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by hinaseno
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カテゴリ:ナイアガラ( 270 )



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ライブではいくつか新曲が披露されました。最初に披露されたのがライブの前日に小山清の「落穂拾い」を読んで思ったことを歌にしたというもの。タイトルは『「落穂拾い」を読んで作った歌(仮)』。僕もライブの2日くらい前に「落穂拾い」を読み返していたので、おっでした。

世田谷ピンポンズさんが小山清の作品をもとにして作った曲は「かぜのたより」「早春」に続いてこれで3作目。小山清三部作ということになりますね。これも小山清らしい”明るいさびしさ”が上手く表現された素敵な曲でした。聴き取った詞を載せておきます(ただし赤字の部分はよくわからなかったので、聴き取れた人がいたら連絡ください)。小山清の「落穂拾い」と読み比べてみるとなかなか面白いです。


『「落穂拾い」を読んで作った歌(仮)』

日が暮れると私はなにもしてないのに

とてもくたくたに疲れている

今日も誰ともしゃべらなかった

虚空に向かってつぶやいてみる


私の作る歌はそのばかり

私の歌は私の孤独です


誰かに贈物をするような心で歌が書けたらな

誰かに贈物をするような心で歌が歌えたらな


帰り道見つけた可憐な花が

それでも生きるのよと私に言う


いびつな形の私のままで誰かの心に届いたら

いびつな形の私のことを誰か好いてくれるかしら


誰かに贈物をするような心で歌が書けたらな

誰かに贈物をするような心で歌が歌えたらな


小山清の「落穂拾い」の「誰かに贈物をするような心で書けたらなあ」がサビでちょっとだけ言葉を変えて使われていますね。

小山清を心から愛している窪田さんへのピンポンズさんからの贈り物。小山清もきっと喜んでいるでしょうね。

それにしても小山清の「落穂拾い」をちょっと久しぶりに読み返しましたが、贈り物のような言葉にあふれていますね。例えばピンポンズさんが作った曲の歌詞には使われなかったけど、こんな言葉とか本当に素敵です。


その人のためになにかの役に立つということを抜きにして、僕達がお互いに必要とし合う間柄になれたなら、どんなにいいことだろう。


さて、新曲とは別に初めて聴いた曲もいくつかありました。その中で特に気に入ったのが「タウン」という曲。これはかなり古い曲ということですが僕の持っているどのCDにも入っていませんでした。「タウン」というのがカタカナで表記されるのかどうかもわかりません。

曲を歌う前に「『タウン』とか『街』とかそんなのばっかりですけどね」と言われていましたが、僕はピンポンズさんが歌う街の歌(ピンポンズさんが歌にした街)が大好きです。で、その中でもこれは詞も曲も最高の一つ。東京の小さな街の冬の風景を切り取った素敵な曲。ぜひCDにして欲しい曲です。

ということでこの「タウン」も聴き取った詞を載せておきます。聴き取り違いがいくつかあるかもしれません。


タウン

世田谷線が横を通る公園で

ホームランバーをほおばりながら

君はコートのフードをすっぽり被り

雪は降ってこないかなと空を眺めてる


赤いビルのてっぺんはうすぼやけ

冬を知らないこの街にも雪は降ってくる


線路を電車がすべってく

いつもの駅から遠ざかってゆく

雪に沈んだこの街で

あなたと私 生きていくのよ


夜が通りを歩いてく

人々は息を潜めて隠れる

どこにも行けない歌だけが

街の広場で鳴り響いてる


線路を電車がすべってく

いつもの駅から遠ざかってゆく

雪に沈んだこの街で

あなたと私 生きていくのよ


雪に沈んだこの街で

あなたと私 生きていくのよ


「赤いビル」というのはキャロットタワーのこと。キャロットタワーの見える世田谷線沿線の公園の画像を探したらこんなのがありました。

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街の曲といえば「名画座」と「わが町」を聴くことができたのもうれしかったです。この2曲はまちがいなくピンポンズさんを代表する曲。だれかにピンポンズの曲を聴いてもらおうと思ったら、まずこの2曲を勧めます。


そういえば今年出たアルバム『僕は持て余した大きなそれを、』の最後に収録された小品「カム・バック」を聴けたのもうれしかった。

次にピンポンズさんのライブを見れるのはいつだろう。


答えは風の中…

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by hinaseno | 2016-12-11 14:26 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート4 第5夜(エンディングまで)

(はじめに)アメリカン・ポップス伝の最終回のプログラムの文字起こしを「かわいそうなのはコニー・フランシス」で終わるのはなんだかコニー・フランシスに悪いような気がするので、この日のプログラムの最後まで文字起こしすることにしました。

放送の最後、大瀧さんは「パート5ではいよいよ本格的に60年代ポップスへと突入します」と。さあ、いよいよ始まるんだ、というところで残念ながら永遠の最後になってしまったわけです。そして最後にかかったジョニー・ソマーズの「ワン・ボーイ」は永遠の1曲となりました。

ということで、文字起こしを。


 *    *    *


さて、『ギジェット』で幕を開けたビーチ・ムーヴィーは63年に女王の座がサンドラ・ディーからアネットへと移ります。そのアネットのシングル・デビューは59年でした。


Tall Paul / ANNETTE

(注)ここでかかったのは演奏前の言葉とアネットの咳払いが少し入ったテイク。YouTubeにはありませんでした。「Take 6」との声が入りますが、これがOK Takeだったんでしょうか。この音源も何に入っているかわかりませんでした。それにしても大瀧さんは「アメリカン・ポップス伝」ではそういう音源をたくさんかけていましたね。集めるだけでも大変だったと思います。


59年、7位のヒット曲「トール・ポール」。ディズニーの人気テレビ番組『ミッキーマウス・クラブ』で人気が出たので、アネットの歌手デビューとなりました。

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『ミッキエマウス・クラブ』時代のアネット(左)

ただこれはアネット用の曲ではないんですね。以前に『ミッキーマウス・クラブ』の先輩が歌っていたものですけど、そのカバーでしたがアネットに合っていたということなんでしょう。

で、『ミッキーマウス・クラブ』は子供向けでしたが、この頃大人に人気があった番組に『サンセット77』がありました。


77 Sunset Strip / The Big Sound Of DON RALKE


このドラマで一気に人気が沸騰したのがエド・バーンズ。まあ、いつも櫛で髪をといているというアクションが人気で彼の歌も大ヒットしました。


Kookie, Kookie (Lend Me Your Comb) / EDWARD BYRNES & CONNIE STEVENS


59年4位となった「クーキー、クーキー、櫛貸して」ですね。ドラマのシチュエーションをそのまま歌にしたもので、まあ今で言えばラップということですかね。女性の声はコニー・スティーヴンスです。


