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 偶然思いがけなく降りた西大寺鉄道の大多羅駅。駅舎の向こう側には「平賀元義翁墓所 是より北三丁」と刻した碑と、大多羅寄宮跡の案内板がある。平賀元義は幕末期の国学者で歌人。たしか正岡子規がこの人物の歌を褒めていたように思う。こんな市内からはなれた田園が広がる土地の、山の麓の人家が散在する場所でそのような人物に出会うことにどこか運命的なものを感じる。墓所はまた別の機会に参ることにしよう。

 百間川から少し遠ざかったとはいえ、駅から百間川の土手はすぐ近くに見える。少し南に行ったところに土手の方に行く道がある。道の左右には田植えを終えたばかりの水田が広がっている。所々に農家がある。農作業をしている農民が何人か見えるが、道ですれちがう人はだれもいない。土手の上を歩いている人も見当たらない。

a0285828_11212811.jpg 土手には数分で到着する。土手の上に登って百間川の風景を眺める。かつて何度も散策した荒川放水路の眺望と重なる。蘆荻と雑草と空のほか、何も見えない。昨日歩いた上流とは違い、このあたりには水の流れがある。少し北に旭川とは別の川の水門が見える。その川から放流されたようである。

 土手沿いに南に下ってみる。遠く左の方に大きな川が見え、そのそばに大きな寺の屋根と三重塔が見える。そのまわりに町が広がっている。先程乗っていた西大寺鉄道はその方向にとぼとぼと進んでいる。おそらくそこが西大寺市なのだろう。
 目を反対側に転じると、山の中に三重塔が見える。森下駅のあたりで見えた塔もふくめてこのあたりには寺の塔があちこちに建っている。

 さらに南に進むとまた別の、やや大きな川が百間川に流れ込んでいる。近くにかかっている橋を見ると砂川と書かれている。さらに下ると岡山市内と西大寺市を結んでいると思われる道に出会う。
 そこに橋がかかっている。清内橋。ここからはもう水門が見える。ここまでだれひとり出会うものはいない。
 そういえば、わたくしが荒川放水路を散策したのは冬が多い。放水路はやはり枯れた蘆が茂っている風景が似合っている。ここから先はまた冬に歩いてみようと思う。もちろんその頃までわたくしがこの岡山の町にとどまっていればの話ではあるが。
(了)

―Dedication―
永井荷風、内田百閒、小川洋子、川本三郎、Doc Harvey、Mann-Weil、The Ronettes、大瀧詠一、石川茂樹、younger days of my father
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by hinaseno | 2013-02-28 11:25 | 雑記 | Comments(0)

 翌日、梅雨があけたかのような陽が照りつけていたので、夕方少し涼しくなるのを待って西大寺鉄道の停留場に向かう。宿から旭川沿いを南に下り、鶴見橋を渡って後楽園に入る。それから公園の小道を進み、すぐさま蓬莱橋を渡る。橋を渡るとすぐに西大寺鉄道の停留場に着く。
 どこで降りればよいかわからないので、終点の西大寺市行きの切符を買うことにする。場合によっては途中で降りてもかまわないだろう。
 夕刻とはいっても、陽射しはまだ強く、停留場に佇立んで額の汗を拭った。しばらくするとあまり人の乗っていない列車が恰もわたくしを迎えるようにやって来て停まった。

 まだ仕事終りの時刻ではないので客はわたくしを入れて5人。まもなく列車が走り始める。本線の列車とは違い速度はおそい。乗り心地もあまりいいとはいえない。列車は後楽園駅を出発すると旭川に沿うように南に進み、すぐに最初の停車駅に停まる。森下駅。目の前に教会の建物が見える。金光教の文字が見える。振り返って山を望むと多宝塔が優美な姿を見せている。
 森下駅を出ると列車は東に向きを変え、まもなく次の停車駅に停まる。原尾島駅。そして原尾島駅を出てすぐに土手が見えてくる。まちがいなく昨日見た百間川である。列車は陸閘を抜けて百間川の川底を走る。昨日の雨で少しばかり水の流れができていたが、列車が通るには問題ない。
 百間川を越えるとすぐに次の停車駅に停まる。藤原駅。ここから線路は百間川から少しずつ離れるように進んで行く。次の停車駅は森下駅。列車はしだいに山陽本線に近づく。列車に乗った3人ほどが降り始める。到着したのは財田駅。数人が乗り込んでくる。ここが山陽本線と接続する駅であることがわかる。山陽本線の駅の名前をみると西大寺駅と書かれている。この列車の終点も西大寺市、ここも西大寺駅、確か岡山の市内にも西大寺町というのがあった。岡山には西大寺が多くてややこしい。
 
