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ナイアガラ関係のヒミツ・シリーズ、第2弾です。
なんてことを言っても、たいしたことはありません。前回の「快盗ルビイ」も、大瀧さんがラジオで語られていたことをまとめてみただけ。
今回もなんだ、そんなことかと、知ってる人からすれば、きっと何の発見もないようなことだろうと思います。でも、まあ自分なりのまとめとして。

昨日、「鐘」の音が聴こえる曲として、最後に大瀧さんが作った渡辺満里奈の「うれしい予感」という曲をちょっとだけ紹介しました。
「うれしい予感」が発売されたのが1995年の2月。
1995年の2月といえば、まさに...ですね。
そう、今、まさに松たか子さんが朗読している村上春樹の「蜂蜜パイ」を収めた『神の子どもたちはみな踊る』の作品がすべて1995年の2月を扱った物語。でも、それらは4年後に書かれた村上春樹の想像の物語。「うれしい予感」は、実際の1995年の2月の物語。その結果、プロモーションも十分に出来なかったりと、いろんな意味でちょっと不幸な作品になっています。牽強付会的に言えば、この曲の鐘の音は、ひとつには震災で亡くなった人への鎮魂の鐘、そしてもう一つは次なる大きな事件の「警鐘」の鐘となっています。もちろん曲を作ったのは何ヶ月も前のことだとは思いますが。

a0285828_9211100.jpgさて、翌年、その曲を収めた渡辺満里奈のアルバムが発売されました。全曲大瀧さんがプロデュースしています。と言っても、全部で6曲ですから、ミニ・アルバムですね。大瀧さんの作った曲は「うれしい予感」だけ。あとの5曲のうち編曲に関わっているのが2曲。でも、やはり本当にうれしかったです。本当に久しぶりに聴くことの出来たナイアガラ・サウンドでしたから。

アルバムのタイトルは『Ring-a-Bell』。昨日書いたブログのタイトルです。
“ring a bell”というのは「鐘を鳴らす」という意味。アルバムには「ring a bell」というタイトルの曲もありませんし、どれかの曲の歌詞の中に“ring a bell”という言葉も出てきません。となると、この”Bell”は「うれしい予感」の最初の鐘しかないですね。「鐘」を意識して作られていることは確かですね。本当はあの「鐘」の音に、どういう意味を含ませていたのでしょうか。
ところで、“ring a bell”にはもう一つ「以前に聞いたことがある」という意味があることがわかりました。「以前にどこかで聴いたことがあるでしょう」と、記憶の深い部分に沈み込んでいるものを呼び起こすための鐘の音。
考えてみれば、何年かぶりに聴くことのできたナイアガラ・サウンドで、さまざまな記憶にうずもれた音や声を聞いたような気がしました。

というわけで、何回かに分けて『Ring-a-Bell』の楽曲について僕が気がついたことを書いてみたいと思います。
ポイントはシリア・ポールとナイアガラ・トライアングル。

シリア・ポールのことは以前に何度か触れました。『Ring-a-Bell』はシリア・ポールさん以来の、大瀧さんが全曲プロデュースした女性アーティストのアルバム(ちなみに松田聖子の『風立ちぬ』は片面だけのプロデュース)。ですから、『Ring-a-Bell』を作るときに、大瀧さんがシリア・ポールのアルバムのことを強く意識されていたことは確かだろうと思います。でも、この『Ring-a-Bell』には大瀧さんが作った2枚の『ナイアガラ・トライアングル』に関わった人たちが、いずれも表には出てこない形で、ひっそりと影のように入り込んでいます。
『ナイアガラ・トライアングル』を簡単に紹介しておくと、その「VOL.1」が出たのが1976年の3月。『Ring-a-Bell』はそれからちょうど20年後の3月に発売されていますね。
メンバーは大瀧さんと山下達郎さんと伊藤銀次さん。トライアングルというのは三角形ですから3人のアーティストで1枚のアルバムを作っているんですね。
ただし、「VOL.1」にはもう一人、忘れてはならないアーティストが参加していました。今年の1月に亡くなられた布谷文夫さん。アルバムの最後に収められた大瀧さんの作った「ナイアガラ音頭」という曲を歌っています。布谷さんはこの曲以外にも大瀧さんの作った音頭や、きわめて土着性の強い歌を何曲か歌っています。あるいは独特の声(特に「アミ〜ゴ」)は、大瀧さんの作った楽曲のいろんなところに、あたかも一つの楽器の音のように入れられています。
『ロンバケ』から大瀧さんファンになった人間にとって、それらの曲、あるいは布谷さんの声というのは、ある意味、極北でした。そこに辿り着けずに中途半端なナイアガラ・ファンにとどまるか、どんな形であれそこまで辿り着くか。僕自身、もちろん何度も引き返しました。具体的に言えば、その曲はとばすという聴き方をしたわけですけど。何で、大瀧さんはこんな曲を作らなければならないんだろう、何でこんな人に歌わせているんだろう。そればかり考えていました。
でも、今にしてみれば大瀧さんにとって布谷さんというのはなりたくてもなれなかった、もう一人の大瀧さんだったんだと思います。日本という国で、あれだけ強烈な土着的な声を持っていたのは、あとにも先にも布谷さんだけでしょうから。目の前で布谷さんの歌うのを聴いたら本当にすごかっただろうと思います。

ところで、『ナイアガラ・トライアングル』は1枚目が出たとき「Vol.1」とタイトルが付けられましたか、果たして「Vol.2」が出るなんて、大瀧さんは考えられていたでしょうか。ただ単に3人集まってアルバムを作るというのではない、偶然であるにもかかわらず必然としか思えないような「縁」によって結びついた関係ができなければ作りえないものでしたから。
でも、出来たんですね、「Vol.2」が。

「Vol.2」が発売されたのが1982年の3月。今年がちょうど30周年です。
メンバーは大瀧さんと佐野元春さんと杉真理さん。この3人がいかにして結びつくことになったかは、今年発売された『レコード・コレクターズ』という雑誌の4月号で詳しく語られています。どうしようもないくらいに興味深い話が次から次へと出てきます。大瀧さんの言葉でいえば、尻尾をつかんだことによってつくられた縁がなければ、こういうアルバムを作るのは無理なんだと言うことがよくわかります。

では、次回からはそれぞれの楽曲の説明へ。
今日の最後は、先程触れた 『ナイアガラ・トライアングルVol.1』の最後に収められた「ナイアガラ音頭」を。リード・シンガーは布谷文夫さんです。

