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石川さんは内田先生、平川さんと中学からの同級生で、後に1977年に平川さんの始められた翻訳会社に内田先生とともに勤められるようになります。たぶん平川さんが会社を始められるということで旧知の信頼のおける人に声をかけられたのだろうと思います。中学校を卒業されてからはおそらくは何年かは会っていなかったようですから久しぶりの再会ですね。

その久しぶりに再会された頃、内田先生と石川さんはこんな会話を交わされています。お互いに音楽好きであることはわかっていましたから、音楽についての話をされるなかでのことだったんでしょう。内田先生(当時は先生ではありませんでしたが)が石川さんにこう告げます。たぶん静かに、ほかの人には聴かれてはならないような内緒声に近かったのではないかと思います。あくまで内田先生経由で読んだ(聴いた?)話をもとに勝手にイメージを膨らませただけのことですが。

「実は、今、俺、大瀧詠一という人に興味を持っているんだ」


この言葉を聞いて石川さんはおそらく目を丸くして軽い叫び声をあげながらこう答えます。うれしいよりも信じられない気持ちが強すぎて怒りに近い声になっていたかもしれません。

「なんでその名前を知ってるんだ!」


石川さんと同様、内田先生も「ゴー!ゴー!ナイアガラ」を聴いていたんですね。当時、地方ローカルの、それも深夜に放送されていた番組を聴いていた人間はそんなにいなかったはずです。大瀧さんも当時は無名に近い人でしたから。石川さんも、内田先生もだれに話すことなく(話せる相手もなく)深夜ひっそりと聴いていた番組を、すぐ目の前の幼なじみが熱心に聴いているのを知ったのですから。

これが例えば、どちらかだけが「ゴー!ゴー!ナイアガラ」を聴いていて、再会した時に、最近おもしろいラジオ番組を聴いているんだって、もう一人に教えて二人で聴くようになったというのであれば、よくありがちな話として終るのですが、そうではないんですね。この二人の出会い方もナイアガラ的です。はっきりしていることは、この出会いがなければ、今の『大瀧詠一的』という番組は存在しえなかったってことですね。

ちなみに二人は社長である幼なじみの平川さんに、当時からずっと大瀧詠一という人がいかにすごいかをことあるごとに説き続けていたのですが、どうやら平川さんは自分から積極的に大瀧さんのラジオや音楽を耳に入れようとはされなかったようです。これも後のことを考えれば重要な要素ではなかったかと思います。三人ともが大瀧さんの崇拝者だったのではなく、一人はただの大瀧さんをただの年上の人としか見ていなかったということ。このことが『大瀧詠一的』というものを何倍もおもしろくしているんですね。

さて、先日の話に戻します。僕が別の時期に、何の関係もなくたまたま知り、それぞれに尊敬の気持ちを抱くようになった二人が僕の中でつながる日がついにやってきます。

a0285828_10501249.png内田先生が『ユリイカ』に文章を書いてからほぼ1年後の 2005年8月21日。その日、内田先生が大瀧さんと対談したんですね。そしてその場に同席したのが石川さん。これがその日の内田先生のブログに載っている写真です。真ん中が大瀧さん、左が石川さん、右が内田先生。

たぶん、この日かその2日前に書かれた内田先生のブログを読んで、僕はそれ以前にも内田先生のブログで何度も登場していた石川さんという人を確認したように思います。たぶん、内田先生のリンク・ページで、それ以前から見慣れていた石川さんのページに入ったんだと思います(僕は日頃どんな人であれリンク・ページを見ないんです。きっとそういう形で、秋につながりを知るというのが好きではないんでしょうね)。びっくり、ってものではなかったですね。まったく何の関係もなく手にとったものがつながるというのはときどきは起こるものだとは思います。でも、この結びつきは僕の中ではあまりにも奇跡的な物語でした。世の中はいったいどうなっているんだろうと思いました。

a0285828_10521824.jpgちなみにこの日の対談は2005年の11月に発行されたKAWADE夢ムック『総特集 大瀧詠一』に収録され、昨年出たKAWADE夢ムック『増補新版 大瀧詠一』に再録されています。ただ、いずれも収録日の日付は2005年8月16日となっていて、間違っていますね。

ところで、また話が少しそれますが、大瀧さんが長嶋のファンであることは前にも書きましたが、その長嶋がドラフトでくじを引いて、まさに手塩にかけて育てた松井秀喜選手に対しても大瀧さんはデビュー当時から関心を持たれていて、この日の対談でも音楽の話の中で松井に少し触れています。

「松井でも打席に入る前にスウィングしているだけで調子がわかる。今日は上手く歌えそうだとかダメだといったことは歌う前にわかるんだよね」


大瀧さんは、松井のことをまるで自分の息子を見るようなまなざしで見続けていました。松井の引退に関しての大瀧さんの言葉がどこかで聴けたらと思っています。

さて、話はもう少し僕にとって驚くような方向に進んでいきます。

a0285828_1055303.jpg僕が毎日見続けていたブログの1つに、ペット・サウンズというレコード店の「今日のこの1曲」というものがあります。店長の森勉さんは、音楽雑誌でレコード評などを書かれている人で、昔から知っていて、あるときにこの店のサイトがあるのを知って毎日見るようになっていました。たった1度だけですが通販で購入したこともあります。The Teen Queensというグループの『Eddie My Love』というCD。たぶん、その日の「今日のこの1曲」に紹介されていて欲しくなって買ったんだと思います。また、偶然の話を書いてしまいますが、昨夜、いろんな作業が終ってやっとゆっくりできたので、少し前に石川さんから送っていただいた「ゴー!ゴー!ナイアガラ」の1976年3月23日に放送されていたものを聴いていたら、このThe Teen Queensの「Eddie My Love」という曲がかかっていました。別に僕が希望したものではないのですが、本当に不思議です。

話がまたそれてしまいましたが、ペット・サウンズのブログを見ていたある日、店のあった場所のビルを取り壊すということを知りました。店はどうなるんだろうと心配したら仮店舗を作って営業が再開、それからしばらくして新店舗が東京の武蔵小山に作られ再オープンします。2007年の3月。調べてみたら、僕がペット・サウンズ・レコードでCDを買ったのはこの年の4月。やはりお店の再開がうれしかったんでしょうね。

