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by hinaseno
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カテゴリ:ナイアガラ( 270 )



アメリカン・ポップス伝パート2第5夜(2)

さて、58年になってようやくニューヨーク生まれのロックンロール・サウンドが登場したわけですけれども、それ以前のニューヨークはドゥーワップ・グループの花盛りだったんですね。パート1の1回目で聴いていただきましたけれども、54年のこの曲がブームの火種になったと一般的なロックの歴史本では言われております。

THE CREW-CUTS / Sh-Boom

アトランティック・レコードのコーズ(The Chords)の曲を白人グループがカバーしてPopチャートの1位になったんですね、このクリュー・カッツですけれども。
この1位というのがキーポイントなんです。というのもここまで大ヒットしますと業界は無視できないんですね。そこで続々と白人のR&Bのカバーが登場したということですね。フォンテイン・シスターズ(The Fontane Sisters / Hearts of Stone)もマクガイア・シスターズ(The McGuire Sisters / Sincerely)も聴いてもらいました。
そうしますと白人シンガーでもドゥーワップ・スタイルでデビューを飾るという人が出てきます。

NEIL SEDAKA / While I Dream

歌っているのはニール・セダカですね。彼も56年がデビューなんですね。初ヒットが出るのが58年の12月ですから、彼も2、3年間の潜伏期間があったということですね。
で、このドゥーワップの流れに新星が登場します。これがなんとチャートに登場したのが「ハートブレイク・ホテル」と同じ56年の1月のことでした。

FRANKIE LYMON & THE TEENAGERS / Why Do Fools Fall in Love

R&Bでは当然のごとく1位だったんですけれどもPopでも6位を記録しましたね。R&Bチャートでは「ハートブレイク・ホテル」は3位でしたから、ニューヨークではこちらの方に人気が集まっていたということですね。リード・シンガーのフランキー・ライモンはこのときなんと13歳です。まあ実際は14だったと自分では言っているようですけど。まさにティーンネイジャーズ(The Teenagers)だったわけですね。
このドゥーワップ人気というのはアラン・フリードなどの有名DJの力が大きいんですね。白人家庭の子供たちもこのような音楽を知ってしまったので、大人が聴いているようなのんびりした歌はもう聴いていられなくなったということですね。
で、このようなブームの中に単にコーラスだけでなくドゥーワップにラテン・フレーバーを入れた楽曲が登場します。すでにペレス・プラードの「マンボ」なんかが大流行してましたからね。頭にターバンを巻いたターバンズというグループがあるんですけれども、ラテン・フレーバーを入れた大ヒット曲を出しました。55年のことでした。

THE TURBANS / When You Dance

この曲、R&Bチャートでは3位と大ヒットして、Popでは33位だったんですけれども21週間もチャートされました。ですから5ヶ月間もチャートされたということですね。根強い人気があってこのタイプのサウンドが流行し始めました。
56年になりましてフォー・ラヴァーズがこのタイプに挑戦しました。

THE FOUR LOVERS / You're the Apple of My Eye

「冷たくしないで」のオーティス・ブラックウェルの曲なんですけれども、Popで62位にチャートされました。リード・ヴォーカルはフランキー・ヴァリ。彼の声がついにチャート上で聴けたのは、ここから6年後の1962年のことでしたね。グループ名はフォー・ラヴァーズからフォー・シーズンズと変わっておりましたけどね、そのときは。
次もまた同じタイプの楽曲です。グループ名はグラジオラス。

THE GLADIOLAS / Little Darlin'

「リトル・ダーリン」ですね。グラジオラスでした。このグループのリーダーのモーリス・ウィリアムス(Maurice Williams)が作った曲です。この曲をカナダ出身のコーラス・グループがカバーしました。

THE DIAMONDS / Little Darlin’

クリュー・カッツと同じカナダ出身のダイアモンズ。Pop、R&Bともに2位になりました。このサウンドのラインを受け継いでダイアモンズと同じくカナダ出身の若者が自作の曲でデビューします。57年7月に登場したときに、この若者は当時14歳でした。

PAUL ANKA / Diana

この「ダイアナ」はPopでもR&Bでも1位になったんですね。当時日本にポール・アンカ・ファンクラブというのがありまして、そのメンバーだった朝妻一郎さんはこのサウンドが自分の青春の音だと語っておられますが。
フランキー・ライモンが13歳、ポール・アンカは14歳と、1年前のエルヴィスが21歳ということで業界は驚いたばかりだったんですが、13と14が出てきたんですね。
56年のエルヴィスの21歳というのが驚異的だったということは他のベテラン勢の年齢を見るとわかるんですね。シナトラが当時41、ペリー・コモ44、ビング・クロスビーに至っては55ですから、チャートNo.1獲得者としてはエルヴィスの21歳というのは驚異的だったんです。そこへ今度は一気に13、14ですからね。でまた11歳になっていたブレンダ・リーもこの頃にチャートに登場していますから、まさにここからティーンネイジャーの時代が始まりました。
ポール・アンカのサウンドを作ったのはドン・コスタ(Don Costa)です。ベースとバリトン・サックスのユニゾンというのが特徴と言われてるんですね。♫ボン・ツ・トン・ボ・ボ・ボ・ボン♫というのをベースとバリトンがユニゾンでやると。
さらにこれまで打楽器が♫トントコランカントンコンタンタン♫とやっていたんですけれども、ユニークだったのはギターがそのリズムを担当してメロディを付けていたんです。ギターでね。♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫っていうやつ。で、これを弾いていたのがアル・カイオラなんですね。

(注)この日のブログでも書いたように、ポール・アンカの「ダイアナ」でアル・カイオラが弾いたギターフレーズがいかにアメリカン・ポップスにおいて重要であったかはこの後大瀧さんによって示されることになるのですが、偶然にも今夜BS-TBSで放送される「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」という番組で取り上げられるのがまさにポール・アンカの「ダイアナ」。1週間前に亡くなったアル・カイオラの話が出るかどうか楽しみです。
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by hinaseno | 2016-11-16 12:10 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート2第5夜(1)

アメリカン・ポップス伝パート2、本日は今シリーズの最終回。引き続きましてニューヨークのお話からですが、1956年エルヴィスが「ハート・ブレイク・ホテル」で登場したときと全く同じ時期にニューヨークのデッカ・レコードから新人がデビューしておりました。

BOBBY DARIN / Silly Willy
(注)「Silly Willy」は例のフォーク・ソングをカバーした「Rock Island Line」に続く2枚目のシングル。

歌っているのはボビー・ダーリンです。作詞がドン・カーシュナー、作曲がボビー・ダーリンの自作の歌なんですが、デビューの頃はフォークソングとかカリプソを歌っていたようですね。ボビー・ダーリンはレコードのデビュー前はCMのジングル制作などを行なっていて、そこで同じ仕事をしていたコニー・フランシスと知り合いました。そしてカーシュナー、ダーリンのコンビが彼女に曲を贈りました。

