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by hinaseno
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カテゴリ:ナイアガラ( 287 )



はじめに、ちょっと前置きが長くなりますが、「カナリア諸島にて」が生まれたときの話についてふれられているもうひとつ別のインタビュー記事を探すの大変でした。

その記事を見つけていたのは10日ほど前のこと。木崎さんのインタビューを見つけたのと同じ日に発見しました。ということなので、てっきり木崎さんのインタビューが載った『大瀧詠一 Writing & Talking』に収録されていると思い込んでいたんですね。ところが何度探しても見つからない。なんせ900ページにも及ぶ本なので一通り見るだけでもとんでもない時間がかかります。それを2日間かけて、空いた時間を利用して5回通りくらい見ました。でも、どこにも見当たらない。さすがにへとへとになりました。

ちょっとあきらめかけたときに、ふと冷静になって記憶を呼び起こしたら、確か赤線を引いたはずだと、それから確かインタビュアーは北中正和さんだったということを思い出しました。

改めて本をめくってみたら北中さんの記事が一つあったもののインタビューではない。そしてどこにも赤線を引いていない。なんだか神隠しにあった気さえしてきました。

もしかしたら別の本だったんだろうかと考えて、あたりを見渡してみたら『レコード・コレクターズ』の2011年4月号が目に入りました。特集は『大滝詠一/ロング・バケイション』。

ありました、そこに。北中さんのインタビュー。『大瀧詠一 Writing & Talking』には載っていないものです。

それにしても『大瀧詠一 Writing & Talking』は貴重な記事が満載だけど、唯一難点といえば、目次をもう少し詳しいものにして欲しかった。あの記事はどこにあったっけと思っても目次には載っていないので探すのが大変すぎます。


さて、『レコード・コレクターズ』の2011年4月号に載っている北中さんのインタビューですが、実はこれは『ミュージック・マガジン』の1981年4月号の記事を再掲載したもの。『ロング・バケイション』が発表された直後の記事ですね。ということなので大瀧さんの記憶も正確で生々しく、言葉の一つ一つに実感がこもっています。もちろん後付けの話もありません(かなり後付けの話が多い方なので)。


こんなやりとりがあります。


北中:活動再開のきっかけになったのは、何だったのですか。
大瀧:79年の夏に、本を読んでたら、自然に1曲できた(「カナリア諸島にて」)のね。そういうことって、ほんとうに何年振りかのことでね。『ナイアガラ・ムーン』以降、タイトルを作ってから、曲を作るやり方が続いていたのね。ずーっと。
北中:新しいアルバムは、親しみやすい曲が多いですね。
大瀧:ぼくにとって第1期ナイアガラは、メロディ拒否の時期だったのね、意固地に。その前にソロ・アルバムや、はっぴいえんどの時期があった。それに対して濡れたところを拒否しようみたいな気持ちがあって、歌謡曲対アンチ歌謡曲みたいな感じで、いかに乾くか、ということに専念していたんじゃないかな。当時は、みんな乾燥剤をどれだけ入れるかの勝負だったでしょう。もう、カラカラにひからびで『レッツ・オンド・アゲン』(78年)まで行ったんだけど、さすがにひからびすぎて、体の方が耐えられなかったのか、ふっと浮かんできたのが「カナリア諸島にて」のメロディだった。それがすごいうれしくて、みんなに言って歩いたのね。やれるんじゃないかと。ただし、第1期と同じ轍を踏むことはできない。この3年間アーティストとして、何をしていたかの答えが、今回のLPということなんだと思う。
北中:もう少し説明してくれませんか。
大瀧:ウェットとドライ、対立概念としてとらえていたのをやめて、ひとつのものと見ようとするようになったわけです。

このインタビューで僕が特に反応したのは「79年の夏に、本を読んでたら、自然に1曲できた」という部分。「カナリア諸島にて」は79年の夏に、ある本を読んでいたときに、メロディが「ふっと浮かん」だんですね。気になったのはこのとき大瀧さんが読んでいた本。インタビューのこの部分を読んだときに僕は思わず「北中さん、本が何だったか訊いてよ」って突っ込んだんですね。それで北中さんの名前を覚えていたというわけ。


前回も書きましたが「カナリア諸島にて」が生まれたのはおそらく1979年の7月。木崎さんのインタビューで「8月からレコーディングに関しての打ち合わせを始めた」と発言していることを考えると、できたのは7月の下旬。もしかしたら大瀧さんの誕生日である7月28日だったかもしれません。

1979年の夏といえば、まさにその頃に発売された本を瞬時に思い浮かべることができます。大瀧さんと学年が同じで、大瀧さんと同じく早稲田大学に行った作家のデビュー作。

これですね。

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本の発行日は1979年7月25日。表紙の上の方には「HAPPY BIRTHDAY AND WHITE CHRISTMAS」という文字が記されています。


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by hinaseno | 2017-09-14 12:00 | ナイアガラ | Comments(0)



言うまでもないことですが大瀧さんがJ. D. サウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」みたいなレコードを作りたいと朝妻一郎さんのところに言いに行ったのは、ただそれが大ヒットしていたからというわけではありません。「みたいな」という言葉の背景には大瀧さんならではの深い理由があるんですね。朝妻さんにそこまでの説明をしたかどうかはわかりませんが、もちろん朝妻さんであれば説明されなくても即座に理解したはず。


そのあたりのことについてはまた後ですることにして、「カナリア諸島にて」がいつ生まれたかという話を先に。『ロング・バケーション』に収録された曲は1979年から1980年にかけて他のアーティストに提供するために作ったものの結果的にはボツになってしまったものばかりなのですが、「カナリア諸島にて」は(発表する予定がないにもかかわらず)自分用の曲として、ある日突然、ポッと生まれたんですね。新しいアルバムを作ろうと思ったきっかけは「カナリア諸島にて」が生まれたから。


