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by hinaseno
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カテゴリ:ナイアガラ( 256 )



さて、労働歌というと、明けて57年、1月に初登場して2月には5位と大ヒットした労働歌がポップチャートに登場しました。

Banana Boat Song / HARRY BELAFONTE

まあ、この頃♫今月ァ足りない借りねばならぬ♫っていうふうに流行ったんですけどね。みんな「デイ・オー(Day-O)」と覚えていますがタイトルは「バナナ・ボート」。これを歌ったのはハリー・ベラフォンテ。デビューは古くて49年にレコードを出しています。そのあと図書館でロマックス親子のライブラリーを勉強してフォークソングに興味を持ったんですね。で、ヴィレッジ・ヴァンガードで歌うようになって、そこにレコード会社のディレクターが見にきて契約を結んで。で、54年にアメリカ文学の父と言われるマーク・トウェインをメインテーマに据えたファースト・アルバムを作りました。出したときはすぐには売れませんでしたが、2年後の56年、これまた1956年なんですね、突然チャートの3位を記録したんです。シングル・ヒット全くなくてアルバムが3位というのはこれはおそらく当時のポップ史上初めてのことだったと思いますね。
で、1か月後に発売された2枚目のアルバムは1位です。100万枚以上売り上げました。3枚目のアルバムもまた1位。56年には2枚のゴールドディスク・アルバムを獲得したんですからものすごいブームでした。この年はエルヴィスもゴールドディスク2枚でしたから、アルバム・チャートではエルヴィスとハリー・ベラフォンテは互角の戦いをしていたわけです。翌57年の4枚目は2位でしたがゴールドディスクを獲得しています。とにかくこの頃はベラフォンテ・ブーム、カリプソ・ブーム。以前のマンボーのようにカリプソーという言葉が流行語になっていろいろなところで使われました。

Day Dah Light / EDRIC CONNOR

カリプソーとして流行しましたが実際はメント(Mento)と呼ばれる音楽形式で、ベラフォンテのバージョンは今かかっておりましたところのエドリック・コナーのもとに、さらに次のルイ・ベネットのバージョンを加味したものだと言われています。

Day Dah Light / LOUISE BENNETT

「デイ・ダー・ライト」でした。実はベラフォンテの「バナナ・ボート」がチャート・インする2週間前にタリアーズが「バナナ・ボート・ソング」というタイトルでレコードを出しておりました。

The Banana Boat Song / THE TARRIERS

このタリアーズのリーダーはエリック・ダーリン(Erik Darling)。ウィーヴァーズに影響を受けて56年にタリアーズを結成しました。彼らの「バナナ・ボート・ソング」の方がベラフォンテの「デイ・オー」よりも一つ上の4位にチャートされました。
このタリアーズのリーダーのエリック・ダーリン、彼はピート・シーガーがウィーヴァーズを抜けたときにウィーヴァーズのメンバーになりました。で、そのあと作ったブループがルーフトップ・シンガーズ(THE ROOFTOP SINGERS)でした。

注:ここで大瀧さんはおそらくルーフトップ・シンガーズの代表曲、例えば「Tom Cat」か「Walk Right In」をかける予定だったのではないかと思いますが、入れ忘れたか、あるいは編集の過程で誤ってカットしてしまったのではないかと思います。
で、かかったのはこの曲。

Marianne / THE EASY RIDERS

このカリプソブームやフォーク復活の動きは徐々に他の会社も参加してくるんですね。まずはCBSのミッチ・ミラー。今かかっている「マリアンヌ」を歌っているのはイージー・ライダースです。この曲はカリプソ作家として有名なローリング・ライオン、吠えるライオンですかね、この曲をもとにしています。

Mary Ann / ROARING LION

イージー・ライダースのリーダー、テリー・ギルキーソン(Terry Gilkyson)は作家として活動するかたわら、50年代初期にはウィーヴァーズに呼ばれてゲスト・シンガーとして時々歌っていました。まあ、もともとフォークに縁があったわけですね。そして56年にイージー・ライダースを結成して、この♫All day all night, Marianne♫は4位の大ヒットとなりました。
ではもう1曲イージー・ライダースの曲を聴いてみましょう。

Green Fields / THE EASY RIDERS

この曲はのちに同じCBSのフォーク・グループ、ブラザース・フォアがカバーして大ヒットさせましたが、オリジナルはこのイージー・ライダースでした。

ここまではフォーク関連のアーティストでしたが、いよいよポップ側からのアプローチも始まります。
57年に「ハニーコーム」というナンバー・ワン・ヒットがありました。

Honeycomb / JIMMIE RODGERS

これを歌っていたのはジミー・ロジャース。彼はもともとフォークシンガーになりたかったという人で、第2弾シングルに選ばれたのはウィーヴァーズのレパートリーだった「キッシーズ・スイーター・ザン・ワイン」。

Kisses Sweeter Than Wine / JIMMIE RODGERS

だんだん上がっていく構成なので、なかなかカットしづらい曲なのですが、邦題は「ワインより甘いキッス」という、これが第3位のヒットとなりました。レコード会社はギャンブラーのジョージ・ゴールドナー(George Goldner)とモーリス・レヴィ(Morris Levy)が作ったルーレット・レコードです。この会社がフォークソングというジャンルに本格的に手を出してきたわけですから、ブームもそろそろ本格的になってきたということですね。
プロデューサーはヒューゴ&ルイージ(Hugo & Luigi)という、この2人はフォークソングというジャンルがヒット曲の宝の山であるということをしっかりと見抜いていたチームでした。
ヒューゴ&ルイージはこの後フォークだけでなく、60年代ポップスを作った重要なチームということになるんですけども、その話はまた次の機会ということで。
ジミー・ロジャースはこの後もトップ10ヒットを連発するビッグ・スターになったんですが、アルバムの中からの曲を聴いてみましょう。

Evergreen Tree / JIMMIE RODGERS
注:1番をすべてかけます。

日本ではクリフ・リチャードのヒット曲で有名ですが、オリジナルはジミー・ロジャースでした。作家はアーロン・シュローダー(Aaron Schroeder)とウォーリー・ゴールド(Wally Gold)の名コンビで、ポップスの作曲家たちもフォーク調の需要が高まってきたということでしょう。しかしジミー・ロジャースは自らをフォークシンガーと名乗って『Jimmie Rodgers Sings Folk Songs』とか『An Evening Of Folk Songs』とか、しっかりとフォークソングという文字を入れたアルバムを発表していきました。アルバムの中にはフォーク・グループのカンバーランド・スリー(The Cumberland 3)という、そこのメンバーの曲もありました。

Find the Girl / JIMMIE RODGERS

「ファインド・ザ・ガール」という曲ですが、作曲はジョン・スチュアート(John Stewart)です。1961年、キングストン・トリオのリーダー格のデーヴ・ガード(Dave Guard)が脱退して新メンバーとして加入したのがこのジョン・スチュアートでした。

Where Have All the Flowers Gone / KINGSTON TRIO

ようやく出だしのキングストン・トリオの話に戻ってまいりました、ってこれじゃあ「やかん()」だね、こりゃ。
ジョン・スチュアートが新加入した第2次キングストン・トリオがこの61年に吹き込んだのが「花はどこへ行った」でした。ヒットしたのはそれから3年後のことだったんですが、まあそのキングストン・トリオやそれ以降のフォーク・シーンについてはまた次の機会にお話しすることといたします。

