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昭和20年7月13日。
この日、荷風はある用事で、滞在していた三門の家から10km近く離れた場所に住んでいる人を歩いて訪ねています。このとき荷風は67歳。しかも行く場所行く場所で空襲にみまわれたせいで、精神的にも肉体的にもかなり弱った状態になっていた荷風にとって、この行程は相当にきつかったのではないかと思います。でも、そこで目にしたもの、あとで知ったことによって、この一日は荷風にとってかけがえのないものになりました。
この日の『断腸亭日乗』の文章は、岡山の、荷風の言葉を使えば「薇陽」の風景やそこに暮らす人々への愛情にあふれています。何度読み返しても胸が熱くなります。岡山の日々を記した『断腸亭日乗』で最も好きな一日。
で、この日の日記にはこの日の行程を記した簡単な地図が付けられているのですが、先日来紹介している『新潮日本文学アルバム 永井荷風』には、浄書されたその日の日記と、この地図がカラーで載っているのを知りました。正直、これを見つけたときには腰が抜けるくらいびっくりしました。僕の持っている2種類の『断腸亭日乗』では知りえなかった美しく彩色された地図。荷風のこの地に対する思いが伝わってきます。
この浄書されたページを見ると、翌7月14日と15日の日記を書きかけて消しています。浄書しながら、どうしても地図を描いておきたくなったんでしょうね。この日、この場所で見たものを忘れないために。
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by hinaseno | 2013-03-31 13:04 | 文学 | Comments(0)

今週一週間、荷風の話をここに書きつつ、心は大瀧詠一さんの「アメリカン・ポップス伝パート3」に奪われていました。それも昨夜で終わり。また、ポップス伝のことは改めて書いてみようと思いますが、今回の放送を聴きながら思ったのは、昨日引用した大瀧さんの言葉を使えば、大瀧さんによって完璧に「Google Map化」された1950年代から1960年代初頭にかけてのアメリカン・ポップスの世界に入り込んでいるような気にさせられたことでした。ある時代のある場所にピンポイントで降りて行っては、その細部を広げていき、これまで見れなかったようなつながりを明らかにしてくれています。どうやったらそこまで調べられるんだろうと驚くことばかり。知らない人、知らない曲だらけ(でも、ときどき、あっ、この曲は大瀧さんのあの曲のルーツになっているのでは、と思わせるものがいくつもありました)。僕なんかが単純に理解している歴史がいかに浅薄なものかを思い知らされます。で、それが一つの大きな物語となっていて、とにかく面白い。すごいとしか言いようがありません。この続きはおそらくは夏休みの時期になるんでしょうね。

さて、もう一つ、残念ながら今日、終わってしまったものがあります。毎週土曜日、朝日新聞beに連載されていた平川克美さんの「路地裏人生論」。
今日書かれたエッセイの言葉を使えば、平川さんは「田園調布の外れ、多摩川にほど近いところに」住んでいました。「路地裏人生論」は基本的には平川さん率いる隣町探偵団がその近辺を歩かれて目にしたもの、耳にしたものをもとにして書かれたものでした。新しいものが出てくることはほとんどなく、失われてしまった痕跡、あるいは失われずに今もなお残っているものを題材にしながら、過去を回想する文章が続いていたのではないかと思います。でも、今日の文章ではこんな言葉が書かれてありました。

爺が旧懐に耽っていると思われるかもしれないが、わたしの気持ちは遣る瀬ない抗議に近いものである。


今までずっとそれを読んでこられた人は、もしかしたらこの言葉を見てびっくりされたのかもしれませんが、僕はずっと平川さんのこの「遣る瀬ない抗議」の気持ちを受け取っていました。
平川さんの「路地裏人生論」は今日で終わりのようですが(また、復活するような気もします)、どうやら「隣町探偵団」の探偵報告は別のメディアでなされることが決まったようです。

さて、平川さん率いる隣町探偵団は現在、小津安二郎の「生まれてはみたけれど」の舞台になっている場所の探索をされています。そこはまさに平川さんにとって生まれ育った町、あるいはその隣町のようです。
その探索をされているときに、大瀧さんから平川さんに指令が入ります。『銀座二十四帖』について調べよ、と(もちろん、実際には『銀座二十四帖』の○○について調べてください、というものだったとは思いますが)。それがぽろっと漏れてきてました。そうか、大瀧さんは今、『銀座二十四帖』について研究を進められているんだなと。で、 『銀座二十四帖』は映画をまだ見ていないので、そういうときには必ず読む川本さんの『銀幕の東京』を開きました。『銀幕の東京』は見た映画のところは何度か読んでいますが、『銀座二十四帖』の章は以前さらっと読んだだけでした。
で、今回じっくり読んでみたらこんな記述が。

映画は服部時計店の時計台のアップから始まる。この時代、銀座といえば四丁目交差点の服部の時計台(昭和7年完成)である。これを大写ししてから始まる映画は、成瀬巳喜男監督の『銀座化粧』(昭和26年)や...(中略)。
銀座といえば、”服部の時計台”である。震災後の昭和7年6月に竣工。設計は横浜のニューグランドホテル(昭和2年)や、戦後GHQの最高司令本部が置かれたお堀端の第一生命保険相互会社ビル(昭和13年)を手がけた渡辺仁。岡山産の白色の万成石を使った近代ルネッサンス様式。時計台と、交差点に面してゆるやかにカーヴした曲線が柔らかい印象を与えた。戦災には焼け残ったため、現在もなお健在で、銀座の美しいランドマークになっている。