My First Real Love / CONNIE FRANCIS

これはコニー・フランシス4枚目のシングルとして発売されたんですけども、バックコーラスがずいぶん♬ワワワ♬と言ってましたが、これはどうやらボビー・ダーリンが一人で歌っていたそうです。
で、この後、アトランティック・レコードとボビー・ダーリンは契約するんですが、とにかく器用な歌手なんですね、ボビー・ダーリンというのは。なんでも歌える。それでアトランティックとしてはどの路線で売り出そうかということで、最初はやはりエルヴィス路線を考えたようなんですね。というのが最初のレコーディングはナッシュビルのブラッドリー・スタジオで行われていたんです。

BOBBY DARIN / I Found a Million Dollar Baby
(注)「I Found a Million Dollar Baby」の作曲はハリー・ウォーレン。1931年に発表されています。その年に録音されたこれが大ヒットしたとのこと。

ロックンロール・タイプの曲ではなくて、古いポピュラーソングの新しい解釈というのがいかにもアトランティックらしいけれども。
スタジオはナッシュビルのブラッドリーで、さらにジョーダネアーズがバック・コーラスなんですね。ですからやはりここはエルヴィス路線を考えていたんだと思います。このジャズ路線は後にボビー・ダーリンの新境地を開拓することになるんですけれども、まあ、これはあとのことです。
(注)ボビー・ダーリンのジャズ路線の話が出てくるのが半年後に放送された「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」。

ということで、アトランティック内部でボビー・ダーリンはジャズでいくのかロックでいくのかという分裂がありました。アトコ・レーベルの責任者ハーブ・アブラムソンとプロデューサーのジェリー・ウェクスラーはロックンロール路線に大反対でした。それを押し切ったのは社長のアーメット・アーティガンで「天の声で振り切った」というふうに言われています。それがロックンローラー、ボビー・ダーリンを誕生させました。

BOBBY DARIN / Splish Splash

(ジェリー・リー・ルイスの)「Great Balls of Fire」ですよね、これね。
お聴きの通りステレオなんですね。これはロックンロール・レコードとして初めてステレオ盤で売り出された曲だとも言われています。やはりこれはトム・ダウドが8チャンネル・レコーダーを持っていたからだと思うんですけどね。ヒット曲のタイトルが織り込まれていたこの曲はPop3位でしたがR&Bではナンバー1でした。やはりアトランティックはこの分野での販売力が強かったということなんですかね。
アトランティック・レコードがエルヴィスを買い損なったということは何度も申し上げましたけれども、それの答えがこれだったのではないかと思いますね。アトランティック初の白人ロックンローラーとなったわけですね、ボビー・ダーリンは。
で、彼はニューヨーク初のロックンローラーになったと言ってもいいと思うんですね。ニューヨークの音楽産業というのは巨大ですから、エルヴィスが登場して続々ロックンローラーが出てきてもニューヨークから見ればごく一部なんですね。ニューヨークのルーレット・レコードとかケイデンス・レコードがありますけども、原盤は地方で作っていたもので、ニューヨーク製作のロックンロール・レコードというのはほとんどないわけです。またさらにこの頃はニューヨークにいいロックンロールのギタリストがいなかったということもありましたね。それからエルヴィスから解放されたリーバー&ストラーが58年にニューヨークにやってきたということもニューヨークのロックンロール・シーンにとっては大きかったのではないかというふうに思います。コースターズとこのボビー・ダーリンのミュージシャンは似たような人たちがやっておりました。
さて、ボビー・ダーリンの次の曲がロックンローラーとして決定づける曲となりました。ギターを弾いていたのはアル・カイオラです。

BOBBY DARIN / Queen of the Hop

サックスはキング・カーティス。左で聴こえていたのがアル・カイオラでした。
これは58年10月、Popでは9位でしたがR&Bでは6位でした。あいかわらずR&Bの方が受けがよかったんですね。
アル・カイオラはホリー(バディ・ホリー)の名作「Rave On」のギターも弾いてるんですね。バディ・ホリーがニューヨークで録音したものです。ですからアル・カイオラはニューヨークにおける最初のロックンロール・ギタリストと言っていいでしょうね。
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by hinaseno | 2016-11-15 12:52 | ナイアガラ | Comments(0)

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大好きなギタリストのアル・カイオラが今月の9日に亡くなったということを昨日知りました。96歳だったとのこと。というわけで急遽予定を変更。ペリー・ボトキン・ジュニアのことやロビン・ワードの『ワンダフル・サマー』のことはまた後日に。先日亡くなったボビー・ヴィーのことも書けないままでいるけど。

アル・カイオラのことはこのブログでも何度も書いてきました。改めて自分のブログを確認したら、なんとブログを始めて5日目に彼のことを書いていたことがわかりました。その翌日も。
そのときのブログで書いているように、アル・カイオラのことを強く意識するきっかけとなったのは今から4年前の2012年に放送された大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」でした。この日のプログラムは8月31日深夜(正確には9月1日午前0時)の放送予定でしたが、放送直前にフィリピン近海で大きな地震が起きたために1週間延期されることになったんですね。実際には大事には至らなかった地震でしたが、まだ東日本大震災の津波の記憶も新しかったので、放送が中止になってしまったのも仕方がないことだったかもしれません。
で、放送されたのが1週間後の9月7日(9月8日午前0時)。この日の放送ではいろんな人が登場したのですが、とにかくアル・カイオラがあまりにも衝撃(笑撃)だったのでそれを書いたんですね。
僕のブログは2012年の9月4日に始めたので、もし予定通りの日に放送されていればアル・カイオラのことは書かなかった可能性があります。その意味でもアル・カイオラに対してはどこか運命的なものを感じています。

で、この日の放送は本当に何度も聴いたのですが、つい先日も聴き返したばかりでした。
きっかけはボビー・ダーリン。
先日文字起こしした「アメリカン・ポップス伝パート4 第3夜」にボビー・ダーリンが唐突に登場したので、それ以前の放送で彼について語られたものを聞き返したくなったんですね。それが「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」でした。興味深いのはアル・カイオラの話はボビー・ダーリンがらみで出てきたこと。ボビー・ダーリンがいなければ、というかアル・カイオラがいなければアメリカン・ポップスは生まれていなかったかもしれないと思ってしまうほどです。
大瀧さんのアメリカン・ポップス伝の中心にいたのは言うまでもなくエルヴィス・プレスリーでしたが、ボビー・ダーリンこそが陰の中心人物と言ってもいいような気がしました。
ちなみにボビー・ダーリンは「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」にもこの日のプログラムの主役の一人として登場します。
本当は「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」の流れで1960年代ポップスへと入ってほしいのに、大瀧さんは何度も後戻りしているんですね。彼には重要な繋がりがいくつもあって、それを確認しておかなければいけないと思わせる存在だったことがわかります。
先日文字起こしした、アメリカのマッカーシズムに触れられた「アメリカン・ポップス伝パート4 第3夜」のプログラムを作るきっかけはいろいろとあっただろうとは思いますが、もともとにあったのはなぜボビー・ダーリンのデビュー曲がフォークソングだったのかという疑問から始まったのかもしれません。

