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by hinaseno
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カテゴリ:木山捷平( 164 )



「窓」のことを考える日々。
窓は部屋の中にいれば外を眺めるられる場所。こっそりと人の様子を眺めることも。でも、逆に外からこっそりと窓を眺めている人もいる。こっそりと眺めている姿をこっそりと見つめられていたり。
夜の電車やバスの中では窓は鏡のように反射するだけで外の様子はほとんど見れないけれど、外からは中の様子がとてもよく見える。オレンジ色に光った窓が流れて行く風景はとてもメルヘンチック。

一昨日に紹介した、村井武生のことを書いたと思われる木山捷平の「みぞれの話」という詩は、実は先日、『木山捷平全詩集』を「窓」で検索していたときにたまたま見つけたもの。検索でもときどきは「たまたま」が起こります。改めてその詩を。

 みぞれの話

渋谷の松友館の二階で
僕ははじめて君に逢つた。

君は立つて窓をあけた。
窓の向うに黒い屋根があつて、
屋根の上で白い鳩があそんでゐた。
ヨチヨチと歩きながら――。
ホロホロと鳴きながら――。

屋根の向うに欅の古木が見えてゐた。
古木は新芽をふいてゐた。
新芽は風になびいてゐた。

さて、君は
ドテンと部屋のまん中に坐つて
濃い番茶を僕にすすめてくれながら
金沢に降るみぞれの話をきかせてくれた。

「窓」で検索したらもう一つ、「くしやみ」というとてもいい詩がありました。僕が最も好きな大正14年に書かれた詩。当時木山さんは村井武生と同じ東京の雑司ヶ谷に住んでいました。

 くしやみ

新築長屋の井戸端で
青いねるの着物を着て
若い細君がいつしんに洗濯をしてゐる。
そのかざりけのない束髪のうつくしさ
それからそのはちきれそうな肩の曲線――
井戸端の上では
欅の若葉がきらきらと朝の微風にひるがへり
どこからか子供のうたふ唱歌もきこへる。
ひさしぶりに早く目をさまし
下宿の窓からかうして煙草をふかしながら
たぶんをとこの肌着の洗濯であらう
よその若い細君をみてゐるうち
ぼくはすっかり六月の魅惑にすひつかれ
思はず大きなくしやみをだしてしまったのである。

木山さんが当時下宿していたのは二階の部屋。その二階の部屋の窓から見える(聴こえる)六月の風景のなんて素敵なこと。
朝の微風にきらきらと光を反射させながらひるがえる欅の若葉。たぶん下宿の目の前にあった小学校から聴こえて来ていたはずの子供たちの唱歌を歌う声。そして井戸端で洗濯をしている若い奥さん。

何年か後の、下ネタが大好きなちょっとスケベなおっちゃんの片鱗が見え隠れするものの、まだまだ純情な青年であった木山さんの姿がここにあります。
それにしてもなんて爽やかな詩なんだろう。この2年後に姫路にやって来たときに書かれた詩とはあまりにも違いすぎます。

ところで窓といえば、世田谷ピンポンズさんが先日ライブをした愛媛県の宇和島の福田百貨店で撮った素敵な写真をアップしていたのでこちらに貼っておきます。ピンポンズさんが窓から外を眺めている写真と、外から窓のそばにいるピンポンズさんをとらえた写真。
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どちらもアルバムのジャケットに使えそうな写真ですね、写真を撮られたのはおそらく輪佳さんのはず。輪佳さんの撮られたピンポンズさんの写真がまたどれもいいんですね。もちろんイラストもとってもいいけれど、輪佳さんが撮られたピンポンズさんの写真をジャケットにしてもいいのかもしれません。
そういえば、長門芳郎さんが「窓ジャケに外れなし」ということを以前おっしゃられていました。マーゴ・ガーヤンの『Take A Picture』とかティム・ハーディン2とか、バリー・マンの『Lay It All Out』とか。確かに! でした。
窓ジャケもいいかもしれない、と考えていたら、確か非売品のピンポンズさんの「ホテル稲穂」のジャケットは窓の写真だったような。歌詞の中にも窓が出てきますね。

さて、窓といえば、窓は不思議な人(?)たちがやってくる場所でもあります。「ほうきに乗った可愛い魔女」も小窓をノックします。
「こんこん、こんこん」と。
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by hinaseno | 2016-06-01 12:04 | 木山捷平 | Comments(0)

木山捷平の「小さな町」


「すれ違う」といえば、木山捷平と荷風も2年ほどの時と10kmほどの距離を置いてのすれ違いをしています。
ふと思ったのは木山さんがこのことを後に知っただろうかということ。つまり木山さんは荷風の『断腸亭日乗』を読んだかどうか。