僕はほぼ毎日のように荷風が過ごしていたあたりの地図を眺めていましたから、「岡山」「万成」を見たときに、ピピッとつながったんですね。本当にびっくりしました。
もちろん大瀧さんが平川さんに調べて欲しいと依頼されたことというのは、隣町探偵団の探索範囲の中にあるもののことだったと思いますが、まるで大瀧さんが僕に気づけないでいたものに、気づくようにメッセージを送ってくれたのではないかと思いました(勝手なファン心理です)。

それにしても、大瀧さんが研究されている『銀座化粧』と『銀座二十四帖』の二つの映画に共通して最初に映される建物である服部時計店が岡山の石で作られていたなんて、本当にうれしくなってしまいます。

それからもう一つ思ったのは、川本さんの服部時計店の説明がかなり詳しいことでした。設計者の名前、万成石という名前、さらにはそれが岡山産であること。どうやら川本さんは、東京の中でこの建物がいちばんお好きらしいようです。ということなのでいろいろ調べられたみたいですね。

昨年出た川本さんの『いまむかし 東京町歩き』にも、やはりこの服部時計店の建物(現在は和光)が取りあげられています。こんな書き出し。

銀座4丁目の交差点に建つ七階建ての和光(昔の服部時計店)の建物は本当に素晴らしい。
屋上の時計塔、ゆるやかな弧を描く正面の曲面、天然石(万成石という御影石の一種)を使った外観。
ショウウインドウのディスプレイもきれいだし、デパートによく見られる広告幕を垂らしていないのも品がいい。銀座での待ち合わせの場所は「和光の前」にしている。


ちなみに川本さんも書かれていますが、小津安二郎の日記の中にも服部時計店のことがいくつか出てきます。そしてもちろん小津の映画にも。『晩春』そして『お茶漬の味』。また、見直してみようと思います。

a0285828_10401814.jpgところで、服部時計店の設計者である渡辺仁について少し調べたら、天満屋岡山店も設計していることがわかりました。服部時計店も東京空襲で奇跡的に焼け残った建物のようですが、天満屋岡山店も荷風が経験した岡山空襲で焼け残っているんですね。この焼け残った天満屋の写真は岡山人的には有名なものだと思います。渡辺仁、すごいですね。ちなみに僕の子供の頃の最高の休日は「天満屋に連れて行ってもらう」ことでした。週1回しかない休みをゆっくりしたがっている父親に「天満屋に連れて行って」と、何度駄々をこねたことか。

さて、話は荷風に。
荷風は、服部時計店の建物が、昭和20年7月18日に目にした石材でできているなんて終生知ることはなかったと思いますが、その5日前の7月13日にたまたま行った場所が、荷風にとってびっくりするようなつながりを持った場所であったことを岡山を去った後に発見することになります。その発見によって、荷風にとって岡山は心から大切に思う土地になったに違いありません。
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by hinaseno | 2013-03-30 10:41 | 文学 | Comments(0)

昭和20年7月18日に、荷風が散策の途中で目にした店で扱っていた石材、万成石。これを使って作られた有名な建物が、銀座4丁目にある「服部時計店」でした。現在は「和光」になっている、屋上に時計塔のある建物です。建てられたのは昭和7年。

荷風はある時期、銀座に通い詰めたことがありましたので、『断腸亭日乗』には服部時計店のことが何度も出てきます。

「十六夜の月服部時計店の屋根に照輝きたり」(昭和8年12月3日)

「服部の時計を見るに十二時二十分過なり」(昭和9年8月4日)

「銀座行の市内電車に乗りかへ尾張町(銀座4丁目の旧町名)に至りて服部の時計を仰見れば正に六時なり」(昭和11年3月17日)

さらには、昭和12年に発表された『濹東綺譚』の「作後贅言」にも次のような記述があります。

服部の鐘の音を合図に、それ等のカフェーが一斉に表の灯を消すので、街路は俄に薄暗く、集つて来る圓タクは客を載せて徒に喇叭を鳴らすばかりで、動けない程込み合う中、運転手の喧嘩がはじまる。


荷風が何度も時計塔を見上げ、その音を耳にしていたかがわかります。まさかその建物が、偏奇館焼失以降、西へ西へと逃げ延びて辿り着いた、まさに西の端の地の石材で作られていたなんて思いも寄らなかったことだったでしょう。もちろん荷風は気づくことはなかったと思いますが、僕自身はこれに気づいて本当にびっくりしてしまいました。

服部時計店は銀座のシンボルでしたから、もちろん銀座を舞台にした映画にも登場します。映画の最初で、いきなりそれが写るものもあります。僕が何度か見たものではなんといっても成瀬巳喜男の『銀座化粧』ですね。服部時計店の時計塔をアップにとらえた場面から始まります。