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by hinaseno | 2012-10-31 09:24 | 音楽 | Comments(0)

  Ring-a-Bell


松本竣介という画家の話をする前に、昨日書き落としていた川本三郎さんの『それぞれの東京』という本の内容のことを。この本は、どの人の章も川本さんならではの視点で語られたとても興味深いものなのですが、もう一つ大好きなページがあります。
それは「小さな『わが町』の集まり」と題された「あとがき」です。
たった2ページの文章なのですが、東京への愛があふれているんですね。おそらくは川本さんが愛してきたいくつもの場所が損なわれているのを目の当たりにし続けてきたにもかかわらず。
この「あとがき」の最後の方にこんな言葉があります。僕の東京に対する見方を変えた言葉でした。

この本を書いていて気がついたことがある。大都市である東京も、よく見れば小さな町、歩いて暮らすことの出来る「わが町」の集積である。大きな東京の中の小さな東京にこそ惹かれる。


さて、この本で川本さんが取りあげられた松本竣介の作品は次のようなもの。
「郊外」「街」「橋(東京駅裏)」「ニコライ堂」「ニコライ堂の横の道」「ニコライ堂と聖橋」「市内風景」「議事堂のある風景」「駅」「Y市の橋」「運河風景」「鉄橋風景」「新宿の公衆便所」。本に写真が載っているのは「ニコライ堂の横の道」。
a0285828_9549100.jpg僕は『それぞれの東京』を読んだとき、これらの絵のいくつかをネット上で見て、ずいぶん引き込まれました。松本竣介の名前は頭に残りませんでしたが、彼の絵、とくに「ニコライ堂」関係の絵はとても印象深いものがありました。確かニコライ堂はブラタモリでも出てきておっと思った記憶があります。川本さんは松本竣介に最も良く似ている画家としてアンリ・ルソーをあげています。

話は少しそれますが、僕は先日来ずっと古関裕而の曲を聴き続けていて、万歩書店さんに行ったときも、つまり松本竣介のことを書いた店主さんのツイートを見たときも古関裕而の曲を聴いていました。
古関裕而は先日も書いたように、マーチ、応援歌、あるいは軍歌のような勇ましい曲が多いのですが、車の中で聴いていたのは歌謡曲の方。で、古関裕而の歌謡曲にはタイトルに「鐘」という言葉がついた曲、あるいは歌詞に鐘が出てくる曲がいくつもあることに気づきました。有名なのは「長崎の鐘」とか「フランチェスカの鐘」でしょうか。古関さんは詞を書きませんし、古関さんの曲の作詞者はいろんな人がいるのですが、なぜか「鐘」に関する曲が多い。歌手が同じならば、そういうのはよくあるパターンなのですが、歌手もさまざま。
僕の持っているCDにも入っていない曲もふくめてみると相当数あります。古関さんが楽曲を担当していた連続ラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」(主題歌は「とんがり帽子」)の影響でしょうか。古関さん自身も本の中で「偶然、私の作曲のタイトルに鐘がつくものが多い」と書いていて、それを不思議がっています。ちなみにその本のタイトルの副題は『鐘よ鳴り響け』、やはり「鐘」があります。


そして、そんな「鐘」に関する曲の中に「ニコライの鐘」という曲がありました。僕の持っていたCDに入っていたので、この曲を聴いたとき、あっ、ニコライ堂とすぐに思いました。歌っているのは藤山一郎。作詞家の門田ゆたかは先日触れた、やはり藤山一郎が歌った「東京ラプソディ」の詞を書いた人です。古関裕而と松本竣介が「ニコライ堂」でつながりました。


ところで松本竣介は今年、生誕100年とのこと。僕の持っている古関裕而のCDも生誕100年を記念して3年前に出たもの。2人は生まれも近いんですね。
それだけではなく、松本竣介は東京で生まれましたが2歳のときに岩手県に移り住んでそこで育っています。つまり彼も「東北人」なんですね。

松本竣介は19歳のときに画家を志して上京します。昭和4年のこと。昭和4年に上京した人と言えば木山捷平ですね。木山さんは1904年、日露戦争の年の生まれですから上京したのは25歳。ちなみに古関裕而は昭和5年、彼が21歳のときに福島から上京しています。最近関心を持った人たちが、それぞれ志しているものは違うけれども、ほぼ同じ年に上京しています。古関裕而は上京したとき阿佐ヶ谷に住んでいます。木山さんは昭和5年に中央線沿線の大久保、そのあと昭和6年に阿佐ヶ谷近くの馬橋に移り住んでいます。松本竣介は昭和4年に上京してきて最初に住んだのが池袋、それから豊島区長崎に住んでいます。半径1里(4km)くらいのところに3人が同じ時期に住んでいるんですね。1里なんて木山さんにとっては散歩の距離。
そういえば昭和7年の木山さんの日記を読んでいたら、こんなことが書かれていました。11月20日(日)の日記です。

一時半より早慶戦のラジオをきく。二対一早稲田の勝。


木山さんは姫路の師範学校なんて行きたくはなくて本当は早稲田に行きたかったんですね。結局、早稲田には父親の強い反対で行けなかったけれども、どうやらずっと早稲田のことを気にかけていたようです。この時期には早慶戦はものすごく盛り上がっていたみたいですね。プロ野球はまだ発足していません。古関裕而が早稲田の応援歌である「紺碧の空」を作ったのは昭和6年。ということは、この早慶戦では「紺碧の空」は歌われているはずで、木山さんもきっとそれを聴いていたはず。もしかしたら木山さんもラジオから流れてくる「紺碧の空」に合わせて一緒に歌ってたかもしれません。

ところで、古関裕而の「鐘」に関する曲は、さっきの「とんがり帽子」にしても「ニコライの鐘」にしても、鐘の音で曲が始まるものが多いです。
大瀧さんの作った曲にも最初に鐘の鳴り響く曲があります。渡辺満里奈が歌ったこの「うれしい予感」という曲。「ちびまる子ちゃん」の主題歌ですね。詩を書いたのは原作者であるさくらももこさん。途中で大瀧さんの声「あの子に」が入ります。

鐘の音には、何かを知らせる意味と、何かを鎮魂する意味があります。この曲の最初の鐘の音は果たして...。

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by hinaseno | 2012-10-30 09:16 | 全体 | Comments(0)