 財田駅を出ると、列車は進行方向を急激に南に向ける。まもなくして百間川の土手が見え始める。列車はどんどん土手に近づいて行く。すると列車が次の停車駅に停まる。長利駅。駅は土手のすぐ近くにある。ここで降りようかと思ったが線路は百間川の沿って南に向かっているので、もうしばらく乗ってみることにする。
 列車は田圃の中をゆっくりと進んでいる。左側にこのあたりでは高い山が近づいてくる。隣に座っている乗客に訊いてみる。芥子山。その山を眺めているうちに列車は次の停車駅に入って行く。見ると線路はここからまた角度を変えて東の方に進み、百間川からはどんどん離れていっていることがわかる。あわててこの駅で降りることにする。
 大多羅という変わった名前の駅。駅を出ようとすると、一人の婦人が列車に乗るためか、走りながら線路を渡ってきた。
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by hinaseno | 2013-02-27 11:27 | 雑記 | Comments(0)

 雨の中を歩く。
 土手の上を東に歩む。大粒の雨の影響で、水のなかった百間川に小さな流れができ始める。はるか向こうを眺めると川は右に大きく蛇行しているのがわかる。おそらくは南に向かって海に流れ込んでいるのだろう。
 土手をしばらく歩くと切り通しがある。陸閘というものであろう。仕方なくわたくしは人の足跡を辿って土手を降り、また夏草をわけて土手に登る。ようやく登って少し歩くとまた陸閘にぶつかる。見るとそこに線路が走っている。線路は岡山城の方からこちらにまっすぐに向かってきていて、東へと延びている。線路を見る限り、今も使われているもののようである。そういえば10年ほど前、わたくしは玉の井の土手のあたりを散策していたときに、京成電車の通っていた線路のあとを見つけたことがあった。

a0285828_103225100.jpg わたくしはそこに佇立んで列車の来るのを待った。しばらくすると岡山城のある方向から小さな列車がやってきた。陸閘のところに立っているわたくしに危険を知らせるためか警笛を鳴らしながら近づいてくる。気動車と客車のたった2両からなる列車。すぐにそれが後楽園の発着駅に停まっているところを見た西大寺鉄道の列車であることがわかる。
 列車は百間川を越えてしばらくは百間川から徐々に離れるように進んでいたが、百間川が南に蛇行しているのにあわせるように、途中から南に進路を変え、再び百間川の東岸を沿うように走った後、山陰で見えなくなってしまった。
 わたくしは西大寺鉄道の列車が見えなくなったあたりまで歩いて行こうかと思ったが、日も暮れかけていたため、すぐ近くの山陽道を通って市内の宿に帰ることにした。雨はいつのまにか歇んでいた。
 明日は西大寺鉄道に乗って、百間川の下流に行ってみようと思う。
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by hinaseno | 2013-02-26 10:33 | 雑記 | Comments(0)

 7月初旬のある日、岡山の弓之町の松月というに旅館に避難していたわたくしは、昼食を食べた後、前日まで何度か歩いた方角とは逆に、旭川沿いの土手を北に向かって歩くことにした。川の流れとは逆の方向である。お城の周辺とは違い、あまり見るべきものがない。子供たちがたくさん川遊びをしている。ああ、今日は日曜日かと考える。しばらく歩くと鉄橋に至る。どうやらわたくしが乗ってきた山陽本線の鉄橋のようである。そこから北に行っても見るべきものがなさそうに思われたので引き返そうかと思ったが、もう少しだけ歩いてみることにする。するとまもなく、旭川が東側に分流する場所を発見する。
 対岸のためによくはわからないが、分岐している川には水門があり川には水の流れが見当たらない。どうやら放水路らしい。東京に暮らしていたときには何度も隅田川の東を流れていた荒川放水路を散策していたわたしくしにとって、放水路は心安まる場所であった。
 たまたま土手を通りがかった、真っ黒に日焼けした十四、五歳の少年にその川のことをたずねる。
「百間川っていうんだよ。川幅が百間あるから百間川」
 少年は元気よく答える。その少年の言葉を聞いてわたくしはそんな名前の作家がいたことを思い浮かべる。内田百閒。そういえば彼も確か岡山出身だったはず。