※落語の「やかん(薬缶)」のことのようです。
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by hinaseno | 2016-11-05 11:53 | ナイアガラ | Comments(0)

この再結成コンサートではたくさんの持ち歌が披露されましたが、その中の1曲「ロック・アイランド・ライン」を聴いてみましょう。

Rock Island Line / THE WEAVERS

シカゴの鉄道のことを歌った歌ですけれども、これを最初に録音したのはジョン・ロマックス、歌ったのはレッドベリー。

Rock Island Line / LEADBELLY

レッドベリーのバージョンは冒頭に語りがあるんですけどね、ウィーヴァーズはあそこをカットしたバージョンでした。ところがこの歌をレッドベリーのバージョンの、この語りありのバージョンでカバーしたレコードが出たんですね。それがなんと1956年。まさに「ハートブレイク・ホテル」が1位にランクされていた頃にトップ10に飛び込んでくるという珍事が起きておりました。

Rock Island Line / LONNIE DONEGAN

歌っていたのは英国人のロニー・ドネガン。録音されたのは54年の7月でした。当時はイギリスではロニー・ドネガンやクリス・バーバー(Chris Barber)が中心となってスキッフルと呼ばれた音楽がイギリスでブームになっていたんですけれども、それにしてもアメリカで全く無名の、しかも英国のシンガーのレコードが突然トップ10に入ってくるというのはかなり異常な出来事でした。
考えられるのはこの曲がウィーヴァーズのレパートリーとしてかなり有名だったこと、そしてエルヴィスの登場で世はロックンロール時代になっていたということ。ロニー・ドネガンのスキッフルはどこかエルヴィスのサン・レコード時代と共通するものがあります。で、エルヴィスのファースト・アルバムはこの頃ゴールド・ディスクを獲得していました。この中にはサン・レコードの曲が5曲も入っていたんですね。ですからリスナーはあのタイプのサウンドもすでに馴染みがあったわけです。同じようなものとしてとらえられたんじゃないでしょうか。
ドネガンのバージョンはウィーヴァーズのバージョンにはないハードなビート感がありました。これがこの時代に受け入れられた要素だったと思います。イギリスでこの曲が大ヒットしたことを知ったデッカ・レコードはカタログから削除してしまったウィーヴァーズのレコードをいまさら発売するわけにもいきません。そこで新人にこの曲を歌わせることを企画します。歌わされたのは契約したばかりの新人ボビー・ダーリン。

Rock Island Line / BOBBY DARIN

ボビー・ダーリンは実はこれがデビュー曲だったんですね。この歌でテレビの初出演を果たしたボビー・ダーリンの映像を見たことがありますが、手をかざしてかなり頻繁に見るんですね。
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なんのことかと思ったら、手のひらにびっしりと歌詞が書いてあるんですよ。会社に無理やりやらされたという証明ですね。もちろん全くヒットはしませんでした。

Sixteen Tons / TENNESSEE ERNIE FORD

この曲は純粋なフォークソングではありませんが、ウィーヴァーズが音楽シーンに復帰した55年12月にトップ10入りして8週連続のナンバー・ワン・ソングになりました。炭鉱労働の歌で、いかにも古くからのフォークソングに聞こえますけれども、カントリー・シンガー、マール・トラヴィスが46年に作った歌です。この頃フォークのアルバムがヒットしていたので、キャピトル・レコードも何かフォーク的な歌を作ってみないかとマール・トラヴィスにアドバイスしました。実際このトラヴィスのお父さんはケンタッキーの炭鉱で働いていて、それをもとにしてこの歌が作られました。

Sixteen Tons / MERLE TRAVIS

46年に『Folk Songs of the Hills』というアルバムを作って、その中に入っていたんですね。
ところがですね、なんとこのときに、47年、放送局にこのアルバムをかけないようにとFBIが圧力をかけたんですね。まあアルバムの曲ですからラジオ局でかからなければリスナーは知る由もありませんね。そこで埋もれた曲というふうになっていたわけです。
で、時は流れて55年、同じキャピトル・レコードのディレクター、ケン・ネルソン(Ken Nelson)、「Be-Bop-A-Lula」のときに出てきましたが、彼がこの曲を思い出して、テネシー・アーニー・フォードにカバーしたらどうかというふうに持ちかけたんですね。
55年といいますとマッカーシー議員も失脚していますし、まあそろそろいいんじゃないかと思ったんでしょうね。ただ、やはり怖かったのかB面で出したんですね。しかしまたDJがそのB面ばかりかけたのでクリスマスまでに200万枚を売り上げるという特大ヒットとなったのでした。
55年に再結成したウィーヴァーズ。再結成コンサートでもこの曲を歌っておりました。

Sixteen Tons / THE WEAVERS

新作でも古典になったという例です、「シックスティーン・トンズ」。
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by hinaseno | 2016-11-04 11:26 | ナイアガラ | Comments(0)

戦後の冷戦構造からアメリカでは赤狩り運動が本格化しました。まずはハリウッドの脚本家や監督が標的にされまして、いわゆるハリウッド・テンと呼ばれた人々が実刑判決を受けたんですね。それが1950年。まさにウィーヴァーズの曲が1位になった年です。
また、6月には朝鮮戦争が勃発しました。しかしウィーヴァーズの人気がものすごくヒット曲を連発するので、当局にとっては目障りになってきたわけですね。そして追求は映画界から音楽界へと普及してこのウィーヴァーズがやり玉にあげられたんです。
メンバーのリー・ヘイズとピート・シーガーは公聴会に呼ばれます。特にリー・ヘイズは何度も呼ばれて、しかもその模様はテレビで全米中継されました。このあたりはウディ・アレンの『ザ・フロント』とかロバート・デニーロが出た『真実の瞬間』などを観るとわかります。そしてウィーヴァーズはFBIからラジオとテレビの出演の禁止を言い渡されたんです。
FBI長官はジョン・エドガー・フーヴァー。イーストウッドが『J・エドガー』で映画化しましたが、在籍48年、大統領が8人も変わる間、権力の座に居続けたあのフーヴァーです。ピート・シーガーはこの期間常にFBIの監視状態に置かれて、逮捕はされなかったが毎日牢獄にいるみたいな気分だったと発言しています。
チャップリンも52年に国外追放命令を受けました。また、フォークソングのアーカイブを行なったアラン・ロマックスもこの時期お祖父さんの母国である英国に逃れています。
ウィーヴァーズのレコードを販売していたデッカ・レコードは53年、彼らとの契約を破棄するだけでなく、彼らの楽曲をデッカのカタログから全曲削除したんですね。それだけマッカーシーとフーヴァーが巻き起こした赤狩り旋風はものすごいものだったんです。ですからヒットしそうな曲がたくさんあったにもかかわらず、どのレコード会社もカバーするのには二の足を踏んだというわけで、1958年の「トム・ドゥーリー」が1位になるまで、「グッドナイト・アイリーン」から8年間、フォークソングのNo.1がなかったというのはこういう背景がありました。