(注)2人でいっしょに歌っている映像がありました。



彼女もテレビドラマ『ハワイアン・アイ』で人気が出たので、ワーナー・ブラザーズは彼女用の歌を探します。ビル&ドリーポストという夫婦デュオチームが作った曲が「シックスティーン・リーズンズ」。


Sixteen Reasons (Why I Love You) / BILL & DOREE POST


コニー・スティーヴンスを想定して書いた曲とのことで、コニー・スティーヴンスにはぴったりでした。


Sixteen Reasons / CONNIE STEVENS


60年、POP3位、R&Bでも10位にランクされたコニー・スティーヴンス「シックスティーン・リーズンズ」でした。

映画『アメリカン・グラフィティ』で、路上を歩いている女の子に「コニー・スティーヴンスにそっくりだね」と声をかけると喜んで車に近づいてきて「そう、うれしい! でも自分ではサンドラ・ディーに似てると思ってんだけど」というシーンがありましたね。サンドラ・ディーもコニー・スティーヴンスも女性アイドルのいちばん人気だったんですね。

(注)このシーンで女の子(キャンディ・クラーク)に声をかける「愛すべき近眼坊や」のテリー君を演じているのはチャーリー・マーチン・スミスという俳優。川本三郎さんは『傍役グラフィティ』(川本三郎、真淵哲共著 1977年)でこのチャーリー・マーチン・スミスを一つの章で取り上げています。「『アメリカン・グラフィティ』の成功の大部分は、この愛すべき道化役者チャーリー・マーチン・スミスとキャンディ・クラークに負っていると思うのだが、どうだろうか」と書かれていますが、同感です。ちなみにこの『傍役グラフィティ』という本のことは今年になってアゲインの石川さんに教えていただきました。

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キャンディ・クラークとチャーリー・マーチン・スミス(『傍役グラフィティ』より)

この「シックスティーン・リーズンズ」、ストリングスの華麗なアレンジはドン・ラルク(Don Ralke)。そのドン・ラルクがストリングス・アレンジを施して大ヒットとなったのがジョニー・ソマーズのこの曲でした。


One Boy / JOANIE SOMMERS


(注)一旦「ワン・ボーイ」の音量を絞って、

ジョニー・ソマーズもコニー・スティーヴンスと同じワーナー・ブラザーズ・レコードからのデビューでした。まさにハリウッド調のポップソングでしたが、このあと映画、テレビ、歌から続々と女性アイドルが登場してきて60年代ポップスと呼ばれるひとつの時代が作られたのでした。

(注)この言葉の後、再び「ワン・ボーイ」の音量を上げて、エンディングまで曲がかかります。で、そのあと番組のテーマソングである「夏のペーパーバック」のインストゥルメンタル・バージョンがかかります。

興味深いのはドン・ラルクによってアレンジされた「ワン・ボーイ」の弦の演奏の最後の部分と、そのあとに井上鑑さんによってアレンジされた弦の演奏の最初の部分が重なって聴こえるんですね。このつながりに気がついた時には心が震えました。

で、大瀧さんの最後の言葉。

渋谷区神南NHKスタジオからお送りしましたアメリカン・ポップス伝パート4、最終日の本日はウェストコーストの50年代ポップス事情をお送りいたしました。ウェストコーストのポップス・クリエイターたちの顔ぶれも、だいたい50年代末にそろっていたということがお分かりいただけたことと思います。

パート5ではいよいよ本格的に60年代ポップスへと突入します。

それではまた次回をお楽しみに。大瀧詠一でした。


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by hinaseno | 2016-12-03 11:05 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート4 第5夜

(はじめに)ボビー・ダーリンとサンドラ・ディーのことが語られるのが「アメリカン・ポップス伝パート4 第5夜」。結果的には最後の最後となってしまったアメリカン・ポップス伝の放送です。

この日のプログラムは、ハリウッド映画が盛んになって、それに関連で50年代中期から後期にかけて西海岸に新しいレコード会社が次々に設立されたという話。大好きなコルピックス・レコードが登場するところから文字起こしをします。


 *   *   *


…そしてワーナー・ブラザーズとコルピックスも58年創立でどちらも映画やテレビ関連のレーベルでした。コルピックス・レコードはコロンビア映画のサントラを作っていましたが59年4月公開の映画が『ギジェット(Gidget)』。主演はサンドラ・ディー。主題歌を歌っていたのは共演者でもあったジェームス・ダーレンでした。


Gidget / JAMES DARREN


これは後にビーチ・ムーヴィーと呼ばれたものの元祖です。『ギジェット』。たくさんのサーファーが登場してサーフィン場面もふんだんにあります。もちろん水着の女性も(笑)、え~、たくさん出てきます。しかもカラー。インストバンドのベルエアーズ(The Belairs)のメンバーもこんなにサーフィンの映像が出てくる映画は初めてだった、この映画は衝撃的だったと発言しています。

「ギジェット(Gidget)」とは小さな女の子、ちっちゃな女の子”Girl in Midget”という、それを縮めたもので、もともと小説かなんかで有名になっていたキャラクターをサンドラ・ディーが演じたわけですが、それがぴったりだったんですね。

この映画の予告編でナレーションを担当していたのがディック・クラーク(Dick Clark)。そのディック・クラークの初の主演映画が作られることになって、この「ギジェット」の監督ポール・ウェンドコス(Paul Wendkos)が起用されました。それが「ビコーズ・ゼイアー・ヤング(Because They're Young)」。


Because They're Young / DUANE EDDY


60年公開のコロンビア映画「ビコーズ・ゼイアー・ヤング」。ディック・クラークが経営参加していたジェイミー・レコードのエースがデュアン・エディですから主題歌に起用されたんだと思います。映画の中にデュアン・エディとレベルズが登場してこの曲を演奏しておりました。


Shazam! / DUANE EDDY


映画「ビコーズ・ゼイアー・ヤング」の主題歌を書いたのはドン・コスタ。メロディの譜面だけがリー・ヘイズルウッドのところに送られてきてデュアン・エディとレベルズがアレンジをして4位となる大ヒットでした。トゥワンギー・ギターの映画主題歌はこれが初めてで、これを聴いたドン・コスタは早速アル・カイオラのギターでこのサウンドを使いました。

