容はそんなに違いはないのですが、文章の格調ははるかに『罹災日録』の方がいいんですね。読んだときの調子(荷風の文章の最大の魅力)も全然違います。村上春樹がよく使う表現を借りれば、ねじがぎゅっと締められた感じ。無駄が全くないんですね。

先日荷風の声を聴いたことを書きましたが、実際に読まれたのは『断腸亭日乗』ではなくて『罹災日録』であることを指摘しました。ラジオで放送されたときには「自作朗読『断腸亭日乗』」となっていて、『荷風全集』に収められているCD-ROMにもそう書かれてはいるのですが。でも『断腸亭日乗』と『罹災日録』はかなり違います。『罹災日録』もほうがはるかに優れています。荷風自身もそれがわかっているので、荷風は『断腸亭日乗』ではなく『罹災日録』を手にとって読んだんですね。このあたりのことは明日にでも改めて書きたいと思います。

ネット上で荷風が岡山にいた昭和20年に最も近い昭和15年の地図がありましたので、それをもう少し見やすくして荷風が滞在した松月を入れた地図を作りましたのでそれを貼っておきます。
これを使って後日説明したいこともありますので、地図で見づらい地名や建物の名前を書き込んでいます。
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by hinaseno | 2013-06-18 10:23 | 文学 | Comments(0)