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カテゴリ:ナイアガラ( 254 )



アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(2/6)


では、この時ボビー・ダーリンはどうしていたかと言いますと、前回もお話ししましたがデッカからアトランティックに移籍して、自分の路線をどれにしようかというふうに迷っていた時代だったんですね。まあしかし時代はロックンロールですからボビー・ダーリンとドン・カーシュナーのコンビはそれ風の曲を作りました。


BOBBY DARIN / Pretty Betty

(注)ここでかかったのはやはり演奏前の会話が入ったテイク違いのもの。おそらく『Roberto Cassotto - Rare, Rockin'& Unreleased』に収録されたTake 5の音源ではないかと思います。残念ながらYouTubeにはありませんでした。


え~(笑)、リトル・リチャードの「トゥッティ・フルッティ(Tutti Frutti)」ですね。

続いては「ドント・コール・マイ・ネイム」。


BOBBY DARIN / Don’t Call My Name


え~まあ(笑)、これはすぐにわかりますね。ファッツ・ドミノの「エイント・ザット・ア・シェイム」ですけども、この2曲をカップリングして売り出しましたが、まったくヒットしませんでした。

ちょうどこの時期ですね、アトランティックが待ちに待っていたリーバー&ストラーのコンビがニューヨークにやってきました。そしてコースターズのニューヨークにおける初セッションということになるんですけれども、ここでボビー・ダーリンが曲を提供していたんですね。


THE COASTERS / Wait a Minute


え~(笑)オチがいいですよね。「サーチン(Searchin')」と「ヤング・ブラッド(Young Blood)」を足した歌ですけれども。ボビー・ダーリンとドン・カーシュナーのコンビは本当にわかりやすいですね、作る曲が。このコンビは作家チームとしては大失敗でドン・カーシュナーは作家の夢を早々と捨てて出版事業に走ったのが大正解だったんですね。人生早めの切り替えが大事ということでしょうか。

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ボビー・ダーリン(左)とドン・カーシュナー(1956年春)


ニューヨークに来て本家のリーバー&ストラーがコースターズ用に書いた最初の曲が「ヤケティ・ヤック」でした。


THE COASTERS / Yakety Yak


やっぱりノヴェルティ・ソングを作らせたらこの二人にかなうコンビはいませんね。


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by hinaseno | 2016-11-25 15:34 | ナイアガラ | Comments(0)

前から予告していたように今日から何回かにわけて「アメリカン・ポップス伝パート3の第2夜」の文字起こしをします。この日の放送の大瀧さんがつけたタイトルはボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカによる「ティーンエイジ・トライアングルVol.0」。この3人の絡み合いの中で60年代ポップスの原点ともいうべき曲が作られていくストーリーは何度聞いても興奮しますが、同時にコニー・フランシスのボビー・ダーリンへのフォロー度合いも語られるところが面白いのですね。ただ、そのボビー・ダーリンがサンドラ・ディーと結婚することになることまではこの日の放送では語られません。

この日の一番の聴きどころはボビー・ダーリンの「ドリーム・ラヴァー」、コニー・フランシスの「カラーに口紅」とそのB面の「フランキー」、そしてニール・セダカの「オー!キャロル」がかかるところですね。アル・カイオラも登場します。

放送でも語られていますがコニー・フランシスの「カラーに口紅」は大瀧さんのポップスの原点。ちなみに、僕はもちろん後追いではありますが、初めてオールディーズ(大瀧さんはこの表現を使いませんが)で好きになったのがコニー・フランシスの「フーズ・ソーリー・ナウ」でした。ということなので、この日の放送でこれがかかったときにはかなり感動したことを覚えています。コニー・フランシスが「フーズ・ソーリー・ナウ」を歌うことになるエピソードを語るときに大瀧さんが声で演技をしたのが笑えました。


*  *  *


アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(1/6)


大瀧詠一です。アメリカン・ポップス伝パート3の第2夜。本日はニューヨークのポップス・シーンについてボビー・ダーリンとコニー・フランシス、そしてニール・セダカの3人に絞りまして、その3人の関係がニューヨーク・ポップス、さらには60年代ポップスを作っていくその過程をタイムラインを追いながら説明していこうと思います。

まずは前回のおさらいから。


BOBBY DARIN / Splish Splash

(注) このときにかかるのは演奏前のやりとりも入っている「Take 7」の音源(『Roberto Cassotto(Aka Bobby Darin): Rare, Rockin'& Unreleased』というCDに収録された音源のようです)。この日の放送ではこのようなやりとりの入った音源がいくつか使われています。


ニューヨーク最初のロックンローラーとなったボビー・ダーリンはブロンクスの学校時代の知り合いだったドン・カーシュナーと作家コンビを組んで音楽ビジネスをスタートしたということは前回もお話しいたしました。そしてコマーシャルの仕事をしていた時にコニー・フランシスと知り合って。コニーはすでに55年にレコード・デビューを果たしていました。デビュー曲は「フレディ」という曲でした。


CONNIE FRANCIS / Freddy


このように売れないシングルが続いて、そして4枚目がボビー・ダーリンとドン・カーシュナーの曲でした。


CONNIE FRANCIS / My First Real Love


ボビー・ダーリンもコーラスでがんばりましたが、全くかすりもしませんでしたね。そうこうしているうちにボビー・ダーリンもレコードを出すことになってメジャー会社のデッカからデビューします。


BOBBY DARIN / Silly Willy


ボビー・ダーリンもデッカから4枚シングルを出しましたが、これも全く売れませんでした。

さて、もうひとりのニール・セダカは同じニューヨークでもブルックリンですからボビーやコニーとは住んでいる場所が違いました。もっともコニーはニュージャージーでしたけれどもね。

セダカは同じアパートに住んでいたハワード・グリーンフィールドとコンビを組むことになります。それが1952年です。それにしてもこの2人が同じアパートだったというのは、まあ出来すぎのような話なんですけれども、同じ学校とか、近所に住んでいたとか、よくある話なんですよね、これがね。グリーンフィールドの方が先輩だったので出版社に曲を売り込みに回っていたんですね。するとプログレッシヴ・ミュージックという会社がありまして、そこが2人の曲を買ってくれました。その曲はアトランティックのクローヴァーズが吹き込んだのです。