驚いたのは、ペット・サウンズが再オープンしたとき、そのペット・サウンズのビルの地下1階で、なんと石川さんが店を開くことになるんですね。それがライブ・カフェ・アゲイン。これにも本当にびっくりしました。

で、この年の暮れにそのアゲインで、内田先生、石川さん、平川さんの3人が揃って大瀧さんとの対談が収録されることになります。信じられないことが次々に続いて、ついにここまできたわけです。この日の音源がアップされたときは本当にうれしかったですね。大瀧さんの声が聴けるのももちろんうれしかったですが、石川さんの声を聴いたのもこのときがはじめて。そして内田先生、平川さん、石川さんの幼馴染みのノリも楽しかったですね。

そしてその『大瀧詠一的』も今年が5回目。ついに大瀧さんの、あの福生のスタジオに3人が行って収録ということに。これも僕にとっては感動的なことでした。もちろんうらやましくて仕方がないことでしたが、でも、自分もその場に参加できているような気持ちになれるものでした。

『大瀧詠一的』の楽しみ方を、もし一つだけあげるとするならば、内田先生や石川さんのような昔からの大瀧さんの崇拝者とは違って、大瀧詠一という人のことをほとんど知らない平川克美さんが、大瀧さんとの対談を重ねる中で、いくつもの(半端ではない)驚きとともに、しだいに大瀧さんの魅力に惹きつけられていき、大瀧さんを「師」と呼ぶようになるほどに変わっていく姿を見れることではないでしょうか。大瀧さんという人のすごさもあると思いますが、60歳を超えられて、なお、そのようになれる平川さんもすごいとしか言えません。

もし、まだ聴かれてない人がいらっしゃったら、ぜひ、第1回から聴いて欲しいですね。何を言っているのかわからないことが多いですが、でもおもしろいんです。で、おもしろくて何度も何度も聴いているうちにだんだんとものごとがわかってくる。そうすると、さらにおもしろくなるし、同時に大瀧詠一という人のすごさもわかってくる。僕も最初は映画の話とか、東京の町の話なんてちんぷんかんぷんでしたから。

内田先生と大瀧さんの対談の最後で大瀧さんはこう語られています。

「面白いのは内容じゃなくて語り口」


内容ももちろん面白いんですけどね。でも、語り口って大事です。

というわけで、この物語もとりあえずは今日で終りにします。きっと、だれも興味を持たれないような、僕個人の物語でした。でも、一度書いておきたかったんです。最後まで読んでいただいた人は、心より感謝します。

それから、石川さん、内田先生、平川さん、そしてこのような奇跡的なつながりを用意していただいた大瀧さんにも心から感謝の意を伝えたいと思います。

では、また来年。
よいお年を。
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by hinaseno | 2012-12-31 11:07 | 全体 | Comments(2)

  Polka Dots and Moonbeams


2日空いてしまいました。実は一昨日、少し書こうと思って朝パソコンに向かって電源を入れたら、すっと応援し続けてきた松井秀喜選手の引退の報道が。数日前から流れ始めてはいたのですが、まさか本当にそうなるとはと茫然自失状態に。ここに何か書こうかと思いましたが、言葉を上手くまとめられそうもありませんので、結局書けないままの2日間を過ごしました。松井選手(選手ではなくなったのですが)のことはまた改めて書きたいと思います。年下でしたが心から尊敬すべき選手でした。本当にご苦労様でした。そして心から感謝の意を伝えたいと思います。たぶん彼の後に応援する選手は出てこないだろうとずっと思ってきましたから、おそらくは野球はもうあまり見ることはないだろうと思います。江夏豊から始まった野球観戦人生もピリオドが打たれた気がします。

さて、この3日前の話に戻ります。
と、その前に、いきなり話はそれるのですが、いったい僕はいつパソコンを買ったのかと思って調べていて昨夜わかりました。

1998年7月29日。

村上春樹の『夢のサーフシティ』をきっかけにして、それを見るためにパソコンを買ったことは間違いなかったのですが、その発行日が1998年7月1日。発売されたのはその数日前だと思いますので(村上春樹の本はだいたい発売日に買っています)、一ヶ月くらいはどうしようかと悩んでいたみたいです。1998年7月29日 は平日でしたので買い物は午前中にしています。とすると、どうやら購入を決心したのはその前の日の晩。1998年7月28日。

その日はまさに大瀧さんの50歳の誕生日なんですね。われながらびっくりしました。偶然なのか、それをきっかけにしたのかは今となっては定かではありませんが。

パソコンでインターネットにつないだおそらくその日に、僕は石川さんのサイトに辿り着いていると思います。言うまでもなく大瀧さん関係の何かを検索している流れで。

辿り着いたページはおそらくここだと思います。大瀧さんの楽曲はいろんな曲を下敷きにしていることは知っていましたので、僕の知らないものがあるかどうかを探していたんでしょうね。で、ここで最も驚いたのが大瀧さんの『ロンバケ』の「Fun×4」という曲の下敷きソングとして取りあげられていたDick Hymanの「Polkadots and Moonbeams」という曲でした。

実はDick Hymanという人の「Polkadots and Moonbeams」は未聴なのですが、「Polkadots(Polka Dotsと分けて表記される場合が多いですが) and Moonbeams」はジャズのスタンダードで、大好きなビル・エヴァンズの特に好きなアルバムの1枚である『Moon Beams』に収められているまさにタイトル曲でしたから何度も何度も聴いていました。


いろいろ調べてみたらエヴァンスだけではなく何人もの演奏したもの、歌ったものを持っていて、耳に入れる機会は何度もあったはずですが、でも気づきませんでした。後で考えれば、例えばポール・ピーターセンの歌っているこれなんかを聴けば、もしかしたらつながったのかもしれませんが、石川さんは映画の中でメドレーで流れてきたピアノで演奏されているものを聴いてピンときたのことでしたから、驚きました。

大瀧さんの下敷きにしている曲でも、アメリカン・ポップスやイギリスの60年代の曲であれば知らなくてもちっとも驚くことはなかったのですが、僕がある時期から聴くようになっていたジャズのスタンダードを下敷きにして大瀧さんが曲を作っていたというのは、目から鱗の発見でした。もちろんそれを発見したのは石川さんだったのですが。

