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久しぶりに音楽の話です。

ほぼ1カ月にわたって荷風の『断腸亭日乗』に関する話を書き続けてきました。
この間、いろいろと書いてみたいことがあったのですが、中でもやはり先月末に放送された大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝パート3」は、放送されてもうひと月になるというのに、いまだに聴き続けています。新しい発見満載でした。
でも、大瀧さんの「探偵力」には本当に驚かされます。

さて、今日はあまり時間がありませんので、ほんの”さわり”だけ。
今回のポップス伝、最もよく聴いているのは第1夜から第3夜にかけてのもの。第4夜と第5夜は未知のものが多すぎて、ちょっと戸惑いました。

今回かかった曲の中で、初めて聴いて最も興奮したのがこの曲でした。この曲からの流れが最高だったんですね。そこばっかりリピートして何回も聴いていました。

曲のタイトルは「With All My Heart」、歌っているのはジョディ・サンズ。1957年の作品ですね。1957年といえば小津の『早春』が公開された翌年。


このリズム。例のリズムですね。結局僕は、こういうリズムにわくわくするものを感じてしまうようになっているんでしょうね。
曲を書いたのはボブ・マルクーチとピーター・デ・アンジェリス。オーケストラやコーラスなどこの魅力的な曲のサウンドを作っているのもピーター・デ・アンジェリス。第3夜の主人公は(人によって、意見が異なるとは思いますが)僕にとっては、このピーター・デ・アンジェリスでした。
今回のポップス伝では、このピーター・デ・アンジェリスという人と、いずれ語るはずのもう一人の人物の出会いが最も大きな出来事でした。前回のアル・カイオラとの出会いに勝るとも劣りません。ピーター・デ・アンジェリスはアル・カイオラと深く結びついている人。

このジョディ・サンズの「With All My Herat」を何度も聴き続けているうちに、ふとある曲のメロディに重なっていることに気づきました。
松田聖子の「エイティーン」という曲ですね。


さびの部分のメロディはもろですね。リズムもほぼそのままいただいています。
作曲は大瀧さんではなくて平尾昌晃(「瀬戸の花嫁」の人ですね。古いですが)、編曲は信田かずお。まだ、大瀧さんを始め、はっぴいえんどのメンバーが曲作りに関わる前ですね。
僕もこの曲は後で知りました。この曲の収められたシングルもアルバムも持っていないのですが、松田聖子のアルバムの中では個人的に大好きな『Touch Me, Seiko』の中に収められていたんですね。シングルのB面の曲ばかりを集めた素敵なアルバムです。

というわけで、ピーター・デ・アンジェリスさんの話。ちょこちょことしていきたいと思います。
それとは別に書いておきたいうれしいこともあるのですが、それはまた改めて。
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by hinaseno | 2013-04-29 10:54 | ナイアガラ | Comments(0)

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『早春』の配役を決定した翌日から、小津は谷崎潤一郎の作品を集中的に読みます。興味深いのは最後に読んだ2冊。最初に読んだのは全て小説ですが、最後に2冊のエッセイを「再読」しています。
11月17日に『青春物語』、11月20日に『初昔 きのふけふ』。
実はこの『青春物語』と『きのふけふ』に興味深い、共通した内容のことが書かれてありました。小津は谷崎のいくつかの作品を読んでいるうちに”それ”を思い出して、確認するために「再読」したんだろうと思います。

『青春物語』は昭和7年9月から昭和8年3月にかけて「中央公論」に連載したもの、それから『きのふけふ』は昭和17年6月から11月にかけて「文藝春秋」に連載したものをまとめたものです。
この2つの作品には、実はどちらにも永井荷風との出会いを描いたエッセイが収められています。
『青春物語』は、まさに谷崎が憧れの荷風に初めて出会った日の話。明治43年の「パンの会」。このとき谷崎はまだ大学生、荷風は前年に「すみだ川」などの名作を多数発表しています。
会場に荷風が入ってきたとき、谷崎はすぐにそれが荷風だとわかります。で、どうやって憧れの荷風に話しかけようかと迷っていてついにその瞬間が訪れます。

「最後に私は思ひ切つて荷風先生の前へ行き、『先生! 僕は実に先生が好きなんです。僕は先生を崇拝してをります! 先生のお書きになるものはみな読んでおります!』と云いながら、ピョコンと一つお辞儀をした。先生は酒を飲まれないので、端然と椅子にかけたまゝ、『有難うございます、有難うございます』と、うるさゝうに云はれた」

何とも微笑ましい場面ですね。この翌年に荷風は「三田文学」に『谷崎潤一郎氏の作品』と題する評論を載せて、谷崎は文壇に華々しくデビューすることになります。谷崎が荷風に対する敬意の気持ちを深めたことは言うまでもありません。

で、昭和17年に書かれた『きのふけふ』にはこの年に久しぶりに荷風と再会した時の話が書かれています。このとき荷風は数えで64歳。でも谷崎はとてもその年齢には思えない荷風の佇まいに改めて感服しています。

終戦直前の岡山の勝山での再会は、このとき以来3年ぶりだったんでしょうね。何度も荷風に手紙を送って勝山に来るように勧めていた谷崎の目に、はたして荷風はどのように映ったんでしょうか。
荷風が勝山に行く決心をしたのは、広島に原爆が投下されたのを知ってのことのようです。もうひとつ、同居していた菅原明朗夫婦との関係もかなり悪くなっていたこともあげられるのかもしれません。
実は菅原明朗夫婦は8月4日に広島に演奏会に出かけています。荷風はその日ラジオで演奏会の様子を家の人たちといっしょに、かなり複雑な気持ちをかかえながら聴いています。で、8月6日に菅原夫婦は広島から戻ってきたと書かれています。昭和20年8月6日と言えば、まさに原爆が投下された日。それが投下される前の朝早くに菅原夫婦は広島を発っていたのでしょうか。この日の荷風の日記には菅原夫婦が広島の古本屋で買ってきたフランスの本を借りて読んだことだけが記されています。

荷風が広島に原爆(もちろんまだ原爆ということは知らなかったんでしょうけど)が落とされて広島の町が灰になってしまったことを知ったのはどうやら8月10日。この日荷風はあわてて岡山駅に行き、勝山行きの切符を買い求めますが、結局買うことができず、3日後の8月13日のもう一度岡山駅に行き、たくさんの人があふれる中、どうにか切符を買うことができ、ひとりで勝山に向かっています。
この日は谷崎の滞在していた家に行き、奥さんを紹介されたりしていっしょに食事をして夜10時くらいまで話をして谷崎の用意してくれた宿に戻っています。

で、翌朝、再び谷崎に会います。もし、荷風と谷崎の二人の映像的なクライマックスはこの朝の風景ではないかと思います。

「晴、朝七時谷崎君来り東進して町を歩む、二三町にして橋に到る、渓流の眺望岡山後楽園のあたりにて見たるものに似たり、後に人に聞くにこれ岡山を流るゝ旭川の上流なりと、その水山影の相似たるや蓋し怪しむに及ばざるなり」

『断腸亭日乗』に書かれているのはたったこれだけ。この後、正午に二人は谷崎の家で昼食をとっています。この間、5時間。おそらく二人は旭川にかかっている橋(鳴門橋か中橋のどちらかでしょうか)に佇んで何時間も話し込んだはず。いったいどんな話をしたんでしょうか。荷風はそこで話したことを一切書いてはいません。