THE CLOVERS / Bring Me Love


クローヴァーズの「ブリング・ミー・ラヴ」でした。この2人の才能を認めた出版社のジェリー・ウェクスラーはもう1曲彼らの曲を取り上げて女性グループのクッキーズに歌わせました。タイトルは「パッシング・タイム」。


THE COOKIES / Passing Time


このクッキーズとはセダカは6年後に再会することになるんですけれど、まあどちらにしてもこの2曲はB面で、言うなれば数合わせのB面作家として使われたわけですね。しかしアトランティック・レコードの重鎮であったところのジェリー・ウェクスラーは後に「あの2人とはあの時に正式に契約をしておけばよかった」というふうに後悔したそうです。

セダカはこの当時、まだハイスクールに在籍中でした。アブラハム・リンカーン・ハイスクールという由緒ある名前ですね。ブルックリンにあるこの学校なんですけれども、他にもたくさんの音楽関係者を輩出しています。ハワード・グリーンフィールドも先輩でした、そこの学校の。それからポマス&シューマン(Pomus & Shuman)のモート・シューマン、大先輩ですね。他にはボブ・フェルドマン、ニール・ダイアモンド、この2人は後輩です。そして学校の同僚と組んだグループがトーケンズでした。


THE TOKENS / I Love My Baby


このトーケンズもヒットが出るのはこれから5年後のことなんですね。

コニー・フランシスはMGM、ボビー・ダーリンはデッカとメジャー会社だったんですけれども、ニール・セダカはマイナー・レーベルからのスタートでした。しかし結局3人とも全くヒットせずでエルヴィスが「ハートブレイク・ホテル」で登場した1956年のことでしたが、この3人にとってはスターへの道はまだ遠かったのでした。

翌57年、コニー・フランシスにとっては試練の年となったんですね。というのもこの3年間で9枚もシングル盤を出したんですが1曲もヒットしなかったんです。さすがにMGMレコードもしびれを切らして、次の10枚目のシングルもヒットしなかったら契約を打ち切るというふうに言ってきたんですね。そこでステージパパの登場ですね。

パパは「いいかいコニーよ、おまえは18曲も無駄にした。だから最後だから私の大好きな曲を歌ってくれよ」というふうに頼んだんです。それは30年以上前の古い歌でした。


ISHAM JONES ORCHESTRA / Who’s Sorry Now


コニーのパパはこの歌が大好きで、いつも歌っていたんだそうですね。しかしコニーは「こんな古くさい歌はイヤよ」と言って断ったんだそうですけれども、まあ結局は最後だということで押し切られて吹き込みをすることになりました。ま、しかし結果的にはそれが大ヒットとなってコニー・フランシスはようやく有名になれたわけです。


CONNIE FRANCIS / Who’s Sorry Now


「フーズ・ソーリー・ナウ」、コニー・フランシスでした。この曲がチャートを賑わしていたのは58年の4月頃ですから、すでにマーティ・ロビンスのポップ・カントリー調の曲は市民権を得ていた時期ですね。ロッカ・バラードとポップ・カントリーを足したようなアレンジが成功の原因だったんじゃないでしょうか。

このレコーディングに関してコニー・フランシスはおもしろいことを言っています。「ここまでのシングルは常にだれ風に歌おうというふうに考えていた。しかしこの時はだれの真似もしなくて自然に歌えた」と言っているんですね。ですからコニー・フランシス自身の歌い方を見つけたということなんでしょう。

ということでボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの3人の中で最初に登場したのはコニー・フランシスでした。


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by hinaseno | 2016-11-24 12:55 | ナイアガラ | Comments(0)

前回まで「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」の文字起こしを3回に渡って行ってきました。文字起こしをしたのは50分のプログラムのちょうど30分のところまで。このあとエルヴィス、そしてパット・ブーンの話になっていき、それはそれでまた興味深い話が続くのですが、今回のブログのテーマであるボビー・ダーリンとアル・カイオラの話からはそれてしまうので残りの20分間の文字起こしは省略することにします。


前回のブログのタイトルにもしたように、60年代ポップスのサウンドの原点となったのはポール・アンカの「ダイアナ」と、曲をプロデュースしたドン・コスタと、あのフレーズをギターで演奏したアル・カイオラだったという大瀧さんの指摘は、そのあとにかかった曲を聴いてわかるように本当に鋭いというか衝撃でした。

ただ僕なりに補足をすれば(もちろん大瀧さんはそれを十分に理解されていたわけですが)アル・カイオラが「ダイアナ」でやったギター・フレーズをそのまま演奏したボビー・ダーリンの「ドリーム・ラヴァー」と、さらにその「ドリーム・ラヴァー」でピアノを弾いたニール・セダカが同じサウンド(ギターがアル・カイオラだったかどうかは不明)を使って作った「オー!キャロル」の2曲が大ヒットしたというのがアメリカン・ポップス的にはとりわけ重要だったように思います。

でも、「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」ではおそらく時間の関係もあって大瀧さんはその部分をさらっと流しただけでした。もちろんこのプログラムを作った時すでに、その部分に焦点を当てた特集を後日組むことを考えていたにちがいありません。それが「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」でした。全20回の「アメリカン・ポップス伝」のプログラムの順序で言えば、この日の放送の2回後のこと。


「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」のテーマはボビー・ダーリン、ニール・セダカにコニー・フランシスを加えた3人組の物語。さらにこの3人の共通人物であるアルドン・ミュージックのドン・カーシュナーも含めて、大滝さんはこの日の特集のタイトルを「ティーンエイジ・トライアングル Vol.0」と名付けました。実質的にはこの3人こそがアメリカン・ポップスの原点であるということですね。

ということで次回からは「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」の文字起こしをしようと思います。そちらは全文文字起こしする予定なので何日かかるやらです。


最後にそれを書き起こす前にいくつか補足的なことを。

「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」の文字起こしした部分の最後にバディ・ホリーの話が出てきます。彼の亡くなり方が神話的だったために、映画『アメリカン・グラフィティ』でも語られるように「バディ・ホリーが死んでロックンロールが死んだ」という言葉が定説のようになってしまっているのですが、大滝さんはそれに異を唱えていますね。58年暮れにはバディ・ホリー自身もロックンロールからポップスへの路線変更をしていたと。これもとても重要な指摘。

前回の文字起こしした部分の最後にかかったのはバディ・ホリーの「It Doesn't Matter Anymore」(作曲はポール・アンカというのがとても興味深いですね)。これが録音されたのが1958年10月21日。場所はニューヨーク。