というわけで、次回から「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」と「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」のボビー・ダーリンとアル・カイオラに触れた話の文字起こしをしようかと思います。
文字起こしはもちろん大変ですが、大瀧さんの声を聴きながら文字に直していくと言う作業はまるで写経をしているような感じで、心を鎮めてくれる効果があることもわかりました。

アル・カイオラが昨年1月に演奏している映像がありました。


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by hinaseno | 2016-11-14 12:47 | ナイアガラ | Comments(0)

「アメリカン・ポップス伝パート4 第3夜」の文字起こし。いや、大変でした。これまで放送されたものの一部分くらいの文字起こしは何度かやりましたが一つの放送全部というのは初めて。放送は50分間でしたがどれだけの時間がかかったんだろう。
アゲインの石川さんは、「アメリカン・ポップス伝」が放送されたときには、毎回その日のうちに文字起こしをされていましたが(文字起こしだけでなく曲のリンクも)、それがいかに大変なことであるかがよくわかりました。睡眠時間を相当削ったはず。
でも、ただ聴くだけ、あるいは、人が起こししたものを読むだけでは絶対に気づけないようなことに気づくことができたのは大きな収穫でした。

いちばん驚かずにはいられないのは、番組のある部分でほんのちょっと語られたことが、必ずあとにつながっていること。50分の放送の中は言いつくせなかったつながりもいっぱいあるんだろうなと。おそらくそれはこれ以降の放送で語られることになったはず。

いくつか感想などを。
まずはハリー・ベラフォンテのこと。番組でもかかった「バナナ・ボート」はもちろんよく知っていましたが、たぶんいろんな替え歌を聴いていたせいか(♫今月ァ足りない借りねばならぬ♫は知らなかったけど)なんとなく冗談音楽のようにとらえてしまっていましたが、実はそれは労働歌と呼ばれるものだったんですね。
そのハリー・ベラフォンテさんの話で印象に残ったのが、彼が図書館でロマックス親子のライブラリーを勉強してフォークソングに興味を持ったというくだり。
このアーカイブを作ったのがレッドベリーなどの曲を録音したロマックス親子が作ったものであることがこの日の最初に示されていたこともあって、このくだりを聴いたときには感動すら覚えました。大瀧さんはアメリカン・ポップス伝でいろんな形の音楽のつながりを示してくれていますが、この日の放送で紹介されたのはロマックス親子のようにアメリカ中を走り回ってフォークソングを録音した人がいて、そのアーカイブを図書館がきちんと保管していて、それをだれもが聴けるようにしていて、音楽の世界で身を立てようとしている人がそれを聴いて学んでいたという形のもの。ここには音楽に限らず大切なことがいっぱい含み込まれています。
ちなみに僕のiTunesのライブラリーにはハリー・ベラフォンテさんの曲はクリスマスの曲が1曲だけ。彼のレコードもCDも1枚もありません。でも、この話だけでハリー・ベラフォンテという人にシンパシーを持ってしまいました。
それ以上にシンパシーを抱いたのはジョンとアランのロマックス親子ですね。彼らがいなければ、あの曲もこの曲も生まれていなかったんだなと考えると、彼らの活動がいかに重要なものだったかを思い知らされます。
ただ、そのアランも赤狩り旋風が吹き荒れていたときにはイギリスに逃げなくてはいけなかったという状況をあったとは。でもよくこのときに彼らの作ったライブラリーまで廃棄するという暴挙までにはいたらなかったんだなと胸をなでおろします。愚かな為政者や、そんな為政者に忖度する愚かな人たちはときにとんでもないことをするので。

そういえば一番腹立たしい思いを抱いたのは、赤狩りの標的にされたウィーヴァーズのカタログを所有していたデッカ・レコードが彼らのカタログを全曲削除したという話。面倒なことを避けようと思ったのかもしれませんが本当にひどい話です。

でも、これに似たことが最近日本でも頻繁に起こっていますね。例えばあるアーティスト、あるいは芸能人が何か犯罪を犯すと、そのアーティストが関わった作品を全て削除するという動き。これはあまりにもひどい。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、どうも最近は人を憎まなくてはいけないようになっていて(こういうのって容易に利用されます、というかされていますね)、結局企業側がそれを配慮するあまり作品をすべて削除してしまおうとする。作品には何の罪もないのに。そんなことをやっていたらブライアン・ウィルソンさんの作品なんて…、いやブライアンに限らず、ですが。

というわけで、この日の放送のいちばん感動的な場面はマッカーシーが失脚したあとに行われたウィーバーズの再結成コンサートですね。この場面は何度聴いても涙が出そうになります。
その一方で滑稽と思わざるを得なかったのがボビー・ダーリンのこと。ウィーヴァーズのカタログを全部削除したデッカ・レコードが赤狩り旋風が終わってフォーク・ブームがやってきたときにウィーヴァーズのカタログを再発するわけにもいかずに、デビューしたてのボビー・ダーリンに無理やりフォークを歌わせたこと。
これが失敗に終わったというのも音楽に神様がいるんだなという気がします。このあとボビー・ダーリンは自作の曲でヒット曲を出し、アメリカン・ポップスで最も重要なアーティストの一人になっていったわけですから。

そういえば番組ではかかりませんでしたが、ウィーヴァーズの再結成コンサートの3曲目に歌われたこの「Pay Me My Money Down」という曲。



どこかで聴いたことがあるなと思ったらビーチ・ボーイズがカバーしていた「Cindy, Oh Cindy」。



この「Cindy, Oh Cindy」という曲で最初に歌ったのがハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」がチャートに入る前に「バナナ・ボート・ソング」という曲を出していたタリアーズというグループだったこともわかりました。「Cindy, Oh Cindy」は「バナナ・ボート・ソング」の2ヶ月前にリリースしています。
ということで、タリアーズの「Cindy, Oh Cindy」を。



ビーチ・ボーイたちはもちろんフォークソングに大きな影響を受けていました。
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by hinaseno | 2016-11-07 12:53 | ナイアガラ | Comments(0)

