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by hinaseno
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カテゴリ:木山捷平( 168 )



いろいろとバタバタしている中でも、常に「ガンバラナイ生き方」を考えているので適当に息抜きはしていました。基本的にはちょこっとでも本屋に立ち寄ることが多いですが、先日は久しぶりに無印良品に行きました。

アイリッシュ系の音楽がかかっているのは昔のまま。アイリッシュ系の音楽ってやっぱりいいですね。昔、無印が編集したCDを買ったんだけど、どこにいったんだろう。


ちょっと驚いたのは本をたくさん置いていたこと。無印が出した本もあれば、そうでない本も。いろんなジャンルの本がありましたが、基本的にはいろんな生活スタイルを提示しているんでしょうね。でも、そんな中に関口良雄さんの『昔日の客』(夏葉社)があったのにはびっくり。本を選んだ人、エラい! 島田さん、営業に来たのかな。

そんな本の中で見つけたのが無印が「人と物」シリーズとして出している『小津安二郎』。正直、あんまり期待せずに中をめくってみたんですが、これがなかなかいいんですね。

小津のいろいろな言葉とともに初めて見るような写真も掲載されています。佐田啓二の長女の、つまり中井貴一の姉の中井貴惠宛てのはがきの写真にはびっくり。宛名は「なかいきえさま」とひらがなで書いています。で、はがきの下半分には何人かの人の絵が描かれてあって(小津が描いたんだろうか)、右下に描かれた男の子のそばには「きいちくん」との文字。


さて、無印で買ったもう一つのものが温度計。実はこれを探していたんですね。最近、岡崎武志さんのブログで室温と湿度を書いている日が続いていたので、自分も持っておきたくなったんです。影響受けやすい。

デジタル表示にしようかと思ったけど、アナログ人間なので針で読み取ることにしました。ブナ材でつくられた外枠もいい感じだったので。

ちなみに現在12時ごろの室温は32℃、湿度62%。写真は前日撮ったものです。

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岡崎さんといえば、待望の『人生散歩術』が単行本になりました。ウェブ上で連載されていて、このブログでも確か紹介したはず。

「こんなガンバラナイ生き方もある」という副題のもと、井伏鱒二、高田渡、吉田健一、木山捷平、田村隆一、古今亭志ん生、そして佐野洋子を取り上げています。佐野洋子は単行本化するにあたってひとりくらいは女性をということで追加したようです。

久しぶりに読みながら、かなり加筆訂正されている気がしたのでウェブ上にあったものと比べてみようと思ったら、ほぼ全部削除されていました。プリントアウトしておけばよかった。


昨日までに木山捷平の章まで読みましたが、やはり木山捷平がいちばん面白いですね。

このシリーズの裏テーマが「脱力文学の系譜」ということだったようで、「脱力」でいちばん最初にうかんだのが木山さんだったんですね。

ということで木山さんのところは何度も笑わせてもらいました。木山さんの章もかなり加筆されているように思いますが、最後はウェブ上にあったものと同じ。

話は木山さんの作品を国語教材として使うことができるかということ。岡崎さんに言わせれば「目的地」のない木山作品を十代に教えることは非常に難しいというか、教材として教えようがない内容のものだろうと。まあ、僕もそう思います。

でもこのあとの最後のオチがいいんですね。


だからこそ木山捷平はいいのだ、という点については解説不要であろう。怒りのために上げたこぶしを、力なく下ろすためには、木山捷平を読むことだ。


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by hinaseno | 2017-08-06 12:50 | 木山捷平 | Comments(0)

昨日、木山さんの名前が載っているこの名簿を見て思い出したことがありました。

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3年ほど前のことになりますが、木山さんが荒川小学校にいた時期に職員だった人のことをいろいろと調べたんですね。基本的にはネットでの検索。名前と「姫路」で入力したら何人かはヒットしました。ただし同姓同名の可能性もあって、結論的に言えばこれっていう人は見つかりませんでした。

でも、ただ一人、気になった人がいたんですね。木山捷平の2つ右に名前が載っている中村治三という人。木山さんと同期で荒川小学校に来ていますが、木山さんとは違って10年間荒川小学校に勤務しています。

ということもあってか『荒川小学校百年誌』を見ると、昭和初期の卒業生の何人かは中村先生の思い出を書いています。かなり個性的な先生だったようです。


さて、「中村治三」「姫路」で検索したときにヒットしたのがこの『国宝 姫路城』という本でした。

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姫路城のガイドブックで、姫路城のいろいろな場所を撮った写真が掲載されていて、最後に「姫路城物語」という文章を中村治三という人が書いているんですね。

そして本の編者も中村治三。

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とりあえず中村さんのプロフィールのようなものが載っていればと思って本を取り寄せたんですが、残念ながらプロフィールどころか、中村さんの肩書きもありません。本の出版年すらわからない。発行所に電話したらつながったんですが、この本を出版した当時の人はだれもおらず、本に関して詳しいことは何もわからないとのことでした。


