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1903年のオハイオ州デイトンについてライト兄弟という存在を発見したので、ランディ・ニューマン自身が何かコメントしているものはないかとネット上を探したら、ここにほんの数年前に行なわれたインタビューが載っていました。「デイトン、オハイオ1903」とライト兄弟のつながりについてちょっとびっくりするようなことが語られています。

結論的に言えばランディ・ニューマンはライト兄弟という存在があって「デイトン、オハイオ1903」という曲を作ったのではなく、たまたまデイトンという地名を思いつき、たまたま1903年という年を選んだら、あとでライト兄弟につながっていることを知ったということ。昨日書いた僕の予測ははずれていたんですね。でも、僕の予測よりはランディ・ニューマンによって語られた話の方がずっと面白い。
音楽であれ、小説であれ、何でもその作者が意図的に作り上げたものと考えるのが間違いであることを改めて思い知りました。

とりあえず、「デイトン、オハイオ1903」に関するこのインタビューはとても興味深いので、一応訳しておきたいと思います。このやりとりを見る限り、1903年のオハイオ州デイトンとライト兄弟のつながりは、アメリカの人にとっては常識なのかもしれませんね。
インタビュアー:あなたは歴史に対して深い愛着を抱いていますね。

ランディ・ニューマン:ああ、そのとおりだよ。特に1890年から1914年の期間。第一次世界大戦前だね。その時期というのは、悪いことが起こりそうな気配なんて何もないんだ。少なくとも観念的に言えばってことだけど、その時期の世界にはある種のイノセンスが存在していた。自分たちを混乱に陥れるような近代的な兵器を使って、ひどい戦争がなされるかなんてことには人々は本当は気づいてはいなかったんだ。僕はそのことにすごく興味があるんだ。僕がそれ(「デイトン、オハイオ1903」)を書いたら、ハリー・ニルソンがそのことについて話していた。話したかったんだね。で、彼はこう言ったんだ。「ねえ、ほんとにすごいよ。「デイトン、オハイオ1903」ってまさにその年のことだよ。僕は即座にこう答えた。「ああ、そうだ、ライト兄弟だ!」 僕はそれについて考えてもいなかった。でも、もしかしたら無意識にはどこかにあったんだろうね。僕は「デイトン」という響きが気に入ってたんだ。それって木やスプリンクラーみたいじゃない?

インタビュアー:何も重大なことが起こりそうもない場所のように聞えます。

ランディ・ニューマン: 現実にはそんな場所なんてどこにもない。でも、そういう場所のような気がしたんだ。そして僕は自分が知っていることからはまったく違った場所についてしばしば曲を書いてきた。ときどき、実際はもっといい場所だとわかったりするんだけど。

「デイトン」が選ばれたのは、その音の響きが気に入っていたからとのこと。「木やスプリンクラーみたいじゃない?」と言っているのはちょっと意味が分かりませんが。「デイトン」に似た名前の木、あるいはスプリンクラーがあるんでしょうか。

ランディ・ニューマンのこのインタビューで最も興味深かったのが、彼が第一次大戦前の1890年から1914年の期間に深い愛着を抱いているということ。
1890年は、南北戦争、西部開拓と長く続いたアメリカ国内の混乱がの時代が終わって、ようやく落ち着いた年。「フロンティアの消滅」を宣言した年なんですね。ここからアメリカは次第に海外に手を伸ばしていくようになるんですね。ただ、スペインとの米西戦争が起きているにしても、第一次世界大戦まではまだ海外に軍隊を派兵したりはしていない。
そんな20数年間の時期にランディ・ニューマンは「イノセンス」を見てるんですね。そしてそこに深い愛着を覚えている。
確かにそこには人々の生活のレベルでは「平和な安穏な休憩期間」があったような気がします。そう、前に触れた小津安二郎の『生まれてはみたけれど』が、日本の戦前の、ほんの一時期に存在した「平和な安穏な休憩期間」を感じさせてくれるみたいに。

そんな表面的には「イノセント」な20数年間の、ちょうど真ん中あたりの年として選ばれたのが「1903年」だったんですね。もちろん曲の歌詞として使われるので、音の響きも考えられたはず。例えば”tea”、”me”につながる韻を含んだものとして”three”が選ばれたのかもしれません。

荷風が1904年に、オハイオ州デイトンの近くのカラマズーに滞在していたことを知らなければ、おそらくこういうことには気づけなかったんでしょうね。でも、現実には荷風は重大なことが何も起こりそうにない空気の中でカラマズーにいたわけではありません。カラマズーに滞在していたときに書かれた1905年1月2日の日記には一言だけこう書かれています。カラマズーの牧歌的な風景を描いたその前後の日記の中にぽつんと付いたしみみたいな一言。
旅順口陥落の報あり。

そのとき日本はロシアとの戦争(日露戦争)をまさにしていたんですね。荷風は一言の感想も述べていません。戦争や偉ぶった軍人を嫌う荷風。ランディ・ニューマンと同じですね。
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by hinaseno | 2013-05-31 09:42 | 音楽 | Comments(0)

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前にも書いたことかもしれませんが、基本的に歌詞カードを見ながら曲を聴いたりすることはほとんどありません。大瀧さんの曲なんて、あとで歌詞カードを見て、自分の思っていたのとは全くちがった言葉で歌われていることに気づくなんてしばしば。ましてや外国語で歌われた曲であれば、自然に入って来ない単語は聴き流しているので、あとで歌詞を見て、ああそんな内容のことが歌われていたのかと知ってびっくりすることも当然多い。
ランディ・ニューマンの作った曲(彼は詞と曲の両方書きます)も、とてもロマンチックな曲だと思っていたら、実は戦争や災害がテーマになっていたりします(もちろん一方で最近は子供向けのディズニー映画の無邪気な曲をいくつも作っています。例えば『トイ・ストーリー』のこの曲とか)。

「デイトン、オハイオ1903」と同様に地名と年代が入ったとてもきれいな曲に「ルイジアナ1927」という曲があるのですが、これは実は1927年にルイジアナ州に大きな被害をもたらした大洪水を歌ったもの。YouTubeの画像を見て知りました。あとで詞を確認すれば”flood”とか”river rose”なんて言葉があるのですが、聴き取れていないんですね。

この「ルイジアナ1927」に限りませんが、ランディ・ニューマンは過去の歴史上の出来事を題材にしてしばしば曲を作っています。きっかけはたまたま読んだ本であったり、たまたま見た映画だったりするみたいですが。
船出を歌った素敵な海の歌だと思っていた「セイル・アウェイ」という曲が、実はアフリカ大陸からアメリカに黒人奴隷を運んでくる奴隷商人をテーマにしたものだと知ったときには本当にびっくりしました。

それではと思って、1903年のオハイオ州デイトンについて何かあったのかと調べたことがあったのですが、特にそれらしい出来事は見つかりませんでした。歌詞を読んでも、何かの出来事をうかがわせるものはありませんし。