 わたくしはある既視感におそわれる。川の西に広がる市街地、川の東につくられた放水路、そして川の中州の遊廓の立ち並ぶ場所。隅田川と旭川、荒川と百間川、そして玉の井と中島。つい先日までいた遠く離れた東京の風景と今いる岡山の風景が重なる。
 わたくしは百間川の土手を歩いてみたくなる。だが、すぐ近くに対岸に渡る橋が見当たらないので、しかたなく来た道を戻り、先日後楽園に行ったときに渡った鶴見橋、それからさらに蓬莱橋を渡って対岸に行く。蓬莱橋を渡ってすぐに、先日見た西大寺鉄道の発着駅を目にする。小さな列車が止まっているのが見える。どうやら軽便鉄道であろうと考える。機会があればあれに乗ってみようと思い、そこをあとにする。
 わたくしは旭川の東側の土手を再び北に向かって歩いて行く。土手の下は旭川の西側とは違って田畑が大きく広がっている。向こうには百間川の土手も見える。南方に見える山の中腹には優美な姿をした多宝塔も見える。しばらく歩いて山陽本線の鉄橋の下をくぐり旭川と百間川の分岐点に到着する。

 突然、あたりが急に暗くなってきたかと思うと、雷が鳴り出し、まもなく大粒の雨が降り始める。宿を出るときにはあれほどよく晴れていたのに天気はいつの間にか変わってしまったのである。
 わたくしは多年の習慣で、傘を持たずに外出することは滅多にない。いくら晴れていても入梅中のことなので、この日も無論、傘と風呂敷とだけは手にしていたから、静かにひろげる傘の下から空と町を見ながら百間川の土手の上を東に向かって歩くことにした。
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by hinaseno | 2013-02-25 10:49 | 雑記 | Comments(0)

  七月になると荷風は


 6月18日に後楽園を越えた旭川の袂で西大寺鉄道の発着駅を見つけた荷風。気持ちが落ち着いてきたのか、翌日からもう少し活発に動き始めます。でも散策の中心はやはり旭川沿い。
 
 まず、6月19日には滞在していた旅館近くにあった渋沢温泉という銭湯に行っています。夕食をとったあと旭川の土手を歩いています。

a0285828_20155150.jpg 6月20日にはさらに行動範囲が広がります。まず、知人といっしょに市内電車に乗って京橋に行っています。市内電車とはもちろん現在も走っている路面電車ですね。この写真がおそらく京橋を渡っている路面電車をとらえたものだと思います。時代はよくわかりませんが。荷風が岡山の路面電車に乗っていたなんてうれしくなりますね。
 で、そのあたりを散策。当然のことながら旭川に浮かぶ中島を発見します。遊廓が立ち並んだ小さな島。昭和11年4月に木山捷平が人力車でやって来た(連れてこられた)場所ですね。荷風は別にどこかに立ち寄るわけでなく、いくつかの橋を渡りながらいろんな風景を見ています。それから岡山城内を歩き、また後楽園に行っています。

 6月21日は午前中散歩、夕食後、前日の知人といっしょに再び電車に乗り京橋に行き、やはり前日同様中島を散策しています。こんな記述があります。

たまたま門口に立出る娼婦を見るに紅染の浴衣にしごきを巾びろに締め髪を縮したるさま、玉の井の女に異ならず


 東京にいたときに足繁く通っていた隅田川の東の玉の井を思い浮かべています。僕の中では隅田川と旭川が重なり、玉の井と中島が重なり、そして荒川放水路と百間川が重なっています。でも、荷風はまだ百間川を発見していません。

 6月22日は松月の旅館で終日読書。

 6月23日は旭川とは反対側の市内を歩いていろんな建物を見ています。

 6月24日は来客が来たり、同じ岡山県の勝山に避難してきていた谷崎潤一郎に手紙を書いたりしています。

 6月25日には洗濯をしたあと銀行に行っています。夕食後、また旭川沿いを歩いています。

 6月26日には銀行に行ったついでに、また岡山城のあたりを散策しています。この日書かれている旅館の軒につくられた燕の雛の話が、結果的には不吉な前兆としてあとにつながっていきます。

 6月27日には住所変更の通知をしています。しばらく弓之町の松月に滞在することにしたんですね。
 しかし、その翌日の晩、正確には6月29日の未明に岡山が空襲されます。この日(6月28日)の日記。

 晴。旅宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまゝ帰り来らざるを見。今明日必異変あるべしと避難の用意をなす。果してこの夜二時頃岡山の町襲撃され火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひゞかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。