この日のブログで紹介しているように、木山さんは荷風が父親と同じ年の生まれで、父と同じく岩渓裳川という人に漢詩を学んでいたことを知って、荷風に手紙まで書こうとしていました。作家として尊敬していたことは間違いありませんが、どこか近しい感情も抱いていたはずの存在。
木山さんが荷風とすれ違って、一言だけ声をかけられたかもしれないという(木山さんの勘違い、あるいは捏造の可能性も高い)岩渓裳川の告別式があったのは昭和18年3月31日。そのひと月半後の5月14日に矢掛、吉備真備の墓、国勝寺を訪ねています(ちなみにその3日前には三石の町を歩いています。日記には「三石下車。船坂峠の方を歩く。関川を見る。小魚がいる。うぐいす鳴く」と記載。たくさん立ち並んでいた煙突のことには触れていない)。
この2年後に荷風が岡山の総社にやってきていたことを知れば、やはり驚かずにはいられなかったはず。

話は変わって電子書籍の話。
「そんなものは消えてしまえ!」
と声を大にして言いたいところですが、iPhoneの中にいくつか入れています。ただし、それをじい〜っと読むことはありません。あくまで検索のため。
検索ツールとしてはやっぱり便利。

木山捷平の作品は現在2冊入れています。『木山捷平全詩集』と先日電子書籍化されたばかりの『酔いざめ日記』。
で、その『酔いざめ日記』で「荷風」を検索すると...

まず出てくるのが昭和15年2月28日。
日付を確認したらもちろん本を開きます。
「午後四時頃起床。昨夜永井荷風『おもかげ』読了した」と。
この日の日記の最後にはこんな言葉も。
「この夜、妻に乱暴する。萬里泣き悲しむ。妻が余のキゲンをそこなうような言動をするからだ。酔覚めて不快」
木山さん、困ったもんです。でも、荷風の『断腸亭日乗』とは違って人間くさい話がいくつもあって、それはそれで面白い。

荷風の『おもかげ』は僕もぼろぼろのものを持っています。岩波書店、昭和13年発行。木山さんが読んだのもこれのはず。
この本には「放水路」をはじめ僕の好きな随筆がいくつか収録されていますが、何よりもうれしいのは荷風の撮影した写真が24枚掲載されていること。

ところで『酔いざめ日記』を見ると、ちょうどこの時期木山さんは『昔野』(「なつかしの」と読みます)の出版に向けて、出版社の「ぐろりあそさえて」に何度も足を運んでいます。
『昔野』はぜひ手に入れたい本。特にそれに収録されている「小さな春」という作品を読んでみたくてしかたがないのだけど。「小さな...」というタイトルには心惹かれます。

もう少しこの年の木山さんの日記を読み進めると興味深い話が。それはこの昭和15年4月25日の日記に出てくる話。
木山さんは雑誌に掲載するためにいくつか原稿を書いてこの日出会った友人に渡していたようですが、その人の下宿の人間が屑屋に売ってしまったとのこと。「何故早く返してくれなかったか、ひどいことをするものだ」という木山さんの気持ちよくわかります。
その原稿のタイトルが「小さな町」と「遠景」。
木山さんが「小さな町」というタイトルの作品を書いていたとは。それから「遠景」というのは木山さんの詩の中でもとりわけ好きな作品と同じタイトル。小説だったのか、エッセイだったのかはわかりませんが、なんとももったいない話。
「小さな町」は一体どこを舞台にした作品だったんだろう。

ということですっかり話がそれてしまいました。これも電子書籍ではなく本を手に取ったからこそです。
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by hinaseno | 2016-05-20 14:11 | 木山捷平 | Comments(0)

「妹」と「いもうと」


そういえばおひさまゆうびん舎のイベントに行く前に書いていた村井武生の話が途中やめになっていました。彼の詩についてもう少しだけ触れておこうと思います。
ところで僕は木山捷平の研究本はほとんど読んでいないのですが(あんまり読む気もしない)、木山捷平と村井武生の関係はだれかが指摘しているんでしょうか。

ところで姫路のことが登場する「赤い酸漿」についてですが、あとで総社の清音読書会が作られた『木山捷平資料集』を見たら「木山捷平と姫路」の章で、この「赤い酸漿」のことも紹介されていました。作品を見る機会がなかったので、すっかり忘れていました。

さて、おひさまゆうびん舎でのイベントのある数日前に書いたこの日のブログで、木山捷平の「朝景色」が村井武生の「朝」という詩から多大な影響を受けていたことを書きましたが、まさにその「朝景色」に曲をつけたものが世田谷ピンポンズさんによって歌われるなんて想像すらしていなかった電車の中で、途中の車窓風景を眺めながら読んでいたのは、その日の朝に届いた村井武生の詩集『樹蔭の椅子』でした。
そう、村井武生の名前を知るきっかけとなった木山さんの『行列の尻っ尾』の「杉山の中の一本松」で紹介されていた詩集です。大正14年に抒情詩社から出版されたものですね。
この詩集、入手はまず不可能だと思っていましたが、ある可能性(相当に小さな可能性でした)にかけて少し努力してみたら手に入ったんですね。連絡があるまではどきどきでしたが、やはり縁があったということ。木山さんに関してはこうした縁が僕をひっぱってくれています。

『樹蔭の椅子』を読んで印象的だったのは妹のことを書いた詩が多かったこと。村井武生は父母の死後、妹とふたりで暮らす日々が続いていたようです。兄のためにいろんなことをやってくれる妹をいとおしく思う詩がどれもすばらしいんですね。
その一つの紹介します。題名はまさに「妹」。
  