で、荷風は昼食後、「長く谷崎氏の厄介にもなり難し」として翌日岡山に戻ることにします。おそらくは勝山の谷崎のもとで世話になろうと荷風は考えていたはず。でも、荷風は岡山に帰る決心をします。谷崎から勝山に留まるようにとの強い言葉をもらうことができなかったのがその理由かもしれません。谷崎は荷風を呼び寄せたものの、当時かなり深刻な「恐怖症」に陥っていたはずの荷風の変わりように戸惑ったことは想像に難くありません。しかも当時谷崎は、自身の最も大きな作品となるべき『細雪』を執筆している最中。荷風を強く引き止めるだけの言葉を用意できるだけの精神的なゆとりがなかったのかもしれません。でも、おそらくは畏敬の念を払い続けたことは確かだと思います。谷崎も後年、このあたりのことは何も語っていないんでしょうね。

旭川の橋の袂で数時間に渡って交わされたであろう二人の会話。この場面だけでも映画になりそうです。

ところで、小津は谷崎の本を読み終えた直後、ある場所に「旅行」に出かけます。
向かった先は京都。11月22日に旅券をとって、11月26日に京都に行っています(途中、名古屋、それから大阪に立ち寄っています)。日記の記述が断片的でちょっと正確な同行者がわかりにくいのですが、小津とともに『早春』の脚本を書く野田高梧と里見弴はこの旅行に同行しているはず。里見弴の四男で『早春』から小津の映画の製作を担当する山内静夫も同行したのかもしれません。

京都といえば、谷崎が終戦後居を構えた場所。このときに谷崎に会ったのかと思いましたが、そうではありませんでした。小津が旅行した1954(昭和29年)には谷崎は熱海の別荘に移り住んでいるみたいですね。日記を見ると小津はいろんなお寺を巡っています。お寺の名前を見ると無名なお寺ばかり。

でも、このときの小津一行の目的はお寺巡りではなかったはず。おそらくは映画の舞台となるべき"ある場所"を探していたはずです。
『早春』の中で、小津は東京を去る池部良と三石のつなぎとなるべき中間点を設定したんですね。小津が巡った寺を確認すると、おそらくは鴨川の辺りを考えたのではないかと思います。でも、めぼしい場所はなかったのかもしれません。で、その場所を発見したのは帰りの電車からだったかもしれません。
小津はいつ、どこへ行くときも映画で使えそうな場面を探し続けていたはずですから。

結局、映画で使われることになったのは琵琶湖から南に流れる瀬田川。僕が『早春』という映画の中でもっとも詩情あふれる場面だと思っているのが、まさにここで撮られています。この場面ですね。
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池部良と笠智衆が橋のそばの木の桟橋に腰をかけて川を見つめる場面。『東京物語』の熱海の海岸で笠智衆と東山千栄子が海を見つめているシーンに重なります。ただ『東京物語』は二人とも老人。『早春』は10歳以上はなれている上司と部下という関係。笠智衆は池部良の結婚の仲人をしたことになっています。

池部良はこの場所で初めて、笠智衆を相手にいろんないきさつを正直に語ります。笠智衆は家族もいない彼にとって、悩み事を打ち明けられる唯一の心から信頼できる人。親でもあり兄でもあり師でもあるような存在。

二人が会話をしている途中で、川の上を学生のこぐボートが滑るようにすり抜けて行きます。それを見て二人はこんな会話を交わします。

笠 「あの自分が一番いいときだなぁ」
池部「そうですねぇ、むかし河合さんもここで...」
笠 「そう、あいつにもあったんだねえ、あんな時代が...。あの時分が人生の春だねえ」
池部「そうですねぇ...」

映画のシナリオを見るとこのボート部はきちんと学校が指定されています。「京大短艇部」。二人の会話に出てくる「河合」というのは山村聰が演じている、おそらく笠智衆の同期入社の人物で、笠智衆の最も気心の知れた存在。河合はサラリーマン生活をやめて「ブルーマウンテン」というバーを経営しています。この会話から、どうやら笠智衆も山村聰も京都大学出という設定になっていることがわかります。

最も好きなのはこの後のシーン。
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笠智衆の子供が橋の上から父親を呼びにきます。二人は立ち上がって、歩き出します。このとき遠くに見える東海道本線では、西に向かうかなり長い貨物列車が走って行くのが見えます。映画ではそれが通り抜けるまで映っています。西とは、もちろんこれから池部良が向かうことになる方角。

この場面にはさまざまな"つながり"の風景が盛り込まれています。橋、汽車、親と子、そして師と師を慕い敬愛する人間。

実は、僕はこの場面こそまさに勝山の旭川の袂で言葉を交わしていた荷風と谷崎の風景に重なるものを感じてしまいます。あの時は師である荷風はかなり弱い立場になっていたのかもしれませんが、でも谷崎は師として敬し続けていたはず。

京都の旅行から戻った小津はそのひと月後に、まるで最後に何かを確認するかのように「夜 荷風全集をよ」んでいます。そして数日後に『早春』のための「仕事」を開始します。

まず、映画で岡山の三石を使うことを決め、それを映画のラストで主人公が一人で三石に向かうというストーリーを思いついて『早春』という映画の最初のイメージが出来上がる。そして主人公が三石に一人で向かわなければならないきっかけとなった「大森」での不倫を考える。で、最後に、東京と三石をつなぐ場所として京都の外れの川沿いの風景で、師と言葉を交わす場面を考える。そのときに小津が思い描いた師と師を敬愛する人間の一つの形をまさに荷風と谷崎に見たのではないかと思います。
小津の『早春』には荷風の『断腸亭日乗』が深く入り込んでいます。

ところで、旭川にかかる橋の袂で、旭川の流れを見ながら荷風と谷崎はいったいどんな会話をしていたのでしょうか。もしかしたらこんな言葉が交わされていたかもしれません。

谷崎「この川を見ていると、私が生まれ育った頃に見ていた、昔の隅田川の風景を思い出すんですよ」
荷風「ふむ。実は私もそう思っていたところだったんですよ。空襲を受ける前に歩いていた岡山市内を流れている川を見たときにもそう思いました」
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by hinaseno | 2013-04-28 12:20 | 映画 | Comments(0)

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もし小津が荷風(と谷崎)を意識したものを映画の中に取り入れたとしたならば、『東京物語』の荒川放水路での場面のように、詩情にあふれたものになるはず。もちろん小津のとらえた映像は、どの場面を見ても詩情にあふれているのですが、とりわけ、ということでいえば2つ。

まずは、やはりこの場面ですね。
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池部良と岸恵子が一夜を過ごした翌朝の最初の場面。まさに『濹東綺譚』の一場面にあるような光景。
窓にすわる岸恵子。紅の色は前夜食事をしていたときよりも濃くなっていて、どこか娼婦のような雰囲気を漂わせています。
そして窓の外は水の風景。この部屋はもちろんセットなのですが、すぐ外に海があることを示すように部屋の中にゆらゆらとした光の反射が写っています。

映画ではこの場面が写る前に、こんなカットが入ります。
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海に何本もの木や竹の棒が立ち並んだ風景。海苔粗朶(のりそだ)というもの。これだけでこの場所がどこであるのか、わざわざ説明をしなくても、わかる人にはわかるようになっているんですね。

場所は大森海岸。池部良も岸恵子も住んでいることになっている蒲田からはそんなに遠くない。現在では蒲田と同じ大田区に属している場所。戦後、大森区と蒲田区が合併して大田区になったんですね(大森の「大」、蒲田の「田」から一文字ずつとって「大田」になったということを今、知りました)。