(注)ここでまたまたアル・カイオラが登場。「早速アル・カイオラ」と言うとき、大瀧さんの語気が強くなります。


The Magnificent Seven / AL CAIOLA


「荒野の七人」、作曲はエルマー・バーンスタインですが、アレンジとプロデュースがドン・コスタです。このあとアル・カイオラ楽団は「ボナンザ(Bonanza)」、「ガン・スモーク(Gunsmoke)」などトゥワンギー・ギター・サウンドの主題歌を連発します。

ドン・コスタ プロデューサー、さすがに機を見るに敏、プロデューサーはこうでなくてはなりません。


さて『ギジェット』のサンドラ・ディー、『ギジェット』公開から約半年後に公開されたこの映画に出演します。


The Theme from "A Summer Place" / PERCY FAITH


『サマー・プレイス(避暑地の出来事)』、映画も大ヒット、主題歌のパーシー・フェイスもナンバーワンを獲得しました。ここでサンドラ・ディーの人気は確定的なものになったんですね。

そしてボビー・ダーリンが黙っていられなくなって熱烈なる求婚をしてめでたく結婚となりました。

かわいそうなのはコニー・フランシス。

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ボビー・ダーリンとサンドラ・ディー


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by hinaseno | 2016-12-01 13:05 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(6/6)

(はじめに)この日放送されたプログラムは、アメリカン・ポップス史的には前回文字起こしした部分の話がひとつの大きなクライマックスでした。そこで終わっていてもよかったような気もします。

ところが大瀧さんはこの日のプログラムの最後の最後にもうひとつのクライマックスを用意していたんですね。それもとびっきりロマンチックな物語。そこでかかったのが以前から僕の大好きな曲の1つであった「That’s All」という曲でした。

正直言えば、僕は今までボビー・ダーリンをほとんど聴いていなくて、ボビー・ダーリンが歌う「That’s All」を聴いたのもこのときが初めて。で、それははっきり言うと考えられないような曲になっていたんですね。「That’s All」に抱いていたイメージが壊れるような歌。

「That’s All」については改めて書こうと思っていますが、この曲の詞で語られているのはとてもささやかな愛情の告白。例えばこんな歌詞。


 あなたに与えることができるのは春に田舎を散歩することと

 木の葉が落ち始めたときにつなぐ手

 それから冬の夜を暖かくする燃えるような光をもった愛…


僕の知っている男性シンガーも女性シンガーもすべてしっとりと歌っているんですが、ボビー・ダーリンはこの詞からは考えられないような歌い方をします。本来の歌詞の「That’s All」という言葉にこめられたニュアンスさえ全く違って聞こえます。

で、そのあとにかけられるのがコニー・フランシスのバージョン。これも初めて聴いたんですがこれがすばらしいんですね。

ということで、この日のプログラムの最後の部分を。


*   *   *


さて、ボビー・ダーリンに話を移します。ボビー・ダーリン、本名ウォルデン・ロバート・カソット(Walden Robert Cassott)、イタリア系です。イタリア系で男性歌手となりますと当然目標はフランク・シナトラとなるわけですね。幼少時代からシナトラのような大歌手になるというのが周囲の期待でもあったわけです。ですからいくらポップ・ヒットが出てもボビー・ダーリンは満足することはありませんでした。

「ドリーム・ラヴァー」をヒットする前にですね、実はこのスタンダードナンバーを集めたアルバムを企画していたんです。すでにこの曲は「ドリーム・ラヴァー」よりも前に録音されていて、しかも後々ヒットするんですが、半年以上も前に録音されておりました。


BOBBY DARIN / Mack the Knife(Take 7)

(注)ここでかかるTake 7には演奏前の語りが少し入っているのですが、以前紹介したCDに収録された音源はこのYouTubeのものと同じで語りの部分がありません。大瀧さんが番組で使用した音源はいったいどこで手に入れたものなんでしょうか。


このリリースが遅れたのはですね、周囲、特にDJの反対が大きかったといいます。せっかく「ドリーム・ラヴァー」が大ヒットしてティーンの客をこれだけつかんだわけだからみすみすそれを失うことはなかろうというのがDJの意見だったんですね。

ところが半年後、出してみたら人気が落ちるどころかさらに広がってナンバー1を獲得しました。9週ですね、他のチャート紙では10週、連続1位だったんですね。そしてまたこの曲は音楽界最大の栄誉であるところのグラミー賞を獲得しました。ここでボビー・ダーリンはティーンのアイドルから大人の歌手へと、つまりシナトラへの道が開けたわけですね。

「マック・ザ・ナイフ」が入ったアルバム、このアルバム・タイトルは「ザッツ・オール」と言いまして、このアルバムも大ヒットしました。スタンダード・ナンバーを集めたものでした。


BOBBY DARIN / That’s All


シナトラへの道まっしぐらという感じですね。この曲をボビー・ダーリンが録音したすぐ後にコニー・フランシスも同じ曲を録音しています。


CONNIE FRANCIS / That’s All


う~ん、ボビー・ダーリンへのラブレターという感じですね。切々と歌っておりました。まさにボビー・ダーリンへの後追い三味線ですな、これは。本名コンセッタ・ロサ・マリア・フランコネロ(Concetta Rosa Maria Franconero)、イタリア系です。

ボビー・ダーリンはこの後、夢の舞台であるコパカバーナに出演します。そして『ダーリン・アット・コパ(Darin at the Copa)』というアルバムも出ます。

その半年後、「コニー・フランシス・アット・コパ(Connie Francis At the Copa)」というアルバムも出しました。

どこまでもボビー・ダーリンをフォローするコニー・フランシスさんではありました。


CONNIE FRANCIS / Follow the Boys

(注)改めて言うことでもありませんが、この日の特集で大瀧さんが何度も「フォロー」や「追い続ける」という言葉を使っていたのは、最後にかかるこの「フォロー・ザ・ボーイズ」の伏線だったというわけです。


「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」はニューヨークのその後としましてボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの3人組の物語をお送りいたしました。この3人の共通人物がアルドン出版社のドン・カーシュナーだったことを含めまして、今までのストーリーをアルバムにするとなるとタイトルは「ティーンエイジ・トライアングル(Teenage Triangle)」、つまりこれが「ティーンエイジ・トライアングル」のヴォリューム・ゼロ(Vol.0)だったというわけですね。