これがいつできたんだろうかといろいろと推測していたんですが、なんと『大瀧詠一 Writing & Talking』に収録されたインタビューで答えられていたんですね。

まずは1981年2月発売の『ポプシクル』でのインタビュー。インタビュアーは木崎義二さん。


木崎:3月21日に『ロング・バケーション』が発売されるわけですが、まず、このアルバムをつくろうと思いたった、きっかけといったところから……。
大瀧:79年の夏に1曲、自然にできたんです。頼まれもしないのに曲ができるなんて、7年ぶりのことだったからね。うれしくなっちゃって、これならLPをつくれるかもしれないと思って、8月からレコーディングに関しての打ち合わせを始めたというわけ。
木崎:その、きっかけになった曲はこのアルバムに入っているんですか?
大瀧:「カナリア諸島にて」です。

というわけで「カナリア諸島にて」ができたのは79年の夏。「8月からレコーディングに関しての打ち合わせを始めた」ということからすると曲ができたのは7月くらいでしょうか。

ちなみにJ. D. サウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」がシングルで発売されたのはこの年の9月。ということはこの8月に始まったレコーディングの打ち合わせのときには「ユア・オンリー・ロンリー」の話は大瀧さんの口から出ていないことになります。


『はっぴいえんど伝説』に載っているインタビューで大瀧さんは「そのころ、ポッと「カナリア諸島にて」ができて、朝妻さんとこ行って喜んだんだけどね。”あ、そう”なんて、意外に本気にされなかったの、実は。」と語っているので、この段階ではまだ具体的な話にはいかなかったようですね。

ただし、のちに契約して『ロング・バケーション』を出すことになるCBSソニーとの縁がこの頃できていくんですね。先ほどの木崎さんのインタビューの続きでこんな話が出てきます。


大瀧:で、そのころ何故か偶然に、CBSソニーからの曲の発注が増えてきた。ニュー・ホリデー・ガールズとか清水健太郎、ハンダース……そして80年の前に須藤薫の曲を頼まれたんです。それが「あなただけ I LOVE YOU」でね。この曲はサウンドの録音の方法など、ぼくのアルバムへの実験的要素がつまっているんだ。それから、いろいろな新しいミュージシャンとの組合わせということもあった。それらのねらいが、すべて成功。そこで、意を強くして、4月からレコーディングに入ったんです。
木崎:CBSソニーから出すことに決めた理由は?
大瀧:うん。だから、そういった状況だったので、なんとなくCBSソニーということになったんです。

一昨日紹介した朝妻さんの話では、朝妻さんが「ソニーにしよう」と思い浮かんで決めたような感じになっていますが、実際には大瀧さんとCBSソニーとのつながりができて、いい結果を出していたのを朝妻さんが知っていたからのことだったはず。


ところで「カナリア諸島にて」ができたときの話が、別のインタビューにも載っていて、そちらにはちょっと興味深いことが書かれていたんだけど、はさんでいた栞が抜けてしまって見つからない。

ってことで今日はあきらめて、ここまで。


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by hinaseno | 2017-09-12 14:58 | ナイアガラ | Comments(0)

大瀧さんの『ロング・バケイション』がJ. D. サウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」みたいな感じで作られたという話は、大瀧さんのファンになって(もちろんきっかけは『ロング・バケーション』)まもない時期に何かの雑誌で読んで知しました。

「ユア・オンリー・ロンリー」がシングルとして発売されたのは1979年9月。全米のポップチャートで7位、アダルト・コンテンポラリー・チャートで1位と大ヒットを記録しています。日本でもかなりヒットしたようで、翌80年の2月に来日したようです。時期的にはまさに『ロンバケ』前夜ですね。

ところで僕が『ロンバケ』がらみでJ. D. サウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」のことを知ったのはおそらく1983~84年頃。J. D. サウザーというミュージシャンのことも知らなかったし「ユア・オンリー・ロンリー」という曲も聴いたことがありませんでした。

J. D. サウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」が大瀧さんの『ロンバケ』とつながりがあることを知って気になっていた頃、駅(岡山駅)近くのどこかのビルの1室でたまたま中古レコードのセールをやっていて、そこでこのシングル盤を見つけたんですね。

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ところで、昨年タワー・レコードのポスターにも使われたこの写真。最近でもいろんなところで使われている写真ですね。

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『ロンバケ』が発売された1981年当時、プロモーション用に使われた唯一の写真なんですが、肘のあたりまでまくった白いシャツを着て、ポケットに手を入れ下をうつ向いているポーズは何から何まで「ユア・オンリー・ロンリー」のジャケットに写っているJ. D. サウザー、そのまんまなんですね。もちろんこれは大瀧さんファンであれば有名な話。

ソニーの関係者が撮影のときにJ. D. サウザーを意識して(たまたまですが、J. D. サウザーもソニー)このポーズをとらせたんだろうと思いますが、大瀧さん、相当照れ臭かったのでは?