大森(シナリオをみると「鈴ケ森あたり」と書かれています)という場所の"文学的な意味"については、川本三郎さんの『銀幕の東京』で詳しく説明されています。

明治時代から戦前の昭和、さらに戦後も昭和30年代までは、料亭、待合、旅館が並ぶ歓楽地だった。『大森に行く』といえば、男女の関係が出来ることを意味していた。


この後、川本さんは「大森に行く」ことが書かれている文学をいくつか挙げています。夏目漱石の『虞美人草』、そして永井荷風の『つゆのあとさき』。
『つゆのあとさき』ではヒロインの君江が、田舎から東京に出てきて会社の事務員になったときに「課長に誘惑されて大森の待合に連れられて行つた」との記述があります。
で、川本さんはこう書いています。

『早春』の池部良と岸恵子が大森の旅館に泊るというのはこういう"伝統"を踏まえている。戦前昭和との連続性を大事にする小津は、ここでも新宿や渋谷を選ぶことはない。蒲田に住んでいる二人が家に近い大森の旅館に泊るということは、他人の目を考えればかなり”危険”な筈だが、小津としては漱石から荷風につながる大森にこだわりたかったのだろう。


『断腸亭日乗』を読み終えたばかりで、荷風への意識が高まっていたはずの小津にとって、この場面は「大森」という場所だけでなく、映像的にも強く荷風を意識していたに違いありません。

ところで「大森」といえば、荷風の敬愛する成島柳北も、岡山の旅から東京に帰ったときに、自宅に戻る前に大森に立ち寄ったことが『航薇日記』に書かれています。ただしこのときは昼食をとっただけのようですが。

大森の梅園に午飯す、此亭は久しく来馴し処なれば、何となく昔を忍びて悄然たり


以前にも何回かは大森に来ていたようですね。成島柳北の『航薇日記』については、また改めて書こうと思っています。

さて、『断腸亭日乗』に、大森、あるいは鈴ケ森のことが出て来ないかと思って調べたらありました(「索引」は本当に便利)。ちょっと興味深い内容なので引用します。昭和7年6月18日の日記。

晡下乙部を伴い鈴ケ森の旧海道を歩む。人家立連りて今は海を見ること能はず、処々に古松の枯残りたるあり。又道路の傍に物揚場の如き入堀ありて纔(わずか)に海を見る。埋立地の石垣に打寄する海水の不潔なることむかしの鉄漿溝(おはぐろどぶ)のごとし。悪臭甚しく長く岸に立つこと能はざる程なり。国道の西側なる大井川町妓家の間を歩み大森停車場に出て、銀座に晩餐をなして別れたり。


「乙部」とは乙部高子という女性のこと。「銀座5丁目の路地」に住んでいた女性のようです。この年の5月に出会って以降この時期この女性に頻繁に会っています。で、彼女と大森(鈴ケ森)に行っているんですね。昭和7年のこの時期でも海水が相当に汚くなっていて、臭いも耐えられないほどひどくなっていることが書かれています。

そういえば映画のあの場面で、小津は岸恵子にこう語らせています。

「ゆうべは灯りがちらちらして、いいとこだと思ったら......きたない海......。あぁ、いやだ、あんなもの浮いてる」

『断腸亭日乗』で書かれている大森の海に対する荷風の嫌悪感に重なるような言葉を岸恵子に語らせていて興味深いです。

さて、この岸恵子の言葉に関して川本さんはこう書いています。

岸恵子が言う『汚ない海』は、実は『汚ない東京』と重なっている。小津安二郎にとって、高度経済成長にさしかかった東京は、明らかに窮屈な過密都市であり、かつての古き良き東京とは違う汚れを見せてきている。小津はそのことに自覚的である。小津というと東京を愛した監督と思われがちだが、実は、小津は東京を愛しんでいると同時に、変わりゆく東京に絶望もしている。


で、『早春』では、その主人公は東京をはなれて岡山の三石に行くことになります。でも、池部良はその前に"ある場所"に立ち寄ります。
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by hinaseno | 2013-04-27 09:35 | 映画 | Comments(0)

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もし、『断腸亭日乗』を一つの物語としてみたならば、その物語のクライマックスはというと、一般的には昭和20年3月9日に記された東京大空襲による偏奇館焼亡ということになるのでしょうか。
岡山県人である自分としては、同年7月13日に妹尾崎に行って敬愛する成島柳北のことを思い浮かべ、9月5日にたまたま滞在することになった家で柳北の「航薇日記」を発見するというところがこれ以上ない場面ではあるのですが。

でも、偏奇館焼失以降の荷風の日々を辿ると、やはり荷風を敬愛する谷崎潤一郎の度重なる荷風に対する支援に心うたれることになります。僕自身、これまでほとんど谷崎の本を読んできませんでしたが、『断腸亭日乗』を読んで(といってもはじめから全部読んだわけではありませんが)谷崎という人を好きになり、本を読んでみなければという気持ちにさせられてしまいます。
もともと谷崎のファンであった小津も、『断腸亭日乗』を読み終えて、改めて谷崎を久しぶりに読んでみたくなったのだろうと思います。

小津が読んだ本を改めて順番に並べてみます。

①『黒白』。犯罪小説のようです。
②『鬼の面』。これは書生経験のある谷崎の自伝的な小説。
③『蓼喰う虫』。破綻した夫婦の関係を描いた小説。
④『卍』。先日も書きましたが、谷崎なんてまったく知らなかった大学時代に友人から「すごいよ」と薦められた本。女性の同性愛を描いた小説。でも、記憶がほとんど残っていません。やはり破綻しかけている夫婦の関係を描いた作品といえるのでしょうか。
⑤『青春物語』。これは小説ではなく随筆集。学生時代から文壇に登場した頃までの回想記ですね。
⑥『初昔 きのふけふ』。これは『初昔』と『きのふけふ』という2つの随筆集を1冊にまとめた本のようですね。「初昔」は身辺雑記。「きのふけふ」は文壇を始め様々な人との交流を描いた作品。

さて、倦怠期を迎えた夫婦を描いた『早春』との関わりを考えれば『蓼喰う虫』や『卍』がどこかでつながっているのかと思えないわけでもありませんが、これは改めて読んでみなければ何ともいえません。

ただ、結論的に言えば、小津は谷崎潤一郎の何かの作品、あるいは荷風の何かの作品のある部分を"頂戴して"映画に取り込むようなことは絶対にしないだろうと思います。もしあるとすれば、『東京物語』のように荷風が愛した荒川放水路を映画の一場面として使うといったような、物語の中の一瞬の風景をそっと入れるということくらいではないかと思います。

小津の戦後の対談で、荷風や谷崎について語ったものがありましたので、それを引用しておきます。いずれも『小津安二郎戦後語録集成』に収められています。
まずは『早春』が公開された3年後の『週刊読売』1959(昭和34年)年5月31日号に載った近藤日出造との対談。

近藤「小津さん、荷風作品の映画化はなさいませんでしたね」
小津「しません、荷風文学の愛読者ですけど。溝口君は『渡り鳥いつ帰る』を映画化しましたね。それから『腕くらべ』をやるという話がありましたけれどもね。荷風先生のものはコンストラクションもからんで、大変、映画向きだと思います。しかし荷風先生は、ご自分のものが映画なんかになるのはキライだったんですよ」

それからこちらは戦後間もない『映画春秋』1947年(昭和22年)4月15日に載った志賀直哉らとの対談の言葉。

「東宝で『細雪』を撮るという話があるのでひそかに憤慨しているのです。身のほどを知らぬ奴等だという気がしまして......。つまらない小説の場合なら話は別ですけど......」