ただ、ランディ・ニューマンの歌詞の場合、一筋縄でいかないのは、かりに幸せそうな家庭の風景を描いていても、そこに揶揄や皮肉やジョークが含まれていることがあったりするんですね。あるいは政治家やら有名な人物の偽善を皮肉たっぷりに批判する歌詞の裏側には、意外に深い思いやりがあったりもします。

今回改めて”Dayton, Ohio 1903”をパソコンで検索してみました。もちろん、1903年のオハイオ州デイトンには曲の題材にされるような出来事は何も起きていません。でも、その後画像検索したときにあることに気づきました。
「デイトン、オハイオ1903」が収められたランディ・ニューマンやニルソンのアルバムの画像の中に、あるものに関する写真がいくつも並んでいました。特に多かったのがこの写真。
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ライト兄弟によって作られた人類最初の飛行機が飛んだ瞬間の写真。
飛んだのは1903年12月17日。そう1903年です。で、ライト兄弟が生まれ育ったのがまさにオハイオ州デイトン。
ああ、これだったのかと思いました。

ただ、歌詞に関してはこの出来事を示唆するような言葉は何もありません。もし、無理矢理に関連する言葉を見出すとすれば、2番のこの部分の歌詞になるでしょうか。
When things could grow
And days flowed quietly
The air was clean and you could see

いろんなものが育ち
日々は静かに流れていた
空気は澄んでいた、目に見えるくらいに

この曲はもしかしたらランディ・ニューマン独特の皮肉をこめたものだったんだろうかと考えました。
ランディ・ニューマンは戦争をテーマにした曲が多い。ライト兄弟によって発明された飛行機がのちに戦闘機となって戦争に使われることになる。つまりこの発明は悲劇の始まりでもあるんですね。その悲劇のきっかけとなった場所を、その後に起こることをだれにもわからないくらいにほのめかせる程度に、あくまで牧歌的に歌ったのが「デイトン、オハイオ1903」だったと。そういうものが作られていることを町の人の何人かは知っていても、でもそれが大きな悲劇を生むものになるなんてことを気づくこともなく無邪気に暮らしている姿を描いた歌。

荷風が1904年から1905年にかけて近くのミシガン州カラマズーにいたときには、ライト兄弟によってすでに最初の飛行がなされた後。でも、どうやらこれは当時そんなに大きなニュースにはならなかったみたいですね。おそらく荷風もそんなできごとが近くであったなんて知ることはなかったはず。
でも、考えてみれば、荷風はのちに再三にわたって”空襲”に見舞われることになります。 1903年のオハイオ州デイトンで生みだされたものが40年後に荷風(だけではありませんが)を何度も襲うことになるなんて。
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by hinaseno | 2013-05-30 09:39 | 音楽 | Comments(0)

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荷風が1904年から1905年にかけて滞在したアメリカのミシガン州にあるカラマズーという小さな村をタイトルにした曲があることを知って、しかもその曲をかいたのが大好きなハリー・ウォーレンだとわかって、ちょっとうれしくなって話がすっかりそれてしまいました。話を元に戻します。

荷風のアメリカ、フランスの日々を記した『西遊日誌抄』は、『断腸亭日乗』とはちがって毎日書かれたものではありません。ひと月くらい何も書かれないことはざらで、場合によっては数ヶ月も間が空いていることもあります。
そんな中、特にアメリカに滞在していた時期に限れば、荷風はカラマズーという村のことをかなり多く書いています。荷風がカラマズーを心から愛していたことがわかります。 1905年(明治37年) の春には、その田舎の町の風景を慈しむような文章がいくつも書かれています。
5月12日
この地の素封家何某氏の舞踏会に招かれ夜深けて帰る。此の折打眺めたる郊外の夜の景色は云はんと欲して云う事能はざるものなりき。半月はおぼろにかすみ樹木は暗然として嵐の雲の昼が蟠るが如し。此の闇の間に一點二點夜深けて起きたる人家の灯を見る。四顧寂として風死したり。余は斯の如き夜のさまをば屢ツルゲネフの小説中にて見たるが如き心地せり。幾分の恐怖と幾分の恍惚相共に交りて何とも知れず心打乱るゝ夜なりき。

この日、荷風は地元のアメリカ人の家で開かれた舞踏会に招待されています。でも、そこでの人々との交流の話は一切なし。夜遅くなって帰宅するときに見た風景に心を強く打たれていて、その余韻は翌日まで続いています。
5月13日
昨夜見たりし夜のさま如何にも云ひがたければ黄昏の光消去る頃再び郊外の岡に登り年古りし檞の根がたに腰を下しぬ。広き草原を前にしたる彼方一帯の深林は昨夜見たりし如く霞み渡れり。されど夜尚浅ければ燈の光も数多く遠くよりピアノ弾き歌唄う女の声夢の如くに流れ来るなり。余は黙然として心憎きまで艶なる此の初夏の夜を打眺めぬ。他日米国田舎の風景を描くべき創作を思立つ事あらば余は将に此の夜の光景より筆を起さんなぞさまざま思に耽りて時の移るを忘れたり。

昨夜見たカラマズー郊外の夜の風景が忘れられず、再びそれを眺めに行ってるんですね。さらには「他日米国田舎の風景を描くべき創作を思立つ事あらば余は将に此の夜の光景より筆を起さん」とも書いています。でも、それを描いた作品はどうやら書かれなかったようです。

カラマズーを舞台にした「春と秋」では、むしろ10日あまり後の5月22日に見た風景が多く出てきます。
5月22日
晩餐後牧場を横ぎる鉄道の線路に沿ひて歩む。小流のほとりの柵に腰かけて休ふに夏草の香高く空気の清涼なる事胸も自づと打開かるゝ如き心地す。夕暮はいとも静に小山の半腹に立ちたる村落を蔽ひ折々遠く子供等の笑ひ戯るゝ声聞え来る。あゝ忘れがたき夕なり。

「春と秋」の主人公の俊哉は、土曜、日曜になると、同じ大学で学ぶただひとりの日本人女性菊枝を牧場の外れの小川のほとりに誘います。まさにこの日見た場所が舞台になってるんでしょうね。「春と秋」は3日後の5月25日に浄写されているとのこと。

6日後の 5月28日 にはさらに足を延ばしています。向かったのは村の南方。オハイオ州デイトンのある方向です。距離にして、1、2マイルということですので3kmほど。ということは、カラマズーのあるミシガン州から出ることはなかったように思いますが、おそらくは荷風がオハイオ州デイトンに最も近づいた日。オハイオ州デイトンに最も近い風景をそこに見ることができます。
5月28日
村の南方に聳えたる丘陵を登り行く事一二哩ばかり。州立の癲狂院あり。此あたり樹木殊に鬱蒼として栗鼠多く怪しき声して梢より梢を飛廻れり。暑き日なれど老樹の蔭に休へば涼風面を撲して心地よし。見渡す高原の面は大なる波浪の如く起伏し新緑滴るが如き果樹園あり。野飼家畜横はる牧場あり。高原のやがて険しき坂となりて尽くる谷間には製造場人家の屋根小さく見え、地勢は更に高まり行きて再び丘陵をなす。茫漠たるこの高原の眺望は輝渡る初夏の太陽に照され宛然パノラマを見るに異ならず。