というわけで、本に関しても中村治三という人についてもそれっきりになっていたのですが、昨日、久しぶりにこの人の名前を見て、もしやと思って木山捷平の『酔いざめ日記』を調べたら、なんとこの中村治三という名前があったんですね。しかも姫路の話の中に。

書かれていたのは昭和36年5月14日の日記。


 昨夜八時四五分東京発急行安芸、寝台にのり今朝八時四十六分姫路着。
 白鷺中学校体育館に行く。(バス坂本下車)元三九連隊旧四六部隊跡に出来た校舎という。
 大正十二年生の会。元賀陽宮あとが市民寮となっていた。二十人ばかり集まった。
 御幸通り伊沢旅館に五人で泊った。翌日、中村治三君の案内で姫路城見学。書写山、手柄山にのぼった。富士製鉄見学した。この夜、福田旅館泊り。会計1500円。

白鷺中学校というのはおひさまゆうびん舎のすぐ近くですね。「坂本」で下車となっていますが、これは「坂元」の間違い。

「大正十二年生の会」ということなので、どうやら姫路師範学校のときの同窓会があったようです。

で、「翌日、中村治三君の案内で姫路城見学」。「氏」ではなく「君」となっていることから、この中村治三はきっと荒川小学校のときの同期の人のはず。何らかの形で連絡を取り合っていたんでしょうか。

で、その中村さんの案内で姫路城見学。とすると、中村さんは姫路城に詳しいことが考えられます。つまり、『国宝 姫路城』の編者と同一人物の可能性が極めて高い。つながりましたね。


それはさておき「御幸通り」とか「手柄山」とか、馴染み深い場所が出てきてなんともうれしいですね。


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by hinaseno | 2017-06-26 15:00 | 木山捷平 | Comments(0)

『荒川小学校百年史』


東京旅行と、それに関連した話もようやく終わり。長い話を書き終えて、そういえば、とつい先日思い出したことを。


東京はゴールデン・ウィークの最終日に行ったんですが、ゴールデン・ウィークの最初に行ったのが姫路のおひさまゆうびん舎でした。そこで益田ミリさんの『今日の人生』と山高登さんの『東京の編集者』を買って、それから『今日の人生』について語り合う会をしたんですね。

その日買ったりもらったりしたものを入れたかばんが『今日の人生』と『東京の編集者』だけ取り出してそのままになっていることについ先日気がついて取り出してみたら、あっと思うものが。

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『荒川小学校百年史』。

おひさまに行く前にいつもちょこっと立ち寄る、おひさまのすぐ近くにある古書店で見つけたもの。すっかり忘れていました。

この本には木山捷平の名前が載っているんですね。もちろん「旧職員」のページ。おひさまにいた人にも見せてあげればよかった。

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「木山捷平 昭和2・4~3・3」と記されています。

これを図書館で初めて見つけたときの感動はいまだに忘れない。ただ「木山捷平」の名前が載っていたからではなく、”あの”荒川小学校のものだったから。

大瀧さんにとっての成瀬研究にはいくつもの「たまたま」があったように、僕の木山捷平研究にもいくつもの「たまたま」があったわけですが、とりわけ大きな「たまたま」が荒川小学校でした。

改めて『荒川小学校百年史』をじっくりと見ていたら知っている名前が数十名。

気がつかなかった。彼らのうちでだれかひとりでも、人生のどこかで「木山捷平」に気づく日がやってくるんだろうかと考えてしまいました。


さて、昨夜はかなり強い雨が降っていましたが、今朝は雨があがっています。でも、日は差してこないかな。しばらくは梅雨らしい鬱陶しい日が続きそう。というわけで久しぶりに木山捷平の詩を。タイトルは「雨あがりの朝」。


 雨あがりの朝――
 しめりのいい校庭に朝日がさして
 ひろびろと広い校庭よ
 女の子がひとり
 はや学校にやつて来て
 ひとりでまりをけつて遊んでゐる。
 白い新しいまりを追ひかけ
 追ひかけてはけつて
 ひとりでかけまはつて遊んでゐる。
 さくらの若葉がきらきらと朝の微風にかがやいて――
 ひろびろと広い校庭の朝よ。


姫路の荒川小学校にやってくる2年前の大正14年、東京の雑司が谷に住んでいたときに書いたもの。下宿していた家の目の前には小学校があったので、その風景を描いたんでしょうね。

木山さんの詩に出てくる子供は集団よりも個(ひとり)の場合がほとんど。ただ、「個」といっても、木山さんはそこにさびしさではなく自由や希望を見ているんですね。こんなちょっとした詩の中にも木山さんの教育観が出ています。でも、その教育観は当時の(今もそうなりつつあるけど)教育の現場には合わないことはいうまでもありません。悩み、苦しんでいたでしょうね。