これらを読む限り、小津が敬愛する作家の作品のある部分を"頂戴して"映画をつくるとはとても考えられません。もし取り入れるなら、やはり何か別の形で。
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by hinaseno | 2013-04-26 09:49 | 映画 | Comments(0)

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タイトルからはちょっとそれた話が続きました。でも、『早春』という映画を考える上でおさえておいたほうがいいかなと思って書いておきました。考え過ぎだと言われればそれまでですが。

さて、話は再び『全日記 小津安二郎』に。
『断腸亭日乗』を読み終えてから、『早春』を制作するまでの日々。実はものすごく興味深いことがあります。『断腸亭日乗』読了直後からとりかかった『東京物語』の撮影が完成までは、それにかかりっきりの日々がしばらく続いたはずですが、それ以後もまだ小津は『断腸亭日乗』の影響を持ち続けていたんだなと感じさせること。

ちょっと繰り返しにないますが、改めてこの時期の日記の確認を。
まず、 1953(昭和28年)の6月ごろに『断腸亭日乗』を集中的に読み、6月14日に読み終わります。で、翌15日から『東京物語』のロケハンを開始。ここから日記はほぼ半年分欠落。

で、翌1954(昭和29年)8月27日に「兵隊の話」を思いついて「ラスト出来」て、次の作品のタイトルを『早春』に決めます。
そして10月10日に「配役決定」。
小津は配役を決めてからストーリーを考えるみたいですが、実際にそれを書き始めるのは翌1955(昭和30年)2月下旬から。

この間、小津はある作家の本をむさぼるように読んでいます。
その作家の本を読み始めたのは、まさに配役を決定した日の翌日の10月11日。その日からひと月余りの間にタイトルがわかるものだけで6冊(作品)読んでいます。登場人物の大まかな設定とストーリーの大きな流れと配役を決めて、さあこれからストーリーを細かく組み立てていこうというときに読んでいるんですね。『早春』の映画につながる何かを探し求めていたとしか思えません。
その作家とは、このブログでも何度も書いてきた人。
『断腸亭日乗』の、荷風の岡山の日々に深く関わっている作家、谷崎潤一郎。

小津の日記をずらっと書き並べておきます。

10月10日(日)「配役決定」
10月11日(月)「谷崎潤一郎〈黒白〉などよむ」
10月24日(日)「夜 谷崎潤一郎の小説をよむ」
10月29日(金)「谷崎潤一郎の鬼の面よむ」
11月1日(月)「夜半〈蓼喰ふ虫〉をよむ」
11月4日(木)「谷崎氏卍をよむ 再読」
11月6日(金)「卍をよみつゞく」
11月17日(水)「谷崎氏〈青春物語〉再読 読了」
11月20日(土)「谷崎氏〈初昔 きのふけふ〉再読読了」


「再読」というのは、小津は昔から谷崎が好きで、若いときにかなり谷崎の作品を読んでいたんですね。谷崎の全集を持っていたのかもしれません。
ちなみにここにあげられた本で僕が読んだことがあるのは『卍』だけ。大学時代に友人に勧められて読んだような気がします。

ちょっと興味深いのは、谷崎の作品を読み終えてからふた月あまり後の日記にこんな記述があること。

1955(昭和30年)1月10日(月)「夜 荷風全集をよむ」

久しぶりに荷風を手にとっています。作品名が書かれていないので、何を読んだのかはわかりませんが、"何か"を確認したのかもしれません。
そしてその2週間くらい後の日記に「そろそろ仕事で昼寝もよくねられなくなる」と書いているので、どうやらストーリーはほぼ固まったんでしょうね。で、そのあと林芙美子の『めし』と成瀬巳喜男の映画のシナリオを読み、いよいよ『早春』の「仕事」にとりかかります。

まさに『早春』のストーリーを固める段階に、小津の頭の中には荷風と谷崎がいたんですね。
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by hinaseno | 2013-04-25 10:03 | 映画 | Comments(0)

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改めて「正二」という名前のことに。小津の配役名の決め方を考えれば、これは絶対に次男ということになります。
ところが『早春』では、長男どころか「正二」の家族は一度も出てきません。もちろん家族を出す必要がないといえば、それまでなのですが、それならば「二」のつかない普通の名前を与えてもいいように思います。でも、あえて小津は兵隊から戻ってきた人間を次男として設定したんですね。
では、長男は。

おそらく長男は「正二」が学徒出陣で戦場に行く前に、すでに戦争で亡くなっていた。そしてどうやら彼の両親も戦争で亡くなっている。もしかしたら両親は蒲田の辺りに住んでいて昭和20年4月15日の空襲で亡くなったのかもしれません。『早春』が作られたのは、まだ戦争が終わって10年くらいしかたっていません。蒲田の辺りが激しい空襲にみまわれたことはまだ記憶に生々しく残っていたはず。

『麦秋』と『東京物語』では、家族の中でただひとり戦争で亡くなった「不在」の人間として描かれた「しょうじ」が、『早春』では生を与えられるかわりに、他の家族が「不在」、つまりすべて亡くなっているという設定。これがこの『早春』という映画の”説明されていない”最大のポイントではないかと思います。

実は映画の中で、「正二」の家族のだれかが生きているならば、彼らを登場させる場面があってもよかったんです。
それは、言うまでもなく三石への転勤を決めるとき。もし、彼に両親、あるいは兄弟がいれば、相談する場面、あるいは相談したことを示すような場面があってもよかったはず。例えば彼が三石へ行くことを決めた後で、会社の仲間か友人のだれかが「親は了解したのか?」と訊くとか。でも、彼が両親を含めた家族に転勤のことで相談したことを示すような部分は一切ありません。「正二」はただひとりで決めている。相談、あるいは遠く離れて暮らすようになった場合に気にかけなければならないような家族の存在はない。
やはり「正二」の家族は、おそらく戦争でみんな亡くなってしまっている。その家族の中には、おそらく「こういち」という名の兄もいた。

『早春』という映画は、「倦怠期を迎えた夫婦の危機」や「サラリーマンの悲哀」を描いた作品として語られがちなのですが(というよりもたぶんこの映画のことをきちんと語られているのは川本三郎さんの『銀幕の東京』くらいではないでしょうか。ウィキペディアでは『麦秋』以降の小津の作品で、この『早春』だけがいまだに「作成中」)、『早春』に挿入されている、もしかしたら映画とはあまり関係なさそうな話にも関わらず、深い重みを持っていると思われるのが、病に倒れて亡くなってしまう、「正二」の同期で入社した三浦の話。

三浦という「正二」の同期の人間のことは、この映画の冒頭の会社の同僚との会話で語られて、そのあとも要所要所で出てきます。最も印象的なのは、病で倒れて寝たきりになっている三浦を見舞いに行く約束を同僚にした直後に岸恵子から会社に電話がかかってきて彼女と会う約束をして「おれ、三浦のとこ行けなくなっちゃったよ」と言う場面。で、その晩、大森海岸近くの宿で一夜を過ごすことになるんですね。でも、妻には三浦のところに行って、「国からおっ母さん出て来ててな、泣かれちゃってさ。帰って来られないんだ」と嘘をつく。
小津としては映画のストーリーを考えるときに、もちろん不倫のことは先に決めていたでしょうから、その理由作りに苦心したのではないでしょうか。不倫の言い訳を一生懸命考えたんでしょうね。見え透いたものでもいけない。で、思いついたのが病で倒れた同期入社の存在。秋田から丸ビルで働くことを夢見て東京に出てきたにもかかわらず、肺を患って倒れてしまう一人のサラリーマン。