ただこの写真は大瀧さんご自身も気に入っていたようで、こちらは「幸せな結末」が大ヒットしていたときの1988年1月22日の朝日新聞(夕刊)の記事。

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例の写真が使われていて、その横にはこんな言葉。


「匿名性を守りたく、現在の写真は断る」との希望で、本人から提供された81年撮影のモノクロ写真。

笑いました。


ところで僕が最初にJ. D. サウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」のことを知った大瀧さんの『ロンバケ』に関する記事のこと。どんなことが書かれていたのか気になったので調べようと思ったんですが、なんの本に載っていたのかわからず、どうにも見つからない。

これではおぼろげな記憶と推測ばかりの話になってしまいそうだなと思って、あれこれ読んでいたら見つかるときには見つかるもんですね。へえ~、こんなこと言ってたんだなとか、こんな文章を書いていたんだなというものがいくつも。すべて『大瀧詠一 Writing & Talking』に収録されている文章でした。


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by hinaseno | 2017-09-11 15:09 | ナイアガラ | Comments(0)

朝妻一郎さんの『ヒットこそすべて オール・アバウト・ミュージック・ビジネス』に収録された「70年代のナイアガラ」の後半部分を。


 そのうちELECの経営が傾いてきて、日本コロムビアにナイアガラが移籍することになった。3年で12枚を制作するという契約を結ぶことになるんだけど、その途端にシュガー・ベイブも、伊藤銀次のココナツ・バンクも解散してしまった。
 でも、その状態で作った移籍後最初のアルバム『ナイアガラ・トライアングル Vol.1』(76年)は売れたんだよ。2万枚近くいったんじゃないかな。山下、伊藤、大滝の3人が集まって、新しい音楽をアルバムに詰め込んだ。それが受けたんだ。僕自身も当時のナイアガラでは一番好きなアルバムだった。ただ、そのせいでコロムビア側の期待がすごく大きくなっちゃった面もあると思うんだ。
 『ナイアガラCMスペシャル』(76年)はもっと売れて、当時で3、4万枚。「サイダー」シリーズとかはテレビで知られていたからね。
 ナイアガラ初の女性アーティストになったシリア・ポールは、僕がやったモコ・ビーバー・オリーブのオリーブ。女性シンガーは必要だと大滝君は考えていたと思うし、モコ・ビーバー・オリーブの作品を聴いていて、自分だったらもっと良いものができると思っていたんじゃないのかな。実際、アルバム『夢で逢えたら』(77年)はとてもよくできていたよね。残念ながらセールス的には期待したほどではなかったけどね。
 自分が「これだ!」と思って出したものが、何かの具合でうまく世の中とマッチしなくてがっかりしたという経験は誰しもあるものだよ。『夢で逢えたら』が不振で(大滝君が)がっくりしていたのは本当。
 『ナイアガラ・カレンダー』(77年)も良いアルバムだったけどね。最後は『レッツ・オンド・アゲン』(78年)でコロムビアとの契約条件を満たして、ナイアガラは一旦休止に入る。機材も売り払ってしまって、翌79年には何も活動していない。だけど、本人は生きているわけだからね、僕は絶対にどこかで何かをやってくれるに違いないと信じていた。
 それにいくら契約があったとは言え、年4枚のペースであれだけの作品を作り続けたのは相当無理があった。特に大滝君はスタジオワークにこだわっている人なんだから、本当はもっと時間をかけたかったと思う。ムチでペンペン叩いて作品を作り続けさせることが、必ずしも良い結果を生むとは思えないわけだから。
 そういう意味では、大滝君に心から満足のいく作品を作ってもらうにはどうしたらいいかということを考える上で、70年代のナイアガラの作品群は重要だったと思うよ。『A LONG VACATION』のためには必要なことだったんだ。
 80年代に入ってからかな、当時、六本木にあったうちの会社に大滝君が現れて、「ちょっとまたアルバムを作りたいんだけど」と切り出した。そのときにJ.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」をかけて、「こういうのがやりたいんだ」って彼は言った。僕は「最高。これいいよ!」って答えて、そこから『ロンバケ』の制作が始まっていく。


で、この後の話は「A LONG VACATION」と題された章へと続きます。その始めの部分を少し。


 僕にとっての80年代の幕開けは、大滝詠一君の『A LONG VACATION』から始まっている。
 日本コロムビアとのナイアガラの契約が終了して、1年ぐらい動きがなかった大滝君が、当時六本木にあったPMPにやって来て、J.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」みたいなレコードを作りたいと言った。すべてはそこからだった。

さて、ここで疑問。果たして大瀧さんが朝妻さんのところにJ.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」みたいなレコードを作りたいと言いに行ったのがいつ頃なのか。さらに、「ポッと『カナリア諸島にて』ができて、朝妻さんとこ行って喜んだ」のはいつ頃のことなのか。

それから、J.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」が『ロンバケ』とどうつながるのか。

次回はそのあたりについて考えてみたいと思います。

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by hinaseno | 2017-09-08 15:14 | ナイアガラ | Comments(0)

朝妻一郎さんの『ヒットこそすべて オール・アバウト・ミュージック・ビジネス』(白夜書房 2008)には、大瀧さんの『A LONG VACATION』が生まれる経緯を知るのに大変興味深いエッセイが2つ収録されています。ひとつは以前少し紹介した「A LONG VACATION」と題されたエッセイ。そしてもうひとつは「70年代のナイアガラ」と題されたエッセイ。いずれもこの本のために語り下ろしされたものです。それぞれ結構長い話なんですが、とても興味深い話ばかりなので紹介しようと思います。まずは「70年代のナイアガラ」を。一部省略しているけど、著作権、大丈夫かな?