 荷風が逃げた鉄橋というのは山陽本線の鉄橋。旭川を北に上ったところにあります。荷風は岡山に来てから旭川沿いを旅館から南の方向しか歩いてはいませんでした。おそらくは人々はみな北側に逃げていたんでしょうね。僕の父も家族とはぐれながらも、そちらの方向に避難する約束をしていたそうです。
 空襲という生きるか死ぬかの状況であっただろうとはわかっていながら、一方で僕は地理のよくわからない荷風が父のすぐあとを追いかけていた映像を思い浮かべて、甘美な気持ちになってしまいます。

 さて、荷風が避難した山陽本線の鉄橋。そこから北に1kmも行かない場所に旭川から百間川に分流するところがありました。もちろん荷風はそこを見ることなく、岡山市の西の三門というところに避難して終戦を迎えるまでそこで過ごすことになります。

 でも、もしあの日空襲がなく、7月という新しい月を迎えていたら、荷風はきっと...。
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by hinaseno | 2013-02-24 20:18 | 文学 | Comments(0)

 もしあの日、岡山に空襲がなければ、あるいはもう何日か空襲があとになっていれば、荷風はあの百間川の土手に行っていたかもしれない。
 でも、この「もし」は、場合によっては荷風や僕の父に(つまりは僕自身に)全く違う運命をもたらすことになったかもしれない「もし」でもあるのですが。

 昨日の話に少しだけ戻ります。
 百間が阿房列車を書いた旅をした昭和26年には西大寺鉄道はまだ通っていました。西大寺から旭川の東岸の後楽園駅(現在、その場所は夢二記念館になっているとのこと)まで。ですから百閒が山系君といっしょに山陽本線で百間川を渡っていたときに、その南方1.5kmくらいの場所を西大寺鉄道の車両が百間川の中をトボトボと走っていたかもしれません。ただ百閒はそのときちょっと違う場所をずっと見つめていたのですが。

a0285828_10211275.jpg 今、西大寺鉄道は百間川の中を走っていたと書きました。そうなんです。山陽本線のように百間川の上に鉄橋をつくってそこを走っていたんではないんですね。線路は水のない百間川の中に引かれていてそこを走っていたんです。こんな感じに。これも西大寺鉄道をとらえたものでは大好きな写真です(背後の山の連なりは、昨日貼った一條さんの絵とほぼ同じです。一條さんはきっとあの辺りの場所行かれたか、だれかが行って撮ってきた写真をもとにして、あの絵を描いたんでしょうね)。
a0285828_10212823.jpg 土手にはこのような場所があったんですね。陸閘(りっこう)というそうです。増水時にはここの両側の溝に板をはめこんだようです。もちろんそうなるとこの区間は西大寺鉄道はストップすることになったんでしょうね。


 さて、岡山での荷風の日々。
 昨日書いたように荷風が岡山市に到着したのは昭和20年6月11日の正午。その日は市内の知人の家に泊まり13日にはやはり市内の岡山ホテルに泊まります。13日は近くの銀行に行ってお金を引き出したりしています。14日はほぼ一日ホテルに滞在。15日には知人を頼りに借家借間を探したけれども見つからず、結局岡山ホテルにとどまることに。この日は午前中空襲警報が鳴っています。
 戦時中で、いつ空襲が始まるかわからない日々の中でも、さすがにホテルの中でじっとしているのは荷風にとって耐えられなかったようで、翌6月16日から荷風はホテル近くを歩き始めます。後でいろいろ考えてみると、この日はあまりにも多くの偶然が重なる一日になっています。そのことはまた改めて書いてみたいと思います。まず、駅近くまでいってそこにたくさんいた靴直しに靴を直させています。それから古本屋に立ち寄って菊池三渓の『虞初新誌』という漢文の本を買っています。で、その日、知人のすすめで弓之町の松月という旅館に宿替えします。弓之町はまさに僕の父が家族と住んでいた場所です。父は荷風と目と鼻の先に暮らしていたんです。数年前にこのことを知って、それまでは川本さんの本で知ってはいても特に関心をもつことのなかった荷風が一気に自分にとって身近な存在になりました。

 さて、とりあえずは弓之町の松月という旅館に腰を落ち着けることができた荷風は、翌6月17日から市内のあちこちを散歩し始めます。基本的には旭川周辺。もちろんそのほとりには空襲で焼ける前の岡山城がそびえ立っていて、岡山城のことは荷風の日記に何度も出てきます。
 で、その次の6月18日。昼食後、ひとりで市内の散策をします。やはり昨日歩いた旭川周辺。昨日よりはもう少し足をのばします。この日の日記を引用します。