  それぞれの東京


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川本三郎さんに『それぞれの東京』という本があります。昨年(2011年)の1月に出た本。もともとは月刊誌『なごみ』に連載されたもののようです。『それぞれの東京』は、僕が今年最も多く手にとっている本かも知れません。
川本さんのあとがきの言葉を使えば、この本は東京に関係のある人たちの生き方を通して、それぞれの東京を浮かび上がらせています。
取りあげている人は全部で23人。写真も含めて一人につき、ちょうど10ページ。
この本に取りあげられている人たちの名前(本に取りあげられている順序通り)と、その人の肩書き(本に書かれているまま)を載せておきます。

芝木好子(小説家)
池波正太郎(小説家)
植草甚一(評論家・エッセイスト)
加太こうじ(紙芝居作家・評論家)
沢村貞子(女優・随筆家)
桑原甲子雄(写真家・写真評論家)
石田波郷(俳人)
永井龍男(小説家)
松本竣介(画家)
奥野信太郎(中国文学者・随筆家)
大岡昇平(小説家)
石井桃子(児童文学者)
鈴木信太郎(画家)
山口瞳(小説家)
向田邦子(脚本家・小説家)
清岡卓行(詩人・小説家)
木山捷平(小説家)
田村隆一(詩人)
水上勉(小説家)
野口冨士男(小説家)
成瀬巳喜男(映画監督)
高田敏子(詩人)
鈴木真砂女(詩人)

よく知っている人から、全然知らない人までさまざま。でも、この本をきっかけにして、よく知ることになった人も何人かいます。はじめ一通り読んだときにはそれ程頭に残らなかったのに、あとで何かで再び出会って、どこかでこの人の名前見たなと思ってこの本を開いたら取りあげられていたということが何度もありました。で、そういう場合、たいていその人のことをとても好きになってしまいます。その代表はなんといっても木山捷平でした。

昨日もそういうことがありました。
名前は松本竣介。
きっかけは岡山の万歩書店平井の店長さんのツイートでした。実は昨日お店にうかがっていたのですが、店に行く前に流れてきたツイートで「松本竣介」の名前をちらっと見てたんです。今、島根県立美術館で「生誕100年 松本竣介展」が開かれていて、店長さんはそれに行かれてたんですね。
僕は車の中で「松本竣介」あるいは彼の描いた「ニコライ堂」をどこかで見たなと思いつつお店に行ったのですが、結局、松本竣介の話はせず、もっぱら竹久夢二の「福島夜曲」の絵を収めた本がどこかにないか一緒に探してもらっていました(残念ながら見つかりませんでした。果たして今、この絵、現在も存在しているんでしょうか)。

さて、万歩さんでは池波正太郎の『日曜日の万年筆』というのを買って、確か川本さんが池波正太郎のことどこかで書いていたなと思って、家に帰って『それぞれの東京』を開いたら予想通り池波正太郎が載っていて(幸運なことに僕が買った本に収められているエッセイがいくつか川本さんの本で引用されていました)、で、後ろの方のページを見たら、あったんですね。松本竣介の名が。おお、って思いました。

この続きはまた明日にでも。

ところで万歩書店の店長さんから、もうすぐ木山捷平の本が出ますよ、との情報をいただきました。例の『木山捷平全詩集』を出している講談社文芸文庫から12月に出るんですね。タイトルは『落葉・回転窓~木山捷平純情小説選』。どんな作品が収められているのかまだわかりませんが、これはよさそうです。文芸文庫からは絶版になっている岩阪恵子(川本さんの『それぞれの東京』で取りあげられている清岡卓行の奥さん。文芸文庫から出ている木山さんのほとんどの本の解説を書いています。岩阪さんに清岡卓行を紹介したのが今年亡くなられた吉本隆明ですね)の『木山さん、捷平さん』も同時に出るみたいです。
木山捷平、再評価の動きが再び出始めているようです。
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by hinaseno | 2012-10-29 11:08 | 文学 | Comments(0)

  動くアル・カイオラ


久しぶりにアル・カイオラの話。
動くアル・カイオラです。動くと言ってももちろんアル・カイオラさんですからギターを弾いているところです。

と言いつつYouTubeにはアル・カイオラが演奏しているライブの様子を映したものがいくつかあることは知っていました。でも、それらはわりと最近のもの。しかも演奏している音楽はジャズ。僕としてはロックンロールやポップスを演奏している1950年代後半から60年代初頭のものがずっと見たかったんです。
と言っても彼はあくまでスタジオ・ミュージシャン。そんなに表に出る人ではありません。ましてやテレビなど。もうひとつ、アル・カイオラの顔はネット上を見ても限られたものしかないので、顔を見て判断できるというわけではありません。
ですから、今回見つけたものは(といってもたった2つですが)、いずれも"たぶん"アル・カイオラだろうということで、確証はないです。でも、95%くらいはアル・カイオラだろうと思っています。
ちなみに、ネット上にいちばんよく見られるのがこの赤い服を着て独特のギターを抱えてあごに手をあてたこの写真。今、入手できるCDのジャケットに使われています。もともとは1963年(アル・カイオラ43歳のとき)に出たLPのジャケットに写っているものですね。他のLPでも、あごに手をあてたものがありました。あごに手をあてるのが好きだったのかカメラマンの要望なのかはわかりませんが(あごに手をあてている姿のジャケットと言えば、すぐにジョアン・ジルベルトを思い出させます)。
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それからもう1枚。1955年(アル・カイオラ35歳のとき)の『Deep In A Dream』というジャズ・アルバムのジャケットに写っているギターを弾いているアル・カイオラ。ちょっと雰囲気が違います。8年前なので髪の量が少しだけ多そうですが、髪の生え際に特徴がありますね。
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さて、まずはこのボビー・ダーリンの「Dream Lover」。例の「ドンドコランカンランタンタンタン」が聴けるものです。このバックで演奏している3人のギタリストの真ん中で「ドンドコランカンランタンタンタン」と弾いているのがアル・カイオラではないかと思います。ギターも最初に貼った画像の、あの特徴的なギターではないかと思います。拡大して見て下さい。