 ...そのうちはっぴいえんどのメンバーの大滝詠一がソロを出すということになって、三浦さんから「この著作権をPMP(朝妻さんが現在会長を務めている音楽出版社のこと。現在のフジパシフィックミュージック)で預かってもらえませんか」とオファーがあった。そこで最初の接点が出来た。「恋の汽車ポッポ」と「空飛ぶクジラ」の2曲かな。
 その少し後に、はっぴいえんどのマネージメントをしていた風都市の松下典聖君から「朝妻さん、大滝詠一がレーベルを作りたいって言うんですけど、協力してくれませんか」って頼まれた。配給はELECと契約をするというので「じゃあ協力するよ」と答えた。それから制作する予定になっていたナイアガラの一番最初のレコードであるシュガー・ベイブの『ソングス』や『ナイアガラ・ムーン』の著作権をうちで預かるということになったんだ。
 僕は、ちょうど大滝君の5歳上なんだ。僕は1943年生まれ。大滝君が48年で、山下達郎君が53年。だから5歳ずつ違う。でも大滝君とは、初めて話をしたときから5歳違う感じがあんまりしなかった。要するに僕たちは「同じ音楽を聴いてて、同じのが好きだな」と思えた。「最高、最高!」みたいな感覚を共有できた。亀淵さんのことを僕は「すごくいろんなことを知っているなあ」と思ってきたんだけど、大滝君も負けないくらいすごかった。
 そもそも、自分でレーベルを作るという発想を持った日本のミュージシャンは珍しいし、実際、実行に移したという意味でも初めてだったと思うよ。その当時で、まだ彼は23、4歳だからね。
 もちろんフィル・スペクターのフィレスとか、そういう例がアメリカにあることは僕たちも知ってはいて、ナイアガラというレーベルのアイデアに関しても「そうかそうか、そういうふうに考えるのも当たり前だよな」と思っていた。だけど、そのときはまだそんなにすごいことに参加しているとは実感してなかったんだ。
 ビジネスとしては、うちで制作費を持ちましょうということで、PMPが原盤権を持つことになった。そして一応、「ナイアガラ」という会社を設立するということで、資本金をうちも出した。
 まだまだ若者だった大滝君に対してそこまでできたのは、ひとえに「この人、すごい才能があるな」っていう敬意と、ぜひこの才能と一緒に仕事をしたいと言う気持ちが強くあったからだよ。自分と同じような音楽が好きで、知識も豊富で、音楽で何か新しいことをやりたいと思っている。そういう人と一緒に仕事ができるのはすごくうれしいものだったんだ。
 あと、彼はやっぱりポップスに対するセンスでは図抜けてた。僕も基本的にポップスが好きなんだよね。ロックじゃなくて、ポップスなんだということがお互いの認識の中にあったと思う。
 でもビジネス的には、すぐに成功したわけじゃない。ELEC時代のシュガー・ベイブも『ナイアガラ・ムーン』も売れはしなかった。特に『ソングス』は内容もすごくポップで良かったのに、実売は数千枚。経費に対する売上という面では「ちょっと大滝くんさ、これお金かかり過ぎだよ」と言いたくなるときもあったね。
 だけど、自分が良いと思う感覚をアーティストが持っているなら、絶対いつかは売れるということは、僕はずっと信じていた。現実的にはそうはいかないものもあったけど、今じゃなくてもちょっと時間がたったらそれが絶対に評価される時が来ると思っていたんだ。
 上司に呼び出されて「おまえ、これ大滝詠一のプロジェクトはどうするんだ」とか問いつめられたこともあったよ。当時、僕は制作部長か制作課長で、まだそんなに立場も大きくなかったけど、「大丈夫です。絶対才能ありますから、絶対売れますから!」って突っ張った。「また金かかんのか」って言われても、「もうちょっとです、もうちょっとです」とか言って粘ってね。

(次回に続く)


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by hinaseno | 2017-09-06 12:48 | ナイアガラ | Comments(0)

今回いろいろと書くことになる話のキーワードがあるとすれば「夢」、それから「ロイ・オービソン」かな、と。

「夢」といえば「夢前川」。姫路の西に流れている川ですね。木山捷平の小説にタイトルにもなっている川です。ウィキペディアを見たら、この夢前川の上流にあった夢前町は、今は姫路市に編入されてしまっていますが、全国で唯一町名に「夢」が付いている町だったんですね。


最近、なんだか夢前川のあたりの風景をしきりに思い浮かべています。木山捷平のことなんて全く知らなかった頃、用事があるなしに関わらず夢前川のいろんなところに行っていました。川沿いの道を車で通ったり、あるいは河原に降りたり。もちろんいつも音楽を聴いていました。当時一番よく聴いていたのが渡辺満里奈さんの『Ring-a-Bell』やブライアン・ウィルソンの『Imagination』。この2枚は夢前川周辺の風景とぴったり重なっています。

渡辺満里奈さんの『Ring-a-Bell』のプロデューサーは大瀧さん。ブックレットの最後に記された「Produced by 大瀧詠一」のクレジットを久しぶりに見たときには本当に嬉しかったな。


その頃、1990年代の後半は音楽プロデューサーというのが日本でブームになっていました。中心にいたのは小室哲哉。それからつんく♂とか。アーティスト以上にプロデューサーの方が注目を浴びる時代が来るなんてびっくりでした。

僕がプロデューサーというのを意識するようになったのはやはり大瀧さんでした。「Producer;大瀧詠一」とか「Produced by Eiichi Ohtaki」とかの文字を見るたびに心ときめいたものです。で、アメリカン・ポップスも、だんだんとアーティストではなくプロデューサーで聴くようになっていったんですね。フィル・スペクター、ブライアン・ウィルソン、スナッフ・ギャレット……。


さて、僕が最初に「Producer;大瀧詠一」の文字を見ることになったのはもちろん『A LONG VACATION』。歌詞カードの裏のクレジットの最後に「Producer;大瀧詠一」と記されています。

ところでその上に「Executive Producer」という肩書きを持った人の名前が記されていることにどれだけの人が気がついていたでしょうか。

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この『A LONG VACATION』の「Executive Producer」としてクレジットされているのがまさに朝妻一郎さんでした。


Executive Producer(エグゼクティブ・プロデューサー)って、一体どんな人だろうと思いますね。アメリカのWikipediaを見るとこんな風に書かれています。


The executive producer is responsible for business decisions.