それから、折りをみては石川さんのサイトを拝見するようになりました。最初はずっと「ウゴウゴ・イナガラヤ・スペシャル」ばかり見ていましたので、僕にとっては「ウゴウゴの人」と心で呼んでいました。サイトのあちこちに石川さんの名前があったのですが。

サイトを拝見するようになってすぐにわかったのは、石川さん(ウゴウゴの人)は大瀧さんの「ゴー!ゴー!ナイアガラ」をリアル・タイムで聴いていた人だということ。言うまでもありませんが「ウゴウゴ・イナガラヤ」は「ゴー!ゴー!ナイアガラ」をもじったものですね。もちろんDJのニーチ・ショウタキも大瀧さんがDJをするときの呼称である「イーチ・オータキ」のもじりですね。それだけでも、大瀧さんへの敬愛のほどがよくわかりました。こんなことを言ってはあれなのですが、大瀧さんの下敷きソングを発見した人の多くは(というかほとんどと言ってもよかったのですが)、かなり上から目線的に紹介していることが多く、そういうのを読むと、いつも不愉快な気持ちになることの方が多くて、そういう人のは後は読むことはしなくなったのですが、石川さんは違っていました。

で、石川さんは「ナイアガラ下敷きソング特集」で「Polkadots and Moonbeams」を指摘したことで、大瀧さんから「正解」というメールをいただいたことを知ります。大瀧さんと石川さんの交流はそこから始まったようですが、うらやましいと思うと同時に、大瀧さんにメールを送っても大丈夫と認められるだけの人だということを確認できたような気がして、尊敬する気持ちを強く持ちました。

石川さんのホームページには今でも、

このHomepageを初めてご覧になった記念に、是非、右のスタンプを押してみてください!お礼のメールをお送りします。


との言葉があって、何度もこのスタンプを押してはメールを送ろうとしたのですが、それができないまま、今年まできていたわけです。

さて、「Polka Dots and Moonbeams」という曲。メロディだけでなく、詞もかなり「FUN×4」とかぶっているところがあります。「FUN×4」は作詞松本隆となっていますが、詞のかなりの部分を大瀧さん自身が書かれているそうです。きっと「Polka Dots and Moonbeams」の歌詞のイメージをもとにして書かれたんでしょうね。
「Polka Dots and Moonbeams」はこんな歌詞です。とってもロマンチック。

ある庭で、いなかのダンスパーティーが開かれていた
誰かがぶつかったような気がしたら、こんな声が聞こえてきた「あら、ごめんなさい」
突然、僕の目に飛び込んできたのは水玉模様と月の光
あっというまに夢のようにきれいな「とがっていない鼻をした彼女」に夢中になった

音楽が始まって、僕はどうしようかと戸惑っていた
呼吸を整えて、こう言った「次に僕と踊ってもらいたいのですが?」
おびえて震えている僕の腕の中には水玉模様と月の光
夢のようにきれいな「とがっていない鼻をした彼女」の上できらめいている

僕たちがフロアをさまよっていたら
ほかの踊っている人たちの目には疑問が浮かんでいた
どんなに疑問があっても僕の心はすべての答えを見つけていた
そしてたぶん、それ以上のいくつかのことも

今、ライラックの花と笑いに包まれたコテージにいて
僕は「Ever after(それからずっと)」って言葉の意味を知っている
夢のようにきれいな「とがっていない鼻をした彼女」にキスするたびに
僕はいつでも水玉模様と月の光を目にすることになるだろう


最後に大瀧さんの「FUN×4」を貼っておきます。
歌詞も含めて聴き比べてみてください。「コテージ」という言葉も出てきます。
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by hinaseno | 2012-12-30 12:43 | 全体 | Comments(1)

内田(樹)先生の本の書評に目を留めて、内田先生、平川さんに関心をもちはじめた翌年の2004年から事態は驚くような方向へ動いていきます。僕にとっては嘘みたいとしか言いようがないのですが。

僕が気にとめ始めてからでも内田先生は大瀧さんに関してたくさんの文章をあちこちで書かれました。それらはそれまでに大瀧さんの音楽について書かれたものとは全く異なる、はっとさせられるようなものばかりでした。特に大瀧さんの音楽と村上春樹の文学を「倍音」というキーワードでつなげたところは見事というほかありませんでした。

a0285828_14574771.jpgそんな中で白眉だったのが、『ユリイカ』2004年9月号の「はっぴいえんど特集」に載った内田先生の文章でした。内容もさることながら、この本での内田先生の文章の位置づけですね。「はっぴいえんど特集」ということでしたから、まず、そのメンバーの最新の対談が順に載っています。

まずは松本隆さんと町田康さんの対談。次に細野晴臣さんと大里俊晴さんの対談。そして鈴木茂さんと安田謙一さんとの対談。

さあいよいよ次は大瀧さんの対談が...と思ってみると、ないんですね。他の3人のメンバーの最新の言葉が並んでいるのに、大瀧さんのだけがありません。で、そこに載っているのが内田先生の「大瀧詠一の系譜学」という文章。何、それって思った人は多かったでしょうね、きっと。

僕は内田先生のブログを読んでいて、たぶん内田先生が何度も告知されていたのでよくわかっていましたが、はっぴいえんどファン、大瀧ファンでこの本を手にとった人は、だれだ内田って? ってことで、もしかしたら怒りすら抱いた人がいたかもしれません。お前の文章なんか読みたくないよ、ってことで読まなかった人も多いのではないかと思います。でも、この文章、達郎さんとの新春放談ネタも含まれていて、めちゃくちゃに面白いんです。

で、言うまでもありませんが、大瀧さんもこれを読まれて内田先生という人に関心を持たれたはず。そして同時に大瀧さんは内田先生の文章の最後に書かれた次の言葉に目を留められたにちがいありません。そして、おおっと思わず言葉を出されたはずです。

「ナイアガラ関連の資料提供につきまして、30年来のナイアガラー・フレンドである石川茂樹くんのご協力に深く感謝します」


大瀧さんにとっては石川さんはすでによく知った人でしたから、おそらくこのつながりに驚くと同時に運命的なものを感じられたのではないかと思います。そのような「縁」をだれよりも大切に考える人ですから。

ちなみに僕はこの文章を読んだ時点では、まだ"あの"石川さんだとは気づいていませんでした。僕はその頃までは石川さんのことを個人的には「ウゴウゴの人(またはニーチ・ショウタキ)」という名前で心に留めていましたから。僕の中でつながったのはもう少し後でした。

さて、内田先生の「大瀧詠一の系譜学」は次のような言葉で締めくくっています。

「過去を歴史のなかに封印することなく、つねに活性化させ続けること。大瀧さんのこの方法論的自覚こそ、系譜学的思考の核心をひとことで言い切っていることばだと私は思います」


「過去を歴史のなかに封印することなく、つねに活性化させ続けること」

そう、大瀧さんは今もそれを実践され続けています。
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by hinaseno | 2012-12-27 15:01 | 全体 | Comments(1)

  But Remember...