もう一つはジョニー・キャッシュの「Bonanza」。「Bonanza」はもともとテレビで放送された西部劇の主題歌として作られたもので、アル・カイオラ自身も1961年に録音しています。1961年には例の「落日のシャイアン」も録音しています。
「Bonanza」は、もともと歌詞はなかったようですが、それに歌詞がつけられて最初に歌ったのがジョニー・キャッシュのようです。録音したのは1962年。ただ、レコードに収められているものをちょっとだけ聴いたのですが、同じようなフレーズがギターで弾かれているけれども、どうもそちらはアル・カイオラではないような気がします。
でも、この映像のギターの音色は明らかにアル・カイオラ。間奏の部分で彼のソロが聴かれます。演奏している姿も大きく映ります。


この映像で弾いているギターは、彼のLPのジャケットによく写っているものではありませんが、低音弦を奏でていることやその響き、そして髪の生え際の感じは間違いなくアル・カイオラだと思います。
それにしてもアル・カイオラさん。リズムは軽快なのに、演奏している表情はいたって生真面目。隣のドラマーが途中でちょっかいを出してもニコリともしません。カメラマンが近づいてきてるので、ちらっとカメラを見上げますが、やはり笑顔を見せることもありません。ジャームス・バートンとは違いますね。あくまでプロフェッショナルなミュージシャンとして演奏に徹しています。改めて好感を持ってしまいました。

と言いつつ、これが本当に、本当にアル・カイオラさんなのかは定かではないままなのですが。
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by hinaseno | 2012-10-27 10:17 | 音楽 | Comments(0)

今日から松たか子さんによる村上春樹の小説の朗読は、再び『神の子どもたちはみな踊る』に収められた作品にもどりました。取りあげられた作品は、その本の最後に収められた「蜂蜜パイ」。
主人公の名前は淳平。
今日読まれたのはその最初の部分。淳平が即席でつくった物語(童話)を、彼がつきあっている女性の、幼稚園に通っている子供、沙羅ちゃんに聴かせてあげるところから始まります。沙羅ちゃんは物語を黙って聴くのではなく、ちょっとでも疑問に思ったことがあったら淳平にたずねます。結構鋭い質問もする。でも、淳平はそれに対してひとつひとつ丁寧に説明します。松さんの朗読もいい感じでした。

ところで、「淳平」と言えば「捷平」です。強引ですね。また、木山さんの話です。

姫路時代の木山さんに、また一人親しい関係にある人間の名前が先日わかりました。
木坂俊平。
実はこれはペンネーム。本名は市場周久(いちばあきひさ)。兵庫県神崎郡の生まれ。
1910年生まれですから、木山捷平よりは6歳年下。2歳のときに姫路に転居して昭和5年に大津市に転居するまで姫路に住んでいました。

木山さんと木坂俊平が出会い、交流をもっていたのは、木山さんが姫路で小学校の教師をしていた昭和2、3年頃。木山さんが23〜4歳、木坂俊平が17〜8歳のときですね。
木坂俊平は昭和2年に詩を書き始めます。その頃流行っていた民謡や童謡が中心ですね。で、おそらく姫路で詩を書いていた人のつてで2人は知り合ったのだと思います。
a0285828_1118713.jpg2人の年齢の差が示すように、木坂は木山さんを兄のように慕います。昭和5年に出版された木坂の最初の民謡集『生きる唄』のあとがきにはこんな言葉が書かれています。

木山捷平氏は有難い僕の先輩だ。何かにつけてよく相談に乗つてくれ、世話をやいてくれる。僕は何時も木山目懸けて突貫する。木山はよき僕の兄であり、よき詩敵である。







ひとりぼっちで、ほんの一握りしか友人のいなかったと思っていた姫路時代の木山さんに、こんなにも心を寄せていた年下の人間がいたなんて。

たぶんうすうすとは気づかれていると思いますが、木坂俊平という名前は木山捷平にちなんでつけられているんですね。最初の「木」と最後の「平」をそのままとっています。よっぽど木山さんのことが好きだったんでしょう。同時に心から信頼し尊敬していたことがわかります。

その木坂俊平は『関西の童謡運動史』という本を出していることがわかりました。昭和62年発行。実は木坂俊平はその前年に亡くなっていて、彼の書いてきた文章をまとめたものを身近な人たちが出版したようです。幸いなことに、この本は姫路文学館にありましたので、先日うかがってみてきました。

最も期待していたのは大西重利の名前が何らかの形で載っていること。木山さんとの関係、童謡というキーワードはきっと大西重利につながっているはずだと思っていましたから。でも、文章中に出てきた人物の名前が載っている巻末の索引には残念ながら大西重利の名前はありませんでした。かなり分厚い本で、関西で童謡に何らかの形で関わっていた人たちを、雑誌に投稿した小学生の名前まで書いたものでしたから、ここに大西重利の名前が出てこなかったというのは意外でした。

木山さんが姫路を離れて上京したのは昭和4年(1929年)。木坂俊平は上京はしなかったけれどもその翌年に姫路を離れます。もう少し、この木坂俊平、あるいは彼の周辺にいた人たちのことを調べてみたいと思います。

ちなみに木坂俊平が住んでいたのは姫路城のすぐ北の坊主町。そこから船場川に沿って1キロほど南に下れば木山さんの住んでいた千代田町に行けます。
先日、その途中の船場川沿いの道をちょっと歩いてきました。
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by hinaseno | 2012-10-26 11:23 | 木山捷平 | Comments(0)

一昨日、古関裕而の「福島夜曲(セレナーデ)」と「福島行進曲」のことを最後に書きましたが、昨夜、仕事から戻ると一通の見覚えのある小包が届いていました。もちろんアゲインの石川さんからのもの。
中に数枚のCD。すべて石川さんの店、アゲインで行なわれたSP講座で使われた音源(講師は郡修彦さん)。
その中に古関裕而のものが2枚。
一つはスポーツや軍歌関係、もう一つが歌謡曲を収めたもの。

どきどきしながらその歌謡曲篇の曲目を見る。
1曲目が「福島行進曲」。
そして2曲目が「福島夜曲」(「ふくしませれなーで」と読むんでしょうね。「福島小夜曲」と表記されることもあるようです)。

「福島夜曲」は、昭和6年に阿部秀子が歌ってレコーディングされたオリジナルのもの。現在発売されている『古関裕而全集』にも収められていないもの。それを確認しただけで感激で涙があふれそうに。
それをぐっと抑えてCDをセットして2曲目を。
大きな音ではかけられないので、小さな音で聴く。
スポーツ関係の勇ましい曲とは全く違う、弦楽器を使った静かなメロディが流れてくる。思った通りの美しい歌。胸がいっぱいになる。