実はこの日録音された4曲はどれも素敵な曲ばかりなんですね。「It Doesn't Matter Anymore」の他にはバディ・ホリー自身が書いた超名曲「True Love Ways」、ブライアント夫妻が曲を書いた「Raining In My Heart」、そしてノーマン・ペティが曲を書いた「Moondreams」。

で、注目すべきはこの日のセッションでギターを弾いていたのがまさにアル・カイオラ。あの♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫は聴かれませんが、でも、バディ・ホリーがあの飛行機事故で亡くなる3ヶ月前に録音されたこれらの曲でアル・カイオラがギターを弾いていたというのはとても興味深いことですね。


ところでバディ・ホリーとボビー・ダーリンは58年頃にはかなりの親密な交流があったようで、バディ・ホリーが58年の7月にニューヨークで録音した2曲(「Early In The Morning」と「Now We're One」)はいずれもボビー・ダーリンの曲。2曲ともロックンロールですね。

で、あのバディ・ホリーとリッチー・ヴァレンスビッグ・ボッパーの3人が飛行機事故で亡くなった59年2月のツアーにどうやらボビー・ダーリンも誘われていたようです。結果的にはそれ以前の約束があったためにボビー・ダーリンは断ったようですが、もしもボビー・ダーリンがこのツアーに加わっていたならば「Dream Lover」は生まれなかったかもしれません。「Dream Lover」のデモが作られたのはまさにその59年2月のことでした。ここで亡くなっていたらボビー・ダーリンはバディ・ホリーほどの語られるべき神話もないままで終わるミュージシャンになっていたでしょうし、なによりもその後の魅力的なアメリカン・ポップスの重要な部分が欠けたことになっていたかもしれません。


そういえば『アメリカン・グラフィティ』といえば、この日のブログでも紹介したこの会話も心に残ります。

「君、コニー・スティーヴンスにそっくりだね」
「ホントにそう思う? でも、私はサンドラ・ディーに似てるかなって思ってるけど」

このサンドラ・ディーと結婚したのがまさにボビー・ダーリン。結婚したのは1960年のこと。これを踏まえた上での「ティーンエイジ・トライアングル Vol.0」の物語を次回から。

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by hinaseno | 2016-11-19 14:08 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート2第5夜(3)


彼(アル・カイオラ)は(「ダイアナ」で弾いた)このフレーズ、♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫を他のシンガーのセッションでもじゃんじゃん弾いたんです。

BOBBY DARIN / Dream Lover


この曲でピアノを弾いていた人もこの同じタイプの曲を出しました。

NEIL SEDAKA / Oh! Carol


このキャロルはキャロル・キングのことだというのはもう有名な話になっていますけれども、このキャロル・キングもポール・アンカの「ダイアナ」に感激して すぐにドン・コスタのもとに走ったんですね。そして彼のアレンジでデビュー曲を発表しました。

CAROLE KING / Under the Stars


さて、この♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫のギター・フレーズの話を続けましょう。アル・カイオラはじゃんじゃんこのフレーズをあちらこちらのセッションで弾きました。

JACKIE WILSON / Lonely Teardrops


この曲を作ったベリー・ゴーディー(Berry Gordy)は後にモータウン・レコードを作るんですけれどもね。これまたみなさんご承知のことですけれども、このときはまだ作曲家でした。

ドゥーワップのクレスツも、

CRESTS / The Angels Listened In


日本では九ちゃんでお馴染みの、

JIMMY JONES / Good Timin'


ブライアン・ハイランドも、

BRIAN HYLAND / Four Little Heels


そして極め付きは、

BILLY VAUGHN / Wheels


ここまで脇役であったこのギター・スタイルがついにメインとなったヒット曲が出たということになるんですね。まあこれやってますと番組が終わりますのでこのへんにしますけれども、このサウンドが60年代ポップスとなったんですね。原点は「ダイアナ」でドン・コスタでアル・カイオラだったというわけです。


さて、ここまできますとさしものロックンローラーも抵抗しきれなくなったんですね。♫トレインケプトアローレンオーナイロ〜ン(The train kept a-rollin all night long)♫と歌っていたジョニー・バーネットも、

JOHNNY BURNETTE / Dreamin'



♫ビーバッパルーラ(Be-Bop-A-Lula)♫のジーン・ビンセントも、

GENE VINCENT / Mister Loneliness


「サマータイム・ブルース」のエディ・コクランも、

EDDIE COCHRAN / Cherished Memories


なんとこの邦題は「コクランのズンタ・タッタ」でした(笑)。

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さて、ニューオーリンズで素朴な♫ローディローディローディミスクローディ(lawdy, lawdy, lawdy, Miss Clawdy)♫を歌っていたロイド・プライスまでも、

LLOYD PRICE / I'm Gonna Get Married


ニューオーリンズの匂いが残ってますけれどもアレンジはドン・コスタでした。ドン・コスタという人はあのニューオーリンズ・サウンドもこのような都会的なサウンドに仕立て上げるんですね。

バディ・ホリーも結婚した58年の秋頃にはニューヨークに移り住んでいたんですね。で、クリケッツのメンバーはテキサスのラボックを離れたくないということで残ったんです。ですからバディ・ホリーとクリケッツはもう別れ別れになっていたんですね。で、ホリーはすでにソロの道を歩んでいたんです。58年10月ニューヨークで録音された曲です。

BUDDY HOLLY / It Doesn't Matter Anymore


言っておきますがこれは悪くないんですね。これはこれでバディ・ホリーの特徴が出ていますよね。作曲は「ダイアナ」のポール・アンカでした。

で、よく「バディ・ホリーが死んでロックンロールが死んだ」と言われますけれども、もう58年暮れにホリー自身も多少の路線変更の兆しがあったんですね。ただ59年に音楽キャリアを閉じなければいけなかったので、ジョニー・バーネットやジーン・ヴィンセント、エディ・コクランのように如実な変化が感じられる曲が存在していないというわけですね。これが神話として存在できる要因なのではないかというふうに(笑)皮肉屋である私は見ております。

1956年に始まったロックンロール時代は59年に幕を閉じたというわけです。


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by hinaseno | 2016-11-18 12:23 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート2第5夜(2)

さて、58年になってようやくニューヨーク生まれのロックンロール・サウンドが登場したわけですけれども、それ以前のニューヨークはドゥーワップ・グループの花盛りだったんですね。パート1の1回目で聴いていただきましたけれども、54年のこの曲がブームの火種になったと一般的なロックの歴史本では言われております。