小さな話を1つだけ。

大瀧さんの『ナイアガラ・カレンダー』の「クリスマス音頭」のあとには「お正月」という曲が出てきます。滝廉太郎作曲のあまりにも有名な唱歌のカバー。大瀧さんはこれをドゥーワップ・スタイルで歌っています。バックコーラスはキングトーンズ。大瀧さんの一人多重コーラスのジャックトーンズではあります。
リードボーカルは、1番が坂本八、2番がトランク短井。もちろん大瀧さんの変名。言うまでもないことですが、一番はフランク永井の、二番は坂本九の歌真似をしているんですね。本当にどんな歌い方でもできる人なんですね。


ちなみに「お正月」は「クリスマス音頭」とつなげて聴く方がいいので、つながっているバージョンの方も貼っておきます。


さて、この「お正月」のボーカルスタイルは、ドリフターズが歌ったこの「ホワイトクリスマス」をほぼ踏襲しています。


というわけで、クリスマスが終って年の暮れが近づくとドゥーワップの、特にバラードを聴きたくなります。
で、今朝、そんなドゥーワップのバラードばかり集めたプレイリストの曲を聴いていたらこの曲がかかりました。


この曲を食事をしながら聴いていたら、ふと、ある言葉が耳に残りました。

But remember...

ドゥーワップに限らず、ときどき昔のバラードで耳にする言葉。
たぶん、この言葉の前に別れを告げたり、告げられたりする場面があるんでしょうね。
で、

「でも、覚えていて」

と言って言葉をつなげる。
未練がましいと言えば、それまでですが、何かいいですね。言葉の響きもいいです。

この言葉が歌詞に含まれた曲、これから気がついたらチェックしておこうと思いました。
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by hinaseno | 2012-12-26 15:45 | 音楽 | Comments(3)

  商店街がクリスマス


今日は楽しいクリスマスです。年に一度のクリスマスです。
商店街がクリスマスです。商店街「も」、ではなくて「が」です。中心にあるのは、あくまで商店街です。

平川克美さんは町歩きをよくされていて、東京の町、たいていは商店街のある町を歩かれています。川本三郎さんの影響もあるみたいですね。にぎわいのある商店街から、閑古鳥の鳴き方が半端ではない商店街まで、いろいろと。今年は一度岡山にも見えられて、「三丁目の夕日」の舞台になった岡山の西大寺商店街も歩かれています。
そんなあちこちの商店街で見られた風景、出会った人のことを書いた文章が、最近いろんなメディアに載っています。僕もすべては追うことができていませんので、いつかそれらがまとまって一冊の本になるだろうと思っていますので、その日を楽しみにしたいですね。

さて、にぎわいのある商店街から、閑古鳥の鳴き方が半端ではない商店街まで、と言ってもおそらくはかなり閑古鳥の鳴いている商店街が多くなっているはずですが、今日は商店街がクリスマスなんです。いったいどんなクリスマス・ソングが流れているのでしょうか。閑古鳥の鳴いているような商店街で、ワムとかマライヤ・キャリーなんかの80年代後半(でしたっけ?) に流行ったような装飾に満ちたクリスマス・ソングが流れていたら、逆にわびしい気持ちになってしまいそうです。

そんな閑古鳥が鳴いていようが、鳴いていまいが関係なく、商店街にぴったりのクリスマス・ソングがあります。この曲です。この曲が日本全国の商店街で流れていたら、きっと素敵だろうなと思います。


曲のタイトルは「ナイアガラ音頭」。『ナイアガラ・カレンダー』というアルバムに収められた大瀧さんの作った唯一のクリスマス・ソング。なんでよりにもよって音頭なんだと思われるかもしれませんが、そこが大瀧さんの諧謔精神の現れ。といいつつ、僕も最初は戸惑いました。達郎さんの「クリスマス・イブ」に負けないどころかそれ以上にロマンティックなクリスマス・ソングは作れる人なのに、何で音頭を、と。

話はちょっととびますが、今から10年以上も前のこと、お正月に実家に帰省していて、その日は新春放談の放送日だったのですが、ちょっと出かける用事があって、放送開始の録音ボタンを押して外出したことがありました。戻ってみたら、母親が「でえれぇ(=「とても」の意味の岡山弁)、ええ曲がかかっとったがな」と一言。どうやらラジカセを置いていた二階の部屋に何かの用事で入ったらしい。
ところがその日、なぜか一時停止のボタンを押したままになっていて録音は失敗(そういう失敗って何度かありました)。いったいその日、何がかかったんだろうと気になったけど、いつのまにか忘れてしまってました。
で、ある日、ネットで過去の達郎さんのラジオ番組のオンエアリストが載っているサイトを見つけて、その日の曲目を調べました。2000年1月2日の放送。

1曲目は大瀧さんの「Rock’n’Roll お年玉」。恒例です。
2曲目は達郎さんの歌う「Angel」。エルヴィスのカバーですね。
3曲目は竜ヶ崎宇童(デビュー前のシャネルズですね)の「禁煙音頭」。
4曲目は細川たかしの「レッツ・オンド・アゲイン」。布谷さんのカバーですね。
で、最後の5曲目が大瀧さんの当時の新曲「幸せな結末」。