さて、労働歌というと、明けて57年、1月に初登場して2月には5位と大ヒットした労働歌がポップチャートに登場しました。

Banana Boat Song / HARRY BELAFONTE

まあ、この頃♫今月ァ足りない借りねばならぬ♫っていうふうに流行ったんですけどね。みんな「デイ・オー(Day-O)」と覚えていますがタイトルは「バナナ・ボート」。これを歌ったのはハリー・ベラフォンテ。デビューは古くて49年にレコードを出しています。そのあと図書館でロマックス親子のライブラリーを勉強してフォークソングに興味を持ったんですね。で、ヴィレッジ・ヴァンガードで歌うようになって、そこにレコード会社のディレクターが見にきて契約を結んで。で、54年にアメリカ文学の父と言われるマーク・トウェインをメインテーマに据えたファースト・アルバムを作りました。出したときはすぐには売れませんでしたが、2年後の56年、これまた1956年なんですね、突然チャートの3位を記録したんです。シングル・ヒット全くなくてアルバムが3位というのはこれはおそらく当時のポップ史上初めてのことだったと思いますね。
で、1か月後に発売された2枚目のアルバムは1位です。100万枚以上売り上げました。3枚目のアルバムもまた1位。56年には2枚のゴールドディスク・アルバムを獲得したんですからものすごいブームでした。この年はエルヴィスもゴールドディスク2枚でしたから、アルバム・チャートではエルヴィスとハリー・ベラフォンテは互角の戦いをしていたわけです。翌57年の4枚目は2位でしたがゴールドディスクを獲得しています。とにかくこの頃はベラフォンテ・ブーム、カリプソ・ブーム。以前のマンボーのようにカリプソーという言葉が流行語になっていろいろなところで使われました。

Day Dah Light / EDRIC CONNOR

カリプソーとして流行しましたが実際はメント(Mento)と呼ばれる音楽形式で、ベラフォンテのバージョンは今かかっておりましたところのエドリック・コナーのもとに、さらに次のルイ・ベネットのバージョンを加味したものだと言われています。

Day Dah Light / LOUISE BENNETT

「デイ・ダー・ライト」でした。実はベラフォンテの「バナナ・ボート」がチャート・インする2週間前にタリアーズが「バナナ・ボート・ソング」というタイトルでレコードを出しておりました。

The Banana Boat Song / THE TARRIERS

このタリアーズのリーダーはエリック・ダーリン(Erik Darling)。ウィーヴァーズに影響を受けて56年にタリアーズを結成しました。彼らの「バナナ・ボート・ソング」の方がベラフォンテの「デイ・オー」よりも一つ上の4位にチャートされました。
このタリアーズのリーダーのエリック・ダーリン、彼はピート・シーガーがウィーヴァーズを抜けたときにウィーヴァーズのメンバーになりました。で、そのあと作ったブループがルーフトップ・シンガーズ(THE ROOFTOP SINGERS)でした。

注:ここで大瀧さんはおそらくルーフトップ・シンガーズの代表曲、例えば「Tom Cat」か「Walk Right In」をかける予定だったのではないかと思いますが、入れ忘れたか、あるいは編集の過程で誤ってカットしてしまったのではないかと思います。
で、かかったのはこの曲。

Marianne / THE EASY RIDERS

このカリプソブームやフォーク復活の動きは徐々に他の会社も参加してくるんですね。まずはCBSのミッチ・ミラー。今かかっている「マリアンヌ」を歌っているのはイージー・ライダースです。この曲はカリプソ作家として有名なローリング・ライオン、吠えるライオンですかね、この曲をもとにしています。

Mary Ann / ROARING LION

イージー・ライダースのリーダー、テリー・ギルキーソン(Terry Gilkyson)は作家として活動するかたわら、50年代初期にはウィーヴァーズに呼ばれてゲスト・シンガーとして時々歌っていました。まあ、もともとフォークに縁があったわけですね。そして56年にイージー・ライダースを結成して、この♫All day all night, Marianne♫は4位の大ヒットとなりました。
ではもう1曲イージー・ライダースの曲を聴いてみましょう。

Green Fields / THE EASY RIDERS

この曲はのちに同じCBSのフォーク・グループ、ブラザース・フォアがカバーして大ヒットさせましたが、オリジナルはこのイージー・ライダースでした。

ここまではフォーク関連のアーティストでしたが、いよいよポップ側からのアプローチも始まります。
57年に「ハニーコーム」というナンバー・ワン・ヒットがありました。

Honeycomb / JIMMIE RODGERS

これを歌っていたのはジミー・ロジャース。彼はもともとフォークシンガーになりたかったという人で、第2弾シングルに選ばれたのはウィーヴァーズのレパートリーだった「キッシーズ・スイーター・ザン・ワイン」。

Kisses Sweeter Than Wine / JIMMIE RODGERS

だんだん上がっていく構成なので、なかなかカットしづらい曲なのですが、邦題は「ワインより甘いキッス」という、これが第3位のヒットとなりました。レコード会社はギャンブラーのジョージ・ゴールドナー(George Goldner)とモーリス・レヴィ(Morris Levy)が作ったルーレット・レコードです。この会社がフォークソングというジャンルに本格的に手を出してきたわけですから、ブームもそろそろ本格的になってきたということですね。
プロデューサーはヒューゴ&ルイージ(Hugo & Luigi)という、この2人はフォークソングというジャンルがヒット曲の宝の山であるということをしっかりと見抜いていたチームでした。
ヒューゴ&ルイージはこの後フォークだけでなく、60年代ポップスを作った重要なチームということになるんですけども、その話はまた次の機会ということで。
ジミー・ロジャースはこの後もトップ10ヒットを連発するビッグ・スターになったんですが、アルバムの中からの曲を聴いてみましょう。

Evergreen Tree / JIMMIE RODGERS
注:1番をすべてかけます。

日本ではクリフ・リチャードのヒット曲で有名ですが、オリジナルはジミー・ロジャースでした。作家はアーロン・シュローダー(Aaron Schroeder)とウォーリー・ゴールド(Wally Gold)の名コンビで、ポップスの作曲家たちもフォーク調の需要が高まってきたということでしょう。しかしジミー・ロジャースは自らをフォークシンガーと名乗って『Jimmie Rodgers Sings Folk Songs』とか『An Evening Of Folk Songs』とか、しっかりとフォークソングという文字を入れたアルバムを発表していきました。アルバムの中にはフォーク・グループのカンバーランド・スリー(The Cumberland 3)という、そこのメンバーの曲もありました。

Find the Girl / JIMMIE RODGERS

「ファインド・ザ・ガール」という曲ですが、作曲はジョン・スチュアート(John Stewart)です。1961年、キングストン・トリオのリーダー格のデーヴ・ガード(Dave Guard)が脱退して新メンバーとして加入したのがこのジョン・スチュアートでした。

Where Have All the Flowers Gone / KINGSTON TRIO

ようやく出だしのキングストン・トリオの話に戻ってまいりました、ってこれじゃあ「やかん()」だね、こりゃ。
ジョン・スチュアートが新加入した第2次キングストン・トリオがこの61年に吹き込んだのが「花はどこへ行った」でした。ヒットしたのはそれから3年後のことだったんですが、まあそのキングストン・トリオやそれ以降のフォーク・シーンについてはまた次の機会にお話しすることといたします。