まあしかし議員の中にもマッカーシーはやりすぎではないかという声が上がるようになって、マッカーシズムに立ち向かうテレビのキャスターも登場してきたんですね。
そのキャスターとはエドワード・マロー(Edward Murrow)。これを映画化したのがジョージ・クルーニーの『グッドナイト&グッドラック』です。これを観ますとマローの奮闘ぶりと、当時のマッカーシズムがどのようなものであったかというのがわかります。
で、徐々に反マッカーシーの流れができてきて、54年12月、上院でマッカーシーに対する譴責決議が多数となり、ついにマッカーシー本人はここで失脚しました。
その1年後の55年12月、ウィーヴァーズははれてカーネギーホールで再結成コンサートを開いたのでした。

Darling Corey (Live at Carnegie Hall) / THE WEAVERS

デビュー当時の曲はデッカ・スタジオで華麗なストリングスとかホーンのアレンジメントが施されていましたが、ライブでは4人の素朴な演奏で、スタジオ録音よりもこのライブ盤がウィーヴァーズの本来の姿だったんですね。

Wimoweh (Live at Carnegie Hall) / THE WEAVERS

拍手の感じからこの曲の浸透具合がわかりますが、いかに当局が禁止してもその間ファンはレコードを聴いていたわけですね。
そしてコンサートの締めの曲はこの「グッドナイト・アイリーン」でした。

Goodnight Irene (Live at Carnegie Hall) / THE WEAVERS

(注:大瀧さんはこの「グッドナイト・アイリーン」を最後の拍手と歓声の部分も含めて4分間フルコーラスで流します。限られた時間の中で数多くの曲をかける「アメリカン・ポップス伝」で1つの曲をフルコーラスで流すのは極めてめずらしいことでした)

う〜ん、感動的なコンサートだったということがわかりますね。まあ曲も最後なのでギターのチューニングも怪しくなってきてましたが、いかに聴衆は彼らの再結成を待ち望んでいたのかというのがこの拍手でわかりますね。
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by hinaseno | 2016-11-03 11:13 | ナイアガラ | Comments(0)

それにしても51年から58年の間に1曲もないというのは不思議ですよね。調べてみますとなんと1950年に1曲あったんですね。で、今回は51年から始めてしまったのでキングストン・トリオが登場するまでありませんでした。その50年の1位の曲はウィーヴァーズの「グッドナイト・アイリーン」。

Goodnight Irene / THE WEAVERS

これが50年の8月から13週も1位を続けたという超弩級の大ヒットでした。同時期にシナトラが5位、ジョー・サタッフォードが9位、レッド・フォーリーとアーネスト・タブが10位にランクされるという、もう一大現象だったんですね。
この曲もフォークソング特有のオリジナルがわからないというものですが、原点とされているのはレッドベリーのバージョンです。

Goodnight Irene / LEADBELLY

この録音はアメリカの国立議会図書館に所蔵されているものです。日本でいいますと国会図書館ですね。そのアメリカの議会図書館ではフォークソングのアーカイブを作っていました。
1934年、その民謡資料室にコンサルタントとして就任したのがジョン・ロマックス(John Lomax)。彼はフィールド・レコーディングという画期的な方法を持ち込んだんですね。それは車に録音機を積んで各地を歩くというもの。
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『キャデラック・マン』という映画がありました。チェス・レコードの創設者を主人公にした映画ですが、その中でマディ・ウォーターズのところへ「君の歌を録音させてくれ」とジョン・ロマックスが登場するシーンがありました。車のトランクを開けると録音機があって。当時は円盤録音なんですね。レコードに直接録音するという方式で、マディ・ウォーターズがスライドギターを弾きながら歌っていました。
ジョン・ロマックスの息子アラン(Alan Lomax)も手伝うようになって、全米をかなり広範囲にわたって歩いて、ときには牢獄の中まで録音機を持ち込んで収集を行いました。
日本でも1960年に町田佳聲(かしょう)さんとNHKが民謡調査というのを行なって、日本全国をまわって民謡を収集して、現在でもNHKのライブラリーとして残されています。
このロマックス親子の努力で充実したフォークソングのアーカイブができたんですね。図書館に行けばだれでもいつでも閲覧できたり聴いたりすることができました。
またレコードや本でも出版されて、外国の人も研究できたという。フォークムーブメントの基本となったのがここのアーカイブでした。たくさんのミュージシャンや作曲家がここのアーカイブにある曲をヒントにしていろいろな曲を作っています。商業ポップスの殿堂ブリルビルディングのライターたちもネタ探しに使っていますね。
では、レッドベリーの録音からのちにカバーされたりヒントにされた曲を聴いてみましょう。

Take This Hammer / LEADBELLY

Cotton Song / LEADBELLY

Match Box Blues / LEADBELLY

これはカール・パーキンスの「Match Box」ですね。「Take This Hammer」は「天使のハンマー」の原点。「Cotton Song」は「Cotton Fields」として有名になりました。

50年に大ブームとなったウィーヴァーズですが、メンバーはリー・ヘイズのピート・シーガーらの4人の編成で、ピート・シーガーが住んでいたグリニッジ・ヴィレッジのアパートで48年に結成されました。しかしリー・ヘイズとピート・シーガーはその前の40年からアルマナック・シンガーズというグループに属していました。メンバーはたくさんのミュージシャンが入れ替わり立ち替わりというグループだったんですけれどもね。その中にはウディ・ガスリーもおりました。

House of the Rising Sun / ALMANAC SINGERS

時代は太平洋戦争の真っ只中で、彼らの主張は反戦、反レイシズム、ユニオン結成と、これがまあ主なものでウディ・ガスリーの映画『わが心のふるさと』を見ますとこの時代の雰囲気がよくわかりますよね。
そのグループの中心人物であったところのリー・ヘイズとピート・シーガーが戦後に結成したのがウィーヴァーズであったわけです。「Goodnight Irene」は200万枚の大ヒットで、続く第2弾シングルは11位でしたがB面はこの曲でした。

(The Wreck of the) John B / THE WEAVERS

このあと第3弾シングルは一ヶ月後に出されてこれが4位、さらに二ヶ月後の第4弾は2位ととにかくものすごい人気だったんですね。
で、第5弾シングルは「Kisses Sweeter than Wine」、でした。

Kisses Sweeter than Wine / THE WEAVERS

これは19位でしたがB面の「聖者の行進」も27位と両面ヒットとなりました。
この曲はレッドベリーが歌っていたものをピート・シーガーが改変したものなんですね。では、レッドベリーのバージョンを聴いてみましょう。「If It Wasn't for Dicky」。

If It Wasn't for Dicky / LEADBELLY

レッドベリーは12弦ギターの名手でもありました。レッドベリーはグリニッジ・ビレッジでアイリッシュの歌手がこの歌を歌ったのを聴いて自分で改変したそうです。
このようにフォークソングというのは自由に自己流解釈ができるというのが最大の面白味で、誰が作ったのかよりもどのように解釈したのか、どのようにアレンジしたのかというのが聴き所なわけですね。
翌52年になってもウィーヴァーズの勢いは止まりませんでした。1位はありませんでしたが、ヒット曲が続きました。