THE CREW-CUTS / Sh-Boom

アトランティック・レコードのコーズ(The Chords)の曲を白人グループがカバーしてPopチャートの1位になったんですね、このクリュー・カッツですけれども。
この1位というのがキーポイントなんです。というのもここまで大ヒットしますと業界は無視できないんですね。そこで続々と白人のR&Bのカバーが登場したということですね。フォンテイン・シスターズ(The Fontane Sisters / Hearts of Stone)もマクガイア・シスターズ(The McGuire Sisters / Sincerely)も聴いてもらいました。
そうしますと白人シンガーでもドゥーワップ・スタイルでデビューを飾るという人が出てきます。

NEIL SEDAKA / While I Dream

歌っているのはニール・セダカですね。彼も56年がデビューなんですね。初ヒットが出るのが58年の12月ですから、彼も2、3年間の潜伏期間があったということですね。
で、このドゥーワップの流れに新星が登場します。これがなんとチャートに登場したのが「ハートブレイク・ホテル」と同じ56年の1月のことでした。

FRANKIE LYMON & THE TEENAGERS / Why Do Fools Fall in Love

R&Bでは当然のごとく1位だったんですけれどもPopでも6位を記録しましたね。R&Bチャートでは「ハートブレイク・ホテル」は3位でしたから、ニューヨークではこちらの方に人気が集まっていたということですね。リード・シンガーのフランキー・ライモンはこのときなんと13歳です。まあ実際は14だったと自分では言っているようですけど。まさにティーンネイジャーズ(The Teenagers)だったわけですね。
このドゥーワップ人気というのはアラン・フリードなどの有名DJの力が大きいんですね。白人家庭の子供たちもこのような音楽を知ってしまったので、大人が聴いているようなのんびりした歌はもう聴いていられなくなったということですね。
で、このようなブームの中に単にコーラスだけでなくドゥーワップにラテン・フレーバーを入れた楽曲が登場します。すでにペレス・プラードの「マンボ」なんかが大流行してましたからね。頭にターバンを巻いたターバンズというグループがあるんですけれども、ラテン・フレーバーを入れた大ヒット曲を出しました。55年のことでした。

THE TURBANS / When You Dance

この曲、R&Bチャートでは3位と大ヒットして、Popでは33位だったんですけれども21週間もチャートされました。ですから5ヶ月間もチャートされたということですね。根強い人気があってこのタイプのサウンドが流行し始めました。
56年になりましてフォー・ラヴァーズがこのタイプに挑戦しました。

THE FOUR LOVERS / You're the Apple of My Eye

「冷たくしないで」のオーティス・ブラックウェルの曲なんですけれども、Popで62位にチャートされました。リード・ヴォーカルはフランキー・ヴァリ。彼の声がついにチャート上で聴けたのは、ここから6年後の1962年のことでしたね。グループ名はフォー・ラヴァーズからフォー・シーズンズと変わっておりましたけどね、そのときは。
次もまた同じタイプの楽曲です。グループ名はグラジオラス。

THE GLADIOLAS / Little Darlin'

「リトル・ダーリン」ですね。グラジオラスでした。このグループのリーダーのモーリス・ウィリアムス(Maurice Williams)が作った曲です。この曲をカナダ出身のコーラス・グループがカバーしました。

THE DIAMONDS / Little Darlin’

クリュー・カッツと同じカナダ出身のダイアモンズ。Pop、R&Bともに2位になりました。このサウンドのラインを受け継いでダイアモンズと同じくカナダ出身の若者が自作の曲でデビューします。57年7月に登場したときに、この若者は当時14歳でした。

PAUL ANKA / Diana

この「ダイアナ」はPopでもR&Bでも1位になったんですね。当時日本にポール・アンカ・ファンクラブというのがありまして、そのメンバーだった朝妻一郎さんはこのサウンドが自分の青春の音だと語っておられますが。
フランキー・ライモンが13歳、ポール・アンカは14歳と、1年前のエルヴィスが21歳ということで業界は驚いたばかりだったんですが、13と14が出てきたんですね。
56年のエルヴィスの21歳というのが驚異的だったということは他のベテラン勢の年齢を見るとわかるんですね。シナトラが当時41、ペリー・コモ44、ビング・クロスビーに至っては55ですから、チャートNo.1獲得者としてはエルヴィスの21歳というのは驚異的だったんです。そこへ今度は一気に13、14ですからね。でまた11歳になっていたブレンダ・リーもこの頃にチャートに登場していますから、まさにここからティーンネイジャーの時代が始まりました。
ポール・アンカのサウンドを作ったのはドン・コスタ(Don Costa)です。ベースとバリトン・サックスのユニゾンというのが特徴と言われてるんですね。♫ボン・ツ・トン・ボ・ボ・ボ・ボン♫というのをベースとバリトンがユニゾンでやると。
さらにこれまで打楽器が♫トントコランカントンコンタンタン♫とやっていたんですけれども、ユニークだったのはギターがそのリズムを担当してメロディを付けていたんです。ギターでね。♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫っていうやつ。で、これを弾いていたのがアル・カイオラなんですね。

(注)この日のブログでも書いたように、ポール・アンカの「ダイアナ」でアル・カイオラが弾いたギターフレーズがいかにアメリカン・ポップスにおいて重要であったかはこの後大瀧さんによって示されることになるのですが、偶然にも今夜BS-TBSで放送される「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」という番組で取り上げられるのがまさにポール・アンカの「ダイアナ」。1週間前に亡くなったアル・カイオラの話が出るかどうか楽しみです。
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by hinaseno | 2016-11-16 12:10 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート2第5夜(1)

アメリカン・ポップス伝パート2、本日は今シリーズの最終回。引き続きましてニューヨークのお話からですが、1956年エルヴィスが「ハート・ブレイク・ホテル」で登場したときと全く同じ時期にニューヨークのデッカ・レコードから新人がデビューしておりました。

BOBBY DARIN / Silly Willy
(注)「Silly Willy」は例のフォーク・ソングをカバーした「Rock Island Line」に続く2枚目のシングル。

歌っているのはボビー・ダーリンです。作詞がドン・カーシュナー、作曲がボビー・ダーリンの自作の歌なんですが、デビューの頃はフォークソングとかカリプソを歌っていたようですね。ボビー・ダーリンはレコードのデビュー前はCMのジングル制作などを行なっていて、そこで同じ仕事をしていたコニー・フランシスと知り合いました。そしてカーシュナー、ダーリンのコンビが彼女に曲を贈りました。