ところで益田ミリさんの『今日の人生』の予約特典としていただいたミリさん撮影のこの写真。

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船場川のはるか向こうに見える山の麓の赤丸のあたりに木山さんがいた荒川小学校があります。


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by hinaseno | 2017-06-25 12:51 | 木山捷平 | Comments(0)

陽春四月が来ると、…


4月になりましたね。ただ、陽春というにはまだ肌寒い日が続いています。

いろんなことがあった3月も、今振り返るとあっという間に過ぎ去ったように思います。でも、きっとこの3月にあったいくつもの出来事の記憶はずっと僕の心を温め続けてくれるだろうと思います。


ところで3月で、一つ大事なことを忘れていました。

姫路のおひさまゆうびん舎で3月16日に行われたおひさまふふふフェスティバルの翌日は高橋和枝さんの誕生日だったことは前にも書きましたが、3月25日に行われた世田谷ピンポンズさんのライブの翌日の3月26日も、僕にとっては大事な人の誕生日でした。

われらが木山捷平。

木山さんの誕生日のことをすっかり忘れてしまっていましたが、でも前日のライブでピンポンズさんが「船場川」と「鳴るは風鈴」を歌ってくれたので、僕に変わってピンポンズさんがお祝いをしてくれた感じです。


木山捷平の第一詩集『野』の最後に収められた「跋」と題されたあとがきで木山さんはこんなことを書いています。姫路、播磨のこともちょっと出てきます。「跋」が書かれたのは昭和4年1月。このとき木山さんはまだ姫路に住んでいました。


 私は明治三十七年三月二十六日、岡山県小田郡新山村に生れた。この日は、当時の報道によれば、広瀬中佐が旅順港外でズドンと煙にまった日であったという。すなわち、私の父は捷平と名づけてくれた。
 私が幼い時分、私たちの村は中国一の桃の村と称された。陽春四月が来ると、村は桃の花で埋まった。岩目山、坊山、長尾山、天神山と、村の田圃をめぐった山とは名ばかりの丘は、ことごとく桃の花で包まれた。丘から丘へ、腰にひょうたんをぶら提げた花見客がつづいた、青い目をした異人がやって来た。私たちは珍しそうに、洟をたらしたまま藁草履をひっかけて、のっぽの異人の尻についてまわった。
(中略)
 私に学歴、そんなものがあるとするならばそれだけだ。姫路及び東都の学舎に暫くいたこともあるが、語るべきもない。それに反して、転変流転波瀾重畳ーーそう言った風な日々が続いていた。姫路、但馬、東京、播磨、と野良犬のように移り歩いて、一所不在の苦しい日々を送って来た。ある時は明日のパンに窮して都の路次をさまよったり、ある時は絶望のどん底に落ちこんだ上病にとりつかれ、ある時は村に帰って土を耕し猫車を押した。
 私は十七の年に初めて詩を書いたが、ここに拾い集めたものは、最近四五年間のものである。詩作十年、そっと内証のようにふりかえって、兎に角にも処女詩集とする。
 私の修業はこれからだ。
(中略)
 私の詩は小さく弱い。私はそのことをよく知っている。それは何よりも、私の体質がおのずからそうさせてしまった。
 しかし、私だって大きくなりたいと思う。強くなりたいと思う。正しく燃える野心も持ちたいと思う。時に際しては青竹を尖らせて立ちたいと思う。

新山の村には今、桃が咲いているんでしょうか。


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by hinaseno | 2017-04-01 15:05 | 木山捷平 | Comments(0)

「窓」のことを考える日々。
窓は部屋の中にいれば外を眺めるられる場所。こっそりと人の様子を眺めることも。でも、逆に外からこっそりと窓を眺めている人もいる。こっそりと眺めている姿をこっそりと見つめられていたり。
夜の電車やバスの中では窓は鏡のように反射するだけで外の様子はほとんど見れないけれど、外からは中の様子がとてもよく見える。オレンジ色に光った窓が流れて行く風景はとてもメルヘンチック。

一昨日に紹介した、村井武生のことを書いたと思われる木山捷平の「みぞれの話」という詩は、実は先日、『木山捷平全詩集』を「窓」で検索していたときにたまたま見つけたもの。検索でもときどきは「たまたま」が起こります。改めてその詩を。

 みぞれの話

渋谷の松友館の二階で
僕ははじめて君に逢つた。

君は立つて窓をあけた。
窓の向うに黒い屋根があつて、
屋根の上で白い鳩があそんでゐた。
ヨチヨチと歩きながら――。
ホロホロと鳴きながら――。

屋根の向うに欅の古木が見えてゐた。
古木は新芽をふいてゐた。
新芽は風になびいてゐた。

さて、君は
ドテンと部屋のまん中に坐つて
濃い番茶を僕にすすめてくれながら
金沢に降るみぞれの話をきかせてくれた。

「窓」で検索したらもう一つ、「くしやみ」というとてもいい詩がありました。僕が最も好きな大正14年に書かれた詩。当時木山さんは村井武生と同じ東京の雑司ヶ谷に住んでいました。