Wimoweh / THE WEAVERS

これは14位でしたけれども、のちに世界的に大ヒットとなりました。続いてはまたまたレッドベリーのレパートリーから「Midnight Special」。

Midnight Special / THE WEAVERS

これは30位でしたが、ここでぱったりとレコード発売が止まります。人気が落ちたからではないんですね。例のマッカーシズムです。
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by hinaseno | 2016-11-02 12:19 | ナイアガラ | Comments(0)

唐突ですが、今日から何回かに分けて「大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝Part4 第3夜」の文字起こしをしてみようと思います。
この日の放送は「ポップ・フィールドにおけるフォークソングの歴史」がテーマ。

フォークソング!? 
でした。

放送された日の翌日のブログ(実際には放送は深夜だったので同じ日)を読み返してみるとやはり驚きを隠せなかったようで、例えば「アメリカン・ポップス伝パート4、第3夜はなんとフォーク・ソング。びっくりでした。まさかポップス伝にフォーク・ソングの話が出てくるなんて。全国のナイアガラーは唖然呆然だったのではないでしょうか」とか、「昨夜の放送は、僕個人としても驚いたというか、かなり戸惑った」とかという言葉を書いています。正直に言えば「驚き」というよりは「失望」に近いものがあったのかもしれません。
前夜が50年代のウェストコースト事情ということだったので、その流れで60年代のウェストコーストの話になってビーチ・ボーイズなんかが登場してくるかと期待していたらフォークソングだったんですね。
というわけだったので、他のプログラムのときのようなわくわく感は全くない状態で放送を聴いてしまいました。さらに言えばこのときの放送は全部で20回放送された「大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝」でいちばん聴いた回数が少ない。たぶん放送された日と、その翌日にブログを書くために聴いた2回だけではないかと思います。というわけで内容はすっかり忘れていました。

それを放送されてから3年も経って聴いてみようと思ったきっかけはボブ・ディランのノーベル文学賞受賞でした。実際にはこの日の放送にボブ・ディランは登場しないのですが、大瀧さんがフォークソングについて何を語られていたか聴いてみたくなったんですね。で、聴いてみたら、最初に聞いたときとは別の意味で驚きの連続。これほどに内容の深いものだとは当時全く考えていませんでした。

あまりはじめにいろいろと書かないようにしますが少しだけいえばこれが放送されたのが8月15日という日だったということ。
大瀧さんは「アメリカン・ポップス伝パート3」を完成させた後で、たぶんこの8月15日という日にこの内容の放送をすることを考えて準備されたはず。
さらに言えば「アメリカン・ポップス伝パート3」が完成したのはおそらくそれが放送された2012年12月。その2012年12月に何が起こったかというのはここにはあえて書きませんが、そこで起こったことがこの日の放送の内容に確かにつながっているんですね。
でも、情けないことですが、放送されたときにはまだ気づかなかったことが多すぎました。今になって考えてみれば、ということだらけ。いつものことながら大瀧さんの先見の明には驚かされます。
というわけで「アメリカン・ポップス伝パート4 第3夜」を。

    * * *        * * * 

大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝パート4、第3夜はポップ・フィールドにおけるフォークソングの歴史です。ここまでパート1からパート4、昨晩の2回目まで全部で17回のプログラムを放送してまいりましたが、1曲もフォークソングがかかっておりませんでした。
フォークソングはポップスじゃないのか? なぜここまでフォークは1曲もなかったのか? その謎を今回解いていきたいと思います。
まずはこの曲から。

Tom Dooley / KINGSTON TRIO

キングストン・トリオのこの「トム・ドゥーリー」が1位になったのは1958年の11月です。もっともこの曲自体はアルバムに収録されていたもので、最初からシングル・カットはされていませんでした。アルバムは58年6月に発売されていて、キングストン・トリオはアルバム・デビューだったんですね。で、ローカル局のDJがアルバムに収められているこの「トム・ドゥーリー」が気に入って何度も何度もかけているうちにリクエストが集まってきて、それから会社がシングル・カットしたと。そしたら1位になったと。そういうめずらしいパターンでした。
エルヴィスのような人気シンガーの場合ならアルバムからシングル・カットして1位になるというのは全然めずらしくなかったんですけれども、デビューしたての新人が、最近はアルバム・デビューというのはあたりまえになりましたが、1958年にアルバムでデビューするっていうのは全く考えられない時代だったんですね。まだSP盤も発売されていた時期ですから。シングル・ヒットが何曲か出た後にアルバムを発売するというのが通常のパターンだったわけです。その既成概念を破ったのがこのキングストン・トリオで、60年代中盤以降のアルバム時代の先駆けともなりました。
曲そのものはキングストン・トリオのオリジナルではなくて古くから歌われていたフォークソングで、キングストン・トリオはフランク・ワーナーのバージョンをもとにしているというふうに言われています。

Tom Dooley / FRANK WARNER

また、このフランク・ワーナーの前にはフランク・プロフィットという人が歌っていました。

Tom Dooley / FRANK PROFFITT

さらにそれ以前にはグレイソン&ホイッターというコンビが録音しています。

Tom Dooley / GRAYSON & WHITTER

最初にだれが作ったのかというのは定かではありませんが、1866年に実際に起きた事件をもとにして作られた歌で、はずみで恋人を刺してしまった男が縛り首になるという内容です。そういう内容の歌が1位になるのですから、これがポップスのおもしろいところでもありますよね。商業音楽がポップスなんですけれども、その中にこういうことがときどき起きるんですね。
で、今回アメリカン・ポップス伝を放送するにあたって、No.1ソングを調べていて気づいたことがありました。それはこの「トム・ドゥーリー」の前にフォークソングの1位の曲がないという事実です。
これには驚きました。
で、今回はメインテーマはロックンロールの歴史ということで、エルヴィスが登場した1956年を中心にした構成としました。そこで56年の前の5年前、51年からの1位をメドレーにして聴いていただきました。その中にフォークの1位の曲が1曲もなかったんですね。
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by hinaseno | 2016-11-01 12:33 | ナイアガラ | Comments(0)

今日は、わが大瀧詠一さんの誕生日。
というわけで、当然大瀧さんがらみの話。

先日、 クリフ・リチャードの「ネクスト・タイム」のシングルを見つけたときに「4日早い大瀧さんの誕生日プレゼントなのかもしれません」、なんて書きましたが、そんなものではありませんでした。
その2日後、つまり2日前、こちらは年に何度か行っている中古レコード屋さんに立ち寄って、やはりオールディーズ関係のシングルレコードの箱をチャックしていたら、僕が世界で一番ほしいと思っていたレコードがそこにありました。
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ジミー・クラントンの「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ(Venus In Blue Jeans)」の日本盤。
ネットから画像をとったと思われては困るので、こちらが証人、というか証クマ付きの写真です。
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夏らしい、さわやかなブルーをあしらった素晴らしいジャケット。これだけで心ときめきます。ちなみにオリジナル盤にはピクチャースリーヴはついていないんですね。

このレコードもときどきネットオークションで見ていましたが、コンディションのいいものはコーヒー10杯分くらいの値段がついています。でも、これは少しキズがありと書かれていたもののコーヒー2杯分にも満たない値段。キズも聴くには全然気になりませんでした。ピクチャースリーヴの状態もまずまず。