My First Real Love / CONNIE FRANCIS

これはコニー・フランシス4枚目のシングルとして発売されたんですけども、バックコーラスがずいぶん♬ワワワ♬と言ってましたが、これはどうやらボビー・ダーリンが一人で歌っていたそうです。
で、この後、アトランティック・レコードとボビー・ダーリンは契約するんですが、とにかく器用な歌手なんですね、ボビー・ダーリンというのは。なんでも歌える。それでアトランティックとしてはどの路線で売り出そうかということで、最初はやはりエルヴィス路線を考えたようなんですね。というのが最初のレコーディングはナッシュビルのブラッドリー・スタジオで行われていたんです。

BOBBY DARIN / I Found a Million Dollar Baby
(注)「I Found a Million Dollar Baby」の作曲はハリー・ウォーレン。1931年に発表されています。その年に録音されたこれが大ヒットしたとのこと。

ロックンロール・タイプの曲ではなくて、古いポピュラーソングの新しい解釈というのがいかにもアトランティックらしいけれども。
スタジオはナッシュビルのブラッドリーで、さらにジョーダネアーズがバック・コーラスなんですね。ですからやはりここはエルヴィス路線を考えていたんだと思います。このジャズ路線は後にボビー・ダーリンの新境地を開拓することになるんですけれども、まあ、これはあとのことです。
(注)ボビー・ダーリンのジャズ路線の話が出てくるのが半年後に放送された「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」。

ということで、アトランティック内部でボビー・ダーリンはジャズでいくのかロックでいくのかという分裂がありました。アトコ・レーベルの責任者ハーブ・アブラムソンとプロデューサーのジェリー・ウェクスラーはロックンロール路線に大反対でした。それを押し切ったのは社長のアーメット・アーティガンで「天の声で振り切った」というふうに言われています。それがロックンローラー、ボビー・ダーリンを誕生させました。

BOBBY DARIN / Splish Splash

(ジェリー・リー・ルイスの)「Great Balls of Fire」ですよね、これね。
お聴きの通りステレオなんですね。これはロックンロール・レコードとして初めてステレオ盤で売り出された曲だとも言われています。やはりこれはトム・ダウドが8チャンネル・レコーダーを持っていたからだと思うんですけどね。ヒット曲のタイトルが織り込まれていたこの曲はPop3位でしたがR&Bではナンバー1でした。やはりアトランティックはこの分野での販売力が強かったということなんですかね。
アトランティック・レコードがエルヴィスを買い損なったということは何度も申し上げましたけれども、それの答えがこれだったのではないかと思いますね。アトランティック初の白人ロックンローラーとなったわけですね、ボビー・ダーリンは。
で、彼はニューヨーク初のロックンローラーになったと言ってもいいと思うんですね。ニューヨークの音楽産業というのは巨大ですから、エルヴィスが登場して続々ロックンローラーが出てきてもニューヨークから見ればごく一部なんですね。ニューヨークのルーレット・レコードとかケイデンス・レコードがありますけども、原盤は地方で作っていたもので、ニューヨーク製作のロックンロール・レコードというのはほとんどないわけです。またさらにこの頃はニューヨークにいいロックンロールのギタリストがいなかったということもありましたね。それからエルヴィスから解放されたリーバー&ストラーが58年にニューヨークにやってきたということもニューヨークのロックンロール・シーンにとっては大きかったのではないかというふうに思います。コースターズとこのボビー・ダーリンのミュージシャンは似たような人たちがやっておりました。
さて、ボビー・ダーリンの次の曲がロックンローラーとして決定づける曲となりました。ギターを弾いていたのはアル・カイオラです。

BOBBY DARIN / Queen of the Hop

サックスはキング・カーティス。左で聴こえていたのがアル・カイオラでした。
これは58年10月、Popでは9位でしたがR&Bでは6位でした。あいかわらずR&Bの方が受けがよかったんですね。
アル・カイオラはホリー(バディ・ホリー)の名作「Rave On」のギターも弾いてるんですね。バディ・ホリーがニューヨークで録音したものです。ですからアル・カイオラはニューヨークにおける最初のロックンロール・ギタリストと言っていいでしょうね。
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by hinaseno | 2016-11-15 12:52 | ナイアガラ | Comments(0)

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大好きなギタリストのアル・カイオラが今月の9日に亡くなったということを昨日知りました。96歳だったとのこと。というわけで急遽予定を変更。ペリー・ボトキン・ジュニアのことやロビン・ワードの『ワンダフル・サマー』のことはまた後日に。先日亡くなったボビー・ヴィーのことも書けないままでいるけど。

アル・カイオラのことはこのブログでも何度も書いてきました。改めて自分のブログを確認したら、なんとブログを始めて5日目に彼のことを書いていたことがわかりました。その翌日も。
そのときのブログで書いているように、アル・カイオラのことを強く意識するきっかけとなったのは今から4年前の2012年に放送された大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」でした。この日のプログラムは8月31日深夜(正確には9月1日午前0時)の放送予定でしたが、放送直前にフィリピン近海で大きな地震が起きたために1週間延期されることになったんですね。実際には大事には至らなかった地震でしたが、まだ東日本大震災の津波の記憶も新しかったので、放送が中止になってしまったのも仕方がないことだったかもしれません。
で、放送されたのが1週間後の9月7日(9月8日午前0時)。この日の放送ではいろんな人が登場したのですが、とにかくアル・カイオラがあまりにも衝撃(笑撃)だったのでそれを書いたんですね。
僕のブログは2012年の9月4日に始めたので、もし予定通りの日に放送されていればアル・カイオラのことは書かなかった可能性があります。その意味でもアル・カイオラに対してはどこか運命的なものを感じています。