 独昼飯を喫して後昨朝散策せしあたりを歩む、県庁裁判所などの立てる坂道を登り行くにおのづから後楽園外の橋に出づ、道の両端に備前焼の陶器を並べたる店舗軒を連ねたり、されど店内人なく半ば戸を閉したり、橋を渡れば公園の入口なり、別に亦一小橋あり、蓬莱橋の名を掲ぐ、郊外西大寺に到る汽車の発着所あり


 なんと荷風は西大寺鉄道の発着駅である後楽園駅に来ていたんですね。この一文を見つけたときは、ちょっと体が震えました。

a0285828_10214948.jpg これは昭和30年代の西大寺鉄道の後楽園駅を写したものです。手前に欄干が見えている橋はまちがいなく蓬莱橋。
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by hinaseno | 2013-02-22 10:24 | 文学 | Comments(0)

 百間川の土手で想い描いた、はかない空想というのは、もしかしたら荷風がこの場所にやって来たかもしれないという、僕にとってあまりにも甘美なものでした。実際にはそこに来ていないことは知っています。でも、来ていないのがわかっていながら、荷風がその場所を発見するという、過去と現在と未来と、そして事実をひっくりかえしてしまうような空想です。荷風はどこまでこの場所に近づいていたんだろうかと。

 荷風は昭和20年3月10日の東京大空襲で自宅の偏奇館を焼かれ、その後各地を転々とします。そしてその年の6月に知人を頼って岡山にやってきます。ちょっとその足どりを辿ってみます。
 岡山にやって来たのは昭和20年6月11日。その前に滞在していた兵庫県の明石から列車に乗ってきます。その日の『日乗』にはこう書かれています。

初発博多行の列車は雑踏して乗るべからず、次の列車にて姫路に至りこゝにて乗つぎをなし正午に岡山に着す


 当時の時刻表などを探せば正確な時間を確認できるのかもしれませんが、おそらく姫路に9時くらいに到着して、10時くらい発の列車に乗って岡山に向かったんでしょうね。で、11時前後に三石の辺りを通って、あの煙突の立ち並ぶ風景を見ていたでしょう。そしておそらく11時半の少し前くらいに僕の実家のある町の駅に一旦停車しているはず。荷風が少なくとも僕の生まれ育った町を列車で通っていたわけです。ただ、その時には父も母もまだその町には住んではいないのですが。
 それから11時40分くらいには現在の東岡山駅に停車、当時の西大寺駅ですね。それからすぐに水の流れていない百間川の鉄橋を渡ったはず。僕が先日行った場所よりは5kmほど北西に行った、旭川から分岐してすぐのあたりの百間川です。川や土手に惹かれる荷風ならばちらっと目に入れたのではないかと思います。そしてすぐに旭川の鉄橋を渡って(この鉄橋の下に荷風はあとでやってくることになるとは思ってもみなかったはず)まもなく岡山駅に入ります。

 残念ながら荷風は列車からの風景をまったく書いていません。列車の中も相当に混雑していて風景などゆっくり見る余裕はなかったのでしょうけど。ただ荷風にとって風景というのは、やはり歩いてみてはじめてとらえられるものなんでしょうね。

 ここで、百間川に縁のある内田百閒が、荷風がそこを通った6年後の昭和26年の夏に、同じ山陽本線の列車からとらえた風景を引用しておきます。『阿房列車』に収められた「鹿児島阿房列車」の「古里の夏霞」というエッセイ。同行した山系君とのやりとりが笑えます。漫画版の一條裕子さんのこの場面の絵も貼っておきます。

 砂塵をあげて西大寺駅を通過した。ぢきに百間川の鉄橋である。自分でそんな事を云ひたくないけれど、山系は昔から私の愛読者である。ゆかりの百間土手を今この汽車が横切るのだから、一寸一言教へて置かうと思う。
 百間川には水が流れてゐない。川底は肥沃な田地であつて両側の土手に仕切られた儘、蜿蜿何里の間を同じ百間の川幅で、児嶋湾の入口の九蟠に達している。中学生の時分、煦煦たる春光を浴びて鉄橋に近い百間土手の若草の上に腹這ひになり、持つて来た詩集を読んだと云ふなら平仄が合ふけれど、私は朱色の表紙の国文集を一生懸命に読んだ。今すぐその土手に掛かる。
「おい山系君」と呼んだが、曖昧な返事しかしない。少しくゴヤの巨人に似た目が上がりかけてゐる。
「眠くて駄目かな」
「何です。眠かありませんよ」
「すぐ百間川の鉄橋なんだけどね」
「はあ」
「そら、ここなんだよ」
「はあ」
 解つたのか、解らないのか解らない内に、百間川の鉄橋を渡つて、次の旭川の鉄橋に近づいた。