「大なる波浪の如く起伏」する高原、「新緑滴るが如き果樹園」(この果樹園はおそらくは林檎畑)、「野飼家畜横はる牧場」、そして高原の先の谷間に小さく見える製造場や人家の屋根。
この「茫漠たるこの高原の眺望」の中に、きっとオハイオ州デイトンの郊外と変わらない風景が荷風の目にとらえられていたはず。
でも、荷風はこの半月後、学校が夏休みに入ると同時にカラマズーを去る決心をします。
6月15日
学校此の日を以て暑中休暇となる。ペンシルベニア州山間の一小市に勉学せる今村子を見んが為め夜八時八分の汽車にてカラマヅを去る。予は此の秋学校開始の時再び此の地に帰り来るや否や。若し帰来らずとせば八個月間の客愁を託したる牧場の草果樹園の花に対して余所ながら永遠の告別をなさゞる可らず。さらば。可憐なるカラマヅの村よ。

「可憐なるカラマヅの村」という言葉が心に残ります。それは僕にとっては1903年の「可憐なるデイトンの村」を想起させます。

カラマズーの郊外に見られる風景と同様に、何年も前から、そして何年後も何も変わりそうもないように見えたにちがいない1903年のオハイオ州デイトンの村。でも、実はそこでは驚くようなものが生まれていたんですね。
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by hinaseno | 2013-05-29 10:03 | 音楽 | Comments(0)

Harry Warren Songbook vol.1


昨日、Harry Warren(ハリー・ウォーレン)のことを書いたら、アゲインの石川さんが今朝のブログで反応して下さっていました。こういうのは本当にうれしいです。しかも取りあげられている曲が思わずにこにこしてしまうものばかり。ただボビー・ダーリンの曲は知りませんでした。

ということですので、今日は予定を変更してハリー・ウォーレンの特集を。といっても、好きな曲を紹介するだけなのですが。

ハリー・ウォーレンは、たぶんガーシュインやコール・ポーターやアーヴィン・バーリンなんかと比べたらちょっと知名度が劣るのでしょうか。でも、それらの作曲家に勝るとも劣らないくらいの質の高い楽曲を映画やミュージカルのために数多く作っている人なんです。

僕が最初にハリー・ウォーレンの名前を覚えたのは、昨日紹介した「I Only Have Eyes For You」という曲をカバーした山下達郎の『ON THE STREET CORNER 2』の解説を読んでのことでした。ロックン・ロールの原初的な形態のひとつであるドゥーワップの曲が、実はスタンダード・ソングだと知って驚いたものでした。

で、月日は相当流れて、昨年のことですが、石川さんから大瀧さんの『ゴー!ゴー!ナイアガラ』のCD-ROMを送っていただくようになって、たぶんそのいちばん最初の頃に送っていただいた「クリス・モンテス特集」で、大瀧さんの口からハリー・ウォーレンの名前が出たんですね。
昨日紹介した「The More I See you」をかけたときに歌の部分が出る寸前に「Music By Harry Warren」。そしてその次に同じくハリー・ウォーレンが曲を書いた「There Will Never Be Another You」をかけた後、大瀧さんはかなり詳しくハリー・ウォーレンの説明をされ、最後に
「非常に(実際の言い方は"ひっじょうに"でした)いい曲を書きますね。『The More I See you』は最高です」との言葉。わおって思って、すぐに石川さんに連絡したことを覚えています。
そのあと自分の持っているCDなどからハリー・ウォーレンの曲を集めてすぐに「Harry Warren Songbook」というプレイリストを作ったりしました。

ハリー・ウォーレンは、アップテンポな曲から遊び心あふれるコミカルな曲、さらにはとってもロマンチックな曲までさまざまに作れるのですが、ガーシュインやコール・ポーターやアーヴィン・バーリンとちがうのはポップな曲が多いことでしょうか。そのためか、僕の好きなアーティスト、例えばチェット・ベイカーやフォー・フレッシュメンやジャッキー&ロイなどが数多くハリー・ウォーレンの曲を取りあげています(クリス・モンテスが歌った2曲はいずれもチェット・ベイカーとフォー・フレッシュメンが取りあげています)。

では、僕の好きな曲をいくつか。
まずはジャッキー&ロイの「Cheerful Little Earful」。この曲、本当に好きなんです。
このYouTubeの音源には2曲入っていますが、1曲目に入っている曲です。

この曲が入っている『Storyville presents Jackie & Roy』というアルバムは、村上春樹が翻訳したビル・クロウの『さよならバードランド』の最後に収められた村上春樹の「私的レコード・ガイド」で知りました。この曲のベースをビル・クロウが弾いているんですね。ジャッキー&ロイは村上春樹も大好きみたいで、特にこのストーリーヴィルのアルバムはお気に入りのようです。
ところで、今見たら、僕の持っている日本盤のCDの作曲者の名前がWarrenではなくWisemanとなっています。CDを挿入してもその名前が出てきますね。でも、これは間違いなくハリー・ウォーレンの曲。ちなみに作詞はアイラ・ガーシュインとビリー・ローズ。

ところで、石川さんも書かれていますがハリー・ウォーレンの曲は作詞家のマック・ゴードンとのコンビにいい曲が多いのですが、アル・ダビン(Al Dubin デュビンと発音するのかもしれません)とのコンビもいい曲が結構あります。

一曲目は「I'll String Along with You」という曲。
いろんな人が歌っているのですが、石川さんも好きなクリフ・リチャードの歌うものを。アレンジがなんとなくクリスマスっぽいですね。

それからもう一つ アル・ダビンとのコンビの「You're Getting to Be a Habit With Me」という曲。この曲も最高に好きな曲。ペトゥラ・クラークの歌っているのもいいですが、このジュリー・ロンドンの方が少しだけいいです。

この曲の収められたアルバムのジャケットも素敵なので、ジャッキー&ロイのと並べて貼っておきます。
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最後に日本人がカバーしているハリー・ウォーレンの曲を。歌っているのは細野晴臣。
タイトルは「Chattanooga Choo Choo」。言葉遊びみたいなタイトルですね。ハリー・ウォーレンの曲にはこういう感じのタイトルの曲が多いのも特徴でしょうか。ちなみにこの曲の詞を書いているのはマック・ゴードン。

細野さんといえば、つい最近『Heavenly Music』というアルバムが出たのですが、その中で特によかったのが「Tip Toe Thru The Tulips with Me」。先日石川さんのブログでも紹介されていました。
この曲のタイトルも言葉遊びみたいですね。この詞を書いているのが先程のアル・ダビンさん。曲はハリー・ウォーレンではなくジョセフ・バーク。
とっても素敵な曲なので貼っておきます。細野さんも解説しているタイニー・ティムの歌うものにしようかと思いましたが、ちょっと気持ちが悪いので、ニック・ルーカスの歌っているものにします。


最後に余談になりますが、先日、古いレコードの内袋を見ていたらこんな記事が。
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詞のついていない曲に詞を付けるコンテストの紹介。ここにあげられている作曲者の中にハリー・ウォーレンの名前があってびっくりしました。そのとなりのロックン・ロール部門のバリー・デヴォーゾンの名前を見てさらにびっくり。バリー・デヴォーゾンの話もいつかしたいと思っています。いつになるやら。
でも、このコンテストのタイトルがいいですね。