言うまでもなく、不倫の言い訳に使ったために罪の意識を持つことになるんですね。で、改めて三浦の見舞に行く。そこで秋田からやって来ていた三浦の母親に会い、親の子に対する思いを聴くことになる。しかし、その翌日、三浦は亡くなる。
三浦の葬式に行ったとき、その母親は東北弁で「正二」にこう言います。

「あれの兄もマニラで戦死してしまってンしなぁ、これで男の子はひっとりもいなくなってしまったんです......もう誰もわたしさ文句言ってくれねえンす......」

二人の息子を失った母の悲しみが語られます。
「正二」はおそらくこの日、三石に行くことを決心します(次に「正二」が写るのは引っ越しのための荷造りをする場面)。

『早春』の物語を進めているのは三浦の話なんですね。
葬式のときに三浦の母親が「正二」に語った、兵隊で戦死した兄がいる話も示唆的。「正二」と三浦には単なる同期入社というだけでなく、ともに戦争で兄を失っているという共通点があったのかもしれません。それが彼らを結びつけていた。

もうひとつ、この母親の言葉が彼に大きな決心をさせていることも見逃せないですね。「正二」自身、ずっと戦争を引きずっている。戦地に行っていろんな悲惨な出来事を経験したということだけでなく、戦争で兄や両親を失ったことの喪失感を抱き続けている。自分だけ生き残ったことへの罪悪感のようなものも抱き続けていたかもしれない。
でも、三浦の母親の悲しみの言葉を聴いて、おそらく親を失ったこの悲しみよりも子を失った親の悲しみの大きさを知る。それが彼を動かしたんでしょうね。

「正二」の家族はどのような構成だったんだろうかと考えて、思い浮かぶのは『生まれてはみたけれど』(昭和7年)の家族。東京の郊外にあった蒲田に引っ越してきた親子4人の家族。兄弟の上の良一は小学校5年生か6年生くらい。そして弟の啓二は小学校3年生か4年生くらい。弟の啓二役をしていた突貫小僧は当時8歳か9歳くらいですね。
『生まれてはみたけれど』の24年後に作られた『早春』の主人公の「正二」は32歳。年齢的にはぴったりですね。顔はかなり変わっていますが。
『生まれてはみたけれど』の啓二は、父親が会社の上司にぺこぺこしている姿を見て、えらいと思っていた父親に失望して自分は絶対にえらくなるぞと心に誓う。その啓二の24年後の姿。けんかをしたときに助けてくれた兄も両親も戦争で失っている。そして父親のサラリーマン姿に失望したのに、結局普通のサラリーマンになって毎朝混んだ電車に乗って会社に通っている。

小津が果たしてそこまで意識していたとは思いませんが、結果的に『早春』は、年齢的にも、生活していたであろう場所も、推測される家族構成も『生まれてはみたけれど』と似通っています。

小津は『生まれてはみたけれど』を作った直後の『キネマ旬報』(昭和8年1月11日号 『小津安二郎全発言』所収)のインタビューで、和田山滋とこんなやりとりをしています。

和田山「『生まれてはみたけれど』は各方面から評判になったのですが、ああした会社員物は、これからもお撮りになるのですが」
小津「毎年1本ずつくらい、会社員物をやってみたいと思います。事実、毎年1本は必ず作っています。その俳優も毎年同じ俳優を使い、家の構造やセットなども同じにこしらえて、そして年々の写真を比較してみると、いろんな点で面白いです。最初の会社員物では、まだまるで芝居の出来なかった突貫小僧が、今じゃずっと巧くなって来たなど、そんなことを知ることが出来て愉快です」


こうした小津の気持ちはその後もずっと持ち続けていたはずですから、結果的に『早春』は『生まれたはみたけれど』の子供たちが大人になってサラリーマンになった姿を描く形になったと。いや、もしかしたらはっきりとそれを意識して作ったのかもしれません。わかる人にはわかるだろうと。

ところで、『早春』の映画で三浦の母親役をしている女優。長岡輝子さんといいます。当時48歳。どうみても60過ぎにしか見えないのですが。亡くなった三浦の年齢が32歳ですから、実年齢的にはぎりぎりオーケーですね。
でも、この人の東北弁、何とも言えずいいんです。調べたらやはり東北の人。岩手県ですね。大瀧さんといっしょです。『東京物語』以降、小津はこの人を使い続けています。『東京物語』ではそれほど東北弁をしゃべっていませんでしたが。と言っても、ほんの二言三言。
この長岡輝子さん、今、ちょっと気になっています。

先程のセリフを言っているのはこの場面です。
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by hinaseno | 2013-04-24 10:17 | 映画 | Comments(0)

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昨日、実はもう少し別のことを書いていて、長くなったのでカットしたのですが、それをカットしたならば、もうちょっとカットしなければならない部分があったことにあとで気づきました。
「こういち」の話です。

昨日すでに「しょうじ三部作」には「こういち」という名前の人物が出ていると書いてしまいました。実際にはそれを説明する部分をその前に書いていたのですが、そこをカットしたんですね。

「こういち」は『麦秋』と『東京物語』では「しょうじ(省二・昌二)」の兄として登場しています。それでは、『早春』では、というと、正二(池部良)の兄としてではなく、妻である淡島千景の弟として「こういち」が登場しています。シナリオを見ると「幸一」という字が与えられています。『東京物語』の兄と同じ字ですね。演じているのは田浦正巳。就職を控えた大学生という役。
それ以前の作品では「しょうじ」の兄に与えていた名前を妻の弟に与えている。適当と言えば適当なのかもしれませんし、そこに何らかの意味が込められているのかもしれません。

先日、小津は『めし』のシナリオを読んで、説明が多すぎるから感心しない、という感想を持ったことを書きましたが、この映画にはまったく説明されていない「不在」の存在をうっすらと見ることができます。それ以前の作品では「しょうじ」が「不在」の存在として描かれていましたが、今度はその逆。

それを考える前に、『早春』で「正二」についてわかっていることを書き並べておきたいと思います。

・年齢は32歳。これはシナリオにはっきりと書かれていました。ただ、映画でも彼の同期で会社に入った人間が亡くなったときに、その年齢が「32〜33歳」と映画の中で語られていましたのでおよその年齢はわかるようになっています。
・東京の丸ビルにある「東亜耐火煉瓦会社」に勤めているサラリーマン。
・淡島千景演じる昌子という名前の妻がいる。恋愛結婚のような感じもします。
・子供はいない。ただし、生まれて間もなく疫痢でなくなったと映画の中で語られています。
・住んでいるのは蒲田。映画で語られるのは「蒲田」という言葉だけですが、「六郷の土手」という言葉が何度か出てきますので、蒲田の南の方になるのでしょうか。この場所の特定はまた改めて、というか僕にはちょっと限界があるので、いつか「隣町探偵団」で探っていただけたらと思っています。
・住んでいる家は借家、どうやら妻の実家の母親の知り合いに借りているようですので、結婚してから住むようになったと思われます。
a0285828_1142068.jpg・読書好きというのも随所に示されています。朝、よく知った仲間が集まってくる駅のこの場面でも一人新聞を読んでいます。家の中の場面では本がいくつも並んだ本棚が写りますし、引っ越しのときにはいらなくなった何冊もの本を近くに住む友人に与えています。妻を東京において三石にやって来たときには、夜、誰にも会わずにひとりで部屋で本ばかり読んでいるということが語られます。
自営業をしている兵隊仲間からは、おまえは学問があるというようなことを言われているので、おそらくは大学に行っていて、大学を卒業して会社に入社したと思われます。ということは、大学のときに兵隊に行ったということになりますね。
・笠智衆演じる会社の上司、小野寺を心から慕っていて、彼に仲人をしてもらっているようなので、結婚は戦争が終わって兵隊から戻って会社に入社してのち、ということですね。ちなみに映画では笠智衆は滋賀県の大津に”とばされた”形になっています。で、自分も小野寺さんの側の人間だから風当たりが強いです、という会話がなされているので、同じ会社の中でも、出世のためならどんなことでもできる人間(池部良に三石行きを告げる中村伸郎はこちら側ですね)と、それができない人間に分けられていて、笠智衆演じる小野寺はもちろん後者。しゃべる言葉にも深みがあるので、”文学”を持っている感じがします。 池部良(正二)が慕うのもそのあたりに理由がありそうです。