1〜2曲目のときはまだ母親は、下の部屋にいて何か作業をしていたはずなので、3曲目以降だろうと考えました。「幸せの結末」は、何度か母親を連れてどこかへ出かける時に、車でかけていたこともあって、特に反応を示した記憶もなかったので、3曲目か4曲目のどちらかということに。いずれも大瀧さんが作った音頭ですね。でも、ちょっと「禁煙音頭」は違うだろうなということで、確かめたわけではありませんが、どうやら母親は細川たかしの「レッツ・オンド・アゲイン」がすごく気に入って聴いていたみたいです。
この曲です。


でも、母親が気に入ったのは実は「禁煙音頭」だったりして...。それはさておき、しつこいようですが、『ロンバケ』から大瀧さんの音楽に入った僕のような人間にとって、音頭は抵抗感が強くありました。でも、母親のような世代にとっては抵抗がないばかりか、むしろ心地よく響く。意外な発見でした。

音頭を大瀧さんが作った理由はいろいろあるんだろうと思いますが、「おっかさん、聴いてくれ」って気持ちもあったんじゃないかと思います。

今住んでいるところから2〜3キロのところにちょっと小さな商店街があります。車では何度か通っているのですが、一度ゆっくり歩いてみたいなと思いつつ、まだ実現していません。歩かなければ発見できないものがいくつもあるはずですから。ただ、僕が都合がつくのはわりと午前中。でも商店街は「三丁目の夕日」ではないけど、やはり夕方が似合いますね。

余談ですが、音頭は60年代ポップスで多く聴かれるシャッフル・ビートの変形と言えますね。だから大瀧さんが音頭にした「イエロー・サブマリン」のようなシャッフル・ビートの曲と相性がいいようです。
スペクターのこの曲なんかをちょっとだけいじって手拍子なんかを入れたら「クリスマス音頭」に似てくるような気がしました。

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by hinaseno | 2012-12-25 08:38 | 音楽 | Comments(3)

『東京ファイティングキッズ』の「おわりに」に平川克美さんはこんな言葉を書かれています。

「ビジネスにおいて最も大切なことのひとつは『繰り返される』ということであると僕は思っている」

「ささやかであっても繰り返し注文をもらうこと。繰り返し雇ってもらえること。繰り返し声をかけてもらうこと。こういった繰り返しがなければ、ビジネスそのものが成立しないのである。
そして、この『繰り返される』ということを担保するのは、戦略という好戦的なものではなく、むしろ見えない資産である『信用』というものである。
どんなに精緻な戦略的言辞を弄しても、「だまされた」と思えば顧客は二度と買ってはくれない。逆に信用が増えれば、この繰り返しは必ず拡大再生産される。あたりまえのことのようだが、戦略的な思考をしているとこの道理が見えないのである」


極めてまっとうな言葉ですね。でも、テレビなんかに出てくる経済学者やビジネスの専門家と呼ばれるたちから、僕はこんなまっとうな言葉をきいたことがありませんでした。そしてこの言葉には物語があります。ささやかな繰り返しを大切にする人たちの物語が。

a0285828_115029.jpgで、『東京ファイティングキッズ』が出て間もなく平川克美さんの最初の著書『反戦略的ビジネスのすすめ』が出版されます。正直僕はビジネス書には全く関心はなくて今まで一冊も買ったことはなかったのですが、でも、発売されてすぐに買いました。タイトルに「反戦略的」という言葉があるように、ありがちなビジネス書ではないこともわかっていましたしたから。

『反戦略的ビジネスのすすめ』には各章のはじめに、詩や小説からの一節が載せられています。 黒田三郎、飯島耕一、三木卓の詩、そして太宰治、シェイクスピア、岩井克人、メルロ=ポンティなどからの引用。普通のビジネス書(といっても全然読んでいないので確証はありませんが)とは全然違っています。
そして極めつけは第二章。村上春樹の『1973年のピンボール』です。内田先生同様、平川さんも村上春樹の大ファンだったんですね。引用されているのはこの言葉。

しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、まるでピンボール・げーむそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。


まさにささやかな繰り返しを描いた場面ですね。『反戦略的ビジネスのすすめ』のこの章には1977年に(まさに大瀧さんの「ゴー!ゴー!ナイアガラ」を放送していた頃)平川さんは内田先生たちと「アーバン・トランスレーション」という翻訳会社を設立したことが書かれています。会社名を「ア」から始めるというのも極めてナイアガラ的です。会社名を決めたのは内田先生と、専務の〇〇さん(後ほど登場します)だったのでしょうか。

平川さんと内田先生が「アーバン」という翻訳会社をされていたことは『東京ファイティングキッズ』は内田先生の著書で知っていましたが、興味深かったのは、1980年に村上春樹の『1973年のピンボール』が発表されたとき、友人から「『ピンボール』のモデルは君たちではないのか」といわれたとのエピソードが書かれていたこと。『1973年のピンボール』に描かれた情景、あるいは小説の中で交わされている会話に、平川さんらがされていた翻訳会社と似通った風景がいくつもあったことが書かれていました。
もちろん、平川さんや内田先生も驚かれたかもしれませんが、僕自身にとっても、たまたま実家に戻っていたときに開いた新聞から関心を持った人たちが、僕の大好きな村上春樹に深くつながっていったのですから。運命的と思わざるを得ませんでした。

そしてここにはもう一つの運命的なつながりがありました。それがこの章に登場する「専務のイシカワくん」です。こんな紹介の言葉が。

「専務のイシカワくんは音楽への造詣の深い、優しい精神の持ち主で、最近60年代の音源を紹介する本を共同執筆し、出版しています」


「専務のイシカワ」さんはまさにこの時期に、「ゴー!ゴー!ナイアガラ」を深夜まで起きて録音されていたわけですが、平川さんの『反戦略的ビジネスのすすめ』を読んだ時にはちっとも”あの方”とつながるはずもありませんでした。
a0285828_113534.jpgちなみにここに書かれている「最近60年代の音源を紹介する本」とはこの『ゴールデン・ポップス』という本のことです。このシリーズの本は何冊か持っていて、もちろんこの本も買っていましたが、この「専務のイシカワ」さんが書かれているのを知ったのは今年のことでした。すみませんでした(誰に謝っているのでしょうか...)。ちなみにこの本の表紙の女の子(ルラルですね)が手に持っているのは大瀧さんの好きな「ティーンエイジ・トライアングル」ですね。今、気づきました。
(続く)