WRITE-A-LONG

思わず反応してしまいます。
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by hinaseno | 2013-05-28 11:45 | 音楽 | Comments(0)

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荷風がミシガン州カラマズーへ行ったのは、そこにあるカラマズー大学でフランス語を学ぶためでしたが、実際には別の場所に行きたいと思っていました。
『西遊日誌抄』(『断腸亭日乗』第1巻に収録)の1904年(明治37年)11月16日にこんな記述があります。
人に勧められてミシガン州カラマヅと呼ぶ一村落の学校に入る事に決心したり。余は元来南方の生活を愛するが故にミスシツピイの流に従ひて南に下りルイヂヤナの大学に入らん事を欲せしなり。彼の地には今も尚仏蘭西人多く移住し日常其国語を用ゐる由聞及び是非にも行きたく思ひしが風土健康によろしからざればと人々切に止むるにより已むを得ず北に向へるなり。

フランス語を学ぶためとはいえ、かなり嫌々だったようです。で、11月22日にカラマズーに到着。
此地は寒気甚しく夜は殆ど骨も凍るかと思はるゝばかりなり。来るべき一月二月の寒気を思ひやりて余は軽々しくかゝる寒国に来りし事を悔い心甚楽しまず。

ところが寒さは次第に増していったはずですが、荷風は次第にその寒さに慣れていくばかりか、10日くらい後の12月3日にはこんな記述も。
衣香扇形うつくしき都会の夢も漸く心より消失せて静寧極りなき雪ごもりの生活却りて楽しくなり行けり。

さらに12月16日の日記にはカラマズーという土地を愛するようになったことがはっきりとわかるようなことが書かれています。
氷点下以下の寒気は余は初めて経験せし処なるが其れと共に故郷にては見る可からざる寒国の景亦頗佳麗なるを知り得たり。雪白々たる広野のはてより光なき太陽悲しげに上らんとする時或は雪積りし深林に月光の蒼然とさし込みたる時、殊に余の心をチャアムするは短き冬の日の正に暮れなんとする頃雪に埋れたる静なる街路に橇を馳する鈴の音を聞く事なり。この鈴の音を聞く時は身は恰も露西亜小説中の人物なるが如き心地するなり。

「余の心をチャアムする」なんて表現が素敵ですね。荷風らしい詩情あふれる風景描写。
で、この月の終わりに「岡の上」という短編小説を書き上げています。舞台は間違いなくカラマズー。でも、春の訪れを描いているところを見ると、どうやらこの作品も創作のようです。最初読んだときには随筆かと思っていましたが。

そして、この寒い土地にもようやく春がきます。
3月7日の日記。
暖し。夜図書館より帰る時我国にて云う「春雨」の如き小雨音もせで積れる雪を潤す。枯木のかげなる人家の燈影うつくしく漏れ聞ゆるピアノの響そゞろに一家団欒の光景を想像せしむ。

さらに4月23日の日記。この日は日曜日ですね。ランディ・ニューマンがかいた「デイトン、オハイオ 1903」も日曜日の午後の歌。ミシガン州カラマズーの日曜日の午後の風景が描かれています。
午後独歩岡を下り青草茂る牧場に出て小流の辺に佇立む。村娘日曜日の晴衣着て若き男の腕によりつゝ歩めり。

村人に会って、「お茶でも飲みにいらっしゃいませんか」と言われたわけではありませんが、のんびりとした田舎の素敵な日曜日の午後の風景。
ランディ・ニューマンの歌になぞらえればこうなりますね。

It's a real nice way
To spend the day
In Kalamazoo, Michigan
On a lazy Sunday afternoon in 1904

ところで、ネットで調べていたら、この時期、荷風が住んでいたカラマズーの家が載っていました。どうやら今もそのままあるようです。これですね。なかなか素敵な家です。

それからもうひとつ、「カラマズー」という歌がいくつもある事がわかりました。
最も有名なのは「(I've Got A Gal In) Kalamazoo」という曲。
1942年にはグレン・ミラー・オーケストラの演奏したものがポピュラー部門でナンバー1になっていますね。曲を作ったのはHarry WarrenとMack Gordon。Harry Warrenは僕の好きな作曲家のひとり(大瀧さんもお好きなはず)。このコンビでも、たくさんの素敵な曲をつくっています。
というわけで「(I've Got A Gal In) Kalamazoo」を貼っておきます。グレン・ミラーのものにしようかと思いましたが、スティーブ・ローレンスとイーディ・ゴーメ夫妻の方がよかったのでこちらをはっておきます。


Harry Warrenの特集もいつかやってみたいですね。
とりあえずHarry Warrenの作った大好きな曲を3曲ほど並べておきます。
まずは山下達郎もカバーしたこのドゥーワップの名曲。
「I Only Have Eyes For You」。この曲はもう最高です。

次は「The More I See You」という曲。やはり何といってもクリス・モンテスの歌ったものが最高です。これからの季節にぴったりですね。

それから「I Had The Craziest Dream」。これは誰が歌ってるものでもいいのですが、アストラッド・ジルベルトがボサノヴァっぽく歌ってるのがやはり今の季節にあいそうなのでこれを貼っておきます。


話は例によってどんどん逸れてしまっています。
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by hinaseno | 2013-05-27 09:18 | 音楽 | Comments(0)

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死ぬほど好きな曲というのがいくつかあります。「大好き」よりも、さらに好きの度合が強い。特に数えたことはありませんが、たぶん10曲くらい。
ぱっと頭に浮ぶもので言えば、ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンの「ライフルと愛馬」、同じくリッキー・ネルソンの「ロンサム・タウン」、キャロル・キングの「アップ・オン・ザ・ルーフ」、ジミー・ウェッブの「アディオス」、ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズの「ドリフター」...、そしてランディ・ニューマンの「デイトン、オハイオ1903」。

今日はそのランディ・ニューマンの「デイトン、オハイオ1903」という曲の話。この曲を初めて知ったのはニルソンの『Nilsson Sings Newman(ランディ・ニューマンを歌う)』というアルバムでした。このアルバムは他にもランディ・ニューマンの本当に素敵な曲が収められていて、僕がランディ・ニューマンというソングライターの名前を知ったのもこのアルバムのおかげでした。
このニルソンのアルバム、特にレコードではB面にあたる後半の4曲「I’ll Be Home」、「Living Without You」、「Dayton, Ohio 1903」、「So long Dad」の流れが本当に素晴らしくて、もう何度聴いたかわかりません。どれも本当にいい曲なんですが、中でも”死ぬほど好き”になってしまったのが「 Dayton, Ohio 1903(デイトン、オハイオ1903)」という曲でした。1903年のオハイオ州デイトンのことを歌ったもの。曲もいいですが詞もいいんですね。
この歌、もちろんランディ・ニューマン本人も歌っていてそちらもまた最高なので、両方貼っておきます。
まずはニルソンの歌うもの。