映画からわかるのはこれくらいでしょうか。
もう一つ言えば、「正二」にはどこか陰がある。みんなで集まって騒いでいるときでも、気持ちは常に一歩引いている感じがします。ここにはまったく説明されていない”何か”があるそうです。
それが「正二(しょうじ)」という名前に隠されているように思います。
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by hinaseno | 2013-04-23 11:05 | 映画 | Comments(0)

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『東京物語』で、兵隊として戦争に行ったまま戻ってこない人物として名前が出てくる「しょうじ」。実は『東京物語』の2作前の『麦秋』にも、同じく兵隊として戦争に行ったまま戻ってこない「しょうじ」という人物の名前が出てきます。前者は笠智衆の息子、原節子の夫として。後者は笠智衆の弟、原節子の兄として。

最近まで僕はこの2つの映画の「しょうじ」を、「しょうじ」という音だけで頭に入れていたのですが、先日図書館で借りてきた映画のシナリオを見て、それぞれの「しょうじ」に漢字の名が与えられていることがわかりました。
『麦秋』の「しょうじ」は「省二」、そして『東京物語』の「しょうじ」は「昌二」。いずれも次男ということになっています。ちなみに長男はどちらも「こういち」。『麦秋』で笠智衆が演じているのは「康一」、『東京物語』で山村聰が演じているのは「幸一」。よく知られていることですが小津の映画の脚本人物の名前は名字も名前も同じものだらけ、出演者も同じ人ばかり。いまだに区別がつかない。

そういえば男の兄弟で兄を「○一」、弟を「○二」とすることでいえば、現在平川さんの探偵報告が続いている戦前の『生まれてはみたけれど』の兄弟も、兄が良一、弟が啓二となっています。
ちなみに『晩春』と『お早よう』には、『生まれてはみたけれど』と似たような男の子の兄弟が出てくるのですが、それらはいずれも兄が「実(みのる)」、弟が「勇(いさむ)」。戦後の子供には「一」「二」を付けずに一文字の漢字にしています。

『麦秋』と『東京物語』で、戦争から帰らぬ人(戦地で亡くなった人)として共通の名前が与えられている「しょうじ」の存在は、この二つの映画を考える上で、とても重要なような気がします。映画には一度も登場はしませんが、この二つの映画の隠れた主役と言ってもいいのかもしれません。と思って、ネットを調べたら、やはりそれを指摘している人もいますね。小津自身も次男で戦争に行った人ですから、このあたりは掘り下げて考えてみると面白そうです。それはまた別の機会に。

さて、『早春』の池部良が与えられた役名は「正二」。僕の持っているDVDのパッケージの裏に書かれています。シナリオに記されているんですね。
実は僕はこの映画を初めて見たときからずっと「正二」を「せいじ」と読むものだと思っていました。映画のどこか場面で、淡島千景の母親役の浦辺粂子が「せいじさん」と言っていたように思っていたのですが、改めて映画を見直したら浦辺粂子は池部良のことを一貫して「杉山さん」と呼んでいましたし、ほかの誰も池部良を下の名前で呼んではいませんでした(仲のいい友人たちは「スギ(杉)」と呼んでいます)。
やはりこれは「しょうじ」と読むべきなんでしょうね。
二作続けて戦地で亡くなった存在として名前を与えられていた「しょうじ」を、戦争から生きて戻ってきた存在として描く。いつも小津の映画の中では死者であった「しょうじ」に初めて生を与えたわけです。小津はその人物設定を思いついた日に、その映画のタイトルを『早春』と決めたんですね。

ということで、間に1つ『お茶漬の味』がはさまっていますが、ほぼ続けて作られた『麦秋』『東京物語』『早春』の3つの作品では「しょうじ」という人間が主役(あるいは陰の主役)になっているわけですね。
小津の映画で、原節子が「紀子(のりこ)」という役を演じている『晩春』『麦秋』『東京物語』は「紀子3部作」として広く愛されていますが、それにならって僕が個人的に好きな『麦秋』『東京物語』『早春』を勝手に「しょうじ3部作」と呼ぼうと思っています(それを言うなら「こういち」も3作とも出ていますし、あるいは「しげ」も3作とも出ていますので「しげ3部作」ということにもなりえます。ちなみに『麦秋』の「しげ」は東山千栄子、『東京物語』の「しげ」は杉村春子、そして『早春』の「しげ」は浦辺粂子。ちょっときついですね)。

ところで『麦秋』の「省二」に関して、ちょっといい場面があります。映画のこの場面。
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省二の妹である紀子(原節子)と、省二の学生時代の同級生だった謙吉(二本柳寛)が省二についての会話を交わします。
実はこの直前の場面で、ある建物が写ります。
ニコライ堂。
松本竣介という画家によって描かれた絵、あるいは古関裕而のかいた曲のタイトルとして、この日のブログで紹介した個性的な建物。それがこの二人のいる喫茶店のこの席の窓から見えるという設定になっているんですね。二人の視線の先に見えているのがニコライ堂。もちろんニコライ堂の鐘の音もよく聴こえる場所。
ここでこんな会話が交わされます。シナリオのト書きも引用しておきます。

  窓から見えるニコライ堂――。
  紀子と謙吉がお茶をのんでいる。
謙吉「昔、学生時分、よく省二君と来たんですよ、ここへ」
紀子「そう」
謙吉「で、いつもここにすわったんですよ」
紀子「そう」
謙吉「やっぱりあの額がかかってた......」
紀子「――?」(と見る)
  ミレーの『落穂拾い』の古ぼけた額――
謙吉「早いもんだなぁ......」
紀子「そうねぇ――よく喧嘩もしたけど、あたし省兄さんとても好きだった......」
謙吉「ああ、省二君の手紙があるんですよ。徐州戦の時、向こうから来た軍事郵便で、中に麦の穂が入ってたんですよ」
紀子「――?」
謙吉「その時分、僕はちょうど『麦と兵隊』読んでて.....」
紀子「その手紙頂けない?」
謙吉「ああ、上げますよ。上げようと思ってたんだ......」
紀子「頂だい!」

ニコライ堂の見える風景が好きな省二、ミレーの『落穂拾い』の絵が見える場所に必ず座る省二、そして手紙に麦の落ち穂を入れる省二。なかなか素敵な話ですね。

ただ、映画をよく見てみると背後の絵はどう見てもミレーの『落穂拾い』ではないですね。花瓶がぼんやりと見えますが。絵だけはどうやら原作のシナリオ通りにしなかったようです。『落穂拾い』の絵が用意できなかったのかもしれませんね。でも、後に交わされる会話、あるいはこの映画の『麦秋』というタイトルのことを考えると、あの絵はやはりミレーの『落穂拾い』であるべきだったように思います。
このあと、紀子は謙吉の母親の杉村春子(「しげ」ですね)の所に行って謙吉と結婚することを告げることになります。ニコライ堂の見える場所、そこで交わした省二の話が映画の大切なポイントになっているんですね。