 くしやみ

新築長屋の井戸端で
青いねるの着物を着て
若い細君がいつしんに洗濯をしてゐる。
そのかざりけのない束髪のうつくしさ
それからそのはちきれそうな肩の曲線――
井戸端の上では
欅の若葉がきらきらと朝の微風にひるがへり
どこからか子供のうたふ唱歌もきこへる。
ひさしぶりに早く目をさまし
下宿の窓からかうして煙草をふかしながら
たぶんをとこの肌着の洗濯であらう
よその若い細君をみてゐるうち
ぼくはすっかり六月の魅惑にすひつかれ
思はず大きなくしやみをだしてしまったのである。

木山さんが当時下宿していたのは二階の部屋。その二階の部屋の窓から見える(聴こえる)六月の風景のなんて素敵なこと。
朝の微風にきらきらと光を反射させながらひるがえる欅の若葉。たぶん下宿の目の前にあった小学校から聴こえて来ていたはずの子供たちの唱歌を歌う声。そして井戸端で洗濯をしている若い奥さん。

何年か後の、下ネタが大好きなちょっとスケベなおっちゃんの片鱗が見え隠れするものの、まだまだ純情な青年であった木山さんの姿がここにあります。
それにしてもなんて爽やかな詩なんだろう。この2年後に姫路にやって来たときに書かれた詩とはあまりにも違いすぎます。

ところで窓といえば、世田谷ピンポンズさんが先日ライブをした愛媛県の宇和島の福田百貨店で撮った素敵な写真をアップしていたのでこちらに貼っておきます。ピンポンズさんが窓から外を眺めている写真と、外から窓のそばにいるピンポンズさんをとらえた写真。
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どちらもアルバムのジャケットに使えそうな写真ですね、写真を撮られたのはおそらく輪佳さんのはず。輪佳さんの撮られたピンポンズさんの写真がまたどれもいいんですね。もちろんイラストもとってもいいけれど、輪佳さんが撮られたピンポンズさんの写真をジャケットにしてもいいのかもしれません。
そういえば、長門芳郎さんが「窓ジャケに外れなし」ということを以前おっしゃられていました。マーゴ・ガーヤンの『Take A Picture』とかティム・ハーディン2とか、バリー・マンの『Lay It All Out』とか。確かに! でした。
窓ジャケもいいかもしれない、と考えていたら、確か非売品のピンポンズさんの「ホテル稲穂」のジャケットは窓の写真だったような。歌詞の中にも窓が出てきますね。

さて、窓といえば、窓は不思議な人(?)たちがやってくる場所でもあります。「ほうきに乗った可愛い魔女」も小窓をノックします。
「こんこん、こんこん」と。
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by hinaseno | 2016-06-01 12:04 | 木山捷平 | Comments(0)

木山捷平の「小さな町」


「すれ違う」といえば、木山捷平と荷風も2年ほどの時と10kmほどの距離を置いてのすれ違いをしています。
ふと思ったのは木山さんがこのことを後に知っただろうかということ。つまり木山さんは荷風の『断腸亭日乗』を読んだかどうか。

この日のブログで紹介しているように、木山さんは荷風が父親と同じ年の生まれで、父と同じく岩渓裳川という人に漢詩を学んでいたことを知って、荷風に手紙まで書こうとしていました。作家として尊敬していたことは間違いありませんが、どこか近しい感情も抱いていたはずの存在。
木山さんが荷風とすれ違って、一言だけ声をかけられたかもしれないという(木山さんの勘違い、あるいは捏造の可能性も高い)岩渓裳川の告別式があったのは昭和18年3月31日。そのひと月半後の5月14日に矢掛、吉備真備の墓、国勝寺を訪ねています(ちなみにその3日前には三石の町を歩いています。日記には「三石下車。船坂峠の方を歩く。関川を見る。小魚がいる。うぐいす鳴く」と記載。たくさん立ち並んでいた煙突のことには触れていない)。
この2年後に荷風が岡山の総社にやってきていたことを知れば、やはり驚かずにはいられなかったはず。

話は変わって電子書籍の話。
「そんなものは消えてしまえ!」
と声を大にして言いたいところですが、iPhoneの中にいくつか入れています。ただし、それをじい〜っと読むことはありません。あくまで検索のため。
検索ツールとしてはやっぱり便利。

木山捷平の作品は現在2冊入れています。『木山捷平全詩集』と先日電子書籍化されたばかりの『酔いざめ日記』。
で、その『酔いざめ日記』で「荷風」を検索すると...