「福島夜曲」は昭和6年にレコーディングされていますが、曲が作られたのは昭和4年に福島で竹久夢二展が開かれたときのこと。福島に来ていた夢二が滞在中に即興でかいた「福島夜曲」と題した詩画(詩のついた絵)を見て深く感動した古関裕而が詩をノートに書き写して家に戻って曲をつけたそうです。古関裕而はできあがった曲を楽譜に書いて夢二が滞在していたホテルに持っていって手渡し、その場で曲を歌ったとのこと。古関裕而と夢二との交流はその後も続いたそうです。

夢二が書いた詩は全部で12篇(「福島夜曲」の詩画は夢二の何かの画集に載っているんでしょうか?)。そのうちの3篇が選ばれて曲にされています。 今日、『全集』が届いたので聴き比べていたら、オリジナルの阿部秀子が歌っているものと昭和50年に島田祐子に歌われたものと3番の歌詞が違っていました。

まずはオリジナルの歌詞。

遠い山河(やまかわ)
たずねて来たに
吾妻しぐれて 見えもせず

奥の細道
とぼとぼ ゆきゃる
芭蕉様かよ 日の暮に

信夫(しのぶ)お山に 
おびとき かけりゃ
松葉ちらしの 伊達模様


昭和50年に島田祐子に歌われたものは3番がこうなっています。

会津磐梯山が
ほのぼの 身ゆる
心細さに 立つ煙か


a0285828_2135064.jpgどうやらもともとの夢二の詩はすべて「七・七・七・五」の定型詩のようです。同じメロディでどの詩も歌えるということで、昭和50年のときには別の一篇が選ばれたようですね。でも、昨日貼った古関裕而の直筆色紙の音符の下に書かれている歌詞はオリジナルの3番の歌詞。そしてその下に書かれている絵は信夫山のはず。信夫山という名前がついていますが実際には3つの山のようです。標高275mですからそんなには高くないですね。でも、福島の市街地からは目立つ山のようです。

メロディを伝えるのは難しいですが、古関裕而はもともとクラシックを学んだ人ですので、全体的にはクラシック、あるいはオペラの要素が強いようです。ただ、1番の歌詞でいえば「たずねて来たに」の「来たに」の部分は日本的な、個人的にはぐっとくる旋律。
で、次の「松葉ちらしの」のところでいきなり1オクターブ上がります。大丈夫かなと思うほどの高い声。でも、阿部さんはきっちり声が出ています。もともと声楽をされていた人なのかもしれません。 島田祐子は古関裕而の指名ということらしいので、当然歌はうまいです。

昭和50年にレコーディングされたものはかなり多くの楽器が使われて演奏されていますが、オリジナルは楽器は弦楽器(おそらくバイオリンとチェロ)とピアノのシンプルな演奏。個人的にはやはりオリジナルのシンプルな演奏の方が好みです。
いずれにしても本当にきれいな曲。同じ年に作曲された早稲田大学の応援歌とは全然違います。
この「福島夜曲」にスポットがあたる日がくればいいですね。原発事故のあった今こそという気がしないでもありませんが。

今年は思い出に残るいろんな曲に出会うことができましたが、この「福島夜曲」も大切な1曲になりました。

何の縁もなかった福島に、夢二と古関裕而を通じてつながりを持つことができました。

下は信夫山(しのぶやま)の写真。ふと思って調べてみたら、昔、信夫山という力士がいたんですね。きっといるだろうと思いました。
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by hinaseno | 2012-10-25 21:48 | 音楽 | Comments(1)

秋をふらふら


今朝はぐっと寒くなりました。
久しぶりに木山捷平の話です。

今日は昭和2年、木山さんが姫路の千代田町にいたときに書かれた詩を紹介します。
木山さんの若いときに書かれた詩の中で、特に好きなものの一つです。
この詩は『野人』に収められたものと、後に昭和4年に抒情詩社から出版された『野』(現在出ている『木山捷平全詩集』に収録)に収められたものと、少しだけ違っています。ここでは『野人』の第三輯に収められた方を。謎の「姫路市南畝町288」にあった野人社から発行されたものですね。
タイトルは「ふらふらと」。

たつた一つしかない猿股を
洗つてほしておいたら
ぬすまれた。
仕方はない
なんにもはかないで
ふらふらと
職をさがしてあるいた。
十月ももう末の頃
秋風が股からひやひやと
ひとへものでは寒かつた。

「職をさがしてあるいた」とありますね。詩の主人公が木山さん自身とは限りませんし、詩の題材とされたことがそれを書いたときに起こった出来事とは限りませんが、この時期木山さんは荒川小学校に勤務しています。でも、この詩誌の発行や知人に送ったりするのにお金が必要だったんで、いろいろとちょっとしたアルバイトを探していたのかもしれません。

この詩のポイントは何といっても「仕方はない」というところですね。
『野』に収められたものとの違いは、この部分。『野』の方には感嘆符が付けられています。
「仕方はない!」と。
でも、僕は『野人』の頃の、強がろうとしても元気のない木山さんを愛します。

『野人』は第五輯まで出ていますが、この第三輯には他の4輯にない特徴があります。第三輯にだけ「後記」がないのです。で、毎月発行していたものが、次の第四輯が出るまでにひと月空きます。そして第三輯まで発行してきた「野人社」の住所は「姫路市南畝町288」から「姫路市千代田町800(吉川方)」、つまり自分の下宿先に移ります。

何かがあったんですね。第三輯を発行する時期に。
第四輯にはひと月空いたことについて「事情はお察しのとほり」とだけ書いている。それからそのあと「暫く理窟は云はぬ約束になつてゐる」とも。
そう、『野人』の第一輯の後記で、彼はこう書いているんです。
「私はどうも理窟が言へない。だから當分理窟は言はぬつもりだ」

「理窟」、今の言葉で言えば「言い訳」でしょうね。あるいは人のせいにするような言葉も含まれているのかもしれません。そういうのを口にしたり書いたりするのが好きではないんですね。というか、もともとそういうことができない人だったのかもしれません。僕のイメージする「東北人」の気質に似ているように思います。

でも、おそらく「第三輯」を発行するときには、その「理窟」を言いたくて仕方がないような出来事があったんだと思います。「後記」を書くと、どうしてもそれを書かずにはいられないような気がする。で、結局、彼は「後記」を一切書かないことにしたんですね。