 すり切らされた自分の下駄を
 黙つて直してくれる妹を眺めてゐると
 しみじみいとしさがこみ上げてくる

 父母がないために
 又一人の兄がふがひなく
 他の仕事が出来ないために
 他處の娘のやうに遊ばれもせず
 みづくろひをするひまも持たないことは
 年ごろのものにとつて
 どんなにさびしい気持ちであることか

 ぼんやり街道(おもて)をみてゐた妹は
 ふと兄のこの凝視に出あつて
 はつと鋏を持ち直したのである。

この詩を読んで、すぐに思い浮かべたのは以前にこの日のブログでも紹介した木山さんの「いもうと」という詩。体を壊して実家に戻った大正15年に書かれた詩です。詩の雰囲気や「いとほしさ(いとしさ)」という言葉などに、やはり村井武生の影響を感じずにはいられません。
  
いもうと

 窓の障子がだんだん明るんできた。
 妹はいつの間にか起き出て
 井戸端で米をといでゐる。
 そのとぎ方は幼く
 そのとぎ音は澄まない。
 さればなほさら
 この病(やみ)の身をいたはつてくれる妹のいとほしさ。
 雪はまだふつてゐるらしい
 今朝は井戸の水もつめたく
 彼女の手も赤くただれてゐよう――。

詩に多く接してきた人であれば村井武生の詩のほうを評価するだろうと思いますが、僕はやはり木山さんの詩のほうが好きです。何より木山さんの詩には季節感があって、より体に入り込んでくるような気がします。「いもうと」で描かれた冬の朝のしんとした風景と、体を壊している兄が目を覚まさないように音を立てずに家事をしている妹の姿の描写は本当に素晴らしい。

とはいいつつ、村井武生の詩は木山さんが影響を受けただけのことはあって本当にいいものが多くて、現在、彼の詩に触れる機会が全く無いという状況はあまりにも残念すぎるように思います。ぜひ、彼の詩集を出してほしいですね。

この写真は昭和9年に撮影された木山さんの家族写真。木山さんは後列の左端。このときは丸眼鏡をかけていますね。木山さんには二人の妹がいましたが、「いもうと」で描かれているのは真ん中に座っている月さん。詩を書いた当時は9歳でしたが、この写真のときには17歳。抱いているのは自分の子どもでしょうか。
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考えてみたら、僕の好きな詩人は妹思いの人が多いようです。宮沢賢治、そして松本隆さん。
その松本さんがはっぴいえんどの頃に詞を書いた曲に「朝」というものがあります。今朝この曲を聴きながらふと思ったのは、この詞の「君」というのはもしかしたら松本さんの妹のことではないかと。
歌詞を貼っておきます。歌詞カードに書かれているのは改行がすごいので、つい先日新版が出た松本隆さんの『風のくわるてつと』に収められている形で。これも結構改行がすごいけど。
  


 朝がカーテンの隙間から洩れ
 横たわる君を優しく包む 
 白い壁に光は遊び なんて眠りはきみを綺麗にするんだ 
 今ぼくのなかを朝が通りすぎる 
 顔を乖(そむ)けひとりで生きて来た 
 何も見なかった何も聞かなかったそんな今迄が 
 昔のような気がする 
 もう起きてるの眠そうな声 
 眼を薄くあけて微笑みかける 
 何も言わずに息を吸い込む僕は暖い 
 窓の外は冬

曲をかいたのは大瀧さん。これもたぶん詞先のはずですが、大瀧さんはちょっぴり歌詞をかえて歌っています。
この音源の27:11から聴けます。


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by hinaseno | 2016-03-26 12:24 | 木山捷平 | Comments(0)

すっかり「赤い酸漿」から話がそれてしまいました。
木山さんが姫路の荒川小学校に勤めていた昭和2年にはいろんな形で何度も利用したはずの英賀保駅でしたが、残念ながら「赤い酸漿」では英賀保駅に触れられることもなく舞台は上郡からいきなり姫路駅に。
姫路駅に到着してバッグの持主の女性の住所である「姫路市××町十五番地」の家があるはずの場所に行くことになるかと思いきや、その期待はあっさりと裏切られることになりました。小説的にも、多少エロティックな期待を抱いていた人の気持ちも同時に裏切るようなことになる結末。結局、姫路市内で出て来た場所は姫路駅の待合室だけ。

とまあ、作品的には期待を裏切られることになりましたが、この作品をきっかけにして静太の手紙を読みかえしているうちにいろんな発見がありました。
興味深かったのは夏休みの帰省と『野人』の発行に関すること、そしてやはり「この土地でたつた一人の友」大西重利のこと。

『野人』は第一輯を昭和2年7月1日に発行しました。印刷は6月20日。木山さんとしてはこれを毎月発行するつもりでいました。ただし第一輯のあとがきでも書いているように「経済のゆるすかぎり」。

第二輯を発行したのは8月1日。印刷は7月20日。これは予定通り。
木山さんは8月5日に帰省。おそらく印刷が上がって何人かの人たちへの発送作業を終えた後に帰省したんですね。