『銀座化粧』を見るきっかけは、以前にも書きましたが大瀧詠一さんの成瀬巳喜男研究。その題材となった映画が『銀座化粧』と『秋立ちぬ』でした。
大瀧さんの成瀬、あるいは小津の研究を見ると、よくもそこまで、と思ってしまうのですが、でもそこにはただ単に好きな映画のロケ地を巡ろうというものとは違う”自分として”の発見がそこにはあったんですね。だからこそ、徹底的な研究を始められた。僕はそこに深く感動し、同時に強く影響を受けてしまって、このブログに書いているようなことを始めました。

さて、僕の今回の服部時計店の「発見」も、きっかけは大瀧さん(と平川克美さん)でした。話がそれてしまいますが、発見のきっかけを与えてくださったということで、書きとめておこうと思います。

ちなみに、まだ見ることにできていない『秋立ちぬ』にも、服部時計店は写ってるんですね。いつ見えるんだろう。
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by hinaseno | 2013-03-29 10:24 | 文学 | Comments(0)

a0285828_9334214.jpg一昨日、墓好きの荷風の話を書いたときに、是非この写真をと思っていたものがあったのですが、貼り付けるのを忘れてしまいました。

墓を前にした荷風。
僕が見た荷風の写真の中では最も好きなもの。写されているのに全く気づいていないようです。
これは昭和23年頃に撮られたものなので、岡山に滞在していた時期からは3年くらい後の写真です。でも、きっとこんな感じで歩いたり、佇んだりしていたんでしょうね。

さて、昨日の話の続き。昨日引用した7月18日の日記では、夕方、妙林寺の背後の墓地をぬけて山道を歩いています。

日暮妙林寺後丘の墓地を繞る山径を徜徉す。山は皆石山にて松林深き処人家碁布す。林間に畠ありまた牧場あり。人家の庭に甘草孔雀草の花を見る。小径を行くに従ひ林間を上下するに忽ちにして山間に通ずる大道に出づ。大道は三門町停車場のあたりより西北の方に走り吉備津の町に通ずるものなるが如し。四方の山麓及び路傍の家屋中その稍大なるは石材を商うものなり。


山から抜けて「大道」に出たときに、まわりに見える山のふもと、あるいは道沿いに「石材を商う」家がいくつもあることを発見します。

この日、荷風が歩いた道のりを地図で辿るとおそらくこの赤線の部分になるように思います。
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右下の四角で囲んだのが妙林寺、荷風の滞在していた家はその丘のすぐ南のふもとにあります。墓地のまわりにはいろんな道があるのですが、「大道」に出られる道はちょっと歩いてみた限りこの道しかないように思いました。荷風が山道を抜けて行き当たった「大道」は現在の国道180号線ですね。ここから荷風はもしかしたら少しだけ北の方向に歩いたのかもしれませんが、日記では「夜色の迫り来るに驚き、道をいそぎて家にかへる」と書かれているので、途中で引き返して家に戻ったんでしょうね。同じ道を通って帰ったのか、大道を南に下って帰ったかはわかりません。

さて、荷風が「大道」に出て発見した、いくつもの「石材を商う」家。実は地図の左の赤で○を囲んだ部分に採石地がありました。この地図を見てもその周辺にいくつも石材の工場や店があるのがわかると思います。
この辺りの地名は地図にある通り「万成(まんなり)」、ここで採れる石は「万成石」といわれています。御影石(花崗岩)の一種ですが、桜色がかった色をしているために「桜御影」とも呼ばれているみたいですね。全国的に知られるブランドになっている石。おそらく荷風が見た妙林寺の墓地や、墓地近くの道沿いに立っていた石柱のほとんどはこの万成石だっただろうと思います。

で、荷風はもちろん気づくはずもなかったのですが、この万成石を使って作られた有名な建物を、荷風は銀座で何度も目にしていました。『断腸亭日乗』には何度もその建物の名前が出てきます。さらには、あの『濹東綺譚』にも。

その建物とは、銀座4丁目にある「服部時計店」。
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by hinaseno | 2013-03-28 09:38 | 文学 | Comments(0)

荷風が間借りして住んでいた三門の家のすぐ裏の小高い山の上にあったのが妙林寺。法華宗のお寺りっぱな仁王門のある、かなり大きなお寺です。そしてそのお寺の背後の山には墓地が広がっています。荷風は三門に移り住んでから、ここを何度も散策しています。

昨日引用した7月9日の日記の続き。

墓石の間を歩みて山の山頂に至れば眼下に岡山の全市を眺むべし。去月二十八日夜半に焼かれたる市街の跡は立続く民家の屋根に隠れ今は東方に聳ゆる連山の青きを見るのみ。墓地より小径を下ればわが寓居の裏手に出る道路なり。