残念ながら明日から仕事でかなりハードな日々が週末まで続くことになりますので、このブログの更新は今までのように毎日は無理になりそうです。本当はこんなに長くなるとは思わなかったのですが、まあ「大瀧詠一的2012」がすべて配信されるまでに終ればいいかなと思っています。
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by hinaseno | 2012-12-24 11:06 | 全体 | Comments(0)

内田先生の本やサイトに書かれた文章を読んだとき、なんてまっとうな意見を言う人なんだろうと、心から感動したことを覚えています。この声はもっともっと多くの人に、できれば為政者と呼ばれるような人たちに届けばいいと心から思いました。それは、まもなくあっという間に実現することにはなったのですが。でも、僕が内田先生のサイト(最初はブログ形式ではなかったように思います)を見始めたときには、まだそんなにはカウンター数も多くなくて、「ちょうど〜件目の訪問者の人は証拠の写真を送ってください。粗品を進呈します」みたいなことも書かれていて、僕も何度か狙ったこともありましたがだめでした。当初はそんなふうなとても牧歌的、家庭的なサイトでした。
そういえば『子どもは判ってくれない』の書評には、確か内田先生がその本を最後に断筆宣言をされたと書かれていたような記憶があります。なんてもったいないんだろうと思ったりもしたのですが、結局、執筆活動を再開されます。考えてみると、内田先生はサイト(ブログ)で何度か断筆宣言をされています。結局は再開されて今に至っているのですが。
『大瀧詠一的』のどこかで、大瀧さんが、あてにならないことの喩えとして「内田先生の断筆宣言みたいなもので...」と語られていて、知らない人には「?」なのですが、僕はそれを聞いて思わず吹き出してしまいました。

さて、『子どもは判ってくれない』に「友達であり続ける秘訣」という文章があります。その友達として語られているのが平川克美さん。小学校5年生のときに内田先生が転校してきて平川さんと同じクラスになって以来の友達なんですね。平川さんはどうやらそのクラスを仕切っていたようです。二人はすぐに意気投合して仲良しになる。どうやら二人とも相当の悪ガキみたいですが、そのときの担任の先生がよかったみたいですね。
その文章には平川さんと最近(文章を書かれた2001年当時)の会話が書かれている。平川さんの会社が株でかなりの損失を出してしまったという話を聞いての会話。


「差損が出たらどうするの?」
「『ごめんね』って土下座する」
「『ごめんね』ですむの?」
「うん」


平川さんという人のキャラクターが出てますね。もともとこれはサイトに載っていたものが本になったものですが、こんな話、実名で書かれて大丈夫なのかなと思ってしまいました。考えてみれば、『子どもは判ってくれない』は「大人」というもののあり方を語っているのですが、当時50歳を過ぎた「大人」である人が、自分自身のまだ生きている友人のことを実名を出して、その友達関係のありようを語るなんてなかなかできることではないように思います。
『子どもは判ってくれない』にはこんな言葉があります。

私も平川くんも自分の中にある「曖昧な感覚」や「なんだか訳の分からない概念」を言語化することについてはずいぶんこだわりがある。だから、会ったときの話題はたいてい、「自分がうまく言えないこと」、「自分がそれを語る適切な語法をまだ習得していない心的過程」をめぐることになる。
ところが、まことに不思議なことではあるが、私が自分の中にある非常に言語化しにくい「思い」をようやく言葉にしたとき、平川くんから来る反応はいつでも「そう! それこそ、ぼくの言いたかったことなんだよ!」なのである(そして、当然ながら、平川くんが苦吟しつつようやく語りだす言葉はほとんどすべて「私が言いたかった、当のこと」なのである)。


本当にうらやましくなる関係。で、内田先生のサイトを見たら、すでにその平川さんと内田先生とのやりとりが書簡形式で続けられているのがわかりました。これを読んで僕はすぐに平川克美という人に惹きつけられることになります。内田先生と同じことを語っていてもちょっと表現の形がちがう。より文学的、物語的な語り口をもっているんですね。時に過激な内田先生の言葉を平川さんを通じて物語的に理解することができる。その意味では絶妙な関係だなと思いました。

このネット上での書簡形式の対話はのちに『東京ファイティングキッズ』という一冊の本になります(2004年10月発行)。
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ちなみに「東京ファイティングキッズ」というのはストーンズの「ストリート・ファイティング・マン」がネタもととのこと。ラジオデイズの『大瀧詠一的』も最初は「大瀧詠一×東京ファイティングキッズ」になっています

さて、『東京ファイティングキッズ』という本の中で僕が最も好きなのは平川さんが書かれた「『縁側』的な共有地を持たない社会というのは非常にコスト高の社会になるのは言うまでもありません」という文章。昔の家によく見られた縁側の話から、社会、共同体のあるべき姿へと話は進みます。例えばこんな言葉に僕は線を引いています。

こういった自分のものであって、自分のものでないもの、あるいは誰のものでもないものに向き合うときひとびとはいくぶんかの遠慮といくぶんかの貢献、いくぶんかの愛情といくぶんかの距離をもってそれらを消費しようとするのだと思います。そこには暗黙の了解というものが働いており、それが、(村の井戸水を)汲み尽くしてしまうといった「共同体の悲劇」にブレーキをかけるベクトルとして働きます。


平川さんのこの考えは今でも一貫して持たれていて、表現の形を変えられては発信し続けられていて、全くその通りだと思うのですが、為政者には届かないというか、むしろそればかりか縁側的な部分をどんどん失くしてしまおうとする為政者を望む社会になっているように思います。残念というか哀しいと言うか。
(続く)
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by hinaseno | 2012-12-23 11:29 | 全体 | Comments(0)

昨日の話とは全く関係のない話を。
実は昨日はいよいよラジオデイズから「大瀧詠一的2012」が配信されましたってことで、それにからめての話をしようと思ったら、例によって話が長くなってしまって、時間がなくなってあのような形の文章になりました。まあ、でも情報提供のブログでもないからいいですね。あくまで、僕の個人的な物語を書き連ねているだけですから。昨日の続きは明日以降に。