問題だったのは第三輯。
これも予定通り8月20日に印刷されて9月1日に発行されています。でも、8月20日には木山さんはまだ帰省中。姫路にはいません。
木山さんとしてはできれば第三輯を印刷所に届ける8月20日までには姫路に戻りたかったはず。ところがどうやらそれができなくなったようです。

父静太の日記を読むと8月22日にこんなことが書かれていました。

讃岐の琴平参詣。捷平が家に居る時、この間にと思ひつきであつた。余は二十九年ぶり、妻は初回。これまでは養父母ありて、妻は家を空けるられず、余も一夜外泊もせざること十数年になる程だから夫婦連れの旅行などは思ひもよらなかつた。今年は末の子が小学二年となるから、姉さん、兄さんが家に居るから大丈夫とつたからだ。

ということで、木山さんが姫路に戻ろうかなと考えていた頃に突然、静太は奥さんと琴平(金比羅宮)に行きたいと言い出したようです。当日突然行くことを決めたわけでもないはずなので、おそらくは数日前に決めて木山さんに告げたはず。

困った木山さん。もちろん頼る人はひとりしかいません。
大西重利ですね。彼に急遽手紙を書いて事情を説明して、とりあえず第三輯の原稿を印刷所に持って行ってもらうように頼んだはず。手紙には第三輯に収録してもらう詩を書いた原稿を添えて。

第一輯から第五輯までの『野人』の中で、この第三輯だけがあとがきが書かれていなくて不思議に思っていたのですが、その理由はこのあたりの事情によるものだったようです。
たぶんこのときには印刷代も大西重利に立て替えてもらったはず。とにかく大西重利には世話になりっぱなしでした。

最後にもうひとつ発見した興味深いこと。
静太が姫路にやって来た後、10月27日に木山さんに書いた手紙の冒頭の言葉。

前略、二十七日夜のお手紙、今日石井が配達してくれた。先日の梨果友人へ分配されたそうだが、あれは虫入り果であつたから、虫入りは外面から窺ひ知れぬ大きなホラがあるものなれば、貰つたもので顔をしかめたかも知れぬ。

この梨はおそらく静太が姫路に来るときに、足を痛めながら笠岡駅で買ったものですね。木山さんはこの梨を友人にあげ、そのことを父親への手紙に書いたようです。
この友人が大西重利だったことはいうまでもありません。
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by hinaseno | 2016-03-25 12:00 | 木山捷平 | Comments(0)

木山捷平の父静太の手紙や日記を読むと、木山さんが昭和2年の10月初旬に姫路市内の千代田町に引っ越すまで、二度ほど帰省していることがわかります。このとき乗り降りしたのは最寄りの駅である英賀保駅のはず。
まずは6月11日の日記。

 捷平帰る。鰆の季節に一度帰れと言ひ遣りたるに今夜帰りたり。然し今日でよかつた。これまでは鰆が少くて高かつた。病人も皆よくなつて一家打揃つて語ることが出来た。
 五時に姫路を出発し、ここへ十時に帰着せり。

翌6月12日の日記にはこんな記述も。

 捷平の健康は大分よい。これならば心配ないようだ。顔色もよい肥へても居る。

昭和2年6月11日は土曜日。4月に姫路に赴任してからちょうど2ヵ月後の帰省。「鰆の季節に一度帰れ」と伝えていて帰ってきたということは木山さんも僕と同じように鰆が好きだったからなんだろうかなと。
ただ、この時の帰省は鰆のためだけではなかったはず。木山さんも「鰆の季節」にしなければならないことがわかっていました。
それは田植え。
田舎にある田圃の田植えは長男である木山さんが絶対に手伝わなければならない仕事でした。この仕事を元気よくやってもらったからこその「捷平の健康は大分よい。これならば心配ないようだ」との言葉のはず。

木山さんが昭和2年に書いた詩に「腰巻」というのがあります(第一詩集『野』に収録)。この詩はこの帰省のときにした田植えの経験をもとにして書いたにちがいありません。
  腰巻

 田植が来た。
 オカア!
 腰巻を一つ買うておくれ。
 七つも八つも
 つぎのあたつてゐるのをしてゐては
 若い衆に見られた時
 わしやはづかしいもの。
 のう、オカア!
 オトツツアンにたのんで
 腰巻を一つ買うてもらつておくれ。

木山さんが姫路に戻った後に静太が出した7月9日の手紙には田植えのことが少し書かれています。

田植は小川のほとり田は六月二十九日日曜日に植ゑた

きっと木山さんが帰省したときに田植えをしたのとは別の場所にある田圃の田植えをしたことの報告だろうと思います。

次に帰省したのは夏休み。7月24日の手紙にはこんなことが書かれています。

 十五日のお手紙十六日着、疝気の悩み全快の由安心、もう僅かの日子で休暇なれば帰宅を待ちつつあり。

この手紙の後、次の手紙が書かれるのは8月27日。もちろんその間、木山さんは実家に帰省していました。
8月25日の日記にはこう記されています。

 捷平行く。五日に帰つたのだから二十日間休んだのであつた。顔色がよくなり肥えたやうに見えた。

ということで、木山さんは8月5日に帰省して、25日に姫路に戻ったことがわかります。この帰省のときもやはりいろいろと農作業を手伝ったはずで、やはり昭和2年に書かれた「百姓の子」という詩はこの時の経験をもとにして書かれたのだろうと思います(「百姓の子」は『木山捷平全詩集』では昭和4年の作品と記載されていますが、昭和2年11月1日発行の『野人』第三輯に収録されているので、昭和4年というのはまちがい)。
 百姓の子