ジミー・クラントンの「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」のことは、もちろん松田聖子の「風立ちぬ」の元ネタとして使われているということで知りましたが、初めて聴いたときの感動はいまだに忘れません。最高のアメリカンポップスといってもいい曲ですね。大瀧さんは「ゴー!ゴー!ナイアガラ」の「ジャック・ケラー特集」のときに「僕が言おうとしているところのアルドン/スクリーンジェムズの曲の典型」だと言っていました。
言うまでもありませんが大瀧さんもこの曲が大好きなんですね。
「ゴー!ゴー!ナイアガラ」で、この曲をかけたときの大瀧さんのうれしそうな感じといったらないですね。はじめてかけたときのこの言葉は何度聴いても最高。

「そして、この62年8月、この曲です! ジミー・クラントン! ナインティーン・シックスティ・トゥ、『ヴィーナス・イン・ブルージーンズ』」

そう、ジミー・クラントンの「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」は1962年の7月にリリースされて8月にチャートインしているんですね。まさに、夏の曲。
大瀧さんはこの曲があるから、ジェック・ケラーを特集したと言っていました。

ところでこれは1963年のアルドン出版社の関係者が集まった写真。
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腰を下ろしている前列左からバリー・マン、シンシア・ウェル、ジェリー・ゴフィン、キャロル・キング、ニール・セダカ。そして後列の左端の眼鏡をかけた銀行員みたいな人が「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」の作曲をしたジャック・ケラーで、右端が作詞をしたハワード・グリーンフィールド。すごい人たちですね。後列の真ん中には取締役社長のアルさんとドンさんがいます。

ところで日本盤のシングル、よくみたら興味深いことがいろいろとあります。

まず、いちばん上にはこんな文字。
「ニール・セダカが作品したニュー・シングルを青春歌手、ジミー・クラントンが歌って大ヒット!」

もちろんこれはレコード盤にニール・セダカと間違ってクレジットされているためですね。このシングルが発売されたときには日本でニール・セダカは超がつくほどの人気者になっていたはずなので、この言葉を入れたんだろうとは思いますが、間違いに気がついた人がどれだけいたんでしょう。

ところで、「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」を最初に録音したのはジミー・クラントンだとずっと思っていましたが(ウィキペディアにもそう記載されています)、実はジミー・クラントンがリリースする2ヵ月前にこちらのBruce Brunoというシンガーが録音していました。ただしこちらは全くヒットしていません。



なんだかしょぼい感じがしますね。ただ、よく見たらこちらのレーベルにはきちんとジャック・ケラーとクレジットされています。なんでジミー・クラントンのときに間違えたんでしょうか。

それから日本盤の邦題がなんだか笑えます。
「ブルー・ジーン・ビーナス」

ジーンズではなくジーンなんですね。
これだと二股に分かれていないジーンズをはいている(?)ビーナス、あるいはデニム製のビーナスということになっちゃいますね。英語のタイトル通りか、または「ブルージーンズをはいたビーナス」にすればよかったのに。といいつつ、ジーンズということばが当時はまだ一般的ではなかったのかもしれません。
裏ジャケに載っている歌詞カードの対訳には「彼女は青いジーパンをはいたビーナスだ」との言葉。タイトルが「青いジーパンをはいたビーナス」となるといくらなんでもダサいですね。まだ「ブルー・ジーン・ビーナス」のほうがましです。

ところで歌詞カードを見てちょっと驚いたことがありました。
実はこの歌詞、ジミー・クラントンが歌っているものと2か所ほど違っているのがわかったんですね。
オリジナルには歌詞カードがないので、では、聴き取りかというと、明らかに聴き取り間違いとは違う単語が置かれているんですね。
で、先程のBruce Brunoというシンガーが歌ったものを聴いたらジミー・クラントンが歌ったものと全く同じであることがわかりました。

ちなみにネットで調べたら(ネットの歌詞もいい加減なのが結構ありますが)ジミー・クラントンが歌ったものと同じ。
これがジミー・クラントンが歌っている歌詞。

She's Venus in blue jeans
Mona Lisa with a ponytail
She's a walkin' talkin' work of art
She's the girl who stole my heart

My Venus in blue jeans
Is the Cinderella I adore
She's my very special angel too
A fairy tale come true

They say there's seven wonders in the world
But what they say is out of date
There's more than seven wonders in the world
I just met number eight

My Venus in blue jeans
Is ev'rything I hoped she'd be
A teenage goddess from above
And she belongs to me

僕が手に入れた歌詞カードに載っている歌詞と異なるのは赤字の部分。
「I adore」の部分が「of my heart」、「more than」の部分が「no more」となっています。
そういえばと思って、例のバリー・マンが歌ったデモ・バージョンを聴いてみたら、これが驚いたことに歌詞カードに記載されているものと全く同じ。
これですね。



推測してみるに、日本でシングルを出す際に、歌詞を送ってもらえないかと頼んだら、デモ用に書いていたものがあったので、そちらが送られてきたんでしょうね。聴き取りで書いたと思われるものに比べて歌詞がとても正確なのはそのためだろうと思います。

ということで、いろんな発見があった「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」。一応歌詞の対訳を載せておきます。歌詞カードの対訳はかなりいいかげんだったので、ジミー・クラントンが歌ったバージョンの歌詞を訳しました。

彼女はブルージーンズをはいたヴィーナス
ポニーテイルをしたモナリザ
歩いたり話したりする芸術作品
彼女は僕の心を盗んだ少女

ブルージーンズをはいたヴィーナスは
僕のあこがれのシンデレラ
彼女は僕の特別な天使
おとぎ話が本当になったんだ

世界には7つの不思議があると言われているけれど
どれも時代遅れのものばかり
世界には7つよりも多く不思議が存在している
僕は8番目の不思議にまさに出会ったんだ

ブルージーンズをはいたヴィーナスは
僕が願っていた通りの
天からやって来た十代の女神
そして彼女は僕のもの

そして最後にジミー・クラントンの「ヴィーナス・イン・ブルー・ジーンズ」を。


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by hinaseno | 2016-07-28 14:23 | ナイアガラ | Comments(0)

クリフ・リチャードの「ネクスト・タイム(The Next Time)」の”A面”は「バチェラー・ボーイ(Bachelor Boy)」。実は聴くのは初めて。クリフとブルース・ウェルチが共作したなかなか軽快な曲。でも、曲としては”B面”のほうがはるかに優れています。



クリフ・リチャードの「バチェラー・ボーイ」の存在を知ったのは、大瀧さんの(稲垣潤一も歌った)「バチェラー・ガール(Bachelor Girl)」がらみの話。
最初「バチェラー・ボーイ」って変なタイトル、と思ってしまったのですが、実は言葉として不自然だったのは「バチェラー・ガール」の方。作詞家の松本隆さんが用意したその言葉に大瀧さんは戸惑います。もちろん大瀧さんはその言葉がクリフの曲のタイトルをもじったものであることはわかったはずですが、その言葉の不自然さに引っかかってしまったんですね。
大瀧さんはよく完全主義者だといわれますが、それは作品作りだけに限ったことではなく、できあがった作品でも何か引っかかることが生じてしまうと、それは出すべきではないと判断することがあって、「バチェラー・ガール」もあやうくお蔵入りしてしまうところでした。