改めて「ふらふらと」の詩を見てみます。
「 十月ももう末の頃」と書かれていますが、実は第三輯が発行されたのは9月1日。印刷が8月20日。つまり真夏に書かれています。詩では猿股が盗まれたとなっていますが、実際には木山さんにとって、何かもっと大きな、大切なものがこの時期に失われたような気がします。その気持ちを10月の終わり頃の風景に重ねた。でも「理窟」は言いたくない。だから結局、出てくる言葉はただ一つ。
「仕方はない」

僕がこの詩を最初、『全詩集』で読んだときはちょっと吹いてしまいました。おもしろい、いかにも木山さんらしい詩だなと。
でも、『野人』でこの詩を読み返したとき、この詩に漂っている何とも言えない喪失感にたまらない気持ちになりました。「感嘆符」がついていないこともすぐに気づきました。
「ふらふらと」は『野人』第三輯の最後のページに収められています。その隣の最後のページには、他の号であれば、下の発行人の名前などが書かれた枠の上に書かれているはずの「後記」の部分が空白となっています。『野人』の中でもっともさびしい風景です。
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by hinaseno | 2012-10-24 09:25 | 木山捷平 | Comments(0)

大瀧さんが古関裕而の”ある曲”に関する話をされていたことを思い出したのは、東日本大震災からかなりの月日、おそらくは半年以上もたってのことでした。
いったい、いつ、どこでしゃべっていたんだろうと記憶を辿りました。
可能性のあるものは2つしかない。1つは1984年から毎年続いている山下達郎さんとの「新春放談」、もう1つはラジオデイズというダウンロードサイトで2007年から始まって毎年続けられている「大瀧詠一的」という対談番組。大瀧さんがその話をしたときの”相手”の反応の記憶をよびおこすとおそらく後者の方だろうと判断しました。

2010年のものを聴いてみる。出てこない。
次に2009年のものを聴いてみる。トータル2時間にも及ぶ対談。なかなか出てこない。
でも、番組もかなり後半に近づいたところで、その話が出てきました。正確にいえば6回に分けられている「大瀧詠一的2009」の5回目(5/6)の15分あたりから”その話”が出てきます(現在でもこの放送はダウンロード可能です。ぜひ聴いてみて下さい)。

話は(また、いつものように)少しそれますが、古関裕而の誕生日は明治42年(1909年)8月11日。僕に大瀧さんに関するいろんな音源を送って下さっているアゲインの石川さんと誕生日が同じなんですね。ラジオデイズというサイトは石川さんの同級生である平川克美さん(現在、朝日新聞で毎週「路地裏人生論」という連載をされています)が始められたものです。「大瀧詠一的」で大瀧さんと対談されているのは、その石川さん、平川さんともう一人の同級生である内田樹さん(神戸女学院で昨年まで教鞭をふるわれていたので僕の意識では内田先生です)。ご三人とも心から尊敬している方々です。この三人の方を知ったきっかけなどを話し出すと、ものすごく長い話になりますので今日はやめておきます。でも、その三人の方が大瀧さんと対談されるまでに至る”過程”をずっと見てきていましたので、対談が実現したときは自分のことのようにうれしく思いました。

さて、その「大瀧詠一的2009」での大瀧さんの話。こんな言葉で語られ始めます。
「僕が全部灰に帰するというイメージをしたときに、ほっとしたいというときに流れてくるメロディがあるんだよ」
「全部を失ったときに、それでもほんわかするっていう」

大瀧さんの長年のファンとして、この言葉の後にどんな曲が語られることになるのか、この言葉を初めて聴いたときに息をのみました。
そして大瀧さんの口から語られたのがこの曲。古関裕而の「ひるのいこい」という曲でした。


僕は大瀧さんのこの言葉を聴いて(「大瀧詠一的2009」が録音されたのは2009年の暮れで、ダウンロードが可能になったのは年が明けてのことでしたでしょうか)、すぐにYouTubeで、おそらくはこれと同じ音源を聴いたと思います。で、正直な感想をいえば、えっ、というものでした。たぶん2、3度聴いてそれっきりだったと思います。古関裕而については、たぶんそのときにいくつか調べて、へ〜え、こんな曲も作っているんだと確認した程度でそれ以上入り込むことはありませんでした。

でも、震災があって、全てが失われた風景を見続けたある日、大瀧さんのこの言葉をおぼろげに思い出し、放送されたものを聴き返し、改めて古関裕而の「ひるのいこい」を聴いたときは、まさに大瀧さんのおっしゃられた通り、心からほっとした、ほんわかした気持ちになることができました。でも、こんなことを言ったら申し訳ないかもしれませんが、しかも実際には震災の被害を全く受けることのなかった人間が言うのもいい気なものですが、震災がなければ、この音楽も、古関裕而という音楽家とも出会うことはできなかったように思います。

2009年というのは古関裕而さんの生誕100年で、古関裕而さんに関するいろんなイベントがあったり全集の CDが発売されたりと、古関裕而さんに関してのいろんな動きがあったみたいですね。大瀧さんはもちろんご存知だったんだろうと思いますが、僕は全然知りませんでした。
生誕100年を記念した「古関裕而 うた物語」というサイトがあるのも昨日見つけました。そこには「ひるのいこい」についてこう書かれています。
昼すぎのひと時、NHKラジオから流れる田園の風景を思わせるメロディーは、戦後まもなくから続いている長寿番組です。番組は当初、「農家のいこい」といい、後に「ひるのいこい」と名称を変え、もう半世紀以上も国民に親しまれています。
 作曲した古関は、「当時は農家の昼休みを想定して作曲した」(自伝『鐘よ 鳴り響け』)と言っていますが、「日本人は日本人だという意気で作曲したため、時代の変わった現在でも曲の価値は減ることはなく、かえって倍加している」(自伝)と高く評価しています。
私たちは「ひるのいこい」の音楽を聴くと、なぜか心が癒やされます。それは音楽の良さだけではなく、番組の話題そのものにもありそうです。作物の生育状況やそこから漂う土の臭(にお)い、懐かしい故郷からの便り。また自然の息吹や、素朴な日本の姿があったりと、私たちの心を慰めてくれるのです。

今年のある日、たまたま車のラジオをつけたらちょうど「ひるのいこい」が流れてきたことがありました。まだ続いていたんだと本当にうれしく思いました。

大瀧さんは「大瀧詠一的2009」で「ひるのいこい」のフレーズを少し歌われた後、改めてこう言われます。
「あの人、会津(福島)の人なんだけど、全部が灰燼に帰したときに、何にもなくなったときに日本人の心を救ってくれるメロディなんだと僕は考えているんだ」