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 このあと、僕にとっては興味深い記述が続くのですが、それはちょっと省略してその後の場面。

 汽車が旭川鉄橋に掛かつて、轟轟と響きを立てる。川下の空に烏城(岡山城のこと)の天守閣を探したが無い。ないのは承知してゐるが、つい見る気になつて、矢つ張り無いのが淋しい。空に締め括りがなくなつてゐる。昭和二十年六月晦日の空襲に焼かれたのであつて、三万三千戸あつた町家が、ぐるりの、町外れの三千戸を残して、みんな焼き払はれた晩に、子供の時から見馴れたお城も焼けてしまつた。

 ここに岡山城が空襲で焼けた昭和二十年六月晦日のことが少し書かれています。その日、荷風は岡山城からそんなに離れていない場所にいて、空襲から逃げて旭川の鉄橋の下に逃げて、まちがいなく岡山城が焼け落ちるのを見ていたのです。
 その焼け落ちる岡山城を背後にちらちらと見ながら、さらには荷風が避難していた旭川の鉄橋を横目で見ながら、家族とはぐれてひとりで土手を北に向かって走って逃げていた一人の少年がいました。それが僕の父でした。
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by hinaseno | 2013-02-21 11:04 | 文学 | Comments(0)

そこにあったのは百間川。江戸時代につくられた、旭川の放水路。内田百閒の名前のもとになっている川でもあります。

 西大寺駅を出てから西大寺鉄道はほぼまっすぐ西に向かい、大多羅駅の辺りで角度を北寄りに変えて最初に西大寺鉄道がつくられたときの終点駅である財田駅に向かいます。ここで山陽本線の東岡山駅(百閒の「西大寺駅」です。ややこしいですが)と接続するようになっていたんですね。後に路線を延ばして後楽園まで結ばれるのですが。

 西大寺鉄道の大多羅駅の駅舎を探しあぐねていたとき、その西の方角に見えたのが百間川の土手でした。百間川はもちろん何度も渡ったことがありますが、この辺りの風景は見たことがありませんでした。結構歩き疲れていたのと、寒い中を歩いていて体が冷えていてどうしようかとは思ったのですが、次の機会にといってもいつになるかわかりませんでしたから、百間川の土手に向かいました。そして土手の上から見た冬枯れた放水路の風景を見てはっと思いました。

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a0285828_118562.jpg つい先日読み終えたばかりの川本三郎さんの『荷風と東京』に添えられていた、『断腸亭日乗』の中の荷風の描いた荒川放水路の二つの絵の風景にあまりにも似ていると。といっても、そのときに『荷風と東京』も『断腸亭日乗』ももっていませんでしたので、あくまで記憶にとどめていた荷風の描いた絵の風景と比べただけなのですが。荒川放水路の二つの絵は『断腸亭日乗』では別の日に描かれた絵なのですが、川本さんの『荷風と東京』では同じページに載っています。

 もう少し下流まで足を伸ばせば、もっと似た風景に出会いそうな気もしたのですが、さすがにその元気はなくて引き返しました。

 ついさっきこれを書きながら知ったことですが、僕が行った土手の2kmくらい下流にある古い清内橋は、もしかしたらかつて一時期岡山に来ていた夏目漱石がその橋を渡って西大寺のあたりに行ったときに人力車で通った可能性があるみたいですね。まだ西大寺鉄道がつくられるずっと前の明治25年7月16日の話。あの漱石も、百間川のそのあたりの風景をちらっと目に入れていたんですね。
 夏目漱石は西大寺の近くに数日滞在しているようですので、おそらく西大寺観音院には行っているはず。おもしろいですね。 また調べてみることが増えました。

 話が少しそれました。大多羅に近い百間川の土手の風景を見ながら、いろんな想念が次々に湧いてきました。それは僕にとってあまりにも甘美な想念でした。そのことについてはまた後で書くことにします。