それからランディ・ニューマンの歌うもの。


ランディ・ニューマンのほうの画像に使われている写真はウォーカー・エヴァンスのものでしょうか。ウォーカー・エヴァンスは大好きで、僕も写真集を持っています。でも、そのなかにはオハイオ州デイトンで撮られたものはありません。年代も1903年からは30年くらいあとのもの。
でも、この表紙の1936年のアラバマ州の風景をとらえた写真なんかを見ると、1900年代初頭のアメリカの田舎町の風景を少しだけ知ることが出来ます。
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「 Dayton, Ohio 1903(デイトン、オハイオ1903)」の歌詞も載せておきます。
Sing a song of long ago
When things were green and movin' slow
And people'd stop to say hello
Or they'd say "hi" to you
"Would you like to come over for tea
With the missus and me?"
It's a real nice way
To spend the day
In Dayton, Ohio
On a lazy Sunday afternoon in 1903

Sing a song of long ago
When things could grow
And days flowed quietly
The air was clean and you could see
And folks were nice to you
"Would you like to come over for tea
With the missus and me?"
It's a real nice way
To spend the day
In Dayton, Ohio
On a lazy Sunday afternoon in 1903

ずっと昔の歌を歌おう
その頃は、なにもかも若々しくて、ゆっくりと動いていた
人々は立ち止って「こんにちは」と君にあいさつをしていたね
あるいは「やあ」と君に声をかけてきて、いつもこんなふうに言っていたね。
「お茶でも飲みにいらっしゃいませんか、奥さんもごいっしょに」
そんなふうに一日を過ごすってほんとうに素敵なこと
オハイオ州のデイトンの、
1903年の、ある気だるい日曜日の午後の話

ずっと昔の歌を歌おう
その頃、いろんなものが育ち、日々は静かに流れていた
空気は澄んでいた、目に見えるくらいに
で、みんなは君にとても親切で、いつもこんなふうに言っていたね。
「お茶でも飲みにいらっしゃいませんか、奥さんもごいっしょに」
そんなふうに一日を過ごすなんてほんとうに素敵なこと
オハイオ州のデイトンの、
1903年の、ある気だるい日曜日の午後の話

アメリカの西海岸のロサンゼルスに生まれ育ったランディ・ニューマンは、おそらくオハイオ州のデイトンのことは何も知らない。ましてや1943年生まれの彼にとって1903年のオハイオ州のデイトンのことなんて。
つまりこれはランディ・ニューマンが空想で作り出した曲。もしかしたら、その年のオハイオ州のデイトンをとらえた何かの写真を見たかもしれませんが。

いずれにしても、この曲を知って、僕の中には1903年のオハイオ州のデイトンが入り込んだんです。つい最近、新たに入り込んだ1905年のニュージャージー州アズベリーパークと同様に。

ニュージャージー州アズベリーパークのことを書きながら、僕は荷風の『あめりか物語』を少しずつ読み進めていたのですが、そこに収められた「春と秋」という作品の書き出しを読んで思わず目を留めてしまいました。
市俄古(シカゴ)、紐育(ニューヨーク)間の鉄道が西から東へと一直線にミシガン州の南部を横断している。その沿道の小さい田舎町にK――なにがしという大学(ユニバシテー)がある。

『あめりか物語』には随筆もあれば、荷風の創作した作品も収められているのですが、この「春と秋」もおそらく創作。でも、舞台となっている場所の風景はそこに滞在していなければ絶対に描けないはずのものでした。

シカゴとニューヨークの間にある小さな田舎町。
これを読んだとき僕には思い当たるものがありました。そのあたりの地図は何度もながめていましたから。
まさかオハイオ州デイトン。

はやる気持ちを抑えて、荷風がアメリカで過ごした場所を確認しました。
まず西海岸のシアトル。次に近くのタコマ。それから中東部のセントルイスの後、シカゴ近くにしばらく滞在しています。
地名はカラマズー(klamazoo)。ミシガン州にある町。荷風はここに半年ほど滞在して、そこにあるカラマズー大学に通っていました。「春と秋」の冒頭に書かれている「K――なにがしという大学」というのはカラマズー大学のことですね。目的はフランスに行くためのフランス語の勉強。ここに当時のカラマズー大学の写真(絵?)があります。
カラマズーはオハイオ州デイトンからは300kmほど北。でも広大なアメリカを考えると目と鼻の先という気がしないでもありません。
そして何よりもびっくりしたのは荷風がカラマズーにいた時期。1904年の11月から1905年の6月。

ランディ・ニューマンが空想で作り上げた1903年のオハイオ州デイトンから年代も場所もそれほど離れていない1904年のミシガン州のカラマズーに荷風はいたんです。
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by hinaseno | 2013-05-25 10:03 | 音楽 | Comments(1)

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荷風が1904年の夏のある日、ほんの数時間だけ行ったニュージャージー州アズベリーパークという海辺の町の話も今日が最後。ずいぶん荷風からも、アズベリーパークからもはなれた話をしてしまいましたが。

僕の持っている2000年に出たディオンのアルバム(CD3枚組のボックス)のブックレットに、こんな写真が載っています。
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向かって左側でにっこり笑っているのがディオン。そして右側ではにかんだ笑顔を見せているのがブルース・スプリングスティーン。そして真ん中で、にこりともせずに、サングラスをかけて不気味な表情を浮かべているのがフィル・スペクター。
いつ、どういう場所で撮られたものか何も書かれていないのですが、おそらく1989年にディオンとフィル・スペクターがロックの殿堂入り(Rock and Roll Hall of Fame)をしたときのものではないかと思います。

スプリングスティーンは上の世代のロックンローラー、とりわけ僕の好きなアーティストへの深い敬意を持っていて、そういう人たちがロックの殿堂入りをしたときには必ず敬意にあふれたコメントをしていて、そういう言葉から僕はスプリングスティーンという人を理解するようになりました。音楽からよりも言葉から入ったという、ちょっとおかしな経緯。
最も印象的だったのは、やはり僕の大好きなアーティストであるロイ・オービソンが1987年にロックの殿堂入りしたときのこの言葉。
I wanted to make a record with words like Bob Dylan that sounded like Phil Spector, but most of all I wanted to sing like Roy Orbison.
僕はボブ・ディランのような歌詞とフィル・スペクターのようなサウンドでレコードを作りたいと思っていたんだけど、でも、とりわけロイ・オービソンのように歌いたかったんだ。

この言葉を最初に知ったのは新春放談でした。達郎さんがロイ・オービソンの曲をかけるときかなにかで大瀧さんに語ったように思います。

そういえばその頃の新春放談で大瀧さんはこんなことを言っていたように思います。ビーチ・ボーイズの1985年に出たアルバム『The Beach Boys』に収められた「ゲッチャ・バック」という曲の話。言葉の記憶はおぼろげですが。
(ビーチ・ボーイズの)マイク・ラブはスペリングスティーンの「ハングリー・ハート」を聴いて、そんな曲を作ろうと思って「ゲッチャ・バック」を作ったんだって。でも何も今さらスプリングスティーンの「ハングリー・ハート」をやんなくってもねえ〜。それって話が逆じゃない。