「エグゼクティブ・プロデューサーはビジネスに関する決定に責任を負っている」と。つまり金銭的な部分で責任を持った人ですね。実際にエグゼクティブ・プロデューサーの仕事をされている人が書いた記事によるとエグゼクティブ・プロデューサーは「関わる会社やスタッフの選定、制作費、宣伝費を決めて出資会社の選定、利益配分の決定、著作権管理者及び利益配分を決めて etc. 最終的に利益が出た場合の利益配当までを含めての責任者」ということになるようです。


さて大瀧さんの『A LONG VACATION』の「Executive Producer;朝妻一郎」ということに関して、音楽評論家の北中正和さんがこんなことを書いています。


 ジャケットにはエグゼクティヴ・プロデューサーとして朝妻一郎とクレジットがある。当時のナイアガラの事情に詳しい中山久民さんにうかがったら、やはりレコーディングの経費は朝妻さんが保証したとのことだった。音楽出版社の経営者の朝妻さんは、ニール・セダカの音楽が好きで音楽業界に転職してきた人だ。60年代アメリカン・ポップへの愛情や夢が朝妻・大滝の二人を世代を越えて結びつけたということだろう。
 つまり『ロング・バケイション』は、優れたアーティストと敏腕経営者が背水の陣を敷いて行った大きな賭けだった。
            (『レコード・コレクターズ』2001年4月号)

あのサウンドは、大瀧さんが崇拝するフィル・スペクターやブライアン・ウィルソンがまさにそうしていたように、長期間にわたってレコーディング・スタジオを押さえた上で、数多くの一流のミュージシャンを集めることができるだけの金銭的なことがなければ作り得なかったことも事実。それを保証していたのが朝妻さんだったんですね。

もちろんそこには大瀧さんと朝妻さんの信頼関係があったことと、何よりも朝妻さんが大瀧さんのアーティストとしての才能を高く評価していたからであることはいうまでもありません。


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by hinaseno | 2017-09-04 15:16 | ナイアガラ | Comments(0)



「朝妻一郎さんのこと」というタイトルでいろいろと書いていこうと思いましたが、大瀧さんの話がいっぱい出てくるので、タイトルはそのときそのときの話で決めていくことにしました。


朝妻一郎さんといえば、大瀧さんが発した2つの言葉が僕の中で強く印象に残っています。ひとつは大瀧さんのことを知った頃に読んだ本の中に載っていたインタビューの中の言葉。もうひとつはラジオデイズの「大瀧詠一的」の中で、ちらっと発せられた言葉。後者は直接朝妻さんの名前は出されなかったけれども、後で調べて、ああ、それは朝妻さんのことだったんだなとわかったんですね。

今回の朝妻さんの放送を聞いていたときに、大瀧さんと一番多くアメリカンポップスの話をしたはずの朝妻さんが紹介するアメリカンポップスを心ワクワクしながら聴く一方で、後者の立場にいる朝妻さんのことを考えずにはいられませんでした。ただ、その立場のことを書いちゃうと、後が書きにくくなりそうなので、とりあえずそれはおいておきます。


さて、大瀧さんのことを知った頃に読んだ本というのは萩原健太さんの『はっぴいえんど伝説』(1983年)。それはあの『レッツ・オンド・アゲン』を出した後の、『ロンバケ』誕生前夜の話。


 このLPを最後にコロムビアとの契約が切れてーー切れたんだけど、発売権は残ってたの。二年間。だから、他で僕がソロ出しても、旧譜はコロムビアから出てる。と、市場が混乱するじゃない。それ避けようと思って待ってたの。レーベルを大切にしたかったんだね。だって、ナイアガラがなくなったら大滝詠一もなくなるって思ってたからさ。
 で、その間、またCMやったり、業界の出版物に文章書いたり、ロフトで公開DJしたり、他人に曲をチョコチョコ書いて、みんなボツになったりね(笑)。一人で腹立ててたね。
 そのころ、ポッと「カナリア諸島にて」ができて、朝妻さんとこ行って喜んだんだけどね。”あ、そう”なんて、意外に本気にされなかったの、実は。レコーディング始めてからでも、まだ本気にされなかったみたいよ。それだけ、過去裏切った事実ってのが深く残ってたんじゃないかな、みんなに……。

最初ここを読んだときは「朝妻さんってだれ?」でした。朝妻さんはアメリカンポップスの中でも胸キュンな曲が大好きで、で、大瀧さんにもそういう曲が書けることを知っていたので、『ナイアガラ・カレンダー』を出したときには大瀧さんに「Blue Valentine's Day」や「真夏の昼の夢」みたいな曲を集めてアルバムを作ろうよと言ってたんですね。ところが大瀧さんが出したのはインストルメンタルの『多羅尾伴内楽團』や、さらには冗談としか思えないような曲ばかりを集めたあの怪盤『レッツ・オンド・アゲン』。「過去裏切った」っというのはそういうこと。


でも、その『レッツ・オンド・アゲン』を出したあとに、大瀧さんは他人への提供曲やCMソングという形で、そういう胸キュン路線の曲を作り始めます。まあ、お金のこともあるはずなので、大瀧さんとしてはやはり採用されることを望んでいたはずだけど、結果的にはほとんどがボツ。とは言え、大瀧さんとしてはある種の確信のようなものはつかんだんでしょうね。で、ある日、大瀧さんは朝妻さんのところに行って、まさに朝妻さんが望んでいたようなアルバムを作ることを告げます。