 自宅に戻ってから『荷風と東京』や『断腸亭日乗』の「放水路」を描いた絵や、そこを歩いていた日々の日記を読みました。冬が多いんですね。上に貼った『荷風と東京』に載っている右の絵は昭和7年1月22日、左の絵は同年1月29日の日記に描かれていたものです。まさに真冬の放水路の風景。
 もし僕が百間川のあの風景を、春か、あるいは夏に見ていたら、荷風によって描かれた風景に重なることはなかったかもしれません。

 荷風は荒川放水路のあたりを足しげく通ったあとで「放水路」という素晴らしい随筆を書きます。そこにはこんな言葉が書かれています。

 放水路の眺望が限りもなくわたくしを喜ばせるのは、蘆荻と雑草と空との外、何物をも見ぬことである。殆ど人に逢わぬことである。平素市中の百貨店の停車場などで、疲れもせず我先にと先を争っている喧噪な優越人種に逢わぬことである。

 四、五年来、わたくしが郊外を散行するのは、かつて『日和下駄』の一書を著した時のように、市街河川の美観を論述するのでもなく、また寺社墳墓を尋ねるためでもない。自分から造出す果敢(はかな)い空想に身を打沈めたいためである。平生胸底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいためである。その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない。唯おりおり寂寞を追求して止まない一種の慾情を禁じえないのだという外はない。
 この目的のためには市中において放水路の無人境ほど適当した処はない。


「自分から造出す果敢い空想に身を打沈めたいためである。平生胸底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいためである」という言葉は、今、まさに日々自分がしていることと重なっていて、胸が締めつけられるくらいに深く共感を覚えてしまいます。
 「その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない」の最後の「答えたくない」という言葉に少し驚いてしまいます。「答えられない」ではなくて「答えたくない」。答えはもっているのですね。そこには僕なんかにはわかりえない荷風の哀しみの風景が隠されているのかもしれません。

 というわけで次回は僕自身から造出する、はかない空想を書くことになるだろうと思います。
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by hinaseno | 2013-02-20 11:16 | 文学 | Comments(1)

 昨夜、寝る前に、うれしい知らせがありました。それはこの日書いたブログに関することなのですが、また改めて書きます。

a0285828_11295614.jpg 西大寺鉄道の廃線跡を探るために、先日の連休の日曜日に久しぶりに西大寺に行ってきました。まず、とりあえずは『ALWAYS 三丁目の夕日』の舞台になった「五福通り」へ。会陽の行なわれる西大寺観音院のすぐそばです。おそらくは映画のロケ地として知ったと思われる観光客とおぼしき人が数人歩いていたほかは、人通りはほとんどありませんでした。この写真のあたりを吉岡秀隆演じる茶川さんが淳之介君の乗った車を追いかけて走ってるんですね。あの映画の最も感動的な場面ですね。

 で、それから昨日写真を貼った軽便鉄道の車両が置かれてある、当時の西大寺鉄道の始発駅があった場所、現在は両備バスのターミナルに行きました。
 さて、路線は、と思って地図を確認。『鉄道廃線跡を歩く』に載っていた地図を25000分の1の地図に書き写していたものをもっていたのですが、どうもおかしい。西大寺駅の場所も地図と違う。いきなりどう行っていいのかわからなくて困っていたら、たまたま通りがかったバスの運転手さんが路線のあった場所を教えてくれました。今はその場所が自転車と歩行者専用の道となってまっすぐ伸びていることがわかりました。
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a0285828_11305921.jpg でも、なんでこの道幅3mくらいの道が地図に載っていないんだろうと不思議に思いつつ西に向かい、とりあえずは、あの砂川の上を軽便鉄道が走っている場所までやってきました。ここがその場所です。写真集に載っていた写真は砂川の河原に降りて撮ったもののようですが、水量が多いのと河原近くに降りて行く土手にかなり木が生えていたために、同じ場所から写真を撮ることはできませんでした。もちろん当時の橋脚もありませんでした。

 ここからまっすぐ歩いて行けば、まだ当時の駅舎が残っている大多羅の駅があった場所に行けるとは思いましたが、ちょっと距離がありそうなので、一旦引き返して車に乗ってその場所に向かいました。でも、地図に書いた場所にはそれらしきものは何もありません。かなり辺りを歩き回ったり、人にきいたりもしたのですが、結局見つけることができませんでした。