当時、スプリングスティーンの「ハングリー・ハート」どころかフィル・スペクターの楽曲もよく知らなかったので、大瀧さんのこの言葉の意味は正確に理解できなかったのですが、後でわかったことは、スプリングスティーンが「ハングリー・ハート」を作るときにはフィル・スペクターを強く意識していて、ビーチ・ボーイズもそれ以前にフィル・スペクターを意識した曲を何曲も作っていて、スプリングスティーンも当然、フィル・スペクターを意識して作られたビーチ・ボーイズの曲をいくつも知っていたはずで、つまり「ハングリー・ハート」という曲の中にはフィル・スペクターだけでなくビーチ・ボーイズ的なものも含まれているのに、その「ハングリー・ハート」みたいな曲をまねて作ったというのがおかしかったんですね。
ちなみに「ゲッチャ・バック」の曲作りにブライアン・ウィルソンは関わっていません。その頃ブライアンはまだ廃人状態から回復途中。
そういえば、1985年頃、あるラジオ番組に大瀧さんが出演していて、そこでビーチ・ボーイズの「ゲッチャ・バック」がかかったときに、パーソナリティーの人が「大瀧さんが作った曲みたいですね」と言って、大瀧さんが「ドキッ」と答えたのが印象的でした。
スペクターをキーワードにしていくつもの素晴らしい楽曲が生まれているということ。佐野元春の「サムデイ」もそのひとつですね。

さて、そんなふうにして僕はブルース・スプリングスティーンというミュージシャンをかなり変則的な形で理解し始めて、2000年過ぎからリアルタイムで彼のアルバムを聴くようになります。
そんな中で僕が最も好きな曲が2007年に出た「Girls In Their Summer Clothes」という曲。これはもう見事なほどのスペクター・サウンドの曲。
で、最近気がついたのが、大好きで何度も見ていたこの曲のプロモーションビデオの撮られた場所が、まさにアズベリーパーク付近の海岸だということ。

“Asbury Park, NJ”と記された古い写真、”Jersey Girl”と書かれたTシャツを着た少女、それから荷風も歩いたはずのボードウォーク(遊歩道)も出てきます。背後に広がるのはまさにアズベリーパークの夏の海。いろんなことを知って改めて見るとかなり切ない気持ちになってしまいます。

海辺で遊ぶ幼い少女と海辺でくつろぐ年老いた女性。アズベリーパークの過去と未来。

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by hinaseno | 2013-05-24 09:50 | 文学 | Comments(0)

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昨日はすっかり話がアズベリーパークからそれてしまいました。
でも、もう少し村上春樹の話を。

村上春樹が何度かアズベリーパークに行っていた時期、つまりニュージャージー州プリンストンに滞在していた時期に執筆していた作品は何だったんだろうかと調べてみたら、僕にとってはとても興味深いことがわかりました。僕がこのブログで何度か書いてきた僕にとって最も好きな村上春樹の小説、『国境の南、太陽の西』が書かれていたんですね。ただ正確にいえば、それは一種の細胞分裂の結果生まれた作品なのですが。

「細胞分裂」というのは村上春樹自身が使っている言葉。へたをすれば、その「細胞」はあのような形で生命を得ることなく終っていたかもしれない。その生命を与えるきっかけになったのがアズベリーパークだったということでもないのですが、でも「ずっと昔に死んでしまった人々の記憶をかき集めて作り上げられた、架空の町」みたいに見えたアズベリーパークが、「細胞」を成長させる小さな要因の一つになっていたという、村上春樹の無意識の世界に入り込んだ勝手な推測をして愉しみたくもなってしまいます。当時、村上春樹は「過去からの響き」をテーマにした作品と取り組んでいたのですから。
このあたりのことは『村上春樹全作品 1990-2000』②の「解題」にかなり詳しく書かれていますので、それを参考にしながら、紹介しておきます。村上春樹が、自分の小説の「メイキング・オブ」をここまで詳しく書いているのはあとにもさきにもこの作品だけではないかと思います。

プリンストンに居を移して、村上春樹はある長編小説を書き始めます。村上春樹自身の言葉を使えば「かなり規模の大きな、野心的な小説になる予定」の小説(ちなみにこの小説から村上春樹はそれまでのワープロからマッキントッシュのパソコンを使い始めます)。実際それはまさにそのような作品として、世界的な評価につながっていくことになるのですが。その小説は『ノルウェイの森』とは違って、書き始めた最初からタイトルが決まっていました。
『ねじまき鳥クロニクル』。その第1部と第2部のことをほぼ1年で書き上げます。でも、どこかしっくりこないものを村上春樹自身が感じます。あまりに野心的すぎて、いろんなものを取り込みすぎてしまってたんですね。で、行き詰まってしまいます。そういうときに必ず相談するのが一緒にプリンストンに行っていた奥さんの陽子さん。
陽子さんは村上春樹に「多くの要素が盛り込まれすぎているので、もう少しすっきりさせたら」とアドバイスします。で、二人で「長い時間、顔をつきあわせてディスカスした結果」、3つの章を「除去」することに決めます。その除去された章には、冒頭の一章も含まれていたとのこと。
ところがそれらを除去してすんなり作業が進んだかというと、当然その抜けた部分のバランスを調整しなければならなくなり、その作業で村上春樹は頭を抱えることになります。
『ねじまき鳥クロニクル』という長編小説は僕の作品歴の中でも大きな意味を持つかなめ石のような存在になるはずだという予感はあったし、一年間かけて息を詰めるようにして書き続けてきた。それが大がかりな暗礁に乗り上げ、一頓挫したわけだから、僕としてはがっかりしたし、本格的に落ち込んでしまったわけだ。

そんな村上春樹の様子を見て(見るに見かねて)陽子さんはこんなアドヴァイスをします。「じゃあ、とりあえず『ねじまき鳥クロニクル』の方はしばらくわきに置いておいて、その切り取った部分を使って、今あるものとはまったく別の小説を書いてみればいいじゃない」と。
この言葉に対して村上春樹は「ひとごとだと思って、まったく気楽なことを言えるもんだよな」と、ちょっとムッとします。「小説を書くってのは鯛焼きを焼くのとは違うんだ」と。
でも数日後に、その切り取った3つの章をあらためて読み返してみて「たしかにここからひとつの小説が(たぶん興味深い中編小説のようなものが)生まれる可能性はあるな」と感じとり、新しい小説の執筆に取りかかります。そうして生まれたのが『国境の南、太陽の西』だったわけです。この経緯を考えれば村上春樹自身も書いているように、『国境の南、太陽の西』は陽子さんのアドヴァイスなしには生まれなかった小説だったかも知れません。いや、『ねじまき鳥クロニクル』もどうなっていたかわかりませんね。