で、この日の放送は本当に何度も聴いたのですが、つい先日も聴き返したばかりでした。
きっかけはボビー・ダーリン。
先日文字起こしした「アメリカン・ポップス伝パート4 第3夜」にボビー・ダーリンが唐突に登場したので、それ以前の放送で彼について語られたものを聞き返したくなったんですね。それが「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」でした。興味深いのはアル・カイオラの話はボビー・ダーリンがらみで出てきたこと。ボビー・ダーリンがいなければ、というかアル・カイオラがいなければアメリカン・ポップスは生まれていなかったかもしれないと思ってしまうほどです。
大瀧さんのアメリカン・ポップス伝の中心にいたのは言うまでもなくエルヴィス・プレスリーでしたが、ボビー・ダーリンこそが陰の中心人物と言ってもいいような気がしました。
ちなみにボビー・ダーリンは「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」にもこの日のプログラムの主役の一人として登場します。
本当は「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」の流れで1960年代ポップスへと入ってほしいのに、大瀧さんは何度も後戻りしているんですね。彼には重要な繋がりがいくつもあって、それを確認しておかなければいけないと思わせる存在だったことがわかります。
先日文字起こしした、アメリカのマッカーシズムに触れられた「アメリカン・ポップス伝パート4 第3夜」のプログラムを作るきっかけはいろいろとあっただろうとは思いますが、もともとにあったのはなぜボビー・ダーリンのデビュー曲がフォークソングだったのかという疑問から始まったのかもしれません。

というわけで、次回から「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」と「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」のボビー・ダーリンとアル・カイオラに触れた話の文字起こしをしようかと思います。
文字起こしはもちろん大変ですが、大瀧さんの声を聴きながら文字に直していくと言う作業はまるで写経をしているような感じで、心を鎮めてくれる効果があることもわかりました。

アル・カイオラが昨年1月に演奏している映像がありました。


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by hinaseno | 2016-11-14 12:47 | ナイアガラ | Comments(0)

「アメリカン・ポップス伝パート4 第3夜」の文字起こし。いや、大変でした。これまで放送されたものの一部分くらいの文字起こしは何度かやりましたが一つの放送全部というのは初めて。放送は50分間でしたがどれだけの時間がかかったんだろう。
アゲインの石川さんは、「アメリカン・ポップス伝」が放送されたときには、毎回その日のうちに文字起こしをされていましたが(文字起こしだけでなく曲のリンクも)、それがいかに大変なことであるかがよくわかりました。睡眠時間を相当削ったはず。
でも、ただ聴くだけ、あるいは、人が起こししたものを読むだけでは絶対に気づけないようなことに気づくことができたのは大きな収穫でした。

いちばん驚かずにはいられないのは、番組のある部分でほんのちょっと語られたことが、必ずあとにつながっていること。50分の放送の中は言いつくせなかったつながりもいっぱいあるんだろうなと。おそらくそれはこれ以降の放送で語られることになったはず。

いくつか感想などを。
まずはハリー・ベラフォンテのこと。番組でもかかった「バナナ・ボート」はもちろんよく知っていましたが、たぶんいろんな替え歌を聴いていたせいか(♫今月ァ足りない借りねばならぬ♫は知らなかったけど)なんとなく冗談音楽のようにとらえてしまっていましたが、実はそれは労働歌と呼ばれるものだったんですね。
そのハリー・ベラフォンテさんの話で印象に残ったのが、彼が図書館でロマックス親子のライブラリーを勉強してフォークソングに興味を持ったというくだり。
このアーカイブを作ったのがレッドベリーなどの曲を録音したロマックス親子が作ったものであることがこの日の最初に示されていたこともあって、このくだりを聴いたときには感動すら覚えました。大瀧さんはアメリカン・ポップス伝でいろんな形の音楽のつながりを示してくれていますが、この日の放送で紹介されたのはロマックス親子のようにアメリカ中を走り回ってフォークソングを録音した人がいて、そのアーカイブを図書館がきちんと保管していて、それをだれもが聴けるようにしていて、音楽の世界で身を立てようとしている人がそれを聴いて学んでいたという形のもの。ここには音楽に限らず大切なことがいっぱい含み込まれています。
ちなみに僕のiTunesのライブラリーにはハリー・ベラフォンテさんの曲はクリスマスの曲が1曲だけ。彼のレコードもCDも1枚もありません。でも、この話だけでハリー・ベラフォンテという人にシンパシーを持ってしまいました。
それ以上にシンパシーを抱いたのはジョンとアランのロマックス親子ですね。彼らがいなければ、あの曲もこの曲も生まれていなかったんだなと考えると、彼らの活動がいかに重要なものだったかを思い知らされます。
ただ、そのアランも赤狩り旋風が吹き荒れていたときにはイギリスに逃げなくてはいけなかったという状況をあったとは。でもよくこのときに彼らの作ったライブラリーまで廃棄するという暴挙までにはいたらなかったんだなと胸をなでおろします。愚かな為政者や、そんな為政者に忖度する愚かな人たちはときにとんでもないことをするので。

そういえば一番腹立たしい思いを抱いたのは、赤狩りの標的にされたウィーヴァーズのカタログを所有していたデッカ・レコードが彼らのカタログを全曲削除したという話。面倒なことを避けようと思ったのかもしれませんが本当にひどい話です。

でも、これに似たことが最近日本でも頻繁に起こっていますね。例えばあるアーティスト、あるいは芸能人が何か犯罪を犯すと、そのアーティストが関わった作品を全て削除するという動き。これはあまりにもひどい。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、どうも最近は人を憎まなくてはいけないようになっていて(こういうのって容易に利用されます、というかされていますね)、結局企業側がそれを配慮するあまり作品をすべて削除してしまおうとする。作品には何の罪もないのに。そんなことをやっていたらブライアン・ウィルソンさんの作品なんて…、いやブライアンに限らず、ですが。

というわけで、この日の放送のいちばん感動的な場面はマッカーシーが失脚したあとに行われたウィーバーズの再結成コンサートですね。この場面は何度聴いても涙が出そうになります。
その一方で滑稽と思わざるを得なかったのがボビー・ダーリンのこと。ウィーヴァーズのカタログを全部削除したデッカ・レコードが赤狩り旋風が終わってフォーク・ブームがやってきたときにウィーヴァーズのカタログを再発するわけにもいかずに、デビューしたてのボビー・ダーリンに無理やりフォークを歌わせたこと。
これが失敗に終わったというのも音楽に神様がいるんだなという気がします。このあとボビー・ダーリンは自作の曲でヒット曲を出し、アメリカン・ポップスで最も重要なアーティストの一人になっていったわけですから。