その後の3人ですけれどもボビー・ダーリンはこの後映画に進出するというおきまりのコースですね。コニー・フランシスはアルドン出版社のライターのヒットが続きます。セダカは持っていた音楽センスを活かしてポップスの名曲を次々と発表することになるんですが、続きは日を改めて60年代アルドン・ミュージックの時代でお話しすることにいたします。それではまた明晩。


(おわりに)残念ながら多くの人が聴きたくて仕方がなかった「60年代アルドン・ミュージックの時代」は結局放送されることはありませんでした。でも1976年に始まった「ゴー!ゴー!ナイアガラ」はまさにそのアルドン・ミュージックのスタッフ・ライター特集から始まるんですね。

第1回目の放送の最初に番組の紹介の後、いきなり「第1回目はアルドン・スクリーンジェムズのスタッフ・ライターの特集、今週と来週はキャロル・キング作品の特集です」となるんですね。いきなりこれを聴いた人は「アルドン」?「スクリーンジェムズ」? ですよね。

で、第3回目がニール・セダカの特集。そして第5回目のジャック・ケラーの特集の時にコニー・フランシスの曲が3曲もかかります。

このジャック・ケラー特集が素晴らしかった。コニー・フランシスはジャック・ケラーの曲との相性が抜群なんですね。

このジャック・ケラー特集のことはボビー・ヴィーの話のときに触れるつもりです。でも、「ゴー!ゴー!ナイアガラ」から40年後の新たなアルドン・ミュージック・ストーリーを聴いてみたかった。


それから映画に進出したボビー・ダーリンの話は「アメリカン・ポップス伝パート4 第5夜」、つまり結果的には最後となってしまった「アメリカン・ポップス伝」で語られます。出演した映画でサンドラ・ディーに出会うんですね。

というわけなので、「アメリカン・ポップス伝パート4 第5夜」で少し語られたボビー・ダーリンとサンドラ・ディーの物語をその部分だけ文字起こししようと思っています。

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ボビー・ダーリンとコニー・フランシス


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by hinaseno | 2016-11-30 14:09 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(5/6)


(はじめに)今日文字起こししたのはこの日のプログラムのクライマックスの部分。いよいよボビー・ダーリンの「ドリーム・ラヴァー」からコニー・フランシスの「カラーに口紅/フランキー」、そしてニール・セダカの「オー、キャロル」が登場します。まさにシックスティーズ・ポップスが誕生する瞬間が興味深く語られています。ここに至る話の中でも、これがなければ、この人がいなければ、この人があの行動を取らなければという話の連続でしたが、今日文字起こしした部分はすごすぎます。こんなところにこんな人がいたのかという驚きのつながりが大瀧さんによって次々に示されます。本当によく調べられているなとただただ感服。この日の部分だけでも1冊の本にする価値がありそうです。ってことで文字起こしを。

*   *   *

さて、セダカがロックンロールの「アイ・ゴー・エイプ」を録音していた頃にボビー・ダーリンは自作のポップソングのデモを作っていました。


BOBBY DARIN / Dream Lover (Demo)

(注)これはかなり貴重な音源ですね。調べたらライノから出ているボビー・ダーリンのボックス『As Long As I’m Singing: The Bobby Darin Collection』に収録されていることがわかりました。録音は1959年2月。まさにバディ・ホリーが飛行機事故で亡くなった月。

番組では1番を歌い終わったあたりで音は絞られるのですが、2番に入る直前の間奏でギターがちょっと面白いフレーズを弾くんですね(この音源の0:33あたり)。で、大瀧さんはちょっと吹き出します。確かにそこはかなりコミカル。演奏しているのはもちろんあの人です。


(笑)え~、あの半音はなんですかね。これをレコーディングするにあたって…、あっ、これ、ギターはおそらくアル・カイオラでしょうね、で、ボビー・ダーリンは自分でギターを弾いてんだと思います。

これの正式なレコーディングをする前日にですね、ボビー・ダーリンはニール・セダカに電話したんですね。で、明日のセッションでピアノを弾いてくれないかと頼んだんです。ボビー・ダーリンはデビュー以来、ピアノは全部自分で弾いているんですね。セッション・マンを使ったのはたったの一度しかないんです。不思議なことなんですね、この曲だけ前日、突然ニール・セダカをピアニストとして使ったんですけどね。


BOBBY DARIN / Dream Lover


アル・カイオラのギターがデモよりも高音になっていますよね。オクターブ上げたほうがいいというアイデアはセダカがセッション中に出したものだと言われています。ま、本人が言ってますね。

また、もうひとつですけれども、この曲のドラマーはセダカのメイン・ドラマーだったスティックス・エヴァンズがたたいています。エヴァンズがボビー・ダーリンのセッションに参加したのは後にも先にもこの時だけなんですね。ですからこの曲は完璧なるセダカ・サウンドに聴こえてしまうのであります。

この「ドリーム・ラヴァー」は最高位が2位と大ヒットしていた59年の6月ですが、追いかけるようにチャートを上がってきたのはコニーのこの曲でした。


CONNIE FRANCIS / Lipstick on Your Collar

(注)ほぼフルコーラスかかります。


コニー・フランシスの「カラーに口紅」でしたけれども、途中のギター・ソロはジョージ・バーンズ(George Barnes)という有名なジャズ・ギタリストです。途中のフレーズはさすがにジャズマンという感じがしますね。この頃になりますとニューヨークのジャズ・ミュージシャンもロックンロールのニュアンスをかなり出せるようになってきています。ジョージ・バーンズはカントリーのレコードなんかも出していますね。

それにしてもボビー・ダーリンがロックだと言えばロック、ポップだと言えばポップというふうにコニーのボビー・ダーリンへのフォロー度合いがすごいですね。

「カラーに口紅」のB面はニール・セダカのバラードでした。


CONNIE FRANCIS / Frankie


あ~いいバラードですね。このへんからコニーとセダカの相性がぴったりしてきましたね。このあとは次々に名曲が生まれます。A面の「カラーに口紅」は5位、B面の「フランキー」は9位と、両方がトップ10入りするというコニー・フランシス初の両面ヒットです。この両面ヒットはシックスティーズ・ポップス幕開けを感じさせるシングル盤というふうにも言えると思います。また「カラーに口紅」は私のポップスの原点となった曲でありまして、非常に思い出深い曲であります。