それから7月18日の日記。

日暮妙林寺後丘の墓地を繞る山径を徜徉す。


8月12日の日記。

晩間裏山に登り見るに妙林寺林間の墓地に線香のたなびき草花携えて往来する村人多し、

8月19日の日記。

午後寓居の裏庭より松林の間の小径を登り妙林寺の墓地に入り樹陰に午睡す、


ただ散策しただけでなく、墓地に生えている樹の影で昼寝までしています。

さて、その妙林寺、川本三郎さんも当然訪れています。

まず山腹にある妙林寺という日蓮宗の古刹に行ってみる。『断腸亭日乗』を読むと荷風は三門に移ったあと、折りを見てこのお寺を歩き、墓地からの眺めをスケッチしている。その同じ場所に立って岡山市のほうを見ると、岡山駅がすぐ近くに見える。空襲のあと、この静かな寺を歩くことで荷風は旅愁を慰めたのだろう。


a0285828_1132329.jpgこの川本さんの文章にも出てくる荷風の描いたスケッチ、これが先日触れた『断腸亭日乗』の昭和20年7月19日の絵ですね。本物の絵を見ると、うっすらと彩色されているのがわかります。ただ、この『新潮日本文学アルバム 永井荷風』に載っている方はちょっと画像が小さいので、僕の持っている1981年版『断腸亭日乗』の画像も貼っておきます(残念ながら白黒)。a0285828_1133376.jpgちなみに僕は2002年版『断腸亭日乗』も持っているのですが、それに掲載された絵はおそらく1981年版のコピーなので、うっすらと彩色された部分はとんでしまって、単なる線画のようになっています。
さて、そのスケッチ。右下に「岡山 三門町 後丘眺望」と書かれています。絵の中にもいくつか文字が書かれています。「妙林寺」「三門町」「児島湾」「水田」「用水」「畠」。
川本さんは「同じ場所に立っ」た、と書かれてありますが、 この絵を手にしていろいろ辺りを歩いたのですが、正直この場所、というところを見つけることができませんでした。川本さんがここに来られてからも10年以上が立っていて、おそらくその間、背後の山の部分まで新しい墓地がたくさんできていて、おそらくは景観が変わっているように思いました。
ただ、この浄書された『日乗』に描かれたスケッチ。おそらくは荷風が持っていたというメモ帳にさらさらと描いたスケッチをもとにして、かなりあとになって描き直したはず。風景を見ながら丁寧に描いたものではありません。記憶をもとにしていくつか描き足したりした可能性もあります。特に 妙林寺の右横にある「用水」は、かなり違う辺りに流れています。たぶん、「ここ」という場所はないように思いました。ただ、最初にメモ帳にスケッチしたのはおそらくこの辺りではないかと思っています。荷風のスケッチでは大きく描かれている遠くに見える山は、実際にはかなり小さく見えます。
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荷風のスケッチで、ずっと気になっていたのは妙林寺のそばに整然と立ち並んだものでした。最初は「墓」かなとは思ったのですが、細長すぎるし、整然と並びすぎています。で、行って見てわかりました。高さ1mくらいの石柱だったんですね。おそらくその後新しい墓地を作るために道の部分が整備されてこの石柱も取り除かれたように思いますが、昔の道がそのまま残っているところにはこの石柱がきれいに並んで残っていました。そしてその近くには大きな木も。
荷風はもしかしたらこの辺りで昼寝をしたのかもしれません。
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ところで、この石柱、おそらくは御影石(花崗岩)。実はこの付近は有名な御影石の産地だったんですね。これについて、とても面白いことがわかりました。それはまた後日。
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by hinaseno | 2013-03-27 11:34 | 文学 | Comments(0)

普通の人の家に間借りしているとなると、かりに相応の間借り料を支払っていたにしても、その家、あるいはその地域の手伝い(空襲直後だったので、いろんな意味で大変な状況だったはず)などをせずにはいられないようには思うのですが、『日乗』を読む限り、荷風にそのような姿を見ることができません。そればかりか、命からがら三門に避難してきて数日後には荷風なりの日常を取り戻します。近所の散策ですね(こんなことをしてると、「変わった人」と思われても仕方ないですね)。そして、それにはうってつけの場所が近くにありました。墓地とお寺。

荷風は若いころから墓、そして墓のあるお寺を訪ね歩く習慣を持っていました。これに関しては川本三郎さんの『荷風と東京』で「探墓の興―墓地を歩く」という一章をもうけて、詳しく説明されています。あるいは『荷風と東京』以後に書かれた「荷風の愛した寺」(『きのふの東京 けふの東京』所収)という文章でも、荷風の寺好きについて書かれています。こんな書き出し。

荷風は寺を歩くことを好んだ。
荷風の身近にはつねに寺があった。(中略)荷風の生活のなかには寺が最も大事なものとしてあった。


そして最後の方にはこんな言葉もあります。

寺は荒廃しているからこそ美しい。いうまでもなく明治になっての廃仏毀釈によって寺は荒廃した。
だからこそ荷風は寺を歩いた。薩長権力による性急な近代化に世捨人として背を向けようとする荷風にとっては、古い江戸文化の名残りを感じさせる寺こそが大事な場所だった。寺は近代文明に対する抵抗の拠りどころだった。
現在を忘れさせてくれる場所としての寺。良き過去とつながる場所としての寺。実利主義の明治に対し、江戸という「閒事業」がありえた時代を思わせてくれる場所としての寺。


ここに「閒事業」という言葉が出てきます(「閒」は内田百閒の「閒」ですね)。荷風の『礫川徜徉記』という随筆の中で使われている言葉です。こんな文章。

掃墓の閒事業は江戸風雅の遺習なり。英米の如き実業功利の国にこの趣味存せず。


川本さんは「閒事業」という言葉についてこう説明されています。

「閒事業」、つまり、およそ「実業功利」とは縁のない閑人のすること。


僕は百閒の「閒」が使われていることを含めて、この「閒事業」というおそらく辞書にも載っていないはずの言葉を気に入ってしまいました。考えてみると、このブログを書くこと、あるいは書いている中身もまさに「閒事業」そのものですね。だれの、何の役にも立ちません。