※落語の「やかん(薬缶)」のことのようです。
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by hinaseno | 2016-11-05 11:53 | ナイアガラ | Comments(0)

この再結成コンサートではたくさんの持ち歌が披露されましたが、その中の1曲「ロック・アイランド・ライン」を聴いてみましょう。

Rock Island Line / THE WEAVERS

シカゴの鉄道のことを歌った歌ですけれども、これを最初に録音したのはジョン・ロマックス、歌ったのはレッドベリー。

Rock Island Line / LEADBELLY

レッドベリーのバージョンは冒頭に語りがあるんですけどね、ウィーヴァーズはあそこをカットしたバージョンでした。ところがこの歌をレッドベリーのバージョンの、この語りありのバージョンでカバーしたレコードが出たんですね。それがなんと1956年。まさに「ハートブレイク・ホテル」が1位にランクされていた頃にトップ10に飛び込んでくるという珍事が起きておりました。

Rock Island Line / LONNIE DONEGAN

歌っていたのは英国人のロニー・ドネガン。録音されたのは54年の7月でした。当時はイギリスではロニー・ドネガンやクリス・バーバー(Chris Barber)が中心となってスキッフルと呼ばれた音楽がイギリスでブームになっていたんですけれども、それにしてもアメリカで全く無名の、しかも英国のシンガーのレコードが突然トップ10に入ってくるというのはかなり異常な出来事でした。
考えられるのはこの曲がウィーヴァーズのレパートリーとしてかなり有名だったこと、そしてエルヴィスの登場で世はロックンロール時代になっていたということ。ロニー・ドネガンのスキッフルはどこかエルヴィスのサン・レコード時代と共通するものがあります。で、エルヴィスのファースト・アルバムはこの頃ゴールド・ディスクを獲得していました。この中にはサン・レコードの曲が5曲も入っていたんですね。ですからリスナーはあのタイプのサウンドもすでに馴染みがあったわけです。同じようなものとしてとらえられたんじゃないでしょうか。
ドネガンのバージョンはウィーヴァーズのバージョンにはないハードなビート感がありました。これがこの時代に受け入れられた要素だったと思います。イギリスでこの曲が大ヒットしたことを知ったデッカ・レコードはカタログから削除してしまったウィーヴァーズのレコードをいまさら発売するわけにもいきません。そこで新人にこの曲を歌わせることを企画します。歌わされたのは契約したばかりの新人ボビー・ダーリン。

Rock Island Line / BOBBY DARIN

ボビー・ダーリンは実はこれがデビュー曲だったんですね。この歌でテレビの初出演を果たしたボビー・ダーリンの映像を見たことがありますが、手をかざしてかなり頻繁に見るんですね。
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なんのことかと思ったら、手のひらにびっしりと歌詞が書いてあるんですよ。会社に無理やりやらされたという証明ですね。もちろん全くヒットはしませんでした。

Sixteen Tons / TENNESSEE ERNIE FORD

この曲は純粋なフォークソングではありませんが、ウィーヴァーズが音楽シーンに復帰した55年12月にトップ10入りして8週連続のナンバー・ワン・ソングになりました。炭鉱労働の歌で、いかにも古くからのフォークソングに聞こえますけれども、カントリー・シンガー、マール・トラヴィスが46年に作った歌です。この頃フォークのアルバムがヒットしていたので、キャピトル・レコードも何かフォーク的な歌を作ってみないかとマール・トラヴィスにアドバイスしました。実際このトラヴィスのお父さんはケンタッキーの炭鉱で働いていて、それをもとにしてこの歌が作られました。

Sixteen Tons / MERLE TRAVIS

46年に『Folk Songs of the Hills』というアルバムを作って、その中に入っていたんですね。
ところがですね、なんとこのときに、47年、放送局にこのアルバムをかけないようにとFBIが圧力をかけたんですね。まあアルバムの曲ですからラジオ局でかからなければリスナーは知る由もありませんね。そこで埋もれた曲というふうになっていたわけです。
で、時は流れて55年、同じキャピトル・レコードのディレクター、ケン・ネルソン(Ken Nelson)、「Be-Bop-A-Lula」のときに出てきましたが、彼がこの曲を思い出して、テネシー・アーニー・フォードにカバーしたらどうかというふうに持ちかけたんですね。
55年といいますとマッカーシー議員も失脚していますし、まあそろそろいいんじゃないかと思ったんでしょうね。ただ、やはり怖かったのかB面で出したんですね。しかしまたDJがそのB面ばかりかけたのでクリスマスまでに200万枚を売り上げるという特大ヒットとなったのでした。
55年に再結成したウィーヴァーズ。再結成コンサートでもこの曲を歌っておりました。

Sixteen Tons / THE WEAVERS

新作でも古典になったという例です、「シックスティーン・トンズ」。
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by hinaseno | 2016-11-04 11:26 | ナイアガラ | Comments(0)

戦後の冷戦構造からアメリカでは赤狩り運動が本格化しました。まずはハリウッドの脚本家や監督が標的にされまして、いわゆるハリウッド・テンと呼ばれた人々が実刑判決を受けたんですね。それが1950年。まさにウィーヴァーズの曲が1位になった年です。
また、6月には朝鮮戦争が勃発しました。しかしウィーヴァーズの人気がものすごくヒット曲を連発するので、当局にとっては目障りになってきたわけですね。そして追求は映画界から音楽界へと普及してこのウィーヴァーズがやり玉にあげられたんです。
メンバーのリー・ヘイズとピート・シーガーは公聴会に呼ばれます。特にリー・ヘイズは何度も呼ばれて、しかもその模様はテレビで全米中継されました。このあたりはウディ・アレンの『ザ・フロント』とかロバート・デニーロが出た『真実の瞬間』などを観るとわかります。そしてウィーヴァーズはFBIからラジオとテレビの出演の禁止を言い渡されたんです。
FBI長官はジョン・エドガー・フーヴァー。イーストウッドが『J・エドガー』で映画化しましたが、在籍48年、大統領が8人も変わる間、権力の座に居続けたあのフーヴァーです。ピート・シーガーはこの期間常にFBIの監視状態に置かれて、逮捕はされなかったが毎日牢獄にいるみたいな気分だったと発言しています。
チャップリンも52年に国外追放命令を受けました。また、フォークソングのアーカイブを行なったアラン・ロマックスもこの時期お祖父さんの母国である英国に逃れています。
ウィーヴァーズのレコードを販売していたデッカ・レコードは53年、彼らとの契約を破棄するだけでなく、彼らの楽曲をデッカのカタログから全曲削除したんですね。それだけマッカーシーとフーヴァーが巻き起こした赤狩り旋風はものすごいものだったんです。ですからヒットしそうな曲がたくさんあったにもかかわらず、どのレコード会社もカバーするのには二の足を踏んだというわけで、1958年の「トム・ドゥーリー」が1位になるまで、「グッドナイト・アイリーン」から8年間、フォークソングのNo.1がなかったというのはこういう背景がありました。