「バチェラー・ガール」は『EACH TIME』のための曲として3曲目に作られた曲でした。ちなみに1曲目は「夏のペーパー・バック」。2曲目は例の渋谷陽一さんの番組でだけかかった曲(オケは完璧に出来たものの、歌を入れるメロディができなかったためにお蔵入り)。そして3曲目が「バチェラー・ガール」。



『EACH TIME』の30周年記念盤など、1曲目が「夏のペーパー・バック」、2曲目が「バチェラー・ガール」となっているのは単純に作った順番なんですね。でも、最初に出たLPでは「バチェラー・ガール」は収録されておらず、この日紹介した僕自身のための”秘密の”『EACH TIME』にも収録していません。

「バチェラー・ガール」に関しては、『レコード・コレクターズ』の2004年4月号に掲載されたインタビューで、大瀧さんはこんなことを語っていました。

(渋谷さんの番組でかけた曲に)続いて6日おいて「バチェラー・ガール」。シングル切るんならこれだなと思った。これ3曲目。でも、これが松本もシングルだから気を入れるってことで、なかなか詞が出来てこなかったんだけど、出来てきたら「バチェラー・ガール」という、クリフ・リチャードの「バチェラー・ボーイ」を比喩的に変えたんだろうけど、そういう言い方を聞いたことがないんだよ。それで外国人に訊いて回ったの。そしたら”バチェラー”は男性につく言葉だ、変だって皆に言われたわけ。譬えだからいいじゃない、という思いもあったけど今までの作品でここまで引っかかったもので出したのはないの。「バチェラー・ガール」はタイトルだからね。どっかにお墨付きがないと出せなかったの。84年3月の時点で出来上がってはいたんだけど、入れなかった。だからますます目玉のないアルバムになってしまった(笑)。2曲目でつまずいて、3曲目でもつまずいているんだよ。

で、「バチェラー・ガール」を収録することなく『EACH TIME』を発売。大瀧さんのインタビューはこう続きます。

『EACH TIME』が出てからも「バチェラー・ガール」を調べてた。それで4月くらいかな、40年代のハリウッド映画を調べていたら『バチェラー・マザー』というのが出てきた。30年代の映画。バチェラーって男性をあらわす言葉にしかつかないって言われてたけれど。これなら、比喩として「バチェラー・ガール」としてつけたって言い返せると。これは大丈夫だと思ったわけよ。それでようやく晴れて自分の中のラインナップに「バチェラー・ガール」が入ってきて。それでそのころ中央高速を「バチェラー・ガール」を聴きながら走っていたら突然、稲垣潤一の声で聞こえてきたのよ。これは稲垣にいいだろうと思って、車から出版社に電話した。親近感持っていたしね、彼には。

もちろん当時、こんな裏話を知るわけはありません。稲垣潤一の曲が出たときには当然、稲垣潤一のために大瀧さんが新曲を書き下ろしたものと思っていました。この前にはラッツ&スターのために「Tシャツに口紅」を、この後には小林旭のために「熱き心に」をかいています。
ちなみに大瀧さんが稲垣潤一に対して「親近感持っていた」というのは、彼が東北出身であること、そして鼻音を使って歌うことが理由だったはず。

『EACH TIME』が発売されてから1年半を過ぎた1985年11月に「バチェラー・ガール」が「フィヨルドの少女」のB面に入ったシングルが発売されます。もちろん発売されてすぐに買いました。
僕がリアルタイムで買った最初で最後の大瀧さんのシングルですね。このときにはようやく大瀧さんの新曲をリアルタイムで聴けるんだと大喜びでした。ただし、B面はセルフカバーなんだなと少し考えました。実際には新曲でもセルフカバーでもなかったのですが、そんなことは知る由もありません。
このあたりのことについて大瀧さんはこんなコメント。

「熱き心に」の直前に「フィヨルドの少女」と「バチェラー・ガール」のシングルを出した。なぜかというとアナログ・シングルがなくなると聞かされまして。FUSSA45スタジオの男が、ファイナルだと言われたときに何かは出さざるを得ない。セルフカヴァーはしないことにしているんですが、「バチェラー・ガール」は稲垣で出てるけど実際にはカヴァーでなく先に録音されたオリジナルだし、B面だし、まあ許してもらえるだろうと。これがファイナル・アナログ・シングルだということで意図的にやったと。

そして翌年の夏に発売された『Complete EACH TIME』から「バチェラー・ガール」が基本的に「夏のペーパー・バック」のあとの2曲目の曲として入り続けることになります。

ということでクリフの「バチェラー・ボーイ」をようやく聴けたので、改めて大瀧さんの「バチェラー・ガール」という曲をめぐる数奇な運命をたどってみました。

ところで、「バチェラー・ガール」という言葉についてですが、ネットで調べてみると「バチェラー・ガール」のシングルを発売した3年後の1988年にオーストラリアで『Bachelor Girl』というテレビ映画が作られていることがわかりました。そして1990年にはカナダのジョージ・フォックスというカントリー歌手が「Bachelor Girl」という曲を歌ったほか、何人かのアーティストが「Bachelor Girl」というタイトルの曲を歌っています。もちろん大瀧さんの曲のカバーでもなく、どれも全部違った歌。さらに、1992年にはオーストラリアの男女のデュオがBachelor Girlという名のグループを結成して何枚かのアルバムを出しています。
これを見ると「バチェラー・ガール」という言葉は大瀧さんの曲が先鞭をつけた形になっていますね。
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by hinaseno | 2016-07-26 11:27 | ナイアガラ | Comments(0)

ちょっと間が空きましたが、ジミー・クラントン、そしてジャック・ケラー、ニール・セダカの話の続きを。

ジミー・クラントンのレコードを手に入れてから、改めて「ゴー!ゴー!ナイアガラ」の「ジャック・ケラー特集」や「ニール・セダカ特集」などを聴き返しました。何度も聴いているのに聴き飽きることは全くありません。
特に「ジャック・ケラー特集」でジミー・クラントンの「Venus In Blue Jeans」をかけるときの大瀧さんのうれしそうな声ったらないですね。本当にこの曲が大好きだってことがよくわかります。
ということで、何度目になるかわかりませんが「Venus In Blue Jeans」を。



もう最高ですね。
ところでこの画像のシングルの作曲者のクレジットはジャック・ケラーではなくニール・セダカ。間違って印刷されているんですね。たぶん訂正されたシングルは出ていないはず。で、今、調べたら、大瀧さんが持っていたはずのLPでもやはりニール・セダカとクレジットされています。
ということなので、現在でも「Venus In Blue Jeans」の作曲者はニール・セダカと紹介されていることが多い中、1976年当時、大瀧さんはそれがジャック・ケラーだとよく知っていたなと感心します。