「カラーに口紅」、「フランキー」の両面ヒットが出た後、いよいよ真打、ニール・セダカの大ヒットが登場します。


NEIL SEDAKA / Oh! Carol


これは9位となってセダカ初のトップ10・ヒットです。これでようやくボビー・ダーリン、コニー・フランシスとトップ10シンガーの仲間入りができたというわけですね。この時点では3人ともまだナンバー1ヒットは持っていません。

さて、この「オー、キャロル」、このアレンジの元ネタはご存知ダイアモンズの「リトル・ダーリン」。


THE DIAMONDS / Little Darlin’


このダイアモンズのアレンジなんですけれども、これはチャック・セイグルその人だったんですね。どこにもクレジットされてなくて別の人の名前が書かれていますから今まで知られていなかったんですけれども。ニール・セダカがそう発言しています。また、ダイアモンズを調べますと、チャック・セイグルは当時別名を使ったり、あるいは本名でB面を作曲したりしています。「オー、キャロル」はこの「リトル・ダーリン」の真似だと思っていたんですが、実は本家本元のアレンジであったわけです。


この「オー、キャロル」にはアンサー・ソングがあったということは最近では有名な話となっております。


CAROLE KING / Oh, Neil


歌っていたのはご存知キャロル・キングですね。作詞は旦那のゲリー・ゴフィンが書いています。この二人が結婚する前ですね、キャロル・キングとニール・セダカは10歳の頃から知り合いだったそうです。そこでセダカが元のガールフレンドであったところのキャロルという名前を使って詞を書いてくれとグリーンフィールドに頼んだと。それが「オー、キャロル」であったわけです。

キャロル・キングが歌った「オー、ニール」のアレンジとプロデュースはチャック・セイグルです。何度も出てきますけれども。この「オー、ニール」のおかげといいますかね、これが契機となりまして、ゴフィン&キングはドン・カーシュナーと知り合ってアルドン出版社と契約したんですね。

この二人のゴフィン&キングはセダカの次のアルドンのエースになりましたし、さらにはシックスティーズ・ポップスの牽引車となったわけです。この「オー、ニール」が第1作だったんですね。なにがきっかけになるかというのは本当にわからないものです。

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ニール・セダカとキャロル・キング、後ろにいるのはチャック・セイグル


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by hinaseno | 2016-11-29 13:09 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(3/6)

さて、一方のニール・セダカもマイナー・レーベルからレコードを出し続けておりました。


NEIL SEDAKA / Ring-a-Rockin’


「リング・ア・ロッキン」でした。ジェリー・リー・ルイス・タイプの曲ですね。ボビー・ダーリンよりもやっぱりニール・セダカのほうが作曲能力は高いですね。もしこの曲がヒットしていたらニール・セダカのほうがニューヨーク初のロックンローラーというふうになっていたわけです。ところがニールのロックンロールはヒットせずにボビー・ダーリンの作った曲のほうがヒットしたというわけでした。


BOBBY DARIN / Splish Splash (take 2)

(注)ここでかかるのはこの音源の2:07あたりから聞ける「Take 2」の音源の演奏前のやりとりの部分。あの独特の音色をしたギターが聴かれます。


え~イントロでギターを弾いていたのはおそらくアル・カイオラですね。「ギター、どう弾いてんだ?」みたいなことで、ちょっと弾いたという感じです。

ということでニューヨーク初のロックンローラーは結果的にボビー・ダーリンということになってしまったわけですけれども、これがヒットしていたときに1位だったのはコースターズの「ヤケティ・ヤック」でしたからアトランティック・レコードとしてはこのころはウハウハの状態だったわけですね。

ついにヒットの出たボビー・ダーリンはロックンロール路線を突っ走りました。


BOBBY DARIN / Mighty, Mighty Man


ボビー・ダーリンの「マイティ・マイティ・マン」でした。やっぱり歌うまいですよね、ボビー・ダーリンはね。


さて、ボビーよりも先に登場したコニー・フランシスは第2弾を出します。


CONNIE FRANCIS / I’m Sorry I Made You Cry


え~「アイム・ソーリー・アイ・メイド・ユー・クライ」。自信が出てきたんでしょうね。歌い上げてました。「フーズ・ソーリー・ナウ」とまったく同じ路線だったんですけれども、実はこれは36位と低調だったんですね。そこでもう次の第3弾にプレッシャーがかかりました。ここでさらに順位を落としますと「フーズ・ソーリー・ナウ」はまぐれだったということになりますからね。

この第2弾からはMGMの新しいプロデューサー、モーティ・クラフト(Morty Craft)が担当したんですけれども、まあ彼も相当あせったでしょう。いろいろと曲を探したんですけれども、なかなかいい曲がなくて。そこへドン・カーシュナーが登場します。

彼が始めた出版社に今度契約したコンビがいるということでセダカとグリーンフィールドを連れてきたんですね。その場にはボビー・ダーリンもいましたがいろいろ聴いている中でコニーは「この曲、わたしにちょうだ~い!」と叫んだのがこの曲でした。


CONNIE FRANCIS / Stupid Cupid

(注)この曲のイントロは松田聖子の「Rock'n'roll Good-bye」(作曲、アレンジはもちろん大瀧さん)ですね。今日気がつきました。


後半に聞こえるピアノはニール・セダカが弾いています。「ステューピッド・キューピッド」、ここでコニー・フランシスはニューヨーク最初の女性ロックンローラーというふうになったわけで、恋人ボビー・ダーリンの「スプリッシュ・スプラッシュ」の後を追ったということになりました。

(注)ここで大瀧さんは最後に少し笑いかけます。この日の裏テーマはボビー・ダーリンの後を”追い続ける”コニー・フランシス、ということになっているのですが、考えてみると「スプリッシュ・スプラッシュ」も「ステューピッド・キューピッド」もタイトルが語呂合わせのようになっていますね。コニーが「この曲、わたしにちょうだ~い!」と叫んだときにそれをどれだけ意識したかはわかりませんが。


それよりもこのセッションは重要な偶然がありました。この「ステューピッド・キューピッド」をアレンジしたのはチャック・セイグル(Chuck Sagle)です。彼は以前マーキュリーのスタジオでアレンジの仕事をしていたんですけれども、プロデューサーのモーティが呼んできたんですね。セダカにとってこのチャック・セイグルとの出会いは非常に大きかったんです。「ステューピッド・キューピッド」がゴキゲンなロックンロールに仕上がったのもこのチャック・セイグルのアレンジの力が大きかったんですね。

で、同じ日のセッションでもう1曲セダカの曲が録音されました。


CONNIE FRANCIS / Fallin’