まあしかし議員の中にもマッカーシーはやりすぎではないかという声が上がるようになって、マッカーシズムに立ち向かうテレビのキャスターも登場してきたんですね。
そのキャスターとはエドワード・マロー(Edward Murrow)。これを映画化したのがジョージ・クルーニーの『グッドナイト&グッドラック』です。これを観ますとマローの奮闘ぶりと、当時のマッカーシズムがどのようなものであったかというのがわかります。
で、徐々に反マッカーシーの流れができてきて、54年12月、上院でマッカーシーに対する譴責決議が多数となり、ついにマッカーシー本人はここで失脚しました。
その1年後の55年12月、ウィーヴァーズははれてカーネギーホールで再結成コンサートを開いたのでした。

Darling Corey (Live at Carnegie Hall) / THE WEAVERS

デビュー当時の曲はデッカ・スタジオで華麗なストリングスとかホーンのアレンジメントが施されていましたが、ライブでは4人の素朴な演奏で、スタジオ録音よりもこのライブ盤がウィーヴァーズの本来の姿だったんですね。

Wimoweh (Live at Carnegie Hall) / THE WEAVERS

拍手の感じからこの曲の浸透具合がわかりますが、いかに当局が禁止してもその間ファンはレコードを聴いていたわけですね。
そしてコンサートの締めの曲はこの「グッドナイト・アイリーン」でした。

Goodnight Irene (Live at Carnegie Hall) / THE WEAVERS

(注:大瀧さんはこの「グッドナイト・アイリーン」を最後の拍手と歓声の部分も含めて4分間フルコーラスで流します。限られた時間の中で数多くの曲をかける「アメリカン・ポップス伝」で1つの曲をフルコーラスで流すのは極めてめずらしいことでした)

う〜ん、感動的なコンサートだったということがわかりますね。まあ曲も最後なのでギターのチューニングも怪しくなってきてましたが、いかに聴衆は彼らの再結成を待ち望んでいたのかというのがこの拍手でわかりますね。
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by hinaseno | 2016-11-03 11:13 | ナイアガラ | Comments(0)

それにしても51年から58年の間に1曲もないというのは不思議ですよね。調べてみますとなんと1950年に1曲あったんですね。で、今回は51年から始めてしまったのでキングストン・トリオが登場するまでありませんでした。その50年の1位の曲はウィーヴァーズの「グッドナイト・アイリーン」。

Goodnight Irene / THE WEAVERS

これが50年の8月から13週も1位を続けたという超弩級の大ヒットでした。同時期にシナトラが5位、ジョー・サタッフォードが9位、レッド・フォーリーとアーネスト・タブが10位にランクされるという、もう一大現象だったんですね。
この曲もフォークソング特有のオリジナルがわからないというものですが、原点とされているのはレッドベリーのバージョンです。

Goodnight Irene / LEADBELLY

この録音はアメリカの国立議会図書館に所蔵されているものです。日本でいいますと国会図書館ですね。そのアメリカの議会図書館ではフォークソングのアーカイブを作っていました。
1934年、その民謡資料室にコンサルタントとして就任したのがジョン・ロマックス(John Lomax)。彼はフィールド・レコーディングという画期的な方法を持ち込んだんですね。それは車に録音機を積んで各地を歩くというもの。
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『キャデラック・マン』という映画がありました。チェス・レコードの創設者を主人公にした映画ですが、その中でマディ・ウォーターズのところへ「君の歌を録音させてくれ」とジョン・ロマックスが登場するシーンがありました。車のトランクを開けると録音機があって。当時は円盤録音なんですね。レコードに直接録音するという方式で、マディ・ウォーターズがスライドギターを弾きながら歌っていました。
ジョン・ロマックスの息子アラン(Alan Lomax)も手伝うようになって、全米をかなり広範囲にわたって歩いて、ときには牢獄の中まで録音機を持ち込んで収集を行いました。
日本でも1960年に町田佳聲(かしょう)さんとNHKが民謡調査というのを行なって、日本全国をまわって民謡を収集して、現在でもNHKのライブラリーとして残されています。
このロマックス親子の努力で充実したフォークソングのアーカイブができたんですね。図書館に行けばだれでもいつでも閲覧できたり聴いたりすることができました。
またレコードや本でも出版されて、外国の人も研究できたという。フォークムーブメントの基本となったのがここのアーカイブでした。たくさんのミュージシャンや作曲家がここのアーカイブにある曲をヒントにしていろいろな曲を作っています。商業ポップスの殿堂ブリルビルディングのライターたちもネタ探しに使っていますね。
では、レッドベリーの録音からのちにカバーされたりヒントにされた曲を聴いてみましょう。

Take This Hammer / LEADBELLY

Cotton Song / LEADBELLY

Match Box Blues / LEADBELLY

これはカール・パーキンスの「Match Box」ですね。「Take This Hammer」は「天使のハンマー」の原点。「Cotton Song」は「Cotton Fields」として有名になりました。

50年に大ブームとなったウィーヴァーズですが、メンバーはリー・ヘイズのピート・シーガーらの4人の編成で、ピート・シーガーが住んでいたグリニッジ・ヴィレッジのアパートで48年に結成されました。しかしリー・ヘイズとピート・シーガーはその前の40年からアルマナック・シンガーズというグループに属していました。メンバーはたくさんのミュージシャンが入れ替わり立ち替わりというグループだったんですけれどもね。その中にはウディ・ガスリーもおりました。

House of the Rising Sun / ALMANAC SINGERS

時代は太平洋戦争の真っ只中で、彼らの主張は反戦、反レイシズム、ユニオン結成と、これがまあ主なものでウディ・ガスリーの映画『わが心のふるさと』を見ますとこの時代の雰囲気がよくわかりますよね。
そのグループの中心人物であったところのリー・ヘイズとピート・シーガーが戦後に結成したのがウィーヴァーズであったわけです。「Goodnight Irene」は200万枚の大ヒットで、続く第2弾シングルは11位でしたがB面はこの曲でした。

(The Wreck of the) John B / THE WEAVERS

このあと第3弾シングルは一ヶ月後に出されてこれが4位、さらに二ヶ月後の第4弾は2位ととにかくものすごい人気だったんですね。
で、第5弾シングルは「Kisses Sweeter than Wine」、でした。

Kisses Sweeter than Wine / THE WEAVERS

これは19位でしたがB面の「聖者の行進」も27位と両面ヒットとなりました。
この曲はレッドベリーが歌っていたものをピート・シーガーが改変したものなんですね。では、レッドベリーのバージョンを聴いてみましょう。「If It Wasn't for Dicky」。