まず出てくるのが昭和15年2月28日。
日付を確認したらもちろん本を開きます。
「午後四時頃起床。昨夜永井荷風『おもかげ』読了した」と。
この日の日記の最後にはこんな言葉も。
「この夜、妻に乱暴する。萬里泣き悲しむ。妻が余のキゲンをそこなうような言動をするからだ。酔覚めて不快」
木山さん、困ったもんです。でも、荷風の『断腸亭日乗』とは違って人間くさい話がいくつもあって、それはそれで面白い。

荷風の『おもかげ』は僕もぼろぼろのものを持っています。岩波書店、昭和13年発行。木山さんが読んだのもこれのはず。
この本には「放水路」をはじめ僕の好きな随筆がいくつか収録されていますが、何よりもうれしいのは荷風の撮影した写真が24枚掲載されていること。

ところで『酔いざめ日記』を見ると、ちょうどこの時期木山さんは『昔野』(「なつかしの」と読みます)の出版に向けて、出版社の「ぐろりあそさえて」に何度も足を運んでいます。
『昔野』はぜひ手に入れたい本。特にそれに収録されている「小さな春」という作品を読んでみたくてしかたがないのだけど。「小さな...」というタイトルには心惹かれます。

もう少しこの年の木山さんの日記を読み進めると興味深い話が。それはこの昭和15年4月25日の日記に出てくる話。
木山さんは雑誌に掲載するためにいくつか原稿を書いてこの日出会った友人に渡していたようですが、その人の下宿の人間が屑屋に売ってしまったとのこと。「何故早く返してくれなかったか、ひどいことをするものだ」という木山さんの気持ちよくわかります。
その原稿のタイトルが「小さな町」と「遠景」。
木山さんが「小さな町」というタイトルの作品を書いていたとは。それから「遠景」というのは木山さんの詩の中でもとりわけ好きな作品と同じタイトル。小説だったのか、エッセイだったのかはわかりませんが、なんとももったいない話。
「小さな町」は一体どこを舞台にした作品だったんだろう。

ということですっかり話がそれてしまいました。これも電子書籍ではなく本を手に取ったからこそです。
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by hinaseno | 2016-05-20 14:11 | 木山捷平 | Comments(0)

「妹」と「いもうと」


そういえばおひさまゆうびん舎のイベントに行く前に書いていた村井武生の話が途中やめになっていました。彼の詩についてもう少しだけ触れておこうと思います。
ところで僕は木山捷平の研究本はほとんど読んでいないのですが(あんまり読む気もしない)、木山捷平と村井武生の関係はだれかが指摘しているんでしょうか。

ところで姫路のことが登場する「赤い酸漿」についてですが、あとで総社の清音読書会が作られた『木山捷平資料集』を見たら「木山捷平と姫路」の章で、この「赤い酸漿」のことも紹介されていました。作品を見る機会がなかったので、すっかり忘れていました。

さて、おひさまゆうびん舎でのイベントのある数日前に書いたこの日のブログで、木山捷平の「朝景色」が村井武生の「朝」という詩から多大な影響を受けていたことを書きましたが、まさにその「朝景色」に曲をつけたものが世田谷ピンポンズさんによって歌われるなんて想像すらしていなかった電車の中で、途中の車窓風景を眺めながら読んでいたのは、その日の朝に届いた村井武生の詩集『樹蔭の椅子』でした。
そう、村井武生の名前を知るきっかけとなった木山さんの『行列の尻っ尾』の「杉山の中の一本松」で紹介されていた詩集です。大正14年に抒情詩社から出版されたものですね。
この詩集、入手はまず不可能だと思っていましたが、ある可能性(相当に小さな可能性でした)にかけて少し努力してみたら手に入ったんですね。連絡があるまではどきどきでしたが、やはり縁があったということ。木山さんに関してはこうした縁が僕をひっぱってくれています。

『樹蔭の椅子』を読んで印象的だったのは妹のことを書いた詩が多かったこと。村井武生は父母の死後、妹とふたりで暮らす日々が続いていたようです。兄のためにいろんなことをやってくれる妹をいとおしく思う詩がどれもすばらしいんですね。
その一つの紹介します。題名はまさに「妹」。
  


 すり切らされた自分の下駄を
 黙つて直してくれる妹を眺めてゐると
 しみじみいとしさがこみ上げてくる

 父母がないために
 又一人の兄がふがひなく
 他の仕事が出来ないために
 他處の娘のやうに遊ばれもせず
 みづくろひをするひまも持たないことは
 年ごろのものにとつて
 どんなにさびしい気持ちであることか

 ぼんやり街道(おもて)をみてゐた妹は
 ふと兄のこの凝視に出あつて
 はつと鋏を持ち直したのである。

この詩を読んで、すぐに思い浮かべたのは以前にこの日のブログでも紹介した木山さんの「いもうと」という詩。体を壊して実家に戻った大正15年に書かれた詩です。詩の雰囲気や「いとほしさ(いとしさ)」という言葉などに、やはり村井武生の影響を感じずにはいられません。
  