え~まあ「フィーバー(Fever)」ですけどね。このブルージーなムードは100%アレンジャーのチャック・セイグルの腕によるものなんですね。セダカはこのアレンジが相当気に入ったとみえますね。

で、この2曲「ステューピッド・キューピッド」は14位、「フォーリン」は30位とランクはそう高くはありませんでしたが、コニーはニール・セダカによってロックンロール路線を始めることができたわけです。


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by hinaseno | 2016-11-27 13:07 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(2/6)


では、この時ボビー・ダーリンはどうしていたかと言いますと、前回もお話ししましたがデッカからアトランティックに移籍して、自分の路線をどれにしようかというふうに迷っていた時代だったんですね。まあしかし時代はロックンロールですからボビー・ダーリンとドン・カーシュナーのコンビはそれ風の曲を作りました。


BOBBY DARIN / Pretty Betty

(注)ここでかかったのはやはり演奏前の会話が入ったテイク違いのもの。おそらく『Roberto Cassotto - Rare, Rockin'& Unreleased』に収録されたTake 5の音源ではないかと思います。残念ながらYouTubeにはありませんでした。


え~(笑)、リトル・リチャードの「トゥッティ・フルッティ(Tutti Frutti)」ですね。

続いては「ドント・コール・マイ・ネイム」。


BOBBY DARIN / Don’t Call My Name


え~まあ(笑)、これはすぐにわかりますね。ファッツ・ドミノの「エイント・ザット・ア・シェイム」ですけども、この2曲をカップリングして売り出しましたが、まったくヒットしませんでした。

ちょうどこの時期ですね、アトランティックが待ちに待っていたリーバー&ストラーのコンビがニューヨークにやってきました。そしてコースターズのニューヨークにおける初セッションということになるんですけれども、ここでボビー・ダーリンが曲を提供していたんですね。


THE COASTERS / Wait a Minute


え~(笑)オチがいいですよね。「サーチン(Searchin')」と「ヤング・ブラッド(Young Blood)」を足した歌ですけれども。ボビー・ダーリンとドン・カーシュナーのコンビは本当にわかりやすいですね、作る曲が。このコンビは作家チームとしては大失敗でドン・カーシュナーは作家の夢を早々と捨てて出版事業に走ったのが大正解だったんですね。人生早めの切り替えが大事ということでしょうか。

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ボビー・ダーリン(左)とドン・カーシュナー(1956年春)


ニューヨークに来て本家のリーバー&ストラーがコースターズ用に書いた最初の曲が「ヤケティ・ヤック」でした。


THE COASTERS / Yakety Yak


やっぱりノヴェルティ・ソングを作らせたらこの二人にかなうコンビはいませんね。


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by hinaseno | 2016-11-25 15:34 | ナイアガラ | Comments(0)

前から予告していたように今日から何回かにわけて「アメリカン・ポップス伝パート3の第2夜」の文字起こしをします。この日の放送の大瀧さんがつけたタイトルはボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカによる「ティーンエイジ・トライアングルVol.0」。この3人の絡み合いの中で60年代ポップスの原点ともいうべき曲が作られていくストーリーは何度聞いても興奮しますが、同時にコニー・フランシスのボビー・ダーリンへのフォロー度合いも語られるところが面白いのですね。ただ、そのボビー・ダーリンがサンドラ・ディーと結婚することになることまではこの日の放送では語られません。

この日の一番の聴きどころはボビー・ダーリンの「ドリーム・ラヴァー」、コニー・フランシスの「カラーに口紅」とそのB面の「フランキー」、そしてニール・セダカの「オー!キャロル」がかかるところですね。アル・カイオラも登場します。

放送でも語られていますがコニー・フランシスの「カラーに口紅」は大瀧さんのポップスの原点。ちなみに、僕はもちろん後追いではありますが、初めてオールディーズ(大瀧さんはこの表現を使いませんが)で好きになったのがコニー・フランシスの「フーズ・ソーリー・ナウ」でした。ということなので、この日の放送でこれがかかったときにはかなり感動したことを覚えています。コニー・フランシスが「フーズ・ソーリー・ナウ」を歌うことになるエピソードを語るときに大瀧さんが声で演技をしたのが笑えました。


*  *  *


アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(1/6)


大瀧詠一です。アメリカン・ポップス伝パート3の第2夜。本日はニューヨークのポップス・シーンについてボビー・ダーリンとコニー・フランシス、そしてニール・セダカの3人に絞りまして、その3人の関係がニューヨーク・ポップス、さらには60年代ポップスを作っていくその過程をタイムラインを追いながら説明していこうと思います。

まずは前回のおさらいから。


BOBBY DARIN / Splish Splash

(注) このときにかかるのは演奏前のやりとりも入っている「Take 7」の音源(『Roberto Cassotto(Aka Bobby Darin): Rare, Rockin'& Unreleased』というCDに収録された音源のようです)。この日の放送ではこのようなやりとりの入った音源がいくつか使われています。


ニューヨーク最初のロックンローラーとなったボビー・ダーリンはブロンクスの学校時代の知り合いだったドン・カーシュナーと作家コンビを組んで音楽ビジネスをスタートしたということは前回もお話しいたしました。そしてコマーシャルの仕事をしていた時にコニー・フランシスと知り合って。コニーはすでに55年にレコード・デビューを果たしていました。デビュー曲は「フレディ」という曲でした。


CONNIE FRANCIS / Freddy


このように売れないシングルが続いて、そして4枚目がボビー・ダーリンとドン・カーシュナーの曲でした。


CONNIE FRANCIS / My First Real Love


ボビー・ダーリンもコーラスでがんばりましたが、全くかすりもしませんでしたね。そうこうしているうちにボビー・ダーリンもレコードを出すことになってメジャー会社のデッカからデビューします。


BOBBY DARIN / Silly Willy


ボビー・ダーリンもデッカから4枚シングルを出しましたが、これも全く売れませんでした。

さて、もうひとりのニール・セダカは同じニューヨークでもブルックリンですからボビーやコニーとは住んでいる場所が違いました。もっともコニーはニュージャージーでしたけれどもね。

セダカは同じアパートに住んでいたハワード・グリーンフィールドとコンビを組むことになります。それが1952年です。それにしてもこの2人が同じアパートだったというのは、まあ出来すぎのような話なんですけれども、同じ学校とか、近所に住んでいたとか、よくある話なんですよね、これがね。グリーンフィールドの方が先輩だったので出版社に曲を売り込みに回っていたんですね。するとプログレッシヴ・ミュージックという会社がありまして、そこが2人の曲を買ってくれました。その曲はアトランティックのクローヴァーズが吹き込んだのです。