正直、驚きますね。未来を予見していたとか、そんなオカルト的な意味合いではなくて。
でも、大瀧さんは同じ東北人である古関裕而が作ったメロディから、そういうものを感知してたんですね。そのことに対して僕は深い畏怖の気持ちを抱きました。

ところで、古関裕而が最初にレコーディングした曲に「福島行進曲」と「福島夜曲(セレナーデ)」というものがあることを、さきほどの「古関裕而 うた物語」というサイトで知りました。昭和6年にレコーディングされています。
前者の「福島行進曲」は例の西條八十作詞、中山晋平作曲の「東京行進曲」のヒットを受けて作られているようです。「○○行進曲」が次々に作られたんで主ね。
後者の「福島夜曲(セレナーデ)」は古関裕而の実質的なデビュー曲。なんと作詞が竹久夢二です。
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僕の母の生まれた場所が夢路の生家のすぐ近くで、先日、墓参りに行ったとき、今までは素通りしてたのに、その日、なぜかその近くの売店に立ち寄ってこんな絵はがきを買ってきたばかりでした。古関裕而は夢路を尊敬していたんですね。
夢二と古関裕而がつながるなんて、本当にびっくりしました。

残念ながらYouTubeには「福島夜曲(セレナーデ)」も「福島行進曲」もありませんでした。でも、ぜひ聴いてみたいと思います。
そして、できれば今だからこそ、それらの曲が日本全体に広まってもらいたいと心から願います。

下の絵は「福島夜曲」の直筆色紙。
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by hinaseno | 2012-10-23 09:13 | 音楽 | Comments(1)

大瀧詠一さんによって知った東北出身の音楽家がもう一人います。
古関裕而(こせきゆうじ)。

これを読まれた方は、もしかしたら名前を聞くのは初めてかも知れません。でも、古関裕而の作った曲はいろいろなところで耳にしているはずの曲ばかり。今日はそんなかなり有名な曲を紹介します。ほとんどがスポーツに関係するマーチや応援歌です。特にスポーツに興味を持たれていなくとも知っている曲だろうと思います。
ただ、先に言っておけば、僕が大瀧さんによって古関裕而の名前を知ったのは、それらのマーチや応援歌とは全く違うタイプの曲。大瀧さんの言葉を使えば、心からほっとしたいときに聴きたくなるような曲。その曲を紹介するとき、大瀧さんは同時に古関裕而という人が東北の人であることを告げます。「会津(福島)の人」だと。2009年の末に語られた言葉でした。

では、今日は古関裕而のマーチや応援歌を、といってもたくさんありすぎますので、やはり1995年の日本ポップス伝でかけられたものを貼っておきます。ちなみに、前にも言ったように1995年に放送された日本ポップス伝をきちんと聴いたのは今年になってのこと。
考えてみたら、1995年は阪神大震災とオウム事件のあった年。数日前に僕は、この2つの事件の間にはさまれた月の物語である村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』のことに触れて、今こそ読まれるべき物語だと書きましたが、今、ちょうどNHKラジオで松たか子さんの朗読で村上春樹の短編が順番に3つ読まれていて、『神の子どもたちはみな踊る』から2作取りあげられています。先週が「かえるくん、東京を救う」、来週が「蜂蜜パイ」です。残念ながら僕の好きな「アイロンのある風景」、あるいはこれも先日少し触れた「UFOが釧路に降りる」ではありませんでしたが。
ちなみに今週は「七番目の男」。これは『レキシントンの幽霊』に収められた作品。個人的なことを言えばこの短編に収められた「沈黙」と「七番目の男」を読んだとき、村上春樹の変化を感じました。そのあたりで村上春樹から離れていった人は多くいるみたいですが、僕は逆にそこから彼に深く傾倒することになった思い入れの強い作品です。
『レキシントンの幽霊』には「トニー滝谷」という、大瀧さんファンならタイトルだけでピッと反応してしまう作品もあります。それについてはまた後日。

話がそれてしまいました。では、古関裕而の曲を。
まず1曲目は昭和6年に作られた「紺碧の空」という曲。早稲田大学の応援歌ですね。古関さんの作った最初期の曲の一つ。ちなみに早稲田は大瀧さんや村上さんの出身校です。村上さんはこの曲を口にされたことがあるんでしょうか。


2曲目は昭和11年に作られた「大阪タイガース(現阪神タイガース)の歌」。現在は「六甲おろし」として有名な曲。


阪神といえば巨人ですね。というわけで「巨人軍の歌」。「巨人軍の歌」は何度か作られているようですが、現在耳にする通称「闘魂こめて」は昭和38年に作られています。


古関裕而さんは昭和25年に中日ドラゴンズの応援歌である「ドラゴンズの歌」も作っていますが、日本ポップス伝ではかかりませんでした。中日ドラゴンズの応援歌はその後昭和49年に山本正之という人が作って板東英二が歌った「燃えよドラゴンズ」が有名になって、古関さんの歌は現在では歌われなくなったみたいですね。


次は昭和39年に作られた曲。昭和39年といえば、あれです。東京オリンピック。ということで、古関裕而さんは「オリンピック・マーチ」を作っています。


時代は前後しますが、昭和22年には一昨日に触れた「東京ラプソディ」を継承したような「夢淡き東京」という曲を作っています。歌っているのは「東京ラプソディ」と同じ藤山一郎。


他にも大瀧さんのポップス伝ではかからなかった有名な曲は数知れずですね。例えばこの高校野球のテーマソング。「栄冠は君に輝く」なんか聴いたことのない人はいないですね。


勇ましい曲ならば古関さんということだったのか、古関さんは軍歌もたくさん作られています。その一方で有名な映画のテーマ曲もたくさん作られています。「君の名は」とか「ひめゆりの塔」とか。
美空ひばりにも曲を作っていました。「花売馬車」という曲。昭和30年の曲。作詞は西條八十ですね。初めて聴く曲でした。


今日の最後は、森繁久彌の「荷物片手に」という曲。昭和32年に作られています。やはりはじめて聴く曲です。作詞は野口雨情。調べてみたらその年公開の映画『雨情物語』の主題歌でした。そんな映画があったんですね。森繁久彌は同じ年に野口雨情作詞、中山晋平作曲の「船頭小唄」を歌っています。映画の挿入歌で使われたんでしょうか。