ところで『礫川徜徉記』はこんな書き出しになっています。荷風がなぜ寺や墓を訪ね歩くのが好きなのかがよくわかります。ちなみに書かれたのは大正13年、荷風46歳のとき。

何事にも倦果(あきは)てたりしわが身の、なほ折節にいささかの興を催すことあるは、町中の寺を過る折からふと思出でて、その庭に入り、古墳の苔を掃つて、見ざりし世の人を憶ふ時なり。
見ざりし世の人をその墳墓に訪ふは、生ける人をその家に訪ふとは異りて、寒暄(かんけん)の辞を陳るにも及ばず、手土産たづさへ行くわづらひもなし。此方より訪はまく思立つ時にのみ訪ひ行き、わが心のままなる思に耽りて、去りたき時に立去るも強て袖引きとどめらるる虞(おそれ)なく、幾年月打捨てて顧ざることあるも、軽薄不実の譏(そしり)を受けむ心づかひもなし。雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思ひ、風静なる日その墳墓をたづねて更にその為人を憶ふ。この心何事にも喩へがたし。


さて、昭和20年7月の荷風。7月3日に三門の武南さんの家に移り住むようになって、その6日後に近所を散策し始めます。『断腸亭日乗』の7月9日の日記。

午後寓居の後丘に登る。一古刹あり。山門古雅。また仁王門ありて大乗山といふ額をかゝぐ。老松多し。本堂の軒にかけたる額を仰ぐに妙林寺とあり。

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by hinaseno | 2013-03-26 10:00 | 文学 | Comments(0)

  いやはやなんとも


今日はちょっと予定を変更して昨日予告していたのとは別の話を。でも荷風がらみの話ではあるのですが。昨日のブログを書いたあとにとても大きな発見をひとつ、そして寝る前に読んでいた本でびっくりするような発見をひとつしてしまって、個人的には一日中興奮してしまいました。前者の方は日を改めて書きたいと思いますが、後者の方はぜひ今日書いておかねばと思いました。

僕がこのブログを書くようになって、何となく書いてきた全然別のことが、実はつながっていたというのがいくつも出てきています。それぞれが近いジャンルのことであるならば、まだ驚きも少ないのですが、昨日の発見は2つとも、あまり関係なさそうに思えるものどうしのこと。いずれも荷風がらみですが。まあ、僕がこんなに荷風にはまってしまっているのも、荷風にはそういうのが多すぎるからなのですが。

ここ最近、ずっと荷風の岡山での日々を書いています。実はまったく触れなかったのですが、偏奇館を焼かれて後、岡山で暮らすようになるまで、荷風とずっと行動を共にしていた人がいました。最初は自分たちの住んでいたアパートに荷風を住まわせ、それ以降、荷風が滞在することになる場所は、すべてその人が世話したものでした。一昨日書いたように荷風が三門に行ったのは、そこに池田優子さんという人が住んでいたからなのですが、岡山に来て池田さんを紹介したのもその人でした。
『断腸亭日乗』にも偏奇館焼失以後、再々、その人の名前は出てきます。でも、基本的には名字だけ。ときどきは名前が全て書かれているのですが。その人の名は菅原明朗。奥さんである永井智子さんも同行されていました。

前に岡山の町を散策する荷風のことを書きましたが、実は菅原さんといっしょに歩いていることが多いんですね。岡山にやってきた2日後の6月13日には「午前菅原氏と共に其知人池田優子なる婦人を厳井下伊福の家に訪ひ昼飯を恵まる」、6月20日には「午前暑さ甚しからざる中菅原君と共に市中を散歩す」、6月23日には「菅原君に案内されて旧藩校の堂宇を見る」とあります。で、岡山で空襲をうけて三門近くの下伊福の池田優子さんの家に行ったときに、たまたま岡山空襲のときには岡山にいなかった菅原さんと再会します。

さて、その菅原明朗という人と荷風の関係、川本さんの『荷風と東京』にも書かれてはいるのですが、読んでいるときはあまり気に留めることもないままにしていました。びっくりするような発見とか自分で言いながら、実はただただぼんやりしているだけなのですね。
で、昨夜寝る前に、川本三郎さんの『荷風好日』(『荷風と東京』の後に刊行された本ですが、僕はこちらを先に読んでいました)を読んでいたら(再読です)、その菅原明朗という人と荷風との関係が書かれている箇所にぶつかりました。
菅原明朗は作曲家。荷風が作詞した「葛飾情話」というオペラの作曲をしているんですね。『濹東綺譚』を発表して間もなく、昭和13年に荷風はクラシックの作曲家である菅原明朗と知り合い、銀座の喫茶店でいろんな話をする中でオペラを作ろうということになったようです。で、そのオペラはその昭和13年の5月にオペラ座で上演され、連日満員の興行になったとのこと。で、この初演のときに、主人公の女性を演じた美貌のオペラ歌手が、菅原明朗の私生活の伴侶である永井智子だったんですね。
川本さんの本ではこの永井智子さんが歌った「葛飾情話」のSPが永井智子さんの遺品の中から発見されて1998年にCDになったということも。