THE CLOVERS / Bring Me Love


クローヴァーズの「ブリング・ミー・ラヴ」でした。この2人の才能を認めた出版社のジェリー・ウェクスラーはもう1曲彼らの曲を取り上げて女性グループのクッキーズに歌わせました。タイトルは「パッシング・タイム」。


THE COOKIES / Passing Time


このクッキーズとはセダカは6年後に再会することになるんですけれど、まあどちらにしてもこの2曲はB面で、言うなれば数合わせのB面作家として使われたわけですね。しかしアトランティック・レコードの重鎮であったところのジェリー・ウェクスラーは後に「あの2人とはあの時に正式に契約をしておけばよかった」というふうに後悔したそうです。

セダカはこの当時、まだハイスクールに在籍中でした。アブラハム・リンカーン・ハイスクールという由緒ある名前ですね。ブルックリンにあるこの学校なんですけれども、他にもたくさんの音楽関係者を輩出しています。ハワード・グリーンフィールドも先輩でした、そこの学校の。それからポマス&シューマン(Pomus & Shuman)のモート・シューマン、大先輩ですね。他にはボブ・フェルドマン、ニール・ダイアモンド、この2人は後輩です。そして学校の同僚と組んだグループがトーケンズでした。


THE TOKENS / I Love My Baby


このトーケンズもヒットが出るのはこれから5年後のことなんですね。

コニー・フランシスはMGM、ボビー・ダーリンはデッカとメジャー会社だったんですけれども、ニール・セダカはマイナー・レーベルからのスタートでした。しかし結局3人とも全くヒットせずでエルヴィスが「ハートブレイク・ホテル」で登場した1956年のことでしたが、この3人にとってはスターへの道はまだ遠かったのでした。

翌57年、コニー・フランシスにとっては試練の年となったんですね。というのもこの3年間で9枚もシングル盤を出したんですが1曲もヒットしなかったんです。さすがにMGMレコードもしびれを切らして、次の10枚目のシングルもヒットしなかったら契約を打ち切るというふうに言ってきたんですね。そこでステージパパの登場ですね。

パパは「いいかいコニーよ、おまえは18曲も無駄にした。だから最後だから私の大好きな曲を歌ってくれよ」というふうに頼んだんです。それは30年以上前の古い歌でした。


ISHAM JONES ORCHESTRA / Who’s Sorry Now


コニーのパパはこの歌が大好きで、いつも歌っていたんだそうですね。しかしコニーは「こんな古くさい歌はイヤよ」と言って断ったんだそうですけれども、まあ結局は最後だということで押し切られて吹き込みをすることになりました。ま、しかし結果的にはそれが大ヒットとなってコニー・フランシスはようやく有名になれたわけです。


CONNIE FRANCIS / Who’s Sorry Now


「フーズ・ソーリー・ナウ」、コニー・フランシスでした。この曲がチャートを賑わしていたのは58年の4月頃ですから、すでにマーティ・ロビンスのポップ・カントリー調の曲は市民権を得ていた時期ですね。ロッカ・バラードとポップ・カントリーを足したようなアレンジが成功の原因だったんじゃないでしょうか。

このレコーディングに関してコニー・フランシスはおもしろいことを言っています。「ここまでのシングルは常にだれ風に歌おうというふうに考えていた。しかしこの時はだれの真似もしなくて自然に歌えた」と言っているんですね。ですからコニー・フランシス自身の歌い方を見つけたということなんでしょう。

ということでボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの3人の中で最初に登場したのはコニー・フランシスでした。


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by hinaseno | 2016-11-24 12:55 | ナイアガラ | Comments(0)

前回まで「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」の文字起こしを3回に渡って行ってきました。文字起こしをしたのは50分のプログラムのちょうど30分のところまで。このあとエルヴィス、そしてパット・ブーンの話になっていき、それはそれでまた興味深い話が続くのですが、今回のブログのテーマであるボビー・ダーリンとアル・カイオラの話からはそれてしまうので残りの20分間の文字起こしは省略することにします。


前回のブログのタイトルにもしたように、60年代ポップスのサウンドの原点となったのはポール・アンカの「ダイアナ」と、曲をプロデュースしたドン・コスタと、あのフレーズをギターで演奏したアル・カイオラだったという大瀧さんの指摘は、そのあとにかかった曲を聴いてわかるように本当に鋭いというか衝撃でした。

ただ僕なりに補足をすれば(もちろん大瀧さんはそれを十分に理解されていたわけですが)アル・カイオラが「ダイアナ」でやったギター・フレーズをそのまま演奏したボビー・ダーリンの「ドリーム・ラヴァー」と、さらにその「ドリーム・ラヴァー」でピアノを弾いたニール・セダカが同じサウンド(ギターがアル・カイオラだったかどうかは不明)を使って作った「オー!キャロル」の2曲が大ヒットしたというのがアメリカン・ポップス的にはとりわけ重要だったように思います。

でも、「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」ではおそらく時間の関係もあって大瀧さんはその部分をさらっと流しただけでした。もちろんこのプログラムを作った時すでに、その部分に焦点を当てた特集を後日組むことを考えていたにちがいありません。それが「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」でした。全20回の「アメリカン・ポップス伝」のプログラムの順序で言えば、この日の放送の2回後のこと。


「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」のテーマはボビー・ダーリン、ニール・セダカにコニー・フランシスを加えた3人組の物語。さらにこの3人の共通人物であるアルドン・ミュージックのドン・カーシュナーも含めて、大滝さんはこの日の特集のタイトルを「ティーンエイジ・トライアングル Vol.0」と名付けました。実質的にはこの3人こそがアメリカン・ポップスの原点であるということですね。

ということで次回からは「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」の文字起こしをしようと思います。そちらは全文文字起こしする予定なので何日かかるやらです。


最後にそれを書き起こす前にいくつか補足的なことを。

「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」の文字起こしした部分の最後にバディ・ホリーの話が出てきます。彼の亡くなり方が神話的だったために、映画『アメリカン・グラフィティ』でも語られるように「バディ・ホリーが死んでロックンロールが死んだ」という言葉が定説のようになってしまっているのですが、大滝さんはそれに異を唱えていますね。58年暮れにはバディ・ホリー自身もロックンロールからポップスへの路線変更をしていたと。これもとても重要な指摘。