さて、ジミー・クラントンはニール・セダカの曲を何曲か歌っていますが、そのうちの1つが「ゴー!ゴー!ナイアガラ」でもかかっている「Walk With Me」。



この曲は「ニール・セダカ特集」ではなく「男性シンガー特集」でかかっていました。オリジナルのニール・セダカの歌ったものに続けて。

「Walk With Me」は「King Of Clowns」のB面。このシングル、日本でも発売されています。「King Of Clowns」の邦題は「悲しきクラウン」。あの時代、ちょっとマイナーだと必ず「悲しき」をつけてるんですね。ところで僕はぼんやりとこの「クラウン」を「冠(=Crown)」だと思っていたのですが、よく見たら綴りも違うし複数形になっているし、よくよく考えたら「冠の王様」って変だし。
なんとこの「クラウン」はピエロだったんですね。つまり「ピエロの王様」ということ。確かにピエロってどこか悲しい感じがします。

そして「Walk With Me」の邦題は「二人の並木径」。これはしゃれていますね。
「男性シンガー特集」のとき、ニール・セダカとジミー・クラントンの曲をかけた後で大瀧さんはこの「Walk With Me」についてこんな話をしています。

この(ニール・セダカの日本盤のレコードのこと)解説文を読みますと、ニール・セダカが日本に来たときに、佐川ミツオ(満男)にデビュー・ソングとして贈った曲というふうに書いてありますね。 佐川ミツオのレコードって、たぶんあるんでしょうね。「二人の並木径」、聴いてみたいものですね。

この佐川ミツオの「二人の並木径」のジャケット。ネットで拾ってみたら、ニール・セダカさんと一緒に写っていますね。
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このレコードはかなりレアで僕も聴いたこともなかったのですが、今調べたら、なんとITunesやAmazonで曲が販売されていました。
ここで試聴できます。
ニール・セダカやジミー・クラントンの歌ったものとは違って”Won't you walk with me? Woo, you are my darling”というところから歌っています。

で、この佐川ミツオの娘さん(母親は伊東ゆかり)である宙美(ひろみ)さんがこの佐川ミツオの「二人の並木径」をカバーしてるんですね。やはり”Won't you walk with me?...から歌っています。



この宙美さんが歌われているものについては、アゲインの石川さんが以前ブログに書かれていましたね。

ところで、ニール・セダカは何度か来日しているのですが、佐川ミツオに曲を贈ったというのはどうやら1960年4月の来日のときのようです。デビュー・シングル「二人の並木径」もこの年に出ています。
ちなみにニール・セダカの「King Of Clowns / Walk With Me」のシングルは1962年の3月に発売されていますが、Bear Familyのボックス『NEIL SEDAKA / OH CAROL:THE COMPLETE RECORDINGS 1956-1966』のブックレットを見るとニール・セダカが「Walk With Me」を録音したのは1960年2月8日。どうやらこのときに録音したものを来日したときに持ってきたようです。

で、Bear Familyのボックスにはこんなものが掲載されていました。
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これはどうやら1960年の4月に来日したときのチラシのようです。青い城という場所で6日間ライブが行われています。

このときに歌ったはずの曲目が書かれているのでそれをそのままの表記で列挙しておきます。といっても邦題はちんぷんかんぷんなのですべて原題も入れておきます。

恋の片道切符(One Way Ticket)
恋の日記(The Diary)
おゝ!キャロル(Oh! Carol)
遅すぎた打明け(I Waited Too Long)
欲しいのは君なんだ(All I Need is You)
間抜けなキューピット(Stupid Cupid)
アイ ゴー クレイジー(I Go Ape)
恋のまぼろし(Crying My Heart Out For You)
フォーリン(Fallin')
アイビロング トウ ユウ(I Belong To You)
ムーン オブ ゴールド(Moon of Gold)
君のとりこになっちゃった(You're Knocking Me Out)
いのちの限り(As Long As I Live)
ホット リズムは御機嫌(You Gotta Learn Your Rhythm And Blues)

この1960年4月というのはニール・セダカがまだそんなにヒット曲を持っていない時期だったので半分くらいは知らない曲。きっとライブに行った人はもっと知らなかったはず。

でも、とにかくこの時期にはチラシにも書かれているように、ニール・セダカといえば日本では「恋の片道切符(One Way Ticket)」だけなんですね。
ただ、実はこれはもともと「恋の日記(The Diary)」のB面の曲。しかもニール・セダカの作った曲ではなくて、なんとこれがジャック・ケラー。ジャック・ケラーらしさがちっとも見られないマイナーな曲。でも、当時日本でヒットしたのはたいていこういうマイナーな曲なんですね。



はっきり言って僕はこの「恋の片道切符(One Way Ticket)」はあまり好きではありません。ジェック・ケラーの好きな曲を集めたコンピレーションにも入れません。大瀧さんもきっと好きではなかったはず。

ニール・セダカさんも日本にやって来たとき、自分が作ったわけでもないこの曲を歌ってキャーキャー言われるのはかなり複雑ではなかったかと思います。
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by hinaseno | 2016-07-15 15:08 | ナイアガラ | Comments(0)

自分のベスト30を選んだ後で、個々の選定者(全部で25人)が自分の選んだものとどれだけかぶっているかを確認しました。この作業は結構面白かったです。というか、この作業をしたくて自分のベスト30を選んでみたような気もします。
最高は15曲、最低は4曲。平均はほぼ9曲。重なった曲数が低い選定者が評価する音楽を低く見るつもりなんて全然ありませんが、これから音楽評を見るときに結構参考になりそうです。やはりただビーチ・ボーイズが好きだというだけではわからない部分もあるので。

最高ポイントの15曲が重なったのは木村ユタカさん。なるほどでした。もちろんよく知っている音楽評論家。森さんは12曲。森さんとは上位に重なる曲が集中しています。ちなみにcircus town.netのたかはしかつみさんとは11曲。

さて、これまで好きなものに順位をつけることなんて、あまり意味がないように感じていましたが、それなりに楽しい作業だったので、では、ということで大瀧さんの曲をやってみることにしました。これがまた予想通り大変な作業。もちろんこれまで一度もしたことはありません。せいぜい今いちばん好きな曲はこれだなと考える程度。
一応条件としては他人に提供した曲は省きました。ただし、他人に提供した曲でも自分が歌ったものはOK。カバーもOK。
それから、できれば選んだものを1枚のCDに焼いておこうと思ったので、時間の関係でベスト25ということにしました。

選んでみて驚いたのは(自分で選んだくせに、ですが)、ベスト10にCM関係の曲が半分も。「Cider ‘74」と「オシャレさん」は大瀧詠一という人を知らないときにCMで耳にしていた曲。
というわけで大瀧詠一ベスト・ソングズ25を。
曲ごとのコメントはしません。YouTubeに音源があるものだけ貼っておきます。

1位 CM Special Vol. 2


2位 ペパーミント・ブルー


3位 Tシャツに口紅


4位 Velvet Motel


5位 オシャレさん

6位 Big John A TYPE~B TYPE

7位 The Very Thought Of You


8位 Cider ‘74


9位 Cider ‘83


10位 快盗ルビイ


11位 魔法の瞳


12位 夢で逢えたら(ストリングス・ミックス)


13位 朝寝坊


14位 朝

15位 論寒牛男


16位 おもい(Doo Wopバージョン)


17位 三文ソング

18位 座 読書


19位 木の葉のスケッチ


20位 オリーブの午后


21位 雨のウェンズデイ


22位 Water Color


23位 カナリア諸島にて


24位 FUN X 4


25位 空いろのくれよん

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by hinaseno | 2016-06-27 12:02 | ナイアガラ | Comments(0)