今、Pヴァイン・ブックスから出たばかりの『レッキング・クルーのいい仕事』という本を読んでいます。
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これがめっぽうおもしろいんです。大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝」にもつながるような、かなり綿密な調査に基づいたミュージシャン(特にバック・ミュージシャン)の物語。「大瀧詠一的2012」によれば、「アメリカン・ポップス伝Part3」(来年の3月に放送されるとのこと)は一旦、50年代後半に戻るようですが、おそらくはレッキング・クルーとして大活躍するようになる人たちの、その前の段階を語られた上で60年代に入るのではないかと思います。その意味ではこの本とかぶる部分も出てきそうです。
といいつつレッキング・クルーって何って方がいらっしゃるとは思いますが、また長くなるので説明しません。

で、昨夜読んだ、第10章の「夜のストレンジャー」を読んで、いくつもおおっと思うことがあったので、それについて少し。「夜のストレンジャー」はフランク・シナトラの大ヒット曲。こんな曲です。


実は先日神戸に行ったとき、この曲の収められたLPを買ってきてて、聴いたばかりだったんですね。
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一聴して思ったのは、なんとなくスペクターっぽいサウンドだなと。シナトラの声をもう少し抑えめにして、バックのサウンドを前面に出して、弦のアレンジを少し変えればまさにスペクターだなと。
で、『レッキング・クルーのいい仕事』を読んだら「夜のストレンジャー」の話が出てきて、何とバック・ミュージシャンはまさにスペクターと同じレッキング・クルーだったというわけ。ミュージシャン全員の名前は書かれていませんがドラムはハル・ブレイン。ちょっと、抑え気味ながら「ビー・マイ・ベイビー」風のドラムが聴かれます。
面白かったのは、そのギタリストに先日、ボビー・ラッセル特集の最後に出てきたグレン・キャンベルが呼ばれていたこと。彼はそろそろバック・ミュージシャンをやめて自分も歌を歌って名声を得たいと考えていた頃。その意味ではシナトラは雲の上にいる憧れの存在。彼は三時間の演奏中、シナトラから目を離すことができずにいる。
ふと気づくとシナトラが彼に視線を返しているように感じる。グレンはシナトラが自分のギターの腕前に惚れ込んでいるのだと、自慢げな気持ちになる。すると今度はシナトラがプロデューサーのジミー・ボーエンにグレンの方を見ながら何か話しかけている。グレンはどんな会話が交わされたのか気になって仕方がなく、あとでボーエンに確かめる。

「さっきシナトラさんは俺についてなにか話をしてた?」

するとボーエンはこう答える。

「俺のことをずっと見つめてくるギタリストがいるんだが、あのオカマ野郎は誰だ? だってさ」

もう一つ興味深いのはエンディングのフェードアウト寸前に聴かれるシナトラのアドリブについての話。ドゥドゥドゥビダ〜の部分ですね。これに関するエピソードもとっても面白い。まあ、それはここでは書かないことにします。

さて、シナトラの「夜のストレンジャー」が録音されたのは1966年の4月。調べてみるとまさに同じ年の同じ月にスペクターはロネッツのこの「I Wish I Never Saw The Sunshine」という曲を録音していることがわかりました。バックのミュージシャンは、「夜のストレンジャー」とメンバーがどれだかかぶっているかどうかわかりませんが、もちろんレッキング・クルー。作曲者は違いますが曲の雰囲気は驚くほど似ています。


ちなみに「I Wish I Never Saw The Sunshine」は個人的にはスペクター関連の曲の中では特に好きな曲。初めて聴いたのが今日のような冬の寒い日だったので、僕の中では冬の曲、特にクリスマス前後に必ず聴きたくなる1曲になっています。

レッキング・クルーといえば何といってもこの写真です。中心にいるサングラスの男はもちろんフィル・スペクター。
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by hinaseno | 2012-12-22 21:13 | 音楽 | Comments(0)

子どもは判ってくれない


今から9年前のある日のこと、その日たまたま実家に戻っていて、実家でとっている地方新聞(山陽新聞ですね)を開いたら、書評欄があって、その中の内田樹という人の『子どもは判ってくれない』という本の書評に目に留まりました。

今でこそ本はよく読みますが、当時は何人かの好きな作家の本の新刊が出れば読むくらいで、新聞や雑誌の書評を熱心に見るようなことはありませんでした。でも、ときどきは本のタイトルや、あるいは表紙のデザインに目がとまって書評を読むことはありました。場合によってはそれで面白そうだなと思って購入することもありました。

『子どもは判ってくれない』には、たぶんいくつか僕が目をとめてしまう要素がありました。まずは何といってもそのタイトル。いうまでもなくトリュフォーの映画『大人は判ってくれない』をもじったものですね。トリュフォーの映画は小西康陽さんの影響でよく観ていましたので、そのタイトルの感覚に惹かれたのが最初でしょうか。
それから「大人」のところを「子ども」にしているところ。教育関係の仕事をしていましたので、当然、反応してしまいます。でも、タイトルに「子ども」とついているくらいで反応していたら切りがありません。やはり「大人は判ってくれない」の「大人」のところに「子ども」が入っているという面白さに惹かれたのだろうと思います。

もう一つは「内田樹」という名前。その少し前に僕はあるものに文章を書くことがあって、そのために考えたペンネームの1つにそっくりだったんです。
「樹」は「たつる」と読むのですが、たぶんそれを確認したのはずいぶん後だったと思います。僕は最初は「いつき」と読んでいました。
「樹」という字には昔から深い縁を感じていました。まずは何よりも木(樹)が好きで、昔から木の写真ばかり撮っていました。今でも車を運転していて、いい木に出会うとうっとりと眺めてしまいます。
それから当時僕が最も読んでいた2人の作家にはいずれも「樹」という字がついていました。いうまでもなく村上春樹、そして池澤夏樹。だからペンネームは「秋樹」にしようかとも考えたのですがちょっと語呂が悪い。といって「冬樹」はちょっと。
それから、もう一つ。僕にとって大好きな映画があってそれが岩井俊二の『ラブレター』なのですが、その主人公の2人の名前(同姓同名ですね)が「藤井樹」。「樹」は「いつき」と読みます。この印象が強くて結局僕は下の名前を「樹」としました。
名字は最終的にちょっと変えたのですが1字はかぶっていました。つまり3文字のうちの2文字が僕の最初に考えたペンネームと同じだったんです。著者の名前がどれくらいのサイズで載っていたかは定かではないのですが、「内田樹」という名前を見て、あっと思ったことは確かでした。しかも本のタイトルも、僕の気になるものが含まれていて、正直運命的なものを感じざるを得ませんでした。