そういえば前回、ニコライ堂の話をしたときに貼った「ニコライ堂の横の道」という絵にはニコライ堂の建物が描かれていませんでした。松本竣介は本当にニコライ堂が好きだったみたいで、ニコライ堂をいくつも描いています。どれもいい絵ばかりなのですが、『麦秋』がモノクロの映画なので、鉛筆と木炭とインクで描かれた、このモノクロのニコライ堂を貼っておきます。
ちなみにこの絵が描かれたのは1941年12月。まさに日本が太平洋戦争に突入したときですね。
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by hinaseno | 2013-04-22 09:27 | 映画 | Comments(0)

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『全日記 小津安二郎』を見ると、小津がどのような段階を踏みながら『早春』を仕上げていったかがわかります。ちょっとそれを書き並べておきます。

まずは記念すべき1954(昭和29年)8月17日(金)の日記に「仕事の話ひらける 兵隊の話を思ひつく ラスト出来る 題名 早春と決る」と記され、その2カ月後の10月10日(日)に「配役決定」。さあここから、シナリオをすぐに書き始めるかと思いきや、『早春』に関する仕事らしい仕事を始めるのはその4カ月後(ただ、この間、かなり興味深いことがあるのですが、それはまた後日)。

1955(昭和30年)1月27日に「岸恵子がくる」と書かれているので、配役を決定した俳優との出演交渉は進められていたんでしょうね。といっても小津の日記に出てくるのは池部良と岸恵子のことだけ。この日の日記には「仕事の話ハせず早く就寝」と書かれています。具体的な話はしなかったということでしょうか。翌、1月28日の日記には「仕事例の如く難渋也」という記述があるので、まだ小津の中ではストーリーを具体化できない状態にあったみたいです。

その数日後にはちょっと興味深い記述が。

2月3日「参考に林芙美子の〈めし〉を読み始める」
2月4日「めし終了 仲々参考になる」
2月9日「車を呼んで野田さんと三人小田原東宝に出かけて 浮雲と明治一代女を見る 浮雲に大変感心する(中略)浮雲をみて大変気持ちがいゝ」
2月11日「シナリオめしをよむ これハ感心しない 説明が多いからだ(中略)夜野田さん浮雲をよむ」

成瀬巳喜男監督の『めし』と『浮雲』の話。いずれも原作は林芙美子の小説です。
高峰秀子主演の『浮雲』は公開されたばかりですね。映画を観て大いに気に入ったようです。小津とともに『早春』の脚本を書いた野田高梧はいっしょに映画を観ただけでなく、そのあとすぐに映画の原作の林芙美子の本を読んでいます。小津もひと月後に読んでいます。

興味深いのは『めし』の方。
上原謙と原節子主演の『めし』は1951年公開の作品。もちろん小津は映画を観ていたんでしょうけど、『早春』のストーリーを書き始める直前に、『めし』の原作である林芙美子の本を「参考に」読んでいます。翌日には「めし終了 仲々参考になる」と書かれています。『めし』は倦怠期の貧しい夫婦を描いた作品。頭の中で組み立てていた『早春』のストーリーとかぶるものを感じて読み直したのではないかと思います。
ただ、その1週間後に映画のシナリオを読んで「これハ感心しない 説明が多いからだ」と書いています。この言葉は小津の映画を考える上で重要ですね。説明が多いものを嫌う。説明しなくてもわからせるものでなくてはならない、ということでしょうね。

で、その4日後の2月15日の日記にこんな言葉が。

「いよいよ明日からやるぞ」

でも、どうやら翌日(2月16日)には何もしていないんですね。こんなことが書かれてあります。

「文春芥川賞のアメリカン・スクール 小島信夫 プールサイド小景 庄野潤三をよむ どちらも感心しない」

第32回芥川賞は先月1月22日に発表されています。それを『早春』のストーリーを書き始める直前に読んでいるのが興味深いですね。しかもこのときの受賞者が小島信夫と庄野潤三というのが、個人的におおっと思ってしまいます。
2人とも村上春樹が『若い読者のための短篇小説案内』で取りあげた作家。 僕は恥ずかしながらこのとき初めてこの二人の名前を知ったのですが、村上春樹の「案内」が素晴らしくてすぐに「アメリカン・スクール」と「プールサイド小景」が収められたそれぞれの本を買って読みました。それまで村上春樹と池澤夏樹以外は海外文学しか読まなかった当時の僕にとって、どちらもすんなりと読めて、これらをきっかけにして第三の新人とよばれる人たちの本をいろいろ読むようになったんですね。
村上さんの『若い読者のための短篇小説案内』がなければ、木山捷平を読んだり荷風を読んだりすることもなかったような気もします、たぶん。
第32回芥川賞をチェックしたらこのときに落選した人の中に、村上春樹と同様に芥川賞を取ることのできなかった(「できなかった」という表現を使っていいのかどうかは微妙ですが)僕の大好きな作家、小沼丹がいること。こういう人たちが登場した頃に『早春』が生まれていたんですね。小津は「どちらも感心しない」と書いているとはいえ、『早春』をストーリーを書く直前に小島信夫と庄野潤三の小説を読んでいるというのはちょっとうれしい発見でした。

この2つの小説を読んだ翌日、2月17日の日記には「仕事のミソなどを集める」と書かれてますが、まだ書き出せない状況にいるようです。
さらに2月19日の日記には「仲々ねつかれず」の言葉も。かなり苦しんでいる様子がうかがえます。
で、2月20日の日記。

「十時から十一時まで仕事大いに捗り コンストラクションにかゝる 四分ノ一強出来る」

ここから何日かこの「コンストラクション」という言葉が出てきます。おそらくはシナリオにする前の段階のストーリーの骨組みを書く作業のことなんでしょうね。
その「コンストラクション」を進める過程で、池部良が勤める会社(「東亜耐火煉瓦株式会社」ですね)がある場所となっている丸ビルに行っています。3月10日の日記にはこんな記述が。ちょっとびっくりしました。

「三菱商事に行き塩川氏の案内で丸ビル八階の品川白煉瓦に行き 村田 坂田両氏にいろいろきく」

丸ビルの中に煉瓦の会社があったんですね。おそらく小津はその前に三石の煙突が立ち並ぶ工場が耐火煉瓦の会社のものだということを知り、煉瓦関係の会社の本社が東京にないか調べていたんでしょうね。もちろん映画の中に写っている丸ビルの中の事務所はセットにちがいありませんが、でも本当に丸ビルの中に煉瓦会社があったとは。
ちなみにこの品川白煉瓦、現在は品川リフラクトリーズ株式会社と社名が変更されていますが、今も岡山の備前市に工場があるんですね。ただし三石ではなくそのとなりの片上と伊部。でも、昔は三石にも工場があったのでしょうか。

この後、コンストラクションがどんどん進んでいる様子が書かれています。同時に池部良の出演に向けての交渉も進められているみたいですね。ずらっと書き並べておきます。

3月12日「佐藤一郎がくる 池部の話」
3月16日「コンストラクション30まですゝむ」
3月23日「仕事おおいにすゝみ愁眉ひらく」
3月24日「夕めし時シナリオ協会の恒ちゃん 五社協定のことでくる コンストラクション一応貫通して一先安心する」