ここまで読んで、クラシックの作曲家である菅原明朗という名前をどこかで見たことがあるなと思って、もしやと思って、去年買ったある音楽家の全集のブックレットを見たんですね。やはりありました。「菅原明朗に師事」との言葉が。
その音楽家とは、このブログでも何度も書いてきた古関裕而。福島から上京してきたときに2年間ほど菅原明朗のところで学んでいたんですね。あの古関裕而さんが、間接的にではあれ荷風、そして岡山につながったことになったわけです。

このことがわかってずいぶん興奮して中々寝付けなかったのですが、目が覚めて石川さんのブロブを見たら(いつも枕元に置いているiPhoneで朝いちばんに見るのですが)、なんとその古関裕而さんのことが書かれていて、びっくりのびっくり。寝間にいながら腰が抜けそうになりました。昨日、古関裕而さんの息子さん、正裕さんがアゲインにいらっしゃっていたんですね。いやはやなんとも(「ゴー!ゴー!ナイアガラ」での大瀧さんの口癖です)。

ところで、永井智子さんが「葛飾情話」を歌ったCDを収めたものは、ネット上では見当たらないですね。すでに廃盤になっているようです。いつか聴いてみたいですね。
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by hinaseno | 2013-03-25 10:00 | 雑記 | Comments(0)

武南さんの家を外から眺めてすぐにわかったのは、本に載っていた写真で見ていた荷風が暮らしていた部分がなくなっていて、新しい建物が増築されていたことでした。『新潮日本文学アルバム 永井荷風』(1985年)のこのページの左上の写真の、左のほうにせり出した形になっている二階の部分に荷風は暮らしていました。ちなみにその横がその部屋の中の写真。
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さて、家の外から何の了解も得ないで勝手に写真を撮るだけにするのもどうかと思い、かといって突然訪ねるのも失礼な気もして、しばらく家の前に佇んでいました。でも結局、訪いを入れることに。するとすぐに女性が出てきました。で、川本さんにならって「実は永井荷風の研究をしておりまして」と告げると、川本さんのときと同様に、その女性は急に笑顔になりました。
でも、その女性は川本さんが14年前に訪ねられたときに対応された”老婦人”ではないことはすぐにわかりました。

昨日引用した川本さんの『旅先でビール』の、「どうぞお上がりなさい」ということばの続きを引用します。

思わずこちらも笑顔になる。79歳になるその武南登喜子さんは、いまでもよく荷風のことは憶えているという。二階の一部屋を貸した、裏山からたき木を拾ってきて七輪で米を炊いていた、人付き合いの悪い変わりものだった。そのころはそんな偉い方だと知らなかったんですよ、ただ変わった方だなあって。
家は当時のまま。大正はじめの建物だという。なんだかいまにも二階から荷風が降りてきそうだ。突然の訪問にもかかわらず快く応対してくれた武南さんに感謝して夕暮れの迫ってきた町に出た。

川本さんが訪問されたときに対応された武南登喜子さんは、現在は93歳で、今もご存命とのことでしたが、残念ながら立ち歩いたり、人と話したりすることは出来ない状態とのことでした。僕が伺ったときに対応していただいた方は登喜子さんの息子さんの奥さんでした。それでも突然の訪問にもかかわらず快く応対していただき、途中で息子さんにあたるご主人も帰宅されて、お二人からいろんな話を聞かせていただくことができました。写真も快く撮らせていただきました。母屋の部分は昔のままです。
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荷風が七輪を使って米などを炊いていたのは、母屋の向こう側にある裏庭。「お見せしてもいいですよ」とのことでしたが、ちょっとずうずうしい気がして結局やめておいたのですが、あとで、やっぱり見ておけばよかったと少し後悔。
荷風がその庭で過ごした風景を少し引用しておきます。『断腸亭日乗』昭和20年8月2日の日記。ブログのタイトルは「7月の荷風」なのですが、まあいいですね。荷風は実際には8月の末までは岡山に滞在していました。

日輪裏山の薮陰より登らざる中、蚊帳を出で井戸端に行き口そゝぎ顔洗ひ米どき、裏庭に置きし焜炉に枯枝を焚きて炊事をなす、去年麻布の家にても夏より初冬の頃まで裏庭に出であたりに咲く花をながめ飯かしぐ事を楽しみぬ、今年は思ひもあけぬ土地に来り見知らぬ人の情にすがり其人の畠に植ゑし蔬菜をめぐまれて命をつなぐ、人間の運命ほど図り知るべからざるはなし、(中略)晡下井戸の水にて冷水磨擦をなす、感冒予防のためなり


七輪でご飯を炊いたりするのは、前年の夏に偏奇館にいたころからやっていたんですね。

さて、武南さんから聞いた最も興味深かった話。お母さんである登喜子さんから聞いた話ですね。登喜子さんが、突然家にやって来た変な老人だと思っていた荷風が、もしかしたら偉い人かもしれないと思った出来事。