『ロング・バケーション』はこの時期に作られたボツ曲が中心となっているわけですが、でも、最初に自分自身の新しいアルバムのために作ったのは「カナリア諸島にて」でした。


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by hinaseno | 2017-08-31 13:21 | ナイアガラ | Comments(0)

Put Your Head On My Shoulder


ほぼ1週間ブログが空いてしまいましたね。いろいろとあって、ゆっくりとパソコンの前に座ることができない日々が続いていました。

今、聴いているのは先月の初めに発売されたビーチボーイズの『1967: Sunshine Tomorrow』。未発表音源満載のアルバムですね。いちばんのお気に入りはDisc 2の「Smiley Smile Sessions」と題された未発表音源の一つ「Wind Chimes [Alternate Tag Section]」。1分足らずのとても美しくてチャーミングなアカペラ。こればっかりリピートしています。


さて、家にいないときにはずっと車で移動していたわけですが、そこで聴き続けていたのがこの2枚。

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1枚は佐野元春の新作『MANIJU』のDisc 3「元春レイディオ・ショー特別盤」。

「元春レイディオ・ショー」というのは佐野さんがずっとDJをやっていたラジオ番組のこと。僕がリアルタイムで最も楽しんでいたのは佐野さんがDJをやっていたものでした。当時の番組タイトルは「サウンドストリート」。

その「元春レイディオ・ショー」のスタイルで新作を紹介したのが「元春レイディオ・ショー特別盤」。オリジナル曲を収録したDisc 1よりもこっちの方を多く聴きました。これ、実際にラジオでオン・エアーされたのかな。


それにしてもDJ番組というのは不思議です。曲の前に、あるいは曲の後にちょっと言葉が入るだけで、それまでただ音楽だけを耳にしていたときとはぜんぜん違う響き方をするんですから。聞き流していた曲が驚くほど魅力的な曲に変化するんですね。


まあ、こういうDJは僕にとっては佐野さんと大瀧さんだけ。

というわけで「元春レイディオ・ショー特別盤」に少し飽きてから聴いたのはもちろん大瀧さんの「ゴー!ゴー!ナイアガラ」の数年前に作った編集盤。波の音をバックにバラードをかけた特集を2つつなげたものですが毎年夏になると何度も聴いています。

一応内容を紹介すると(以前紹介したような気がするけど)まずはじめに1978年8月28日に放送された「バラード」特集。かかるのはドゥーワップのバラードばかり。

で、次が1977年8月29日に放送された女性シンガー特集。これもかかるのはすべてバラードばかり。大瀧さんも言っている通り、波の音にバラードがとても合っているんですね。この日の特集でかかった曲はどれもとにかくすばらしくてこのブログでも何度も書いていますが、とりわけ今回特に気に入ったのがナンシー・シナトラの「Put Your Head On My Shoulder」。




曲がかかる前に大瀧さんのこんな言葉が入ります。


「男性歌手の曲を女の人がカバーした曲というのを次にかけてみようと思うんですけどね。その男性歌手はポール・アンカなんです。とすると、ふふふ(笑)、アネットだとお思いでしょうが、残念ながら、ちょと違います」

もし達郎さんがDJであれば、きっとレターメンがカバーしたものがかかって、竹内まりやさんとの結婚式のときに使いましたと紹介するんでしょうね。ちなみにこちらがレターメンが歌ったもの。




僕もずっとレターメンのバージョンで親しんできましたが、今はナンシー・シナトラのほうがお気に入り。

ナンシー・シナトラの「Put Your Head On My Shoulder」は「肩にもたれて」という邦題で日本盤のシングルが出ていたんですね。ただしB面。A面は例の「フルーツカラーのお月さま(I See The Moon)」。ますますこのシングルが欲しくなりました。


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by hinaseno | 2017-08-05 12:41 | ナイアガラ | Comments(0)

佐野元春さんの新作『MANIJU』が発売されました。オリジナルアルバムのしては2年ぶり。まだ4~5回しか聴いていませんがとてもいいアルバムです。なによりも60歳を超えた佐野さんが今なおロックンロールをやっていることに心から励まされます。

本当は伊藤銀次さんの『POP FILE RETURNS』での対談で、次はランディ・ニューマンみたいな感じのものをやりたいと言っていたので、そういうのを期待する気持ちもあったんですが、佐野さんはこんな時代だからこそロックンロールを選んだようです。ただ、ロックンロールといえば何かを壊すイメージがありますが、このアルバムで佐野さんが出しているメッセージは寄り添うこと。無力だと感じながらも声を上げている人たちに寄り添って、手を差し伸べてあげること。

今のクレージーとしか言いようのない時代がいつまで続くかわからないけど、それが終わって(必ず終わりは来ます)、やすらぎのときが訪れたときに、きっと佐野さんはピアノだけでランディ・ニューマンのようなやさしい、ユーモアあふれた曲を歌ってくれるんだろうと思います。


ところで、『MANIJU』のブックレットを見ていたらおっと思う文字が。


Recorded at Onkio Haus Studio

佐野さん、あの音響ハウスでレコーディングをしていたんですね。ひょっとしたら僕が5月の初めに音響ハウスのそばを通ったときに、そこのスタジオで佐野さんが新しいアルバムに向けてレコーディングをしていたかもしれません。