そういえば番組ではかかりませんでしたが、ウィーヴァーズの再結成コンサートの3曲目に歌われたこの「Pay Me My Money Down」という曲。



どこかで聴いたことがあるなと思ったらビーチ・ボーイズがカバーしていた「Cindy, Oh Cindy」。



この「Cindy, Oh Cindy」という曲で最初に歌ったのがハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」がチャートに入る前に「バナナ・ボート・ソング」という曲を出していたタリアーズというグループだったこともわかりました。「Cindy, Oh Cindy」は「バナナ・ボート・ソング」の2ヶ月前にリリースしています。
ということで、タリアーズの「Cindy, Oh Cindy」を。



ビーチ・ボーイたちはもちろんフォークソングに大きな影響を受けていました。
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by hinaseno | 2016-11-07 12:53 | ナイアガラ | Comments(0)

さて、労働歌というと、明けて57年、1月に初登場して2月には5位と大ヒットした労働歌がポップチャートに登場しました。

Banana Boat Song / HARRY BELAFONTE

まあ、この頃♫今月ァ足りない借りねばならぬ♫っていうふうに流行ったんですけどね。みんな「デイ・オー(Day-O)」と覚えていますがタイトルは「バナナ・ボート」。これを歌ったのはハリー・ベラフォンテ。デビューは古くて49年にレコードを出しています。そのあと図書館でロマックス親子のライブラリーを勉強してフォークソングに興味を持ったんですね。で、ヴィレッジ・ヴァンガードで歌うようになって、そこにレコード会社のディレクターが見にきて契約を結んで。で、54年にアメリカ文学の父と言われるマーク・トウェインをメインテーマに据えたファースト・アルバムを作りました。出したときはすぐには売れませんでしたが、2年後の56年、これまた1956年なんですね、突然チャートの3位を記録したんです。シングル・ヒット全くなくてアルバムが3位というのはこれはおそらく当時のポップ史上初めてのことだったと思いますね。
で、1か月後に発売された2枚目のアルバムは1位です。100万枚以上売り上げました。3枚目のアルバムもまた1位。56年には2枚のゴールドディスク・アルバムを獲得したんですからものすごいブームでした。この年はエルヴィスもゴールドディスク2枚でしたから、アルバム・チャートではエルヴィスとハリー・ベラフォンテは互角の戦いをしていたわけです。翌57年の4枚目は2位でしたがゴールドディスクを獲得しています。とにかくこの頃はベラフォンテ・ブーム、カリプソ・ブーム。以前のマンボーのようにカリプソーという言葉が流行語になっていろいろなところで使われました。

Day Dah Light / EDRIC CONNOR

カリプソーとして流行しましたが実際はメント(Mento)と呼ばれる音楽形式で、ベラフォンテのバージョンは今かかっておりましたところのエドリック・コナーのもとに、さらに次のルイ・ベネットのバージョンを加味したものだと言われています。

Day Dah Light / LOUISE BENNETT

「デイ・ダー・ライト」でした。実はベラフォンテの「バナナ・ボート」がチャート・インする2週間前にタリアーズが「バナナ・ボート・ソング」というタイトルでレコードを出しておりました。

The Banana Boat Song / THE TARRIERS

このタリアーズのリーダーはエリック・ダーリン(Erik Darling)。ウィーヴァーズに影響を受けて56年にタリアーズを結成しました。彼らの「バナナ・ボート・ソング」の方がベラフォンテの「デイ・オー」よりも一つ上の4位にチャートされました。
このタリアーズのリーダーのエリック・ダーリン、彼はピート・シーガーがウィーヴァーズを抜けたときにウィーヴァーズのメンバーになりました。で、そのあと作ったブループがルーフトップ・シンガーズ(THE ROOFTOP SINGERS)でした。

注:ここで大瀧さんはおそらくルーフトップ・シンガーズの代表曲、例えば「Tom Cat」か「Walk Right In」をかける予定だったのではないかと思いますが、入れ忘れたか、あるいは編集の過程で誤ってカットしてしまったのではないかと思います。
で、かかったのはこの曲。

Marianne / THE EASY RIDERS

このカリプソブームやフォーク復活の動きは徐々に他の会社も参加してくるんですね。まずはCBSのミッチ・ミラー。今かかっている「マリアンヌ」を歌っているのはイージー・ライダースです。この曲はカリプソ作家として有名なローリング・ライオン、吠えるライオンですかね、この曲をもとにしています。

Mary Ann / ROARING LION

イージー・ライダースのリーダー、テリー・ギルキーソン(Terry Gilkyson)は作家として活動するかたわら、50年代初期にはウィーヴァーズに呼ばれてゲスト・シンガーとして時々歌っていました。まあ、もともとフォークに縁があったわけですね。そして56年にイージー・ライダースを結成して、この♫All day all night, Marianne♫は4位の大ヒットとなりました。
ではもう1曲イージー・ライダースの曲を聴いてみましょう。

Green Fields / THE EASY RIDERS

この曲はのちに同じCBSのフォーク・グループ、ブラザース・フォアがカバーして大ヒットさせましたが、オリジナルはこのイージー・ライダースでした。

ここまではフォーク関連のアーティストでしたが、いよいよポップ側からのアプローチも始まります。
57年に「ハニーコーム」というナンバー・ワン・ヒットがありました。

Honeycomb / JIMMIE RODGERS

これを歌っていたのはジミー・ロジャース。彼はもともとフォークシンガーになりたかったという人で、第2弾シングルに選ばれたのはウィーヴァーズのレパートリーだった「キッシーズ・スイーター・ザン・ワイン」。

Kisses Sweeter Than Wine / JIMMIE RODGERS

だんだん上がっていく構成なので、なかなかカットしづらい曲なのですが、邦題は「ワインより甘いキッス」という、これが第3位のヒットとなりました。レコード会社はギャンブラーのジョージ・ゴールドナー(George Goldner)とモーリス・レヴィ(Morris Levy)が作ったルーレット・レコードです。この会社がフォークソングというジャンルに本格的に手を出してきたわけですから、ブームもそろそろ本格的になってきたということですね。
プロデューサーはヒューゴ&ルイージ(Hugo & Luigi)という、この2人はフォークソングというジャンルがヒット曲の宝の山であるということをしっかりと見抜いていたチームでした。
ヒューゴ&ルイージはこの後フォークだけでなく、60年代ポップスを作った重要なチームということになるんですけども、その話はまた次の機会ということで。
ジミー・ロジャースはこの後もトップ10ヒットを連発するビッグ・スターになったんですが、アルバムの中からの曲を聴いてみましょう。