 日はてりながら時雨がすぎる。
 田の畔に立つて
 幼な子がないてゐる。
 ――あの子の母は
   どこへ行つたのだらうか?――
 みにくいなりの子がひとり
 収穫の野中でないてゐる。

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by hinaseno | 2016-03-24 14:42 | 木山捷平 | Comments(0)

姫路にやって来た翌日の10月20日に父静太が木山捷平に書いた手紙。ここにはまぎれもなくあの昭和2年の木山さんが生活していた姫路の風景があります。
冒頭に出てくるのは山陽線の汽車の中から見た荒川の風景。
荒川小学校、英賀保、町坪、飾磨…。
そして慰問を終えた後に向かったのは木山さんが下宿していた千代田町の家。

 昨日行きしなの車窓、運動会はよく見えた。が、何をして居るのかそれは観えるものではない。学校が見える間はよく見えたので町の坪(あたり?)は見えなんだ。英賀保の小学校にも高く網を張つたり旗が立つたりして居た。英賀保は十八日が祭礼だつたと車中で聴いた。軍隊には野砲兵第二中隊山部兼吉、第七中隊有本一二の二人が居るのでそれを慰問と称して出かけたのだ。折善く直に逢へた。兼吉君は前夜行軍に英賀保辺に出て徹夜した、一二君も同様徹夜で飾磨線の踏切辺で涼んだと話して居た。随分とキタヘルものらしい。
 余は胃腸が変なのと、風邪按排がよくないのと、も一つ朝笠岡駅で失敗、僅かの時間を利用して梨を買はんと柵を乗り越へて飛んだら足を痛めた。尾坂の和平君(接骨院)に行く必要を生じた。笠岡で八時二十分経由、村へおしまひの前の列車で着いた。
 駅前交番では警察の三十歳あまりのが、職務以外の事をさせたとブリブリ毒づいた。『おツさんももうこんなことをしてアいけんぞ』おツさん おツさんと浴びせかけ『おツさんの名は何といふんだ』などと来た。言ひなり放題に言はしておいた。何のこいつの如き青巡査めがと思ひ思ひ聞くんだから腹は立たなんだ。
そなたに頼んでおく、一度山部兼吉君に面会に出ねばならぬ。同じ部落の同年輩のもので同じ姫路に住んで居て、軍人となつとるものを一度訪問せぬといふわけはない。一度是非行つてくれ。駅から兵営手前三丁のところまで自動車賃二十五銭、野砲兵大隊の正門前に一人の歩哨が立つてる、面会に来たのだと言つて門内に入るのだ。門を入ると、すぐ兵が十人計り集つとるところで面会に来た何中隊の何某に逢はしてくれと申込むのだ。例の室で待たせる。手土産に煙草か菓子を買つて行くがよい。
 自分共昨日行つたのは面会ではなくて村を代表して慰問に行つたのだから、慰問される方は朝から待つとるので、尚更早くなるのだ。
 一、午後がよろしい、午前中は兵士ケイコをしとるから。
 一、面会はあつさりと切り上げるがよい。
 一、兼吉君は、来月末に除隊になるんだからもう早く行つてやるがよい、是非行かねばならぬ。已に遅れた方だ。
 昨日は忙しくて四時十五分の列車に乗り、弁当を買ひ、荒川あたりで食つたのだ。それまで何一つ口に入れなんだ。茶一杯飲まなんだ。姫路の弁当だけで足らなんだ。上郡で鮎ずしを買つて食つた。鮎でなくてニセモノだ、うまくなかつた。上郡の鮎鮓、三石の弁当、これが兵庫県西端、岡山県の東端の背中合せの二大名物として珍とするに足るのであらう。
 久保田邸は冬暖かそうで安心した。都会から田舎の学校へ通ふことは便宜なるを以つての故であつて、これも矛盾の事なることを知つて置くべきである。マツチ工場の音響、サホドでもないが耳には障る。これも都会のお蔭だ。姫路で他の都市にない特長のものがないかと聞かれたら、大いにある。自動車のよくゆすること、交番の巡査がよくドナルこと。此の二つで十分だ。姫路の誇りとすべしだ。二十日朝認む

慰問が予定よりも早く終わったので、やはり静太は木山さんが下宿していた家(久保田邸)に向かいます。「久保田邸は冬暖かそうで安心した」というところを見ると、やはり部屋まで入って行って日当りを確認したのかもしれません。
興味深いのはその後で木山さんの詩にも出てくるマッチ工場のことが書かれていること。たぶん木山さんが手紙でマッチ工場の音がうるさいとか書いていたんでしょうね。
手紙の最後には兵庫の端の上郡と岡山の端の三石も出てきます。