さて、今日で大村雅朗さんの話は最後。大村雅朗に関して忘れてはならないのが佐野元春さんのデビュー当時の楽曲ことです。

『ナイアガラ・トライアングルVOL.2』で佐野元春さんのことを知って、佐野さんの『SOMEDAY』を聴いてノックアウトされて、それから後追いで佐野さんのそれ以前の2枚のアルバム『BACK TO THE STREET』と『HEART BEAT』を聴きました。その時期には大瀧さんの『ロンバケ』以前のアルバムも後追いで聴いていたわけですが、実は佐野さんの2枚のアルバムの方ばかり聴いていました。そちらの方がはるかに共感を覚えるものが多かったので。大瀧さんのはハードルが高すぎました。

で、佐野さんのインタビュー記事の載った雑誌なんかもいろいろと買ったんですが、それを読んで気がついたことがあったんですね。僕が好きな佐野さんの曲を佐野さん自身はあまり好きではないということを。佐野さんが好きではない理由の最も大きな要因はアレンジのようでした。実はそのアレンジをしていたのが大村雅朗だったんですね。

大村さんをアレンジャーとして起用したのはEPICソニーのディレクターの小坂洋二さん。佐野さんは小坂さんがEPICで手がけた最初のアーティスト。その後、大沢誉志幸、大江千里、小室哲哉、渡辺美里と、彼が手がけたアーティストのほぼすべてアレンジは大村雅朗に任せます。

大村さんは佐野さんのアレンジをする際、おそらくディレクターからの指示があったんだろうとは思いますが、当時、洋楽でヒットしていた曲っぽいアレンジをしたんですね。ロックンロールを現代にと考えていた佐野さんにはそういうのが耐えられなかったもののようです。で、佐野さんはいくつかの曲のアレンジをロックンロールのことをよくわかっている伊藤銀次さんに任せることにします。

というわけで佐野さんの最初の2枚のアルバムには大村雅朗アレンジの曲と伊藤銀次アレンジの曲が混在することになります。で、実は僕の好きな曲の多くは大村雅朗アレンジの方だったんですね。そちらの方がポップでメランコリックな曲が多かったので。「アンジェリーナ」「情けない週末」「グッドタイムス&バッドタイムス」「さよならベイブ」「バッド・ガール」「バルセロナの夜」「彼女」「GOOD VIBRATION」。

佐野さんはこれらの曲について、後のライブではアレンジを大幅に変えて演奏するようになるんですが、僕はやはりオリジナルの、大村雅朗によってアレンジされたバージョンを愛しています。とりわけデビューシングルの「アンジェリーナ」は絶対にこれじゃないとダメです。


「アンジェリーナ」といえば、大瀧さんが佐野元春というアーティストに目をとめたのがまさにこの曲でした。『ナイアガラ・トライアングルVOL.2』の30周年記念盤が出たときの、大瀧さん、佐野さん、杉真理さんのインタビュー(2012年2月)で、この「アンジェリーナ」に関してちょっと興味深いやりとりが大瀧さんと佐野さんの間で交わされています。聞き手は萩原健太さん。


大瀧:そうこうする中、佐野くんの「アンジェリーナ」が出た。林美雄さんの番組でじゃんじゃんかかる。『ユア・ヒットしないパレード』で。いや、これはいい曲だなと思ったわけ。特に追っかけのリフね。あの曲、アレンジは…。
佐野:僕のアイデアを大村雅朗さんがまとめてくれました。ただ、大村さんは編曲家としてもちろん素晴らしいのですが、僕がやろうとしていたラフなロックンロール・サウンドには向かなかった。そこで小坂ディレクターから紹介されたのが伊藤銀次だったんです。
大瀧:で、「アンジェリーナ」のリフは? 佐野くんのアイデアですか?
佐野:あれは僕です。
大瀧:あれを聞いて思い出した曲があるの。ジャニー・グラント。
萩原:あ、ずばり「トライアングル」ですか。61年の。
大瀧:うん。僕もシリア・ポールの「こんな時」で同じリフを使っているんだけど、この曲に通じるものを感じて。当然、佐野くんは「トライアングル」にもシリア・ポールにも深い影響を受けているわけじゃないだろうけども、このリフを想起させてくれる人だから共通項があるに違いないと注目してたの。まさに”トライアングル”つながり。

大瀧さんが佐野さんの曲に注目するポイントとなった「アンジェリーナ」のリフってどこの部分のことなんでしょうか。

ちなみにジャニー・グラントの「トライアングル」というのはこの曲。




この曲の特にイントロの部分を大瀧さんは「こんな時」でほぼそのまま引用しているんですが、でも、その部分が佐野さんの「アンジェリーナ」にはなかなかつながりませんね。

いろいろ考えてどうやら大瀧さんが言っているのは「今夜も愛をさがして」が繰り返されるところでしょうか。「今夜も愛をさがして」と歌った後に出てくるフレーズ。

ちなみに佐野さんは後年ライブで歌う時も、そこのフレーズは変えていないですね。


さて、佐野さんは自分の意思に反して用意された大村さんのアレンジにかなり不満を抱いていたような話がいくつか残っているので、佐野さんは大村さんと確執があったかのような内容の話がネット上にもあります。でも、佐野さんは自らプロデュースするようになってからも、アレンジャーに大村さんを使っているんですね。かの名作『SOMEDAY』のアルバムに収録されたいくつもの曲のストリングス・アレンジのところに大村雅朗の名を見ることができます。その事実からも佐野さんが大村さんのアレンジを高く評価していたことがわかります。「麗しのドンナ・アンナ」や「真夜中に清めて」でのロマンチックな弦はたまらないですね。

気になるのは「サムデイ」。これはクレジットされていないけど、やはり大村さんがストリングス・アレンジをしているんでしょうか。


そのアルバム『SOMEDAY』と並行してレコーディングしていたのが『ナイアガラ・トライアングルVOL.2』。このアルバムのクレジットを見るとSANO’s sideのところに大村雅朗の名前を見ることができます。やはりストリングス・アレンジ。