運命的といえば、僕は実家に戻るのはせいぜい年に5〜6回で、しかも山陽新聞に書評が載る月曜日にいることはめったにありません。年に1回あるかないか。そんな中でこの書評に出会ったんですね。

で、書評で引用されたいくつかの言葉を読んで、自分の感覚にあまりにも近いものを感じたので、自宅に戻ってきてすぐに書店に行って本を購入しました。そして一気に読んでしまいました。まずは何といっても言葉のリズムの良さ。これほど僕にぴったりあったリズムで文章を書く人は他にはただ一人しかいません(それはあとでわかるのですが)。
そしてその内容。僕が心に思っていても言葉にできなかったような内容のことを、あまりにも的確に、しかもユーモアにあふれた表現を使って書かれていました。そのユーモアの感覚と思索の方法も僕には近しいものでした(それもあとでわかるのですが)。

で、僕は内田樹という人の当時出ていた本を買い込みました。『ためらいの倫理学』『『おじさん』的思考』『期間限定の思考』『疲れすぎて眠れぬ夜のために』...。そして、そのいずれかの本でその村上春樹と大瀧詠一という名前を何度も目にすることになります。内田樹という人も、僕の最も敬愛している2人の大ファンだったんですね。運命的な出会いに、さらなる運命が待っていたんですね。もちろん驚きましたが、僕が強く惹かれた理由もそこにあったんだと納得しました。

『子どもは判ってくれない』で、内田樹という人が神戸女学院の教授をされているということがわかりましたので(現在は退官されています)、僕は個人的に内田先生と呼ぶようになりました。それからその本には内田先生のホームページのアドレスが載っていて、その日から僕はほぼ毎日更新される内田先生のブログを読み続ける日々が始まります。
(続く)
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by hinaseno | 2012-12-21 10:50 | 全体 | Comments(0)

さて、僕の好きなクリスマス・ソング・シリーズ。
今日はトニー谷の「サンタクロース・アイ・アム・橇(ソーリ)」です。


これはいわゆる冗談音楽といわれるもので、もちろん元歌は「ジングル・ベル」。いくつも笑えるところがあるのですが、でも最高にロマンティックなクリスマス・ソング。曲は1953年に作られています。

この曲を知ったのは、この曲が収められたCDを買ったからです。CDのタイトルは『ジス・イズ・ミスター・トニー谷』。発売は1987年のこと。僕はこのCDのことを翌年の新春に知ってすぐに買ったのですが、それでももう25年も前! 今でも、毎年1回は必ず聴きます。

なんでこんなアルバムを買ったかというと、1988年の大瀧さんと達郎さんの新春放談の1曲目にこのアルバムに収められた「レディス&ヂェントルメン&おとっさん、おっかさん」がかかって衝撃を受けたからです。一応貼っておきます。達郎さんもカバーしている「You Belong To Me」という曲が原曲で、それを知っていないと面白さはわからないのですが、知らずに聴いてもインパクトは強いのではと思います。


実は『ジス・イズ・ミスター・トニー谷』というアルバムをプロデュースしているのが大瀧さんなんですね。もちろんトニー谷は当時すでに亡くなっていましたから、残っている音源をまとめてアルバムにする作業を大瀧さんがされているんですね。ほかにもいくつかされています。
このアルバムの解説を書いているのが厚家羅漢(「あっけらかん」と読むんでしょうね)。今、これを手にとってこの名前を見た人は、だれ、この人?ってことになるのでしょうけど、これは大瀧さんが解説を書く時のペンネーム。ちなみに昨日のスペクターのクリスマス・アルバムの解説も大瀧さんが書いているのですが、そのペンネームは素家羅漢(「すっからかん」と読むんでしょうね)。

「サンタクロース・アイ・アム・橇(ソーリ)」には途中でタンゴの名曲「キッス・オブ・ファイアー」が出てきます。大瀧さんが小泉今日子に作った「快盗ルビイ」にも使われていますね。
「サンタクロース・アイ・アム・橇(ソーリ)」の解説には、補足として日本のミュージシャンの歌う、日本オリジナルのクリスマス・ソングが2曲紹介されています。せっかくですのでここに貼っておきます。
1つはクレイジー・キャッツの「クレイジーのクリスマス」(作曲は萩原哲晶)。大瀧さんとクレージーとの関係は深く、かなり長い話になるので、またいつか改めて書ければと思います。


それから美空ひばりの「ひとりぼっちのクリスマス」。これは素敵な曲です。


ところで、トニー谷といえばトニー滝谷のことも忘れるわけにはいきません。村上春樹の『レキシントンの幽霊』に収められた短編。『レキシントンの幽霊』が発売されたのは1996年。最初、このタイトルを見たとき、これはトニー谷をもじって創作した名前を使って小説を書いたのかと思ったら、そうではなかったんですね。
村上さんがあるとき、ハワイのマウイ島の古着屋さんでたまたま見つけて買ったTシャツ(Ⅰドル)の胸に書かれていたのが「TONY TAKITANI」。で、村上さんはこの名前が気になって、このTシャツを着るたびに、「トニー滝谷という人物が僕に自分の話を書いてもらいたがっているように、僕に感じられた」ので、結局「トニー滝谷」という架空の人物を主人公にして物語を書いたとのこと。でも、「トニー滝谷」の「滝」とか、どこかつながってしまいますね。ちなみに小説の中のトニー滝谷の父親の名前は滝谷省三郎。それがどうしたの、ってことですが、ちょっと。

ところで、先日のグレン・キャンベルの歌った「As Far As I'm Concerned」という曲。やはりあの素晴らしいアレンジはアル・デロリーでした。スペクターのレッキング・クルーの一人で、クリスマス・アルバムでもピアノを引いています。グレン・キャンベルもレッキング・クルーの一人でしたから、そのあたりで2人のつながりができたんでしょうか。

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by hinaseno | 2012-12-20 11:01 | 音楽 | Comments(1)