「船頭」つながりでいえば昭和10年に「船頭可愛や」という曲をヒットさせていますね。「船頭小唄」の14年後。こっちも貼っておきます。


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by hinaseno | 2012-10-22 08:21 | 音楽 | Comments(0)

野口雨情作詞、中山晋平作曲の「船頭小唄」の話がもう少し続きます。
今日は中山晋平がかいた曲のメロディと話、知ったようなことを語っていますが、僕はこの「船頭小唄」をこれまでまともに聴いたことがありませんでした。森繁久彌が歌っているのを何かでちらっと聴いた記憶がある程度。ですから、正直、僕にはまだ「船頭小唄」のメロディがきちんと身に付いていません。昨日、貼った音源を何度か聴いて馴染ませている段階です。その意味ではブログはもう一つのプレイリストの役目を果たしています。音源をたくさん貼るのも、自分が後で何度も聴き返すため。ということで、今日も何曲か貼ることになります。

昨日は「船頭小唄」の詞の影響をもろにうけて作られた「昭和枯れすすき」という曲のことに触れましたが、メロディのことでいえば似ているわけではありません。
でも、「船頭小唄」のメロディを受け継いだ曲が出てくるんですね。
その1つ目が藤山一郎が歌った「影を慕いて」という曲。昭和7年に作られています。曲を作ったのは古賀政男。この曲では作詞もしています。ギターも古賀さんですね。


この「影を慕いて」に影響を受けた曲は山のように作られるのですが、古賀さん自身も、この曲の根本と構造を使って、もう一度違う形で作り直した曲を昭和41年に発表します。日本の流行歌の中で、最高の曲といわれるものが生まれることになります。 それが美空ひばりの歌った「悲しい酒」。この曲のギターも古賀政男が弾いています(YouTubeの音源はオリジナルと書かれていますが、大瀧さんのポップス伝でかかったものとは違う気がします)。


この曲は、僕もテレビで何度も聴きました。ただ、おそらくは後年、もう少し暗さや影を増した歌い方がなされたものでしたが。

昨日も言いましたが、1955年に放送された「日本ポップス伝」の白眉はここからです。この古賀政男の作った「影を慕いて」や「悲しい酒」と、「船頭小唄」のメロディの聴き比べがなされます。調とテンポを同じにしてメロディだけを録音したものを左右のスピーカーから流しながら。するとメロディの根幹が見事なほど同じであることがわかります。大瀧さんは古賀政男は中山晋平の後継者であるとの指摘をします。
何年か前、服部克久さんの作った曲が〇〇さんの作った曲のメロディに似ているということで裁判になり、結局メロディのかなりの割合が類似しているという判断で、盗作という判決が出ましたが、それでいえば、これらの曲は盗作どころか同じ歌にすら聴こえます。でも、大瀧さんはそういうことを示そうとされているわけではありません。これらの曲に見られる旋律には、日本人の琴線に触れる普遍的なものがあると言うことなんだと思います。

さて、ポップス伝では、この後「船頭小唄」の元になっている曲が紹介されます。それが「天然の美」という曲。 作曲は田中穂積。もともとは「美しき天然」というタイトルで佐世保女学校の愛唱歌として作られたもの。今でも、両方のタイトルが使われています。その原曲が徐々にアレンジされ、のちのちにはサーカスやチンドン屋で聴かれるものになっていきます。で、この「天然の美」と「船頭小唄」のメロディの聴き比べがなされます。びっくりするくらいすごく似ているんですね。

詞がついたものはこれです。


ポップス伝では最後に、「天然の美」と「船頭小唄」と「影を慕いて」と「悲しい酒」を全部まとめてかけます。これすごいですね。微妙にメロディは違うけれども根幹は同じ曲がポリフォリック的に聴こえてきます。

a0285828_1415439.jpgちょっと話がそれますが、古賀政男が作って藤山一郎が歌った歌では何といっても「東京ラプソディー」が有名です。山下達郎さんはこの曲へのオマージュとして「新(ネオ)・東京ラプソディー」という素晴らしい曲を作っています。個人的には達郎さんのアルバムの中で最も好きな1枚である『僕の中の少年』の1曲目に収められています。


1988年、昭和の最後の年に作られた『僕の中の少年』は達郎さんのアルバムで、はじめて日本語のタイトルがついたものです(考えてみたらあとにもありませんね)。達郎さんの中で市井に生きる日本人への意識が強まっていたんでしょう。このアルバムに収められた「蒼氓」という曲にはその意識が色濃く反映しています。特に曲の最後に出てくる桑田佳祐さんの乾いた声は「枯れた」感じが出ています。


でも、やはり「蒼氓」も「新(ネオ)・東京ラプソディー」も都市生活者の歌という感じが拭えません。田舎者の僕にとっては都会的すぎます。達郎さんも桑田さんも都会に生まれた人。

さて、最後に昨日の話に戻ります。「平成枯れすすき」ですね。
大瀧さんの言われるように、日本のすすきは枯れないはず。でも、平成になって「船頭小唄」の野口雨情の書いた土着的でモノクロームな風景を描いた詞を受け継いだ曲も、「船頭小唄」(あるいは「天然の美」)のメロディを受け継いだ曲も生まれていないように思います。
「天然」といえば、僕のような大瀧さんのファンは反射的にこの曲が浮かんできます。『ロング・バケイション』の1曲目に収められた「君は天然色」。今でもCMで使われ続けています。なぜか、いつもイントロと曲のサワリの部分だけですが。


今だからこそ、大瀧さんに「平成枯れすすき」というべき曲を作ってほしいですね。中山晋平と古賀政男のメロディを理解し、それを踏襲した曲のかけるのは東北人である大瀧さんしかいない。

タイトルは「君は天然の美」。

詞はやはり松本隆さんに書いてもらいたいですね。松本さんは都会生まれの人だけど。今、「天然」という言葉にはあまりいいイメージがついていませんが、時代の変な手あかのついた言葉を洗い直して使うのが松本さんですから。
でも、歌は誰が歌えばいいんだろう。「ポップス”不動説”」の中では「平成枯れすすき」は吉幾三に歌われるべきだと言っていますが、今はもう無理ですね。個人的には、はっぴいえんどがもう一度だけ再結成して歌ってもらえたら最高です。

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by hinaseno | 2012-10-20 14:16 | 音楽 | Comments(3)