Evergreen Tree / JIMMIE RODGERS
注:1番をすべてかけます。

日本ではクリフ・リチャードのヒット曲で有名ですが、オリジナルはジミー・ロジャースでした。作家はアーロン・シュローダー(Aaron Schroeder)とウォーリー・ゴールド(Wally Gold)の名コンビで、ポップスの作曲家たちもフォーク調の需要が高まってきたということでしょう。しかしジミー・ロジャースは自らをフォークシンガーと名乗って『Jimmie Rodgers Sings Folk Songs』とか『An Evening Of Folk Songs』とか、しっかりとフォークソングという文字を入れたアルバムを発表していきました。アルバムの中にはフォーク・グループのカンバーランド・スリー(The Cumberland 3)という、そこのメンバーの曲もありました。

Find the Girl / JIMMIE RODGERS

「ファインド・ザ・ガール」という曲ですが、作曲はジョン・スチュアート(John Stewart)です。1961年、キングストン・トリオのリーダー格のデーヴ・ガード(Dave Guard)が脱退して新メンバーとして加入したのがこのジョン・スチュアートでした。

Where Have All the Flowers Gone / KINGSTON TRIO

ようやく出だしのキングストン・トリオの話に戻ってまいりました、ってこれじゃあ「やかん()」だね、こりゃ。
ジョン・スチュアートが新加入した第2次キングストン・トリオがこの61年に吹き込んだのが「花はどこへ行った」でした。ヒットしたのはそれから3年後のことだったんですが、まあそのキングストン・トリオやそれ以降のフォーク・シーンについてはまた次の機会にお話しすることといたします。

※落語の「やかん(薬缶)」のことのようです。
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by hinaseno | 2016-11-05 11:53 | ナイアガラ | Comments(0)

この再結成コンサートではたくさんの持ち歌が披露されましたが、その中の1曲「ロック・アイランド・ライン」を聴いてみましょう。

Rock Island Line / THE WEAVERS

シカゴの鉄道のことを歌った歌ですけれども、これを最初に録音したのはジョン・ロマックス、歌ったのはレッドベリー。

Rock Island Line / LEADBELLY

レッドベリーのバージョンは冒頭に語りがあるんですけどね、ウィーヴァーズはあそこをカットしたバージョンでした。ところがこの歌をレッドベリーのバージョンの、この語りありのバージョンでカバーしたレコードが出たんですね。それがなんと1956年。まさに「ハートブレイク・ホテル」が1位にランクされていた頃にトップ10に飛び込んでくるという珍事が起きておりました。

Rock Island Line / LONNIE DONEGAN

歌っていたのは英国人のロニー・ドネガン。録音されたのは54年の7月でした。当時はイギリスではロニー・ドネガンやクリス・バーバー(Chris Barber)が中心となってスキッフルと呼ばれた音楽がイギリスでブームになっていたんですけれども、それにしてもアメリカで全く無名の、しかも英国のシンガーのレコードが突然トップ10に入ってくるというのはかなり異常な出来事でした。
考えられるのはこの曲がウィーヴァーズのレパートリーとしてかなり有名だったこと、そしてエルヴィスの登場で世はロックンロール時代になっていたということ。ロニー・ドネガンのスキッフルはどこかエルヴィスのサン・レコード時代と共通するものがあります。で、エルヴィスのファースト・アルバムはこの頃ゴールド・ディスクを獲得していました。この中にはサン・レコードの曲が5曲も入っていたんですね。ですからリスナーはあのタイプのサウンドもすでに馴染みがあったわけです。同じようなものとしてとらえられたんじゃないでしょうか。
ドネガンのバージョンはウィーヴァーズのバージョンにはないハードなビート感がありました。これがこの時代に受け入れられた要素だったと思います。イギリスでこの曲が大ヒットしたことを知ったデッカ・レコードはカタログから削除してしまったウィーヴァーズのレコードをいまさら発売するわけにもいきません。そこで新人にこの曲を歌わせることを企画します。歌わされたのは契約したばかりの新人ボビー・ダーリン。

Rock Island Line / BOBBY DARIN

ボビー・ダーリンは実はこれがデビュー曲だったんですね。この歌でテレビの初出演を果たしたボビー・ダーリンの映像を見たことがありますが、手をかざしてかなり頻繁に見るんですね。
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なんのことかと思ったら、手のひらにびっしりと歌詞が書いてあるんですよ。会社に無理やりやらされたという証明ですね。もちろん全くヒットはしませんでした。

Sixteen Tons / TENNESSEE ERNIE FORD

この曲は純粋なフォークソングではありませんが、ウィーヴァーズが音楽シーンに復帰した55年12月にトップ10入りして8週連続のナンバー・ワン・ソングになりました。炭鉱労働の歌で、いかにも古くからのフォークソングに聞こえますけれども、カントリー・シンガー、マール・トラヴィスが46年に作った歌です。この頃フォークのアルバムがヒットしていたので、キャピトル・レコードも何かフォーク的な歌を作ってみないかとマール・トラヴィスにアドバイスしました。実際このトラヴィスのお父さんはケンタッキーの炭鉱で働いていて、それをもとにしてこの歌が作られました。

Sixteen Tons / MERLE TRAVIS

46年に『Folk Songs of the Hills』というアルバムを作って、その中に入っていたんですね。
ところがですね、なんとこのときに、47年、放送局にこのアルバムをかけないようにとFBIが圧力をかけたんですね。まあアルバムの曲ですからラジオ局でかからなければリスナーは知る由もありませんね。そこで埋もれた曲というふうになっていたわけです。
で、時は流れて55年、同じキャピトル・レコードのディレクター、ケン・ネルソン(Ken Nelson)、「Be-Bop-A-Lula」のときに出てきましたが、彼がこの曲を思い出して、テネシー・アーニー・フォードにカバーしたらどうかというふうに持ちかけたんですね。
55年といいますとマッカーシー議員も失脚していますし、まあそろそろいいんじゃないかと思ったんでしょうね。ただ、やはり怖かったのかB面で出したんですね。しかしまたDJがそのB面ばかりかけたのでクリスマスまでに200万枚を売り上げるという特大ヒットとなったのでした。
55年に再結成したウィーヴァーズ。再結成コンサートでもこの曲を歌っておりました。

Sixteen Tons / THE WEAVERS

新作でも古典になったという例です、「シックスティーン・トンズ」。
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by hinaseno | 2016-11-04 11:26 | ナイアガラ | Comments(0)