If It Wasn't for Dicky / LEADBELLY

レッドベリーは12弦ギターの名手でもありました。レッドベリーはグリニッジ・ビレッジでアイリッシュの歌手がこの歌を歌ったのを聴いて自分で改変したそうです。
このようにフォークソングというのは自由に自己流解釈ができるというのが最大の面白味で、誰が作ったのかよりもどのように解釈したのか、どのようにアレンジしたのかというのが聴き所なわけですね。
翌52年になってもウィーヴァーズの勢いは止まりませんでした。1位はありませんでしたが、ヒット曲が続きました。

Wimoweh / THE WEAVERS

これは14位でしたけれども、のちに世界的に大ヒットとなりました。続いてはまたまたレッドベリーのレパートリーから「Midnight Special」。

Midnight Special / THE WEAVERS

これは30位でしたが、ここでぱったりとレコード発売が止まります。人気が落ちたからではないんですね。例のマッカーシズムです。
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by hinaseno | 2016-11-02 12:19 | ナイアガラ | Comments(0)

唐突ですが、今日から何回かに分けて「大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝Part4 第3夜」の文字起こしをしてみようと思います。
この日の放送は「ポップ・フィールドにおけるフォークソングの歴史」がテーマ。

フォークソング!? 
でした。

放送された日の翌日のブログ(実際には放送は深夜だったので同じ日)を読み返してみるとやはり驚きを隠せなかったようで、例えば「アメリカン・ポップス伝パート4、第3夜はなんとフォーク・ソング。びっくりでした。まさかポップス伝にフォーク・ソングの話が出てくるなんて。全国のナイアガラーは唖然呆然だったのではないでしょうか」とか、「昨夜の放送は、僕個人としても驚いたというか、かなり戸惑った」とかという言葉を書いています。正直に言えば「驚き」というよりは「失望」に近いものがあったのかもしれません。
前夜が50年代のウェストコースト事情ということだったので、その流れで60年代のウェストコーストの話になってビーチ・ボーイズなんかが登場してくるかと期待していたらフォークソングだったんですね。
というわけだったので、他のプログラムのときのようなわくわく感は全くない状態で放送を聴いてしまいました。さらに言えばこのときの放送は全部で20回放送された「大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝」でいちばん聴いた回数が少ない。たぶん放送された日と、その翌日にブログを書くために聴いた2回だけではないかと思います。というわけで内容はすっかり忘れていました。

それを放送されてから3年も経って聴いてみようと思ったきっかけはボブ・ディランのノーベル文学賞受賞でした。実際にはこの日の放送にボブ・ディランは登場しないのですが、大瀧さんがフォークソングについて何を語られていたか聴いてみたくなったんですね。で、聴いてみたら、最初に聞いたときとは別の意味で驚きの連続。これほどに内容の深いものだとは当時全く考えていませんでした。

あまりはじめにいろいろと書かないようにしますが少しだけいえばこれが放送されたのが8月15日という日だったということ。
大瀧さんは「アメリカン・ポップス伝パート3」を完成させた後で、たぶんこの8月15日という日にこの内容の放送をすることを考えて準備されたはず。
さらに言えば「アメリカン・ポップス伝パート3」が完成したのはおそらくそれが放送された2012年12月。その2012年12月に何が起こったかというのはここにはあえて書きませんが、そこで起こったことがこの日の放送の内容に確かにつながっているんですね。
でも、情けないことですが、放送されたときにはまだ気づかなかったことが多すぎました。今になって考えてみれば、ということだらけ。いつものことながら大瀧さんの先見の明には驚かされます。
というわけで「アメリカン・ポップス伝パート4 第3夜」を。

    * * *        * * * 

大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝パート4、第3夜はポップ・フィールドにおけるフォークソングの歴史です。ここまでパート1からパート4、昨晩の2回目まで全部で17回のプログラムを放送してまいりましたが、1曲もフォークソングがかかっておりませんでした。
フォークソングはポップスじゃないのか? なぜここまでフォークは1曲もなかったのか? その謎を今回解いていきたいと思います。
まずはこの曲から。

Tom Dooley / KINGSTON TRIO

キングストン・トリオのこの「トム・ドゥーリー」が1位になったのは1958年の11月です。もっともこの曲自体はアルバムに収録されていたもので、最初からシングル・カットはされていませんでした。アルバムは58年6月に発売されていて、キングストン・トリオはアルバム・デビューだったんですね。で、ローカル局のDJがアルバムに収められているこの「トム・ドゥーリー」が気に入って何度も何度もかけているうちにリクエストが集まってきて、それから会社がシングル・カットしたと。そしたら1位になったと。そういうめずらしいパターンでした。
エルヴィスのような人気シンガーの場合ならアルバムからシングル・カットして1位になるというのは全然めずらしくなかったんですけれども、デビューしたての新人が、最近はアルバム・デビューというのはあたりまえになりましたが、1958年にアルバムでデビューするっていうのは全く考えられない時代だったんですね。まだSP盤も発売されていた時期ですから。シングル・ヒットが何曲か出た後にアルバムを発売するというのが通常のパターンだったわけです。その既成概念を破ったのがこのキングストン・トリオで、60年代中盤以降のアルバム時代の先駆けともなりました。
曲そのものはキングストン・トリオのオリジナルではなくて古くから歌われていたフォークソングで、キングストン・トリオはフランク・ワーナーのバージョンをもとにしているというふうに言われています。

Tom Dooley / FRANK WARNER

また、このフランク・ワーナーの前にはフランク・プロフィットという人が歌っていました。

Tom Dooley / FRANK PROFFITT

さらにそれ以前にはグレイソン&ホイッターというコンビが録音しています。

Tom Dooley / GRAYSON & WHITTER

最初にだれが作ったのかというのは定かではありませんが、1866年に実際に起きた事件をもとにして作られた歌で、はずみで恋人を刺してしまった男が縛り首になるという内容です。そういう内容の歌が1位になるのですから、これがポップスのおもしろいところでもありますよね。商業音楽がポップスなんですけれども、その中にこういうことがときどき起きるんですね。
で、今回アメリカン・ポップス伝を放送するにあたって、No.1ソングを調べていて気づいたことがありました。それはこの「トム・ドゥーリー」の前にフォークソングの1位の曲がないという事実です。
これには驚きました。
で、今回はメインテーマはロックンロールの歴史ということで、エルヴィスが登場した1956年を中心にした構成としました。そこで56年の前の5年前、51年からの1位をメドレーにして聴いていただきました。その中にフォークの1位の曲が1曲もなかったんですね。
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by hinaseno | 2016-11-01 12:33 | ナイアガラ | Comments(0)