大瀧さんがロジャー・ミラーのファンで、その才能を評価していたことはこのブログでも何度か書いてきました。でも、たぶん大瀧さんは「Tall Tall Trees」と「Nothing Can Stop My Love」の収録されていたアルバムは聴いてもいなかっただろうし、この2曲のこともずっと知らないでいたのではないかと思っています。
ちなみに現在、ロジャー・ミラーのベスト物のCDが何枚か出ていますが、ロジャー・ミラーが歌う「Tall Tall Trees」と「Nothing Can Stop My Love」が収録されたCDはありません。僕は2年前に聴いた「ゴー!ゴー!ナイアガラ」でかかったロジャー・ミラーの「Do-Wacka-Do」が気に入って、20曲入りのこのCDを手に入れましたが、「Tall Tall Trees」と「Nothing Can Stop My Love」は含まれていません(あのボビー・ラッセルが書いた「Little Green Apples」と「South」は収録されています)。
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昨年出た『Singer / Songwriter The Early Years 1957-1962』というCDにはロジャー・ミラーが歌ったものではなくジョージ・ジョーンズの歌ったものが収録されています。
ロジャー・ミラーが歌った「Tall Tall Trees」と「Nothing Can Stop My Love」は全然一般的ではないんですね。でも、大瀧さんがカバーしたのはまぎれもなくロジャー・ミラー。

では、どういうきっかけでそれを知ったのか。
ポイントとなるのは萩原健太さんかなと。
音楽評論家である萩原健太さん、ナイアガラのレッキング・クルーがスタジオにずらりと並んでいるこのセッションに呼ばれていたんですね。しかもエレキ・ギターを持って。

ある日、大瀧さんから健太さんのところに電話がかかってきます。

「健太、これからレコーディングするから信濃町に来い」
「あ、見学させてくれるんですか」
「いや、ギター持って来い」
「えっ、アコギですか?」
「エレキだエレキ、いいからすぐ来い」

萩原健太さんは特に1990年前後、大瀧さんと交流がさかんだったようで、達郎さんとの新春放談も1988年から1995年までは健太さんの番組で健太さんを交えて行なわれていたり、大瀧さんがプロデュースした渡辺満里奈さんや植木等さんのアルバムにも参加されていました。
その健太さんがなんと大瀧さんの曲のレコーディングに呼ばれたんですね。舞い上がるのは当然のはず。

このリハビリ・セッションでは間奏の部分で大瀧さんが指名した人がソロで演奏するところがいくつかあるのですが、「Nothing Can Stop My Love」の間奏で「しげる!(鈴木茂さん)」「あきら!(井上鑑さん)」に続いて「けんた!」とお声がかかります。この曲が健太さんへの大瀧さんからのプレゼントでもあったことがわかります。

萩原健太さんは昔のロックやポップスにも詳しい一方で最近の音楽も聴かれているのですが、その健太さんと大瀧さんとの話の中で出てきたのが、このアラン・ジャクソンの歌う「Tall Tall Trees」だったんだろうと。



1995年の秋にシングルが発売されて、その年の暮れには2週続けてカントリー・チャートのNo.1になっています。当時、健太さんはカントリー・ロックに夢中になっていた時期だと思うので、この曲はきっとどツボだったはず。先にこの曲を知ったのが健太さんだったか大瀧さんだったかはわかりませんが、おそらく二人はこの曲で盛り上がったはず。
何よりも大瀧さんがおっと思ったのは、この曲がアラン・ジャクソンのオリジナルではなくて作曲者のひとりにロジャー・ミラーの名前を見つけ、これがロジャー・ミラーのカバーだとわかったことだろうと。
ここではじめて大瀧さんはロジャー・ミラーの歌ったものを探されたんだろうと思います。
そうしたら、その数年前に出たばかりの、今は廃盤となっているこのCDに「Tall Tall Trees」が収録されているのがわかって早速入手して聴かれたんだろうと思います。
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このCD、「Tall Tall Trees」は3曲目に収録。おもしろいのは次の4曲目に収録されていたのが「Nothing Can Stop My Love」。このCDではこの2曲が並んでいるんですね(ちなみに5曲目もロジャー・ミラーとジョージ・ジョーンズが共作した「That’s The Way I Feel」)。
ロジャー・ミラーのCDをいろいろとチャックしていたときにこれを見つけて、これだ! と思いました。
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曲が気に入った大瀧さんはきっと何度もこのCDの2曲並んだ「Tall Tall Trees」と「Nothing Can Stop My Love」を聴き続けたのではないかと思います。で、いつのまにかその2つの曲が一続きの曲のように大瀧さんの中に入り込んで、やってみたくなったんでしょうね。
つまりこの2曲は大瀧さんのルーツの確認というものではなく、あの時期に一番歌ってみたい気持ちにさせていた曲だったんだろうなと。
エルヴィス・メドレーはおそらく何度も何度もいろんな形で演奏していたはずですが(40年前から歌い続けていたことは言うまでもありません)、こちらはちょっとやってみたという感じ。曲の前に「テープまだある?」って言葉が入っているのは、テープが余っていればやってみようという気軽な気持ちだったんでしょうね。
ということでこのロジャー・ミラー・メドレーはエルヴィス・メドレーとは違って新鮮な空気が溢れていて、歌っている大瀧さんもとにかく楽しくて仕方がないという感じなんです。聴いているこっちも楽しくなります。

演奏に関しては、気軽にやったといってもそこはナイアガラのレッキング・クルー。クオリティがものすごく高いことはいうまでもありません。
『DEBUT AGAIN』のブックレットの解説で萩原健太さんがアラン・ジャクソンのバージョンのアレンジを参考にしていると指摘。断定していますね。大瀧さんがアラン・ジャクソンのバージョンもよく聴いていたことを知っていたからこそ、ですね。

最後に「Tall Tall Trees」と「Nothing Can Stop My Love」の作曲者に関すること。クレジットはロジャー・ミラーとジョージ・ジョーンズの共作ということですが、外国の曲のクレジットがそうであるように、どちらが作詞でどちらが作曲をしたのかわかりません。この二人のように、どちらも作詞・作曲ができる場合には特にややこしい。
年齢はジョージ・ジョーンズがロジャー・ミラーよりも5歳年上。音楽活動えを開始したのも少し早い。「Tall Tall Trees」を書いた1957年はロジャー・ミラーが音楽活動を開始した年。ということを考えると、曲作りを主導したのはジョージ・ジョーンズだったんだろうと思います。
ロジャー・ミラーのあの独特なジャジーな感じの曲を作り始めるのは1964年以降。その感じとはかなり違います。とはいうものの、どこかポップな感じはジョージ・ジョーンズにはない部分のような気がします。
おそらく何らかの交流の中でロジャー・ミラーが曲をかけるということをジョージ・ジョーンズが知って、いっしょにやらないかと声をかけて、(先輩ミュージシャンであるジョージ・ジョーンズが主導しつつも)2人でいっしょに作っていったのではないかと考えています。
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by hinaseno | 2016-06-13 13:10 | ナイアガラ | Comments(0)