いもうと

 窓の障子がだんだん明るんできた。
 妹はいつの間にか起き出て
 井戸端で米をといでゐる。
 そのとぎ方は幼く
 そのとぎ音は澄まない。
 さればなほさら
 この病(やみ)の身をいたはつてくれる妹のいとほしさ。
 雪はまだふつてゐるらしい
 今朝は井戸の水もつめたく
 彼女の手も赤くただれてゐよう――。

詩に多く接してきた人であれば村井武生の詩のほうを評価するだろうと思いますが、僕はやはり木山さんの詩のほうが好きです。何より木山さんの詩には季節感があって、より体に入り込んでくるような気がします。「いもうと」で描かれた冬の朝のしんとした風景と、体を壊している兄が目を覚まさないように音を立てずに家事をしている妹の姿の描写は本当に素晴らしい。

とはいいつつ、村井武生の詩は木山さんが影響を受けただけのことはあって本当にいいものが多くて、現在、彼の詩に触れる機会が全く無いという状況はあまりにも残念すぎるように思います。ぜひ、彼の詩集を出してほしいですね。

この写真は昭和9年に撮影された木山さんの家族写真。木山さんは後列の左端。このときは丸眼鏡をかけていますね。木山さんには二人の妹がいましたが、「いもうと」で描かれているのは真ん中に座っている月さん。詩を書いた当時は9歳でしたが、この写真のときには17歳。抱いているのは自分の子どもでしょうか。
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考えてみたら、僕の好きな詩人は妹思いの人が多いようです。宮沢賢治、そして松本隆さん。
その松本さんがはっぴいえんどの頃に詞を書いた曲に「朝」というものがあります。今朝この曲を聴きながらふと思ったのは、この詞の「君」というのはもしかしたら松本さんの妹のことではないかと。
歌詞を貼っておきます。歌詞カードに書かれているのは改行がすごいので、つい先日新版が出た松本隆さんの『風のくわるてつと』に収められている形で。これも結構改行がすごいけど。
  


 朝がカーテンの隙間から洩れ
 横たわる君を優しく包む 
 白い壁に光は遊び なんて眠りはきみを綺麗にするんだ 
 今ぼくのなかを朝が通りすぎる 
 顔を乖(そむ)けひとりで生きて来た 
 何も見なかった何も聞かなかったそんな今迄が 
 昔のような気がする 
 もう起きてるの眠そうな声 
 眼を薄くあけて微笑みかける 
 何も言わずに息を吸い込む僕は暖い 
 窓の外は冬

曲をかいたのは大瀧さん。これもたぶん詞先のはずですが、大瀧さんはちょっぴり歌詞をかえて歌っています。
この音源の27:11から聴けます。


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by hinaseno | 2016-03-26 12:24 | 木山捷平 | Comments(0)

すっかり「赤い酸漿」から話がそれてしまいました。
木山さんが姫路の荒川小学校に勤めていた昭和2年にはいろんな形で何度も利用したはずの英賀保駅でしたが、残念ながら「赤い酸漿」では英賀保駅に触れられることもなく舞台は上郡からいきなり姫路駅に。
姫路駅に到着してバッグの持主の女性の住所である「姫路市××町十五番地」の家があるはずの場所に行くことになるかと思いきや、その期待はあっさりと裏切られることになりました。小説的にも、多少エロティックな期待を抱いていた人の気持ちも同時に裏切るようなことになる結末。結局、姫路市内で出て来た場所は姫路駅の待合室だけ。

とまあ、作品的には期待を裏切られることになりましたが、この作品をきっかけにして静太の手紙を読みかえしているうちにいろんな発見がありました。
興味深かったのは夏休みの帰省と『野人』の発行に関すること、そしてやはり「この土地でたつた一人の友」大西重利のこと。

『野人』は第一輯を昭和2年7月1日に発行しました。印刷は6月20日。木山さんとしてはこれを毎月発行するつもりでいました。ただし第一輯のあとがきでも書いているように「経済のゆるすかぎり」。

第二輯を発行したのは8月1日。印刷は7月20日。これは予定通り。
木山さんは8月5日に帰省。おそらく印刷が上がって何人かの人たちへの発送作業を終えた後に帰省したんですね。

問題だったのは第三輯。
これも予定通り8月20日に印刷されて9月1日に発行されています。でも、8月20日には木山さんはまだ帰省中。姫路にはいません。
木山さんとしてはできれば第三輯を印刷所に届ける8月20日までには姫路に戻りたかったはず。ところがどうやらそれができなくなったようです。

父静太の日記を読むと8月22日にこんなことが書かれていました。

讃岐の琴平参詣。捷平が家に居る時、この間にと思ひつきであつた。余は二十九年ぶり、妻は初回。これまでは養父母ありて、妻は家を空けるられず、余も一夜外泊もせざること十数年になる程だから夫婦連れの旅行などは思ひもよらなかつた。今年は末の子が小学二年となるから、姉さん、兄さんが家に居るから大丈夫とつたからだ。