今日は、わが大瀧詠一さんの誕生日。
というわけで、当然大瀧さんがらみの話。

先日、 クリフ・リチャードの「ネクスト・タイム」のシングルを見つけたときに「4日早い大瀧さんの誕生日プレゼントなのかもしれません」、なんて書きましたが、そんなものではありませんでした。
その2日後、つまり2日前、こちらは年に何度か行っている中古レコード屋さんに立ち寄って、やはりオールディーズ関係のシングルレコードの箱をチャックしていたら、僕が世界で一番ほしいと思っていたレコードがそこにありました。
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ジミー・クラントンの「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ(Venus In Blue Jeans)」の日本盤。
ネットから画像をとったと思われては困るので、こちらが証人、というか証クマ付きの写真です。
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夏らしい、さわやかなブルーをあしらった素晴らしいジャケット。これだけで心ときめきます。ちなみにオリジナル盤にはピクチャースリーヴはついていないんですね。

このレコードもときどきネットオークションで見ていましたが、コンディションのいいものはコーヒー10杯分くらいの値段がついています。でも、これは少しキズがありと書かれていたもののコーヒー2杯分にも満たない値段。キズも聴くには全然気になりませんでした。ピクチャースリーヴの状態もまずまず。

ジミー・クラントンの「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」のことは、もちろん松田聖子の「風立ちぬ」の元ネタとして使われているということで知りましたが、初めて聴いたときの感動はいまだに忘れません。最高のアメリカンポップスといってもいい曲ですね。大瀧さんは「ゴー!ゴー!ナイアガラ」の「ジャック・ケラー特集」のときに「僕が言おうとしているところのアルドン/スクリーンジェムズの曲の典型」だと言っていました。
言うまでもありませんが大瀧さんもこの曲が大好きなんですね。
「ゴー!ゴー!ナイアガラ」で、この曲をかけたときの大瀧さんのうれしそうな感じといったらないですね。はじめてかけたときのこの言葉は何度聴いても最高。

「そして、この62年8月、この曲です! ジミー・クラントン! ナインティーン・シックスティ・トゥ、『ヴィーナス・イン・ブルージーンズ』」

そう、ジミー・クラントンの「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」は1962年の7月にリリースされて8月にチャートインしているんですね。まさに、夏の曲。
大瀧さんはこの曲があるから、ジェック・ケラーを特集したと言っていました。

ところでこれは1963年のアルドン出版社の関係者が集まった写真。
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腰を下ろしている前列左からバリー・マン、シンシア・ウェル、ジェリー・ゴフィン、キャロル・キング、ニール・セダカ。そして後列の左端の眼鏡をかけた銀行員みたいな人が「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」の作曲をしたジャック・ケラーで、右端が作詞をしたハワード・グリーンフィールド。すごい人たちですね。後列の真ん中には取締役社長のアルさんとドンさんがいます。

ところで日本盤のシングル、よくみたら興味深いことがいろいろとあります。

まず、いちばん上にはこんな文字。
「ニール・セダカが作品したニュー・シングルを青春歌手、ジミー・クラントンが歌って大ヒット!」

もちろんこれはレコード盤にニール・セダカと間違ってクレジットされているためですね。このシングルが発売されたときには日本でニール・セダカは超がつくほどの人気者になっていたはずなので、この言葉を入れたんだろうとは思いますが、間違いに気がついた人がどれだけいたんでしょう。

ところで、「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」を最初に録音したのはジミー・クラントンだとずっと思っていましたが(ウィキペディアにもそう記載されています)、実はジミー・クラントンがリリースする2ヵ月前にこちらのBruce Brunoというシンガーが録音していました。ただしこちらは全くヒットしていません。



なんだかしょぼい感じがしますね。ただ、よく見たらこちらのレーベルにはきちんとジャック・ケラーとクレジットされています。なんでジミー・クラントンのときに間違えたんでしょうか。

それから日本盤の邦題がなんだか笑えます。
「ブルー・ジーン・ビーナス」

ジーンズではなくジーンなんですね。
これだと二股に分かれていないジーンズをはいている(?)ビーナス、あるいはデニム製のビーナスということになっちゃいますね。英語のタイトル通りか、または「ブルージーンズをはいたビーナス」にすればよかったのに。といいつつ、ジーンズということばが当時はまだ一般的ではなかったのかもしれません。
裏ジャケに載っている歌詞カードの対訳には「彼女は青いジーパンをはいたビーナスだ」との言葉。タイトルが「青いジーパンをはいたビーナス」となるといくらなんでもダサいですね。まだ「ブルー・ジーン・ビーナス」のほうがましです。

ところで歌詞カードを見てちょっと驚いたことがありました。
実はこの歌詞、ジミー・クラントンが歌っているものと2か所ほど違っているのがわかったんですね。
オリジナルには歌詞カードがないので、では、聴き取りかというと、明らかに聴き取り間違いとは違う単語が置かれているんですね。
で、先程のBruce Brunoというシンガーが歌ったものを聴いたらジミー・クラントンが歌ったものと全く同じであることがわかりました。

ちなみにネットで調べたら(ネットの歌詞もいい加減なのが結構ありますが)ジミー・クラントンが歌ったものと同じ。
これがジミー・クラントンが歌っている歌詞。

She's Venus in blue jeans
Mona Lisa with a ponytail
She's a walkin' talkin' work of art
She's the girl who stole my heart

My Venus in blue jeans
Is the Cinderella I adore
She's my very special angel too
A fairy tale come true

They say there's seven wonders in the world
But what they say is out of date
There's more than seven wonders in the world
I just met number eight

My Venus in blue jeans
Is ev'rything I hoped she'd be
A teenage goddess from above
And she belongs to me

僕が手に入れた歌詞カードに載っている歌詞と異なるのは赤字の部分。
「I adore」の部分が「of my heart」、「more than」の部分が「no more」となっています。
そういえばと思って、例のバリー・マンが歌ったデモ・バージョンを聴いてみたら、これが驚いたことに歌詞カードに記載されているものと全く同じ。
これですね。



推測してみるに、日本でシングルを出す際に、歌詞を送ってもらえないかと頼んだら、デモ用に書いていたものがあったので、そちらが送られてきたんでしょうね。聴き取りで書いたと思われるものに比べて歌詞がとても正確なのはそのためだろうと思います。

ということで、いろんな発見があった「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」。一応歌詞の対訳を載せておきます。歌詞カードの対訳はかなりいいかげんだったので、ジミー・クラントンが歌ったバージョンの歌詞を訳しました。

彼女はブルージーンズをはいたヴィーナス
ポニーテイルをしたモナリザ
歩いたり話したりする芸術作品
彼女は僕の心を盗んだ少女

ブルージーンズをはいたヴィーナスは
僕のあこがれのシンデレラ
彼女は僕の特別な天使
おとぎ話が本当になったんだ

世界には7つの不思議があると言われているけれど
どれも時代遅れのものばかり
世界には7つよりも多く不思議が存在している
僕は8番目の不思議にまさに出会ったんだ

ブルージーンズをはいたヴィーナスは
僕が願っていた通りの
天からやって来た十代の女神
そして彼女は僕のもの

そして最後にジミー・クラントンの「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」を。


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by hinaseno | 2016-07-28 14:23 | ナイアガラ | Comments(0)