このような興味深い(言うまでもなく、村上春樹自身にとってはかなりきつい)作業がこのプリンストンにいた時期になされていたんですね。
「解題」にはもう少し詳しく「細胞分裂」の中身が説明されています。
例えば、『国境の南、太陽の西』の主人公であるハジメ君と『ねじまき鳥クロニクル』の主人公である岡田トオルがもともとは同一人物であったということ。分裂したので当然とはいえ、あとでこの事実を知ったときにはずいぶん驚きました。
最初同一人物であった彼らが、「環境に合わせて変形し、その結果まったく別の人格として動き出すこと」になったんですね。
興味深いのは「過去からの響き」に関する分裂の説明。
『ねじまき鳥クロニクル』の主人公の岡田トオルがしばしば聞き取る過去からの響きは、「主に他者のかかわる過去の響き」。つまり『ねじまき鳥クロニクル』は他者の過去性の中に否応なく引きずり込まれていく物語ということ。それに対して『国境の南、太陽の西』の主人公のハジメ君はずっと「自らの過去の響き」の影響下にあり、それに支配されている。
『ねじまき鳥クロニクル』が手に負えないくらいに大きな物語になったのはわかるような気がします。

村上春樹が『国境の南、太陽の西』で書きたかったことのまず第一は、「人がダイレクトな過去の響きに対していったい何ができるかということ」だったとのこと。そして括弧付きでこう書いています。「それはモラルの問題に深くかかわってくる」と。
確かにそうですね。「過去のことをねちねち言うな」とか言って、ころころと自分の主張を平気で変えている政治家がいますが、彼(彼ら)はどうやら「自らの過去の響き」がダイレクトに自分には届かない仕組みを作っているようです。もちろん「それはモラルの問題に深くかかわってくる」ことなのですが。で、言うまでもなくそんな彼(彼ら)には「他者のかかわる過去の響き」を聞き取ることなんてできない。

それはさておき、村上春樹が『国境の南、太陽の西』を書いているときに、ずっと考えていたのは上田秋成の『雨月物語』とのこと。『雨月物語』は一度読みかけて挫折してしまいました。また読まなくては。

ところで、細胞分裂させたとはいえ、 村上春樹は『国境の南、太陽の西』の結論部に悩みます。迷いに迷ったとのこと。奥さんは編集者の女性にも意見を聞いたそうです。いずれにしても僕はこのかなりの紆余曲折と細胞分裂を経て生みだされた 『国境の南、太陽の西』が大好きなんです。

『国境の南、太陽の西』の最後は『ノルウェイの森』と同様に雨が降る注ぐ風景で終ります。『ノルウェイの森』は芝生に降り注ぐ雨、『国境の南、太陽の西』は海に降り注ぐ雨。
僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。広大な海に、誰にも知られることもなく密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった。

誰も知られることもなく密やかに雨の降る「広大な海」は、もしかしたら村上春樹があの日、アズベリーパークで見た、大西洋の海だったのかもしれません。
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by hinaseno | 2013-05-23 10:02 | 文学 | Comments(0)

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今(朝です)、これを書いているときに聴いているのはプーランクのピアノ曲。ブルース・スプリングスティーンを聴きながら文章を書くことはちょっとできません。プーランクはブルース・スプリングスティーンと同じく、村上春樹が『意味がなければスイングはない』で取りあげていたフランスの作曲家。僕にとって、ここ数年、夏の朝はプーランクということになっています。

『意味がなければスイングはない』のことについて少し。単行本で出たのは2005年。でも、先日も書いたように、そこに収められた文章は、もともとは『ステレオサウンド』というオーディオの音楽専門誌(季刊誌)に「音楽のある場所」と題されて2003年春から2005年の秋にかけて連載されていたものでした。全部で10回。

取りあげているミュージシャンも、そのジャンルも様々。
シダー・ウォルトン(ジャズ)、ブライアン・ウィルソン(ロック)、シューベルト(クラシック)、スタン・ゲッツ(ジャズ)、ブルース・スプリングスティーン(ロック)、ルドルフ・ゼルキンとアルトゥール・ルービンシュタイン(クラシック)、ウィントン・マルサリス(ジャズ)、フランシス・プーランク(クラシック)、ウディ・ガスリー(フォークソング)。
もともと好きだった人もいれば、これをきっかけに聴くようになった人もいれば、読んだだけで一切聴かなかった人もいます。で、これをきっかけに聴くようになったひとりがプーランクでした。特に、夏の朝に聴きたくなる。なぜならばその文章のタイトルが「夏の朝のフランシス・プーランク」と題されていたものだったから。

と思って、今朝久しぶりに読み返してみたら、なんとタイトルが違っていました。
正しくは「日曜日の朝のフランシス・プーランク」。
そればかりか内容もかなり記憶と違っていました。記憶ってほんといい加減なものですね。村上春樹がどこかの海辺の町で、夏の朝にプーランクの演奏会を聴いたという話で始まると思っていたのでしたが、かなり違っていました。「朝」であることだけは合っていましたが、場所はロンドン。季節は春。なのに自分の中では「夏の朝」という形になっていました。もしかしたら池澤夏樹の大好きな小説『夏の朝の成層圏』の題名とくっついてしまったのかもしれません。
でも、プーランクの音楽は何から何まで「夏の朝」のイメージなんですね。透明で涼し気な風が吹き抜けるような音楽。

夏のイメージといえば、実は僕は単行本の『意味がなければスイングはない』をきちんと読んだことがありません。読み返したくなったら、『ステレオサウンド』に連載されていたものを水色の表紙の透明ファイルに入れたものを取り出しています。
連載が始まったときに、それがどこまで続くかはわからないまま、分厚い『ステレオサウンド』を毎号買ってすぐに裁断して、ファイルに収めていました。毎回4ページ。 20ページの袋のファイルでぴったり2冊。それをすぐ手の届くところにずっと置いています。
というわけで、僕にとっては『意味がなければスイングはない』ではなくて、「音楽のある場所」。

『ステレオサウンド』に連載されていた「音楽のある場所」と、単行本の『意味がなければスイングはない』の違いは何といっても、その体裁。一番大きな違いは安西水丸のイラストがついていること。これがとびっきりいいんです。単行本では章の最後にその文章で取りあげられたミュージシャンのレコードあるいはCDの写真が載っているだけなのですが、「音楽のある場所」では、CDやレコードのイラストまで安西水丸が描いています。で、そのイラストと文章が印刷されている紙は薄い萌葱色。