ある日、風呂を沸かすために薪を燃やしていた登喜子さんのところに荷風がこれもいっしょに燃やしておいて、と言って一通の封筒を差し出します。荷風はそのまますぐに立ち去ります。で、登喜子さんは言われた通り、その封筒を燃やそうとしますが、見るとその封筒の宛名のところには「永井荷風先生」と書かれてある。当時どうやら登喜子さんも含めて武南さん家族は永井荷風という名前は知らなかったみたいですが、「先生」という言葉に目が留まったようです。で、手紙の差出人の名前を見ると谷崎潤一郎。谷崎潤一郎という名を登喜子さんがご存知だったかどうかはわかりませんが、いずれにしても登喜子さんは、この人はもしかしたらとても偉い人かもしれないと思い、それを燃やさずにとっておくことにしておいたということでした。

この話を武南さんご夫婦からうかがって、その手紙、どこかで見た記憶があるなと思ったのですが、それが最初に貼った『新潮日本文学アルバム 永井荷風』の、武南さんの家の下に写っている手紙ですね。おそらく、この本を出すときに武南さんの家に取材に見えられた人に登喜子さんがお見せしたんだと思います。
この7月21日に書かれた手紙の内容は読み取れない部分も多いのですが、どうやらこの頃同じ岡山の勝山にいた谷崎が荷風にいろんなものを送って、岡山駅に預けてあるとのことのようです。『日乗』を見ると7月27日の日記のこんな記述が。

午前岡山繹に赴き谷崎君勝山より送られし小包を受取る、帰り来りて開き見るに、鋏、小刀、朱肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、其他あり、感涙禁じがたし


この荷物を受け取ったので手紙はいらなくなったということなんでしょうね。初めはもらった手紙を燃やすというのはちょっとどうかと思ったのですが、この岡山に滞在していた時期の荷風の『日乗』を読むと、荷風のもとには次から次に手紙が届いています。全部をとっておくわけにはいかなかったんでしょう。

さて、武南さんご夫婦のお話をおうかがいしつつ、あっ、それは『日乗』のここに書いてあります、なんて答えていたのですが、実は武南さんは荷風の『断腸亭日乗』をお持ちでもなければ、読まれたこともないとのこと。ちょっと笑ってしまいました。僕が持参していた『日乗』や川本さんの『旅先でビール』をお見せしたら、へえ〜って感じでご覧になっていました。

そういえば今、気がついたのですが、先程引用した『日乗』の7月27日の日記の最後にはこんな言葉が。

「晩間理髪」

自分でしたということでなければ、もしかしたら、川本さんが武南さんの家を尋ねられた「古い理髪店」で散髪したのかもしれません。荷風の髪を切ったのが川本さんが尋ねられた人という可能性は少ないにしても、その息子さんだったかもしれません。

次回は荷風が何度も足を運んだ、武南さんの家の近くにある妙林寺のことを。
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by hinaseno | 2013-03-24 10:39 | 文学 | Comments(0)

ひと月ほど前に、昭和20年7月の荷風の日々を描いた「旭東綺譚」という文章を書きました。もちろんそれはあくまで空想の物語。荷風の『放水路』という随筆の中の言葉を使えば、「自分から造出す果敢い空想に身を打沈めた」ものでした。でも、本当の荷風の7月から8月の終戦を迎えるまでの日々のことに触れておかなければなりません。荷風は6月29日の未明に岡山の弓之町で空襲を受けた後も、終戦を迎えるまで岡山に住んでいました。住んでいたのは市内の西のはずれ。

6月29日の夜2時過ぎに空襲が始まり、岡山市の弓之町に住んでいた荷風は旭川沿いの土手を北に走り、山陽本線の鉄橋近くにの河原まで逃げてどうにか助かった荷風は、おそらく滞在していた松月という旅館が焼失していることを確認して、岡山に来たときに世話になった市内の下伊福の池田さんの家を目指します。6月11日に岡山にやって来て、その2日後の6月13日に一度だけ下伊福の池田さんの家を訪ねているのですが、全く見知らぬ町の、しかも荷風の住んでいた所からは3kmくらい離れている場所に行くことができるのですから、荷風の頭の中のマッピング能力がいかに優れたものであるかがわかります。目印はおそらく岡山市の北西部にある京山という小高い山だったと思います。

6月29日はずっと雨が降り続いていたようですが、荷風はどうにか下伊福の池田家に辿り着きますが、そこも焼かれていることを目にします。おそらく荷風は途方に暮れたはず。でも運良く、近くの、畑が広がっている山間の家に避難していた池田さん一家に出会うことができます。

で、翌日荷風はその近くの三門(みかど)の佐々木さんという方の家に間借りします。さらにその3日後の7月3日に、同じ三門の武南(たけなみ)さんという方の家に移り住み、終戦を迎えるまで、ほぼひと月半、この武南さんの家に滞在します。

というわけで、この武南さんの家に伺ってみることにしました。満を持して、ですね。目印はやはり京山、そしてその近くにある妙林寺というお寺。妙林寺は、たぶん大学時代に一度だけ行った記憶があります。
武南さんの家は本に写真も載っていて、家の形もだいたい覚えていたのですぐに見つかるだろうと思っていたのですが、思った以上に家も多くなかなかそれらしき家が見つかりませんでした。実はネット上を調べれば武南さんの家はピンポイントでわかるのですが、そういうのは全然面白くないので、あくまで自分の目と足で探すことに決めていました。