で、3月30日の日記にこの記述が。

「先ず脚本人物の人名をきめる」

ついにこの日、登場人物の名前が決められたんですね。おそらくはこの前には池部良が出演する了解もとれていたはず。
主人公である池部良の役に与えられた名前は「正二」。

この日、さらに、こう書いています。

「脚本今日から書き出す 1、2書き上げる」

この日からは延々脚本を書き続ける日々が続きます。
完成したのは6月24日。

「朝から仕事 一時三十分 脱稿する 起稿三月三十日なれバ八十七日なり」

思いっきり、荷風の『断腸亭日乗』の文体ですね。
ちょっと面白いのはこの5日前、6月19日の日記。

「予め決めた 脚本完成祝賀会 於里見邸 羊六百 牛二百目 たゞし肝腎のシナリオは完成までにまだ二三日をのこす」

6月の中旬には書き終える予定にしていたみたいですね。完成祝賀会の日まで決めていたというのは笑えます。

で、脚本が完成したふた月あまり後の9月8日に、いよいよ『早春』の映画の撮影地に向かいます。最初の向かったのは言うまでもなく岡山の三石。

昨日予告した「しょうじ」の話を書くことができませんでした。
小津がこれを読んだらきっとこういうに違いありません。

「これハ感心しない 説明が多いからだ」
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by hinaseno | 2013-04-21 10:53 | 映画 | Comments(0)

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相変わらずこれを書いているときには、『早春』のテーマソングを流し続けているのですが、ただ自分にとって大切な映画のテーマソングだからというわけでなく、これを聴いていると本当にたまらない気分になってしまうんです。
で、今朝、この曲には僕が愛してやまない曲の要素が含まれていると、突然に気づいたんです。

ひとつはヴィヴァルディの『四季』の「冬」の第2楽章。
これですね。


ヴィヴァルディの『四季』の「冬」の第2楽章というのは、まさに僕がクラシックに目覚めた曲でした。ヴィヴァルディの『四季』といえば、掃除の時間に使われ続けている「春」の第1楽章があまりにも有名というか、それしか知らない人も多いと思うのですが、というか僕もそうだったのですが、確か大学時代にクラシックに詳しい友人の家で初めてヴィヴァルディの『四季』を全曲聴いて、特に「冬」に衝撃を受けたんです。
で、すぐにレコードを買いました。イ・ムジチの演奏するもの。B面に収められた「冬」ばかり聴いていました。「冬」の第1楽章も大好きなのですが、厳しい冬の中の陽だまりのような第2楽章をたまらなく好きになってしまいました。

小津の『早春』のテーマソングを作曲したのは斉藤高順という人。『東京物語』から小津の映画音楽を手がけています。いわゆる小津調というのはこの人によって作り出されていると言っても過言ではないですね。
小津から『早春』というタイトルを聴いて、寒さの厳しい冬から春に向かう少しだけ暖かくなっていくイメージを思い浮かべていたときに、もしかしたらこのヴィヴァルディの『四季』の「冬」の第2楽章が浮かんだのかもしれません。
ヴァイオリンのピチカートの使い方、それから曲が始まって1分くらいのところで聴かれるメロディの終り方は、そっくりそのままという気がします。絶対に意識して作ったと思います。どこかに書かれているでしょうか?

それからもうひとつ。
曲の最初の1フレーズのメロディ。これ、大瀧さんの『恋するカレン』の最初の「キャンドルを」のメロディとまったく同じですね。びっくりしました。もちろんたまたまには違いないとは思いますが、もし、大瀧さんが『恋するカレン』を作るときに『早春』のこのフレーズを意識的に使ったということであれば、最高にうれしいですね。

いずれにしても、いろんな運命的なことが重なっている『早春』の音楽にも、僕の大好きな曲とのつながりを発見することができました。曲を好きにならないはずがないですね。

ところで、昨日触れた、もし池部良が『東京物語』に出ていたとすれば、その与えられた役は、という話ですが、それは兵隊として戦争に行って亡くなった(戻ってこないままになっている)原節子の夫、昌二(しょうじ)。

「しょうじ」の話はまた改めて書くとして、映画ではこの亡くなった昌二の写真が一瞬写ります。原節子の住んでいるアパートに笠智衆と東山千栄子が初めて訪ねて行ったこの場面。写真を見ると、ちっとも池部良ではありません。当たり前ですね。
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先日、その昌二の兄の、長男である山村聰(役名は幸一)の病院のあった場所のことを書きました。東京の東の端の荒川放水路の堀切橋付近ですね。それからその妹の杉村春子(役名は志げ)の美容院のある場所もおそらくはそこからそんなに離れてはいない。
興味深いのは原節子が暮らしていたアパートがどこにあるかということ。でも、映画ではその手がかりになるのはほとんどありません。川本三郎さんは『銀幕の東京』の注の部分で「原節子の住んでいるアパートはその形態から見て横浜市西区平沼町にあった同潤会アパートと思われる」と書かれていますが、あくまでそれは撮影に使われたアパートの場所で、映画として設定された場所はそんなに遠くないはず。

映画の中で、唯一そのアパートのあった場所が示されるのはこの場面。あくまで方角と言うことですが。
原節子が上京してきた笠智衆と東山千栄子をはとバスに載せて東京案内する場面があります。ここで服部時計台も写ります。あの世界的な映画である『東京物語』に岡山の万成石が出てるんですね。それはさておき、原節子は銀座3丁目にある松屋というデパートに2人を連れて行き、その展望台から東京を見せるんですね。で、外にある階段を下りる途中で3人は立ち止り、こんなやりとりがなされます。

「お義兄さまのお宅はこっちの方ですわ」

こう原節子は言って、左の、かなり遠くの方を指差します。この場面ですね。
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で、東山千栄子が「志げのとこぁ?」と訊くと、原節子は、

「お義姉さまのおうちは、さぁ、この辺りでしょうか」

と言って、同じ方向のやや近い所を指差します。

次に、東山千栄子が「あんたのとこぁ?」と訊きます。すると原節子はその場所では指差せないために階段の踊り場の右側の方に移動しながらこう言います。
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「わたくしのところはこちらですわ。この見当になりますかしら」

で、彼女のアパートの方向を指差します。
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山村聰の病院とは真反対のかなり遠くの方。その方向にある東京といえば、そう、『早春』で池部良と淡島千景が住んでいる蒲田や、あるいは岸恵子と池部良が一夜を過ごした大森のある大田区の方向ですね。
このあと原節子はこう付け加えます。

「とっても汚いとこですけど、およろしかったらお帰りによっていただいて」

「とっても汚いとこ」というのはアパートのことなのかもしれませが、彼女の暮す町のことを言ったのかもしれません。『早春』の冒頭では、淡島千景が向かいに住んでいる杉村春子とゴミのことで区に文句を言っている場面があります。当時の蒲田のあたりの町の汚さをさらっと示しています。

原節子のアパートを特定するもう一つの手がかりがこの場面。
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笠智衆と東山千栄子が原節子のアパートで食事をするのですが、会話が途切れたこの場面で電車の通る音が聴こえます。せいぜい2、3両の電車。2、3両の電車が通っている鉄道の沿線。もしかしたら今、平川克美さんが探偵作業を進められている池上線か目蒲線?
そういえば平川さんは先日紹介した『隣町探偵団』で、池上線と目蒲線についてこんなことを書かれていました。

「わたしたちが子どもだった昭和三十年代はどちらもこげ茶色の三両連結だった」

小津はもちろん原節子のアパートの場所をきっちりと設定していたはず。何となく僕はそれは池上線か目蒲線の沿線ではないかと考えています。あくまで僕の希望的な観測に過ぎないのですが、今日書いたことはその希望的な観測の中でしか発見できなかったこと。

長くなりました。
次回は「しょうじ」の話になると思います。
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by hinaseno | 2013-04-20 10:56 | 映画 | Comments(0)