村上春樹の書いた文章は、それまでの音楽に関するエッセイよりはかなり分量が多い分、それぞれのミュージシャンの内面にまで入り込んだ、ややヘビーなものも多いのですが(ブライアン・ウィルソンやスタン・ゲッツを語ろうとしたら、それぞれの生みだした音楽とは対照的にヘビーにならざるを得ないですね)、そのヘビーな雰囲気を安西水丸の絵が見事に消し去っているんですね。安西水丸の絵がない分、単行本の『意味がなければスイングはない』には妙な重さが感じられます。文章はもちろんまったく同じなのですが(でも、村上春樹のことだから、何カ所か書き直しをしている可能性もありますね)。
で、安西水丸のポップな絵は、やはり夏を感じさせてくれます。凧揚げをしている村上春樹の絵なんかがあっても、どこか夏のイメージ。
いくつか、毎回の表紙の絵だけ貼っておきます。昨日の、ゴーストタウンのような冬のアズベリーパークの写真とは全然違います。
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プーランクの音楽は夏の朝のイメージがあると書きましたが、実際には「夜」をテーマにした曲もあります。でも、それらもどこか朝に似合います。
「音楽のある場所」(『意味がなければスイングはない』)にはこんなことが書かれています。プーランクのところを読み返すのは本当に久しぶりだったんで、こんなことが書かれているなんてすっかり忘れていました。
プーランクが朝にしか作曲の作業をしなかったという事実を本で読んで知ったのは、ずっとあとになってからだ。彼は一貫して朝の光の中でしか音楽をつくらなかった。それを読んだとき、そうか、やっぱりなと僕は深く納得した。彼の音楽はその日曜日の朝の空気に、ほんとうにしっくりと、自然に溶け込んでいたのだ。引合いに出すのはいささか心苦しいのだが、実を言うと、僕も朝にしか仕事をしない。だいたい午前四時から五時のあいだに起きて、十時頃まで机に向かって集中して文章を書く。日が落ちたら、よほどのことがない限り一切仕事をしない。僕がプーランクの音楽に引かれるのは、ひょっとしたらそういうこともあるのかもしれない。

というわけで、僕もプーランクがいつの間にか大好きになってしまったのですが、でもプーランクって、村上春樹も書いているのですが、マイナーな存在のままですね(たぶん)。「フランス(系)ピアニスト、あるいはその手の近代音楽に関心を持つスペシャリストの草狩り場=ニッチ領域と化してしまったような感がある」と村上春樹も言っています。そういえば今朝起きて、ときどきテレビで見るクラシックの番組を見てたら、女性ピアニストが弾いていたのはラフマニノフやプロコフィエフやラヴェル。プーランクを弾いている人にお目にかかったことはありません。夏の朝、どこかの海辺(明石の海辺とかいいですね)で、プーランクを弾いてくれる人がいれば最高なのですが。
というわけでパスカル・ロジェの弾くプーランクの曲を1曲貼っておきます。

最後に僕の持っているプーランクのCDとレコードの写真も。いずれも村上春樹が紹介していたものです。
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by hinaseno | 2013-05-22 10:35 | 文学 | Comments(0)

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昨日も書きましたが、村上春樹がアズベリーパークに行ったのは、1990年代の初め、おそらく1991年から1993年にかけての3回。
目的はその近くのモンマス(村上さんはマンモスと表記しています)・カウンティという場所で毎年春に開催されていたハーフ・マラソンに参加するためで、その帰りに必ずアズベリーパークに立ち寄ったということです。その時のことが書かれた『意味がなければスイングはない』を引用します。
スプリングスティーンが青春時代を過ごしていた日々からは20数年後の、荷風が訪れたときからは90年後のアズベリーパークの風景。
プリンストンからそのマンモス・カウンティに向かう途中、海岸沿いにアズベリーパークの町がある、レースが終わったあとでいつもそこに立ち寄った。立ち寄ると言っても、降りて何かをするわけではない。車に乗ったままゆっくりと町の中をまわって、「ああ、この町で無名時代のブルース・スプリングスティーンが演奏をしていたんだな」と思い、そして帰ってくるだけだ。ごく普通の感覚を持った人にとって、アズベリーパークの町は、「車を降りて、しゃれた昼食でもとろうか」と思えるようなところでは断じてない。
アズベリーパークは、どのように好意的に見ても、おそろしくしけた海岸町である。不気味といってもいいくらいだ。すべての建物は古び、色あせて、荒廃している。人影はほとんどない。

「おそろしくしけた海岸町」、「不気味」、「すべての建物は古び、色あせて、荒廃している」....、荷風が『夏の海』で書いたものとはあまりにも異なる光景が描き出されています。
「ごく普通の感覚を持った人にとって、アズベリーパークの町は、『車を降りて、しゃれた昼食でもとろうか』と思えるようなところでは断じてない」とも書いています。というわけで、どうやら村上春樹は車から降りることもなくこの町から立ち去っています。
海辺に行って、スプリングスティーンの歌にも出てたボードウォークを歩くこともしない。あるいは浜辺に行って海を眺めることもしない。

で、こう続けています。
ブルーカラーのための夏のリゾート・タウンとして、戦中から戦後にかけて発展したその町は、ブルース・スプリングスティーンが十代を送った1970年前後には既にあとかたもなく零落していた。観光客は途絶え、数百軒を数えたホテルはあらかた廃業し、犯罪とドラッグがそのあとに居座っていた。その町は1990年代に僕が訪れたときにもやはり零落していたし、たぶん今でも――もし取り壊されていなければ――同じように零落しているはずだ。それはずっと昔に死んでしまった人々の記憶をかき集めて作り上げられた、架空の町みたいに見える。はかない真昼のゴーストタウン。

村上春樹がこの文章を書いたのは、おそらく2003年頃。こう書いていますね。「たぶん今でも――もし取り壊されていなければ――同じように零落しているはずだ」と。

ふと、数年前に出たブルース・スプリングスティーンの『The Promise: The Darkness On The Edge of Town Story』というボックスセットに入っていたDVDのことを思い出しました。それは、スプリングスティーンがアズベリーパークにあるパラマウント・シアターで演奏したものを収めたものですが、その最初に、2009年の、つまり今から4年前のアズベリーパークの光景をモノクロでとらえたものが数分収められていました。それは、やはり不気味と言ってもいい光景。「ずっと昔に死んでしまった人々の記憶をかき集めて作り上げられた、架空の町」、「はかない真昼のゴーストタウン」。

その映像に映っていた2009年のアズベリーパークの光景を何枚か貼っておきます。
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古びて色あせた死んだような巨大な建物。雨漏りが止めどなく続き、それが不気味な模様となっている天井。動いているのに(撮影のために動かしたんだろうか)誰も乗っていない観覧車と回転木馬。建物の外壁に描かれたあまりにも時代遅れな絵(それは遊園地の乗物に乗っている家族4人の幸せそうな光景ではあるけれど)...。

一番下の写真がこの日、スプリングスティーンが演奏したパラマウント・シアター。観客は誰ひとりいません。きっと多くの観客を呼ぶには建物はあまりにも危険すぎるのかもしれません。
その日、スプリングスティーンは「7月4日のアズベリーパーク」を歌っていません。1曲目に歌ったのは「Badlands」。いかにも1曲目というノリのいい曲。でも、歌詞はこんな言葉が並んでいます。
Workin' in the fields till you get your back burned
農場で働くんだよ。君の背中が真っ赤に焼けるまで。
Workin' 'neath the wheels till you get your facts learned
車輪の下で働くんだよ。君が君なりの真実をつかみとるまで。

We'll keep pushin' till it's understood
僕たちは頑張り続ける。いつかそれが理解されて
and these badlands start treating us good
このバッドランドが僕たちをまともに扱ってくれるようになるまで

そのDVDのはじめの部分の映像がありましたので貼っておきます。観覧車には1組だけ乗っていましたね。もしかしたらスプリングスティーンかもしれません。

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by hinaseno | 2013-05-21 09:41 | 文学 | Comments(0)