実はこの武南さんの家、今から14年前の1999年に川本三郎さんが訪ねられています(『旅先でビール』所収)。川本さんは荷風が避難した旭川にかかるの山陽本線の鉄橋下にも行かれているんですね。そこから弓之町に行かれて、それから三門まで歩かれています。おそらくは昭和20年の6月29日に荷風が歩いたであろう場所を辿られているんですね。弓之町から三門までは小一時間だったとのこと。かなりの健脚です。

僕にとって川本さんは、先日引用した「ゴー!ゴー!ナイアガラ」での大瀧さんの言葉を使えば、「不連続」として存在していたものをつなげてくれるかけがえのない人。荷風が暮らしていた場所、荷風が歩いていた場所を辿るのもうれしいことですが、さらにその同じ場所を川本さんが歩かれているのを確認しながら辿るのは、何ものにも代えがたい悦びを感じてしまいます。『早春』の「三石」がそうであったように。

さて、三門にやって来た川本さんはまず妙林寺に行き、それから武南さんの家に向かいます。ちょっと引用します。

寺の近くを歩くと古い町並みが残っている。このあたりも戦災にあわなかったらしい。もしやと思って、荷風が部屋を借りた家を探してみる。武南という珍しい名前だからもしいまもあればわかるかもしれない。古い理髪店の主人に聞いてみると、武南さんの家はすぐそこの路地の奥だという。
いわれたとおり角を曲がると隠れ里のように戦前からの家が並ぶ一画があり、そこに板塀で囲まれた大きな二階家があった。表札に「武南」とある。いきなり訪れるのは失礼かと思ったが、こういう機会はめったにない。訪(おとな)いを入れると老婦人が出てくる。実は永井荷風の研究をしておりまして、といっただけでその女性は急に笑顔になる、ときどきそういう方がお見えになるんですよ、ええ荷風先生は家にいらしたんです、どうぞお上がりなさい。


いい場面ですね。「訪い」という言葉にも思わず微笑んでしまいます。
とりあえず、僕は川本さんが武南さんの家の場所を尋ねられた「古い理髪店」を探したのですが、見当たりません。よわったなと思ったら、ちょうど郵便配達の人が自転車で通りがかったので聞いてみました。一瞬考えられて、そこの路地を入ってすぐです、と教えられました。そこは歩いていなかった路地でした。川本さんが書かれているように、路地には昔ながらの家が並んでいます。新しい家やアパートも建っていはいるのですが、「隠れ里」という雰囲気は今も残っていました。
で、その路地に入って100m足らずの場所に「武南」と書かれた表札のある家を見つけました。
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by hinaseno | 2013-03-23 11:10 | 文学 | Comments(0)

ここに書きたいことはいろいろあるのですが(書きたいことをどうまとめていいやら思案中)、今日は時間の関係で短い話を。
でも、もちろんとってつけた話というわけではありません。

昨日は久しぶりにゆっくりできたので、いろいろなものを読んだり聴いたりの一日でした。

まずは先日買った『レイモンド・スコット・ソングブック』を聴きつつ、その長大なブックレットを読み進めました。
知らないことばかりですが、少しずつレイモンド・スコットという人の像が出来上がって来て、ぐっと身近な存在になってくるのがわかりました。

興味深かったのは、彼のバンド、「レイモンド・スコット・クインテット」の名前に関してのこと。「クインテット」というのは"5人組"のことなのですが、レイモンド・スコットのバンドは実は"6人組"。
で、"6人組"であるならば本当は「セクステット」なんですが、「セクステット」という言葉の響きが嫌で(かといってメンバーを一人減らして、正確に「クインテット」にするわけでもなく)、"6人組"のままバンド名に「クインテット」ということばを付け続けたとのこと。

「理屈」よりも身体的な感覚を優先するということに、ひどく好感を持ってしまいました。

それから、ブックレットでいちばん面白かったのは、制作者である岡田崇さんが書かれた「レイスコ珍道中」ですね。僕みたいな人間は、このタイトルを見ると、ついつい大瀧さんが昔ラジオで放送した「ひばり島珍道中」を思い浮かべてしまいます。僕からは「断絶」していると思っていた美空ひばりという人のイメージが根底から覆されてしまった番組です。
さて、「レイスコ珍道中」は、岡田さんがレイモンド・スコット(略してレイスコ)の音楽に出会った日から、『レイモンド・スコット・ソングブック』ができあがるまでを日記風に書いたものなのですが、完成までの長い年月の間に、思いがけない出会いがあったり、あるいは当てが外れたりするのを繰り返されているんですね。岡田さんといっしょに、レイスコ島を旅している気分になりました。

これを読みながら改めて僕は「メイキング・オブ」が好きなんだなと思ってしまいました。もちろん他人事だからいえることで、実際には大変なご苦労の連続だったはず。でも、その苦労の部分も笑わせてもらいました。岡田さんのキャラクターでしょうか。

そういえば、ひばりさんといえば、レイモンド・スコットの「Manhattan Minuet」という曲が春っぽくてとても気に入ったのですが、何度か聴いていたらひばりさんの「春のサンバ」(大瀧さんの「ひばり島珍道中」で知りました)に似ている部分があるように思いました。
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by hinaseno | 2013-03-21 08:56 | 音楽 | Comments(0)