前回の文字起こしした部分の最後にかかったのはバディ・ホリーの「It Doesn't Matter Anymore」(作曲はポール・アンカというのがとても興味深いですね)。これが録音されたのが1958年10月21日。場所はニューヨーク。

実はこの日録音された4曲はどれも素敵な曲ばかりなんですね。「It Doesn't Matter Anymore」の他にはバディ・ホリー自身が書いた超名曲「True Love Ways」、ブライアント夫妻が曲を書いた「Raining In My Heart」、そしてノーマン・ペティが曲を書いた「Moondreams」。

で、注目すべきはこの日のセッションでギターを弾いていたのがまさにアル・カイオラ。あの♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫は聴かれませんが、でも、バディ・ホリーがあの飛行機事故で亡くなる3ヶ月前に録音されたこれらの曲でアル・カイオラがギターを弾いていたというのはとても興味深いことですね。


ところでバディ・ホリーとボビー・ダーリンは58年頃にはかなりの親密な交流があったようで、バディ・ホリーが58年の7月にニューヨークで録音した2曲(「Early In The Morning」と「Now We're One」)はいずれもボビー・ダーリンの曲。2曲ともロックンロールですね。

で、あのバディ・ホリーとリッチー・ヴァレンスビッグ・ボッパーの3人が飛行機事故で亡くなった59年2月のツアーにどうやらボビー・ダーリンも誘われていたようです。結果的にはそれ以前の約束があったためにボビー・ダーリンは断ったようですが、もしもボビー・ダーリンがこのツアーに加わっていたならば「Dream Lover」は生まれなかったかもしれません。「Dream Lover」のデモが作られたのはまさにその59年2月のことでした。ここで亡くなっていたらボビー・ダーリンはバディ・ホリーほどの語られるべき神話もないままで終わるミュージシャンになっていたでしょうし、なによりもその後の魅力的なアメリカン・ポップスの重要な部分が欠けたことになっていたかもしれません。


そういえば『アメリカン・グラフィティ』といえば、この日のブログでも紹介したこの会話も心に残ります。

「君、コニー・スティーヴンスにそっくりだね」
「ホントにそう思う? でも、私はサンドラ・ディーに似てるかなって思ってるけど」

このサンドラ・ディーと結婚したのがまさにボビー・ダーリン。結婚したのは1960年のこと。これを踏まえた上での「ティーンエイジ・トライアングル Vol.0」の物語を次回から。

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by hinaseno | 2016-11-19 14:08 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート2第5夜(3)


彼(アル・カイオラ)は(「ダイアナ」で弾いた)このフレーズ、♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫を他のシンガーのセッションでもじゃんじゃん弾いたんです。

BOBBY DARIN / Dream Lover


この曲でピアノを弾いていた人もこの同じタイプの曲を出しました。

NEIL SEDAKA / Oh! Carol


このキャロルはキャロル・キングのことだというのはもう有名な話になっていますけれども、このキャロル・キングもポール・アンカの「ダイアナ」に感激して すぐにドン・コスタのもとに走ったんですね。そして彼のアレンジでデビュー曲を発表しました。

CAROLE KING / Under the Stars


さて、この♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫のギター・フレーズの話を続けましょう。アル・カイオラはじゃんじゃんこのフレーズをあちらこちらのセッションで弾きました。

JACKIE WILSON / Lonely Teardrops


この曲を作ったベリー・ゴーディー(Berry Gordy)は後にモータウン・レコードを作るんですけれどもね。これまたみなさんご承知のことですけれども、このときはまだ作曲家でした。

ドゥーワップのクレスツも、

CRESTS / The Angels Listened In


日本では九ちゃんでお馴染みの、

JIMMY JONES / Good Timin'


ブライアン・ハイランドも、

BRIAN HYLAND / Four Little Heels


そして極め付きは、

BILLY VAUGHN / Wheels


ここまで脇役であったこのギター・スタイルがついにメインとなったヒット曲が出たということになるんですね。まあこれやってますと番組が終わりますのでこのへんにしますけれども、このサウンドが60年代ポップスとなったんですね。原点は「ダイアナ」でドン・コスタでアル・カイオラだったというわけです。


さて、ここまできますとさしものロックンローラーも抵抗しきれなくなったんですね。♫トレインケプトアローレンオーナイロ〜ン(The train kept a-rollin all night long)♫と歌っていたジョニー・バーネットも、

JOHNNY BURNETTE / Dreamin'



♫ビーバッパルーラ(Be-Bop-A-Lula)♫のジーン・ビンセントも、

GENE VINCENT / Mister Loneliness


「サマータイム・ブルース」のエディ・コクランも、

EDDIE COCHRAN / Cherished Memories


なんとこの邦題は「コクランのズンタ・タッタ」でした(笑)。

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さて、ニューオーリンズで素朴な♫ローディローディローディミスクローディ(lawdy, lawdy, lawdy, Miss Clawdy)♫を歌っていたロイド・プライスまでも、

LLOYD PRICE / I'm Gonna Get Married


ニューオーリンズの匂いが残ってますけれどもアレンジはドン・コスタでした。ドン・コスタという人はあのニューオーリンズ・サウンドもこのような都会的なサウンドに仕立て上げるんですね。

バディ・ホリーも結婚した58年の秋頃にはニューヨークに移り住んでいたんですね。で、クリケッツのメンバーはテキサスのラボックを離れたくないということで残ったんです。ですからバディ・ホリーとクリケッツはもう別れ別れになっていたんですね。で、ホリーはすでにソロの道を歩んでいたんです。58年10月ニューヨークで録音された曲です。

BUDDY HOLLY / It Doesn't Matter Anymore


言っておきますがこれは悪くないんですね。これはこれでバディ・ホリーの特徴が出ていますよね。作曲は「ダイアナ」のポール・アンカでした。

で、よく「バディ・ホリーが死んでロックンロールが死んだ」と言われますけれども、もう58年暮れにホリー自身も多少の路線変更の兆しがあったんですね。ただ59年に音楽キャリアを閉じなければいけなかったので、ジョニー・バーネットやジーン・ヴィンセント、エディ・コクランのように如実な変化が感じられる曲が存在していないというわけですね。これが神話として存在できる要因なのではないかというふうに(笑)皮肉屋である私は見ております。

1956年に始まったロックンロール時代は59年に幕を閉じたというわけです。


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by hinaseno | 2016-11-18 12:23 | ナイアガラ | Comments(0)