厳しい父親とはいいつつ、いたるところにやっぱり木山さんのお父さんだなと思わせる部分がありますね。駅で梨を買うために柵を乗り越えたら足をけがしたというくだりは木山さんの小説にも出てくるような話。
このときに静太が買った梨については後日興味深い話が出てきます。
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by hinaseno | 2016-03-23 14:53 | 木山捷平 | Comments(0)

昭和2年10月19日、木山捷平の父、静太は新山村の村民を代表する議員のひとりとして、姫路の軍隊(野砲連隊)に入った人達の慰問のために、はるばる笠岡からやってきます。新山から笠岡へは軽便、そして笠岡から姫路へはもちろん山陽線に乗って。
ちなみにこの姫路の野砲連隊には木山さんの第一詩集『野』の序文を書いた一人で、木山さんの姫路における”昭和3年”の友、坂本遼がいました。

新山村で慰問団を姫路の軍隊に派遣するのが決まったのは昭和2年9月の末。ただ、具体的な日にちはなかなか決まらなかったようです。
木山さんは10月の初め頃に荒川小学校近くの町坪から姫路市内の千代田町に下宿を変えています。千代田町に移ったのはもちろん『野人』の発行のことを考えてのこと。
『野人』を印刷していた大黒印刷は姫路駅のすぐ近くの姫路市南町にあったので、印刷したものを置いていたり発送したりするのは姫路駅に近い大西重利の南畝町288の家でやっていましたが(9月1日発行の第三輯までは発行所の住所は南畝町288)、やはりいろいろと頼ってばかりはいられなくなったんでしょうね。自分でやれることはやらなければということで、荒川小学校からは少し遠いけれど、姫路駅に近い場所に移ろうとしていた矢先に父親がやってくるということになったんですね。
木山さん、きっと気が気ではなかったはず。

結局、静太らの一行が姫路に来る日が決まったのが10月15日。この日静太が出した手紙には19日に行くことが決まったことの連絡の後に、こんな言葉が出てきます。

千代田とは下宿なりや、素人宿なるや、駅より遠きや。

この前に静太が木山さんに手紙を書いたのが10月3日なので、木山さんはおそらく10月10日前後に千代田町に引越しして、それを父親に伝えたようです。

ところで、この頃は木山さんはまさに『野人』の第四輯の発行に向けて準備していた最中。
詩人としての道は断念したと思っている父親に、そんなものを見られるわけにはいきません。慰問団の一員として自由な行動はとれないとは思いつつ、でも、姫路駅に近い千代田町の下宿を訪ねて来る可能性は十分にあります。
現に姫路に来る前日の10月18日の午後1時に書いた手紙には(着いたのは静太が姫路に来た後のはず)こんなことが書かれていました。

明日は久保田家へちょっと敬意を表したいが、とてもその暇はないであらうと思つて、その計画はせぬ。土産に梨果でも持つて行けばよい土産であるけれども、もうその用意はせぬことと決心した。

時間があれば千代田町の下宿先である久保田家へ訪ねて来ることを匂わせる言葉を書いています。
この手紙を読まなくとも、あの父親のことだから木山さんとしては絶対に下宿先にやってくるとふんでいたはず。

そしてついにその日がやってきます。
静太はいくつかの予定された行事をこなした後で、やはり木山さんの下宿していた千代田町の家を訪ねています。
静太が姫路に来た昭和2年10月19日は水曜日。この日荒川小学校は運動会。木山さんはもちろん学校に行っていました。
自分がいないときに部屋に入られて、詩を書いていたノートなんか絶対に見られてはいけない。こっそりと発行していた『野人』を発見されるなんてもってのほか。
ということで前日までに、詩を書いていたことに関わるようなものは、すべてどこかに隠していたはず。頼るべきはやはり「たつた一人の友」大西重利しかいませんでした。

ちなみに『野人』の第四輯の印刷は昭和2年10月25日。発行は11月1日。
やはりこの時も、いろんな面倒なことを大西重利に頼んでいたでしょうね。
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by hinaseno | 2016-03-22 12:36 | 木山捷平 | Comments(0)