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『ナイアガラ・トライアングルVOL.2』に収録されている佐野さんの曲でストリングスを最もよく聴くことができるのはB面2曲目の「週末の恋人たち」ですね。大好きな曲です。

エンディングで長くひっぱられるストリングスの音をバックにしてピアノの同じフレーズが繰り返されて曲がフェードアウトして、次の大瀧さんの「オリーブの午后」が始まるところは何度聴いても鳥肌が立ちます。僕にとっては「週末の恋人たち」は「オリーブの午后」の前になくてはならない曲になっているんですね。

そういえばと思って『ナイアガラ・トライアングルVOL.2』30周年記念盤のボーナストラックに収められたカラオケを聴いたら、大村さんの弦をさらにはっきりと聴くことができました。ということで今日の文章はそれを延々とリピートしながら書いています。

大村さんの弦のアレンジは奇をてらうことなくとてもオーソドックス。でも最高にロマンチックなんですね。次の「オリーブの午后」の後の「白い港」の、井上鑑さんの華麗なアレンジとは対照的です。井上さんのアレンジももちろんロマンチックだけど。


今となってはという話になりますが、1曲だけでも大瀧さんの作曲した曲を大瀧さんのプロデュースのもとで大村雅朗さんがストリングスアレンジした曲を聴いてみたかったですね。


ということで長かった大村雅朗さんの話も今日で終わり。明日からちょっとバタバタとした日が続くので、しばらくブログを休むことになりそうです。また気持ちのゆとりができたら書きます。


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by hinaseno | 2017-07-30 14:45 | ナイアガラ | Comments(0)

今日は大瀧さんの誕生日。ということで、話題の中心は大瀧さんになりますが話は大村雅朗さんがらみののこと。

『作編曲家 大村雅朗の軌跡 1951-1997』の巻末の大村雅朗 編曲作品一覧には大瀧詠一作曲の曲が載っているんですね。1979年の最後のところに、たった1曲だけ。

正直それが載っていたのにはびっくりしました。なぜならそれは録音されたものの日の目を見ることなかった作品だったので。

でも、実はその曲は大瀧さんのヒストリーを考えるときに極めて重要な曲なんですね。変な話ですが、もしもその曲が日の目を見て大ヒットしていたら『ロンバケ』は今とは違うものになっていた可能性があるという話。

その作品の題名は「愛は行方不明」。歌っているのはニュー・ホリデー・ガールズという4人組の女性ダンスグループ。

一応依頼としては「夢で逢えたら」のような曲を書いてくれということだったようです。というわけで大瀧さんはとてもメロディの綺麗な曲を書きます。作詞は山川啓介さん。今、調べたら山川啓介さん、一昨日に亡くなられていたんですね。

こんな歌詞で始まります。


扉には鍵をかけ
電話には知らん顔

日の目を見ていないのになんで曲を知っているんだってことになりますが、どういうわけだかその音源が手元にあるんですね。

この曲に大村雅朗さんが施したアレンジは当時流行っていたディスコ。おそらくはアバなんかを意識したもの。大村さんも好きでやったんではなくて、そのように依頼されてやったんでしょうね。大村さんならそんなダンサブルなアレンジができるだろうと判断されてのこと。

ちなみにこの頃、大瀧さんに一番多く曲の依頼をしていたのはCBSソニーのディレクターの人達で、ニュー・ホリデー・ガールズの曲を依頼したのもCBSソニーの小柳さんというディレクター。

で、それ以前から清水健太郎の曲などを大瀧さんに依頼していたCBSソニーの川端ディレクターがある女性シンガーを担当することになります。それが須藤薫さん。

川端さんは”となりにいた”小柳さんがボツにした「愛は行方不明」を気に入って、ぜひその曲を須藤薫に、ということになったようです。須藤薫さん用にアレンジし直してほしいと(ちなみにストリングスのアレンジをしたのはユーミンの旦那さんの松任谷正隆さん)。さらに川端さんは大瀧さんが「夢で逢えたら」の詞を書いたのを知っていたので詞も大瀧さんにと。で、仕上げたのが名曲「あなただけ I LOVE YOU」ですね。


で、これが大成功したので、川端ディレクターは第2弾を書いてくれと大瀧さんに次の曲を依頼。大瀧さんは、さらに素晴らしい曲を仕上げます。

ところがその素晴らしい曲を今度は川端ディレクターが不採用にするんですね。これは女性が歌うものではなく男性が歌うものだと。

で、大瀧さんはそのボツになった曲を自ら歌うことにします。それが『ロングバケーション』の1曲目に収録された「君は天然色」でした。


さて、最後に少しだけ気になっていたことを書いておきます。これはかなりシークレットすぎる話ですが。

実は大瀧さんがニュー・ホリデー・ガールズのために書いた曲のデモと、実際にニュー・ホリデー・ガールズが歌ったものとではメロディが違う部分があるんですね。それはサビに行く前の、曲としてはかなり重要な部分。

大村さんはアレンジをするときにメロディに納得しない部分があれば作曲者にメロディを変更するように頼んだりすることがあったようでした。ただし耳を貸す人もいれば、絶対に耳を貸さないばかりか、怒り出す人もいたようです。

で、この曲に関しては大村さんの意見を大瀧さんが聞き入れたのかなと。そして、須藤薫さんが歌ったのはまさに大村さんがアレンジしたニュー・ホリデー・ガールズによって歌われたメロディの方でした。

果たして真相はどうなんでしょう。今となっては知る由もありません。


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by hinaseno | 2017-07-28 13:02 | ナイアガラ | Comments(2)