 あとでわかったことですが、あの『鉄道廃線跡を歩く』に載っていた路線は、全部は確認していないのですが、どうやら 25000 分の1の地図で1㎝くらい、つまり実際の距離で250mほど南に線が引かれていたんですね。25000分の1の地図には大多羅あたりまではきちんと元の路線があった現在の自転車道が載っているんです。大多羅の駅も僕の探した場所よりも250mくらい北にあったはず。

 それにしても戻ってからネットで調べてわかったのですが、西大寺鉄道の路線跡を歩いた人の多いことと言ったら。もうかなり細かく歩き尽くされているという感じです。僕が今更歩いて何かを発見できるようなものではなさそうです。

 でも、大多羅の駅のあった場所の近辺を歩いていて、あるものを発見する手がかりとなる場所を見つけることができました。それは僕にとっては、廃線跡や、残っている駅舎を見つける以上に心ときめく発見でした。それはまた次回に。
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by hinaseno | 2013-02-19 11:35 | 鉄道 | Comments(1)

 さて、今はなき西大寺鉄道の話。書きたいことがありすぎて何から書いていいやらです。

 創立は1910年、開業したのが翌1911年。ほぼ100年前。ということで2009年から2011年にかけて100周年のいろんなイベントが行われていたようです。興味深いイベントもあったみたいですが、ちょっと知るのが遅かったようです。

 西大寺鉄道が走っていたのは現在の岡山市の南東部の全長11.4kmの距離。最初は西大寺から山陽本線の東岡山駅(前にも触れた百閒の「西大寺駅」のこと)と西大寺まででしたが、その後しだいに延長されて市内の後楽園まで結ばれました。
 そういえば一昨日、西大寺にある観音院というお寺で奇祭として有名な裸祭りが行われました。正式には会陽と呼ばれるものですね。西大寺鉄道が作られた目的の1つは、この祭りを見物する人たちを運ぶためでもあったようです。会陽の当日には列車の屋根まで人が乗っかっていたみたいですね。今では考えられませんが、でも、大丈夫(でもなかったかもしれませんが)、そんなにスピードが出たわけではないんですね。まさにトボトボという表現が似合うスピード。
 なぜトボトボかというと、線路のレールの幅が通常のものよりは狭いんですね。通常の在来線のレールの幅は1067ミリ(3フィート6インチ)。それより狭い軌間のものをナローゲージと呼ばれるそうです。そしてそのナローな軌間のレールの上を走っていたものを軽便鉄道と呼びます。こういうのを知ったのはつい先日。後で調べたら、僕が読んでいたいろんな本に軽便の名前が出ていたのですが。

 そういえば、川本三郎さんの『そして、人生はつづく』の「遠い声」に出てきた線路を走っていたのも、どうやら軽便鉄道のようです。

 ちなみに通常の軽便鉄道の軌間は762ミリ(2フィート6インチ)だそうですが、西大寺鉄道はちょっと広くて914ミリ(ちょうど3フィート)で、その軌間のものは九州には
多かったそうですが、本州ではめずらしかったものだったみたいです。

 ここに西大寺鉄道の走っている姿を捉えた映像があります。トボトボ感がたまりません。先日、ラジオデイズで平川克美さんと対談された関川夏央さんも軽便鉄道が好きみたいで、たまたま先日手に入れた雑誌に軽便鉄道について書かれた文章が載っていたのですが、その中に「けなげ」とか「愚直」という言葉が使われていてまさにその通りだと思いました。

 ところで、僕は最初、「軽便」を「けいびん」と読んでいたのですが、正しい読み方は「けいべん」。岡山の人たちは西大寺鉄道のことを「けえべん」と、親しみを込めて読んでいたようです。全国各地の軽便鉄道のいろんな写真を見ましたが、僕は西大寺鉄道が最も素敵なように思いました。地元のひいき目、と言われればそれまでですが。

 とにかく今、僕は「軽便」に恋をしています。
 で、大瀧さんの「A面で恋をして」の替え歌で「軽便で恋をして」というタイトルの詞を作成中。昨年出た『ナイアガラ・トライアングルVOL.2』には「A面で恋をして」の純カラがボーナスでついていますので、そのカラオケにあわせて歌いながら詞を考えている日々。いそがしいのに何やってんだか、です。完成したら発表します。

 先日、西大寺鉄道の始発駅のあった場所に行ってきたのですが、そこには昔西大寺鉄道で実際に走っていた「キハ7号と呼ばれるの気動車が置かれていました。写真を貼っておきます。
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by hinaseno | 2013-02-18 11:30 | 鉄道 | Comments(0)