今日はたぶん大瀧さんのニューアルバム『DEBUT AGAIN』が届くはず。心ウキウキワクワク、
と書きはじめて、この文章を何度かの中断をはさみながらようやく書き終えた頃に、先程『DEBUT AGAIN』届きました。開封するのはこれを書き終えてからにします。
でも、本と同じく、こういうのはお店(好きなお店)で買うべきですね。
昨日はずっと「夢で逢えたら」のチェンバロ&ストリングスバージョンを聴いていましたが、『DEBUT AGAIN』に収録されているはずの「夢で逢えたら」はそのチェンバロ&ストリングスバージョンなんでしょうか。そうだったら最高なのに。
で、今朝はなんとなくチェンバロを聴きたくなって、取り出したのはグスタフ・レオンハルトの『フランス・クラヴサン 音楽の精華』。
1曲目はラモーの「やさしい訴え」。
小川洋子さんの小説の中でいちばん好きな『やさしい訴え』は、この曲からとっています。主人公はチェンバロを作る人。
この文庫本、表紙の山本容子さんの絵も素晴らしいんですね。で、解説を書かれているのがピアニストの青柳いづみこさん。この人があの阿佐ヶ谷会のメンバーの一人で、木山捷平とも親交のあった青柳瑞穂の娘さんだと知ったのは木山捷平のことを調べるようになってからのこと。縁というのは不思議なものです。
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さて、木山捷平の「赤い酸漿」の話に。
その前に、ちょっと見つけたこのページ。播磨にある山陽線の駅舎を紹介しています。あまり気がつきませんでしたが、姫路駅以外は結構、昔ながらの駅舎が残っているんですね。上郡駅、曽根駅、そして英賀保駅...。
この中で昭和2年の木山さんにとっていちばん身近だったのは英賀保駅でした。そして僕にとっても、一番の縁があったのがこの英賀保駅。
僕の今までの人生の中で最も悲しかった、たぶん一生忘れることのできない出来事もこの英賀保駅で起こりました。もちろん木山捷平なんて全く知らなかったときのこと。

木山さんは僕の確認した限り、これまで一度も英賀保駅に触れた話を書いていません。でも、昭和2年に荒川小学校に赴任してきたときに、最初に住んでいた町坪の家からは英賀保駅は1kmほどの最寄りの駅だったので、木山さんは何度もこの英賀保駅に行っていました。岡山の実家からこの駅に降りたこともあれば、この駅から岡山に向かったことも何度も。
昭和2年の木山さんのことを知る一番の資料は『木山捷平 父の手紙』(三茶書房)に収められた木山さんの父静太から木山さんに送られた手紙と、静太の日記。木山さんが町坪に住んでいたのも、この日記でわかったこと。英賀保駅のことも出てきます。いくつか紹介しておきます。

4月12日の日記。
 捷平赴任す。十一時姫路に一泊。宿は学校より三町ばかりの所に見つかつた(荒川村坪川口方)。


7月9日の手紙。
 枇杷小量、英賀保駅止メ小荷物にて送れり。(中略)送つたのは、一番味の悪いものであるが、時がそうなつたので我慢し給へ。八日の晩、鳳が駆けつかたが七時の列車に間に合つたかどうか、九日に配達されるならん。

木山さんはこの日送られてきた荷物を取りに英賀保駅へ行ったはず。

さて、昭和2年の静太の手紙で興味深いのは、この年の秋(まさにあの”秋”)に静太が姫路を訪ねていること。
訪ねたのは10月19日。
その日のことは姫路から戻った翌日の手紙に詳しく記されています。
それはまた次回に。
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by hinaseno | 2016-03-21 14:16 | 木山捷平 | Comments(0)

木山捷平の姫路を舞台とした小説としては、この日とその翌日のブログで紹介した「夢前川」という小説があります。昭和35年の『サンデー毎日』に掲載され、後に『斜里の白雪』という短編集に収録されたもの。その日のブログでは「木山さんが姫路の地名を題材にした唯一の小説」と紹介しています。ただし、姫路を舞台にしているとはいえ、実際には姫路は通過しているだけ。しかもそれは夢の中の話。
この小説に登場するのは姫路の東を流れている加古川と西を流れている夢前川、それから夢の中の主人公の家があるのが岡山との県境にある上郡(かみごおり)。そして夢を見た女性が生まれたのが姫路の南にある家島。
夢の中の主人公は加古川から夢前川まで、おそらくは今の国道2号線の通る旧山陽道を通ったはず。途中には彼の昭和2年の友人、大西重利の実家のあった現高砂市の曽根(そういえば曽根を初めて訪れた時も車ではなく山陽線に乗って行きました)や、かつて自身が詩に書いた船場川、そしてもちろん姫路城などもあるにもかかわらず、姫路市内の場所は一切出てこないばかりか、姫路という地名すら出てきません。
登場するのは端だけ。
端といえば『行列の尻っ尾』に収められた「北海道と私」という随筆の最後にこんな言葉がありました。

私は最高とかてっぺんとかいうものは性に合わないが、ハシという場所には妙にひかれるところがあるのである。


木山さんが「端」好きであることは知っていますが、「夢前川」の肝腎な部分の抜け具合には驚いてしまいました。それほどに姫路にはいい思い出がないの、と思わずにはいられませんでした。

さて、「夢前川」の夢の中の主人公の住んでいる場所と同じ、兵庫県の「端」の上郡が小説の冒頭で登場した「赤い酸漿」のこと。
「赤い酸漿」は『笑の泉』という大衆雑誌に掲載されました。タイトルから推測されるように文芸雑誌とは異なり、ユーモアに富んだ、くだけた内容の作品が収録されていたようです。
「赤い酸漿」が掲載されたのは昭和30年9月号。『酔いざめ日記』を見ると、昭和30年6月29日の日記に「『笑の泉』に行き稿料を受けとる。四千五百六十八円」とあります。おそらく「赤い酸漿」の原稿料のことのはず。