ということで、木山さんが姫路に戻ろうかなと考えていた頃に突然、静太は奥さんと琴平(金比羅宮)に行きたいと言い出したようです。当日突然行くことを決めたわけでもないはずなので、おそらくは数日前に決めて木山さんに告げたはず。

困った木山さん。もちろん頼る人はひとりしかいません。
大西重利ですね。彼に急遽手紙を書いて事情を説明して、とりあえず第三輯の原稿を印刷所に持って行ってもらうように頼んだはず。手紙には第三輯に収録してもらう詩を書いた原稿を添えて。

第一輯から第五輯までの『野人』の中で、この第三輯だけがあとがきが書かれていなくて不思議に思っていたのですが、その理由はこのあたりの事情によるものだったようです。
たぶんこのときには印刷代も大西重利に立て替えてもらったはず。とにかく大西重利には世話になりっぱなしでした。

最後にもうひとつ発見した興味深いこと。
静太が姫路にやって来た後、10月27日に木山さんに書いた手紙の冒頭の言葉。

前略、二十七日夜のお手紙、今日石井が配達してくれた。先日の梨果友人へ分配されたそうだが、あれは虫入り果であつたから、虫入りは外面から窺ひ知れぬ大きなホラがあるものなれば、貰つたもので顔をしかめたかも知れぬ。

この梨はおそらく静太が姫路に来るときに、足を痛めながら笠岡駅で買ったものですね。木山さんはこの梨を友人にあげ、そのことを父親への手紙に書いたようです。
この友人が大西重利だったことはいうまでもありません。
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by hinaseno | 2016-03-25 12:00 | 木山捷平 | Comments(0)

木山捷平の父静太の手紙や日記を読むと、木山さんが昭和2年の10月初旬に姫路市内の千代田町に引っ越すまで、二度ほど帰省していることがわかります。このとき乗り降りしたのは最寄りの駅である英賀保駅のはず。
まずは6月11日の日記。

 捷平帰る。鰆の季節に一度帰れと言ひ遣りたるに今夜帰りたり。然し今日でよかつた。これまでは鰆が少くて高かつた。病人も皆よくなつて一家打揃つて語ることが出来た。
 五時に姫路を出発し、ここへ十時に帰着せり。

翌6月12日の日記にはこんな記述も。

 捷平の健康は大分よい。これならば心配ないようだ。顔色もよい肥へても居る。

昭和2年6月11日は土曜日。4月に姫路に赴任してからちょうど2ヵ月後の帰省。「鰆の季節に一度帰れ」と伝えていて帰ってきたということは木山さんも僕と同じように鰆が好きだったからなんだろうかなと。
ただ、この時の帰省は鰆のためだけではなかったはず。木山さんも「鰆の季節」にしなければならないことがわかっていました。
それは田植え。
田舎にある田圃の田植えは長男である木山さんが絶対に手伝わなければならない仕事でした。この仕事を元気よくやってもらったからこその「捷平の健康は大分よい。これならば心配ないようだ」との言葉のはず。

木山さんが昭和2年に書いた詩に「腰巻」というのがあります(第一詩集『野』に収録)。この詩はこの帰省のときにした田植えの経験をもとにして書いたにちがいありません。
  腰巻

 田植が来た。
 オカア!
 腰巻を一つ買うておくれ。
 七つも八つも
 つぎのあたつてゐるのをしてゐては
 若い衆に見られた時
 わしやはづかしいもの。
 のう、オカア!
 オトツツアンにたのんで
 腰巻を一つ買うてもらつておくれ。

木山さんが姫路に戻った後に静太が出した7月9日の手紙には田植えのことが少し書かれています。

田植は小川のほとり田は六月二十九日日曜日に植ゑた

きっと木山さんが帰省したときに田植えをしたのとは別の場所にある田圃の田植えをしたことの報告だろうと思います。

次に帰省したのは夏休み。7月24日の手紙にはこんなことが書かれています。

 十五日のお手紙十六日着、疝気の悩み全快の由安心、もう僅かの日子で休暇なれば帰宅を待ちつつあり。

この手紙の後、次の手紙が書かれるのは8月27日。もちろんその間、木山さんは実家に帰省していました。
8月25日の日記にはこう記されています。

 捷平行く。五日に帰つたのだから二十日間休んだのであつた。顔色がよくなり肥えたやうに見えた。

ということで、木山さんは8月5日に帰省して、25日に姫路に戻ったことがわかります。この帰省のときもやはりいろいろと農作業を手伝ったはずで、やはり昭和2年に書かれた「百姓の子」という詩はこの時の経験をもとにして書かれたのだろうと思います(「百姓の子」は『木山捷平全詩集』では昭和4年の作品と記載されていますが、昭和2年11月1日発行の『野人』第三輯に収録されているので、昭和4年というのはまちがい)。
 百姓の子

 日はてりながら時雨がすぎる。
 田の畔に立つて
 幼な子がないてゐる。
 ――あの子の母は
   どこへ行つたのだらうか?――
 みにくいなりの子がひとり
 収穫の野中でないてゐる。

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by hinaseno | 2016-03-24 14:42 | 木山捷平 | Comments(0)

姫路にやって来た翌日の10月20日に父静太が木山捷平に書いた手紙。ここにはまぎれもなくあの昭和2年の木山さんが生活していた姫路の風景があります。
冒頭に出てくるのは山陽線の汽車の中から見た荒川の風景。
荒川小学校、英賀保、町坪、飾磨…。
そして慰問を終えた後に向かったのは木山さんが下宿していた千代田町の家。

 昨日行きしなの車窓、運動会はよく見えた。が、何をして居るのかそれは観えるものではない。学校が見える間はよく見えたので町の坪(あたり?)は見えなんだ。英賀保の小学校にも高く網を張つたり旗が立つたりして居た。英賀保は十八日が祭礼だつたと車中で聴いた。軍隊には野砲兵第二中隊山部兼吉、第七中隊有本一二の二人が居るのでそれを慰問と称して出かけたのだ。折善く直に逢へた。兼吉君は前夜行軍に英賀保辺に出て徹夜した、一二君も同様徹夜で飾磨線の踏切辺で涼んだと話して居た。随分とキタヘルものらしい。
 余は胃腸が変なのと、風邪按排がよくないのと、も一つ朝笠岡駅で失敗、僅かの時間を利用して梨を買はんと柵を乗り越へて飛んだら足を痛めた。尾坂の和平君(接骨院)に行く必要を生じた。笠岡で八時二十分経由、村へおしまひの前の列車で着いた。
 駅前交番では警察の三十歳あまりのが、職務以外の事をさせたとブリブリ毒づいた。『おツさんももうこんなことをしてアいけんぞ』おツさん おツさんと浴びせかけ『おツさんの名は何といふんだ』などと来た。言ひなり放題に言はしておいた。何のこいつの如き青巡査めがと思ひ思ひ聞くんだから腹は立たなんだ。
そなたに頼んでおく、一度山部兼吉君に面会に出ねばならぬ。同じ部落の同年輩のもので同じ姫路に住んで居て、軍人となつとるものを一度訪問せぬといふわけはない。一度是非行つてくれ。駅から兵営手前三丁のところまで自動車賃二十五銭、野砲兵大隊の正門前に一人の歩哨が立つてる、面会に来たのだと言つて門内に入るのだ。門を入ると、すぐ兵が十人計り集つとるところで面会に来た何中隊の何某に逢はしてくれと申込むのだ。例の室で待たせる。手土産に煙草か菓子を買つて行くがよい。
 自分共昨日行つたのは面会ではなくて村を代表して慰問に行つたのだから、慰問される方は朝から待つとるので、尚更早くなるのだ。
 一、午後がよろしい、午前中は兵士ケイコをしとるから。
 一、面会はあつさりと切り上げるがよい。
 一、兼吉君は、来月末に除隊になるんだからもう早く行つてやるがよい、是非行かねばならぬ。已に遅れた方だ。
 昨日は忙しくて四時十五分の列車に乗り、弁当を買ひ、荒川あたりで食つたのだ。それまで何一つ口に入れなんだ。茶一杯飲まなんだ。姫路の弁当だけで足らなんだ。上郡で鮎ずしを買つて食つた。鮎でなくてニセモノだ、うまくなかつた。上郡の鮎鮓、三石の弁当、これが兵庫県西端、岡山県の東端の背中合せの二大名物として珍とするに足るのであらう。
 久保田邸は冬暖かそうで安心した。都会から田舎の学校へ通ふことは便宜なるを以つての故であつて、これも矛盾の事なることを知つて置くべきである。マツチ工場の音響、サホドでもないが耳には障る。これも都会のお蔭だ。姫路で他の都市にない特長のものがないかと聞かれたら、大いにある。自動車のよくゆすること、交番の巡査がよくドナルこと。此の二つで十分だ。姫路の誇りとすべしだ。二十日朝認む

慰問が予定よりも早く終わったので、やはり静太は木山さんが下宿していた家(久保田邸)に向かいます。「久保田邸は冬暖かそうで安心した」というところを見ると、やはり部屋まで入って行って日当りを確認したのかもしれません。
興味深いのはその後で木山さんの詩にも出てくるマッチ工場のことが書かれていること。たぶん木山さんが手紙でマッチ工場の音がうるさいとか書いていたんでしょうね。
手紙の最後には兵庫の端の上郡と岡山の端の三石も出てきます。

厳しい父親とはいいつつ、いたるところにやっぱり木山さんのお父さんだなと思わせる部分がありますね。駅で梨を買うために柵を乗り越えたら足をけがしたというくだりは木山さんの小説にも出てくるような話。
このときに静太が買った梨については後日興味深い話が出てきます。
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by hinaseno | 2016-03-23 14:53 | 木山捷平 | Comments(0)