木山さんの『暢気な電報』は、掲載した雑誌社の要望があったのだろうとは思いますが、下ネタ話の作品が多くて、正直、やや「・・・」の状態で読み続けていました。未刊行の作品に関しては、僕としてはやっぱり戦前の作品の方が惹かれるものが多いなと。

「赤い酸漿」が示しているものは女性の使用済みの生理用品。
といっても、木山さんは昔から糞尿を含めた人間の生理を題材にした作品をいっぱい書いています。僕の好きな大正14年から昭和2年頃の詩は糞尿だらけ。女性の生理を題材にした作品も、昭和2年に書かれて『野人』に掲載された「赤い糞」(後に「月経」と改題)など、いくつかあります。
でも、以前紹介した「銀線くらべの巻」のように、昔の詩ではイノセントにあっけらかんと牧歌的に描かれていた糞尿ネタが、昭和30年以降の作品では、ときにはエロティックに、ときには単なる下ネタとして使われていて、昔の作品のファンである僕としてはやはりかなり「・・・」状態になってしまいます。
まあ、でもそういう要望があって(当時は超貧乏だったので、どんな要望も引き受けていたはず)、また、それが読者にも受けていたので書いていたんだろうとは思いますが(本人もそういうのを書くのが嫌いではないだろうし)...。

というわけで「赤い酸漿」も、かなりエロティックな予感をにじませながら、物語の主人公はバッグを交換するために上郡から山陽線に乗って姫路に向かいます。
途中には木山さんがお父さんからの仕送りを何度も取りに行った英賀保駅もあります。
さて、いったいどんな場所が出てくるのか、どきどきわくわくしながらページをめくりました。
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by hinaseno | 2016-03-18 12:14 | 木山捷平 | Comments(0)

おひさまゆうびん舎5周年のイベント(イベントの正式名は「おひさま ふふふ フェスティバル」)の翌日、世田谷ピンポンズさんがこの日初披露した新曲の題名を紹介されていました。最後に「私のワルツ」という曲。
えっ?
「私のワルツ」という曲が紹介されたことも、ワルツの曲が歌われたことも記憶に全くありません。
どうやら僕も「朝景色」のサプライズで興奮してしまって記憶が飛んでしまった部分があるようです。
もともとワルツは好きなので、ピンポンズさんがワルツの曲を作ってくれたらとか、ボサノヴァっぽい曲にもチャレンジしてほしいなと思っていただけに、聴き逃すはずはないのだけど。また改めて聴くチャンスがあるでしょうか。

ところでいつもはおひさまへは車で行くのですが、この日は電車で行きました。目的はその車窓風景を楽しむために。
一番はやはり小津安二郎の『早春』の舞台である三石の町を電車から見るためです(映画のラストシーンである、三石の駅から東に向かう電車に乗るということも)。映画に映ったあの煙突はまだどうにか残っています。
このブログでは、小津安二郎の映画のなかでも最も好きな『早春』の舞台である三石のロケ地を調べることもやっていたので、ピンポンズさんが初披露した曲の題名が「早春」ときいて、こちらも超うれしいサプライズでした。「朝景色」と「早春」がふたつも続くと冷静さを失ってしまいます。

三石の町を過ぎるとすぐにトンネル。 内田百閒の『阿房列車』にも登場する長いトンネルですね。そこを抜けると上郡。このあたりの電車から見える風景も大好きです。
そして姫路の一つ手前の駅が英賀保。駅を出て間もなく左手に木山さんが昭和2年に勤めていた荒川小学校がちらりと見えます。荒川小学校に向かう道の踏切の反対側の線路沿いに木山さんが姫路に来たときに最初に下宿していた家がありました。
で、電車は姫路駅に入る直前で、たぶん初めて見た人は何だろうと思ってしまうモノレールの路線の跡が見えてきます。それに沿うように流れているのが船場川。木山さんが二度目に住んでいた家があったあたりは電車からでも眺めることができます。そして線路のすぐ南側は木山さんが姫路で発行していた『野人』の発行所、つまり大西重利が住んでいた家があった南畝町。姫路駅から歩いてほんの数分の場所です。

さて、イベントの後、電車で家に戻った夜、毎晩読んでいる『暢気な電報』の次の短篇「赤い酸漿」を読んでいたら、冒頭こんな一節が。

「この間、一郎君は、九州へ帰省の途中山陽線の上郡という駅で途中下車しようと、網棚を見上げると、たしかに自分がさっき置いた筈のボストン・バッグが見えなくなっているのに気がついた」

なんと上郡が。
このあと一郎君は似たようなバッグが網棚に置かれていたので、彼は仕方がないのでそれを持って上郡の駅に降ります。おそらくは自分のと間違えて持って降りたのだろうと。で、彼はおそるおそるそのボストン・バッグを開きます。その中には「赤い酸漿」のタイトルにつながる物。それをかくすように置かれていた一冊の文庫本の中には一枚の葉書。その葉書の表に書かれていた住所は...。
姫路市××町十五番地

木山さんが姫路を舞台にした小説を書いていたとはびっくりでした。

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by hinaseno | 2016-03-16 11:15 | 木山捷平 | Comments(0)